2012年11月27日

承認の効果と位置づけについて~その存在を認め,相手に関心と好奇心を向ける


日本コーチ協会神奈川チャプター (JCAK)のコンピテンシー勉強会で,たまたま「承認」のところをファシリテーションする機会を得て,自分なりにいろいろ考えたことがあり,そのことについて,少しまとめてみたい。

一般に,承認(アクノレッジメント)については,

「a statement or action which recognizes that something exists or true」

そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,とされている。つまり,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝えることである。

承認という場合,ほめることと同じではないし,評価ではなく,事実を伝えること,とされている。事実として,相手が何をどう達成したのか,どう変化したのか,を言葉にして伝えることだとされる。

例えば,ザックリと,「よくできたね」と伝えるのではなく,どこどこが,以前に比べてどれくらい成長したかを,事実として伝えることを意味する。それを伝えられた側は,その承認された事実がほんの些細な成長であっても,それをきちんと見てくれている,ということによって自己肯定感を高め,相手への信頼を強くする効果があるように思える。

承認の伝え方としては,次の3つのタイプがあるとされる。
① YOUメッセージ 「あなたは○○だね」というように,これは,見えている事実を,「あなたは,」と客観的に伝えることになる。
② メッセージ 「あなたが○○したことは,わたしにこんな影響があった」というように,私にはそう感じられた,そう見えたというように,主観として,相手に伝える伝え方である。
③ WEメッセージ 「あなたが○○したことは,わたしたちにこんな影響があった」と,これはIメッセージの「われわれ」版ということになる。ただ伝えているのが,私なので,私の主観である側面が入るかもしれない。

以上が公式の承認の考え方だが,これを,他の他者認知,たとえばほめる,あがめる等々とどう区別するのかを試論として整理したのが,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06431.htm

である。ここで問題になるのは,賞賛とは違うとして,認知や敬意とどう違うかだ。

まず,「認知」とは,CTI系で主として使うが,クライアントがある特定の行動を起こしたり,ある特定の目標を達成したりする過程で発揮したその人の強みや良さに気づき,それを本人に伝えること。自分の本当の姿をコーチがみてくれている,知ってくれていると感じられるようにするためのスキル。単に相手の行動を表面的に誉めたり,評価するのではなく,コーチとして感知した相手がどんな人なのか,その人自身が気づいている以上のリソースや力,価値観などを伝えること,とされる(『コーチングバイブル』)。

ただ主観的には,それはあくまで,こちら側の受け止めなので,事実というよりは,Iメッセージとしての承認に近いような気がする。

次は,ブリーフセラピー,特にソリューション・フォーカスト・アプローチでいう,「コンプリメント(敬意)」との違いだ。

「コンプリメント」とは,ねぎらうこと,敬意を表すること。あくまでクライアントの言葉や行動にもとづいた事実に根ざしていなくてはならない。直接的なコンプリメントと間接的なコンプリメントがある。直接的なコンプリメントは,肯定的評価(「それはすごいですね,よくやれましたね」)と肯定的反応(「わあ,すごい!」)がある。間接的コンプリメントは肯定的な質問である。①望まして結果について更に「どうやってそれをやったんですか」と質問する,②関係を通して,「それを聞いたらお子さんはどう反応するでしょうね」と,肯定的なものを暗示する質問,③何が最善かはクライアントがわかっていることを暗示する,「どうしてそれをしたらいいとわかったんですか」と質問する(『解決のための面接技法』)。

コンプリメントは,比較的承認と似て,事実を伝えること,に力点がある。承認と敬意(コンプリメント)は,何を伝えるかについては結構重なっている。ただ,それはYOUメッセージについてであって,Iメッセージで伝えようとすると,すべては「わたしには~だ」の,主観を伝える中に入ってくるような気がする。

日本語の構造から考えると,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

でのべたように,基本は,「辞」につつまれれば,すべてはIメッセージになりうるので,逆に言うと,客観的事実を伝えているのだと,強調するためには,「あなたは,」あるいは「誰々さんは,」とはっきり言う必要があるのかもしれない。

では,フィードバックとはどう違うのだろうか。この言葉自体は,大砲の砲弾の着地点の修正という意味だと言われるが,サイバネティクス的に言えば,システム外の情報をシステム内への取り込むことで,自分の動き,自分の認識の軌道修正を図るところにあるのだから,伝える側が,「あなたは,○○です」と返すことで,自分の自己認識や自己イメージ,自分の振る舞い,言動を軌道修正したり位置確認をしたりすることになる。

その意味で言えば,フィードバックは,相手が自己認識を確認したり修正ができるように返す,ということができる。承認は,こちらの受け止めた相手認識を伝えるので,そのことによって,軌道修正することは同じだが,基本は,プラス要因を伝えることが多いので,自尊感情,自己肯定感を刺激し,自分のプラス要素を広げていくのに有効なのではないか,という気がする。

ただ,この承認にしろ,フィードバックにしろ,両者に信頼関係という土台のないところでは機能しないので,ひょっとすると,承認の大前提は,相手を信頼し,相手を受け止め,丸ごと受容してくれるという環境を設定すること自体が,相手への承認になっているのであり,その上にこそ,事実にしろ主観にしろ,承認を伝えていくことに一層効果があると言えるだろう。

とすると,笑顔や頷き,感嘆といった返し自体も,その雰囲気づくりには有効ということになる。あるいは,そもそも相手に好奇心をむけて,聞く姿勢そのものが,相手を承認している,と言えるはずである。そういえば,ジョセフ・オコナーは,コーチングのスキルは,注意を向けることに尽きる,と言っていた。

ところで,コンプリメントの直接コンプリメントと間接コンプリメントとの関連で言えば,承認にも,直接伝える以外に,間接の承認があり得るのではないか。

つまり,そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝える,というアクノレッジメントには,直接そのことを伝えることの他に,相手の変化や成長を前提にして,
「なぜそんなことができたんですか」
「どうしてそんなことをしようと思ったんですか」
と,その先を相手に質問する方法があるはずである。仮に,それを間接的なアクノレッジメントと呼んでおくと,そういう効果のある質問は肯定質問を呼ばれ、下記のような例が挙げられる。この質問をする場合,質問する側に,そのことが既に相手ができている,という承認を前提にしており,そのことは相手にも伝わる。

間接的なアクノレッジメントのための肯定質問例
1. どうやって(そんなことが)できたんですか
2. 何がきっかけでそうしようと思ったのですか
3. それができたわけを教えてください。
4. あなたにそんな力があると,どこで気づいたんですか
5. どうしてそんなことが可能になったんですか

6. どんな幸運がそれを可能にさせたんですか
7. どういうふうにそれがうまくいったのですか
8. 何がうまくいったのですか
9. そうしたらいいとどうしてわかったんですか
10. (それをしたことで)何が変わりましたか

11. (なしとげた後)何から変わったとわかりましたか
12. どんな学びがありましたか
13. そこから何がえられましたか
14. そこからさらに学べそうなことは何ですか
15. そこで役に立ったことは何ですか
 
16. 誰(何)か助けになったものはありますか
17. どんことをやってそれができたんですか
18. いまからもっともっとできそうなことは何ですか
19. どうやってそんな心境になれたんですか
20. そんな状況なのにどうしてそれが可能だったんですか

肯定質問も,コンプリメントのように,もう少し整理できるのかもしれないが,こう見ると,実はコーチングらしいポジティブ質問は,そのまま承認の意味を持つ可能性があると言ってもいい。そして,承認された側は,自己肯定を許容されて,自己イメージが膨らみ,自分の中に隠れていた自分の可能性や潜勢力を拾い上げていくエネルギーを受け取ることになる。どっちにしても,承認は,コーチングの強力な武器なのである。いや,あるいは,コーチングという舞台そのものが,承認するためにあるのかもしれない,という気がしている。


参考文献;
インスー・キム・バーグ他『解決のための面接技法(第三版)』(金剛出版)
ヘンリー・キムジーハウス他『コーチング・バイブル(第三版)』(東洋経済新報社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#コーチング
#コミュニケーション
#承認
#認知
#コンプリメント
#コーチングバイブル
#ソリューション・フォーカスト・アプローチ
#インスー・キム・バーグ
#ジョセフ・オコナー

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2012年12月04日

場ということについて~場が場になるとは



ただ相互にキャッチボールしているだけでは場が場として動き出さない。どんな瞬間なのか,と言われると,どうも場と一体になったり,場と距離を感じたりしながら,その場が目指しているものを,なんとなく感じ取って,それに沿っていく。あるいは場の方向を先取りしたり,導いたりする感覚のあることもある。

例えば,研修などで,あるいはワークショップという場で,そこにいる自分になじめない,その場になじめない自分から,やがてその場の中にいる自分を認め,その場にどうかかわるかを考え,さらに,その場を動かそう,あるいはその場の動きに寄与するようにかかわるようになり,やがて,一瞬だが,場の動きと一体になった感じがする。それを一人一人が体験していく中で,それぞれなりに,場の中での自分の居場所を見つけていく。

僕の中ではこんな感じです。自分がうまくかかわれなかったり,なんとなくはじき出された感じを持った時は,違和感が残ります。

清水博先生は,こんなことを言っていました。

「自己は二重構造をもっていることがわかります。一つは自己中心的に(自他分離的に)ものを見たり,決定をしたりしている自己(自己中心的自己),もう一つはその自己を場所の中に置いて,場所と自他分離しない状態で超越的に見ている自己(場所中心的自己)です。私はこの構造のことを,自己の二活動領域とか活動中心と呼んできました。即興劇では,場所中心的自己がドラマのシナリオをつくり,自己中心的自己がそのシナリオに沿った演技(自己表現)をしていくと考えられます。
 わかりやすく言うと,自己中心的自己は場所の中に存在している個物(ストーリーの中で守護として表現されるさまざまな個物,名詞)を対象として,自他分離的に捉えたり,表現したりする働きをもつています。また場所中心的自己はその主語の場所の中における状況を述語するのです。その結果ドラマのシナリオの中では,自己の二活動領域が一緒に働いて,『個物的な主語について述語する』という形式が与えられるのです。」(『生命知としての場の論理』)

宮本武蔵の真剣勝負に臨むときの心構えが例に出されていますが,「相手を対象化して正確に捉える『見の目』と,場所の中に置いて超越的に捉える『観の目』をもって敵を見る」といいます。そこまでいかなくても,グループの中に入った時,似たようなことをしていることに気づきます。

それでまた思い出しましたが,C・オットー・シャーマー氏は,「グループが針の穴を抜ける」という言い方をしていました。その瞬間は,「いつでも時間の流れがゆるやかになり,周囲を取り巻く空間が開かれていくように思う。我々は自分たちの言葉やしぐさ,思考を通して微細な存在の力が輝くのを感じた。未来の存在が見守っていて,我々に注意を向けているようだった。」「グループや組織の関係者が,異なる場から見たり感じたりするようになるのは,この地点」なのだ,という。「未来の領域と直接つながり,その未来の領域が伝える(触発)するやり方で行動できるようになる。」これを,プレゼンシングという。未来の可能性からものを見,出現する未来から自己にかかわっていく動きのことだ,という。 (『U理論』)

そこでは,
まずグループのメンバー間に強いつながりが感じられる。
次に,人々の間に真の存在の力が感じられる。
このレベルのつながりを経験すると,いつまでも続く微細な深い絆ができる。
という。しかし,そのグループへ入るには,それなりの覚悟と手放す作業がいる。「そのたびに敷居を超える」感じだという。

「サークルへ入るときは,まるで死んでしまいそうな感じになります。だから,その感じに気づいたら受け入れることにしています。境界を超えるときは,死ぬときはこういう風に感じるに違いない,というような感覚です。」
「全員が境界を超えると,私たちの状態は変わり,集合的な存在を得ます。私たちは新しい存在,『サークルという生命体』の存在を得ます。私の経験では,境界を超えないことには『サークルという生命体』は経験できません。そのあと,その『サークルとしての生命体』は一個人としての私を超えます。もはや個人としての私はほとんど問題にならないのです。けれど,逆説的ですが,同時に個人としての私もはっきりしてくるのです。」

まさに,自己中心的自己と場所中心的自己が,その場で一体化している感じです。なかなかそういう機会をえられないのは,ひとつは,そこへ入る覚悟をする時に,自分が何か手放すことを拒んでいるためだし, その場でも,自分を場の中に立たせず,分離したままでいようとしていたせいではないか,と気づかせられます。

『場を保持する』ために,その場で必要なのは,場を保持するための,三つの聞く力だという。

第一は,無条件に立ち会うこと。
「立ち会うこと,つまりここで話している保持することの特質は,個人がサークルの源(ソース)と同一化することです。」
「一人ひとりの何かを見る目,感じる心,聴く耳が,もう個人のものではなくなるのです。ですから,予測を状況に重ねてみることはほとんどありません。生命がその瞬間に起こすことに対して自分たちを開くこと以外の意図はほとんどありません。ただ感受性があるだけで,何の企てやもくろみもありません。判断をせず,ありのままを祝福して受け入れる精神だけです。」

第二は,無条件の愛で水平に開くこと。
「部屋のエネルギーの焦点は頭から心臓のあたりに降りてきます。というのは,ふつうその入り口は誰かの心が本当に開いたときに,そしてもちろん領域の存在が感じとられたときに生じるからです。エネルギーの場は降りていくほかないのです。」
「個人的ではない愛には祝福があります。その愛は個人を超越しているということです。個人の人格は関係ありません。私たちは集団としてこの個人を超越した場のレベルを,ただ保持できているだけだと私は思っています。」

