2012年12月10日

何でも見えるカタチに置き換える効果~高田天朗さんの「ドラマdeコーチング」に参加して



先日,JCAK神奈川チャプターで実施された,「ドラマdeコーチング~なりきりワーク編~」に参加させていただいた。高校一年のとき演劇クラブに参加して,初舞台でしくじって以来,ドラマや芝居にはちょっとしたトラウマがあるが,やはりどこか心惹かれるものがあり,高田さんのワークショップには,これまで二度チャンスを逃して,やっと参加することができた。

案内には,こうあった。
なりきりワークは,演技メソッド,コーチング,カウンセリングを駆使した人生のリハーサルです。
なりきる事で,自分の箱から脱出し,たくさんの視点とあらゆる可能性を手に入れることができます。
なりきりワークで手に入れられる5つのメリット。
・自分を解放する喜びが得られる
・自分を知る手がかりが手に入る
・自己肯定感の増強
・コーチとしての感性が磨かれる
・なりきる力が手に入り,人生にやる気が起きてくる

人生がドラマというよりは,人生という舞台そのもので自分が主役を演ずるということについては,ずいぶん前に,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/cat_376026-1.html

で触れた。その意味で,人は演ずるということに,てれはあっても,不慣れではないという気はあった。だからよけい関心があった。

ところで,もうひとつ,最近強く意識していることは,言葉にする,ということだ。口に出さないことは,伝わらない。これが自分の原則で,考えてみると,言語にしてみる,口に出してみる,ということは結構重要だと感じることが多い。

コーチングで言うオートクラインもそうだが,われわれの内面では,言語のスピードの20~30倍のスピードで思いや妄想や感情が流れているといわれている。それを言葉に置き換えて口に出そうとする。その瞬間の操作も重要だが,一旦口に出た言葉を,われわれは情報として聞く。そこで気づきや確認が起きるが,言語化する一つの意味は,そこにある。

もうひとつは,ヴィトゲンシュタインが,「人は持っている言葉によって,見えている世界が違う」といったと記憶している。われわれは言葉で発想し,言葉でものを見る。パワハラという言葉を知らなければ,上司が部下を叱っていても,ハラスメントとは思わなかったはずで,われわれは知っている言葉でものを見,ものを認識している。しかしその言語に置き換えてみて,初めて,自分の中で,そこに見える光景があるかもしれないし,それとは違うニュアンス,微妙な違いを意識して,別の表現に置き換えようとするかもしれない。その脳の活性化が起きるためには,ともかく言語化しなくてはならない。

こんなことを意識していた。ドラマについても,コトバ化のもたらす光景を強く意識していた。

実際にやった結果はちょっと違う印象を持った。ただ,いくつものワークをやり,一つ一つの狙いまではきちんと記憶していないので,覚えている範囲で,あるいは順序が違ったり,大事なものが抜けたりしているかもしれないが,自分なりに振り返って,自分の得たものを整理しておきたい。

まずひとつは,なりきりワーク。あるシチュエーションでの人物,例えばこのときは,借金をしようとする男と,貸してくれと頼まれている人物という設定でやった(これは,恋を告白している男とそれを聞いている人物等々いくらでも他のバリエーションが可能だ)。それになりきり,借金を頼む場面をやり取りし,一旦時間を止めて,その瞬間の頼まくれている人物と頼んでいる男の内心の声も,別の人がその背後で声に出して表現し,さらには,貸してくれと言っている男自身が,自分の座っていた空の椅子に向かって,本人が励ます,といったワークをやった。

ここの眼目は,誰が主役かどうかは別に,客観的な場面と同時に,内面の思いや気持ちを言語として,あるいは代役として人をそこに立たせて語らせる,しかしも自分自身も自分と対話する,というように,単純な二者関係を,心の会話,本人の対話と複線化することで,どこに自分を置いても,自分を客観的に,対象化できるというところにあるように思う。

もともとドラマ自体が,今の普通の生活を,少し強調したり,ピンポイントに焦点を合わせたりして,客観的に見させている部分がある。それを使っていると言えば言えるのかもしれないが,人の関係図,心の構図,裏面の心理関係図を,一つ一つ紐解くように,立体化することで,確かに見えてくるものがあるような気がする。

TA(交流分析)で,両者の対話を,それぞれのP(Parentな自我状態),A(Adultな自我状態),C(Childな自我状態)とどうかかわっているか,を相互交流,相補交流,交叉的交流,平行交流,裏面的交流等々で分析しているが,これも,人で,現実に体現させて,親的人,大人の人,子供な人で,具現化して,それぞれの言葉をしゃべらせてみたら,きっとその交流の面白さが出てくる気がした。

このワークで,両者の動きを止めて,どう動かしたいかを決めさせる場面があった。これと似た経験は,システムコーチングで,家族やチームの人的関係を,人を立たせて,自分との距離や向きをきめ,それをどう動かしたいかを考えさせ,実際にそれぞれの位置関係を動かすというワークに参加したことがある。その位置関係を変えただけで,その課題を提出した人には,大きな気づきがあった。ただ,今回は,自分の課題ではなく,つくったシチュエーションであったために,例えば,借り手役をやった人に内面の動きが起きたわけではないが,構図を具体的に動かすことで,事態が動き,解決したい方向が見える気がした。

続いて,タイトルは忘れたが,自分の中の障害を外在化する,というワーク(タイトルと狙いは違うかもしれないし,他のものと混同があるかもしれない)をやった。確か富山へ旅行したいと思っているが,その障害として,冬の天候,飛行機,宿,家族というものを,自分の前に並べ,その背後に,確かすでに現地へ行っている自分を置いていたと思う。面白いのは,心の中の障害を,人に体現させて,一つ一つ対話しながら,説得したりされたりするうちに,自分の中で何かが解けていく感じがあった。クリアした障害は,本人の後ろ盾となって,励ます役をやるが,まさにサポートするリソースという感じだし,将来の自分(ゴールイメージ)も,手を貸す。

この辺りは,CTPのコーチングフローを,具体像で展開しているのに近い。あるいはブリーフセラピーやナラティブセラピーで,問題の外在化と言って,問題に名づけして,たとえば,なまけ虫というように,名付けて,それを本人も含めた家族と一緒に何とかしようとする。病気を本人と一体化させず,症状や病気を外にある何か悪者にして,それと戦う。それを思い出させる。

ただ,頭の中のイメージで想定すると,その障害が等身大より大きくなったり,小さく錯覚したりする。これを,現実の障害の大きさに合わせて,大きな人,難しい人を使って具体的に体現させていく。実際には,途中でそれがどんどん変わっていくので,そのつどそれにあった人に変えていく。たとえば,小さくなったら小さな人に変ええていくということで,一瞬一瞬のクリアの変化に対応させられたら,ゲーム感覚で面白いかもしれない(とすれば,何も人でなくても,アニメでもCGでもできる?)。

さらにやったのは,自分が舞台に立とうとする迷いを,ひとりで歩いて考えている場面で実現しようとしたところ。ここは,いきなり,街をつくる,ということで,カップルだの他の通行人が設定され,その中を,本人役の人が歩いて考えている場面をつくる。それに,不安,恐れ,迷い等々といった心の中の思いや気持ちを,具体的に人で体現させ,自分役の人の周りに配置させる。
その上でさらに,「追加したいものは」と問われて,確か希望といったと思うが,それを,自分を前から手を引く形に配置した。さらに「いらないものは」と問われて,順次,恐れや不安を除いたところで,本人自身が,本人役に代わって,その立ち位置に立つことになった。その瞬間の,笑顔がいい。本人の振り返りの言葉,「いらない思いは取り除ける」とは,けだし名言。

これは,一人でもできるかもしれない。例えば,フィギュアを使ってもいいし,紙人形を使っても言い,自分を押しとどめる思いや不安を,すべて洗い出して,自分の周りに配置する。そして,いらないものを取り除き,自分にふさわしい思いに取り囲まれれば,それ自体元気になるに決まっている。

確か最後は,これだけタイトルを覚えているが,マジックショップだった。課題を持っている人が,ここでは,セミナーをやりたいということだったが,その講師育成セミナーでの場面を再現し,そこで審査員,参加者を配置し,本人に,冒頭のトークをし,審査員席と立ち位置を変えてみてもらって,気づいたことを言ってもらったが,ここはこれまでのなりきりと同じ。
このワークの目玉は,その人に一つだけ質問し(本人は答えない),その反応を見ながら,一つ商品を提供するというところ。たとえば,10分大声の出せる薬,持てばすべてが叶う夢の箱等々とか,売り手が質問したことから思いついた夢の商品を売り込む。本人がその中から一つ手に入れて(確かこのときは10分持つジョークの薬とかなんとかいうものだった),それを手にして,次に講師役をやると,別に何かが具体的に変わったとは見えないのに,どういうことなのか,その場で受けたジョーク(コメの新米と新人の新米を掛けたダジャレ)を交えて,前とはうって変ったトークをしていた。

その豹変も面白いが,「もらっただけではなく,大事なものを手放して,お返ししなくてはならない」ということで,今度は,自分が「鎧」を手放す,という話になったと思う。このあたり細かいやり取りと手順を忘れているのだが,質問をしてくださいというので,どなたかが「代わりに何を着ます」というような趣旨の質問をされたと思うが,その答えが,「熊のぬいぐるみ」であった。

そこから,(またちょっと記憶があいまいだが)それがなりたい自分とすると,鎧を着ているいまの自分から,そこまでを,代役の人を実際に並べて,クライアント役の人は,ゴールを見ながら,順次一人ずつにポーズを取らせていく。確か5人位が並んだと思うが,その中で,今の自分がちょっと胸をそらした格好から,次は脚を開いて,で真ん中あたりで,手を挙げる格好を取らせたところから,少し変化が始まり,最後は,両手を挙げる熊のぬいぐるみまでの,少しずつ変化していく流れを設定し,最後に,それぞれにセリフをつけて,各格好ごとに声を出させていった。

