2012年12月03日

虚実皮膜の隙間~花田清輝『鳥獣戯話』をめぐって



話鳥獣戯.jpg


私のように武骨で,律儀だけが取り柄の男には,なかなか花田清輝のような,洒脱で,人を食ったようなアイロニー,あるいは意地の悪さといってもいいようなものにはついていけないところがある。ただ,記憶では,花田清輝が,自殺した田中英光のことを書いていた文章を読んだことがあり,その誠実さにひかれた覚えがある。

皮肉たっぷりの表現に,かつてすごく魅力を感じたものだ。たとえば,こうだ。

そもそもあの「風林火山」という甲州勢の軍旗にれいれいしくかかれていた孫子の言葉そのものが,孫子よりも,むしろ,猿のむれに暗示されて,採用されたのではなかろうかとわたしはおもう。「動かざること山のごとく,侵掠すること火のごとく,静かなること林のごとく,はやきことかぜのごとし。」-などというと,いかにも立派にきこえるが,つまるところ,それは,猿のむれのたたかいかたなのである。

猿知恵とは,猿のむれの知恵のことであって,むれからひきはなされた一匹もしくは数匹の猿たちのちえのことではない。檻のなかにいれられた猿たちを,いくら綿密に観察してみたところで,生きいきしたかれらの知恵にふれることのできないのは当然のことであり,観察者の知恵が猿知恵以下のばあいは,なおさらのことである。

なるほど,かれは,甲斐の国の統一にあたって,ほとんど連戦連勝の記録をのこしているが-しかし,それは,かれが勇敢だったからではなく,むしろ,卑怯だとみられることをおそれなかったからかもしれないのである。猿のむれの示すところによれば,戦場のかけひきとは,要するに,すすむべきときに,いっせいにすすみ,しりぞくべきときに,いっせいにしりぞくことを意味する。ところが,その当時の武士たちは,「ぬけがけの功名」が大好きであって,全体の作戦など眼中になく,ただ,もう,むれを離れて,おのれの勇敢さをひけらかす機会のみをうかがっている阿呆らしい連中ばかりだったから,ひとたまりもなく,すすむことともに,しりぞくことを知っていた信虎のために,ひとたまりもなく,一敗地にまみれ去ったのはあやしむにたりない。

武田の軍法を定めたが,わが子信玄によって追放され,京で足利義昭のお伽衆に加わり,無人斎道有として生きた,武田信虎を中心に設えながら,当時の信玄,信長を玩弄している。

たとえば,信長が,義昭のために二条城普請をするために,毎日石運びさせられているというので,こんな落書があった。「花より団子の京とぞなりけるに今日も石々あすもいしいし」。動員された近江の百姓の怨嗟の声を読み取り,婦人の面帕を上げて顔を見ようとして足軽を一刀のもとに首をはねた,というエピソードがある。それを桑田忠親氏が,「黙って首を刎ねるとは,凄い」と評したことに対して,「強すぎたる大将のふりをした,臆病なる大将のすがたをみるだけであって,すこしも凄いとはおもわない。」と言い切る。そして,こう付け加える。

もしも凄いという言葉が,非情ということを意味するなら,わたしには,それらの落書の作者であることを,ちゃんと承知していながら,平気で,無人斎道有を,おのれのお伽衆のなかへ加え,一緒になって信長の器量のちいささをせせら笑っていた将軍義昭のほうが,信長よりも,はるかに凄い性格の持ち主だったような気がしないこともない。

そして,こう皮肉るのである。

戦国時代をあつかう段になると,わたしには,歴史家ばかりではなく,作家まで,時代をみる眼が,不意に武士的になってしまうような気がするのであるが,まちがっているであろうか。時代の波にのった織田信長,豊臣秀吉,徳川家康といった武士たちよりも,時代の波にさからった-いや,さからうことさえできずに,波のまにまにただよいつづけた,三条西実隆,冷泉為和,山科言継といったような公家たちのほうが,もしかすると,はるかにわれわれに近い存在だったかもしれないのである。それとも延暦寺の焼き討ちを試み,一山の僧侶の首ことごとくはねてしまった信長のほうが,薬用のため庭でとらえて殺した一匹のむぐらもちをあわれみ,慙愧の念にたえないといって,わが身を責めている実隆によりも,われわれの共感をさそうものを,より多くもっているのであろうか。

この高角度で,細部までつぶさに焦点を当てた書き方を,野口武彦氏は,パンフォーカス(全焦点)というたとえをしているが,その時代のあらゆるところに焦点を当てて,信長どころか,信玄も,信虎をも,相対化していく書き方には,魅力を覚える。

しかも,うっかりその話法にのると,とんでもないことになる。

確かかどうか記憶が定かではないが,『甲陽軍鑑』『三河風土記』『犬筑波集』『弧猿随筆』『武田三代軍記』『甲斐国志』『言継卿記』『老人雑話』等々に交じって,『逍遥軒記』という偽書を混じりこませ,高名な評論家がころりとだまされた,というのをどこかで読んだ記憶があり,うかつに読むと,その術中にはまりかねない。しかしこういう高度なエンターテインメントこそが,知的な遊びに思えてしまう。これも術中にはまった結果か。

わたしは,信長が,徹底した合理主義者だったというような伝説をすこしも信じない。『醒睡笑』や『昨日は今日の物語』のなかに登場する信長は,たえず前兆のようなものを気にして,びくびくしている。

ただどうだろう。こういう相対化した話は,世には受けない。受けない話は伝搬せず,沈殿していく。それが惜しくて,ここにちょっと紹介してみた。へそ曲がりなので,世の中に受ける話には乗らない。今や時代遅れの(とは思わないからこそ),花田清輝をあえて紹介するのも,その性分から来ている。

