2012年12月08日

仕事をするということについて~組織人としての仕事の仕方を振り返って思うこと



もう独立して20年以上になり,組織で働いた期間より,はるかに長くなった。長くなったことで,その当時気づけなかったことに気づけるようになった。

別に正しいとは思わないが,こういう自己認識を持っていれば,たぶん独立してもうまくいくような気がしている。わかっている人にとってはばかばかしい常識かもしれないし,できる人にはたわごとかもしれない。またこういう言い方は,聞きようでは,上から目線なのかもしれないが(それが一番嫌なので),率直にいま思っていることなので,さらりと読み流してもらえればうれしい。

第一は,抱え込まない。自己完結した仕事をしないということだ。多くの場合,気づかずに,おれが何とかしなくては,と抱え込んでいるケースが目立つ。当たり前のことだが,仕事はチームでする。チームのタッグを組んでいることを忘れるくらい,人はたこつぼに入って仕事をしている。この状態を抱え込みというが,抱え込んでいることの最大の問題は,それが本人が抱え込んではならない,あるいは抱え込んでもどうにもならないレベルの問題なのかもしれないのに,本人が抱え込んでいるために,周りに見えないことだ。
チームの原則は,言うまでもなく,目的の共有化,役割分担,コミュニケーションだが,お題目のようにそんなことを言っていればいいというわけではない。チームとして機能するには,では,具体的には,それはどうなっていることなのか。たとえば,
①目的を共有するという。では,どうなったら共有したことになるのか,ただお題目のように目的を復唱することではない。それぞれの日々の仕事ひとつひとつが,チームの仕事につながっていることを,そのチームの仕事が上位部署の仕事につながっていることを,ひとりひとりが,ひとつひとつの仕事で了解できていることだ。そのためのコミュニケーションをリーダーがしたのかどうか。
②役割分担とは,どうなったら役割分担していることになるのか。単に自分の担当に責任をもつことなのか,それだけではない。自分の担当業務を介して,自分が解決できない事案にぶつかったとき,それを自分でかかえず,上司やチームに投げかけられることだ。チームで仕事をし,そのための自分の役割がわかっているとは,自分の役割を超えた案件で,自分がやるべきことなのか,チームでやるべきことなのか,チームを超えた部署や組織でやるべきことなのかが見極められることでなくてはならない。そのためには,日々上司やチームメンバーとの間で,お互いの仕事について,率直にコミュニケーションをとれる土俵ができていなければ,「それはうちの仕事ではない」「どうせ言ったって仕方ない」「どうせどうにもなるまい」ですましてしまうことになる。
③コミュニケーションがとれているとは,どうなっていたらコミュニケーションがとれていることなのか。コミュニケーションが必要なのは,役割を割り振って,あとは蛸壺にはいってひとりひとりが背負い込んで黙々と仕事をする職場にしないためだ。そういう職場は,チームになっていない。仮にチームの目指すものをどう分担するかがわかっていたとしても,チームではない。チームで仕事をするとは,一人で仕事を抱え込まず,他人にも仕事をかかえこまさない仕事の仕方のことだ。そこではどんな仕事も,自分一人でやっているのではないという了解がとれている,些細な問題もチームに上げ,チームで解決すべきことはチームで解決しようとし,上位部署もまきこんで解決すべきことは上司を介してより上位にあげていく。そのときもし自分のやるべきことをチームにあげたとすれば,「それは君の仕事だ」と,本人につき返すことができるチームだ。そういうコミュニケーションがとれていてはじめて,チームの要件としてのコミュニケーションがとれているといえるのである。

第二は,いま現場で起きていることは,いま現場で,そのことに携わっている人間にしかわからない。しかし,現場の人間にも,そのおきている意味はつかめていないかもしれない。そのためにこそ,報連相がある。報連相は,問題状況を共有するためにする。それができていなければ,あるいはそれができない状況であれば,現場のことがつかめぬまま,指示することになる。あるいは抱え込むほかはなくなる。