このプロセスで,自分の変化をわずかな時間に経験したクライアント役の人は,何か大きなヒントをつかんだ気がする。シンボル的ではあっても,少しずつ具体的に変化する姿を,一コマ漫画みたいに,目の当たりに作り出すことで,それは,確実に変われるステップが見えたのではないか,という気がしている。

人はメンタルモデルを頭の中で描き,ぐるぐる回して見せることもできる。視点を変えて実際にその位置に立って見えるものを想像することもできる。しかし,それは所詮頭の中だけのことだ。実際に,人を立たせ,それを外から俯瞰し,しかも,その身体表現や肉声を聞くことで,体感覚で受け止めるものが大きい。クライアント役の方が,「自分は体感覚なのだと気づいた」と言われたが,眠っていた,あるいは押し込まれていた体感覚が蘇ったというのが正しそうだ。

われわれは,本来立体のものを二次元に置き換えて頭に入れている。そこには無理があるのかもしれない。立体印刷もあり,3D,4Dも技術的に可能になった今,ひょっとすると,ドラマdeコーチングは,イマジネーションの世界ではなく,リアルにできるのかもしれない。

ただ,それを一人で自己完結させてやるのは,自分で制約をつけてしまうので,あまり意味はないような気がする。やはり,てれながら,汗をかきながら,人の眼を借り,人の手を借りてやっていくところに,自分への効果が出てくる気がする。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#ドラマ
#なりきりワーク
#高田天朗


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2013年02月01日

早起きをめぐって


フェイスブックの早起き賊のコミュニティに入れていただいてだいぶんになる。その早起き賊が,先日,

http://www.facebook.com/home.php#!/events/311344415644940/335467316565983/?notif_t=plan_mall_activity

夜の会を開いた。今回,初めて参加させていただいた。早起きについて,たまたま夜型の人もいたせいか,逆に早起きのいいところがかなりあげられた。ただこれは生活のリズムなので,どちらの方が,自分の生活リズムかというのに過ぎない気がするが,どちらにしろ,リズムとして,それを見つけたかどうかは大きい気がする。

僕自身は,早起きに特別強い思い入れがあるわけではないが,独立した40代のころ,ぐだぐだと夜遅くまで起きていて,生産的ではなかったので,朝型に変えようと思ったのが,きっかけだ。それと,その少し前から,せめてウォーキングして体を鍛えておきたいと,夕方歩いていたが,どうも通勤帰りの人とすれ違うのも面映ゆいので,それなら,早い方がいいということもあったのだと思う。

たぶん最初は,5時位を目安にしたように思う。そのうち少しずつ早くなって,まだ暗いうちから歩くようになった。早朝,近所の早渕川の土手を歩くのだが,ある時間帯までは,すれ違う人同士が,「おはようございます」と言うか会釈をしていき違う。しかし,面白いことに,時間帯が少し遅くなるにつれて,そのやりとりが少なくなり,昼間は全く交わさない。夕方歩いていた時は,ただの用事で歩いているのか,ウォーキングかの区別もつかないせいか,あいさつをまったく交わしていなかった。

早渕川だけの傾向なのかどうかは知らない。ただ挨拶を交わしていくうちに,顔なじみができ,たまに,少し言葉を交わすことがあったりする。「もう10年くらいになるねぇ」と言われたこともある。それだけ長い間,お互いウォーキングしている,お疲れ様というのが言外にある。

特に朝型がいいとは思わないが,あえて利点を挙げると,

①自分だけの自由になる時間が,早く起きた分だけある
②夜更かし型よりは,同じ時間起きているはずなのに,1日が長く感じる
③生活のリズムが大事だが,朝早く起きた分だけ,その日のリズムをつくりだしやすい
④その日活動する前にゆとりの時間が持て,心の準備も,実際の準備もするゆとりがある
⑤受信への返事にしろ,依頼の送信にしろ,相手が活動する前に送るため,なんとなくアドバンテージがある

ともかく,生活のリズムを人より先に動き出すことで,心に余裕があり,何かの準備にしろ,段取りを立てるにしろ,自分ペースでやりやすい,そんな気がする。

瞑想とは言わないが,前にも紹介したが,『U理論』で,10~30分間の「朝の習慣」として,こんなことが書かれていた。

朝起きて(まだ誰も起きないうちに)自分にとって一番効果のある静かな場所へ行き(自然の中がいいのだが,効果があるならどこでもいいだろう),内なる叡智を出現させる。
●自分なりの習慣となっている方法で自分を自分の源につなげる。それは瞑想でもいいし祈りでもいい。あるいは開かれた心と開かれた思考で入っていく意図的な静寂でもいい。
●人生の中で,いま自分がいる場所へ自分を連れてきたものが何であるかを思い出す。すなわち,真正の自己とは何か,自分のなすべき真の仕事は何か,何のために自分はここにいるのかと,問うことを忘れない。
●自分が奉仕したいものに対してコミットする。自分が仕えたい目的(より大きな全体性)に集中する。
●いまはじめようとしている今日という日に達成したいこと(あるいは奉仕したいこと)に集中する。
●いまある人生を生きる機会を与えられたことに感謝する。自分が今いる場に自分を導いてくれたような機会を持ったことのないすべての人の気持ちになってみる。自分に与えられた機会に伴う責任を認識する。他の人々,他のすべての存在,自然のすべて,さらには宇宙に対する責任も。
●道に迷わないように,あるいは道をそれないように,助けを求める。自分が進むべき道は自分だけが発見できる旅だ。その旅の本質は,自分,自分のプレゼンス,最高の未来の自己を通してのみ世の中にもたらされる贈り物だ。しかし,それは一人ではできない。だから手助けを求めるのだ。

そして,朝の習慣について,こう言っている。

朝の静寂の中での習慣は,交響曲の最後の音と,拍手が始まるまでの瞬間にたとえることができる。その瞬間聞き手の存在のすべては音楽と共鳴している。同じように,目覚めのときは,一夜の深い眠りの無音の音楽と自分の存在のすべてがまだ共鳴をし続けている。目覚まし時計はこの貴重な時間と空間を破壊(もしくは邪魔)する。肝心なのは,その瞬間をすぐに手放さないようにすることだ。「その瞬間の音楽」に耳を傾け,注意を払うことによってその能力を育み,そのうち一日中その音楽と共鳴していられるようになる。

まあ,朝誰も起きていない時間帯は,誰にもわずらわされない,結構自由な時間であることだけは確かのようだ。

参考文献;
C・オットー・シャーマー『U理論』(英治出版)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#C・オットー・シャーマー
#早起き賊
#早起き
#生活習慣
#生き方
#『U理論』

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2013年05月14日

コツコツ習慣


先日,ある交流会で,「目標を実現するための“コツコツ習慣”のススメ」という佐藤公和さん(マイケル・ボルダック認定プロコーチ)の講演を聴く機会があった。一方的な講演というよりも,少人数のせいもあってか,ほとんどワーク中心の,ワークショップに近いスタイルであった。

要は,やりたいことをやり遂げようとする時,そこで障壁として出てくるのは,やらなくてはならないことの数々だ。それを,「コツコツ習慣化」することで,ひとつひとつクリアしていこう,ということだ。


このやりたいこととやらなくてはならないことについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11184445.html

で触れた。結局,夢という思いを,現実に達成していくのは,手足のちから,脚力なのだ。

いかなるビジョンもまがいものの実践では,ユメを実現できない,

という。その通りだ。そのキーになるリソース,経験を自分はどのくらい持っているのか,そこを明確にするワークであった。

コツコツ習慣のポイントは3つ。

①振り返り
②応用
③実践しながらの習慣化

それをワークシートに記述しながら,自分の中で具体化していった。

ワーク①は続けようとしていることについて不安の具体化。

僕はたまたまその前日からツイッターを始めたため,その持続について,不安というより,めんどくささを感じていた。

ワーク②は,過去にどうやってやるべきことを乗り越えたかの経験を洗い出す。

ひとつは,以前やっていた,庭の松の剪定。仕方なくやっていたが,そこで気づいたことがある。ひとつひとつの葉っぱを間引いていく,気の遠くなるような作業だが,全体を見ながら,コツコツ積み上げていくと,必ずいつかは終わる。その時間は,一回ごとの確実さによる。手抜きをすると,手戻りが起こる。

いまひとつは,最初の本を書いたとき,編集者に一蹴されて,全くゼロから書き直した。この時ほど集中して,言いたいことを書いた記憶はない。この経験から,リセットして,ゼロから別バージョンを書き直すのは,存外平気で,最大10回書き直したことがある。

98からホームページを開設し,ほぼこれだけで食べてきたが,いつの間にか,検索エンジンのトップページ,トップにさえランクされるページが出た。これも丹念に日々更新し,増築し続けた成果だと思っている。

ワーク③過去の経験から鑑みて,自分が乗り越えていく条件(コツコツポイント)は何か。

自分独自の考え方のポイントやアイデア,オリジナリティの根拠のようなものが明確になると,エネルギーが上がり,やる気スイッチが入り,集中出来る。自分なりのオリジナルポイントをどう見つけるかがカギになる。

ワーク④今やらなくてはならないことは何か

これは,ツイッターで,つぶやくことだが,毎日習慣化していくためには,何かがいる,と感じている。

ワーク⑤今やらなくてはならないことにコツコツポイントを当てはめてみる。

はっきりしているのは,自分独自のツイッターの位置づけと,ツイッターの書く方針を見つけることだ。始めたその日,ドトールでの経験を書いたが,それがいきなりリツィートされた。そこから考えると,自分独自のものの見方お,現実の切り取り方が大事なのだと思う。