昨今侍だの武士だのを吹聴する傾向がある。あえてへそ曲がり流にいうなら,侍はおのれを侍などとは言わない。なぜなら,そんなにことを言わなくても侍なのだから。わざわざおのれが侍だなどという必要はない。そう自らいわなければならないとしたら,侍ではないのだ。外目からも,生きざまからも。自分で侍などという手合いは,信じないことだ。ましてや,それをほめそやす輩からは,そっと離れるにしくはない。

今日のアイデア;
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#花田清輝
#信長
#信玄
#信虎

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2013年04月14日

とほうもない楽天家~横井小楠・その学びの姿勢と生き方Ⅰ


横井小楠については,概略は,

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0

で知っていただくとして,「今までに恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲とだ」と勝海舟は「氷川清話」で述べていることから紹介しておきたい。さらに「横井の思想を西郷の手で行われたら敵うものはあるまい」とも述べている。妹婿の佐久間象山ではなく,小楠を挙げているところが海舟らしい。

坂本龍馬の船中八策も由利公正(三岡八郎)の五箇条の御誓文も,元は横井小楠にある。坂本の師匠勝海舟とは,肝胆相照らす間柄で,坂本も勝の使いで何度も,熊本に蟄居中の小楠をたずねている。由利は,小楠が越前に招聘された折,立てた殖産興業策に触発され,横井から財政学を学び,藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。

その由利と龍馬は気が合い,2度目の福井来訪時,早朝から深夜まで延々日本の将来を語り合ったという。背後の小楠の思想が,生かされている。明治新政府に召されたのも故なしとしないが,ために暗殺されることになった。

ついでながら,横井小楠については,松浦玲『横井小楠』(筑摩学芸文庫)を読んでほしい。本文の倍の注が,この本自体のもつ,通常の伝記ものとは異なる破格の熱が伝わってくる。因みに,松浦の『勝海舟』もいい。海舟全集を編集しただけに,細部がよく見えている。それに『坂本龍馬』もある。

小楠は実践家なので,学問も,政治としての実践論になっている。ここでは,小楠の思想をふれるには力量不足なので,その講義の一端と,自分の好きな詩を紹介してお茶を濁す。一回でまとめようと思ったが,長くなりすぎたので,二回にわける。

学問の学び方が,実にユニーク。実学と称されただけのことはある。

学の義如何,我が心上に就いて理解すべし。朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず。後世学者と言えば,書を読み文を作る者を指していうようなれども,古えを考えれば,決して左様な義にてはなし。堯舜以来孔夫子の時にも何ぞ曾て当節のごとき幾多の書あらんや。且つまた古来の聖賢読書にのみ精を励みたまうことも曾て聞かず。すなわち古人の所謂学なるもの果たして如何と見れば,全く吾が方寸の修行なり。良心を拡充し,日用事物の上にて功を用いれば,総て学に非ざるはなし。父子兄弟夫婦の間より,君に事え友に交わり,賢に親づき衆を愛するなり。百工伎芸農商の者と話しあい,山河草木鳥獣に至るまで其の事に即して其の理を解し,其の上に書を読みて古人の事歴成法を考え,義理の究まりなきを知り,孜々として止まず,吾が心をして日々霊活ならしむる,是れ則ち学問にして修行なり。堯舜も一生修行したまいしなり。古来聖賢の学なるもの是れをすてて何にあらんや。後世の学者日用の上に学なくして唯書について理会す,是れ古人の学ぶところを学ぶに非らずして,所謂古人の奴隷という者なり。いま朱子を学ばんと思いなば,朱子の学ぶところ如何と思うべし。左なくして朱子の書につくときは全く朱子の奴隷なり。たとえば,詩を作るもの杜甫を学ばんと思いなば,杜甫の学ぶところ如何と考え,漢魏六朝までさかのぼって可なり。且つまた尋常の人にて一通り道理を聞きては合点すれども,唯一場の説話となり践履の実なきは口耳三寸の学とやいわん。学者の通患なり。故に学に志すものは至極の道理と思いなば,尺進あって寸退すべからず。是れ眞の修行なり。

「朱註に委細備われとも其の註によりて理解すればすなわち,朱子の奴隷にして,学の真意を知らず」とは厳しい。誰それの解釈や解説を読んだのでは,その奴隷と言い切っている。
「後世の学者日用の上に学なくして唯書について理会す,是れ古人の学ぶところを学ぶに非らずして,所謂古人の奴隷という者なり。いま朱子を学ばんと思いなば,朱子の学ぶところ如何と思うべし。左なくして朱子の書につくときは全く朱子の奴隷なり」とも言う。これと同じことを,王陽明も『伝習禄』の中で触れていた。つながるのかもしれない。

彼は講義中にメモを取ることを禁じた。それは,小楠の言うことをそのまま書き取ったのでは,小楠の奴隷になるだけだ。その都度,自問自答しつつ,考えることを求める。

学ぶとは,書物や講学の上だけで修行することではない。書物の上ばかりで物事を会得しょうとしていては,その奴隷になるだけだ。日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのかを考える,そのまま書きとめるのではなく,おのれの中で,なるほどこのことか,と合点するよう心がけるが肝要だ。合点が得られたときは,世間窮通得失栄辱などの外欲の一切を度外視し,舜何人か,沼山何人かの思いが脱然としておこる,この学問にはまりこみ,日用実用の上でどう力行するかを工夫する,その修行なのだ,という。小楠の奴隷になのではなく,おのれの合点を得て,世の中に,おのれの工夫を実現せよ,それには日々,一刻一刻が,そのときだと心得よ,という趣旨であった。

