2013年04月09日

翻訳可能性について


茂木健一郎さんは,

表現として高度の洗練と達成を求めるほど,言語圏の奥へと入り込んでいき,他の言語圏の人には不可視な場所に取り込まれていってしまう。そのような言語の仕掛ける罠を思うとき,私は他のどのような事態からも受けないたぐいの打撃を受け,深い絶望を感じる。

では勝ち馬の英語に乗ればいいのか。そうは茂木さんは考えない。

もちろん異なる言語の間には,ある程度の「翻訳」が可能である。日本語圏の住人にとっての志ん生の味わいを,英語圏の言語で表現することが全く不可能であると決めつけられるわけではない。(中略)しかし,複数の言語の壁を超えて普遍性を立てることを志向するとき,そこにはおのずから原理的な困難がある。(中略)厳密にいえば,ある概念の普遍性は,その概念の翻訳可能性と一致するとは限らない。たとえば,世界の中のある言語圏だけが到達し,把握している普遍性が存在することはありうる。

そう述べた上で,村上春樹に言及した。

双方向の行き来が盛んになるにつれて,翻訳可能なものだけが事実上の普遍性を帯びていくということは実際的な意味で不可避のダイナミクスだといってよい。村上春樹の作品が,最初から翻訳可能な文体で書かれていることは,意識されたものであるかどうかは別として高度に戦略的である。

自分が村上春樹を好きになれない理由が分かった気がした。イスラエルへひょこひょこ出かけて何とか賞を受賞する,政治センス(意志的だとしたらなおさら)の能天気さだけではなく,その書く姿勢そのものが相容れない。

同じ翻訳家として,ムジールの翻訳から出発し,ついに日本語の極限にまで到達した古井由吉と,同じく戦後,翻訳文章などと揶揄されながら,日本語の新たな表現を獲得した大江健三郎とは,全く対極にある。親鸞が,折口信夫が,あるいは吉本隆明が,翻訳不能なのは,普遍性がないからではなく,掘り下げた「共同幻想」の根っこが,翻訳不能なのだ。そこにのみ,日本のコアがある。それを「文化的遺伝子」と,茂木さんは言う。

和辻哲郎が,『鎖国』の中で,世界的視圏という言葉を使っていたことを思い出す。世界的視圏を仰望した和辻は,考えれば,楽天的だったということができる。自分を捨て,日本語を捨てても,日本人は残る。その重みを見落とすものに,日本を語る資格はない。

例えば,古井由吉の傑作『眉雨』の一文。

 空には雲が垂れて東からさらに押し出し、雨も近い風の中で、人の胸から頭の高さに薄明りが漂っていた。顔ばかりが浮いて、足もとも暗いような。何人かが寄れば顔が一様の白さを付けて、いちいち事ありげな物腰がまつわり、声は抑えぎみに、眉は思わしげに遠くをうかがう、そんな刻限だ。何事もない。ただ、雲が刻々地へ傾きかかり、熱っぽい色が天にふくらんで、頭がかすかに痛む。奥歯が、腹が疼きかける。たがいに、悪い噂を引き寄せあう。毒々しい言葉を尽したあげくに、どの話にも禍々しさが足らず、もどかしい息の下で声も詰まり、何事もないとつぶやいて目は殺気立ち、あらぬ方を睨み据える。結局はだらけた声を掛けあって散り、雨もまもなく軒を叩き、宵の残りを家の者たちと過して、為ることもなくなり寝床に入るわけだが。
 夜中に、天井へ目をひらく。雨は止んでいる。とうに止んでいた。風の走る音もない。しかし空気が肌に粘り、奥歯から後頭部のほうへまた、降りだし前の雲の動きを思わせる、疼きがある。わずかに赤味が差す。

これを翻訳したら,たぶん意味は通るかもしれない。しかし文体のコアは消える。文章を伝達の手段と考えるなら,それでもいい。それなら文学は成立しない。小説世界が既にあるものとして,それを前提に書かれる小説はいざ知らず,いまだかってない文学という世界を切り開こうとする作家にとって,文体はその単なる表現手段ではない。そのリズム,その語彙の選択,そのつなぎ,その流れ,句読点の打ち方一つ,その醸し出す雰囲気,そのすべてが文学作品を支える大事な世界の構成要素だ。そもそもそこまでわかって翻訳している人間がどれだけいるのか。