一応,ツイッターの位置づけは,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11185729.html

に書いた。これを自分流儀に書き換えていく必要がある。

ワーク⑥まず今日から何をコツコツ始めるか

これは,独自のツイッターのつぶやきにするには,独自の物の見方や考え方を語らなくてはならない。日々観察眼を鋭く,ブログとリンクさせながら,オリジナルなつぶやきを見つけて行かなくてはならない。

以上が,ワークしたことだが,やらなくてはならないことをやらなければ,一歩も前へは出られない。その習慣化
のポイントは,

①無理のない続けられるペースを決める
②できないときどうするか決めておく
③完璧主義にならない

ということだ。当たり前のようだが,淡々と,日々諦めず,こなし続けていくことは,そうたやすいことではない。ブログの毎日更新と同時に,毎日独自の観察を続けたい。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#佐藤公和
#マイケル・ボルダック認定プロコーチ
#コツコツ習慣
#ツイッター
#リツィート
#ツィート
#ワークショップ
#オリジナリティ
#観察眼
#完璧主義

posted by Toshi at 04:25| ワークショップ | 更新情報をチェックする

2013年05月15日

信頼


先日,コーチング・サロンに参加した。テーマは,「信頼を語る」。

http://www.facebook.com/home.php#!/events/136686209846866/

案内には,こうあった。

皆様は「信頼」という言葉をどのように使っていますか。同じ言葉でも,その言葉から受ける印象や使い方は人それぞれです。「築くのは大変だが,壊れるのは一瞬」と言われている「信頼」。広辞苑(第四版)では「信じて頼ること」となっていますが,そもそも「信じるって?」「頼るって?」。信用,信頼,誠実,責任...いろいろな言葉との関係がありそうな「信頼」。

参加前に,自分なりに考えていたのは,「信じて」「頼む(頼る)」と分けてみて,「誰を」「何について」と考えていた。そう考えると,場所や関係性が具体的に見えるような気がしていた。

しかし参加して,すぐに,違うと気づいた。「信頼」ということは,意識的な作業なのではないか。実は「信頼」状態にあることと,「信頼」を意識することとは少し乖離がある,もう少し踏み込むと,信頼状態にあるとき,あるいは信頼関係ができているときは,信頼が意識されることはないのではないか,ということだ。

さてワークショップは,

①信頼体験
②自己信頼
③信頼カルタつくり

の流れで進められることになる。

①信頼体験
信頼体験については,人に対する信頼体験,モノ・コトに対する信頼体験を分けて,三人一組でシェアしあった。

・人との信頼
僕は信頼しないで「信頼関係」ができているという意味で家人を上げた。それは,最初の気づきに基づく。信頼ということを意識しているときは,そこに信頼状態はない,ないしは,信頼状態が薄い,と感じているからだ。

三人の中で出てきたのは,「共通項」「何かの出来事をきっかけに一瞬で信頼ができる」ということであった。しかし,一瞬でできる信頼関係と積み上げていく信頼関係とは,別の物なのか,一つの流れなのかは,問題提起のままになった。

僕は,その関係が,私的関係か公的ないしビジネス関係かによって,その「信頼」という言葉がニュアンスが違う気がする。信頼できる友人・知人という場合と,信頼できるビジネスパートナー,あるいは信頼できる取引先といった言い方にある,微妙な差で,ひとくくりにしていいかどうかは,難しい。

・モノ・コトとの信頼
僕は本を挙げた。本を通した著者との関係のようなものだ。そこにあるのは,それを書いた人,書いたこととの信頼関係に近い。好きな作家という言い方とは別で,何かある時,「彼(彼女)はどう考えるだろう」という,自分の思考や思想の先行指標のようなものだ。それは,僕には二人。詩人の吉本隆明と作家の古井由吉だ。

その背景にあるのは,その人の生きざまというものへの信頼がある。生き方ではない。おのれの生き方を意識して生きている,という意味だ。もっと踏み込むと,その人がどんな修羅場をくぐったかだ。修羅場というのは,一般的な苦労体験とか地獄という意味ではない。その人自身にとって,自分のキャパシティを超えて,何かに取り組み,それを通して自分の伸び白を引っ張りに引っ張った体験といっていい。

そういう体験をしていない人は,自分の限界を設定し,その枠の中で生きている。だから限界を知らない。あるいは持っている資質だけでこなしている。その意味では,自分がどうにもならないような,自分の限界を超えに超えて,なんとかかんとか壁や障害を突破したことがなければ,いまそういう状態になっている相手のことが決して理解できず,能力かスキルの問題にしてしまうだろう。そうすることで訓練可能なものにする。だから,「勉強不足」「トレーニング不足」としてしまう。机上の勉強や箱庭でのトレーニングでは身につかないものがあることがわからない。

・信頼のキーワード
そこで,自分にとっての信頼のキーワードを書き出すことになる。僕が書いたのは,

自然な関係(信頼とか信頼の有無とかを意識しないでできている状態)
生きざま(その人の生きざまが信じられる。そこに裏表がない)
共通体験(できるなら修羅場体験を共有する)

②自己信頼
これはワークで,一人がコーチ役になって,右手に信頼する自分を置き,それを確かめ,続いて左手に信頼しない自分を置いて,それを確かめ,それぞれにネーミングをつけるという作業をした。結果,その両手を組み合わせて,統合したイメージを言語化したのだが,僕の場合は,

風船(のイメージの信頼しない自分)に包まれた鉄球(のイメージの信頼する自分で,重く黒々した球)

というイメージになった。僕のそういうネーミングやイメージを,相手をしていただいたコーチは,「現実的」と表現した。自分が現実的とは考えたことがなかったが,ふわふわした幻想や空想に走らないことを指しているのか,と受け止めた。ちょっと意外な評価であった。

③信頼を表現する(カルタにする)
僕が最終的にまとめたのは,「体験を共有する」ということだ。特に,修羅場を一緒に体験した仲間とは,言葉では言えない関係がある,そんな気がしているし,そういう関係が確かに手元にある。

やはり,最終的に,「信頼」ということが意識にのぼる時は,

そこにまだ信頼がないか,
あったはずの信頼が崩れかけているか,
信頼を意識しなくてはならないような亀裂を感じたか,

いずれにしても,信頼が危うい時なのではないか,と感じた。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#信頼
#信頼体験
#自己信頼
#修羅場
posted by Toshi at 04:52| Comment(15) | ワークショップ | 更新情報をチェックする

2013年07月08日

コーチングの会話


猪俣恭子コーチのコーチング力ブラッシュアップセミナーに参加してきた。

案内には,こうあった。

セミナーは,コーチとしてスキルアップするのに一番いいのは,実際にコーチすること,そしてフィードバックをもらうこと。今回のセミナーでは,コーチのコアコンピテンシーに沿いながら,既にあなたがしていること,コーチとしての強みや課題をフィードバックしあいます。そのために,まずはあなたがどんなコーチを目指しているのか,どんなスキルを備えたいと思っているのか,コーチとしてのビジョンを描くことからスタートします。

ということで,最初に,事前課題で,「コーチのスタンス・前提(たいせつにしていること,意識していること)」を書き出してきたので,最近のいつもの口癖だが,自分の目指しているものとして,

・コーチであることを手放す
・風になる
・仮説をもたない

を申し上げた。どういうわけだか,籤を引いたら,一番で,最初にコーチ役として,コーチングセッションをすることになった。今日はおまけがあり,コーチングセッションの会話を板書していただくことになり,普通なら消えて行くコーチングの会話が残った。まあ,お得かもしれない…かも。

ということで,コーチの言ったことだけ挙げていくと,次のような流れになる。クライアントの話をカットしているが,おおよその流れは読めるはず。

今日はどんな話を…

10分後どんなことが明確になったらいいですか。

メンタルが見えてくる?

一番の希望は何? 

メニューってどうしたいの?

どんな?

具体的にはどんな?

ご自分だったら何があったらそれに行きたいですか?何があれば「これだ」って思いますか?

どうしてもキャッチフレーズ考えますね?

他には?

たとえば,文言,雰囲気…

とすると?

逆に言うと,何があったらそういうものを探しますか?

使えますか?

それもひっかかってるんですね…

そもそも何をしたいんですか?

聞いてみたら?