「且つまた古来の聖賢読書にのみ精を励みたまうことも曾て聞かず。すなわち古人の所謂学なるもの果たして如何と見れば,全く吾が方寸の修行なり。良心を拡充し,日用事物の上にて功を用いれば,総て学に非ざるはなし」とは,実践家らしい。

 朋有り(これは論語の「朋有り,遠方より来る」云々を指す),この義は学問の味を覚え,修行の心盛んなれば,吾がほうより有徳の人と聞かば,遠近親疎の差別なく,親しみ近づきて話し合えば,自然と彼方よりも打ち解けて親しむ,是れ感応の理なり。此の朋の字は学者に限らず,誰にてもあれ其の長を取りて学ぶときは世人皆吾が朋友なり。憧々として往来するの謂いにあらず今一際広めていえば,幕府より米利堅に遣わされし使節を米人厚くあしらいし其の交情の深さにても考え思うべし。是れ感応の理なり。此の義を推せば,日本に限らず世界中皆吾が朋友なり。

日本に限らず世界中皆吾が朋友なり。この言,二人の甥を龍馬に託して洋行させる折送った,有名な送別の詩

堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
なんぞ富国に止まらん
なんぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ

の満々たる楽観主義を思わせる。和魂洋才などという縮んだ諭吉の思想とは全く違う。「大義」と言っているところがポイントだ。「大義」を第二次大戦下のおためごかしのスローガンと同じにしてはならない。堯瞬の理想主義を高々と掲げてはばからない。彼には,国権主義とは無縁なのだ。だから楽観主義という。この高らかな楽観主義は,暗殺で,ついに政策に反映されることはなかった。この精神は,五箇条の御誓文の精神と通底している。因みに,五箇条とは,以下のものだ。

一,広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一,上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一,官武一途庶民ニ至ルマデ各其ノ志ヲ遂ゲ,人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一,知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

長所短所についても,面白いことを言っている。

長所短所といっても,右と左というようにはっきり区別されたものならば,そういうやり方もあろうが,長所短所はつながりあっていて,しっかり区別はつかない。たとえば,火は燃えるが故に種々利用されるが,その長に任せて制するところがなければ,家も宝も焼き尽くしてときには人の命もそこなうことになる。水も物を潤す性あるものの溢れるときは害をなす。これ長に短あるところ,物みなそうである。人にありても進取的な人は退き守るに短なるがために,手前に過を取ることがあり,退守的な人は進み取るに短なるために機を失することが多い。

横井の「堯舜孔子の道を明らかにし」という楽天主義について,渡辺京二は,神風連の生みの親,林櫻園と対比して,こう批判している。

国民攘夷戦争(幕末の攘夷熱のときに決戦を唱えた)の主張から全人間界の出来事の放棄(晩年厭世的になり神事に専念するようになる)にいたる櫻園の思想的道すじは,彼がヨーロッパ文明の圧倒的な侵蝕力を鋭く感知し,この異種文明との出会いがわが国の伝統的文明を運命的に脅かさずにはいないことを見抜いていたところから,生まれたもののように見える。たとえば開国論者横井小楠には,「堯舜孔子の道を明らかにし/西洋器械の術を尽くさば/なんぞ富国に止まらん/なんぞ強兵に止まらん/大義を四海に布かんのみ」という有名な詩があるが,櫻園にいわせればこれはとほうもない誇大妄想というものであったろう。ヨーロッパ文明との接触はそれから「器械の術」だけをいただけばいいようなものではなく,小楠にとっての「大義」すなわち「堯舜孔子の道」を必然的に崩壊させずにすまぬことであることを,彼はおそら洞察していた。

しかしこれは本人の言うように,「深読み」に過ぎない。楽天家とは,小楠へのほめ言葉に過ぎない。

所詮シニカルな現実主義者は,神の世界に逃避し,途方もない楽天家は,最後まで現実的であった。シニカルな評論家が,自分の血を流すことは,決してない。櫻園は畳の上で往生し,小楠は,京都の寺町丸太町の路上で襲撃され,小刀の刃が刃こぼれするほど敵と戦い,首を刈られた。
僕はシニカルな現実主義者を信じない。恐らく評論家でしかない。それを擁護するものもまた評論家でしかないのだ,と経験則から学んでいる。


参考文献;
野口宗親『横井小楠漢詩文全釈』(熊本出版文化会館)
山崎正董『横井小楠』(明治書院)
松浦玲『横井小楠』(ちくま学芸文庫)
渡辺京二『神風連とその時代』(洋泉社)

今日のアイデア;
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2013年04月15日

時代と格闘した思想家~横井小楠・その学びの姿勢と生き方Ⅱ


僕の好きな小楠の言葉は,これだ。

本当の小人,姦人というのは百人にひとりもいない。その他は皆人としてたりないところがあるにすぎない。それをすぐ小人,姦人とけなし,よいところをみてやらず,欠点のみ責めるのは,その責めているほうこそが小人なのだと思い知らねばならぬ。小人をもって小人を責むるということです。

「小人をもって小人を責むる」とは,痛い。子曰く,君子は諸(これ)を己に求め,小人は諸(これ)を人に求む,と。おのれを知らないのと,相手を知らないのとは,丁度裏表ということか。そして,こう言う。

人材には、上中下とある。高い節操、篤行があり、才智が深く、道理を外さず臨機応変に対処できるものが上材、才識が秀で英邁豪俊ではあるが、行いを慎んだり、大事を取れぬものは中材、諄諄としてしきたり墨守し、智力で臨機応変に対応できぬものは下材、下材ではものの役に立てぬ。上材は、百世に一人現れるもので、中材の異能のものこそが役に立てるものだ。いまはその中材の抜擢すら慣例にとらわれていて、登用される道が閉ざされているが、この混迷の時代、中材こそが有用な人材になりうる,と。