第三は,何をするために自分がそこにいるのかの答えを自分なりに見つけておくこと。それを自分の仕事に旗を立てるという。それは自分の仕事の意味づけであり,自分の意味づけであり,チームの意味づけでもある。

それを簡便に分解してみたのは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0653.htm

である。

旗をたてるとは,自分自身の意味づけ,自分の仕事の意味づけ,自分のチームの意味づけを考えることであり,それが,チームとの関わり,上司との関わり,他のチームとの関わり,組織全体とのかかわりを考え,自分の役割を主体的に考えることになる。それが,旗を立てることの効果になる。たとえば,目的や目標を共有化するということは,自分の立場,役割としてそれをどういう形で受け止めていくかを考えることになる。それが,自分の旗を上司の旗とリンクさせ,組織の旗とつなげていくことになる。

大事なことは,自分や自分のチームの目標ではなく,その目標を達成することで,自分や自分のチームの所属する上位チームの目標(自分の目標にとっては目的)にどういう形でリンクしているのかを意識することである。それが自分の目標の意味づけであり,仕事の意味づけとなる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view80.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view56.htm

そして組織成員全員が,自分の旗を持つということは,旗の連なりを見れば,組織の方向性と,そのためにそれぞれ果たしている意味が見えてくる,そんな夢のような妄想を,最近いつも描いている。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#やる気
#チームの要因
#自分の居場所
#メンバーシップ
#旗を立てる
#チームワーク



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2013年01月14日

コミュニケーションのちょっとした流儀~齟齬を減らす工夫はある


コミュニケーションで言えば,良寛には,「戒語」といわれる戒めがいくつかあるが,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod065.htm

これは,いわばしゃべり方や振る舞いを言う。つまりコミュニケーション・タブー集だ。ここでは,それよりは,コミュニケーション齟齬をなくすためにどうしたらいいか,そのためのちょっとした工夫に触れたい。言ってみれば,できている人にとっては,ありきたりで,当たり前のことなのかもしれないが。

例えば,職場やチームで,コミュニケーションがとれているとは,どうなっていたらコミュニケーションがとれていることなのだろうか。

コミュニケーションが必要なのは,役割を割り振って,あとは蛸壺にはいってひとりひとりが背負い込んで黙々と仕事をする職場にしないためだろう。そういう職場は,チームにはなっていない。単なる個人商店の集まりにすぎない。あるいは組織として仕事をしていない。

仮に組織やチームの目指すものをどう分担するかがわかっていたとしても,チームではないのではないか。チームで仕事をするとは,一人で仕事を抱え込まず,他人にも仕事をかかえこまさない仕事の仕方のことだと考えている。そこではどんな仕事も,自分一人でやっているのではないという了解がとれている,些細な問題もチームに上げ,チームで解決すべきことはチームで解決しようとし,上位部署もまきこんで解決すべきことは上司を介してより上位にあげていく。そのときもし自分のやるべきことをチームにあげたとすれば,「それは君の仕事だ」と,本人につき返すことができるのが,チームなのではないか。そういうコミュニケーションがとれていてはじめて,チームの要件としてのコミュニケーションがとれているといえるのではないか。と,まあ考えている。

いきなりそこまでは無理として,とりあえず,ぎくしゃくしたコミュニケーションではない,あるいはせめてコミュニケーションの齟齬がない,言った・聞いてない,頼んだ,頼まれてない,という消耗なやり取りを減らすにはどうしたらいいのか。

まず,第一は,コミュニケーションの開始に手続きがいるのではないか。あるいは手続きがわかれば,せめて歩留りはよくなるのではないか。
コミュニケーションは自分の話したことではなく,相手に伝わったことが,自分の話したことである,と言われる。仮に自分が10話したとしても,相手に2しか届いていなければ,私の話したことは,2だということだ。そうなれば,相手にできるだけ届くようにする必要がある。

