2014年02月14日

クライアント


クライアントになるとは,どういうことなのか。特に,コーチングにおいて,クライアントになるとはどういうことなのか。

当たり前のように,クライアントの問題や目標やテーマを聴きながら,

なぜ,この人は,自分の前でそれを語りたいのだろう,

という疑問を感じないだろうか。「僕」に力点があるのではなく,コーチというものの前に,ということだ。

一般的には,

自分のパフォーマンを上げたい,

自分の問題を解決したい,

自分の課題を克服したい,

自分を変えたい,

自分の前のハードルや壁を乗り越えたい,

成功したい,

仕合せになりたい,

夢を実現したい,

等々,まあ,自分が何とかしたいことを抱えている,あるいは自分自身を含めて,克服したい何かをもっとている,実現したい何かをもっている,ということになる。

いや,それがあるのは当たり前とは言わない。が,そんなことはどうでもいいという人は,そうはいない。まあ,ほとんど諦めるか,まあ仕方ないと思っているか,でも,コーチングというものがあって,そこでは夢を実現するサポートをしてくれる,と感じて,コーチの前に立つのだろうか。

正直,僕にはそこがわからない。皮肉ではなく,

先ず何でも一人でとことんやって来た人間,

逆にとことん自分でやったことのない人間,

どん詰まりになるまでとことん悩み続けた人間,

逆にどん詰まりになるまで悩みに悩んだことのない人間,

は人に頼ろうとしない気がしている。僕がコーチングに出会ったのが,晩年のせいもあるが,それまで,頼ろうにも頼れず,頼りたいとも思わず,自分なりに解決してきた(つもりだ)。その意味では,自分にとって一番大きな問題は,生死にかかわる問題だが,それが解決して,ここまで生きてきた。

どう自分を売り込むかをわからないまま98の時代にホームページを自分で作り,それを日々更新して(いまはそれほど熱心ではないが),それだけで顧客を得てきた。いい時は,テーマ別には,グーグルのトップページの巻頭に居座り続けていたこともある。スキルがあってそうしたのではないから,どうしてそれができたかはわかっていない。たまたまそうなっていた。いまは,各社がしのぎを削っているので,1ページ目に残れるか残れないか,瀬戸際にいる。

しかし,その方法も自分で会得した。こうすればいいと語るほどのことはないが,こういうことをコーチングで語りたいとは思わない。

僕は,その時間も惜しんで,走り出していたろう。走らなければ,歩き出さなくては,生きていけないからだ。だからわからない。生死にかかわることを,人に語る,ということが。

僕がいまコーチングでの主要テーマにしているのは,生涯伴走してきた自分の夢のことだ。しかし,それが叶わないからといって,自分がダメになるとか,自分が自分でないとかは思わない。

それは所詮夢に過ぎない。

夢を仕事にしようと思ったことはない。どうしても,金稼ぎに指向せざを得ない。僕にとっては,それは仕事なのだ。仕事と夢は違う。

仕事について,人に教えを乞うことがあるかもしれない。しかし,仕事は,学びではない。学んだところで一人前にはならない。仕事は仕事の修羅場で,おのれ自身を投企して,そこに自分を反映させ,そこに自分を形づくる。それは,どんな仕事にでもある。

それができない人間を,僕は何処かで軽蔑しているかもしれない。

事に仕える。そこで自分を投げ出し,そこに自分の引っ掻き傷を残す。違う言い方をすると,自分でなければできないことをし遂げる。それこそが,自分の仕事いうものを,ほんのひっかき傷かもしれないし,かすり傷かもしれないが,そこに遺す。そのために努力をし,命を削る。それが仕事の誇りというものではないか。

そこでは,仲間との,同僚との,部下との対話は,仕事だそのものだ。それ自体が創造的な仕事だ。そこに,コーチングの入る余地はない。なぜなら,人との対話,キャッチボール自体が,次の仕事を生む仕事だからだ。自分はこうしたい,相手はこうしたい,その会話の中から,アイデアが生まれ,企図が芽生え,企画となっていく。無駄なおしゃべりはない。

僕はそう思うし,そう信じている。

言い過ぎかもしれないが,まあこれが,二十年何年,一人で曲がりなりにも仕事をしてきた人間の,へそ曲りの仕事観だ。だから,僕は,部下とキャッチボールしないで,コーチとキャッチボールしているトップを信用しない。そのおのれの想いは,部下と,同僚と語るべきことだ。部下や同僚こそが,その思いを受け止めるべき相手だ。そういう相手を持てなかったということは,仕事を一人で抱え込んできたということだ。

ひとりで仕事を抱え込んできたものは,チームリーダーになっても,部門長になっても,トップになっても,そこだけで自己完結しようとする。当然孤独だ。トップが孤独だなどと言っている人は,トップとしての器量と技量を疑う。

そこで,疑問は残る。コーチングとは何か。

自分の中では,まだ答えがでず,出ないまま,コーチをし,コーチングを受けている。それが仕事なら,その修羅場で,自分のスタイルを形づくっていくほかはない。

答は,自分の中にある,

のではなく,

答は,自分が創っていく,

そういうものだと思っている。だから,まだ,答えを出し続けているのかもしれない。答えが見つかれば,それで終わりだからだ。

だから,問いも出し続ける。

問いがあるからこそ,未来が開く。まだ問いはある。

いまの一つの答えは,自己対話ということだ。それは考える,ということとイコールだ。それをコーチ-クライアント関係の場で外在化する。しかし,また疑問がわく…!

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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2014年03月02日

コーチング


第94回コーチング・フェローズのセッション会,

http://www.coachingfellows.jp/

に参加してきた。

ここには,思い出したように参加させていただいているが,最近は,なかなか人気で,毎回満席,今回も,空席が出てかろうじてすべり込ませていただいた。

懇親会の場で,

コーチをしているのか,

と聞かれて,

言葉を濁したのだろう。そこを突っ込まれた。しかし,

僕は,コーチングについて聞かれると,

やっていないと答える。あるいは,

あまり力を入れていない,

と。それは,

業として

やっていない,という意味だ。すると,よく,

コーチング

をしていないのか,と問い詰められる。そういわれれば,クライアントがいなくはない。すると,

やっているじゃないか,

と咎められる。しかし,「業」としてやっていないというのは,「業」として,それをする覚悟があるわけではない,という意味を込めている。だから,「業として」を省くと,「やっていない」という答え方になる。

依頼を受けると,させていただくが,でなければ,あまり積極的に自分を売り込まない。せいぜい,名刺交換か,ホームページの載せる程度。

それを業としていないということは,クライアントがいないと困る,という生業にはしていない,という意味だ。いい面と悪い面がある。

もちろん,クライアントに向き合って,全力でコーチングする。それは当たり前だ。しかし,どうも,僕は,それをなりわいにはしたくない。店を構える気が,あまりしない。そのために,上記のような,生ぬるい言い方になる。

コーチ

です,というのは,自分は,プロフェッショナルとしてコーチをしている,ということだ。そこが,煮え切らない。

プロフェッショナルというのは,もちろん,ピンもキリもあるが,日夜その技を研鑽して,究める努力をする。というか,していなくては,プロフェッショナルという名に恥ずかしい。イチローを見ていると,プロフェッショナルというのは,ああいうあり方であり,生き方だという,プロフェッショナルの鑑だと,つくづく思う。それほどの研鑽をしていない,という意味だ。

それに,自分は,気が多く,他にも究めたいものが,二つある。そのために,力の注ぎ方は,コーチングに一点集中ではない。

だから,いいという言い方もできる。

逆に言うと,僕は,コーチングにのめり込んでいない分,そのマイナスも見える。その内向きの穴にはまっている状態を,客観的に(もっと言うと批判的に)見る視点が,ある(はず)。それがいい面だろう。

考えるというのは,自己対話だ。しかし,自己対話をメタ化していても,結局その対話の循環,まあ堂々巡りを出るには,別の視角がいる。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388611661.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389704147.html

に書いた。

その視角の多角化を,コーチが果たす。その時,その堂々巡り自体を写す鏡にもなる。

とすると,それをただ機械的に写すのではないはずだ。

コーチ側の視角の多様性,あるいは,幅広さが,写し方を変える。どう写すと,相手自身が,その自分のありように気づきやすいかを考えて(あるいは感じて,が正しい),その視点から写す。

俯瞰がいいとは限らない。虫瞰の方がいいこともある。一瞬に,時系列を写すこともある。

思うのだが,結局,相手を見る見方(それ自体に価値が入らざるを得ないが)は,見る人のあり方,生き方を反映している。反映して当たり前だ。その視点の取り方自体が,生き方の結果で,他の人には思いつかないことだってある。

