2013年01月02日

微細な変化を見逃さない眼~石原吉郎の詩をめぐってⅢ



こんな詩があった。

膝を組み代えるだけで
ただそれだけで
一変する思考がある
世界が変わるとは言わぬにしても
すくなくともそれに
近いことが起こる(「膝」)

世界が変わる,その世界は四畳半の中だけかもしれない。フラクタルで,バタフライのひと羽ばたきが,台風に変ずるそれかもしれない。しかし,それは小さなことに着目しなくては気づかない。昔稲垣足穂が,蝸牛の渦巻きと星雲の渦巻きのフラクタル(とは言っていなかったかもしれないが)について書いていたと記憶しているが,小さなものの中に,巨大な真実が隠されている,という発想は,結構面白い(神は細部に宿るって,アインシュタインだっけ?)。

それも訂正が
要る
まさに訂正が
問いつめたことの責任を
責任のまま
追いつめるために
訂正のあとへ
のこされるものを
いちどはしたたかに
負いなおすために。
それだけのことだ
責任とは だが
それだけが どれだけ
重いか きみに(「訂正」)

あるいは,この責任という意味は,さらに,こうつながっていく。

重大な責任をとった
というときに
重大でない部分は
各自の責任に
移される
そこからかろうじて一歩を
踏み出さねばならぬ(「黄金分割」)

通常いう責任という言葉に比べて,呵責のように覆いかぶさってくる。つけという言い方の方が正しい。リスボンシビリティとは,有言実行と訳すべきことだと言ったのは誰だったか。責任についての,視角がちょっと違う。

かりにそうでもと
いうひとところで
ふみちがえた
おわりのひと研ぎで
その刃は思案をこえた
その刃を当てなおすために
その膝がわずかに
ずれるだろう
ずらせたそのはばへ
斬撃のおもいは
のこるだろう
正統を恋うとは
そのことなのだ(「正統」)

ここにあるのは,すごくよくわかるが,ちょっとした違和感で,それをしない,それを断る,その口実のように,言い訳のように,「そうはいっても」という。その口吻に似ている。その結果,仲間から,本流からそれていってしまう。そんなわずかな行きがかりから,結果として異端になったことに,かすかな悔いがある。だから,正統を恋うのだ。正統に,ということはまっとうにと言い換えてもいい,その中から一度も踏み外したことのないものには,たぶんわからない心情なのだろう。しかし,そこにかすかな自負があるのを見逃してはならない。

埒外,ボーダーライン,境界例,非正規,バイト,パート,契約,やくざ,無宿人,ホームレス等々,何かからはみ出した瞬間,そこから普通の日常世界が遠くになっていく。その一瞬の後悔の念からのみ,

そのひとところだけ
ふみ消しておけ
そういう
ゆるしかたもある
そういうゆるしかたも
ある ということを
はるかにとおく
思いしらすために
踏むには値せぬ
ひとところを
やわらかな踵で
ふみ消してから
谺となって立去るがいい
うなだれた記憶がゆっくりと
蒼白な面を起こすのは
立去っていく その
うしろからだ(「残り火」)

という詩のかすかな寂しさが感じられる。何か,許容というか,許しというか。癒しなどという甘ったれたものではない。癒しなどという,あってもなくてもどうでもいいものが,はるかに見えるような遠い世界のことだ。その背中が寂しげだ。そういえば,「背なで泣いてる唐獅子牡丹」というのがあった。それをもじった池田満寿夫のイラストが流行ったっけ(歳がばれる)。

おれにむかってしずかなとき
しずかな中間へ
何が立ちあがるのだ
おれにむかってしずかなとき
しずかな出口を
だれがふりむくのだ
おれにむかってしずかなとき
しずかな背後は
だれがふせぐのだ(「しずかな敵」)

いつも孤立した自恃というか,孤立した影だけが屹立する。世界と拮抗するだけの自負と矜持がいい。強がりでも,見栄と意地をなくしては,軟体動物になる。

非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ
てらす満月が非礼であれば
それも覚悟のうえだ
その非礼にあって
満月が
幹とかわした会話は
一条の影によって
すっくと書きのこすがいい(「非礼」)

すっと屹立する。凛と立つなどと甘ったれたものではない。孤峰のように,峻「立」する,というのに近い。僕にとって,仰望に近いが。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#石原吉郎
#詩
#ボーダーライン
ラベル: 石原吉郎
posted by Toshi at 09:26| Comment(8) | | 更新情報をチェックする

2016年03月18日

かなしみ


こういう詩がある。

このかなしみを
よしと うべなうとき
そこに たちまち ひかりがうまれる
ぜつぼうと すくいの
はかないまでの かすかなひとすじ

八木重吉の無題の詩である。『幼き歩み』に収録されているらしい。不勉強で,鈴木三重吉なら知っていたが,八木重吉の名はほとんど記憶になく,まして詩については全く知らなかった。

八木重吉.jpg


八木重吉については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E9%87%8D%E5%90%89

に詳しい。、1898年に生まれ,1927年に,

「29歳の若さで亡くなった。5年ほどの短い詩作生活の間に書かれた詩篇は、2000を優に超える」

という。どうりで若い写真しかないわけだ。

多分若書きのまま,亡くなったのだろう。詩集が出版されたのは死後のことになる。

勝手な印象でいえば,最後の二行が要らない気がする。

よしと うべなうとき
そこに たちまち ひかりがうまれる

そう書いた時,悲しんでいる自分を突き放している。すでに,悲しむ自分が,一筋の道として見えている。その意味で,悲しみは,超えている。

かなしみ

と題する詩が,谷川俊太郎にもある。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた

このときも,悲しみは,既に超えられている。だから,悲しみの由来を見ている。

しかし,中原中也の,

汚れっちまった悲しみに……

は,少し違う。
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

この詩の中也のことについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/414295670.html

で書いた。中也は,悲しみの堂々巡りのどつぼから出られていない。出られていない自分をみている。その分悲しみは深い,という気がする。

藤村操,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%93%8D

と言う旧制一高生が遺書として残した,

「巌頭之感」

がある。

巌頭之感
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

ホレーショとはシェイクスピア『ハムレット』の登場人物を指すらしく,

There are more things in heaven and earth, Horatio. Than are dreamt of in your philosophy
(世界には哲学では思いも寄らないことがある)

らしい。ここに,悲しみは悲しみとして受け止めきれない,悲しみが見える。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163454.html

で書いたように,「悲」の字は,「哀」の字とともに,いわゆる悲しみで,

悲は,喜の反対。痛なり,

哀は,楽の反対。あわれがりて,深く悲しむ。哀悼と用いる。哀は痛みの声に現れるもの。悼は痛みの心に存する,

とある。「悲」(痛み)の声に現れるのを「哀」というとある。

つまり,悲しみは痛みに通ずるらしいのだ。藤村の遺書にあるのは,悲しみの所以を知らず,傷む心の悲鳴に見える。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)


ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:27| Comment(0) | | 更新情報をチェックする