最後のところで,「そもそも何をしたいんですか?」という問いが出ているのと,「10分後どんなことが明確になったらいいですか」の明確な答えのないままコーチングを進めてしまっている,というところをのぞくと,まあ,たぶん,僕のやっているコーチングの流れだ。

これに対して,ICFのコア・コンピテンシーのリストに沿って,フィードバックを受けることになった。その場でメモを取っていないので, それは端折るが,切り口が絞れている分こちらは聞きやすいし,非や否は入らず,コア・コンピテンシーのどの項目に当たるか,だけをフィードバックされるので,是と可しかない。ある意味で,承認のオンパレードということになる。それでも,自分でいろいろ考えるきっかけにはなる。

相手の話の流れに沿って,浮かんでくる質問なので,僕には予断が(少)ないと感じたし,相手の話のリズムとテンポに沿って聴いていくので,クライアントのリズムを崩すことはないのではないか,そんなことを(勝手に思い込み)感じたエクササイズであった。

一応,主観的には,流れるように,テンポよく,

Dance in the moment



Dance in this moment

の「the」か「this」を大事にしているつもりだが,せっかくなので,反省は省いて,自己承認のまま終えておこう。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#猪俣恭子
#コーチング
#コーチ
#ICF
#コア・コンピテンシー
#Dance in the moment
#Dance in this moment

posted by Toshi at 05:32| Comment(215) | ワークショップ | 更新情報をチェックする

2013年08月12日


死生命有
富貴天に在り(『論語』)

という。ここでいう,天には,「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つが並列されている。

つまり,天命には,二つの意味があり,一つは,天の与えた使命,

五十にして天命を知る

の天命である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,「死生命有」の寿命である。

しかし,いまひとつ,

彼を是とし又此れを非とすれば,是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る(横井小楠)

あるいは,

心虚なれば即ち天を見る,天理万物和す
紛紛たる閑是非,一笑逝波に付さん(同)

で言う天は,「天理」のことだ。もう少し敷衍すると,

道既に形躰無ければ,心何ぞ拘泥あらんや
達人能く明らかにし了えて,渾(す)べて天地の勢いに順う(同)

でいう天地自然の勢いとなる。まあ,自然の流れ,というとあなたまかせだが,天理,自然の道理というと,人間としてのコアの倫理に通じていく。だから,

人事を尽くして天命を俟つ

の天命は,神田橋條治氏流に,逆に言うと,

天命を信じて人事を尽くす

には,コアの天理にかなうはずという,自らへの確信という,主体的な意味がある。

先日降霊というワークに初めて参加したが,その霊を,天と考えると,僕にはわかりやすい。選択に迷った時,何を聞くか,心の声であり,天の声だ。天の声は,天理に通じ,天命に従う。

心虚なれば即ち天を見る

とは,「虚心見理」である。

このとき,自分を離れ,ただ自分を空洞にして,あるいは高感度のマイクとアンプになって,虚心に,天に耳を傾ける。我利我執を捨てることも,利害得失を手放すことも,そうはできない。しかしそういう自分を遠ざけ,心を宙にさまよわせてみる。

之を天に照らす

という。

姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る

と小楠が言うのは,

惻隠の心無きは,人に非ざるなり。辞譲の心無きは,人に非ざるなり。是非の心無きは,人に非ざるなり。惻隠の心は仁の端(はじめ)なり。羞恥の心は,義の端なり。辞譲の心は,礼の端なり。是非の心は,智の端なり。

と老子の言う「是非」を,置けということだ。

是に因り非に因り,非に因り是に因る。是を以て聖人は因らずして,之を天に照らす。(『荘子』)

天の声を虚心に聞く。まだまだ智に因ろうとする傾向が強い。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#横井小楠
#論語
#孟子
#天命
#天理
#神田橋條治
#我利我執

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2013年09月11日

プレイフル



コーチング・サロン「プレイフル思考を探る」に参加してきた。

https://www.facebook.com/events/497317930352656/

メールでいただいた案内文は,

9月のコーチングサロンは、リカちゃん人形を世に広めたプロデューサでもあるエフプレイラボ代表、早稲田大学川口芸術学校講師の福井修己さんに「プレイフル思考」と題してワークを創ってもらいました。
プレイフルとは物事に対してワクワクドキドキする、心の状態、人と人との関係などを指した言葉です。みんなで、共に想像し、共に描き、共に作りながら、ワクワクドキドキする状況を創り出していくにはどうしたらいいかを探っていきます。

福井修己さんからのメッセージは,

今の社会に閉塞感を感じていらっしゃる方も増えてきているように感じています。
世の中の人と人との関係、環境、仕事、生き方など、もっとプレイフルになればいいなと願っています。
今回は、描いたり、話したり、作ったりすることを、みんなで一緒に楽しみながら、
どうすればプレイフルな関係を生み出せるか、などについて、探っていきたいと思います。
共想、共創、協働がテーマです。ぜひ遊び心、子供心を持って気楽にご参加ください。

プレイフルとは,物事に対してワクワクドキドキする心の状態を言う。

で,わくわくどきどきのワークは,回し絵(?)から始まった。

まずひとりひとりが,紙に,顔の輪郭を描く,目をつむって。それを順次,隣へ回して,目と眉毛,次に鼻,次に口,そこで自分のところへ回ってきて,髪やら,首以下やら,彩色したりと,それぞれ筆を加えて完成させる。

完成させたのは,

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=500085540065977&set=a.167011973373337.41272.100001936075076&type=1&theater

というように,なかなかユニーク。

これは,一種のキャッチボールになっている。しかも,否定はない。回ってきた素材に,自分なりに何かを加えていく。一応全体のバランスを考えているようで,天地を逆に受け取っている場合もあるので,一人で完成させる,自己完結した絵のかき方とは異なる。

これは,アイデアを発想するのに似ている。アイデアは自己完結していけないというのが鉄則。そうすと,否定はない。相手の発想と自分の発想とがぶつかり合い,そこに,異質な意味が見えてくる。創造性とは,本来バラバラで異質なものに意味あるような組み合わせを見つけること,あるいは,意味あるようなつながりを見つけることだとすると,足して二で割る,等々というお手軽は,発想とは言わない。

ここでやった作業は,そこまでバチバチと火花が散るわけではないが,異質な発想が積み上げたものを,消したり,隠したりせず,そのまま生かして,完成させていくというところに,言ってみると,異質だが,個々の良さをそのまま抱え込んで,一つにまとめていく,というのに似ている。

この中から一枚えらんで,話をつなげていく,というのをやったが,まあこれは,よくやることだが,違いは,カードを引いて,そこに出る接続詞,たとえば,ということで,けれども,そうはいっても等々を接着剤に,話を展開していく。しかし,考えると,つなぎの言葉が,次の話の方向を決めてくれるわけでもあるので,素手で,前から回ってきた話を作っていくよりは,楽ではあった。

これも一種キャッチボールになっている。しかも,前の話を聞いていないと,つながらないというか,展開を急展開にすることもできない。その意味では,イマジネーションのワークというよりは,全体の話を頭に描きながら,次へとつなげていく,聴く力が試されているとも言えるのかもしれない。

イマジネーションは,その人の意識にないものは放射できない。その意味では,人によって,同じことを聞いていても,別のものを想定する,その面でもキャッチボールそのものかもしれない。

次は,一人一人が,自分の過去の楽しかったこと,面白かったことを,絵にする,というワーク。実は,これがなかなか難しい。例えば,凧揚げを書こうとしても,その動作を書こうとすると,絵の技術がついていかない。あるいは,映画館でも,それをどう表現していいかわからない。

イメージは浮かんでも,それを動きのある絵としたり,人と人の絡み合いのようなものになると,なかなか表現しきれない。

で,結果として,象徴的に描く,という方法を取らざるを得なくなる。例えば,凧揚げだったら凧,映画館だったらスクリーン,ゴム飛行機なら,その完成した姿等々というように,ここでも,表現のスキルの足りないところを,自分のリソースを引き出す方向で表現しようとしている。それが,ある面,この作業の狙いかもしれない。

できるか

ではなく,

どうすればできるか,

それがプレイフルのマインドとなる。それも,発想と同じである。発想については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11278356.html

で書いたが,発想とは,

できない,

ではなく,

どうすれば可能になるか,

を考えることなのだから。

さて,個人で書いた絵は,巻物のように,つなげていく。それはそれで,一つのストーリーになる。絵の持つ,説明力は,多義性,多重性なので,象徴的に描いたものが,逆に生きてくる。

最後は,未来の自分の夢を絵にする。ここでもできるかできないではなく,そうなったらいいという,どこでもドアのようなもの,ということだったが,人は,そう途方もないことをイメージできない。なぜなら,意識にないものはイメージ化できない,ある意味で,それは,いまの心の中にあるものを,

最大限に膨張させたもの,

になる。それはだから,実現可能性が高い,ということだ。

僕は,ボディの伸縮可能なキャンピングカーをイメージした。高倉健の『あなたへ』を最近観たせてかもしれない。

全体として,僕はワクワクドキドキというよりは,(自分も相手も)否定しないことが生む可能性ということを再確認した感じだ。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#プレイフル
#福井修己
#コーチング・サロン
#ブレインストーミング
#高倉健
#あなたへ


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2014年03月20日

生かされてある


「地に足をつけてご機嫌に生きる」(川本恵コーチ)のワークショップに参加してきた。

https://www.facebook.com/pages/%E5%9C%B0%E3%81%AB%E8%B6%B3%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%94%E6%A9%9F%E5%AB%8C%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B/428899830548619

もう何度目だろう。僕の中に,

大地に根が生える,

というとちょっと言い過ぎだが,

地軸につながる,

というか,

大地に足をつける,

という感覚が,すこしだけある。グランディングしている最中,地軸を意識した時,錯覚かもしれないが,

何かが,すっと身体を通り抜けていく,

感覚がある。胸キュンとはちょっと違うが,胸を,

じん,

とさせる何かが湧く。

グランディングのエクササイズは,時に,変化しているので,ある程度,

やっていても,

グランディングになっていない,ということが起きる。

今回は,従来と全く違う,

マカバチャクラ・スペシャル・エクササイズに変わった。

その多くは,

感謝と身体の確認

である。特に,今回加わった,おのが身体の部位を順次,確かめる動作をしているうちに,つくづく思ったのは,そうやって身体を意識する中で,

生かされてある,

ということを強く感じさせられたことだ。これは,

天,

あるいは,

天命,

と,関わる気がする。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163401.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163558.html

にも書いたが,そこで書いたように,清澤満之が,

天命を安んじて人事尽くす,

と言った言葉に惹かれる。

人事を尽くして天命を待つ

で,どこかに驕りがある。我欲がある。しかし,

天命を安んじて人事尽くす,

には,甘んずる,ということもあるが。そうではなく,

そこにある,

生かされてある,

を丸ごと受け入れている感じがある。

生かされている,

のでは軽く,

生かされてある,

がピタリ来る。

だから,

受け入れる,

あるいは,

引き受ける,

には積極的に,ここに生きていることを,認め,あるいは,

感謝する,

思いがある。

感謝は,まるごと,この世界に,いま,自分があることの,感謝である。

ほかでもなく,この人との関わりの中に,いま,このときに,生きてある,

その特別性を,

自分が認知するからこそ,意味が見える。とすれば,

一刻一刻,

一瞬一秒,

も無駄な時間はない。

やらなくてはならないことが,山積している。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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2014年10月11日