だから,鏡は,機械的に写すのではない。

クライアントを受け止めること自体が,すでに,コーチの生き方を反映する。それを,どういう角度で写し返すかは,またコーチの価値や生き方を反映する。

鏡そのもの,あるいは鏡への写し方自体に,すでにコーチの生き方が滲まざるを得ない。

だから,コーチングが,アドバイスやコンサルティングやティーチング等々と違うということを言い立てているうちは,僕はコーチとして,プロフェッショナルではないと思っている。

なぜなら,

鏡の立て方,

何に鏡を立て,何を写そうとするか自体に,コーチのアドバイスやコンサルティングやティーチングが入り込んでいる。というか,入り込まざるを得ない。だから,セラピーでは,

コンプリメント



承認

も,クライアントへの

介入

という言い方をする。介入は目的がある。セラピーの方が正直だ。当然認知も,介入だ。そこを際立たせる,というのは,そこを突出して写し出したいという,コーチの意図がある。

それを際立たせる目,視点にこそ,コーチの生き方が反映している。そのとき,自分が生きている状況,時代にどれだけ鋭い目をもっているかが問われていると思う。

文脈抜きのコーチングごっこはしてはならない。

かつて,南宋が元に滅ぼされようとしているまさにその瞬間,儒者が,その幼い皇帝に,皇帝としてどうあるべきかを教えていた,という(うろ覚えだが),そういうマンガチックなコーチ-クライアント関係だけは,避けたいと,本気で思う。

人の能力は,

能力とは,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),

である,と思っている。その差は,発想にある。発想は,

知識と経験の函数

である。まさに生き方そのものの反映である。

となると,一本足であることを,僕はよしとしていないということになる。

だから,煮え切らないのは,コーチだけの生き方ではだめだという自分の返答を,直截に言わない方便なのかもしれない。


今日のアイデア;
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2014年03月10日

統合


神奈川チャプター主催 ・近藤真樹コーチのファウンデーション講座「統合性を取り戻す」に参加してきた。

http://kokucheese.com/event/index/146923/

パーソナル・ファウンデーションとは,

自分自身の基盤を整えることであり,自分自身の人生の質を画期的に高めるためのシステマティックなアプローチ,

であり,自分自身の人生の質の向上のため,

基盤が強固なほど,自分の人生を思い通りに描くことができ,行動できる,

ということで,いわば,コーチ自身の自分の生き方を棚卸ししていくアプローチということになる。当然コーチの自己への視点が,クライアントへの視点に反照する。

それ自体は,別にいいのだが,僕の中では,ずっとちょっとした違和感がある。

今回の参加目的を,二人一組で話すというワークから,スタートしたが,そのとき,例によって,ファウンデーションというとき,ファウンデーションそのものにはあまり関心がなく,強いて言うと,物理的なそれではなく,心理的というか,心境としてのファウンデーションに関心がある,ということを言った。

これについては,前にも何度も書いたが,自分の基盤を整えていても,それは,ある時,突然崩れる,大事なのは,どんな一瞬でも,自分でいられる,という心的な状態が保てること,それを平常心というか,自然体というかは知らない。ただ,僕は,それを事前には準備できない,と思っている。

いや,その自分を支えるもの(がファウンデーション)ではないか,

という茶々が入りそうだが,例えば,パーソナル・ファウンデーション10の柱がある,

①妥協するのをやめる,
②自分自身を完了させる
③統合性を取り戻す
④自分のニーズを満足させる
⑤境界を広げる
⑥基準を引き上げる
⑦蓄える
⑧家族の基盤を強くする
⑨コミュニティを深める
⑩価値に向き合わせる

がクリアされても,されていなくても,極端に言うと,ボロボロな心理状態でも,クライアントに向き合った瞬間,自分を捨てて,クライアントに向き合える,そういう覚悟の方が,大事だと思っている。

僕は母が緩和ケアに入り,余命いくばくというときにも,死後葬儀までのあいだにも,クライアントには何も知らせず,コーチングをしたが,出来不出来は別に,コーチである瞬間に,自分を脇におけたと思う,その感覚が大事なのだという実感がある。それは,しかし特別なことではなく,サラリーマン時代,20代で父を失ったときも,できたかどうかは覚束ないが,仕事モードと私モードの切り替えを意識していた。そういうものなのではないか,と思う。

どんなに自己基盤を整えても,その基盤は崩れる,崩れても,今日はちょっと,という言い訳はできない。僕にはできない。だから,逆に,僕には,ファウンデーションを整えるのは,コーチ自身の(裏付けというか確信というかの)ためでしかなく,もちろんそれがクライアントを見る目を変える,ということは承知の上で,その自分をクライアントに投影するというのは,かえって余分な仮説をコーチが持つことにしかならないのではないかという懸念がある。

へそ曲がりの言い方かもしれないが,極端な話,お金がなくてあくせくしようが,未完了に押しつぶされそうになっていようが,妥協しまくっていようが,コーチングの一瞬に,そういう自分を脇に置いて,モードをさっと切り替え,クライアントに向き合える姿勢が必要なのではないか。それが,コーチという役割を背負った人間の覚悟だ,と言いたいのだ。それは,コーチングの巧拙とは別の,どんな仕事をするときにも共通の,基本的な仕事の姿勢なのではないか,と思う。それはファウンデーションとはどうもつながらない,というのが僕の感じなのだ。

コーチ自身の生活が修羅場の真っ最中であろうが,病気でヘロヘロであろうが,自分のことをさておき,クライアントに向き合うという覚悟というのか,それはスキルでも生き方でもなく,コーチとしての姿勢そのものなのではないかと思う。

それを不誠実という言い方もあるかもしれない,自分にできていないことを求めるのかという言い方もある。そうではないのではないか。何をするかを決め,それをするもしないもクライアント自身なのであって,そういうクライアントの自己対話を促すのに,コーチがどうあろうと,あまり関係はない。揺るがぬ鏡のポジションを保てるかどうかだ。それを職業マインドといってもいい。ただ,だからこそ,ロジャーズの「自己一致」は不可欠になる。自分のその状態に自覚的であることには…。

しかし,今回のテーマ「統合性」は,コーチ自身の生き方を考えるという意味では,自分のあり方を考えるいい,素材になったと感じている。いままでは,一番しっくりきたテーマだ。

統合性,

いわば,バランスである。

自分が充足している(うまくいっている)ときの自分の構成要素(のバランス),

のチェックである。当然,それを見るメタ・ポジションがいる。それがなければ,バランス云々は,注視されない。いや,考えてみたら,ファウンデーション云々を言うのは,自分の現状に問題意識があり,それを何とかしたいと思うからこそだから,その人には,メタ・ポジションがある,という言い方もできる。

要素の挙げ方自体に,その人の関心の向け方があるのではないか。例えば,

才能,知識,意欲,スキル,

知力,体力,感性,

といったところに向けるか,

環境,仕事,人間関係,家庭,経済,健康,

と分けるか,

対自己関係,対人関係,対家庭関係,対経済関係,

と分けるかは,どちらでもいい。僕は,

仕事,ワーク,家庭,生活パターン,人間関係,読書,

と並べて,結局,欠けている部分,健康に関心が向いた。

まあ,退院後一年経って,やっと,原状回復から,体力アップに関心が向き始めたことに気づいた。そして,それは,すでに,いま自分は着手し始めている,ということにも気づく。

僕はあまりバランス感覚のない人間で,偏頗なところがあるが,おのずと,生きるために,何が必要かは,自分は知っている,ということにも気づく。

最後に,統合性を取り戻すためのワークで,

来年の青梅にリベンジ,

と言ったのは,ちょっと言い過ぎかもしれない。ただ,ちょっぴり期待を込めている。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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2014年03月11日

フラッシュバック


まいったね,これが,

フラッシュバック,

というやつなのかね。

先日,ある研修の場で,嫌な人に会った。いやな体験がフラッシュバックした。幸い,ワークを一緒にしなかったが,のっけの自己紹介のところで,遭遇した。

たぶん,相手は,自分の振る舞いにも,自信があり,こっちへ貼りつけたラベルにも自信があるのだろう。明らかな上から目線を感じて,

お元気ですか,

と言われたとき,一瞬で,フラッシュバックした,たぶん。そのとき自分の追い詰められたシチュエーションが一瞬で蘇った。

部屋の中が熱くて,汗をかいていたが,そのことも,相手の前に出たとき,(その人の前で冷や汗をかいているというように感じて)心理的な負い目として影響したかもしれない。

それは,多く僻目かもしれない。しかし,僕は,そのときの感触,不快感を忘れていないらしい。もう二年以上前の話だ。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163096.html