そのために,まずは,相手に聞く姿勢になってもらう必要がある。何かをしながら,聞くのではなく,こちらを向いて,自分の話を聞く身構えになってもらわなくてはならない。
そのためには準備作業がいるはずである。話し手と聞き手の両者が,共通の何かについて話す・聞く関係をとっているという,仮にそれを土俵と呼ぶとすると,同じ土俵に立っていることを意識してもらわなくてはならない。同じ,話す・聞く関係性を意識して初めて,聞くのが始まると考えなくてはならない。
たとえば,一対一の対話なら,
「いまちょっといい?」
「いま,5分いい?」
「ちょっと話がしたいのだが,いい?」
「いま手が離せる?」
等々と,聞くところからはじまるだろう。

相手が都合が悪いと言えば,
「何分後ならいい?」
「後でまた声かけてみるから,その時よろしくお願いします」
等々とやり取りするかもしれない。ミーティングなら,事前の日程調整からはじまるだろう。

なぜこんなことにこだわるかというと,人は仕事しながら,聞いているときは,こちらが話している途中から,意識しだすかもしれない。あるいはうわの空で聞き流すかもしれない。だって,何かしているときは,そちらに意識が向いている,聞こえる声に意識が向くまでは,タイムラグがある。

仮に,いいと言っても,こちらに向き直ってくれるまでは,意識は,途中の作業の方に向いているかもしれないのだ。

そこで第二に,共通の土俵にのっていなければ,歩留りは悪いはずである。口頭のメッセージの歩留まりは25%という説がある。ましてや,何かをしながらでは,もっと歩留りが悪いはずだ。

どのレベルのコミュニケーションでも,相互の間で,お互いに「どういうテーマ(話題)」を話しているかについて共通認識ができていなければ,すれ違いざまの挨拶にすぎない。共通に何について話しているという土俵がないところでは,コミュニケーションは成立しないとかんがえるべきだろう。仮にコミュニケーションしても,「言った,言わない」が必ず起きる。あるいは頼みごとなら,とんでもないことが実行されたりする。

一対一なら,「ちょっといい」といい,相手が向き直ったら,「何々について話したい」のだが,いいかと,確認することになるし。ミーティングなら,アジェンダの周知になるだろう。ミーティングでやることが,一対一のコミュニケーションでもひつようなのだろう。

そこで,少なくとも,何かについて,一緒に話している認識はできる。しかしそれでOKかというと,そうでもない。人は,聞きながら,勝手な解釈をする癖がある。例えば,前にもふれたが,記憶には,

・意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
・エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが,記憶された個人的経験,自伝的記憶と重なる)
・手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)

がある。意味は同じでも,まったく違うイメージを各自が自分のエピソード記憶から当てはめているかもしれない。
そのために,伝え方にも工夫がいるかもしれない。たとえば,

・一時にたくさんのことを伝えない,
・簡潔に,言いたいことは三つ,1つは何々,2つは何々,3つは何々,と明確にする,
・簡潔な刷り物(メモ)を一緒にする。そうすると,歩留りが50%を超えるという説がある,
・大事なことを繰り返す,
・できるだけ,誤解を生まないような具体的な表現で,具体例を添える,

等々が考えられる。

第三は,伝わったことが話したことなのだから,相手に何が伝わったかの確認がなくては会話は終了していない。
 相手にどう受けとめられたかを確認するためにも,相手からのフィードバックなくては,会話は終わらない。どう受け止めたか,復唱,再現,リピート,感想,意見等々,相手に応じたフィードバックをもらうことで,伝わったことが確認できる。

第四は,指示や依頼についても,終わった後のフィードバックがいる。
 「終わったら,声をかけてね」
「終わったら,連絡ください」
「終わったら,どうなったか知りたいので,面倒でしょうが,一報ください」
ということを一言加える。あるいは,これをルールや慣習にしてしまえれば,楽になるのだが。