第三は,どこ注意を向けるか。
「私たちには真の自己を見るという合意があります。私たちの中の誰かがどんなことをしようと,ほかのひとはその人がしくじったとは考えません。そういう風には考えないと決めているのです。その行為の意図は本来の自己にあるのです。人のためにしてあげられるもっとも素晴らしいことの一つは,その人の本来の自己を見つめることです。私がそれを見ることを通して,その人はもっとも自分自身を生きられるようになる。」

そのとき,「私は大きな人物になったようなに感じます。私自身の存在が充実していく感じがします。」と。

これはあるいはコーチングという場の目指すもののような気がします。そういう場で,「たくさんのことが見えるようになり,もっと多くの自分を経験する」のであり,その場でなければ出会えない,何かがある,というような。

そういえば,そういった場の中の自己なしには,人間は存在しえない,社会的な存在であり,場所的状況を切り離して,自分を語るのは,「自己言及の病理」と清水先生は言っておられました。

僕はどんな場所も自分の居場所ではないという感じを持ち続けていますが,それは,自分が自己完結した自己中心的自己を手放せないせいなのかもしれない,と感じます。病理的かどうかは別として,そういう場に,まだ出会えていないのかもしれない,そう思うことにしています。しかし場は出会うもの,待つものではなく,つくるものであり,つくるのにかかわるものだということを,自分が置き去りにしている,ということにも気づかされています。


参考文献;
清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)
C・オットー・シャーマー『U理論』(英知出版)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#清水博
#U理論
#C・オットー・シャーマー
#コーチング
#宮本武蔵


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2012年12月05日

死の体験について~俯瞰する視点




本当かウソかは知らないが,人が死ぬとき,身体から離脱して魂だけが,その部屋を俯瞰する位置にいて,死にかけている自分を眺め,その周りにいる家族や知人をながめるのだと,聞いたことがある。

まあ,そんな経験はしたことはないが,三度死にかけた。

一度はたぶん多治見で,幼稚園の時,自分の記憶では,友達とふざけながら,石段を下りてきて,振り向いてか,後ろ向きに降りたか,下のところでダンプに引きずり込まれた,と覚えていた。自分で記憶していたか,母からそういわれたかはともかく,長くそう信じていた。

ところが,母が亡くなった後,その幼稚園の園長さんから葉書が来て(ということは,母はずっと交信していたということだが),「タクシーにひかれた」とあった。たぶん,若いころ,園児が交通事故にあうという,結構ショッキングな事件で,はっきり記憶に残っておられたのだろう,母の死を知って,いただいた葉書にその件がかいてあった。記憶は,園長先生の記憶が正しいのか,母の記憶なのか,自分の記憶なのかは別にして,ダンプとタクシーではずいぶん違う。確かに,車の真下の,道路に横たわって,車の底を見上げていたという記憶もあるような気がする。しかしそこで見ていたのが,ダンプかタクシーかまでははっきりしない。

幸い,軽症で,というか脚はヒビが入った程度であったが,目じりと額には大きな傷跡がいまも残っている。そのせいでずいぶん頭が悪くなっている,本当はもっといい頭になるはずだったと勝手に思い込んでいる。

二度目は,確か,小学校の4年か5年か6年,そのあたり,たぶん4年生のころ。高山にいたのがそのころで,確か北山といったと思うが,その方向の谷川で,真夏になると泳ぎに行っていた。記憶ははっきりしていないが,誰かと一緒に行ったはずだ。で,そこで,まだ平泳ぎもまともにできない頃で,足が届いているところを,時々足先で,川底を確かめながら,立ち泳ぎのようにして,そろそろと泳いでいて,不意に足先から川底の感触が消え,それでばたばたとあわてたのか (でないと誰も気づかないし,気づかないと誰も助けてくれなかったはず) ,しかし泳げない悲しさ,どんどん流されて,気づいたら,川底に沈んでいくところだった。その時,幻か,幻想か,本当に見たのかわからないが,川の水を通して,真っ青な空が見え,白い雲が浮かんでいるのも見えた。丁度厚い牛乳瓶の底から見たような感じであった。それはほんの一瞬だった気がするのだが,ずいぶん長い間,川底に横たわって,青空を見上げていたように記憶している。

助けられた記憶ははっきりしていない。たぶん泳ぎの達者な上級生が助けてくれたのだろう。腕を抱えあげられて引き上げられたのだろうが,そこはおぼろにしか覚えていない。ただ,川岸の岩の上で,腹這いになって,冷えた腹を温めていた記憶が残っている。礼を言ったのか,何人が助けてくれたのかも覚えていない。仲間の上級生だったのかもしれない。その後,そのことが話題になったことも覚えていないので,仲間内では,日常茶飯だったのかもしれない。

しかし,よく「溺れかかるとうまくなる」と,言うように,その経験で確かに泳げるようになった。

三度目は,ちょっと恥ずかしいが,大学生の時,失恋して,ちょっと死にたくなった。本気で死ぬ気だったかどうかはわからないが,死のうとしたことだけは覚えている。しかしたいしたことにもならず(というかまだ死にたくなかったのだろう,あっちへは行かず,現へ戻ってきた),誰にも知られず,コトは未遂ということで終わった。トホホな経験だ。

この程度の死の体験だが,残念ながら,臨死体験はない。身体から離脱した経験もないし,自分を真上から見下ろしている経験もない。しかしこの視点を人工的に設える工夫を,神田橋條治先生が書いている。

「面接している自分は,今ここに居て,患者の話に聴き入り,うなずいたりしている。ところが,その意識の一部,主として観察する自己が,一種の離魂現象を起こして空中にまいあがり,面接室の天井近く,自分の斜め上方から見下ろしている」

こうイメージしろ,と言っている。そして,「馴れるにしたがって,長時間そのイメージを保つことができるようになり,ついで,空中の眼という意識が,次第に薄くなりながら広がってくる。そしてついには,面接している自分にまで届いて,両者が融合してしまうことがある。そのときおそらく,『関与しながらの面接』が成就した」という。

これは,清水博先生が,『生命知としての場の論理』で,宮本武蔵の『兵法三十五箇条』にある,真剣勝負に臨むときの心構えを例に出されているが,「相手を対象化して正確に捉える『見の目』と,場所の中に置いて超越的に捉える『観の目』をもって敵を見る」という,その感覚とよく似ている。

そしてこれは,CTIでいう,傾聴のレベルが,レベル1(自分の考えや意見,感情,身体感覚に意識が向く状態),レベル2(すべての注意がクライアントに向けられている状態),レベル3(一つコトに意識を向けるのではなく,自分の周りにあらゆる物事に対して意識の焦点を傾けている状態)にあるとするが,丁度レベル3と似ていると言えるだろう。

ところで,幽体離脱には脳に根拠があるらしいのだ。ブランケ博士は,右側頭頂葉の「角回」を刺激すると,被験者の意識は,2メートルほど舞い上がり,天井付近からベッドに寝ている自分が見える,のだという。幽体離脱は健康な人でも,30%ほどが経験する,と言われているそうだが,実は,これは日常生活でも,結構経験するそうだ。

たとえば,有能なサッカー選手には,プレイ中に上空からフィールドが見え,有効なパスのルートが読める,といわれている。こうした俯瞰力は,宮本武蔵の例と似ている。それは,自己を客観的に評価するために,自分を他者の視点で見る,ということが必要とされているが,そのための脳の回路は,備わっているのではないか,池谷裕二先生はそう言っている。神田橋先生が,トレーニングでそれができたというのは,その回路をオープンにし,仕えるように強化したということなのではないか。

では自分にもできるのか???

参考文献;
清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)
神田橋條治『精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)
池谷裕二『脳には妙なクセがある』(扶桑社)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#清水博
#神田橋條治
#死の体験
#池谷裕二
#宮本武蔵
#幽体離脱
#見の目
#レベル3
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2013年01月31日

自分を物語る意味~対話の果てに


対話ということを考えていくうちに,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11071791.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11072771.html

と考えていくうちに,「自分の物語を語る」へと行きついた。

フランクルが,人は誰も自分の語りたい物語をもっている,と言っていたが,というのも,物語るエピソードそのものが,かけがえのないその人の人生の時間そのものだからと思えてならない。それは,その人と,それを共体験した人とでしか共有できない。

いや,一緒に体験したところで,それはその人の体験で,自分の体験ではない。所詮,人の見ている現実は,その人だけのもので,その色合いも,肌合いも,心映えも,光景も,一緒に居ても,同じではない。人は,同じものを見ていても,同じように見えているとは限らない。にもかかわらず,共体験したものでしか,思い出は共有できない。まあ,そこに,写真だの,コトバだのがあり,物語もまたその一つなのかもしれない。

人の認知形式,思考形式には,「論理・実証モード(Paradigmatic Mode)」と「ストーリーモード(Narrative Mode)」がある(ジェロム・ブルナー)があるとされている。前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。

ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。

「物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。」(『人を賢くする道具』)

要は,ストーリーモードは,論理モードで一般化され,文脈を切り離してしまう思考パターンを補完し,具象で裏打ちすることになる。

エドワード・ソーンダイクは,人間が物語を記述するための抽象的ルール体系を頭の中に持っていると仮定し,それを物語文法と呼んだ。たとえば,

設定
テーマ
プロット
解決

の項目に従って,

誰が,いつ,どこで,どのような事件に巻き込まれて,どんなトライアルを行い,どういう結果が生まれたのか,

を把握しようとする。そして,実験の結果,物語の提示が,物語文法の順序と一致しているほうが,文章の記憶や理解が促進されることを発見した。この辺りは,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11015227.html

でやった記憶術とリンクする問題かもしれない。つまり,物語性を持たせた方が,記憶する事項のつながりが記憶にとどまりやすい。それは,もう一か月前の,ランダムな言葉を,思い出せるところからも証されている,といってもいい。

さらに,ロジャー・C・シャンクと,ロバート・P・エイベルソンは,人の会話を理解するコンピュータシステムを開発する中で,人間の知識は,ステレオタイプ化された状況とそれに伴う習慣化された行動とのセットからなる「劇の台本のような物語」として表現されているとして,それを「スクリプト」と呼んだ。

面白いことだが,ひとつの物語を記憶から引き出すと,別の物語(あるいはエピソードといった方がいいかもしれない)が,例えば,たった一つのシーンから,別のシーンにリンクして,思い出の連なりが思い起こされてくる。そうやって,自分の中にある,メインのストーリーは別に,様々なスピンアウトした物語が,紡ぎ出せる。

その意味で,自分の物語を語り直す,あるいは語ることで,自分の人生に違う光が当たり,そこから,未来に別の岐路が開く。語ることで,その道とつながる,という気がしてならない。

ナラティブセラピーで悲嘆の起因を延々とした物語で紡ぎ出し,いまの自分を貶めているドミナントストーリーに対して,別のオルタナティブストーリーを導き出すことで,自分への信頼を取り戻そうとするというのは,だから,故なきことではない。

その意味で,コーチングには,その人の過去の物語ではなく,新しい未来の物語を一緒に紡いでいくという意味で,セラピーとは違う光の当て方で,ナラティブコーチングと言うのはありうるし,現にやっていることはそういうことなのだと思う。


参考文献;
中原淳・長岡健『ダイアローグ』(ダイヤモンド社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#物語
#論理・実証モード
#ストーリーモード
#フランクル
#コーチング
#ナラティブセラピー
#ドナルド・A・ノーマン
#エドワード・ソーンダイク

posted by Toshi at 06:42| Comment(2) | コーチング | 更新情報をチェックする

2013年02月23日

その一瞬を創る


先日も,コーチングフェローズ(http://www.coachingfellows.jp/index.html)という,コーチングの体験会に出させていただいた。そのほかにも,神奈川チャプターなどでの「コーチングジム」のような場があると,出来るだけでかけるようにしている。それについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11080634.html

でも触れたが,この何回かで,自分の中で気づいたことがある。

僕は,一瞬で,二人の関係ができるかできないかが,勝負(という言い方は変だが,両者の出会いの成否という意味)の分かれ道なのではないか,という気がしている。そこで,安っぽい言い方になるが,信頼関係ができるかどうか。もっと踏み込めば,両者が好感をもって相手を受け入れられるかどうか。そのためには,コーチが相手を,どんな場合も120%受け入れている,ということが,オーバーな言い方だが,瞬間に,相手に伝わること,伝わる態度,振る舞い,姿勢を前面に開示できること,だと思う。

コーアクティブ・コーチングでは,Dance in this moment,今この瞬間から創り出す,ということをいう。僕は,確か,以前は,thisではなくtheであったと覚えている。特別な一瞬という意味では,「the」の方がいい。その時,その場で,「いま」「ここ」に「私」と「あなた」との間で,協働関係の場を創る。そこにいる僕と誰それとの間だけで,そのとき場になるというのは,特別な瞬間なのではないか,という気がしている。

だから,理想を言えば,相性などというのは,コーチが言うべきことではない,と思い始めている。それは,クライアントは完全な存在であり,みずから答えを見つける力をもっていると言いながら,それを手伝えない人がいるというのは,表裏で齟齬がある,まあ羊頭を懸けて狗肉を売るということになるのではないか,とも思っている。もう一つ,誤解を恐れず言うと,ファウンデーションという言葉もあまり気に入っていない。弘法筆を選ばず。自分のシチュエーションがどうなっているかは,クライアントには何の関係もない。いま死にかかっていても,コーチングを求められたら,一瞬,相手も自分も一つの場を創れて,耳を開く,心を開けること。それをプロフェッショナルというのではないか。