こうした人材観の背景にあるのは,

人は三段階あると知るべし。天は太古から今日に至るまで不易の一天である。人は天中の一小天で、我より以上の前人、我以後の後人とこの三段の人を合わせて一天の全体をなす。故に我より前人は我前生の天工を享けて我に譲れり。我これを継いで我後人に譲る。後人これを継いでそのまた後人に譲る。前生今生後生の三段あれども皆我天中の子にしてこの三人あって天帝の命を果たすものだ。孔子は堯舜を祖述し、周公などの前聖を継いで、後世のための学を開く。しかしこれを孔子のみにとどめてはならない。人と生まれては、人々皆天に事(つか)える職分である。身形は我一生の仮託、身形は変々生々してこの道は往古以来今日まで一致している。故に天に事えるよりのほか何ぞ利害禍福栄辱死生の欲に迷ふことあろうか,

という,天を意識し,連綿と続く歴史の一端を担っているという自覚だ。先人の背に乗って,後世へとつないでいく。その眼から見れば,異国を「夷狄」と呼ぶ攘夷の風潮が,小楠には相対化される。

中国にとって我国が東夷とよばれたように、みずからを中華とみなさねば、そうは呼べない。では、彼らにとって、われらはどう見えるのか、大洋を押し渡ってきた彼らにとって、われらはちっぽけな島国でしかない。彼らにとって、われらこそが夷狄かもしれない。では、なぜ国を開くのか、国を開くことで、一国の中で堅持された仕組みは崩れる。いま起きていることは、いままでこの国を動かしてきた偉い人たちが、この事態に対処できない周章狼狽ぶりをさらけ出し、国の政事を果たしていけぬことを世間に知らしめたにすぎない。

道は天地の道なり。わが国の、外国のということはないのだ。道のある所は外夷といえども中国なり。無道になるならば、我国支那といえどもすなわち夷なり。初めより中国といい夷ということはない。国学者流の見識は大いに狂っている。だから、支那と我国とは愚かな国になってしまった。亜墨利加などはよく日本のことを熟視し、決して無理非道なことをなさず、ただわれらを諭して漸漸に国を開くの了簡と見えた。猖獗なるものは下人どもだけだ。ここで日本に仁義の大道を起さなくてはならない、強国になるのであってはならない。強あれば必ず弱あり、この道を明らかにして世界の世話やきにならにはならねばならぬ。一発で一万も二万も戦死するというようになることは必ずとめさせねばならぬ。そこで我日本は印度になるか、世界第一等の仁義の国になるか、この二筋のうちしか選択肢はない。

そして異国との対応のあり方を,こう説く。常に,天が意識されている。

天地仁義の大道を貫く条理に基づかねばならぬ。すなわち、有道の国は通信を許し、無道の国は拒絶するのふたつだ。天地には道理がある。この道理をもって説諭すれば、夷狄禽獣も従う。

応接の最下等は、彼の威権に屈して和議を唱えるもの。これは話にならない。結局幕府はこれを取った。次策は、理非を分かたず一切異国を拒否して戦争をしようとするもの。これが攘夷派の主張だ。長州が通告なく通過する艦船を砲撃したのはこれだ。これは天地自然の道理を知らないから、長州がそうなったように、必ず破れる。第三策は、しばらく屈して和し、士気を張ってから戦おうというもの。水戸派の主張だ。これは彼我の国情をよく知っているようだが、実は天下の大義に暗い。一旦和してしまえば、天下の人心怠惰にながれ、士気がふるいたつことなど覚束ない。最上の策は、必戦の覚悟を固め、国を挙げて材傑の人を集め政体を改革することである。天下の人心に大義のあることを知らせ、士気を一新することである。我は戦闘必死を旨とし、天地の大義を奉じて彼に応接する道こそが、義にかなうはずだ。

この第三策は,勝海舟の考えでもあった。家茂も慶喜も,幕閣もこ,徳川幕府という体制の維持に汲々として,国としての覚悟を決断しなかった。小楠は大政奉還を聞いて,松平春嶽に,こう建策している。

第一に、議事院を建てられるべきこと。上院は公武御一席、下院は広く天下の人材を御挙用のこと。第二に、皇国政府相立った上は、金穀の用度一日もなくてはすまぬ。勘定局を建てられ、五百万両くらいの紙幣をつくり、皇国政府の官印を押し通用するようにすべきこと。第三に、一万石につき百石の拠出を求め、新政府の収入とすること。第四に、刑法局を建てられるべきこと。第五に、海軍局を兵庫に建てられるべきこと。関東諸侯の軍艦を集め、十万石以上の大名から高に応じて人数を定めて兵士を出さしめ、西洋より航海師ならびに指揮官を乞い、伝習させる。第六に、兵庫開港期限が迫っている。国体名分改正の第一歩なれば、旧来の条約中適中せざるを一々改正し公共正大百年不易の条約を正むべし。第七に、外国は交易、商法の学があり、世界物産の有無を調べ、物価の高低を明らかにして広く万国に通商している。そうした熟練に対して、我国は拙劣であり、大人と子供のようなものだ。彼らが大奸をなす所以である。十余年来交易において我国大損たるは明らかである。これより外国に乗り出すにあたっては、まず魯、英、佛、墨、蘭に日本商館を建て、内治においては、商社を建て、兵庫港であれば、五畿内、四国、南海道は、大名ばかりでなく、小人百姓も共望によってその社に容れ、同心して共に舟を仕立てて乗り出し交易すべし。

小楠の中の,ありうべき国家像は,この後,さらにブラッシュアップし,実践される機会が与えられないまま,潰えた。しかしここにあるのは,清潔感だ。義であり,天であり,という言い方を今風に変えれば,絶対に譲れぬ価値を見据えているといっていい。それは徹底している。