ニーズ


少し前のことになるが,あるワークショップで,こういうワークをした。

自分がしたいと思ったことをまず書く。なりたい,したい,ありたい等々。

続いて,それが実現したらもたらされる不快な状況,ふるいは不快感を書き出す。たとえば,

誰にも見向きもされない
とか
マイナスばかりが目立つのではないか
とか
くだらないことをしやがってと悪口を言われる
とか
酷評される
とか

といった自分にとっては,心理的に不愉快な状況が思い浮かぶことで,人から,あるいは,自分自身で,どう裁かれるのが怖いか,を挙げる。たとえば,ひとから,

やっぱり才能ないね,
とか
ほら見たことか,
とか
あらが目立つね,

と裁かれたり,自分自身も,

そんなことをする資格がない
とか
結局後悔するだけだ,
とか
能力がない
とか
自分の能力では難しい

等々裁いたりする。つまり,自分の夢については,「無理」とか「才能ない」と自分で意味告げていることになる。しかし,上記の自分への裁きは本当だろうか,その恐れや思い込みが,自分が足を踏み出すのを妨げているのではないか,ということに気づく,というものである。

自分の書き方が正しいかどうかはわからないが,自分の中の思い込みが,自分の脚を引っ張っているということは,確かにある。ただ,一方で,そうやって思いとどまることで,自分がやりたいと思っていることが,単なる

思いつき

で,あまり深く考えていなかったことだ,ということに思い至ることはあった。その意味で,ニーズ(自分の求めていること)に適うか適わないかの目安が,

心地がいいか悪いか

というのはよく分かる。不快というか,気分が乗らないというのは,確かに本当には望んでいなかったことなのだろう。

思うに,恐怖は,扁桃体に関わる,人間の基本的な情動で,これが生きのびる基本なのだから,当たり前と言えば当たり前だろうとは思う。

やりたいと思って始めても,どこかで,嫌がっている自分がいるときは,続かないし,やめたいと思う。それでも,自分の役割として,また責務としてやらなくてはならないことはあるし,それをきちんとやるのが,責任をとることとは思うが,それを果たすと,さっさとその役割から降りてしまうところが,僕には確かにある。

ただ僕は,このワークをしつつ感じたことは,

したい,

と思うことが

出来ない,
やれない,
やらない,

のがぼくの問題ではなく,やったことのレベルを気にしている,ということなのだと思った。やろうとしたとき,若い頃はそうでもなかったかもしれないが,いまは,あまり,

畏れ

を感じることは少ない気がする。

人を豈勝(た)えざるを以て患(うれ)いとなさんや,為さざるのみ

と『孟子』にある。自分の力の足りないことに苦慮する必要はない,ただやろうとしないだけだ,と。

僕は,むしろ,考えるより前に,まず踏み出してしまう,ということのほうが多いような感じがする。歩きながら考えるタイプなので,迂闊というか,軽率にやってしまったが,やはりやるべきでなかったということが,結果としては多いかもしれない。

そんなこと無理,
とか
できるはずはない

というより,できるか出来ないかは,やってみればわかる,というタイプに近いということだ。

むしろ,いまは,やってしまった結果の

できばえ

のほうが気になる。それは関係ない,と言われるかもしれない。自分がやりたいことをやったので,人が何と言おうと,関係ない,という考え方はあるだろうが,僕は,自己完結した中で自足できるほど,神経が太くない。

やれりたいと思って始めたことは,98を手に入れてすぐ,手探りで,

ホームページ制作

から始まって(一日400件余までいった),ブログ,ツイッターと,とにかく踏み出してしまう,ということはする。そして,それが必要なら絶対続けることもする。

しかし,その出来栄えこそが,ぼくにとっては重要で,自分だけの評価で自足できず,といって,それは自分の意思から離れ,コントロールできない。そこに,僕のニーズがあるとすると,それは,

コントロールの埒外

であることだ。だから,その時々で,自分の欲していることとずれると,ストレスがたまる。






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:37| Comment(0) | ワークショップ | 更新情報をチェックする

2014年11月29日

怒り


先日,「人を探求する」ワークショップに参加してきた。

https://www.facebook.com/events/1585144245039312/?ref=25&sid_reminder=5705686129420795904

今回のテーマは,「怒りから自分を知る」。

怒りについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163198.html

で触れたし,怒りが二次感情であることは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/408166432.html

で触れた。今回は,

怒りの背景にあるニーズに気づくことで,自分が本当に求めているものがわかる,

ということであり,であれば,

その怒りそのものよりは,求めているものを得るために,相手にそのことを伝える,ということも必要になる,

ということのようである。そこにあるのは,

怒りは抑えたり,隠したり,逸らしたりすることで,相手を非難し,自分を責め,同じパターンを繰り返しがちになる。

怒りそのものに気づかないこともあるが,怒りには,似たパターンが,その人特有の対応の仕方として繰り返される。

ということのようだ。僕自身は,怒りは,その人が感じる問題に似ている,と思っている。問題とは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/skill2.htm

にあるように,

期待値(そうあるべき,そうなっていなくてはいけない,そうしたい等々)と現状とのギャップ

である。その期待値を,相手に求めていること,そうあってほしいと思っていること,希望等々と置き換えていい。で,現状は,相手の「そのとき,その場」での振る舞い,言動ということになる。まあ,問題だと思うから,怒るのであるから,同根といってもいい。怒りは,二次感情,認知や感情へのメタ感情なのだから。

怒りをないがしろにしてはいけないのは,そこには,期待値,つまり,

自分としてそうしたい,そうありたい,そうあるべき,

という大切にしているもの,価値観があるからである。だからこそ,そうなっていない相手に,あるいは,それに反する振る舞いをする相手に,

苛立ち,
怒り,
むかむかし,
腹を立てる,

のである。その怒りが正当かどうかは別にして,その怒りを無視したり,ないがしろにするということは,自分の価値を投げ捨てることに等しいのである。

そこで,自分の怒りへの対応の仕方の一つとして,今回のワークショップの目的がある。そこでは,

怒りから自分を知るワークをしたが,

自分の怒りの状況

相手をどう責めたか,

そのとき何に怖れていたのか

そのとき,どういう気持ちだったのか,

で,そこで自分が望んでいたことは何か,

等々を探りながら,自分が望んでいることを伝える代わりに,あるいは,それを伝えるのを妨げる感情(多くは怖れ)によって,きちんと自分の気持ちを伝えられなかった,ということに気づく,ということになる。そこには,自分が大切にしている価値があることに気づくということになる。

このワークショップに参加しながら,僕は,

アサーティブ

とのシンクロというか,類似性を強く感じた。たとえば,アサーティブの対応は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/skill1.htm

にあるように,相手に対して感じていながら,それを言わず(アサーティブに表現せず),

オロオロしたり,

ねちねち根に持ったり,

爆発して攻撃したり(逆切れ),

するという,ノン・アサーティブな対応は,

仮面をかぶる

という表現で,

避難する人(内面で怒りを反芻する)
頑固な人(怒りを感じない,あるいは怒りを抑え込む)
操作する人(攻撃で返す)
依存する人(泣く,服従)
マゾヒスト(諦めて受け入れる)

というタイプが示された対応と,ピタリとは言わないが,かなり重なる。しかし,大きな違いは,ここでの意図は,

ニーズ

を探し,自分の価値を探し当てる,というところにあるのに対して,アサーティブは,一見,

その場での対応,

に見えることだろう。が,基本的にアサーションあるいはアサーティブは,人種差別やジェンダーといった,社会的な抑圧にあるものが,どう自己表現し,自分という存在を対等に扱ってもらおうとするかという社会的背景から来ているので,基本構造が,個のそれか,社会的なことに由来するかに差はあっても,陥っている個々人に即してみれば,似ているのは当たり前だろう。目指すのは,

個人としての生き方の尊重
あるいは
自分という存在の尊厳の主張

であるのだから。

そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395253856.html

で触れた。





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:39| Comment(0) | ワークショップ | 更新情報をチェックする

2015年03月17日

罪悪感


少し前のことになるが,

「人を探求する」ワークショップ,第7回「罪悪感から解放される」

https://www.facebook.com/events/738047502969754/?pnref=story

に参加した。正直言って,罪悪感という言葉は,あまりピンとこなかった。

悪いな,

といった負い目なら,一杯ある。しかし,そう後を引くこともないので,気にはしないできた,という感じだろうか。
あるいは,

もうしわけない,
とか
後ろめたい,
とか,
引け目,
とか
心苦しい,
とか
やましい
とか
後ろ暗い

というのが,まあ日本語的に言うと,該当するのだろう。引け目と後ろ暗いでは,差が大きすぎるが,その意識の幅ということなのだろう。

もう少し丁寧に整理するなら(ネットの類語では),罪悪感は,

不道徳な行いに伴う恥の気持ち,

で,それに対して,

若干の罪に対して責任があると感じての自責の念

を,

罪責感

と,区別しているが,その類語で言うと,

人の道に背いているという感覚としての,

背徳感・罪悪感・後ろめたさ・疚しいところ,

と,

自らの犯した罪を後悔したり,それに劣等感を覚えたりする念としての,

負い目・引け目・悔悟・悔恨の念・やましい・うしろめたい・申し訳ない,後ろ暗い・心苦しい,

と分けていた。

少し罪悪感というと,強い感じで,宗教上,法律上,道徳上の不正という感覚になるのかもしれない。その辺りが,ちょっと違和感を感じた背景だろう。

さて,一般には,罪悪感は,

罪をおかした,悪いことをしたと思う気持ち,

という定義だが,このワークショップでの定義は,

罪をおかした,悪いことをしたという思い込みがあることで,自分を非難,糾弾する,

とする。「思い込み」で,自分を「非難,糾弾する」ことで,自分が落ち込んだり,萎れたりすることの方に焦点を当てている,ということになる。

僕は,このワークショップを通して気づいたことは,罪悪感として,自分を責めるというよりは,多く,

後悔,

として,

しまった,
こうすればよかった,

というカタチで感じることが多い。では,そこで自分を責めるかというと,必ずしもそうならず,次には改めようと,無頓着かもしれないが,けりをつけてしまうことが意外と多い,ということだ。