前にも触れたが,

フロイトが口蓋の癌に侵されたとき,フロイトのもとへやってきて,心理学におけるある点について話したがった人がいた。そのひとはこう言った。「たぶん,話などしないほうがいいのでしょうね。あなたはこれほど深刻な癌に侵されているのですから。こんなことについてはお話したくないかもしれませんね」。フロイトは答えた。「この癌は命にかかわるかもしれないが,深刻ではないよ」。

これをプロというのではないか。解釈は違うかもしれないが,クライアントには,こちらの状況は関係ない。それを言うのは,いいわけに過ぎない。福島正伸さんは,「私はいつも絶好調。私の体調はお客様には関係ない」といったのはその意味だろう。

ところで,コーチとクライアント両者の,協働関係というか,僕は,それを土俵という言い方をするが,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064301.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm

コーチ側が,だけではなく,クライアント側も,一緒の場にいる,と思えている,ということだ。そこからしか,コーチングは成り立たない。コーチの質問で相手が気づくとか,相手が変化するとか,そういう現象が問題なのではない。大事なのは,その一瞬の,いま,ここに,両者が一緒にいるかどうかだ。その時,クライアントの見ているものを見るとか,両者で一緒のキャンバスを見るなどということは,結果としてそうなるのであって,そういうことを目指すのではない。戦略とか,ということも,コーチの勝手な思い込みに過ぎない。そういうことを言っている間は,実は,クライアントを信じていない自分に気づくべきだ。コーチは,本当に,クライアントと共にいるのか,クライアントの最大の味方として,ただそれだけが問題だ。

その場が出来ないのであれば,たぶん,コーチなんぞいなくても,クライアントは一人で気づくし,一人で成長していく。質問で気づく,提案でハッとする,リクエストで視点が変わる,などということは,単独ではありえない。その前に,両者の間で,一緒のとき,一緒の場にいる感覚が出来なければ,質問は,言葉だけが入ってくる。僕というコーチの言葉でなく,言葉としての問いだけが単独で入ってくる。そういうのをコーチングとはいうべきではない,と僕は思っている。

コーチという僕という存在抜きに,その場はできない。コーチという僕という存在と,クライアントの何某というその人の存在抜きにその場はない。そのとき,その言葉は,言葉が中空で交わされているのではない。その時言葉には,大袈裟にいうと,僕という人間の存在そのものでなければ出せない言葉でなくてはならない。コーチである前に,僕という人間の重みのついた言葉でなくてはならない。

ということは,理想を言っているだけだから,僕のことは棚に上げて言うが,僕という人間がコーチでなければできないコーチングでなくてはならない。それはスキルでも,振る舞いでもない。その時そこに,自分が自分として,全面開示し(「全開き」といった人がいるが),相手と向き合うかどうかだ。

外見は,貧乏たれで,日頃は,さえないくそ爺でもいい。しかし,必要とされるクライアントと向き合った瞬間,その人との間で,瞬時に場を創り,相手とともに,Dance in “the”momentを創り出していける,そういうコーチでなくてはならない。もちろん,人間性も,知性と教養も必要かもしれない。しかし,それを必要とするのは相手であって,コーチがその人の人生を代わるのではない。その人が自分の人生を自分が主役になって生きていくために,コーチは,その人が自問し立ち止まる,止まり木になっている。そこで,またクライアントが自分を奮い立たせられればいい。

コーチは主役ではない。コーチは無名でなくてはならない。コーチはあくまで影でなくてはならない。

コーチが目立つということは,すでにコーチとして失格である。目立つのはクライアントであり,それもクライアント自身の手柄として何かを達成したのだ。そのとき,クライアントから,~コーチという名が出た瞬間,コーチングは失敗したのだ。コーチは,そういう役割に徹する覚悟をした者だけが,なるべきだ。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#コーチング
#コーチ
#ファウンデーション
#質問
#協働関係
#Dance in this moment
#フロイト

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2013年03月14日

ファウンデーション強化は厚化粧?


コーチングでファウンデーションを言い立てることに疑問を感じている。僕のような素人に毛の生えたようなものが何を言っても,蟷螂の斧だろうが,

・ファウンデーションが整っているということがなぜコーチングに意味があるのか?
・コーチとしてのリアル世界の充実がコーチングの世界を強化することになるのか?
・ファウンデーションの整備がコーチングの技量アップにつながるのか?

という疑義を感じている。

これを考えることは,コーチングとは何かではなく,そもそもコーチとは何かを考えることになると思っている。あるいは,プロフェッショナルとはどういうことか,ということを考えることだ。プロフェッショナルについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11089626.html

で触れたことがある。

あらかじめ結論を出すなら,通常どのプロフェッショナルも,ファウンデーションなどということを問題にしない。コンサルタントが,自分のファウンデーションなどを言っているようでは,未熟者である。研修講師が,おのれの技量とレパートリーの拡充より前に,ファウンデーションを言っていたら,一生仕事は来ない。起業家にとって新製品を出すことが先決であって,ファウンデーションなどは後からついてくる。新製品がなくてファウンデーションだけが整っているのを起業家とは呼ぶまい。貧乏であろうとへたっていようと,あがり症であろうと,内気であろうと,役者は金持ちを演じ元気者を表現できなくてはならない(あえて類似を探ると,精神分析の教育分析で,自分の無意識の欲求やコンプレックスを意識化しておくプロセスだろう)。

自分の事情や条件などを云々しているのは,プロフェッショナルとして,まず失格である。何より心構えとしてプロではない。

前にフロイトの話を出したが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11099351.html

管見によれば,こんなことを言っているのは,コーチ業だけである。もちろん,紺屋の白袴,医者の不養生と揶揄する言葉はあるが,医者に医術より医者のファウンデーションなどを言うやつはいない。まず医術のアップをしろよ,と言われるのが落ちだ。

ファウンデーションについて言っているのは,主にCTP系なので,テキスト(僕の学んだ2004年当時のもの)から主張を拾うところから始める。次のように言っている。

豊かで価値のある人生を過ごしているひとは,一個人としての力強い基盤を持っています。強固な基盤を持っていれば,私の基盤は,こたちは,日々起こる些末な問題にエネルギーを奪われることなく,もっと簡単に目標を達成できるようになります。

この基盤は,「高層ビルの基礎工事」や「大きな樹木の根っこ」にたとえられます。高いビルを建てる際,その地下には深く強固な基盤を必要とします。また,大きくがっちりした枝が生い茂る樹木には,太く頑丈な根が伸びています。人間も,「高層ビル」や「大きな樹木」と同じです。より大きな目標を持ち,豊かな人生を実現していくには,より強い個人的な基盤が必要です。今どのような状態かであるかをつかみ,それを強化することをサポートする必要があります。クライアントが豊かで,価値のある人生を送るためには,この基盤を強化することが不可欠だからです。

そして,クライアントの基盤強化のためには,コーチ自身がそれを強化している必要がある云々。

なんだか,これって変だよねえ。ずいぶんもっともらしいが,頭でっかちな感じがする。人生と格闘してきた人は,決して言わない言い方だ。自己基盤は,根っこ?それはいいが,「根っこがあったら,動けねえだろう」と茶々を入れたくなる。

コーチが自己基盤を知っていて悪くもないし,自分の自己基盤を強化するものいい。しかしそれとクライアントのそれとは関係ない。それを考えるのも,するのもクライアントではないか。よほどクライアントを信じられないに違いない。

あえて挑発的な言い方をするなら,ファウンデーションが整い,自己基盤が強化されたら,コーチングがうまくなるのか,という根本的な疑問は,ますます強まるばかりだ。はっきり言って,まず関係はない。その前に,コーチとしての技量を磨けよ!と言いたくないか?

僕は基本,ファウンデーションも,自己基盤も,コーチの自己満足の問題で,コーチングの巧拙に何の関係もないと思っている。「何の関係もない」とは,少し言い過ぎかもしれないが,もう何十年も生きてきた,自分の生き方を改めて偽ってどうするのか。あるいはコーチになったからと言って,おのれの生活基盤と自己基盤を強化し直してどうするのか。それは偽りとまでは言わないまでも,厚化粧ではないのか。

コーチになったからと言って,ありのままの自分以外に,何を見せようというのか。いまさら自己基盤を整えるというような生き方って,それまで一体どんな生き方をしてきたのだ。

かつて江藤淳が,新人の中上健次に,「年収の一年分を貯蓄しろ」と助言していたのを読んだ記憶がある。それに中上がどう返事したかは知らないが,年収分の貯蓄があることで,小説家としての技量や作品力が上がるとは思えない。

どうも勘違いしているとしか思えない。

すべては,コーチングの技量(ここで技量というのは,スキルではない。コーチとしての覚悟,コーチとしてのありようを指す。いずれ触れる)の問題であって,リアル世界のコーチ何某がどんな生き方をしているかなどは,その人のコーチングにとっては,二の次,三の次なのではないのか。

コーチ自身の人間としての器量,人品骨柄の問題なら,いまさら取り繕ったところで何が変わるのか。そんな付け焼刃で,どの面下げて,クライアントに向き合おうとするのか。

コーチングとは生きざまというのは,いまのおのれの生き方が問われているのであって,コーチになったからとか,コーチであるかどうかということから問われているのではない。

生きてしまった今の自分をすべて認めることができない,そのあほ臭い虚栄心の方が問題だ。コーチが偉大な人だからコーチングを受けるわけではない。また,コーチが人生で成功しているからコーチングを受けるわけでもない。コーチが大学教授だから,コーチが有名人だから,というのは,クライアントにとって,コーチングを受ける動機づけとしてはあり得る。しかしそこまでだ。有名人が,コーチングが上手いとは限らない。リアル世界のコーチの生き方とコーチングの場におけるコーチのありようとは,イコールではない。そこに勘違いがあるように思えてならない。

まずは,ありのままの自分をさらけ出すこと。それが出発点だ。

おのれがまっとうに生きてこなかったと思っているような人間が,あるいはまっとうと言い切れないような人間が,コーチになることでまっとうになるということは,コーチングを自分の生き方の出汁にしているとしか思えない。

コーチになって,まっとうになる?クライアントがそこにはいないではないか。クライアントは一瞬で,その化けの皮を剥ぐに違いない。

高座で寝てしまった志生が愛されたのは,その生き方ではなく,その高座で見せる存在感だ。取り繕った姿ではなく,そのまま落語になっているそのありようだ。リアル世界で,志生がどんな生き方をしているかは,貧乏だろうが,飲んだくれだろうが,落語を聞きに来たものには関係ない。落語として,高座で創り出してくれる世界だけが問題だ。

イチローが敬愛されるのは,好きでやっている野球に,楽しくないと言いながら,はつらつと,球場で,第一級の活躍を見せ続けている姿だ。野球場の外は関係ない。どんなに努力しているとか,どんな修練を積んでいるとか,夫婦仲がいいとか悪いとか,どれだけ豪勢な暮らしをしているか等々は,関係ない。場は,野球場でのパフォーマンスがすべてだ。

コーチにとっては,その場は,クライアントと向き合う,コーチングの場そのものでしかない。

いまの自分をありのまま,さらけ出して,開示できないコーチは,自分の生き方をどこかで恥じている。どこかで糊塗したがっている。そんなコーチはどれだけファウンデーションを整え,名声をはくしても,僕はコーチとして認めないだろう。

王陽明は言う。

重量や多寡を比較する心をとり除き,各人が事故にあるかぎりの力量や精神を尽くして,ひたすらこの心が天理に純一となるように功夫(じっせん)につとめたならすべてのひとがおのずから『箇箇円成』し,大なるは大を成し,小なるは小を成し,外に求めずとも,いっさいが自己に具足していることになる。

この身よりほかはないという覚悟の問題なのだ。そしてクライアントにも,「大なるは大を成し,小なるは小を成し,外に求めずとも,いっさいが自己に具足していることになる」と信ずればこそ,真摯に向き合う。


参考文献;
王陽明『伝習禄』(溝口雄三訳 中公クラシックス)

今日のアイデア;
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#王陽明
#伝習禄
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#プロフェッショナル
#コーチング
#コーチ
#覚悟
#技量
#リアル世界

posted by Toshi at 06:32| Comment(33) | コーチング | 更新情報をチェックする

2013年03月24日

楽しむ


子曰く,これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

知る者よりも,好む者よりも,楽しむ者というのは,実感としてよくわかる。どんな博学も,所詮外的知識で,それを自分のものとしているとは言えない。好学もまた,外にあるものを取り入れているだけだ。楽しむ者だけが,それを自分のものとして,一体になって,体現している。

どうも僕はこの楽しむが苦手だ。まず,(人でもものでも本でも)相手と会うと,相手との距離をはかる。そして相手の枠組みを知ろうとする。そのとき自分との親疎の価値をはかっている。だから食わず嫌いというのが多い。それが「やりたくない」ことにチャレンジする気になった原因の一つかもしれない。しかし,好むに変わると,いっぺんに距離を消して相手の土俵に乗ってしまう。一も二もなく,相手を全面是認に変わる。別におのれを消しているわけではないので,相手の土俵に乗っている妄想に近いから,自分の土俵を拡大しているのだともいえる。いわば,いずれも独り相撲。この極端な距離感覚が,ずっと自分を悩ませてきた。楽しむは,彼我の対立や対峙を消さなくてはできない。それは,まず自分をその場に溶け込ませなくてはできない。主役が場になる。その時になる。そういう開放性が苦手であった。

しかし今,その時,その場で自分をどれだけ開放し,解放できるかを,自分でチャレンジさせようとしている。楽しむ,というところまでは行けていないかもしれない。しかしおのれにこだわり,おのれの立ち位置にこだわり,相手との距離にこだわり,おのれの見かけや外見への執着を手放そうとしている。