それについては,もう思い出したくもないし,自分なりに決着がついたつもりだと思っていたが,未完了であった。しかし,この未完了は完了したいとは思わない。と言うか,もう,この不快感は,そのまま,自戒として,持ち続けていたい。そういうコーチングを,おのれはしていないか,と。

いやいや,ここで言いたいのは,そういうことではない。

自分と相手との関係は,そのまま引きずる,と言うことだ。もちろん現実的とは限らず,単なる心理的な関係かもしれないし,こっちの思い込みかもしれない。

例えば,コーチは,いつまでも,相手をクライアントとして見続ける。昔のコーチに会うと,相手は,意識してかしないかはともかく,クライアントとしての僕を見ているところがある。

因みに,僕は,クライアントと会っても(コーチング契約中でも,コーチング契約が終わった後も),そうは見ない。というか,そうは見られない。なぜなら,コーチ-クライアント関係は,コーチングという場での,お互いが電車ごっこの紐に入っている状態に過ぎない。ヴィトゲンシュタインの言語ゲームになぞらえれば,コーチングゲームをしている関係なのだ。ゲームが終われば,鬼ごっこの鬼が解消されるように。コーチ-クライアント関係という紐を,コーチングの場と,二人が見立てていて初めて成り立つ,仮象の関係に過ぎない。それを離れれば(紐を外せば),その関係は消えて,ただの知人関係になる。ただの知り合いになる。それができないということは,四六時中コーチでいる人か,役割としてのコーチという,役割の持つ意味を意識的に自覚できていない人だ,と思っている。

かつてのコーチングで痛めつけられた僕は,その人の前では,痛めつけられた自分の状態に戻る。そういう自分が,いないと言いたいのではない。多様な自分の中のある局面だけがクローズアップされ,それに向き合うコーチと,それを逃げるクライアントと(見られていると)いう図式に,舞い戻らされる,という意味だ。

僕が相手をそう見てしまうから,相手との間に,そういう関係を現実化してしまうのか,相手の眼にそれを感じるから,そういう自分になってしまうのかはわからない。あるいは,僕が,その人を正当に見られていないのかもしれないが,それは,その人が,正当に僕を直視しなかった,照り返しでもある。しかし,かように,コーチングのつけは,クライアントを苦しめる。

僕は,その日,ずっと心の底に苦い味を引きずっていた。

その苦味は,再会して,その関係性を意識した瞬間,

何かから逃げている,
過去に蓋をした,

と,言われて,追い詰められた,やましい自分を味あわされつづける。それは,酷い劣等感だったり,こっぴどい敗北感だったり,自己嫌悪だったり,どん底に落ち込んだ悲哀だったりする。

嫌なことに,その感覚は,翌日も,翌々日も,続いた。だからここに書いている。

それこそ,「蓋をしていた」ことがあふれてきた。

不快感が嫌だから,もう一度さらけ出す。

そのとき,ジョギングの話をしていたはずだ。まだ病気が発覚していない時だから,フルマラソンへのチャレンジを話していた,と思う。どこが楽しいのか,と聞かれた記憶がある。楽しい?と聞かれると,ちょっと違う。苦しいのだ,走っている最中は,しかし,その苦しさを耐えて,我慢して,ゴールを目指している感覚が,少ない体験ながら,僕には貴重な感覚だ,というようなことだったはずだ。

そのとき,横柄な話し方をした記憶はないし,ぞんざいな話し方をした記憶はないが,覚えているのは,

横柄だったのが,だんだんしょげていった,

というフィードバックがあったことだ。ふんぞり返っていたと取られたのかもしれないが,横柄だった覚えがなく,追い打ちをかけるように,

何かに蓋をしている,

そして,それを隠すために,何かに夢中になっていると,いう人の例をコーチが話した。いま考えると,ジョギングに夢中になることで,何かから逃げている,ということを言いたかったのかもしれない。しかし,そう言われたときに,何にも「蓋」のイメージがわかず,蓋をしていることにも思い当らず,呆然とした記憶がある。そこから,だんだん気力が萎えていった。何を言っても,逆さに受け取られていく気がして,気が滅入っていった。

書いているうちに,厄介だと思うのは,

蓋をしている,

と言われて,強いて過去を探していけば,なくはない。しかし思い浮かぶのは,たとえば,

子どもの頃,親戚でレコードを踏んづけたのに,知らんふりをした,

といった他愛のないことだ。なのに,そう言われると,それは,もっと大事なことから目をそらすために言っているのではないかと,蓋している中身を探さなくてはならなくなる。いま,懸命になっていること,夢中になっていることが,その代償行為と言われたのでは,立つ瀬がない。

そういうふうに陥っていく自分が嫌だ。

だから,潜在的に,そのとき問い詰められた,

何を隠すための蓋か,

という問いから,ずっと逃げられていないらしいのだ。

僕自身は,基本的に,過去に因果を求める考えには,反対と言うか,全く意味がない,と思っている。いま,ここで,生きている自分がどうなのか,だけだ。その自分のありよう,生き方が,過去をどうとでも見させる。

これが僕の持論だし,実感たが,

え,まてよ,この考え方自体が,過去に蓋をしている,ってこと?

まだ引きずっている…!



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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2014年03月13日

コーチ-クライアント関係


かつて,コーチのファウンデーションについて,いくつか書いた。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163156.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163157.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163158.html

しかしクライアントから見たとき,ではコーチのありようはどう見えるのか。

確かに,僕にとって,コーチが有名人であるか,高名であるか,金持ちであるか,信頼できる人物か,高潔な人か,人品骨柄のすぐれた人か,は知ったことではない。僕にとってコーチとして,僕のサポートにふさわしいかどうかが大事だ。そう思っている,これはいまも基本は変わらない。

だから,リアル世界で何をしていようと,どんなあり方であろうと,僕とのコーチングの舞台の上で,僕が信頼できるコーチとしての振る舞いをしてくれるかどうかが大事だと思う。

その意味で,逆の言い方だが,コーチングの場のみが大事で,リアルのコーチを知らない方がいい(かもしれない)。

ただクライアントの鏡として,正確に反映してくれる。その場にコーチとして存在するのではなく,自己対話の一人としてそこにいて,クライアントの対話に加わり,さりげなく自己対話を崩す問いかけをする。いつもの自己対話が,そうやって,微妙に変わって,自分を崩し,自分を変えていく。

そうであるなら,そういう環境をつくってくれるコーチが大事で,リアル世界に存在する,コーチ何某を,なまじ知らぬ方がいい。

そうは思うのだが,ハロー効果の逆を何というか知らないが,信頼度が下がることが,リアル世界での関わりがあると,結果として,コーチへのマイナスのハロー効果が増す。

それは直接コーチングとは関係ない。例えば,例は悪いが,仲間内に悪い評判が立ったとすれば,そのことで,コーチングをしている土俵上での,コーチの振る舞い,言動に不審を懐くだろう。いや,そうではない。ちょっとした違和感があると,すべては世評のせいにして,不審が勝手に膨らむだろう。一旦懐いた不安や懸念は,日に日に拡大し,ひび割れを大きくしていく。

クライアントにとって割れた鏡では,もはや正当に自分を映し出してくれる鏡にはならない。というより,写ったものが正確ではないと感じてしまうだろう。事実がどうかとは関係なく,クライアントの心理として。

そうして幾つかが重なっていくと,その懸念は,もはや不審から,不信に近づく。

しかし,それはコーチのせいではない。クライアントが勝手に懐いた不信だ。確かに,何か疑問や不安や等があれば,正直にフィードバックしてほしいと,どのコーチもいう。一般的にも,それがいいという。クライアントの正直さ,オープンマインドとして。

クライアント一人の問題ではなく,コーチ-クライアント関係での,二人の問題として,俎上に上げて,両者できちんと向き合う必要がある,というのも一理ある。そうするのがベストなのだとは,思う。

しかし,第一に,しかしこのあたりの心理的機微は,言葉になるか,という疑問がある。言葉にできないわけではないが,言葉にした瞬間,何かが零れ落ち,別のことを話していることになりそうだ。


第二は,両者で話すこと自体が,本当にそうか,という疑問がある。一般論で言うが,サービス業で,そのサービスに懸念を懐いた時,いちいちフィードバックするだろうか。黙って,立ち去るのではないか。フィードバックするということは,コーチへのモニター役を果たすことになる。それをする気持ちもないほどの心理状態というのはありうる。セラピーでは,次回の約束をすっぽかし,そのまま来なくなるケースは一杯ある。コーチングでもあるかもしれない。