当たり前のことなのだが,日々のやり取りでは結構手順を飛ばす。家族や親しい間だと,余計そうなる。日々の気遣いは,当たり前のことを当たり前にきちんとできることなのだろう。それが,両者のパイプを太くし,信頼を深める。近い人間にすら信頼が得られないようでは……。自戒。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#コミュニケーション
#意味記憶
#エピソード記憶
#手続き記憶
#フィードバック
#指示
#土俵

posted by Toshi at 06:37| Comment(383) | チームワーク | 更新情報をチェックする

2013年02月15日

不純物が役に立つ~古代の技術にみる


スカイツリーが,日本古来の五重塔のような木塔の工法を使っていることで有名だが,いわゆる木塔で,今まで地震で倒れた塔はないそうだ。あの関東大震災でも,25万戸の家屋が倒壊したのに,木塔は一基も倒れていない。台風で杉の大木が倒壊して一部壊れた室生寺の五重塔も持ちこたえている。地震に強いというそのカギは,二つある。

ひとつは心柱(しんばしら)による制振システム
いまひとつは,通し柱がなく,鉛筆のキャップを重ねたようなキャップ構造であること

心柱は,重要な柱だが,塔そのものの荷重を支えることにはまったく貢献していない。それどころか,宙刷りの心柱すらあるし,宙吊りになっていない,礎石の上に乗せられている場合でも,全体を支える役は果たしていない。では宙吊りでどう全体を支えるのか。こういう例がある。

宙吊り心柱構法で有名な大室勝四郎棟梁は,「地深夜大風に五重塔を造るには,心柱を宙吊りにするのが一番いい」という。そして,棟梁は子供の頃の体験をこう語っている。

小遣い稼ぎに乾燥する板の積み上げをやっていたが,井桁でくみ上げて行っても,風で倒されてしまう。あるとき,棒に錘を縄でくくり,井桁の塔の上にさし掛けておくと,風に対してのみならず,地震にも効果があったのだ,という。

大室棟梁は,こういう。「心柱を宙吊りにすれば,塔が出来上がった後,何年かして部材が乾燥したり変形したりしても,塔が壊されないからいいんだ」と。実際,再建された薬師寺の西塔は,東塔よりも高さが33センチ高い,屋根の反りも東塔に比べてかなり扁平につくられている。西塔を建てた西岡常一棟梁は,およそ200年後に,東塔と同じ高さ,同じ形になる,という。

繊維方向に伸びて塔の荷重を支えていない心柱の種粛・変形は小さいので,もし心柱が固定されていると, 五重塔の屋根との間に隙間ができ,激しい雨漏りを招くことになる。

建築家の石田修三さんは,心柱は,首ふりを含め,一般に層変位の集中を抑制する,と結論付け,五重塔の心柱は丁度観音開きの扉を固定する閂のような働きをして,耐震性を強めている,という。

ところで,法隆寺は釘が使われているが,西岡棟梁は,釘は,いまの建築の様に釘の力で抑えつけているのではなく,木を組んでいく途中での仮の支えとして使われているだけで,組み合わさってしまったら,各部材が,有機的に結合され,機能的に構造をささえ合っているから,釘は重要ではない,という。しかし,その釘が,砂鉄からつくった和鉄のものなら千年持つが,溶鉱炉で積み出した鉄はだめだという。法隆寺の解体修理の時飛鳥の釘,慶長の釘,元禄の釘と出てくるが,古いものはたたき直して使えるのだという。「いまの五寸釘など,10年もたたないうちに頭がなくなってしまう」と。

古来の釘はたたら製法で作られる。たたらの第一の特徴は,原料に砂鉄を使う。砂鉄は,鉄鉱石に比べると圧倒的に高純度だが,様々な種類の不純物がかなりの量含まれている。鉄のさびを助長するシリコンやマンガンも含まれている。逆に精錬された鉄はこれらの不純物はきわめて微量である。特に,かつてたたらは,砂鉄を多く含む山を見立てて掘り崩し,土砂に交じっている砂鉄を,長い水路を通過させて分離させてきた。したがって似た比重の遺物の混入は避けられない。しかし,