ところでCTI系では,傾聴には二側面があるとして,

①注意を払う 感覚を通して受け取ったものへの気づき。コーチが受け取っているすべての情報に対して注意を傾ける。息遣い,話し方のペース,声の調子等々。
②インパクトに気づく 傾聴したことへの対処。コーチの対処がクライアントに影響を与える。

それを,次の3レベルに分けている。

①レベル1・内的傾聴 意識の矛先が自分に向いている。自分の考えや意見・判断,感情,身体感覚に意識が向いている。
②レベル2・集中的傾聴 意識はクライアントに向いており,全ての注意がクライアントに注がれている。相手の発するすべての言葉に一心に耳を傾け,声の調子,ペース,ニュアンスを逃さず聴こうとしている。
③レベル3・全方位的傾聴 一つのことに焦点を当てるのではなく,周囲に広く意識を向けている状態。自分と周囲のエネルギーに気づく。そのエネルギーの変化に敏感になる。

しかし,このくそまじめなコーチングは,卒業すべきだと感じている。コーチングでコーチがリラックスして,その場そのものを楽しんでいたら,その感覚は全開になり,全てに広く関心が向くはずだ。

遊びに夢中になっている時,遊びの世界の外には関心が向かないけれども,遊びの世界の中で起きていることには,敏感で,感覚が研ぎ澄まされている。それと同じだ。その時,場そのものと一体になっている。

これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

をあえてこれに当てはめてみる,とどうなるか。

知るというのは,レベル1,好むというのはレベル2,楽しむというのは,レベル3,と置き換えてみることができる。

知るとは,自分の知的好奇心に基づく対象化だ。内部の問題意識,関心から相手を見ている。しかし好むというのは,相手との距離を埋めるため,相手に接近していく。自分を離れて,相手そのものに寄り添う。好きになるとはそういうことだ。だから,焦点は相手にあっている。楽しむというのは,自我や我執が消える。あるいは自分をかなぐり捨てる。そこでは,彼我の差が消え,彼我一体のその場そのものになって,全体に浮遊する。あるいは場そのもの,空気そのものになって,相手と共に,一緒になってわくわくする。あるいは風のように自在な眼になっている。

その時,コーチはいない。コーチングそのものになっているというと言いすぎだが,リアル世界の何某というコーチではない。そこに我執も,経験も,知識も,価値も,置き去りにされている。在るのは,クライアントの様々な自己を,開示し,展開し,たとえば絵巻物か,無限に折りたたまれた手紙のように,次々と延ばされ,広げられていく世界に,一緒になってついていく。

それは,過去であるより,未来であることの方が楽しいだろう。まだ来ていないが,きっと来るだろう未来,いやこうすれば来るだろうとはかっている未来を,白紙の巻物の中に,描き出していく。

楽しむには,こだわりや拘泥や足枷や執着や是非や可否を一切合財手放さなくてはならない。楽しさは自分の開放なのだし,解放なのだから。そして結果の予想もないし,どこへ行くかもわからない。目標や,できるできないや,アクションプランも捨てなくてはならない。大体,アクションプランの立つようなことが,コーチングの対象になること自体,コーチングへの侮辱である。そんなものは,目標達成計画書を書くように,自分で描けることだ。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#アクションプラン
#目標達成計画書
#傾聴
#レベル1
#レベル2
#レベル3
#こだわり
#CTI
#アクションプラン
#目標達成計画書
posted by Toshi at 05:47| Comment(0) | コーチング | 更新情報をチェックする

2013年03月26日

コーチでいることを手放す


先だっての土日連続して,ワークショップに出た。土曜日は,コーチング・フェローズというコーチング・セッション会に出た。その日が100回記念ということで,いつもの平日ではなく,土曜日の午後に開催された。

フェローズでは,参加者は3人一組(コーチ役・クライアント役・オブザーバー)になって,ただコーチング・セッションをしまくる。コーチング・セッション終了後,そのつど3人で意見交換やフィードバックの時間を持ち,役割を交代して一巡する,というのが基本型。いってみれば,ひたすら相互でコーチング・セッションをし,その振り返りをするだけの会だ。

僕は,確か,フェローズの案内にあった(何を見たのかよく覚えていないが)

・コーチングを習ったけど、気軽に実践する機会がないなぁ…
・このままだと、せっかく勉強したコーチング・スキルを忘れてしまいそう。
・コーチングって言葉は耳にするけど、実際どんなものかよくわからない。
・コーチング未経験の方や、初めての相手にコーチングをやってみたい…。
・知らないコーチの新鮮な視点でコーチングを受けてみたい…。
・ご友人・お知り合いにコーチングに触れてもらいたい…。

にあった,「コーチングを習ったけど、気軽に実践する機会がないなぁ…」という文句につられて,メールを出し,参加させていただいた。もう5,6年前になる。その日,よほど緊張し,しかも圧倒的な刺激を脳が受けたらしく(中心メンバーがCTI系で国際資格を持っている方々ということもあるが),今まで経験したことのないむちゃくちゃ刺激的な(内容ははばかるが)夢を見た。その驚愕の夢体験が,フェローズで体験の新鮮さを,僕に強烈に記憶させている。脳は,処理しきれない刺激に煩悶し,悶絶して処理していたらしいのだ。

ここで自分が得ているのは,断続的に経験している自分のコーチングを,ただこの場であった人と,そのとき,いまのコーチングをどれだけ実践できるかという自分自身へのトライと位置づけている。まさに,Dance in the momentの「the」を体験しようとしている。

実のところは,初めは,ただコーチングの経験をいっぱいするといった程度に考えて,正直,出来るだけうまくなりたい,うまくコーチングしたい,そういう意識が強くあった。しかし,いつのころからか,これはいま受けているコーチングと関係があることは,前にブログに書いたが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11127960.html

そういう気持ちがゼロではないけれども,薄れてしまった。いまあるのは,

その時,その場で,その人とともに,
どこへ行くかは,そのひとまかせで,
行先も,目標も,コースも,歩き方も,
相手にゆだねて,
Dance in this moment

という心境なのである…が,この間の,フィードバックでは,

「コーチが好き先の目当てがあるように見える」
「コーチが先へ先へと急いでいて,あわてて,またクライアントのところへ戻ってきている感じ」
「クライアントのペースよりもせっかちに前へ前へと引っ張っている」

と,とても,コーチの考えていることとやっているコーチングのギャップがあり,思いが強すぎて,風にならず,突風になっていると受け止めた。まだまだァ……。

ただ,主観的には,その時,その場で,クライアントと共に,クライアントの語りだす世界に一緒にいて,Dance in this momentを,心掛けるているつもりなのである。

しかしまだ自分を手放し切れず,せっかちで,せき込んで,クライアントに迫っているらしい。

まだまだ自分を抜けきっていないどころか,自分というものを手放せず,無意識に何かを解決しようとしているのかもしれない。

目指すべきは,クライアントの,

語っている世界を細大漏らさず語り尽くしてもらう
語っている世界に何を見ているのかを見尽くしてもらう
語っている世界の意味と価値をあらわにし尽くしてもらう
語っている世界そのものの未来をのぞき尽くしてもらう
語っている世界をリアルに描き切ってもらう

そうして語られた世界の奥行きと幅と,さらに時間軸が伸ばせるだけ伸ばせれば,おのずとクライアント自身に見えてくるものがあるはずだ。だから,仮に問題が出たり,達成したい目標から始まったとしても,それを置き去りにして,クライアントの求めている世界を,探している世界を語り尽くすことで,それはいつの間にか問題でも目標でもなくなるかもしれない。

その時,自分はただクライアントにはっきりしていないものをはっきりする,ぼんやりしているものをクリアにする,見通しの見えない視界をひらく,そのために一緒にいる。

僕はその時自分ですらない。自分がどんな拘泥することや鬱屈があったとしても,それはおのれのそれで,クライアントにとっては何の関係もない。

そういう自分であるために,ひたすら自分を消す,ひたすら風になる,目になる,場になる。それがコーチとしての自分でいることなのではないか,という問題意識を強く持ち続けている。それは,自分を解放し,自分という境界線を溶かして,そのコーチングの場に溶け込んでしまう。

フェローズのミッションは,

コーチの普及と実践を通じ、一人ひとりが充実した人生を送ることのできる社会の実現に貢献する。

である。それは,コーチを受けてみることで,あるいはコーチになることで身をもって体感してもらうと受け止めている。とすれば,クライアントとして自分の中に何かが見えることが,ここにこなければ,気づくのが遅れたかもしれない何らかの発見を,ここで得ることを通して,コーチというものの値打ちを知ってもらえればいいのではないか。そういう受け止めをしている。

だから,フィードバックは結構厳しめに,「こうしたらもっといい」という視点からくる。

それが,自分のコーチングのその後を左右することも少なくない。いま自分というものを消す課題が,また見えている。

まだ風になれていない自分をどう手放すか,
いやいや,まだコーチでいるらしいのだ。
それを手放して,コーチという風ではなく,
ただの風になる。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#コーチング・フェローズ
#Dance in this moment
#Dance in the moment
#フィードバック
#物語


posted by Toshi at 05:06| Comment(8) | コーチング | 更新情報をチェックする

2013年05月16日

全人的にかかわる


先日,インタラクティブ・トレーニング 「 “全人的” に目標を扱う」に参加した。

案内にあった「全人的」という言葉に惹かれた。こう説明があった。

「目標を聞く」ということは,コーチングフローの2つ目のステップですが, コーチングで単に目標を聞いているだけでは成果には繋がりません。 「この目標は,クライアントが本当に扱いたい目標だろうか?」と振返ることも大切です。
「目標を聞く」過程では「ものの捉え方」など, その人の全てにおいて興味関心を示しながら旺盛な探究心と好奇心, 圧倒的な尊敬の念を込めて聞く必要があります。

このような姿勢で相手の目標や課題を聞くことが出来れば, コーチングフローに沿った対話が,上辺の会話ではなくなります。 相手の気づきを促し,自発的な行動にも繋がり,結果的に成果を導く会話へと発展していきます。

本プログラムでは,目標をその人の一部分として扱うのではなく, 全人的に扱う際のコーチの姿勢やあり方,聞き方や言葉などを共に探究していきます。

そこでやった練習は,ただひたすら相手のことを聴き,(一度目は目をつむり,二度目は,目を開けて)受け止めた相手についての印象,感想,事実,状態,イメージ,予想をIメッセージで伝えることだ。直観的に受け止めているので,是非は置く,フィードバックする。そこには,評価が入っているわけではないので,マイナス・プラスの要素は入らない。ただそこには,CTIでいう認知(相手に認めた強さや可能性等々を伝える)に近いフィードバックも入ってくる。

そこでやっていることは,

・ただひたすら相手を聴く
・ただひたすら相手の状態に耳を傾ける
・ただひたすら相手の言葉の意味を受け入れる
・ただひたすら相手の感情や心の変化に注意を払う
・ただひたすら相手の呼吸をうかがう
・ただひたすら声の調子に注意を払う
・ただひたすら相手のエネルギーの多寡をはかる

等々を通して,相手に関心を払い,相手に注目し,ひたすら耳を傾け,全神経を集中させている。それは,結果として,どんなフィードバックをしたとしても,その結果であり,

・ただひたすらそこにいる相手を受け入れる
・ただひたすら相手を容認する
・ただひたすら相手の存在を認める
・ただ相手の心と体の微妙な動きと変化を感知している

ということを意味していて,ある意味,それは,

相手の言うことすべてを受け入れ,
相手の存在を受け入れ,
相手の振る舞いすべてを受け入れ

ていることを意味し,それは,

相手を丸ごと受け入れている

ということに他ならない。全人的とはそういうことなのであり,その振る舞い,その関わり,その対応そのものが,

相手への承認
相手の認知

となっている。その姿勢が,相手との間で,信頼と安全の場をつくっているという,こちらからのメッセージになっている。

板書で,コーチングの前提について,

①人はそれぞれ全く違う思考方法をもっている
②こーちは,相手に自分を考える環境を提供するだけである
③相手から学ぶ姿勢でいる,尊敬,対等

とあったが,まさに,そう言うコーチの振る舞い,ありようを指している。だから,「目標」だけでなく,クライアントのすべてを丸ごと受け入れ,その人の求めていること,そのありようを聞き取っていくことで,目標はおのずと明確になっていく,そんな気がしている。

例によって,ロールプレイを最後にやったのだが,クライアントから,

今までこんなコーチングを受けたことがない,

と言われた。それを,自分はプラスに受け止めたのだが,必ずしもそうではないらしい。その意味が,クライアントのフィードバックでもはっきりしなかった。自分では,変わったコーチングをしているつもりはないのだが…。そのあたりを意識してみることが重要な気がしてきた。一つ課題を与えられた気がしている。

僕の姿勢としては,ただ目標ではなく,その目標をそこで取り上げたクライアントの背景にある,価値や大切にしている何かを明確にできれば,仮にその目標で行くとすれば,その意味が明確になるだろうし,そうではない目標が浮かんでくるかもしれない。

目標を明確にするというのは,それをすることの意味を自分で確認できることだと思っている。でなければ,普通のひとなら,自分一人でそのプランニングまでできる,そう信じている…のだが。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#目標
#コーチング
#コーチ
#フィードバック
#承認
#認知
#Iメッセージ
#CTI
#クライアント
posted by Toshi at 05:37| Comment(3) | コーチング | 更新情報をチェックする