もうひとつは,例えばの話,年下の友人と飲みに行ったとして,年上だから奢らなくては,と思いつつ,割り勘ですましたとしよう。この場合,「年上だから,こっちが奢らなくては」というのが,このワークショップで言う,「思い込み」に当たる。そこで,しまったなと悔いるか,自分に引け目を感じて責めるかの分かれ道だが,僕は,

悪かったねっ,奢らない情けない先輩で,(誰が)

と(相手の言葉(と思っていること)を言語化して),ひとり突っ込みを口にすることで,自分の思い込みと,自分の引け目を,オープンにさらけだして,ごまかす,というか,照れ隠しをしてしまう,ということがある。

奢らなくてすまないね,

といえば,フランクなのだろうが,紙一重で,ジョークで紛らす,という感じだろうか。

奢らなくて悪いか,

といえば開き直りでいやみだし,そこを,微妙にずらして言う。

このあたりは,アサーティブで言うなら,

年上の僕が誘ったのに,奢らないのか,と思っているだろうがね,

とフランクに言うか,

誘っておいて悪いが,割り勘でね,

というところだろう。この辺りは,

怒る,

のと,

怒っていると伝える,

こととは,違う,というのに似ている。「怒る」のは怒りの表出だが,「怒っている」と伝えることは,感情の表現になる。そのままフランクではないにしろ,一人突っ込みをすることで,相手には,勝手に引け目を感じているんだな,と間接的には伝えていることになる。

何にしろ,言語化することは,それによって,自分の感情や対象に距離を取ることだ。距離を取ることは,それに押しつぶされていた視界を外に開く。さらに,それによって,コミュニケーションの土俵を開いたことにもなる。

だからこそ,紙一重なのだろう。

怒りの表現については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163015.html

で触れたし,アサーティブについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395253856.html

で触れた。








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:38| Comment(0) | ワークショップ | 更新情報をチェックする

2015年04月22日

境界線


JCAK神奈川チャプター主催 ,「近藤真樹コーチのファウンデーション講座」の「境界線をひろげる」

http://kokucheese.com/event/index/273117/

に伺ってきました。

いい歳をして,いまさら境界線というのも,と自問しつつ出かけました。

境界線とは,

「自分自身の全てを十分表現するのに必要な領域を定義するために,自分自身の周りに引く境界線である」

とある。もちろんこの場合,物理的な距離ではない。だから,

エドワード・ホールのいう,対人距離,

密接距離(intimate distance)15〜45cm。愛撫、格闘、慰め、保護の意識をもつ距離。
個人的距離(personal space)45cm〜1.2m。相手の気持ちを察しながら、個人的関心や関係を話し合える距離。
社会的距離(social distance)1.2〜3.6m。客と応対する距離、人前でも自分の仕事に集中できる距離。
公衆距離(public distance)3.6m以上。公演会の場合など、公衆との間にとる距離。

という人との距離感覚という目に見えるものではなく,ひとりひとりが,意識に持つ,ある意味ハイパーな境界線と言っていい。あるいは,

自己意識の外延,

といってもいい。無論,それが,自分の枠であるが,極端に狭めていたり,野放図に広げていたりすると,どこかに無理がある。それの妥当さは,

居心地がいいかどうか,

のびのびしていられるかどうか,

という自分らしさ,というか,

自分本位でいられるかどうか,

と表現できるようだ。あくまで主観的なものだ。僕も含め,多く,自分の境界線を,

リミッターをかけているもの,

というか,制約や枠,あるいは堰,というふうに捉えがちだが,いまは,そうではなく,是非,可否の判別なく,そういう自分である,という確認から始まるのだろうと思えている。意識できている,つまり,

言語化できている,

かどうかがポイントなのだろう。意識できる,とは,そういう自分に対して,

メタ・ポジション

を執れている,ということだ。それは,選択できる,ということにつながる。よく言われるが,生理としての怒りの感情は90秒しか続かない。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163273.html

で触れた。にもかかわらず,怒り続けているのは,怒ることを自分が選択しているからにすぎない。そのことを意識しているかどうか,つまり,

意識して,怒りを表現している,
のか,
無意識に,怒っているのか,

の違いである。逆に言うと,

意識して,怒ることで,相手との距離を意識して遠ざける,という自分のありようを選択しても構わないのだ。

自分らしく振舞うのを妨げているもの,

という言い方をしてしまうと,僕なんかは,自分らしくさえあれば,いいのか,という気がしてしまう。ある意味,境界は,閾値でもあるし,リミッターでもあるが,逆に,節というか,自分で設ける節度でもあるのではないか。そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/417529941.html?1429388291

で書いた。

境界線を感知するための自問として,

自分自身がすべて十分表現できない,
向かうのがつらい,ネガティブになる,
(生活の中で)エネルギーロスが多い,
Noと言えず,困っている,
ゆとり,余裕が感じられない,
行きづまりのある,

ような,

場所,空間,
人,人たち,
コミュニティ,
仕事・状態,
ところ,

等々を例に,自分の中で,制約となったり,のびのびできない,というものを振り返る。たとえば,いい例かどうかわからないが,

告白,

を考える。自分がすべて表現できないのは確かだ。(もちろん対手があることにしろ)なんでも言語にすればいいというものではない。結局,

バランス
というか,
節度,

というものがいる。野放図に自己拡大するのではなく,ある程度礼節というか,節度を弁えた自分でありたいという部分とのバランスである。

それは,ときに,しんどいが,しんどくても耐えて守るべき境界もある。

そう,境界を意識するということは,

どういう自分でいたいか,

よりは,

どういう自分でありたいか,

ということを言語化することになる気がする。つまり,かく言う僕の言い方に,

ぼくの境界線,

が語られている。それを,

矜持,

というのだと思う。






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2015年05月05日

仮面


少し前のことになるが,「人を探求する」ワークショップ,第8回目「性格と心の傷の影響」

https://www.facebook.com/events/1562254350688908/

に参加してきた。

リズ・ブルボーの考え方をベースにして,

心の傷とは何か,
5つの傷が刺激されたときの影響,
私の心の傷は何か,

ということを学んだ。傷を,こう定義している。

「感情の苦しみのこと。本質的なニーズの一つが満たされず,自分や他人を責め,反応する関係性において,感情の苦しみを強く感じる。」

そして,5つの傷は,

拒絶 誰かの存在を拒絶,排除,拒み,拒否する行為,
見捨て 人を見捨てることは,ほったらかしにする,十分にケアしない,またはケアしたくないということ,
侮辱 辱しめられたと感じること,貶められた,不名誉だ,自尊心を傷つけられた,ということ,
裏切り 人を見捨てる,支配下に置くこと。裏切りは,約束やコミットメントを破ること,

とされている。結局,すべて,人との関係の中で,自分の中で起きる,不快感,悲しみ,憂鬱,絶望感等々,を名づけて,外在化することを意味している。

MRI(Mental Research Institute)で,問題を外在化し,

子どもの不登校も,怠け虫のせいにし,
おねしょも,おねしょマン,

として,それ自体を擬人化したり,外在物化することで,問題を内因ではなく外因とすることで,それに対処できる,ということと同じ機能があるのであろうと感じた。問題の外在化については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163419.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163523.html

で触れた。自分の内で,堂々巡りさせている限り,自責化しておのれを責め立てるか,他責化して誰かのせいにして攻めるか,と言う不毛戦から,外在化することで,自分がコントロールして,行動選択して対処できるカタチに置き換える,と言うのに似ている。

自分のすることに原因を探ることには,僕はあまり意味を見出さない。いい大人が,母のせい,父のせい,と言っている限り,へその緒が取れていないことでしかない。いま,その原因に拘泥する生き方を,自分が選択しているだけのことでしかない。

その意味では,外在化して,いままでの対処行動と違う対処をすることは,自分で選択肢を意識的に選び取れる,ということになる。

この仮説では,

①満たされないニーズ
  ↓
②傷(不足,苦しみ)
  ↓
③怒り(相手を責める,自分を責める)
  ↓
④仮面をつける

という対応段階を踏む,とする。そして,傷(と感じる苦しみ)を味わったとき,その対処として,

仮面を付ける,

とする。レジュメには,

「私たちは,第三段階と第四段階で,複数の仮面(新しい人格)を作ります。新しい人格は,第二段階,第一段階で経験した苦しみから守ってくれます。」

とあり,つまり,傷を守る防衛行動(対処行動)として,仮面をかぶる,とする。そのとき,

拒絶は,逃避する人
見捨ては,依存する人,
侮辱は,マゾヒスト,
裏切りは,操作する人,
不正は,頑固な人,

という仮面で,対処する。で,自分らしくなるには,傷以降の対応行動を遡るしかない,としている。

自分がやっていること行動が,自分を守る防衛行動,という考え方は,フロイトの,

抑圧,
退行,
投射,
反動形成,
昇華,

等々といった防衛機制を思い起こさせる。ある意味,こういう名づけは,交流分析で,

ペアレント
アダルト
チャイルド

と分けて,対処行動に,交流パターンを設定し,ゲーム,ラケットなどと分解していくのとも,軌を一にするのだろう。

それはそれで,自分の振る舞いに名がつくことで,苦しみを,自分と言う人間の人格や気質や性格という,自分自身の特殊性から分離でき,気が軽くなるはずであり,それを外に在るものとして,解決行動をとりやすいはずである。そのことは,外在化のもつ効果だと,僕は思う。