私は,砂鉄に混じったこの異物がたたら鉄の高純度化に一役買っていたと思う。

と,『古代超技術』の著者はいう。

溶鉱炉法で使われる石灰石は鉄鉱石の融点を下げ,さらに不純物を取り込む重要な役割を果たす融剤であるが,たたらの場合の主たる融剤は壁の粘土である。さらに,砂鉄中の遺物が融剤の一端を担っている。

実は奈良の大仏でも,理由は違うが,不純物が機能していたらしいのである。

銅像の銅は,一班には青銅であるが,奈良の大仏の銅は,鋳造された年代で多少差はあっても,濃度90%前後の,純銅に近い。しかも,時代が下がるにつれて,銅の純度が下がる。これは銅を溶かすことと関係がある。銅の融点は,1083度Cである。

大仏創建当時,燃料は木材,木炭に限られるので,融点は低い方がいい。そこで5%のヒ素を含む山口県美祢市美東町大田長登の銅が使われることになる。これだと1000度C前後で溶ける。しかも石灰分も含まれている。現在の製銅,製鉄では融剤に石灰が大量に使われるように,熔銅の粘度を下げる働きがあるのだ。

不純物という言い方は何だが,チームでも,組織でも,異端者がいたほうが,残りがまとまるという,媒介剤というだけの,せこい考えだけではなく,異質な考えをするものを交えていない成員は,もろいのではないか。接着機能があるに違いないと,信じている。まあ,大概異端児であり続け,「組織の風土に合わぬ」と上司に言われた,自分が言うのもなんだけれども。

最後に気になったのは,著者が意識的に「シナ」という言葉を使っていることだ。これは,差別とは,こちらの無意識(あるいは無知)が,相手に何を誘い出すかという,慮りや配慮がないところに生まれるということを改めて考えさせられた(これは構造として,無意識に使う「バカチョン」カメラと同じだ)。意識的ならば,もう論外だ。



参考文献;
志村史夫『古代超技術』(講談社ブルーバックス)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

#大仏創建
#スカイツリー
#木塔
#五重塔
#法隆寺
#心柱
#西岡常一
#志村史夫
#古代超技術




posted by Toshi at 05:53| Comment(7) | チームワーク | 更新情報をチェックする

2013年02月22日

場を失う


場については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11007605.html

で触れたが,そこで,「たくさんのことが見えるようになり,もっと多くの自分を経験する」のであり,その場でなければ出会えない,何かがある,というような,そういう場であることが前提で考えると,場を失う,ということの自分にとっての意味の大きさがわかる。

たとえば,場を失うという経験は,何だろう,場合によっては,身を削がれるような苦しみがある。僕は別に大した才能もないので,いつもよたよたと人の後をついていくことが多いが,せっかくそこに居場所を占められるようになると,不思議と場が消えて行く。そういう経験は,実は僕の体験から考えると,ちょっと異質なのだ。

小学校を4回転校したが,多くは,居場所を占められないまま,去っていくという印象だった。僕らの小学校時代,いまもあるかどうか知らないが,サーカスやドサ回りの芝居一座の子供が,数か月だけクラスにいて,去っていく時,僕はその場に残って(僕の場合大体3年サイクルだったので少し長いから),場から去る人間を見送ったことが何度かある。その時の感覚は,丁度自分と裏返して,自分が去る時の感覚とリンクしていた。しかしどちらかというと,去ることにはかすかな期待があった。ここでは場に入れなかったが,次には場に入れるかもしれない,と。

しかしその場合,場はある。確固として既にある。だから,そこから去る,というより,場に入れてもらえず,一時滞在者,まあいわば居候のような形で,ついに場を占めることはできなかった。そういう場として,ある。