2013年07月01日

妥協


先日,JCAK「ファウンデーション講座」(近藤真樹コーチ)の第二回目に参加してきた。テーマは「妥協をやめる」。

英語では,Toleration。黙許とか堪忍とか辛抱,忍耐とある。「成らぬ堪忍するが堪忍」といい,我慢しない人間をどこか,堪え性のない人間とみなす我々の風土では,Selfish,つまり自分本位をよしとはしにくい。

甘んじていること

いやだなということを我慢していること,

をやめるという意味で,もう少し小さいことだということらしい。

妥協をあぶりだすことが,自分が無駄に使っているエネルギーを解放するということで,小さな妥協,未完了(継続する妥協)をクリアしていくことで,信念や価値を明らかにする,と言うことらしい。

しかしどうもこれに疑問を感じている。小さな妥協よりも大きな妥協が問題,という妥協の大小ではなく,妥協,未完了という問題設定そのものに疑問がある。

かつて,クライアントが,いつも大きなキャリーバックを持って出張に行く。しかしこれを小さくしたいと思ってやめられないということで,それを小さくすることを一緒に考えた。しかし。結論から言うと,その大きなキャリーバックが,ご自身の目印というか,存在そのものを示す重要な旗印なのだということに,本人が後日気づいた。小さくすることを努力することを放棄された。キャリーバックなどどうでもよかったのだ。何をするために出張したいのか,そこで何を得たいのか,そこに何をするためにいるのか,の問いを先にしていれば,別の答えが出たはずだ。

そもそもアプローチが間違っていたのではないか。

問題(妥協や未完了もこれに当たる)に焦点をあてるべきではなく,その本人のなりたい自分,大切なものに焦点をあてるべきだ,とコーチとしての自分はいま思っている。

別の例を挙げてもいい。遅刻が多い職場だとする。遅刻を問題とするのか,だとすると,どうすれば遅刻をなくせるかということに営々時間を費やすだろう。ではどういう職場にしたいのか。「遅刻のない職場?」。冗談でしょう。僕なら,「どうしたらわくわくする,早く仕事に行きたくて仕方がない職場」を目指す。そのためにどうするかの方が,どうすれば遅刻を減らせるかより,はるかに生産的で,考えること自体が楽しい。

それをソリューション・トークと言う。ソリューション・フォーカスト・アプローチでうところの,プロブレム・トークではなく,ソリューション・トーク,つまり問題志向ではなく,解決志向である効果は,すでに何度も書いた。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11065948.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11208676.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11207722.html

問題ではなく,自分の目指すものを明確にすることの方が話しているときでも,クライアントは楽しい。何がしたいかがわからない人がいる,と言う。しかし,鬱であったり,リストカッターであったり,過食症であったりする人が,ミラクルクエスチョンで,朝起きて,いまかかえている問題すべてが解決してしまったとしたら,何から,それに気づきますか,尋ねると,その解決してしまった状態を詳細に描いていける。ならば,普通の人が描けないはずはない。クライアントを見くびってはいけないのではないか。

たとえば,ミラクルクエスチョンで,起きてしまった奇跡をつぶさに,具体的に,詳細に描けば描くほど,逆に,いまでに,気づかず既にできてしまっている例外,あるいは既に起きている奇跡に気づきやすい。それがその人のリソースになる。

僕には,正直言って,妥協探しが無駄に思えてならない。わざわざ問題を洗い出すことがなぜ楽しいのか,僕には最後までわからなかった。

人は常に,その時点でできる精一杯のことをやっている,

と西澤ロイさんが語っていた。「失敗しようと思ってやっている人はいない」「そうする理由があってやっている」なら,妥協もそうのはずだ。それを問題として取り上げるよりは,本当はどうしたかったのか,に焦点をあてたほうがはるかに前向きなのではないか。

そしてもしどうしてもそれを取り上げるなら,ちまちました妥協なんかどうでもいいのではないか。

それで考えたのは,あの時最後に感想でも言ったことだが,あえて言えば,

僕は,いま,そういういままでの大小の妥協の産物としている,

ということだ。しかし,それをマイナスには捉えていない。そういう選択の結果,こうしか生きられなかった,その僕のあり方,生き方をネガティブではなく,そのまま受け入れた上で,ではこれから,どう生きたいのか,どうなりたいのか,どうしたらいいのか,を考えたほうがいい。

妥協とは,別の言葉で言えば,「折り合いをつける」ことだ。

僕の場合,自分の才能と折り合いを付けた。そのことで,自分を小さくしたということはある。それは,「自分の可能性」をそこで,失ったというより,少し見捨ててきたという方が正しい。

ハイデガー曰く,

人は死ぬまで可能性の中にある

実存主義的と言えばそうだが,この言葉が僕にとって座右の銘だ。そうまだ残されている可能性があるなら,それを取り戻さなくてはならない。

でも,それは妥協を考えて気づいた,というよりは,自分のしたいことは何か,から考えて気づいたことだ。

もちろんどんなアプローチもいい。どんなアプローチにも間違いはない。

しかし僕は「問題」をあぶりだすことから入るコーチングにはなじめない。

問題をどれだけ洗い出しても,解決はやってこない気がしている。問題をつぶすことから解放されて,そんなことは望まなくても,日々やっている,それよりは日々できないことにチャレンジするべきではないか。それがコーチングの意味ではないだろうか。

僕の目指すコーチングはそういうものだ。コーチ側に,こうあるべきだという意図はいらない。「妥協」(この言葉自体に評価が入っているような感じだ)という言葉も,コーチの側の意図に過ぎぬのではないか。それはコーチの計らいではないか。やるもやらないも,もつももたないも,クライアントが意識的無意識的に決める。コーチがそれを動かすなどということはありえないのではないか。

もし決めたことをやるアクションができないとしたら,井原くみ子コーチではないが,ブレーキを踏む事情が本人にある。いまはそのときではないだけだ。すべては理由がある。その理由を解きほぐす方が先なのではないか。

僕はいつも思っている。コーチよりもクライアントの方がはるかに厳しい修羅場をくぐっている。いや,修羅場に生きている。それに思いを致し,それを思いやれないようでは,コーチングではない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

#井原くみ子
#近藤真樹
#ファウンデーション
#コーチング
#コーチ
#ハイデガー
#修羅場
#ソリューション・トーク
#プロブレム・トーク




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2013年07月15日

コーチングへの立ち位置


JCAK主催勉強会『第3回コーチング解体新書』に参加してきた。

https://www.facebook.com/toshihiko.sugiura.14/posts/483642111719083?notif_t=like#!/events/470183216396874/

『コーチング解体新書』では,前半はゲストコーチによるコーチングセッションを,後半は,実際にフィードバックを受けたい方にコーチングセッションをしていただき,「何に気づき何をしたことが機能したのか」を,ゲストコーチや参加者の皆さんと一緒にディスカッションしながら,コーチングセッションを解き明かしていくスタイル。

ゲストコーチは,谷口貴彦コーチ。後半は,福島 規久夫コーチ。偶然にも,プロフェッショナルなコーチのセッションをダブル拝見して,学ぶ機会を得た。

といっても,こっちの技量でしか,相手の技量を計れないので,所詮自分にわかる範囲の関心と感嘆にとどまるが。

以下はただの感想。

まず谷口コーチ。自身がおっしゃっているように,「ナビ」であり,ドライバーはクライアント自身。だから,結構リードする。コントロールすれすれと言ってもいい。セラピーも介入がなければ一歩も進まない。その意味では,コントロールが悪いとは思わない。

たとえば,内にあるものが言葉に出ている感じです。その背景,生い立ちで…

という問いを出した時,「その原因が過去にある」と指示しているに等しい。是非は置くが,そのとき,コーチが,

「絶対に過去にあるのがセオリー」

と思っているか,

「ひょっとしたら,過去にあるかも」

程度の問いかによって,その答えへのコーチの関わりが変わる。どういう質問も,「誘導」には違いないが,その誘導をコーチがどういう重みづけをしているかで変わる。

谷口コーチは,「一緒に原因を探る」と言われた。因果関係は,一つの物語に過ぎない。その意味で,(その原因からいまへと至る)一つの物語を作り出そうとしている,ということになる。

僕は原因探しはしない。原因というより,それを自分のリソースとする視点で,過去を見たいと思っている。いや,それしかないからだ。ま,しかし一つの考え方だ。ただ,ほかの問いをすれば,別の物語になったということだけは意識している必要がある,と思っている。

あるいは,(その過去の感情は)うれしい,せつない,かなしい,

と選択肢を出された。

その感情は?

と問うのとは明らかに違う答えになる。そこも,「ナビ」という役割から来ている問いだとは思う。しかし,答えの方向性を決めると,意識は,そのレベルを連想的に流れてしまい,別の意識が出にくくなる。その意味では,いろんな受け止め方がありうるだろう。

当然,コーチ主体でペースを創るので,リードしているのはコーチとなる。それを選択したのはクライアントだということになるが,選択肢がそれほどあるかというと,ないという感じがした。

次は福島コーチ。「静」である。構えというか姿勢が,谷口コーチも言っていたが,全く動かない。ペーシングに反しているが,そのうち,クライアントがそれに合わせていった。その意味では,黙って,動かないで,動かないことをリードしている,いう感じに近い。

知っておいておしいこと,わかっておいてほしいことがあれば…

聴かせてください,何分かかってもいいですから…

僕がどんなサポート,お手伝いをすればいいですか

お腹から出ている感じで涙が出てきました。

ご自分の言葉で信念を話してください。

すべてがうまくいったご自身から今のご自分に向かって一言

セッション直後とは違い,こう並べてみると,谷口コーチとは違うが,やはりコーチがリードしていることに変わりはない。谷口コーチが一緒にドライブしている状態だとすると,福島コーチは,クライアントの写り方を変える鏡といっていい。写し方を変えていくのは,コーチ側である。

意図しない
普通でいる
体で感じる

というのを福島コーチは言われたが,逆に言うと,クライアントのペースではなく,コーチ側のペースで終始コーチングが進んでいく,その意味で,静と動の違いがあっても,福島,谷口両プロは,同じことをしているのだ,と感じた。

奇しくも,「気持ちいい会話」で終えるのではなく行動を変化を起こさせる,とお二人は言われた。

それでなくては,コーチングの意味がない,とも。となれば,コーチがリードする側面抜きには,ただ会話していても起こり得ないだろう。

僕は,コーチングそのものに,のめり込んで修練してもいないし,コーチングにほれ込んで夜も日も明けぬと言うほどの熱意もないので,どこまで行っても,素人の域を脱しない。というか,言い訳をするようだが,プロになりたいとは思わない。どこか素人臭を残すのをよしとするところがある。確かに,それで食っていくというのとは,迫力も熱意もエネルギーも違うだろう。しかしだから,ダメだということもある。

僕は素人であり続けるというのを無意識で選択しているらしい。だから,コーチングもセラピーもカウンセリングも学んだが,プロの一歩手前で止まる。それ以上先へ行きたいと思わない。

しかし,自分としては,コーチングについては,かつて書いたように,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11132452.html

「コーチ」であることを手放したいと思っている。それは言い換えると,ただの会話相手でいい。しかし,目指すのは,

相手の日常の自己対話の中に紛れ込み,
その会話の循環を断ち切るように,
さりげなく問いかけていく,

そうすることで,相手自身が別の自己対話をはじめ,新しい別の人生の物語を紡ぎはじめていく。所詮すべては自己幻想にすぎないなら,苦しく嫌な幻想ではなく,楽しくわくわくする幻想を見つけられた方がいい。

それは別にコーチでなくても,コーチングでなくても,ただの日常会話でもできる。それが目指していることだ。だから,プロではない。まして,プロフェッショナルのコーチではない。まあ,単なるディレッタント。偉大なるディレッタントであり続けたい。というか,玄人はだしといわれるのが快感なのかもしれない…。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#谷口貴彦
#福島 規久夫
#コーチング
#コーチ
#JCAK
#コーチング解体新書
#自己対話

posted by Toshi at 05:38| Comment(12) | コーチング | 更新情報をチェックする

2013年07月29日

未完了


先日,JCAKの第三回ファウンデーション講座(近藤真樹コーチ,寺田由美コーチ,テーマ「未完了」)に参加した。

未完了や妥協については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11235661.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11259002.html

で散々書いたので,今回は,講座でのワークを通して,改めて未完了を考えてみたい。

まず未完了とは,テキストにはこうある。

未完了があなたの心の傍らにあるとき,あなたは独特の気持ちを体験するかもしれません。例えば,懐かしい歌を聞いた時に,自分が傷ついていたときの気持ちが巻き起こるかもしれません。つまり時間が経っていても,まだ完了していない!それが,未完了の状態ということです。

そして,具体例として,

・一瞬の~ 罪の意識,嫌悪感,後悔,良心の呵責,自責の念
・恥ずかしい思い,気後れする感じ 自分自身や他人をまっすぐ見れない感じや他人を避ける感じ
・怒り,強い胸騒ぎ,激怒,復讐心
・拒絶,拒否,ある状況や人についての会話を避けようとする態度 しかも言い訳があり,問題があることを否定
・悲しみ,悲嘆,涙,ひとしきり泣く

として,未完了をこう説明しています。

特定の人や,体験に対して「未完了」であるということは,それがまだ「心に残っている」ということを意味します。
未完了であるということは,未解決であるということです。その人との関係性が終わってしまっても,未完了は残ります。

ではどういうときに,未完了が起きるか,

・ニーズが満たされていない
・他の未完了が完了されていない
・未完了の強力さについて理解していない
・何らかの物質や行動に執着している

とする。でワークとして,まず未完了リストを,

・やろうと思っていて,まだやっていないことは何ですか
・気がかりになっていることは何ですか
・やりたいと思っていて,やれないことは何ですか
・やめたいと思っているのに,やめられないことは何ですか

をリストアップしてから話し合ったが,ある人曰く,

本当に大事なことは何なの?