翻訳した時,何かが壊れる。翻訳とは,翻訳者が書き直しているに等しい。その翻訳で,実は原作は解体され,翻訳者の知識と理解度に応じて再構成されている。原作とは似ても似つかぬものになっているのは,詩を読むとはっきりわかる。

たとえば,

巷に雨の降る如く
我が心に雨の降る

これって,ベルレーヌのではなく,堀口大学の情緒だ。

それでもなお翻訳可能性とは何なのか。僕にはわからない。そこまで通訳可能性に楽天的にはなれない。

参考文献;
茂木健一郎『思考の補助線』(ちくま新書)

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年02月07日

眼鏡


バロン=コーエンは,共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳があるという説を提案しているという。

共感とは,他人が何を感じ,何を考えているかを知り,それに適切に反応することをいう。共感できる脳は相手の感情や心の状態を知って心を動かす活きをすると仮定されるので,心の理論が働くことに通じる,という。

心の理論(theory of mind)というのは,ひとはそれぞれ自分の心を持っていてそれにもとづいて行動していることができることを言う。つまり,

心の理論が理解できるようになると,自分の心と他人の心は違うことがわかるので,自分と他人とは,感情,意思,考えなどが違うことがわかる。大体四歳くらいで理解できるようなる(一歳でもできるという指摘もある)らしい。

これが社会を形成してきた人の共通の特徴とされている。

一方システム化に優れた脳は,システムを分析したり検討することが得意で,システムの隠れた法則に気づいたり,新しいシステムを創り出す傾向を持つ。心の理論とは縁遠いことになる,という。

バロン=コーエンは,二つの脳について,

E(共感できる脳)とS(システム脳)について,

EがSよりまさるEタイプ,SがまさるSタイプ,バランスの取れているBタイプに分けたが,95%はBタイプであるとしている。そして極端に人間関係が苦手なアスペルガー症候群の人をSタイプとした。

しかし,それを立証する生物学的マーカーは見つかっていない。むしろ,高橋惠子氏は,

個性と障がいの線引きは簡単ではない。ある社会的ルールを知らないことが本人を苦しめたり,不利にする,(中略)個性を尊重し個性を活かすことが…根本原則である,

という。妥当だろう。所詮仮説でしかないもので,人を類別し,人を理解した気になることは,浅薄だと,僕は常々思っている。

仮説というのは,所詮,仮の説明概念である。それを持ってみると,現実がよく説明できる。あくまで,仮にそう説明するとわかりやすいというだけだ。当然別の眼鏡を掛ければ別のものの見え方がする。

ロジャーズは,(これもたびたび引用するが)共感について,

「あくまで……のごとく」という性質(“as if” quality)を決してうしなわない

で,クライアントの私的世界をそれが自分の世界であるかのように感じとる,ことだと言っている。ロジャーズには,それは錯覚かもしれないし,思い過ごしかもしれないし,思い込みかもしれないことを,よく自覚していた。

それを失ったら,単なるきめつけに過ぎない。

右脳左脳で切り分ける俗説もこれに似ている。

これで思い出したが,前にも書いたことだが,

人の認知形式,思考形式には,

「論理・実証モード(Paradigmatic Mode)」



ストーリーモード(Narrative Mode)」

がある(ジェロム・ブルナー)があるとされている。

前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。

ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。

物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。」(『人を賢くする道具』)

要は,ストーリーモードは,論理モードで一般化され,文脈を切り離してしまう思考パターンを補完し,具象で裏打ちすることになる。

だから,共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳は相互に補完し合っていることになる。95%から外れた人を,個性と見ることが出来なければ,所詮個性などどこにもない。

僕は個性は,百人いれば,百個の個性があると思っている。

問題は,人と同じ尺度だけで測っているから,それが見えない。百個違う尺度がいるのだ。それだけのことだ。

そしてこれが理解できない人は,

ブレインストーミング

の意味が永久にわからないだろう。

百個の個性とは,百個の異質さなのだ。それが前提でなければ,ブレインストーミングなど活かせっこないし,

キャッチボール

によって生み出される,異質な何かなど見えはしない。

そこにあるのは,創造性のとば口なのだ。


参考文献;
高橋惠子『絆の構造』(講談社現代新書)
H・カーシェンバウム&V・L・ヘンダーソン編『ロジャーズ選集』(誠信書房)
ドナルド・A・ノーマン『人を賢くする道具』(新曜社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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posted by Toshi at 12:21| Comment(2) | | 更新情報をチェックする