場を失うというのは,それと逆だ。そこに居場所,ポジショニングができたと思っていると,不意に場が消える。自分がその消滅に関わっていないと,置いてきぼりを食らったようなさみしさを味わう。

場は,3次元の空間ではない。心の中の心理的な場でもない。場そのものが生き物のように,ある。

しかしその場合,場は受け身のものとして受け止められている。作り出すものとしてよりは,そこに確固としてある場に入れてもらい,何とか居場所を得る,そんな感覚だ。

だから,場は外にある。当然消長の意思決定も自分の外で起こる。だから,場を失うという感覚になる。

しかし場は,外に在るものではない。自分が誰かとそこに作るものだ。コーチングで言えば,その都度クライアントと共に創り出していく関係のように,そこに関わることでしかできないものだ。コーアクティブ・コーチングでは,意図的な協働関係という。協働については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11078487.html

で触れたが,大事なのは,互いの異質さを前提にして,場として昇華できることだ。そのためには,本気の衝突が必要かもしれない。本気の中に,その人の価値と譲れないものが見えてくる。それをどう生かして場にあげていくか。場の中に乗せていくか。その丁々発止こそが,場を場として立たせるカギのような気がする。カウンセラーとクライアントとは,脳と脳がドッキングさせるという,田中ひな子さんのたとえがあるが,それに近く,お互いの自分を手放して,そこで,ひとつの場になっていく。

場そのものが場として機能する。そこでは一人一人の個が,場に混じり場と一体になって消えて行く。場そのものが主役になる。Tグループ体験では,皮膚が溶けて,場に流れて,場と一体になっていく,という感覚だった。Tグループ体験については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11044109.html

で触れた。

しかし,それは自分を捨てるという意味ではない。それなら,場は自己放棄になってしまう。そういう類の場もあるだろうが,それは自己欺瞞に近い。

もともと人は,ひとつの場を占めている,と思っている。生きているということは,この世の中に,自分の場を設えられているということだ。その場は,死んだと同時に閉ざされる。しかしそれはいま,ここに限定されたものではなく,どちらかというとハイパーな場だ。

場をつくるというのは,その各自の場同士が融合し別の場になるということだ。そういう場をいっぱい持てることで,自分もまた変わる。

パートナーという意味には,相方という意味の外に,分かち合っているという意味がある。場を分かち合って,一緒に場にしていく。その場合,人数は関係ない。コーアクティブ・コーチングでは,Dance in this moment(記憶に間違いがなければ,以前は,thisではなくtheであった気がする。特別な一瞬という意味では,「the」の方がいい。場を作る,場になるというのは,特別な瞬間なのではないか,という気がしている),いまこの瞬間から創り出す,ということをいう。それは,絶えず創り直すという意味だ。

ということは,場は,固定してあるのではない。人の細胞は絶えず生まれ変わって,いま。ここの人としてある。とすれば,場も,絶えずいまを重ねて創り直す。それが出来なくなった時,場は消えて行く。場を失うという感覚でいるときは,自分は,まだその中のパートナーになっていなかったという意味なのではないか。場は創り直されなくなれば,当然消えて行く。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

#場
#コーチング
#コーアクティブ・コーチング
#Tグループ
#Dance in this moment
#自己放棄
#自己欺瞞
#田中ひな子



posted by Toshi at 05:49| Comment(0) | チームワーク | 更新情報をチェックする

2013年06月02日

既にできている!