と問いかけた。僕も書いて思ったが,片づけないとか掃除してないとか,パソコンがどうとかは,実はどうでもいいのではないか。

本当にその人の価値やニーズに関わっていないことをいくら挙げても,たぶん気持ちはすっきりするが,意味がないのではないか。

だから,リストアップ自体は否定しないが,それを消し去っていくために,つまり,

それが本当に必要なことではないとして,リストから消去していくために,

あるいは,ちまちました未完了をリストアップしていく中で,忘れていた大事な未完了を,思い出すために,

リストアップするというように,リストアップ自体の目的を変えないといけないのではないか。

僕はそのワークを通して気づいたのだが,たとえばそこで挙がった,

子どもと話していない,

夫と話していない,

という(大事なことらしい)こと自体には,本人も(うすうす)気づいているはずだ。そうではなく,それが,何か大事なことの大きな第一ステップだと気づいていないから,シカとしてきたのではないのか。とすると,未完了リストを挙げることではなく,未完了項目の意味付けし直し,リフレーミングが必要なのではないか。

あるいは,むしろ逆で,まずは,

どうなりたいのか,
どうしたいのか,
どうありたいのか,

を考えることで,いまのリストを意味づけなおすことだ。きちんと家庭をたもちたいと思うことと,別れるつもりでいるのとでは,夫と話すことは,まったく別の意味づけになる。

その意味では,どうせリストアップする作業をするくらいなら,

●未完了リストよりは,いま自分に大切なもの,それがなくなってはこまるものをリストアップする
●できていないリストよりは,こうしたい,こうなりたい,という完了状態の明確化
●できていないリストよりは,ほしいもの,ニーズ,価値リスト
●生きていないリストよりは,こう生きたいという生き方のリスト
●やれない,やらないリストよりは,やりたいリスト

等々を具体的に挙げたほうが,自分の目指すものがはっきりし,逆に現状の意味が変わる。しかもそのとき,視線は,未来に向かっている。こちらのほうが建設的ではないか。

「未完了」という言い方には,未来の完了よりは,未完了になっている過去に焦点が当たっている。

僕自身は,過去を振り返って,過去の瑕疵や問題をあげつらうことに意味があるとは思えない。フロイトの無意識や因果関係の物語は,あくまで物語であって,過去に問題があるのではない。いまに問題がある。いまの問題を過去にさかのぼって因果関係をみようとするのは,逆立ちしている。

いまの問題が解決できないのは,いまそれに向き合わないからであって,過去に原因があるのではない。

わざわざ過去に向き合うなどという遠回りをすることで,確かに向き合う習性を付けて,いまに対峙できるという効果はあるかもしれないが,そんな暇があったら,いますぐ,いまの問題に向き合い,解決すべきだ。それで,過去のイメージは180度変わる。過去の見え方が変わるはずだ。

僕にとって一番大事なのは,

自分の人生の完了のつけ方

なので,完了したかどうかではない。そこで必要なのは,

何をしておくか,

ではなく,

何をしているか,
何をしていないか,

なのだ。常に現在進行形であり続けること,なのだ。

それはいまをのみ大事にするということだ。

死ぬ一瞬も,その一瞬に向き合い続けること,

そういう生き方をしたい。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#JCAK
#近藤真樹
#寺田由美
#ファウンデーション
#未完了
#未完了リスト

posted by Toshi at 05:28| Comment(24) | コーチング | 更新情報をチェックする

2013年09月02日

コーチ・ドック


先日コーチAのインタラクティブ・トレーニング「コーチ・ドック」(講師;川本恵コーチ)に参加した。

コーチ・ドックの趣旨は,

自分の健康状態を点検するために人間ドックがあるように、コーチが自分の状態を点検するための「コーチ・ドック」があったとしたら、どんな点検項目があると役に立つでしょうか。

時にはコーチが自分の状態を「止まってみる」体験を持つことも大切です。

例えば
「必要な時にリラックスできる能力」
「発想の柔軟性」
「ものごとを感受する能力」
「感受したことを言葉で表現する能力」
「ユーモアのセンス」など、
様々な項目に分けて自分自身を振り返ることは、コーチングの質を上げることにも繋がります。

ということで,コーチが,いまどういう状態でいるのか,コーチ自身のあり方に焦点を当てたトレーニングになった。つまり,コーチング・ドックではなく,コーチ・ドックである。

この前提は,コーチングの3つの前提で言う,

1.人はそれぞれ全く違う思考方法をもっている
2.コーチ-クライアント関係は相手の「自分で考える」環境を提供する(だけである)
3.相手から学ぶ姿勢でいる。お互いをパートナーとして尊重する

の「環境づくり」がどうすればできるか,という視点から,自分のあり方を再点検しようとする。

(クライアントの考える)環境づくりには,当然ながら,コーチは,

・ニュートラルであること
・よく聴き取ること

が必要なのは言うまでもないが,その上で,環境を整えるには,

1.コーチ-クライアント関係は自分の感じたこと(感覚,感情)を言語化できること

当然そのためには,自分の感情,感覚に敏感で,自分の感受したことを,止まってみて,言語化(Iメッセージでフィードバック)できること(自己開示)が求められる。

2.どんな深刻な話題でも,深刻にならない軽やかさ,ユーモアがあること

当然それには,コーチが軽やかであることが必要で,軽やかさは,メタポジションにいる視点が必要になる。その自由さが,発想しやすい雰囲気になる。

3.リラックスできること

コーチ自身がリラックスできること,あるいは自分の緊張に気づけ,相手の緊張を察知できること。


こんな前提で,まずは,実習の1は,体内の感覚をまさぐり,ついで,音,視界に入るものを言語化するワークをしたが,どうも,われわれは丸める傾向が強い。丸めた抽象度の高い言語ではなく,個別具体的に,一つ一つを丁寧に言語化してみる。いつもき丸めていたレベルの体内感覚(体感覚,触覚)や聴覚や視覚の視野が,一様ではなく,ごつごつした,あるいは隙間のあるものとして感受できる。その感受性が,相手へフィードバックしたとき,相手にも,一様の抽象レベルではなく,個別具体的なごつごつした感受を引き起こすのではないか。

こちらの感受性のレベルで,相手も対応する。そこを意識すると,細かければ細かほど,感覚や感情の襞が見えてくるのではないか。もっとも僕自身は苦手で,言語的に要約してしまう傾向が強い。せめて,より具体的な言語化を心掛けてみよう。

実習の2は,フィードバックのフィードバックをした。例えばロールプレイ・セッションで,クライアント役が自分のテーマを語る。それを聞いたコーチ役は,

見えてくること,
聞こえてくること,
それに応じて自分の中で起こったこと(感情,思い,感覚),

を,「私には,~と聞こえます(見えます)」とフィードバックする。

クライアント役は,そのフィードバックを聞いて,同じようにどんなことが自分の中に起きたかを,返す。

更に,コーチ役からのフィードバックに,コーチ役の,どういう特徴を見たか,聞き分けたか,を返す。

つまり,たぶんコーチのフィードバックがクライアントに引き起こす何か(イエス,ノー,逆提案)だけでなく,そのフィードバックを通して,コーチをどうみたか,もっと突っ込むと値踏みするか,があるということなのだ。

コーチ-クライアント関係の持っている相互性,あるいは循環性というべきか,そういう関係性に踏み込むことになる。

僕自身は,ここで,「軽やか」という評をいただいたが,大事なのは,徹底した自己開示なのではないか,わからないことも含め,自分自身がその場でどういう対応をしているかを開いていること,そのことが,コーチという存在をクライアントに開示していることにつながる,と思う。それが,クライアントの自己開示を可能にする,というかその安心を醸成する。

がしかし,それだけだったら,コーチ-クライアント関係のなかに,コーチが紛れ込んでしまう。もう一つ,コーチ-クライアント関係そのものをメタ化する,メタポジションに立つ位置を,もうひとりの自分を持つ必要がある。

コーチングはダンスである.自分を見る,相手を見る,そして二人の間の空間を見る

ということを川本さんは言われたが,CTIでも,

Dance in this moment(Dance in the moment)

という。僕は,これを,

その時,
その場で,
その人とともに,
どこへ行くかは,そのひとまかせで,
行先も,目標も,コースも,歩き方も,
相手にゆだねて,

と言い換えている…。

更に,実習の4は,クライアント役がテーマを話し,その話したことに,コーチ役が,「私には,~と見えます」と,Iメッセージで,クライアントの強み,長けているところを伝える。さらに,その強みをもっともっと発揮するのを妨げているものを伝える。

ここで感じたのは,単に直感的にフィードバックすることで完了するのではなく,そのことを伝えることでクライアントに起きる反応を見ながら,それができていないのは,とそれを止めているものを,口に出すかどうかは別に,キャッチする感受性がいるのだと受け止めた。

不思議だが,クライアントが止めているものが見えた気がする。それが正鵠を射ているかどうかは別で,クライアントに一石を投じていく,その波紋がクライアントに反応を起こす,そこを見逃さない,聞き逃さない,ということが大事なのだと思う。

その際,クライアント役は,「正直に言ってくれてどうもありがとう」と返すということになっていたが,僕も,その時の相方も,しっくりこなかった。自然な,ありがとう,あるいはありがとうございます,でいい気がする。それが社交辞令かどうかは,聴けばわかる。その分かったことが,次のクライアントへのフィードバックにつながるのではないか。

こう見ると,戦略という言葉が,軽薄に見える。その一瞬一瞬のクライアントの変化の中に,すべての答えがある。

クライアントの求めていることも,

クライアントの行きたい方向も,

クライアントのエネルギーも,

クライアントの感情も思いも,

クライアントのリソースも。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm







#川本恵
#インタラクティブ・トレーニング
#コーチA
#コーチ・ドック
#コーチ
#クライアント
#エネルギー
#リソース
#戦略
#Iメッセージ
#Dance in this moment
posted by Toshi at 04:52| Comment(11) | コーチング | 更新情報をチェックする

2013年09月15日

ミーディアム



天については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11276568.html

でふれた。

中国の思想では,全ての人には天(天帝)から,一生をかけて行うべき命令(天命)が与えられており,それを実行しようとする人は天から助けを受け,天命に逆らう者は必ず滅ぶと考えられている。

非命は天命ではなく,だから横死と言われる。

天の声を聴くのを,

霊媒(medium)という。霊媒(medium)とは,

超自然的存在(霊的存在)と人間とを直接に媒介することが可能な人物のことである,

という。

一般には,

霊媒は意図的にみずからを通常とは異なった意識状態に置く。この状態は「トランス状態」(や「変性意識状態」)と呼ばれている。その間に超自然的存在が当人の身体に入り込み,人格が超自然的な状態(霊格)に変化する,

とされる。いま僕が学んでいるのは,グランディングとセットである。グランディングについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11081715.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11203478.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11216752.html

等々で触れてきた。地軸とつながることで,自分が自分の中にいる,と言うことを日々確認する作業になっている。それは,同時に生かされてある,と言う自分の状態についての感謝なのである。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11264408.html

だからこそ,自分が回路(媒体)となって(昔風に言うと,憑代か),天の声を聴く,聞えるはずなのだが,僕は,自分が聴いているのが,

天の声なのか,

自分自身の声なのか,

の区別がつかない。自分の声といっても,

妄想なのか,

過去からの声なのか,

天の声の解釈し直しなのか,

幻聴なのか,

その区別もつかない。その上,自分には,性癖として,イメージが先に見える。クリアとばかりは行かないが,それが置かれている,あるいはいる状態の画像が見える。それは,いま学んでいるところでは,これを「霊能」と言い,よい性向とはみなされない。むしろ,何かが邪魔してきちんと耳を傾けていない例とされる。

ここは僕の想像だが,霊能がダメなのは,それが主体的というか能動的な関わり方であるからではないか。それは自力で,こちらの計らいでしかない。あくまで,

聞く(聞こうとする)のではなく,

聞え(てく)る,

でなくてはならない。

先輩に教えられたことに,

姿勢,

集中,

感謝

の3つが必要と言われる。自分に欠けているのは,感謝らしい。自分がやっていることのサポートを,自分の力のせいと思うところが強い。我執というか我意というか,それが邪魔するので,天の声は届かない,という。

これも,違う言い方をすると,

いまの自分が生かされている,

のではなく,

生かされてある,

という意味をかみしめるということになるのかもしれない。

自分が生かされてあることに,謙虚になる,そこが出発点であり,そこが究極の目的なのかもしれない。

まだまだである。

しかし,ひとつこれを学び出そうとした動機にあるのは,虚心坦懐ということを,体現するということだ。自分の我執の色眼鏡を捨てる,その一つの方法となるのではないか,という期待である。

その端緒は,ちょっと見えた気がする。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#ミーディアム
#霊媒
#霊能
#虚心坦懐
#天
posted by Toshi at 05:24| Comment(1) | コーチング | 更新情報をチェックする