その小楠に,こういう詩がある。小楠の判断の一端を知ることができる。

彼を是とし又此を非とすれば
是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け
心虚なれば即ち天を見る

心虚なれば即ち天を見る
天理万物和す
紛々たる閑是非
一笑逝波に付さん

衆言は正義を恐れ
正義は衆言を憎む
之を要するに名と利
別に天理の存する在り

是非の二者択一ではない視点をいつも持つ,小楠はしたたかな政治顧問であった。小楠が,松平春嶽のブレーンであった時,最も松平春嶽が輝いていた。その間,藩レベルで,こうすれば民が肥え,結果として藩が豊かになるという殖産政策を実施した。なかなか端倪すべからざるコンサルタントでもある。ついに国レベルで,実践する機会に恵まれないまま殺された。

酒席に,肥後勤王派の襲撃を受けた折,士道に悖る行為があったとして,知行召し上げ士席剥奪の処分を受け,熊本郊外の沼山津に逼塞していた時,こう読んだ。

心事分明にして疑う所無く
四時佳(か)興(きょう)坐(そぞろ)に卮(さかずき)を傾く
此の生一局既に収め了(おわ)り
忘却す人間(じんかん)の喜と悲とを

なかなかどうして,こんな達観した御仁ではない。この間,井上毅と対話した(というより喧嘩別れした対談)で,こういっていた。「凡そ我が心の理は六合に亘りて通ぜざることはなく,我が惻怛の誠は宇宙間のこと皆是れにひびかざるはなき者」と,昂揚した言い方をしていた。まだまだ意気軒昂であった。

人君なんすれぞ天職なる
天に代わりて百姓を治ればなり
天徳の人に非らざるよりは
何を以って天命に愜(かなわ)ん
堯の舜を巽(えら)ぶ所以
是れ真に大聖たり
迂儒此の理に暗く
之を以って聖人病めりとなす
嗟乎血統論
是れ豈天理に順ならんや

と,あの時代に言い切れる人はそうはいまい。いまでも,なかなか難しい。だから「廃帝論」を論じたとして,暗殺者をかばう論調が高まり,危うく暗殺者が英雄になるところだった。これは将軍継嗣問題で,一橋慶喜か紀州の慶福かで対立している時に読んだとされている。

あえて深読みすれば,血統による世襲は天下を私物化することだ。天命をうけた天徳の人が天下のために政事をするのではなく,君主の血統を維持するために国天下があるかのごとくになる。開幕以来天下のためにする政事これなく,ことごとく徳川氏のため,また諸侯はおのが国のためになされている。これを逆転しなくてはならない。君子のために国があるのではなく,国を治めるために君主がある。政事の役に立たないなら,君主は取り替えなければならない,そう読める。

嗟乎血統論/是れ豈天理に順ならんや,こう言い切れる人こそ,真の民主主義者に他ならない。いまの日本は,二代目三代目だらけ,またそれをよしとする風潮がある。その踏襲主義で,自由闊達な風土の国々に太刀打ちできようか。

二人の甥を坂本龍馬に託して洋行させる折,送ったもうひとつの送別の詩,

心に逆らうこと有るも
人を尤(とが)むること勿れ
人を尤むれば徳を損ず
為さんと欲する処るも
心に正(あて)にする勿れ
心に正にすれば事を破る
君子の道は身を脩むるに在り

に彼の心意気がある。おのれを律することなきは,彼の眼中にはない。

参考文献;
野口宗親『横井小楠漢詩文全釈』(熊本出版文化会館)
山崎正董『横井小楠』(明治書院)
松浦玲『横井小楠』(ちくま学芸文庫)
松浦玲編『佐久間象山・横井小楠』(中央公論社),

今日のアイデア;
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#横井小楠
#勝海舟
#坂本龍馬
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2015年04月04日



忍(しのび)というと,

『忍びの者』(村山知義)

『忍法帖』シリーズ(山田風太郎)

が思い浮かぶし,白土三平の『忍者武芸帳』というのも記憶にある。あるいは,テレビドラマの『隠密剣士』というのもあった。結構夢中になった記憶がある。いささか年齢がばれるが,そういったイメージとは裏腹に,確か,島原の乱の最中,幕府軍から放たれた伊賀者が原城に忍び込んだものの,相手のしゃべっている言葉がわからず,しかも発見されてほうほうの体で,逃げ帰るという醜態を演じた,というのも読んだ記憶がある。

もともと忍というのは,忍んでいるからこそであって,忍びでござい等々と名のるべきものではない。多くは,

乱波(らっぱ)
透波(出波)(すっぱ)
突波(とっぱ)

と呼ばれたり,


とか

とか
かまり

と呼ばれたりする。三田村鳶魚は,

「乱波・出波は,少人数,数人あるいは一人でやる場合と,集団で用いる場合は,少し様子がちがう。普通の忍びは,戦時でないときに使うのだが,戦時は『覆』といって,これはだいぶ人数が多い。多ければ千人もに千人もになるし,少なくとも二三百人ぐらいはある。」

と言っている。山蔭に隠して,不意を襲うので,「むらかまり」「里かまり」「すてかまり」等々と呼ぶという。少人数を隠す場合,「伏」とも呼ぶ。「草」とも言う。

戦国時の戦いは,多く境界線,つまり「境目」で起きる。そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.html