先日,「基本のき」で,

http://kihonnoki.jimdo.com/

そのまとめとして,「三分間プレゼンテーション」というのにチャレンジしたのだが,その動画を見て,がっかりした,というと少しウソになる。ほっとした面と,不満の面があったというのが,正直なところだ。

話すシチュエーションは,その場で自分を紹介する,ということで,自分について語ったのだが,柱として,事前にいくつかを考えていた。

テーマは旗。このところずっと語っていることだ。

それを,清水博さんの「自分の卵モデル」を例にして,概略次のように話した。といっても,その場で,即興で流れを考えて話したので,多分こんなことという意味だが。

割った卵の白身と黄身のうち,白身が混じり合う,その接点に場ができる。その場にいようと思い,居続けたいと思うかぎり,そこに自分の居場所を見つけなくてはならない。そのためには,

自分は何者なのか,

を示さなくてはならない,と感じている。というより,そこでは

自分でいなければならない,

と感じている。それ自体が特異な反応なのかもしれないが。だから,そのためには,

何をするためにそこにいるのか(そこでの自分の役割,あるいは大袈裟に言うと,使命)
何処へ向かおうとしているのか(自分の目指すもの,あるいは夢,卑近で言えば,ゴール)
そのための自分のリソースは何か(自分のやれること,強み,出自)

がはっきりしなくてはならない。夢だけでは白々しい。リソースだけでは成長がない。役割だけでは息苦しい。

で,自分の旗を,具体的に表現者あるいは「物書き」,自分の内的世界をコトバにして表現する,とおおよそ詰めていたのだが,話す瞬間に,そこを捨てた。

しかも表現者の条件も,「他と違う」をキーワードに,「他と違う何かを目指す」「他と違うリソースを掘り当てる」「他と違う意味」を考えて,

①まねのないオリジナリティ
②絶えず前へ。その都度いまが最高峰
③死ぬまで可能性の中にある

とまで,一応整理したが,これもしゃべる直前に捨てた。結果として,以前に書いた,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11185729.html

ブログをキーに,フェイスブックとツイッターをつなぐ場を,自分の表現の舞台としている,という話にした。

しかし,結論は,そこで話しながら,表現というのは,書くことだという意識が強いが,どうもそうでもないのではないか。自分という存在そのものが,表現なのではないか。

日々の立ち居振る舞い
時々刻々の言動
自分の生きざま

そのものが自己表現なのではないか。とすれば,白身と白身が混じり合う,その場で自分であること自体が,自己表現なのではないか。だから,いま,

新規の白身の混じり合う場

へ積極的に参加しようとしている,というまとめで締めくくった。

最初考えていたのとは,全く違うものをプレゼンテーションしてしまった,というより,自分を語るときに,その瞬間で語りだせたものが,そのときの自分の語りたいものだったのではないか,まあそんな思いで,語り終えたのだが,実は,その三分間プレゼンテーションの動画が,後日アップされた。

そこで冒頭へ戻ると,ほっとしたのは,あまりうろたえた風もなく,普通にしゃべっているところだが,半面,かっこ悪い,颯爽としていない,凛としていない,スマートでない等々の不満が出た。

鈴木安子さんからは,

私は,杉浦さんに人間くささ,というか,
偽りのないまさに"今そこ" で心が話してる,という新鮮さを感じます。
身体の動きも目の動きも,間も。
そして何より語っている内容が,まさにその場で起こっているので
なるほど~とすぅっと入ってきました。
まさに 杉旗が杉旛のことを語ってる!(^^)

とフィードバックをいただいたのだが,それはそれとして心残りがあった。それを先日のコーチングでの話題にした。自分の「かっこよくない」を詰めていくと,どうなれば,いいのかと問われて,

その場の雰囲気に合わせて,
間を取りながら,

と挙げていったが,結局,そうではなく,

自分のペースで,
自分のペースに巻き込みたい,

というのが本音なのだと思って口に出すと,コーチから,「それって既にできていることではないのか」とフィードバックされた。

「既にできている」

そうなの?というのは,

気づいていないのか
認められていないのか
まだできているとは認知していないのか,

いずれにせよ,まずは自己認知のすり合わせからし直さなくてはならない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#基本のき
#鈴木安子
#プレゼンテーション
#旗
#自己認知
#気づき

posted by Toshi at 05:17| Comment(2) | チームワーク | 更新情報をチェックする