例のセラピーの効果を調べたデータでは,

クライアントの要因40%
セラピスト・クライアント関係 30%
セラピーへの期待とかプラシーボ効果15%
セラピー技法 15%

といわれる。コーチングでも同じことで,クライアントの要因が大きいなら,クライアントの心的変化によって,少なくとも,関係性と期待が消えて行く。その二つが消えれば,コーチング技術への信頼も消えるだろう。

コーチ-クライアント関係は,共に成長していく。クライアントの成長に合わせて,コーチも成長していく。

しかしそれには,両者の絆というか,両者が共に同じ土俵に乗っているからこそ,お互いが切磋琢磨していくことができる。が,それが実感できない,あるいは微妙な違和感を,感じ出したとすると,その共に歩いている実感がなくなる。同じの土俵の上で,一杯コーチングの恩恵は受けた,しかしいったん失われた信頼感,一体感は,もう取り戻せない。それはクライアント側の思い違いかもしれない。しかし,それでも,崩れたものは戻らない。

そうなると,単なるサービスの契約関係になっていく。ペイはペイとして払っている。恩義はペイされている。ならば,それ以上のフィードバックは,クライアントからの返礼になる。それをしなくてはいけないのか,となる。

それは心理的なものに過ぎない。確かに,そうだが,信頼そのものが,もともと心理的なものではないのか。

コーチ-クライアント関係を解消するとき,コーチ側から言われることもある。しかし,もしその申し出がもしクライアントにとって理不尽だとすれば,それまでの信頼関係は,雲散霧消する。その申し出自体が,コーチ-クライアント関係そのものを崩すということもある。

ではクライアント側からはどうか。当初の目標が達成された,目指しているものが実現できたという円満卒業を別とすると,

ちょっとマンネリだな
コーチングそのものに不満
どうもコーチとの相性が合わない
行動変化が起きない
惰性化している
新しいコーチとの新たなコーチングをしてみたい

多くは,コーチとの関係性そのものへの葛藤からくる。

つくづく思うのは,信頼を築くには,時間がかかるが,崩れるには,ほんの小さな綻びひとつで,十分だということだ。それは,必ずしも,コーチのミスでも,コーチングの瑕疵でもないことがある。コーチ-クライアント関係そのものの土俵の崩れなのかもしれない。小さな綻びは,その気づいた時に繕わなくては,手遅れになる,そう実感した。

しかし取り繕ってまで維持する関係とは何か。つくづく,コーチ-クライアント関係というのは特殊だと思う。というより,僕のコーチ-クライアント関係の捉え方が,少し心情的すぎるのか。もう少し世の中の人は,ビジネスライクなのかもしれない。たぶん,ここにコーチング論の差が出る。期待するコーチ像の違いを反映している。


参考文献;
バリー・L・ダンカン&マーク・A・ハブル&スコット・D・ミラー『「治療不能」事例の心理療法』(金剛出版)



今日のアイデア;
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2014年03月29日

コーチング


コーチング・フェローズに参加してきた。

http://www.coachingfellows.jp/index.html

今回は,4人一組で,オブザーバー2人という贅沢なフィードバックになった。4回,セッション(今回は12分)を味わうのは,といっても一回は,自分がコーチ役だが,いろんな意味で気づきが多い。

今回,いまさらながらだが,へぼコーチなりに気づいたことがある。

それは,劈頭,クライアントが話したいテーマ,行き着きたいゴールというか手に入れたいものを確かめても,そこに拘泥しない,あるいは拘泥しなくてもいい,ということだ。

そういう言い方は変かもしれないが,とりあえず,テーマを言ってみた,という場合もあるし,いまちょっと気になっているから言ってみたという場合もある。あるいは,真剣に目指している何かがあり,それを口にしたのかもしれない。確かに真剣に解決したいトラブルを抱えているのかもしれない。

しかし,それは,いま,意識に上っていることであって,それが本当に,クライアント自身にとって重要な,

何を置いても何とかしなければならないことかどうか,

は,よくよく聞いてみないと何とも言えない。

別にないがしろにしていいというのではなく,

本当に大切にしている何か,

がやり取りの中で必ず出てくる。それを聞き逃さない,見逃さないことで,それを突破口に,口にしていたこと自体が,改めて新たなスポットライトを浴び直すことになる,気がする。

大事なのは,その,

スポットライト,

のほうなのではないか。

たとえば,といっていい例ではないかもしれないが,他に思い浮かばないので,

遅刻が目立つ職場だとしよう,それを何とかしたい,と。

で,どうすれば遅刻しなくなるか,

とか,

遅刻がどんな意味があるか,

とか,「問題」の周辺にいるのはつまらない。というか,煮詰まる。で,

では,どうなったらいいのか,

とか,

ほんとうはどうあったらいいのか,

とか,

どういう職場が理想か,

とかと,聞いてみる。すんなり出るかどうか知らないが,例えば,

朝,目覚めたら,早く出社したくてしたくてたまらない,

早くみんなの顔が見たくて仕方がない,

はやく職場に行きたいと,目がらんらんと輝いている,

といったことが出たとする。そこに,

どうなったら解決したことになるのか,

というその人の思いが出ている。夢がある。あるいは大切にしている価値がある。その前では,

遅刻云々は,ちっぽけて見えてくる。もちろん現実には,遅刻がなくなったわけではない。しかし,その状態になったら,

職場は,どんな風になっているか,

とか,

そうなったら,どんなことができるか,

とか,

そうなったら,どんな関係になっているか,

と,その状態を深めてもいいし,

そうなった時に,どんなものが見えるか,

そうなったら,いまと,何が違うか,

と,いまとの違いを深めてもいい,

あるいは,その状態を実現するために,

いま,できることは何か,

あるいは,

明日,できることは何か,

と,ファーストステップを訊くのもいいはし(あまり僕は,いいとは思はないが),

理想を10として,いまは,どのくらいか,

とスケーリング・クェスチョンをしてもいいし(この場合,多くは,できていることに焦点を当てるが),

そのいい状態が,いままで,ほんの一瞬でも実現していたことはなかったか,

と,ソリューション・フォーカスト・アプローチで言う,例外の質問をしてもいい。

最初のテーマの,狭い領域で,

何を,

どうする,

どうやって,

いつまでに,

という選択肢もなくはないが,そこで得られれることは,何もわざわざコーチングしなくても,ふだんさんざん考えていることなのではないか。

どうせなら,そういう問題対応に悪戦苦闘している自分が置き忘れているものに,あるいは考えても無駄と思っていることに焦点を当てた方が,結果として,スポットライトを手に入れることになるのではないか。

そうしてみてみると,12分は,結構長い,と感じた。

改めて思うのは,結局何も「戦略」も「構想」も持たず,

ただ,

Dance in the moment

その一瞬のクライアントの反応に対応しながら,

何が一番大事にしているのか,

にのみ焦点を当て続け,表情,エネルギーを見る。その意味で,必要なのは,

感度のいい鏡

でありつづけることの大切さなのかもしれない。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年04月16日

空洞


コーチングを受けていて,こんな問いを受けた。

自分を認めるために,

あるいは,

自分を受け入れるために,何があればいいのか,

と。背景には,自分をマイナスイメージで,表現することが多く,たとえば,

かっこ悪い,

とか,

無知,

とか,

劣等感とかを口にしたことがきっけである。ただ誤解を受けないように付け加えておくが,そういうマイナス部分が,

自分の味であり,

そのマイナス部分も含めて,自分に与えられたものとして,それを生かして生き切る,それが,

天命,

だと考えるという考え方をし始めたということを申し上げた。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/394682754.html?1397504976