2013年09月16日

プレゼンス


先日,JCAK勉強会【コーチング基礎編第8回】「コーチのプレゼンス」(ファシリテーション,福島規久夫コーチ・島村優子コーチ)に参加してきた。

改めて,ICF(国際コーチ連盟)のコアコンピテンシーを基に,コーチのプレゼンスを見直す機会になった。

コンピテンシーについては,

http://www.coach.or.jp/coaching/competency.html#content04

にあるが,今回対象になったのは,「コーチとしてのプレゼンスがある 」の項目。具体的には,

オープンで柔軟で自信にあふれたコーチング・スタイルを用いることで,充分に自覚を持ってクライアントと自発的な関係を作ることができる。

a.コーチング・セッションの間,一瞬一瞬を軽やかに対応しつつ,存在感があり柔軟である
b.自分の直感にアクセスし,内側の感覚を信頼する。つまり,“本能に従う”
c.知らないことに対してオープンであり,リスクを冒すことを恐れない
d.クライアントに対して,取り組む手段を数多く見出すことができ,その時の一番効果的な方法を選ぶことができる
e.軽やかさとエネルギーを生み出すために,ユーモアを効果的に利用することができる
f.ものの見方を大胆に変えることができ,自分自身の行動において新しい可能性を試すことができる
g.感情面を自信を持って取り扱うことができ,クライアントの感情に負けたり,巻き込まれないように自己管理することができる

である。この中で,一番話題になったのは,

コーチング・セッションの間,一瞬一瞬を軽やかに対応しつつ,存在感があり柔軟である

で,原文ではdanceとなっているようだ。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11298200.html

でも触れた,コーチ・ドックでも,川本恵コーチはダンスについて,特にアルゼンチンタンゴの即興性との類比をされていたが,僕も,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11132452.html

等々で再三触れているように,CTIでいう,

Dance in this moment(Dance in the moment)

を,僕流に重視して,

その時,
その場で,
その人とともに,
どこへ行くかは,そのひとまかせで,
行先も,目標も,コースも,歩き方も,
相手にゆだねて,

としていた。それはあまり変わらないにしても,今回,2人で,コーチとしてのあり方を話をする機会があり,そこで,

徹底して鏡である,

ということを言った。それは,ただ,

反映する,

のではない。そうではなくて,仮に相手の言葉を反映するにしても,,

適宜要約したり,

微妙に言い換えたり,

言葉をリフレームしたり,

事実や振る舞いをフィードバックしたり,

感じたことを返したり,

等々と,少しずつずらしながら,しかし徹底的に返すことを通して,相手自身が,

自分の言った言葉のもっている(気づいている以上の)振幅に気づく,

微妙な言葉のニュアンスの隙間や差異に気づく,

自分の言葉の持つ意味の奥行きに気づく,

等々,いずれにしても,相手の言葉を媒介にして,相手自身の自己対話を,

いつもとは微妙にずらし,

あるいは

変位させて,

もしくは

転移させて,

いつもより少しだけ掘り下げたり,スライドしたり,視点を変えたりが,自然な形で進んでいく,そんなことをひそかに考えていることに気づいた。直球ではなく,そういう微妙な変化球を返すという意味の,

鏡力の徹底,

をしていきたい。その小さな変化が,やがて大きな変化の呼び水になる。まあバタフライ効果のようなものだ。

そういう形で,相手との間で,ダンスできればいい。それは,相手のテンポとリズムに従いながら,

こういうテンポでいいのか,

このリズムでいくのか,

この間合いでいいのか,

を問いかけ確かめている。もう,あえて言えば,無駄な質問はいらない。こちらの計らいもいらない。当然戦略など放棄する。と言うかそもそもそういう発想はコーチングに無用なのだ。

いま,僕はそれほどコーチングに熱心ではない。しかし,思いがけず,コーチングする機会があっても,

さらりと,

自然に,

相手リズムをはかりながら,

軽やかに,

踊りだせるコーチでありたいと思っている。そのとき,コーチという存在自体を消し去って,

風のような,

木魂,

であれば,鏡になっているのではないか。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#コーチング
#コーチ
#コアコンピテンシー
#福島規久夫
#川本恵
#島村優子
#ICF(国際コーチ連盟)
# Dance in this moment
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2013年10月18日

けじめ


コーチングでは,答えは,クライアントの中にある,という。

したがって,クライアントのことを,あるいはクライアントの仕事の詳細を知らなくてもできる,という。

では,コーチングを支えるのは何か。

例えば,クライアントの土俵に乗り,クライアントの準拠枠に即して,その考えに寄り添い,共感する,という。しかし,その支えになるものは何か。

傾聴力なのか,

共感力なのか,

質問力なのか,

あるいはそれらを総合するコーチ力なのか。

それでは,それを支えるのは,コーチの,

コーチングキャリアなのか,

コーチ個人のキャリアなのか,

コーチの人生経験なのか。

問いを変える。コーチは,たとえば,サラリーマン生活のキャリアがなくても,サラリーマン生活の中で突破しようとしているハードを超えさせることができるのか。

たぶん,できる,というのだろう。

しかし,本当にそうか,という疑問がある。相手に寄り添っても,その思いの重さが本当の意味で分かるには,それと当量の思いを自分の中に持たなければ,たぶん,言葉だけだろう。

それでもコーチングはできる,それなりに。

しかし,それで本当に,相手の思いの大きさ,重さを受け止めきれるのか。

僕の中に,そういう思いがいつも付きまとう。

もっとうまいコーチングがあるのではない。

もっとうまいコーチがいるのではないか。

コーチを渡り歩いているよほどのモノ好きでなければ,他にコーチを知らない。とすれば,コーチ-クライアント関係とはこういうものだと,思うかもしれない。

それは,どうなんだろう。

そのカギは,僕はコーチング力ではないと思う。

結局,その人がどれだけ真剣に,

おのれの人生を生きたか,

おのれの果たすべき役割を遂行してきたか,

おのれの使命というか,何をするために自分がここに居るのかの答えを探し続けてきたのか,

おのれ自身をどれだけ見つめ続けてきたのか,

おのれをどれだけまるごと受け止めてきたのか,

等々自分との戦いをどうしてきたかにかかっている。

その時,そこに必要なのは,たぶんスキルではない。

傾聴とか,

共感とか,

質問とか,

承認とか,

認知とか,

リクエストとか,

フィードバックとか,

諸々のスキルが吹っ飛ぶくらいの存在感そのもので,向きあえるかどうかなのだ。

それは,

風圧と言ってもいい。

パワーと言ってもいい。

エネルギーと言ってもいい。

やはりそれなりに,人生を格闘してこなかったものに,相手の格闘の大きさも深さも重さも見えない,

古い人間かもしれないが,僕はそう思う。

第一コーチは,多く,兼務のコーチ以外,ビジネスの最前線,ビジネスの現場を離れている。その意味では,リタイアしている。

はっきり言って,直接この世の中を動かす修羅場にいない。

その自分の立ち位置を弁えていなくてはならない。

それでもなお,コーチングが有効であるのは,何なのか。

その自問を忘れてはならない。

コーチングありきではなく,

コーチありきではなく,

それよりなにより,

自分がどういう存在として,

何をするために,そこにいるのか,

の答えを明確に持っていなければならない。

コーチングが有効であるのは,何なのか。

その自問をしつづけることを忘れてはならない。

自己研鑽とか自己探求などは,言わでもがな,

おのれの生き方が問われていることを自覚すること(さらされていると言うべきか),

それが,現場を離れた人間の,最低限のけじめである,と僕は思う。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#コーチング
#コーチ
#コーチ-クライアント関係
#けじめ
#生き方
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2013年11月18日

基礎



先日,JCAK勉強会「コーチング基礎編・コーチング・セッションの流れ」(ファシリテーションテータ:福島規久夫・島村優子の両コーチ)に参加してきた。

あまり基礎とかきちんとした勉強が嫌いで,すぐ我流に走る性癖があり,良し悪しは別に,自分を定点観察するためには,きちんとした基礎訓練の場に参加して,歪み度を確かめることは必要のような気がした。

特にコーチングフローについては,ほとんど意識しないことが多い。じゃあ何をコーチングしているのか。クライアントが欲していることだ,というのが自分の中から出たことだ。

かつて,よく,

ブレーキとアクセルを同時に踏んでいる,

ということをよく言われた。そんな時にアクセルについて話しても意味がない。ブレーキを踏んでいるということは,まだ行きたい気持ちがあっても行かせない何かが自分の中にある。それに焦点をあてる方が優先になる。

まあともかく,今回の目的は,「おしゃべりからコーチング・セッションへ」となっている。では,そもそもコーチングとは何か。初体験の方もいたせいか,そのことについて発言することを求められるところからスタートした。

たとえば,

やりたいことを実現するのを手助けする,

あるいは,

行きたいところへ一緒に行く(伴走する)

というのが一つの答えだ。それは,行動や成果に焦点をあてることだが,そこに焦点をあてないで,,

普通の人は自己対話している。その対話は,花びらをむしっても「くる,こない」というのと似た,堂々巡りの発想になる。そこに,メタ・ポジションあるいは外の視点から,その対話に加わることで,その対話の馴れ,あるいは対話の循環にくさびを打ち込む,たとえば,要約,フィードバックによって,自己確認を促す,そうすることで,自分の対話が悪循環から好循環に転ずる,そのトリガー役として,それがしやすい環境を整える,

というと,意識内のことに焦点をあてる。例えば,

鏡,

というのもその類だ。どれが正しいということはないが,コーチの答えの中に,その人のコーチングの仕方が反映されている。そういう答え方でなくては,コーチングとはへの答えとしては教科書や一般論になる。ここで求められているのは,自分のコーチングスタイルの言語化でなくてはならない。

では,今回のテーマである「コーチング・フロー」とは何か。

福島コーチは,レジュメでこうまとめた。

1.会話を始める コーチングを始めるに当たりアイスブレークをし,これからコーチングを始めることを確認する
2扱うテーマの確認と明確化 .何を話したいか,話し終わった後にどうなりたいかを確認する
3.現状の明確化 いま現在どうなっているかを明確にする
4.ゴールセッティング 扱うテーマについて,どんな状態になっていたいかを明確にする
5.ギャップの明確化 現状と望ましい状態との間に生ずるギャップ,またそのギャップの原因を洗い出す
6.具体的な行動 ギャブを埋めるために必要な行動を決定する
7.会話をまとめる 話してみてどうだったか,何に気づいたか,セッションに関してのエバリュエーションを行う
8.フォローの決定 クライアントが取り組む宿題,次回の予定などを決める

この中で,デモを見ながら気になったのは,テーマの位置づけだ。

例えば,初回なのか,継続なのか,一回限りなのかによって,「話しているテーマ」で,「こういうことができるようになりたい」と話したとする。そのゴールが「そこで言う出来ている状態」なのか,そこへ到達するための一里塚(「そのためにここで明確にしたいこと)なのかがはっきりしないことがある,ということに気づいた。一里塚なら,ゴールはテーマの手段だが,「テーマ」がゴールそのものの場合,そのためにここで目指すものは何かを,改めて絞る必要があることもありうる。実際の場合は,もう少し行きつ戻りつがあるのだろう。

もうひとつ,4と5の間で,

それがなぜ大切なのか,を聞く必要がある,と福島さんはわれた。それを「ゴール」とすることに,その人の価値や大切にしているものがあるからだと思うが,当然,それは,「テーマ」についても言える。

ここで,それを取り上げようとするには,それなりの意味があるに違いない,

ということでいうと,場合によっては,ここで,そのひとの価値に踏み込むことができる場合があるかもしれない。そうすると,当面の「テーマ」は糸口で,大事な課題に焦点が当たることになる。

6の行動との関連で言えば,福島さんがよくすると言われた,

このままやっていて,ゴールに届くと思いますか

という問いは,いい問いかけなのだと感じた。コーチにとっての確認でもあるが,クライアント自身が,それは感じていることの対象化にもなるはずだから。

この後,7分二回,20分一回の,コーチング・セッションを繰り返したが,練習を通して気づいたことがある。

最初クライアント役がテーマを語っているところに,すべての鍵がある,

ということだ。継続しているセッションは別かもしれないが,一回限りのこういうセッションでは,

語っているテーマそのものにも,

あるいは語っている中身(の選び方,それの取り上げ方,関係の描写の仕方,視点の取り方等々)にも,

あるいは,それを語る語り方の中にも,

あるいは,クライアントの言葉遣い,言葉のえらび方の中に,

あるいはそう語るクライアントの思いや感情の中に,

コーチとして切り込む切り口がある。それを見逃したために,延々セッションをしてしまうということになっているのではないか。

そんなことを強く感じた。それは,コーチのクライアントへの向き合い方で決まる,という気がした。

内容を聞くことはもちろん必要で,その選び方,描き方と同時に,

それを語るクライアントその人に何が現れているか,

表情とか身ぶりもそうだが,語り口,言葉遣い,言葉の選択の仕方,に鍵がある,という気がした。

つくづく,自分のへたくそ加減が顕在化する場ではあった。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#コーチング
#コーチ
#コーチング・セッション
#コーチングフロー
#テーマ
#目標
#振り返り


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2013年12月19日

揺れ幅



コーチングにそれほど真剣に向き合っていないが,しかし,向き合わざるを得ないところに置かれて,これまで,あれこれ考えてきた。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11391728.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11369871.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11132452.html

結構幅があるというか,振幅がある。よく,軸があるとかないとか,ぶれるとかぶれないとか,という意味であまりいい意味で使われないが,僕は,逆に,その振れ幅を,自分の許容範囲と呼ぶ。その振れ幅分,自分がコーチングの受けいれる姿勢がある,と考えることにしている。