でふれたが,その場合,「草に伏す」とか「ふしかまり」等々と呼ぶ。

記憶で書くが,織田信長が美濃攻めをしていたころ,まだ木下藤吉郎といっていた秀吉が頭角をあらわしたのは,ちょうどこの戦いにおいてであった。秀吉が三四百の足軽大将になったのは,永禄七年(1564)頃と言われる。秀吉の功は,多く境目での草入りであったと思われる。美濃方の諸将を調略していき,安藤守就,稲葉良通,氏家直元の西美濃三人衆を誘降にも功があった。その頃,蜂須賀小六,稲田大炊助,青山新七郎,松原内匠助,浅野又右衛門,前野将右衛門等々といった草創期の家臣や与力は,ほとんどが草入りとしての活躍と言っていい。

ということは,「草」というのがイコール忍というのではなく,「草」という敵領国を侵食していく戦術の手立ての一つとして忍があったと考えるべきだ,と思う。

山鹿素行は,桑名藩主松平越中守定綱のために『武教全書』を描いたそうだが,その中に,忍とは,「敵国へ往来させて,いろいろなことを探る」と書いてある由だが,この場合,ほとんどが,隣国,境を接している国と考えていいように思う。かつて,遠国,ことに中央のことについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/413189714.html

で書いたように,連歌師がその役を果たしたというが,半端なものが探ってくる末端な情報より,それなりに中枢に伝のある人物の方が正確な情報を得られるからだ。,

『武家名目抄』の職名に,透波の説明があり,

「これ常に忍の役するものの名称にして一種の賤人なり。ただ忍(しのび)とのみよべる中には庶士の内より役せらるるもあれど,透波とよばるる種類は大かた野武士強盗などの中りよび出されて扶持せらるるものなり。されば間者(間諜)かまり夜討などには殊に便あるが故に,戦国のならひ,大名諸家何れもこれを養置しとみゆ。…(透波,乱波)の名儀は当時の諺に動静ととのはず首尾符合はせざるものをすつはといひ,事の騒がしく穏やかならぬをらつはといひしより起これるなるべし」

とあり,関東では乱波といい,甲斐より以西では透波と呼んだ,とある。ただ,これは,江戸後期になって編纂されたもので,忍というものが,ちょうど家系図が整えられるように,ある程度整理された後の話で,伊賀組,甲賀組,根来組等々が,二十五騎組として同心としての地位を確立した後の話に過ぎない。

それを専門とするものが,伊賀,甲賀の他,紀州の根来,信州の戸隠等々にいたことは確かだし,修験道の盛んなところは,大概忍びに長じていた,という。間諜や敵地のかく乱をすることを,

細作

という言葉があるほどだから,常態としてあったことは確かである。ただ他国に入ると,方言というか,日常会話は異国の言葉のようにわからない。その意味で,伊賀の者が薩摩に潜入したって,すぐにばれる。そういうイメージは数が少ないのではないか,と推測する。

『政宗記』等々には,草の活躍のことか詳細に書かれているようで,たとえば,

「奥州の軍(いくさ)言葉に草調儀などがある。草調儀とは,自分の領地から多領に忍びに軍勢を派遣することをいう。その軍勢の多少により,一の草,二の草,三の草がある。一の草である歩兵を,敵城の近所に夜のうちに忍ばせることを『草を入れる』という。それから良い場所を見つけて,隠れていることを『草に臥す』という。夜が明けたら,往来に出る者を一の草で討ち取ることを『草を起こす』という。敵地の者が草の侵入を知り,一の草を討とうとして,逃げるところを追いかけたならば,二,三の草が立ち上がって戦う。また,自分の領地に草が入ったことを知ったならば,人数を遣わして,二,三の草がいるところを遮り,残った人数で一の草を捜して討ち取る。」

とある。これはもうゲリラ戦といっていい。この時,実は本当の情報戦である。草が入ったことを知る,あるいは,草が臥してあることを探知する,このための情報が不可欠である。

情報とは差異である。

という。違う言い方をすると,違和を感知する,といってもいい。

クラウゼヴィッツは,情報を得ることではなく,情報の彼我を総合する判断力で,指揮官の真贋が問われる,と言っていたように思う。「彼我の情報が互いに支持を保証し,或いはその信頼度を増大し合い,こうとて心のうちに描かれた情報図がますます鮮やかに彩色」されたときこそ,指揮官の力量が問われる。昔も今も,希望的観測を蓋然性と勘違いする,あるいはこうなるかもを,こうなるはずと置き換えて,意思決定を散々繰り返してきた,あの悲惨な敗北をもたらしたのに,昨今又その意思決定を繰り返しつつある。きちんと検証しないものに,きちんと未来を構想できるはずはない。

秀吉は,美濃への草入り中,先手の弟小一郎の部隊と離れた本陣を四五百の敵に襲撃を受けて,あやうい目にあった。草入りのときこそ,忍のもたらす情報は生死にかかわる。

草は,敵方への攻撃ばかりではなく,敵方の情報を獲得する目的でも行われていた。具体的には,

「敵方の使者を捕えて書状を奪ったり,敵方の者を捕虜にして情報をききだすことである。」

という。いかに書状が行きかっていたかは,残された文書からも推測されるが,関ヶ原合戦直前の直江兼続の書状があり,上杉景勝と伊達政宗が戦争状態になり,帰趨を決していない相馬への書状を巡って,境目で敵の伏せに書状を奪われたが,その場で,その伏せを倒して,書状を奪い返したことを称賛している。毛利と対峙していた秀吉が,光秀方からの使者に神経をとがらせていたのは,こういう背景として考えると,つながっていく。

透波という言葉の意味には,

盗人
詐欺師
すり

の他に,野武士,強盗から出て間者を務めた者という意味があるが,『本福寺跡書』には,本職が桶師が防戦に加わったとの記述があるそうだが,桶師が別の顔を持っという意味では,透波というものが,庶民に紛れるという意味で,草の草たる所以が見える。