で書いた。

そんなことで,冒頭の問いを,受けた。で,

確信,

あるいは,

信念,

と答えた。そして,

ふるまいとして,足りないもの,

やりきれていないこと,

が,自分にある,と。

では,それを身体のどこで感じるか,

と問われた。間があったと思うが,

頭,

と答えた。そして,イメージが浮かんだ。

頭の図の半分が,丁度脳に当たる部分が空洞,

なのである。感覚では,頭の半分である。それが,

足りないということの具体的なイメージである。

それは,どういう感覚か,

と,問われて,

寂しいと答えた。では,

その空洞は何色か,

と問われた。浮かんだのは,鉛筆をもっていたせいもあるが,

鉛筆で薄く塗りつぶした感じ,

なのである。では,

その空洞は,何と言っているか,

待っている,

と。しかし,

何らかのアクションをしたら,(その空洞は)どうなるのか,

何かをしたとしても,埋まりきることはない。そして,これを書いていて,ふと思ったのだが,何かを為遂げたとしても,

薄い雲母一枚が加わる,

程度なのだ。だから,一向に空洞は埋まらない。

しかし,その空洞は,

いつまでも持っている,

という感覚なのである。コーチ曰く,

(それは)チャレンジを促しているのでは,

と直感を返された。確かに,それが,励みになっているところがあるのかもしれない。

ただ,僕の中では,

いつまでたっても,やり尽くされることはない,

そういう感覚なのである。ひょっとすると,その空洞が(あるからこそ),それが,僕の,

やる気スイッチ,

なのかもしれない。どこまでも,まだまだ,

し残したこと,

やり残したこと,

が山積みなのである。では,と,コーチが提案した。

その,待っているものは,何か,

それを考えてくるのが宿題である。ただ,僕の中には,すでに,

何があったら,埋まるのか,

の答えは,ひとつ浮かんでいた。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年04月26日

フルフィル


月一回の,コーチング・フェローズに参加してきた。

http://www.coachingfellows.jp/

改めて,こういうのもなんだが,CTIのコーアクティブ・コーチングモデルには,

フルフィルメント

というのがある。

フルフィル(fullfill),一杯に心を満たすこと,

生きている実感,

を味わう,といっていい。

ときに,したい,やりたい,

といいつつ,

でもね,

と止めている自分と葛藤しているとき(たまたま,それが三人ひと組でセッションするとき,2つ続いたが),

葛藤自体を取り上げる(一例では,それぞれ人に見立てるというのをやられたが)のもあるし,

とめているものを見るのもあるが,

やりたい,

と言葉で言っている状態を,気持ちや感情で表現してみることで,

その意味や自分にとっての価値が見えてくることがある。

例えば,目標を聞き,その意味や価値を聞き,

では,どうするか,

と方法に走るのも一つだし,

目標を具体的に掘り下げて,

それは具体的に何を手に入れることなのか,

と聞くのもある。あるいは,

それは,どれほど大事なのか,

それについて,どれくらい考えてきたのか,

とその目標を手に入れることの意味や重要度を聞くのもいい。

ただ,今回,そういうのを一切やめて,

やりたいこと,

実現したい,

と,つぶやいている状態そのものを,具体化し,

そこで何が起きているのか,

そのとき自分の中に,何が起きるのか,

そこで何ができるのか,

そこでなにをやるのか,

と,その状態を味わい尽くす,というか,それが,もう実現してしまっている状態として,そこでの日々を,

感じ,

見,

体験する,

ということをした。そうすることで,その実現したいことが,どれほど重要なのかを身をもって感じとる,ということもある。まあ,

フルフィルな感じを,

フルフィルな場そのものに(いるつもりで),

フルフィルそのものになる,

というのを一緒に無味わい尽くす。

ちょうど,ソリューション・フォーカスト・アプローチで,ミラクル・クエスチョンをし,その,

問題がすべて解決してしまった朝から始まる一日を,まるでビデオに撮るように,詳細に,微に入り,細を穿つように,語り尽くしてもらう,というのに似ている(そこまで詳細にはしなかったし,する必要もなかったが)。

それを,クライアントの見ている,そのとき,その場所に,一緒に立って,それを一緒に味わうように,その面白さ,楽しさ,充実感を堪能する,それがクライアントに反照し,またそれがコーチに反照して,照らし照らし合う。

そのとき,

がそこに実現する(かのような)ひととき。

大事だと,分かっていること,

と,

心の底から,大事だと感じていること,

は,微妙だが違う。それが分かってしまったら,どうやって,とか,どうすれば,とかの答えは,多く自分の中に生まれてくる,そんな気がする,

そんなことを再確認した,セッションであった。

そう昔,

生きててよかったと感じた一瞬はなかったか,

と,例の質問を(習って)始めて使った相手が,

山頂に登ってみた朝日,

と言い,その後,また山登りを初めてと聞いたのを,思い出した。




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2014年05月20日

基準


JCAK(神奈川チャプター)「近藤真樹コーチのファウンデーション講座」

http://kokucheese.com/event/index/159578/

に参加してきた。

パーソナル・ファウンデーションの柱のうち,今回のテーマは,「基準を引き上げる」。問題は,基準とは何か,だが,ここでは自分のファウンデーションを問題にしているので,当然,

世の中の,
とか,
あるべき,
とか,
周りからの期待
とか,

は関係なく,自分自身の中の基準ということになる。いただいたテキストでは,

基準とは,自分の自尊心を保つために必要な行動や態度,

とある。そして,

内側に向かってあなたが敬うあなたの基準を決めます(外側は境界線)
自分で選択するものであり,何かを解決するために設定するものではない

とある。しかし,基準は,

standards

の訳らしい。スタンダードというのは,

標準

だが,僕流に言い換えると,

(自分にとっての)当たり前

ということになる。ただ,この場合,

いまの当たり前,

これからの得たい当たり前,

の二つがある。ということは,まずは,自分が何を大切にしているか,違う言い方をすると,

自分の倫理,

言い換えると,

ひととしてどうあるべきか(ありたいと思っているか)

つまり,自分の人としての生き方,振る舞い,言動,仕事の仕方,素養等々について,

いま何を大切と思っているか(大切にして生きているか)

を,チェックしてみる必要がある。そこの狙いだと思うが,

魅力的な人・尊敬する人

を10人挙げるというワークがあり,それを,一緒に組んだ人の前で説明し,相手からフィードバックをもらうという作業をした。

さこで挙げた人の共通点は,フィードバックにもあったし,自分でもそう感じたのは,

(周囲に左右されず)一貫して何かをし続ける人,
一貫して,何かを追いかけている人,

というのがある。持続性といってもいいし,諦めない粘り強さと言ってもいい。そして,そこに,

強いエネルギー,

を感じる,とフィードバックを受けた。僕は,そういうあり方を,身上というか,心組みというか,大袈裟な言い方になるが,美学のょうなものを感じる。

たぶん,世の中や周囲の毀誉褒貶に振り回されながら,しかし,断固として,自分の思いを貫徹し続ける,ということに,価値を置いているらしい,ということなのだ。それを自分にはできてはいないが,

終始一貫して何かを貫くこと,

を,僕は基準に,つまり,

それが出来て当たり前,

と考えているということである。では,いまの自分は,どういう当たり前の状態にあるのか,そのために,次にしたワークは,三人一組で,二人が,一人に,さまざまに呼びかけ方をしながら,

(あなたは)どういう人なのか,

に応えていくことをした。たとえば,

名字を呼ぶ,
フルネームで呼ぶ,
愛称で呼ぶ,

等々をしつつ,答えたことについても,

~てどういう人ですか,
~てどういうことですか,
~と呼ばれるとどうですか,

等々と掘り下げたり広げたりして,終始,自分がどういう人であるかを答え続ける。

後から,その自分の答えたことについて,フィードバックをもらうと同時に,自分ではどういう人なのか,を

私は,~人です,

に当てはめて書き出していった。

通常だと考えられない,というかあまり言われたことのない,

優しい,
情が深い,
中から滲み出てくるものがある,
オープン,
話をしに店に行きたくなるようなバーや喫茶店のマスター,
子どものときの思いを持ちつづけている,
存在感がある,

等々と,ちょっとこそばゆくなるようなフィードバックをいただいた。

そこで,それを受けて,基準を,

いま当たり前,

から,

これからの当たり前,

へと挙げていく,ということを自分の中でする作業することになる。これを,

自分との約束,

という言い方を(近藤さんは)されたが,これからの自分の生き方というか,振る舞いを,

そのレベルが当たり前になるようにする,

ということを言語化する,ということだ。

僕は,いつも考えているのは,

いつの間にかその場に坐っているが,いなくなると,そこにいたことが,その場の人に伝わる,感じられる,

そんな静かなあり方がいいと思っている。よく,知人に,

顔はバリケード,心はデリケート

と言われるが,もう少しスマートにしたい。顔かたちは変えようがないが,もう少し,

ダンディ

でありたい。スマートと言ってもいいが,

心(精神)のダンディズム

というものをちたい。ダンディズムは,由来はともかく,

お洒落の真髄を見いだそうとする趣味に端を発している,

と聞く。なんだろう,

洗練された心映え,

というものを保ちつづけたい。心映えについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html

で触れたが,心ばえも,

心延えと書くと,

その人の心が外へ広がり,延びていく状態をさし,

心映え

と書くと,「映」が,映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態になる。心情的には,

おのずから照りだす,

心映え

がいい。

それには,まだまだ修養が足りない。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2014年09月22日

自然体


久しぶりに,コーチングのセッション会,コーチング・フェローズに出かけた。土曜日の昼間というのが,出やすかった。といって,出かけるまでは,結構億劫であった。友人の死以降,どうも学びとか研鑽とかに目が向かず,鬱々とした,脳死状態にいた気がする。したがって,コーチングをするのも受けるのも忌避する気分であった。たぶん,コーチングというのは,健康な人でないと,耐えられないものがあるのだと思う。その意味では,ちょっと腰を引き気味で出かけた。