先日,立て続けに,二つ,コーチングを振り返る機会を得た。

ひとつは,前にも書いたことがある,「コーチング・スクウェア(コーチング・セッションの会)」で,そこで,8分のセッションをやった。

もうひとつは,「コーチングのプロが伝える!話して聴いて元気になるコーアクティブ会話術」に参加して,

https://www.facebook.com/events/1391381831105576/?ref_dashboard_filter=upcoming

人との関わりについて,ちょっと気づきがあった。

最近,相手に踏み込むことが大事だと,考えているが,自分で実感がなく,踏み込んでいるつもりだったが,結果としては,外から,声を掛けているだけでの感じが残り,しっくりしない感じがした。

そのときは気づかなかったが,相手の中に踏み込めているかどうかの目安は,自分の言葉が,

相手のいる場所で,
一緒になって,
感じ,考えている,

そんな言葉になっているかどうかだ。楽しい場面を思い描いてもらっていれば,その場所から言葉が出てこなくてはならない。まだまだ,そうなりきっていない部分があるな,という気がしていた。

で,「コーアクティブ会話術」に参加して,

「人に焦点」
「可能性のある人」
「元気の源」

を(これは,いわばコーアクティブ・コーチングのコアのマインドの確認でもあるが),順次会話しながら,話し,聴く,を試していくうちにえた,ひとつの結論は,

自分が直感を乱発しているが,
その直感は,
一種の名づけであり,
名づけられることで,
相手の中で,ものが見えてくることがある,

ということだ。名づけるとは,

相手の(こころの)世界の中でもやもやしていたものを明確にすること,

なのだと思う。ひとは,持っている言葉によって見える世界が違う,というヴィトゲンシュタインに倣うなら,そこで,

相手に(ひとつの)世界が見えた,

ということになる。その見え方を促すのが,上記の,

相手(の気持ち)に焦点,
その人を可能性ある人と見る,
(その人の)元気が出る源,

ということになる。相手に焦点を当てるということは,相手が語っていた物語(事柄)の,その当事者になってみることを促すことになる。説明するということは,それを外から語っていることだが,その物語の当事者となってみることを促し,いま,ここ,での自分自身の内面に焦点を当てることになる。

可能性のある人として見る,とは,できない部分ではなく,できている部分に焦点を当てて,地と図をひっくり返すことだが,そのとき,相手が小さく(あるいはゼロに)見積もっている自分の可能性(のかけら,わずかなきざし)を,拾い上げ,拡大して,次から次と言語化して返していくことだ。その言葉で,見える世界が変わるはずだ。

その人の元気の源,ソースを聞き出すということは,その人が,「生きていてよかったと思えた瞬間」を聞き出す,そこに,その人の価値や大事にしているものがあるはずだからで,その視点から自分を見ることを促すことになる。かつて,それを聞いた人は,「山頂でご来光をみた瞬間」といった,その気持ちを,思い出しただけで,視界が変わった。

いずれも,自分を名づけ直すのに近い。

この場合,踏み込むというのは,相手のわずかな片言隻句,かけら,兆しを,(言葉はきついが,ここにあるじゃないか,と)突きつける,というのに近い。

新しい眼鏡を持ってもらう,というと優しい言い方になるか。

仮説とは,仮の説明概念,だと思うが,自分についても,自分の仮の説明概念を,どんどん変えていいはずだ。

ただ,こちらが提案した,その言葉や仮説にこだわってしまうと,それは,逆効果になる,それが8分でのしっくりこない感を残した原因だったように思う。

ま,しばらく,このアプローチで,直感でいってみよう。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#コーアクティブ・コーチング
#コーチングアクティブ会話術
#仮説
#直感

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揺れ幅



コーチングにそれほど真剣に向き合っていないのに,しかし,向き合わざるを得ないところに置かれて,これまで,あれこれ,ずっと考えてきた。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11391728.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11369871.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11132452.html

結構幅があるというか,振幅がある。よく,軸があるとかないとか,ぶれるとかぶれないとか,という意味であまりいい意味で使われないが,僕は,逆に,その振れ幅を,自分の許容範囲と呼ぶ。その振れ幅分,自分がコーチングの受けいれる姿勢がある,と考えることにしている。

先日,立て続けに,二つ,コーチングを振り返る機会を得た。

ひとつは,前にも書いたことがある,「コーチング・スクウェア(コーチング・セッションの会)」で,そこで,8分のセッションをやった。

もうひとつは,「コーチングのプロが伝える!話して聴いて元気になるコーアクティブ会話術」に参加して,

https://www.facebook.com/events/1391381831105576/?ref_dashboard_filter=upcoming

人との関わりについて,ちょっと気づきがあった。

最近,相手に踏み込むことが大事だと,考えているが,自分で実感がなく,踏み込んでいるつもりだったが,結果としては,外から,声を掛けているだけでの感じが残り,しっくりしない感じがした。

そのときは気づかなかったが,相手の中に踏み込めているかどうかの目安は,自分の言葉が,

相手のいる場所で,
一緒になって,
感じ,考えている,

そんな言葉になっているかどうかだ。楽しい場面を思い描いてもらっていれば,その場所から言葉が出てこなくてはならない。まだまだ,そうなりきっていない部分があるな,という気がしていた。

で,「コーアクティブ会話術」に参加して,

「人に焦点」
「可能性のある人」
「元気の源」

を(これは,いわばコーアクティブ・コーチングのコアのマインドの確認でもあるが),順次会話しながら,話し,聴く,を試していくうちにえた,ひとつの結論は,

自分が直感を乱発しているが,
その直感は,
一種の名づけであり,
名づけられることで,
相手の中で,ものが見えてくることがある,

ということだ。名づけるとは,

相手の(こころの)世界の中でもやもやしていたものを明確にすること,

なのだと思う。ひとは,持っている言葉によって見える世界が違う,というヴィトゲンシュタインに倣うなら,そこで,

相手に(ひとつの)世界が見えた,

ということになる。その見え方を促すのが,上記の,

相手(の気持ち)に焦点,
その人を可能性ある人と見る,
(その人の)元気が出る源,

ということになる。相手に焦点を当てるということは,相手が語っていた物語(事柄)の,その当事者になってみることを促すことになる。説明するということは,それを外から語っていることだが,その物語の当事者となってみることを促し,いま,ここ,での自分自身の内面に焦点を当てることになる。

可能性のある人として見る,とは,できない部分ではなく,できている部分に焦点を当てて,地と図をひっくり返すことだが,そのとき,相手が小さく(あるいはゼロに)見積もっている自分の可能性(のかけら,わずかなきざし)を,拾い上げ,拡大して,次から次と言語化して返していくことだ。その言葉で,見える世界が変わるはずだ。

その人の元気の源,ソースを聞き出すということは,その人が,「生きていてよかったと思えた瞬間」を聞き出す,そこに,その人の価値や大事にしているものがあるはずだからで,その視点から自分を見ることを促すことになる。かつて,それを聞いた人は,「山頂でご来光をみた瞬間」といった,その気持ちを,思い出しただけで,視界が変わった。

いずれも,自分を名づけ直すのに近い。

この場合,踏み込むというのは,相手のわずかな片言隻句,かけら,兆しを,(言葉はきついが,ここにあるじゃないか,と)突きつける,というのに近い。

新しい眼鏡を持ってもらう,というと優しい言い方になるか。

仮説とは,仮の説明概念,だと思うが,自分についても,自分の仮の説明概念を,どんどん変えていいはずだ。

ただ,こちらが提案した,その言葉や仮説にこだわってしまうと,それは,逆効果になる,それが8分でのしっくりこない感を残した原因だったように思う。

ま,しばらく,このアプローチで,直感でいってみよう。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#コーアクティブ・コーチング
#コーチングアクティブ会話術
#仮説
#直感

posted by Toshi at 06:06| Comment(0) | コーチング | 更新情報をチェックする

2014年01月18日

主客



先日,「マインドフル・コーチング リスニング編」(ファシリテーター:福島規久夫コーチ)に参加してきた。

https://www.facebook.com/events/585652598172083/?ref=2&ref_dashboard_filter=upcoming

マインドフル(mindful)は,意味的には,

(…を)心に留めて,忘れないで
(…であることに)注意して,(…であることを)忘れないで

となる。瞑想,坐禅由来らしいので,自分の内側に注意を向ける,と言ったところになるだろうか。

いただいたレジュメには,

マインドフルネスとは,意図的に今の瞬間に,価値や判断とは無縁に注意を払うこと。

マインドフルネスとは,自分の意識を今の現実に敏感に保つこと。

マインドフルネスとは,物事をあるがままに受け容れ,現在の瞬間に,価値判断を加えずに,注意を向けることによって現れる意識=気づきのこと。

といくつかの定義が紹介されている。

キーワードは,

いまここ,

あるがまま,

受け容れる,

ということだろう。受け入れる,というのは,ロジャーズの自己一致,

自由にかつ深く自分自身であり,現実に経験していることが,自分自身の気づきとして正確に表現されていなければならない,

を思い出す。つまり,自分の中に起きていることを正直に自覚し,

正確に自分自身であり,…セラピーのこの瞬間においてありのままの自分,

であること,ということに通じる。それは同時に,クライアントについても,

クライアントを自分とは別個の一人の人間として,自分自身の感情,自分自身の経験を持つことを許されている人間として好きになるということである,

という,いわゆる無条件の肯定的配慮につながる。

そして,いまここ,については,帰り道,ふいに,邯鄲の夢を思い出した。例えば,ネットの紹介は,こんなふうだ。

趙の時代,廬生という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ,趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士に出会い,延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると,みるみる出世し嫁も貰い,時には冤罪で投獄され,名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり,運よく処罰を免れたり,冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め,国王にも就き賢臣の誉れをほしいままに至る。子や孫にも恵まれ,幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず,多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると,実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり,寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮あがってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い,故郷へ帰って行った。

まさに一炊の夢である。いろんな解釈があるが,結局いま,ここの自分を省みず,遠くに見果てぬ何かを見て,いまとここを見落としていた,という言い方もできる。

しかし,もし盧生がクライアントだったとしたら,どう盧生その人を見守るのか。自分といまに不平不満の人に,何を気づいてもらえばいいのか。夢が実現した状態からアプローチするのか,それはどんな楽しいことなのか,と。あるいは夢を実現するための手段を,そのためのリソースをリストアップするのだろうか。

しかし,呂翁は,盧生の夢が実現した状態を,とことん味あわせた。ソリューション・フォーカスト・アプローチのミラクルクエスチョンのようだ。しかし,普通,それを味わって,その夢を捨てるという選択肢はない。そのためのミラクルクエスチョンではないからだ。

しかし呂翁は,ただその一生分の夢を味わわせることによって,盧生に気づきを与えた。呂翁は,一言も,盧生の夢も,盧生その人をも,批判していない。質問すらしていない。しかし,盧生は,気づき,納得し,自分の「いま」「ここ」へ帰っていった。

ここに,究極の,コーチングを含めた,(E・H・シャインの言う,援助関係に携わる)プロセス・コンサルテーションがある気がする。

いま,ここに集中するというのは,コーチングでいえば,いま目の前にいる,一瞬一瞬のクライアントの,

ありよう,

息遣い,

振舞い,

言動,

身振り手振り,

等々に,興味と関心を持って,いわゆる「好奇心」を持って注視することだ。それをレジュメでは,

マインドフルな状態,つまり,いまこの瞬間にしっかり気づけていて,あるがままなすがままに,起きていることに価値判断を加えずに注意を向けて見守っている状態でコーチをすること,

をマインドフルなコーチングであると。ともすると,コーアクティブでも,

レベル1(矢印が自分)
レベル2(矢印が相手)
レベル3(矢印が全体)

という言い方をしている。そのとき,あるがままの,相手自身に関心を向けている,というのは,言ってみると,レベル2の状態といっていい。

たとえば,そのとき,

エネルギーが高いですね,

嬉しそうですね,

言葉と振る舞いがぎくしゃくしているように見えますね,

という言い方をするだろう。

僕は,直感を無意識で連発するが,それは,

レベル2

のそれだ。つまり,youメッセージなのだ。無論,それもありだが,今回のワーク(レーズン・ワークショップや感じるワーク)を通して,主客の矢印を少し変えてみたほうがいい,という気がした。

つまり,相手が嬉しがっているのを見て,感じた自分の,

身体の,

心の,

感情の,

反応を意識し,それを返す,ということだ。たとえば,

あなたが喜ぶのを見ていて心の中に暖かいものを感じました,

あなたの言葉をうかがっていてすごく違和感を感じました,

あなたの振る舞いに,体の中で黒くわいてくる不快感を感じました,

等々。これは,フィードバック(のIメッセージ)とは微妙に違う。相手に見た,

振舞い,

言動,

テンポ,

エネルギー,

等々を,Iメッセージやyouメッセージで返すのではない。相手を見て,自分の中で起こった,

体感覚,

感情,

心の動き,

等々を返す。それは,レベル2の相手を客体として観察するのではない,相手との関係の中で,私の中で起きたことを,レベル1で認めて,感じて,返す。

このとき,僕は,微妙なことが起きていることに気づく。

レベル1→レベル2→レベル3

を言っているときは,コーチは,クライアントと対等にならなければならないから,そう自制する。しかし,自分の中に起きていることを返しているとき,そういう関係はない。むしろ,

相手に感応し,
共振れし,
共鳴し,
反発する,
揺さぶられる,

自分を見つめて,表現している。コーチ-クライアント関係は,その

照り返し,

リフレクションによって,リ・リフレクションが起き,それに反照して…,という関わりになる。

それが,つながる,のではなく,

つながっている

という感覚なのかもしれない。



今日のアイデア;
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posted by Toshi at 04:58| Comment(5) | コーチング | 更新情報をチェックする