ただ,ここからは,それとの連想で,まったく別に,違うことを考えてみたい。

ひとつは,役割ということである。役割については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388876735.html

に書いた。われわれは,日常的に役割存在である。

「行為者は,ある役割関係を前提に,すなわちすでに存在する相互作用過程のなかで,ある役割を担う他者を見出し,対応する役割を担う行為者として,他者に対する関係行為を行う」

要は,何らかの役割なしには,この世の中に存在しえない,ということである。親には,子としての役割を,子には,親としての役割を,上司には,部下としての役割を担う。それは,また一つの仮面をかぶることである。それは,自分というものが,人との関係の中でしか,自分たりえない,ということである。家族療法で,家族をシステムと見なすとは,家族と言う集団の中で,おのずと役割を担うということを,別の言い方をしているにすぎない。

自己というものを,幾ら掘り下げても,らっきょの皮と同じで,何もない。捨てた皮こそが,自分だからである。人が社会的存在とは,そういう意味だと思う。人との関係の中に,その関係の中で,どうあろうとするか,の中にしか,自分というものは,見えてこない。

第二は,関係の絶対性について,である。これも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/413639823.html

で書いたように,関係の物象化と関わる。それは,いまの社会の中の関係性が,否応なく,自分のありようを左右する,ということを意味している。その物象化とは,

人間と人間の関係が,物と物の関係として表れてくる,

という意味である。それを,吉本隆明は,

関係の絶対性

と言った。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397281789.html

で触れた。小熊栄二氏は,こう書いていた。

「これを応用すると,『人間の能力』も,関係が物象化したものです。たとえば,家族がそろってニュース番組や芸術番組を見ながら夕食をとり,時事問題や芸術について会話があるような家庭で育った子どもは,お笑い番組をみながら夕食をとる過程で育った子どもより,自然と『能力』が高くなります。意識的な教育投資をしたかということではなく,長いあいだの過程の人間関係という目に見えないものが蓄積されて,『能力』となってこの世に現れる…。」

その意味では,親の社会的(役割)関係を反映して,おのれのありようを左右する。そこを逃れることはできない。

「市場経済の中ではみんな平等の人間だと言われますが,実際にこの世に現れるのは,『資本家』と『労働者』という,生産関係の両端でしかありません。『文化資本』のもとになる親の資産や学歴だって,もとはといえば,生産関係のなかで得られたものです。
こういう考え方によれば,『個人』とか『自由意志』というものは成りたちません。『個人』といっても,関係が物象化しているものだ。」

対立は,個人対個人のそれではないのだ,ということになる。この物象化を,絶対性と見た,というのが吉本隆明だが,少なくとも,素養だけではなく,資質や性格も,多く関係の絶対性の反映だということになる。

人は自己完結して存在し得ない。

その意味では,傷もまた,そうであり,仮面もまた,そういう関係性の反映であり,それを物象化している,という見方もある,ということを,僕は忘れたくはない。

最後に,能力にも,それは反映される。そういう中に置かれた自分が何をすべきかを考えるのが,本当の意味の能力である。アージリスの言った,

コンピタンス

である。そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/417632824.html

で触れた。アージリスは,能力を,

コンピタンス

アビリティ

に分けた。コンピタンスは,

それぞれの人がおかれた状況において,期待される役割を把握して,それを遂行してその期待に応えていける能力,

であり,ある意味,役割期待を自覚して,そのために何をしたらいいかを考え実行していける力であり,その意味で,役割や関係性を意識しないかぎり発揮できない能力だ。つまり,

自分がそこで“何をすべき”かを自覚し,その状況の中で,求められる要請や目的達成への意図を主体的に受け止め,自らの果たすべきことをどうすれば実行できるかを実施して,アウトプットとしての成果につなげていける総合的な実行力,

である。アビリティとは,

英語ができる,文章力がある等々といった個別の単位能力,

を指す。能力といった面ですら,力を発揮できるためには,結局,関係性,もっとはっきり言えば,社会の構造をおのれが反映していることを意識しない限り,箱庭の中の御遊びにしかならない。自戒を込めて。

参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
小熊栄二『社会を変えるには』(講談社現代新書)






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2015年05月26日

癒す


先月のことになるが,「人を探求する」ワークショップ

https://www.facebook.com/events/427541930754396/

に参加してきた。今回のテーマは「心の傷とその癒し方」。前回,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418428694.html

で,人の傷と,それへの対処法としての仮面,について学んだ,その,後篇。

傷は,

「感情の苦しみのこと。本質的なニーズの一つが満たされず,自分や他人を責め,反応する関係性において,感情の苦しみを強く感じる。」

と定義され,

拒絶(と受け止める)
見捨て(と受け止める)
侮辱(と受け止める)
不正(と受け止める)
裏切り(と受け止める)

の5タイプがある,とされている。仮面は,そういう対人関係で受けた傷への対処療法として,大概は,無意識で,たまには意識して,

拒絶(と受け止める)場合は,逃避する人(の仮面)に,
見捨て(と受け止める)場合は,依存する人(の仮面)に,
侮辱(と受け止める)場合は,マゾヒスト(の仮面)に,
裏切り(と受け止める)場合は,操作する人(の仮面)に,
不正(と受け止める)場合は,頑固な人(の仮面)に,

なることで,自分の傷ついた気持ちや感情,満たされない思いに蓋をする,という。一種の退避行動であり,フロイトの防衛機制に似ていることは,前回触れた。この考えのもとになった,リズ・プルボーさんの考え方の淵源は,フロイト(さらにライヒ)にあるらしいので,当然と言えば当然かもしれない。

傷の特徴から見た場合,自己評価では,

不正(と受け止める)の傷,

で,仮面は,

頑固の人,

というのが,自分には当てはまるらしい,と感じた。それと幾分か,

裏切り(と受け止める)の傷で,

操作する人,

という仮面が,ある。コーチAで言う,例の四つのタイプ分けでは,

コントローラー

タイプと出ていて,

人から指図されるのが嫌い,
弱みを見せたり甘えたりするのが苦手,

という特徴が,「裏切りの傷」で言う,

自分を強い,信頼にたる非常に自立した人間だと信じている,

というのと重ならなくもないが,やはり,

自分をコントロールし,有能で完璧になろうとする,
自分に問題や悩みがあるとなかなか認められない,
自己正当化することが多い,

というのに重なることが多い。

「大丈夫です。」

と,言いたがり,

自分の限界を尊重せず,自分に多くを要求しすぎる,
自分を喜ばすことに罪悪感を感じる,

等々ということがあるな,ということを感じた。しかし,体の特徴から,(相手なっていただいた方に)診断してもらうと,

よく均整のとれた体つき,
型は四角,
顎を噛みしめる
おなかが平らで,引っ込められている,
乾いた声で早口で話す,

等々,「頑固な人」の仮面チェック項目のほとんどが,該当した。

別の言い方をすると,柔軟に,

方向転換することが難しい,

という,物事の進め方にも起因しているのかもしれない。

しかし,まあ,この歳になると,大概のことは,想定内にはなるが,改めて,

頑固の人

になることで,自分の感情を抑え込むところが,確かにあるとはわかる。せめて,おのれの振る舞いを,意識化し,言語化して,選択肢として,対処した自分のことがわかれば,まあ,よしとすることだろう。それを,自覚してできれば,

強がり,

とも言うが,矜持とも言う。






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2015年07月07日

自己観察


先日,といっても先々月のことになるが,ワークショップに参加させていただいた。

https://www.facebook.com/events/919100084812776/

このシリーズについては,何度か書いたことがある。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418428694.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/419595148.html?1432585640

今回のテーマは「自分を観察するには」。

観察とは,

「起きていることに注意深くなり,今ここにいるということです。観察者の状態になると,私たちは気持ちとつながることができます。感情や気持ちに意識的になることで,それらを変えることができるのです。」

と定義している。たとえば,相手が怒っているとする。その相手が怒っているということを感じ取ると同時に,そのとき自分の中に何が起きているかを感じる必要がある。とっさに,動揺して逃げを打とうとするか,言い訳をしようとするか,反撥しようとするか,いずれにしても,その瞬間(このワークショップでは,仮面をかぶると言うが),自分を非難するか,自分を非難する。その(感情の)反応によって,そのとき自分の中で起きていることから目を逸らすことになる。

仮面については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418428694.html

で書いた。それによって,避けようとしたのが,どういう気持ちなのか,たとえば,

混乱した,激怒したと言った気持ちなのか,

あるいは,

不安になった,落ち込んだと言った気持ちなのか,

といった気持を探る中に,そこで自分が欲していたもの(ニーズ)に突き当たることができる,とする。怒った相手と,わかりあいたいと思っていたとか,仲直りしたいと思っていたとか。

気持ちは,

直接的で,単純,

とされ,現実の場面の中で,自分の内面で感じていることだ。たとえば,

寂しい,

と感じたが,それを逸らして,相手の怒りに反応して怒れば,その気持ちの背後にある,自分の求めているものから逸れていく。レジュメには,

「自分の内面で起きていることを感じることを受け入れない限り,気持ちは意識化されない。そのためには,自分の感じていることに対して,一切の価値判断や批判(たとえば,寂しいと感じる時分を情けないとか,女々しいとか評価)をせずに,観察者の立場に立つ必要がある。」(括弧内は筆者注記)