案に相違して,まあ,コーチングをするのもされるのも,自然体でできた気がする。

自然体というのは,自分の等身大を崩さないで済んだ,という意味だ。もう少し言うと,自分がいつも関心を向けるものに関心を向けているのと同じように,相手の見ているテーマを一緒に見られたということだ。ちょうど,一緒になって,相手の描くテーマのスクリーンを見ている,という感じだろうか。

多分,そういう状態のときは,同じ土俵の上で,一緒になって,すったもんだしている。だから,応答も,質問も,相槌も,リズミカルだし,自然な会話になっている。あえて言うと,事々しい問いでもなく,たとえば,相手の言った,

一緒に揉んで作り出す,

といった表現があったとすると,

ブレインストーミングのような,

と返す。そうすると,その言葉との差異が相手に明確になってくるので,そうではないと,なにがしかの説明がある,で,また,たとえば,

クリエイティブっというような,

と返す。すると,それが,相手の中に,また別のイメージがわいて,それとの差異を明らかにする。

ちょうど,説明があると,それに名づけ,その名づけが,異なるイメージを浮かばせ,でまた説明がある,という感じである。そこで気づいたのは,そこでする名づけは,

要約

というか,話を端的にまとめて,ちょうどKJ法で,カードをグルーピングして,グループ名を付けるようにして,返していることになる。

思うに,言葉は,独特の世界を開く。ヴィトゲンシュタインではないが,

その人の持っている言葉によって,見える世界が違う,

のだとすると,言葉がワンフレーズでも,その言葉を与えられることで,

そうそう,と肯定する場合も,

いやいや,と否定する場合も,

そこに,なにがしかの視界を開く。違っていれば,差異として,自分の言いたいことが逆に明らかになる。当たっていれば,その一言で,見たい視界が開ける。

その意味で,返す言葉は,結構重要だが,相手のしゃべっているタイミングに,即応するように,瞬時に返せないと,そういう変化は,相手に起きないのかもしれない。

あるいは,相手自身の思考の間というか,考えるリズムに合っている,ということが大事なのかもしれない。

相手が語っていることに,ただ,例えば,それって創造ですね,と返されると,相手の中で,その名づけられた言葉,つまり要約した名づけと,いま自分が話したこと(あるいは,これから話そうとしていたこと)との間で,撹拌というか,化学変化というか,いわばすりあわせが起きる。というか,まるで,こちらの名づけが,

相手の自己対話の一員のように加わる,

ことが出来る,という感じなのである。その間合いが合う,ということが必要なのだろう。

それで思い出した。本来,コーチングの会話は,コーチが,クライアントの自己対話のそばにいて,

まるでもう一人の自分のように自己対話に加わって,

言葉を返す,ということが重要なのだ,ということを,忘れていたらしい。その重要性を,改めて思い出した。

たぶん,思うのだが,ちょうど自分にとっても関心のあるテーマだったということもあるし,理知的な領域についての模索ということでもあったせいか,僕には,すぐそのテーマの土俵にすぐに乗れた気がする。

関心を持って聴く
とか
注意を向ける
とか
好奇心をもつ
とか

といっても,いくら関心を向けても,相手の心情や心境に全く自分の想像力がついて行かないときがある。それは,心がざわついた状態といっていい。もともと僕は,相手の感情や状態にさほどに目の向かない質なので,余計そうなのかもしれないが,質問が,

コーチ側の土俵

からしかされないので,相手にとっては,それは,外からくる問いなのだ。だから,その問いに向かって,答えようとする。そのとき身構える。それは,ただのキャッチボールに過ぎない。そうではなく,質問が,あるいは,返した言葉が,

クライアント自身の土俵

の上で,まるで自分のした問いのように,自問自答で,自分で自分に返した問いであるような,タイミングと間合いで出された問いの場合,それは,

自己対話の輪の中

でのやり取りに紛れていく。そのとき,クライアントは,自分自身の中で,自分と対話しながら,自分で答えを出していく。そうすると,大事なのは,

いつもの堂々巡り

に陥らない,ちょっと異質な視点から,しかし,その自己対話を妨げない問いであり,言葉でなければならない。

自然体

としいうのは,たぶん,コーチ側のことではなく,そういうクライアント自身が,自然な自己対話を促し,推し進めていけるような状態,ということを指しているのだろう。

そのためにコーチができることは,クライアントの思考のリズムと間合いを崩さないことだ。

すべてには当てはまらないが,そういうタイプのクライアントがいる,ということだ。





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年12月25日


間(ま)については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163296.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395727101.html

等々で触れたし,間合いについても,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163431.html

で触れた。しかし,今日(メンター)コーチングを受けていて,最後で,「間」のことに触れて,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409301615.html

で自分が書いたことを思い出した。

「あれっ,と観客に一瞬戸惑わせる位の長めの間,があってもいい。」

と,主観的には気づけないが,人のことには気づける。自分で長いと思っていても,相手にとっては,そうではないかもしれない。

「間(ま)」は,

自分のためにあるのではなく,相手のためにある,

という当たり前のことに気づいた。

合間,というのは,ニュートラルで,あいた「間」をさす。それが,主体的に意味を持てば,

間合い,

になり,意味がなければ,

隙間

になる。しかし,隙間は,

本来空いているべきでない,「間」が,空いていることだから,

隙,

にもなる。隙間は,あってはならないものだから,詰めるべきものだが,間合いは,その距離に意味がある。

間(ま),

を詰めれば,命取りにもなる。

合間

は,それを意識すると,意味ある,

距離,ないし空白,

となり,意識した側に,アドバンテージがある。だから,意識しなければ,

隙間,

に変わる。しかし,隙間は,間合いにはならない。本来空いていてはいけないというか,詰まっているべきものがあいているのだから。

以上は,俯瞰した位置からものを言っている,しかし人と対話ないし,対しているとき,間合いは,自分のために取る。しかし,それは,結果として,両者のためにある。コーチングやカウンセリングという場において,

間を取る,

のは,自分のペースにしないためだ。相手のペースにするために,取る。それは,相手の息遣いに合わせる,といったペーシングと重なる。

前にも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163431.html

で書いたことだが,立ち合いで言う,間合いは,

敵をうつ拍子に,一拍子といって,彼我ともに太刀の届くほどの位置を取り,敵の心組みができない前に,自分の身も動かさず,心も動かさず,すばやく一気に打つ拍子である。敵が,太刀を引こう,外そう,打とうなどという心組みが決まらないうちに打つ拍子,これが一拍子である,

と宮本武蔵は言う。いう。武蔵の本を見ると(剣の心得がないので勝手読みだが)意外と間合い外しをやる。

敵よりも素早く,構える間もなく,敵の懐に入り込んで,敵に全身を寄せてしまうという,秋猴の身という技もある。あるいは,敵のまぎわに入り込み,体ごと敵にぶつかる,というのもある。また,相手に身を密着させて離れない,漆膠という身の置き方もある。

こういう間合い崩しは,ふつう腰が引けたり,手だけで接近したりする。その恐怖をかなぐり捨てて,敵に飛び込むというのは,おそらく,相手は想定していない。そういう間合い崩しは,小手先の技とは異なり,全身でぶつかる,というのに近い。

同じ趣旨のことを,宗矩も言っていて,

立ち会うやいなや,一念にかけてきびしく切ってかかり,先の太刀を入れんとかかる,

と,先んじて打ち込むことを言っているが,もう少し踏み込んで,

一太刀打って,打ったぞと思うと,その打ったと思う心がそのままそこに留まる…。打ったところを,心が元に戻らないため,一瞬,心が空白状態になり二の太刀を敵に打たれて,先手を取ったことが無になる,

と。これを,心を返す,という。

心を返すとは,一太刀打ったら,打ったところに心を置かず,すぐに心を戻して敵の気色をみよ,という。

機先を制したと,得意になっていたら,敵は,そのことに敵愾心をもやし,かえって厳しく対応してくる,それが油断である。

病とは,心の留まることをいう。仏法ではこれを執着といって,もっとも嫌う。心が一か所に執着してとどまれば,見るところを見外して,意外な負けをとる。

心は,形のないことは虚空のようであるが,一心はこの身の主人であり,すべてのわざをすることはみな心に源がある。その心が動いてはたらくことは,心の営みである。心の動かないのは空である。空の動くのは心である。空が動いて,心となって手足へ作用する。立ちをにぎった(相手の)拳の動かぬときに素早く打つので,空を打てという…。