北条氏が雇っていた乱波は,風魔といい。北条が滅亡すると,盗賊集団になったと言われる。それが跳梁したのが,江戸時代初期で,町奉行所でも勘定奉行所でも対応できない無頼をとりしまるために,例の火付盗賊改が設けられた,というふうに考えられている。火付盗賊改が荒々しいのは,もともと先手組という戦時の先方を務めるという位置もあるが,そういう輩を扱うところから始まったからでもあるらしい。

参考文献;
三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
笹間良作『日本戦陣作法事典』(柏書房)
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(歴史新書y)
クラウゼヴィッツ『戦争論』(岩波文庫)
吉田孫四郎編『武功夜話』(新人物往来社)








今日のアイデア;
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2015年11月23日

女形


女形は,

お山

とも書き(『古語辞典』は,「お山」の字を当てている。),

おやま,

と訓むものだと思っていた。実際辞書(『広辞苑』)を引くと,

「近世,仮名書きでは『をやま』とも」

とあって,

女形人形,またはその人形遣い手
歌舞伎で,女の役をする男役者,おんな形,またはその略
(上方語)色茶屋の娼妓,後に遊女の総称。
美女

等々の意味を載せる。『語源由来辞典』には,

「人形浄瑠璃の,美人の人形名,ミノノオヤマ」に由来する,

とある。要は,僕の常識では,

「歌舞伎において若い女性の役を演じる役者、職掌、またその演技の様式そのものを指す」

と思ってきた。

女形.jpg


しかし,これはなかなか奥が深い。小谷野敦氏は,遊女の由来から,女形の呼び方について,

「『遊女』というのは平安朝以来の名称で,むしろ中世の,江口・神崎で,水辺に棲んで舟に乗り,淀川を下ってくる男たちに声をかけるのが遊女,地上を旅して春を鬻ぐのを傀儡女(くぐつめ),男装したものを白拍子などといった。中世には前の二つはあわせて遊女とされ,遊女の宿といったものが宿駅に出来たりしたし,京の街中には,地獄などと呼ばれる遊女宿があり,遊君(ゆうくん),辻君(つじきみ),厨子君(ずしきみ)といった娼婦が現れた。…近世以来,上方では娼婦を『おやま』と呼んだ。歌舞伎の女形が『おやま』と言われるのは,人形浄瑠璃で,遊女の人形を『おやま人形』と訓んだことから来ている。だから,女形の人は,『おやま』と言われるのを嫌い,『おんながた』としてもらうことが多い。」

とある。女形を,

おんながた,

と呼ばせる謂れはここにあるらしい。辞書(『広辞苑』)は,「おんながた」を別項として立て,

「演劇で,女役に扮するおとこの役者,またはその訳柄,おやま,おんなやく」

とある。「男が女を演ずる」という意味が,「おんながた」とすると,際立つということもあるのかもしれない。

『大言海』は,「をやま」について

「承応の頃,江戸の人形遣,小山次郎三郎,巧みに処女の姿をつかひて,小山人形の名起こりしより出づ」

と,異説を書く。で,

あやつり人形の女形,
歌舞伎の女形(おんながた)の称,その大立者(おおだてもの)なるを立をやま,少女なるを,わかをやまと云ふ,
遊女の異名,

と,「おんながた」と「をやま」を区別している。女形(おんながた)と呼ぶときの,「がた」は,

接尾語で,ガタと濁る,

と,『古語辞典』にあり,

~役,

という意味になる。囃子方などと同じとある。だから,

「ガタは『方』つまり、能におけるシテ方、ワキ方などと同様、職掌、職責、職分の意を持つものであるから、原義からすれば『女方』との表記がふさわしい。歌舞伎では通常『おんながた』と読み、立女形(たておやま)、若女形(わかおやま)のような特殊な連語の場合にのみ『おやま』とする。『おやま』は一説には女郎、花魁の古名であるともされ、歌舞伎女形の最高の役は花魁であることから、これが転用されたとも考えられる。」

という説明になる。

さらに,

「通説によれば、1629年(寛永6年)に江戸幕府が歌舞伎などに女性を使うことを禁じたために、その代わりとして歌舞伎の世界に登場したとされ、江戸では糸縷権三郎、大坂では村山左近がその祖であったと伝えられている。江戸時代の女方は芸道修業のため、常に女装の姿で女性のような日常生活を送るものとされていた。
なお、中国の京劇においても女形(『旦』と言う)が存在したが、現在ではその役を女優が行っている。」

と,なぜ,男性が女性役をするかの謂れが載る。因みに,「旦」の字は,

「日+一印(地平線)」

で,太陽が地上に現れることを示す。目だったものが外に現れ出ること。意味は,

あした,日の出,

を指し,

外に現れ出ること,

とともに,

中国の劇で,女に扮する役者,

で,「花旦」で,

若い美人を演じる女形,

とある。外に現れ出る,とは,

秘すれば花,

を連想するのは突飛だろうか。

「ただ珍しさが花ぞと皆人知るならば、さては珍しきことあるべしと思ひ設けたらん見物衆の前にては、たとひ珍しきことをするとも、見手の心に珍しき感はあるべからず。見る人のため花ぞとも知らでこそ、為手の花にはなるべけれ。されば見る人は、ただ思ひのほかに面白き上手とばかり見て、これは花ぞとも知らぬが、為手の花なり。さるほどに人の心に思ひも寄らぬ感を催す手だて、これ花なり。」

参考文献;
小谷野敦『日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで』 (中公新書)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%BD%A2