とある。当然,気持ちには,肯定的な快感もあるし,否定的な不快感もある。

要は,こうなのだろう。相手との関わりの中で,相手が何か言ったことに,反応的に,「むっ」としたとする。そのとき,その反応の中には,

自分を馬鹿にした,
とか
上から目線とか,
とか
嫌味を言った,

といった相手への直線的な感情反応(是非の判断)をする。その感情は,

身体的または精神的に,急激にかき乱されておきる激しい情動(喜怒哀楽)

と定義される。そして,

自分に関する恐れがきっかけとなって,(相手を)非難し,動揺する

ということになる。必要なのは,自分の気持ちを,感じとり,言語化することなのだ,という。

怒り,

は,怒ることでも表現できるが,

「怒っている」と伝えること

でも表現できる。怒れば,怒りの反応を誘うだけだ。いつも感じるが,この辺りの,内面の表現は,アサーティブと通じる。しかし,自分の気持ちが,自分でわからなければ,それを伝えることはできない。

ある意味,

相手の怒りを感じる自分,
相手の怒りに反応して起こる感情,
その感情の背後にある自分の正直な気持ち,
その気持ちを懐かせる相手に求めているもの,

と,たどれることは,いわば,相手と自分を俯瞰する,メタ・ポジションに立っていくことになる。それが,

観察,

という謂れなのだろう。その一瞬の自分の中に起きていることに注意を払う,つまり,逃げず,臆せず,その場にいることが,観察を,

今ここにいる,

といっている理由なのであろう。

最後に,自分の体験を観察するワークらやったが,

そこで何を考え,相手の何を責め,自分の何を責めたか,
そのとき,何を怖れたのか(逃げたのか,避けたのか,というのもあるかも),

を振り返り,そこにあった,自分の気持ち,身体のどこで感じたか,を探った。

過去のことだからこそ,

そのときの相手,
そのときの自分,
そのときの感情,
そのときの気持ち,

にメタ・ポジションが取れた。だからこそ,観察の構造の確認でもある。それを,

いま,そのとき,

にもする,ということが眼目である。







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ラベル:自己観察
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2015年07月08日

融合


先月のことになるが,「人を探求する」ワークショップに参加させていただいた。

https://www.facebook.com/events/1712560162304834/

今回のテーマは「敏感でいることを妨げるもの〜融合について」。前回の,自分自身についての観察については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/421923440.html?1436213892

で触れたが,観察するポジションにおいて,

自分自身に敏感であること,

が求められる。これについては,前回多少触れた。敏感であるということは,

いま,ここで,自分の中に起きていること,
あるいは,
自分の感情に,

アンテナを向けること,と言い換えてもいい。何のためかというと,その場や周囲に反応するのではなく,

自分の内側で何が起こっているのか,
自分が本当は何を望んでいるのか(ここではニーズと名付ける)を見つけるため,

である。言ってみれば,相手や状況や関係の中で振幅し,あるいはそれにシンクロして振り回されているのではなく,

そのとき自分は何を感じ,
そこに自分は何を求めているか,

という自分自身を確かめるため,ということになる。例えば,

相手の悲しみに共鳴し,我が事のように歎き悲しむ,
とか,
相手の怒りに反応して,怒りで返す,

というときの自分の感情は,ここでは,

融合

と名付けられる。言ってみると,自分自身の内的な思いや感情ではなく,相手の,

共鳴器

のように,相手に合わせて鳴っている感情と,自分の感情を切り分ける(たとえば,いまの悲しみは,相手のそれに共鳴してもらい泣きしている等々,これが敏感ということになる)ことが必要だ,ということになる。

融合的な人について,レジュメでは,

「他の人の感情の状態に圧倒されている人。融合的な人は,他の人の起源,気持ち,感情(怒り,怖れ,痛みなど)や願望を拾います。そしてそれらにかき乱されます。他の人の感情から自分を切り離すことや,距離を置くことができません。」

とある。相手の感情に影響されて,

自分で感じられなくなり,

「他の人の感情の状態を自分で経験しているかのように」

なる,ということになる。多くは,ここでは,母親との関係によって,その傾向が出てくる,としているが,融合には,二つのパターンがある,という。

ひとつは,過敏な人。

「過敏な人は,廻りの人たちの幸,とりわけ不幸に責任を感じます。いろいろやっても,その気持ちは続き,最終的に,無力感や罪悪感を持ちます。」

とある。他人の感情まで背負いこみ,我が事のように受け止めて,それを自分の責任であるかのように感じる。しかし,他人の人生を生きることはできない。確かに,そういう人は,

いい人ではある,

かもしれないが,他人の人生を背負い,(それを背負いこめるかのごとく無意識のうちに)抱え込んでいる,ということになる。

もうひとつは,無関心な人。

自分の感情や願望ではなく,相手の愛情を得られるように相手の要求に応えようとする。母親との関係で,

「子どもは,自分の感情の世界には無関心ですが,母親との愛情面でのつながりを作ることを期待して,母親の願望,要求,期待に融合して」

それに沿う(と思った)行動を取ろうとする。このタイプは,一見,

「人間関係において,冷淡な人,無関心の人のように思われますが,この人は愛してくれるとねらいを定めた人など,他の人の願望,要求,期待に確実に応えられるように,…神経を張り巡らせます。特に,神経を張り巡らせるのは,権威に対する関係においてです。」

つまり,

感情で同期するか,
相手の思い(願望,要求,期待)に同期するか,

いずれにしても,相手や周囲に振り回されて(あるいは過度に慮って),自分を見失っている,という意味では,

無関心

過敏

とは,「コインの両面」である。いずれも,

いま,自分の思いや感情ではなく,

相手の感情や思いに依存している,

ということになる。振り回されている,といっても,相手が,ではないので,あくまで,

自分の思い込みや思い入れ,

に過ぎない。そのベン図ふうに言うと,まずは,

自分が(勝手に)相手の円に重ねている,

ことを確認し,

重なった相手の円と自分の円を切り離し,

自分の円の内奥の求める感情や思いに耳をかたむける,ということが必要になる。自分は,

ほんとうは何をしたいのか,
ほんとうは何を求めているのか,
ほんとうは何を欲しているのか,

と。







今日のアイデア;
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2015年11月26日

出会い


JCAK(日本コーチ協会神奈川チャプター)の,コーチング解体新書番外編「場づくり解体新書」

http://kokucheese.com/event/index/349360/

に,参加させていただいた。

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ソリューション・フォーカスト・アプローチの青木安輝さんの,ソリューション・フォーカスト・アプローチと「場づくり」の焦点が合わなかったので,興味をそそられたのだが,結局,

ソリューション・フォーカスト・アプローチ⇔青木安輝⇔場づくり,

で,接着剤は,ご本人ということになる。

ま,絵解きをしていただけば,それだけのことだが,その場をつくるのは,その場をファシリテーションする人の,キャラクター,言動の背景にある生きざまそのものなのだから,当たり前と言えば当たり前だ。

ワークは,

「人生の目的とはもっとも出会いたい自分に出会うことである」

という,青木さんご本人のモットー(?)に基づいて,まずは,

もっとも出会いたい自分,

続いて,

これから出会いたい自分,

についての対話ワークをさせていただいた。青木さんの意図は,

「過去の体験の中」

に在った自分のなかで,いま会いたい自分という意図であったようだが,上記のモットーを見て,瞬時に,自分が日ごろ,

人生とは,自分になるためのプロセス,

であり,

死ぬ瞬間,最も自分になり終える,

ということを考えているので,そういう意味で,過去ではなく,

未来,

つまり,

これから成るであろう自分,

のことが,「もっとも会いたい自分」であった。それは,希望を込めて言えば,

昨日の自分,

よりも,

今日の自分,

が,あえて言えば,今の自分が一番トップにいる,という感覚でありたいと思っている。それは,明日の自分がトップであるためには,今日何をしたかが,問われる。いま,ここが,明日の自分の起因という意味では,その日々のプロセスが重要ということもできる。

だから,過去の全ての自分,逃げたいような失敗の自分,惨めな自分も,すべて今日の自分を生みだす原因になっている。

その意味で考えれば,

「人生の目的とはもっとも出会いたい自分に出会うことである」

は,そのために生き続けている,ということもできる。

僕は,参加されていた上西正之さんが懇親会で言われた,自分を変えるのではなく,

新たな自分の追加,

というのがよく分かる。ある意味,それは,

多重人格,

な自分の追加でもある。そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/425774541.html

で触れたことと重なるが,人は,

文脈依存,

だと思う。家族の中の自分,会社関係の中の自分,友人関係の中の自分等々,それぞれの関係という文脈のなかで,

役割を果たしたり,
任務を担ったり,
責任を果たしたり,

等々のなかで,そういう関係性のなかでの自分がある。そのいう文脈でいるかいないかわからない,ということは,いないのと同じである。そこで,自分としている,何かの役割や分担を果たしている自分がいる。その時々で,自分の在りようも,現れ方も,変る。だから,

人と出会う,

ということは,

そういう文脈と出会う,

ということであり,それは,

そういう文脈にいる自分に出会う,

ということでもある。その意味で,どれだけたくさんの文脈(経験)と出会うかも大事だが,その文脈のなかで,自分を発揮,あるいは,

顕現,

したかが大事だ。それが,一つの自分なのだから。

私事だが,懇親会で,日頃顔を合わせていても,突っ込んだ会話をしたことのなかった方と,来歴を話しているうちに,僕の足かけ二十年の会社勤めの原点と関わる方だと分かり,愕然とした。そこで,僕は過去の自分と再会したことになる。

人との出会いとは,そういう文脈と出会うことであり,それは,その文脈に依存した自分に出会うことだ,

とつくづく思い知った。



ホームページ;
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