いわば,この場合,相手の太刀を捧げた手の動かないところは,心が働いていない,つまり隙である。そこを打て,という。

この間合いを見ていると,自分のペースではなく,相手のペースを見つつ,そのペースを崩そうとしている。自分の執着に囚われれば,相手を見失う。

たぶん,心が何かに固着して動かないから,相手が見えななくなるだろう。

心を返す,

自分の立つ位置に常に戻す,

とは,一見自分の間合いに戻るように見えて,実は,相手の間合い,呼吸を見失わない,ということなのではないか。






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2015年02月10日

問いかけ


問いのことである。人は,問われたことについて,答えを自分の中に探し出そうとする,という。その意味で,質問は意味があるが,つくづく思ったのだが,問いは,聴き手側から出てくるのではない,ということだ。

質問については,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm

で,散々,原則を考えたが,やはりわかっていなかったのだと,思い知る。質問を,共感性ということに即して考えるなら,問いは,話し手自身の中から吹き出てくる。

共感性については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410724005.html

に書いたが,それにあわせて,話し手のペース,つまり思考スタイルに即することについては,マイペースと呼び,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/412037148.html

に書いた。ここでも触れたことを,もう少し踏み込むなら,話し手の沈黙を,沈黙として意識したら,それは話し手の沈黙ではなく,聴き手の(感じ取っている)沈黙,外から見ている沈黙である。その沈黙の受け取り方で,聴き手側のポジションが見えてくる。寄り添うとか,共感性などという言葉は,その瞬間意味をなさない。話し手のペース,息遣いそのものに即している,あるいはそばにいるなら,話し手の黙っている時間は,

話し手と一緒に答を自分の中に探している時間であり,
それを言語化する,どういう言葉にしたら,きちんと表現できるかを考えている時間であり,
何だろうと考えている時間であり,

等々,沈黙ではないのである。黙っている時間は,

黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな(壺井繁治)

黙っている本人にとって,沈黙ではない。言葉の20,30倍のスピードで意識が流れている,そのさ中にいるのだ。

吉本隆明の言う,

沈黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです。

という通りなのだ。沈黙を沈黙と感じたら,聴き手としての自分は,相手をメタ・ポジションから見ていないまでも,距離を置いて眺めている証拠である。そばに立っているなら,あるいは,共感しているなら,その沈黙は,待つ時間ではなく,一緒に考えている時間である。当然,沈黙を感じるなどということはない。待つとか待たないとか,考えている本人が感じるはずはないのだ。

僕は,沈黙への感じ方が,自分が話し手のどこにいるのか,その距離を測る目安だと思っている。それは,田中ひな子さんのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163109.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163304.html

等々,何回か触れたが,それが,話し手の自己対話の中に紛れ込むことだとすると,沈黙は喧しい自己対話の最中のはずなのだ。

相手近くに,共感して立っているかどうかの目安は,第一には,沈黙への距離だと思うが,もう一つは,問い,質問だと思う。

質問は,聴き手の中から生まれてくるのではなく,話し手の話の中から,問いが生まれてくる,ということに,いまさらだが,気づいた。問いは,話し手の自己対話の中から,吹き出しのように,生まれてくる。それが,聴き手側から出てきたとすると,

それは何ですか,
そのことをどう思いますか,

という類の質問になる,しかし,話し手自身から出てくると,

そのことは,何なんだろうね,
そのことをどう思ったらいいんだろう,

となる。問いは,自問なのだとすれば,質問ではない。

「質」は,

「斤」+「斤」+「貝」

と分解できる。「斤」は,

重さを計る錘に用いた斧,

で,「斤」ふたつとは,

重さが等しいことを意味する。「貝」は,

割れ目のある子安貝,または二枚貝,

を示す。古代には貝を交易の貨幣にもちいたので,財貨を意味する。で,「質」は,

Aの財貨と匹敵するだけの中身の詰まったBの財貨

を表す。名目に匹敵する中味がつまっていることから,実質,抵当の意味になる。

「問」は,前にも書いたが,

「門」+「口」

で,「門」は,

二枚の扉を閉じて中を隠す姿を描く象形文字,

で,隠してわからない意やわからないところを知るために出入りする入口の意。「問」は,

分からないことを,口で探り出す,

という意味になる。その意味では,「問い質す」というときの,「質す」は,かなり意味が重たい。その中身の真価の是非,有無を尋ねている。

だから,質問というより,疑問,あるいは,問いかけ,ひょっとすると否定疑問なのかもしれない。自分に向かって,問い質す奴はあまりいない。

それって,どういう意味だろう。
それを考えるには,どうしたらいいのだろう。
なぜそれが出来ないと思うのだろう。
それって,妙じゃないか。

自分への問いかけは,おのれ自身の未知の扉をおとない,それを開けて,解き明かすような,おのずと湧き出てくるもののはずだ。そうでない問いは,話し手ではなく,聴き手の中から出ている。そういう問いをつかみたいと思っている。それも,相手に寄り添えているかどうかの目安のはずである。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)






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2015年02月26日

直感


直感については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163385.html

で書いたことがあるが,感じたことを,ただ伝えるだけでは,内からの思いつきなのか,相手の話に沿ったそれなのかの区別がつかない。

僕は,

聴く

ということの奥行に,このごろよく立ち止まることが多い。前にも書いたかもしれないが,「聴(聽)」の,「聽」の字の右側は,



とも書き,真っ直ぐなこと。耳の下の「王(テイ)」は人が真っ直ぐに立ったさま。「耳+悳」で,真っ直ぐに耳を向けて聞き取ること,を意味する。

しかし,どうしたら,まっすぐ聞き取ることになるのか,

どう聴くのか,
何を聴くのか,
どこを聴くのか,
なぜ聴くのか,

その聴き方に,こちらのありようそのものが,炙り出される。会話は,

聴き手がどう返すか,

で,話し手が何を話したかが決まる。話し手は,その返し方で,話した中味をずらしていく。それは,どう応答するか,で決まる。その応答の仕方は,どう返したら,

きちんと聴いてもらえた,

と感じるのだろう。繰り返しではないし,承認でもないし,要約でもないし,そういう返し方のスタイルではないような気がする。聴いてもらえたと感じてもらうことが,本当に聴いていることになるとは限らない。

話し手にとって,聴き手の声の位置,聞え方も関係あるかもしれない。遠くから返事しているように聞えているのか,すぐそばにいるように聞こえるのか,近いといっても,どの位置にいてくれる感覚が,聴くということなのだろう。

目の前か,
横に立っているのか,
すぐ耳元に立っているのか,
支えるように背後にいるのか,

どの位置が,話し手とって,聴いてもらえている,という感覚になるのだろう。それは,返し方とも,応答とも関係ない,聴き手のポジションに関係あるのかもしれない。

ここで,聴き方を問題にしているのは,直感を考えるにあたって,それが,聴き方と深くつながっている気がしているからだ。

話し手は,自分と対話しつつ,話をする。それは,言語化すること自体が,自己対話に他ならないからだ。それを思考スタイルと言ってもいいし,考えるスピードと言ってもいいし,話すペースといってもいい。そのことについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/412037148.html

で触れた。直感は,その自己対話そのものの中から,生じたかのような気づきでなくてはならない,と思う。とすると,そのためには,話し手のスピードと同じような思考スタイルと,言語化スピードに,自分がなっていなくてはならない。それは,

共感性,

と同じ基盤,でなくてはならない。エリクソンが,

相手の枠組みであること,

といったことと同じである。それは,

そうそう,それって,こういうことではないの,
そう感じているのは,○○だからではないのか,

と,つぶやくような直感は,そのまま,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/413804239.html

で書いた,問いかけそのものと似てくる。それは,自己対話が,堂々巡りではなく,渦巻きのように,螺旋を描いて,深まっていかなくてはならない。そういう問いでなければならないし,そういう直感でなくてはならない。それは,話し手自身が語っていることの,

名づけ

であり,

言語化,

であり,

喩え,

であり,

メタファー,

であり,

見立て,

であるような,カタチにして示す,そういう直感であるし,話し手自身が探りあぐねている突破口を,既にあるもののようにして,そこに描き出すものでなくてはならない。

第三者の視点ではなく,自問自答のメタ・ポジションである。そこから外れてしまえば,単なる岡目八目の,お節介に過ぎない。

やはり,そのカギは,聴き方そのものの中にある,と感じるのである。






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2015年04月12日

相槌


フィードバックを受けて,気づいたことがある。

相槌

である。正確には,

相槌の打ち方,

ではなく,打つ,

相槌の間(ま),
というか,
相槌の間合い,

である。うんとか,ええとか,ほほおとか,というやつである。これを打つタイミングのことである。実は,相手のペースに合わせるというとき,相手の呼吸やしゃべりのテンポを気にするが,実は,相手のしゃべりに対する反応のタイミングということはもあまり気にかけたことがなかった。どちらかというと,間(あいだ)を置きすぎると,反応として間が抜ける,という気がしていた。また,当然相手の話に興味を持ち,好奇心を持てば持つほど,前のめりになり,それで,それで,という姿勢になる。そうすると,当然,