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2015年12月19日

野郎


「やろう」というのは,いまだと,

「この野郎!」

と,罵るとき位にしか使わない。辞書(『広辞苑』)には,

田舎者(日葡辞典),
前髪を剃った若者,
野郎頭の略,
初期歌舞伎の俳優の称,
男色を売る者,陰間,
男を罵っていう語,

が意味として載る(この他に,「野郎帽子」の略,というのもあるらしい)。

野郎の語源は,

「ワラワ(童)変化,和郎」

と,

「ヤ(野)+ロウ(郎)」

の混淆した語,とされる。

「和郎(若者・若僧)と野郎(田舎者)は,どちらも男を罵る語」

とあるところを見ると,罵る言葉は,原義らしい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E9%83%8E

には,

「野郎(やろう)とは、成人男性を指す言葉。江戸時代では前髪を落として月代を剃った男性を指した。のちにこの言葉は男性を罵る場合に使用されるようになる(対語は「女郎(めろう)」

とあり,

「月代を剃った頭を『野郎頭』と言い、その『野郎頭』の役者のみで興業される歌舞伎は『野郎歌舞伎』と呼ばれた。 女形を演じる男性役者は、そり落とした月代を手ぬぐいなど隠したが、やがて『野郎帽子』と呼ばれる被り物を用いるようになった。 野郎歌舞伎の役者(『野郎』)が得意客に呼ばれて遊興の場に連なることもあり、『野郎遊び』、『野郎買ひ』という言い回しが使用された。」

『大言海』は,

野郎
野良

の字を当て,「野郎」の意味の変遷を詳述する。まず,

「薩摩にて,人を罵り呼ぶに和郎(わろう)と云ふ。此語,童(わらわ)の音便なるべし,(童は,古へは,冠を放ちて,わらは形なるを,痛く卑しむる世なれば,云ひしなり)其の和郎の野郎に転じたるなり。さやぐのさわぐ,わやくのわわくの類なり」

と注記する。したがって,

薩摩詞にて,男子を卑しめ呼ぶ語と云ふ。又,貴人にむかへて,下郎を賤めて云ふ,

が意味の最初に来る。次に,

「承応元年,若衆歌舞伎の男色を売る甚だしきによりて,令して前髪を剃り落さしめ,成人の如くならしめし者の称(歌舞伎子(かぶきこ)の条を見よ)。紫の帽子を被りて,成人の姿を隠す。これに因りて,野郎頭,野郎帽子の名起こる。」

とある。因みに,歌舞伎子を見ると,若衆歌舞伎に同じとあり,少年の歌舞伎役者,とある。

これが転じて,直に孌童(かげま)の称。陰間の条の(二)をみよ,

とある。で,陰間を見ると,

「舞台に出ず,陰に居る間の意と云う。蔭子と云ふも同じ」

とあり,こう説明がある。

「少男を抱え起き,若衆歌舞伎にしたてむとて,芸を仕込み居るものの称。蔭子とも云ふ。芝居に出でて歌舞するを,舞台子と云ふに対す(女の踊子をかげま女などとも云へりと云ふ)。蔭子をして男色を売らしむるを色子と云ふ。」

そして,二の条には,

「かげまは,後に全く,男色を売るを専業とする者の称となり,常に女装して客を迎ふ。かげま茶屋とて,娼家の如きものありき。」

とある。

更に,それが転じて,

「泛(ひろ)く前髪なき男子,または,若き男子を罵り呼ぶ語,奴。」

と,何やら一巡して元の「罵る言葉」に戻った感じである。

それにしても,阿国歌舞伎から若衆歌舞伎に,そして野郎歌舞伎に,ずっと色を売るニュアンスが付きまとっている。若衆は,ずばり,

「上略して衆道,下略して若道(にゃくどう)と云ふ」

とあり,男色を指す。

野郎帽子については,

http://www.honnet.jp/metro/rekisi/r192/rekisi27.htm

に,

野郎帽子.jpg

(野郎帽子姿)


「歌舞伎役者が頭に紫の布を付けているのを見られたことがあるでしょう。鬘のない時代ですから、女形(おやま)が月代(さかやき)の髪型で登場すれば、それはあまりにも滑稽なことです。そこで剃った月代を隠す為に布を被せたのですが、お洒落な感じがしてこれを『野郎帽子』と呼んだのでした。それで女形はみんなこのようにしたのでした。」

とある。なるほど,あれを帽子と呼んだのか。

http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/2/2_02.html

には,

女歌舞伎.jpg


「阿国が創始した『かぶき踊り』が人気を博すと、それをまねた遊女や女性芸人の一座が次々と現れました。このような女性たちによって演じられた『かぶき踊り』を『女歌舞伎』といい、京だけではなく江戸やその他の地方でも興行され流行しました。図は京の四条河原の仮設の舞台で行われた『女歌舞伎』で、そろいの衣裳に身を包んで輪になった遊女たちが、当時最新の楽器だった三味線に合わせて踊る様子を描いています。」

それが衆道歌舞伎に,さらに野郎歌舞伎に変っていく。

http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1293

には,

野郎歌舞伎.jpg

野郎歌舞伎時代の芝居小屋 『都万太夫座屏風』早稲田大学演劇博物館所蔵


「成人前の前髪立【まえがみだ】ちの少年による若衆歌舞伎【わかしゅかぶき】が禁止されると、少年たちは前髪を剃り落として歌舞伎を演じました。前髪を落とした頭を野郎頭【やろうあたま】と呼ぶため、野郎頭で演じられた歌舞伎を野郎歌舞伎といいました。それまでの歌舞伎は歌と踊りが中心でしたが、野郎歌舞伎は時間の経過とともに場面が変わる複雑なストーリーをもつ演劇に発展しました。」

とある。

いやはや,たかが「野郎」という言葉の奥行に圧倒される。

参考文献;
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1293
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/2/2_02.html
http://www.honnet.jp/metro/rekisi/r192/rekisi27.htm
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)



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