相槌の間,

が間髪を入れずというか,相手の話の語尾を噛むような相槌の打ち方になる。それが,

早い,

と感じさせる,というフィードバックをいただいた。つまり,聴き手のテンポの速さは,聴き手の話し方ではなく,その人の相槌の間の早さ,というか速効性が,相手に速さを感じさせる,ということらしい。この指摘は,初めて受けた。

常々,自分の話のテンポが速いというか,早い反応をする,ということは,せっかちのせいもあって,意識していたし,テンポを合わせることも心がけてはいたが,相槌の間については,まったく考慮の外であった。

考えれば,話し手が,何か話して,その言葉尻を抑えるように,ほお,とか合いの手を入れられれば,一度ならともかく,相手にとっては,せかされている気分になり,心理的にも,老い掛けられる感じがするのは確かだ。

相槌(相鎚)は,

建築用の大きな木槌
鍛冶で,二人(たとえば,弟子が師と向かい合って)交互に鎚を打ち合わすこと。あいのつち。
相手の話にうなずいて巧みに調子を合わせること。

という意味があり,「相槌を打つ」という言い方で,

相手の話に同意のしるしを表してうなづく。相手の話に調子を合わせる。

という使い方をする。想像されるように,「相鎚」の語源は,

刀鍛冶で「相手の鎚の打ち手,相方」が語源。

とある。『大言海』は,というと,

「相は,相手の意か。又は閒鎚(あいづち)なるべきか」

とある。そして,

「鍛冶するに,焼きたる鐡を,師が,鎚にて打つ閒(あひ)に,加えて,弟子が,鎚を打ち入ること」

と意味を説明している。「閒(間)」である。「間」は,本来「閒」で,「門+月」。

「門の扉のすきまから月の見えることをあらわす」

とあり,「ふたつをわける」意味を含んでいる,という。「閑」の意でも用いられる,とも。別に,解字として,

「隙なり。門に从(したが)ひ,月に从(したが)ふ。門は夜閉づ,閉ぢて而して月光を見るは,是れ閒隙なり。日に从ひて『間』につくるは,非。」

とある。昼間,隙間から日を見ることはあるまい。意味は,

あいだ,ころおい,このごろ,しばし,まま,隙間,開き,差異,へだて,それる,

等々あるが,「あいだ」は,「隙間」のことだ。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/411224858.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395727101.html

等々,何度か触れた。

相槌は,聞き手が話者に関心を持ち,理解していることを示し,聞き手が会話に積極的に参加していることを示すことでもある,

話し手が,相手が聴いている,と思う応答ではある。しかし,それにも,

間合いがいる,

らしい。間合いについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163431.html

でも触れたが,人との距離感のことであった。しかし,言葉と言葉のつながりの,応と答との,隙間のことでもある。話の接穂でもある。相手の話に即応しすぎると,相手の話のリズムではなくなる。間が合いすぎれば,次の話と噛む。ほんの一呼吸の間だが,コミュニケーションとは,

聴き手がどう応えるかで,話し手の話の中身が決定される,

という原則は,ここでも生きている。テンポは,中身でもある。






今日のアイデア;
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posted by Toshi at 04:52| Comment(0) | コーチング | 更新情報をチェックする

2015年05月22日

言語化



先日,JCAKへ勉強会「コーチング解体新書」

http://kokucheese.com/event/index/290282/

に参加してきた。ゲストは,大坪タカコーチ。

つくづく自戒を込めて,思ったのだが,コーチングは,

言語化,

されなければ成り立たない。言語化については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163535.html

で触れたことがある。しかし,

人は持っている言葉によって見える世界が違う,

というヴィトゲンシュタインの原則は,生きている。言葉が違えば,見える世界が違う。自分に見えるつもりでも,クライエントには,何も見えない,あるいは,違うものを見る,ということはありうる。しかも,ベイトソンの言うように,

コミュニケーションを決めているのは,送り手ではなく,受け手である,

という。言い換えると,

コミュニケーションは,相手がどう応えるかで,伝えた側の中味が変る,

つまり,同じ言葉で返したとしても,その言葉で見えているものが違えば,受け取り方が変わり,会話は微妙にずれる。まして,それを言い換えたとすると,更に大きくずれるだろう。つくづく,

自分の言葉,

その言葉に見えているもの,

に敏感でなくてはならないと,思う。いや,正確には,常に,自分が言おうとしていることを,別の言葉で言い替えられないほど,ピンポイントで表出する工夫が必要なのかもしれない。コーチは,僕は,

言葉の練達が不可欠,

と思う。少なくとも,自分が何を伝えようとしているかについては,正確を期す努力がいる。コミュニケーションの原則に,

自分の中で何が言いたいかが明確でないことは決して伝わらない,

というのがある,と僕は思っている。その場で即応することが迫られる場合,よほど自分の発語に鋭敏でないと,自分のいつもの(言い回しの)癖が出る。それは,自分にしか見えない世界だという自覚がいるのかもしれない。

僕は,前に,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/417210569.html

でも書いたが,自分の癖らしく,よく,相手の言葉を,

言い換える,
あるいは,
置き換える,

意識している場合も,無意識の場合もあるが,別の言い方に置き換える。それは,いい意味では,

相手の視点を変える,

効果がある。直感も,要約も,フィードバックも,ある意味では,言葉を変える(別の言葉で返す)ことで,言葉の意味するものの微妙な差が生まれる。たとえば,ベン図になぞらえれば,同心円の円が微妙にずれる。

同じ円が,ただスライドする場合もあれば,
円そのものの直径が大きかったり,小さかったりする場合もある,
あるいは,まったく重ならないこともある,

等々によって,自分の意図した意味とずれることで,その隙間に違うものを見る効果である。つまり,見えるものが変ることで,見方が変わる(見え方が変わり,見方が変わる)効果を生む。しかし,それが,お互いが,別のものを見ているという無関係の土俵の上に乗っているなら(あるいはその言葉を使う文脈が共有できていないなら),つまり,円の位相が異なっているとすれば,それは単なる齟齬しか生まず,話が噛み合わないことも起こりうる。

場合によっては,それは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416425472.html

で触れたように,

決めつけられた,

と,相手は,感じるかもしれない。場合によっては,結構傷つく。

言葉には,吉本隆明流に言えば,

指示表出

自己表出

がある。何かを指している場合,コトにしろ,モノにしろ,ヒトにしろ,指しているものの方から,,常識的には推測がつく。その意味では同時代である限り,文脈は共有しやすい。しかし,自分の思いや感情,考えは,同じ言葉を使っているからといって,同じということはない(ことが,意外と多い)。それを避けるには,言い換えて,相手にピンと来るものを探して当てる努力がいる。

それは,逆に言うと,相手自身に言語化してもらうことを,促す,ということでもある。

たとえば,

あなたにとって大切な価値は何ですか,

と唐突に聴かれても,答えが見つからない。自分の価値観を意識的にクリアにしている人は,そうはいない。ならば,

あなたがずっと何年も考え(大切にし)続けていることは何ですか,

と言いかえてもいいかもしれないし,

あなたにとって命に代えても守りたいものは何ですか,

と,少し大げさに言ってもいいかもしれない。たとえば,

頭で考えないで,心で感じる,

と,指示されても,僕自身も時に迷う。そんなとき,

あなたの本音はどうですか,
でも,
そう言ったときの気持ちは不快ですか,どうですか,
でも,
そう言ったときの異和感がありますか,

でも,別の言葉で聴き直せば,相手にとってピンと見えるものがあるかもしれない。

たとえば,

止めているものは何ですか,

と聞かれて自分の心の制動と気づける人は,その言葉になれている人だ。といって,

それを妨げているものは何ですか,

と聞くと,(自分の)外の障害を上げるかもしれない。だから,そういう言い方では,「止めている」ものの言い替えにはならない。

心の中で,それをやめろと言っている人がいますか,
あるいは,
やりたくないという気持ちがありますか,
あるいは,
心の中に嫌がっている感じがありますか,

という言い替えもあるかもしれない。それにしても,言い換えるたびに,ベン図が揺れ動く。この揺れは,相手にはもっと響く。このあたりに鋭敏になりたい気がしている。,








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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