2012年12月22日

人との距離を縮めてその場に入っていく~自己開示の効果



人との距離がうまく測れないというときはないだろうか。それは,たぶん家族との間でも,間々あるが,それはたぶんこちらの心の側に隔てを意識すること(ありていに言えば,後ろめたいことやこだわりのあること)であって,ここでの場合には当てはまらない(こともないか?)。

僕自身は,対一人に対しても,対グループや場にしても,いつも,どこかに隔てを感じている。どういうといいだろう。踏み込めない障壁を感じている。それは,相手にあるのではなく,たぶん自分にある。たとえば,好きな人と帰り道が一緒になったとする,確かにしめたと思うのだが,さしさわりのない話をしているうちに,だんだん気分が重くなって,そこから逃げ出したくなる。そこから先へ踏み込むのに,たぶん氷が解けるように,少し時間がかかる。そんな気持ちがあるせいか,分かれ道でサヨナラを言うと,ほっとする思いが半分くらいある。しかし後から,こういえばよかった,ああいえばよかった,と悔いがくる。

C・オットー・シャーマーが,意識の在り方と対話について,こんな整理をしていた。

①私の中の私([I-in-me]境界内部にある中心から行動する)  当たり障りのない会話
 ここでの会話は, 過去のパターンや蓄積したデータをダウンロードするような会話で,既存の態度や考えのパターンを再生産している。相手の受け入れやすいことしか言わず,自分の考えていることを言わない自閉的なシステム。

②それの中の私([I-in-it]境界の内側の周辺から行動する) ディベート(討論)
 ここでの会話で,自分の考えていることに基づいて話す。互いに異なる考え方を言い合う。あなたはあなたの考え,私は私の考えを言う。それぞれのシステムは閉鎖したままの,適応的システム。

③あなたの中の私([I-in-you]境界の周縁(向こう) から行動する) ダイアローグ(対話)
 ここでの会話は,初めて習慣と決まりきったやり方の世界の内側から,その周辺部へ,境界で囲まれた領域の外周へとシフトしていく。ここでは内からの視点ではなく,全体(両者双方)の一部としての自分を観るところから話をする。互いの異なる考え方の中で,私には私の考えがあるが,と自分の考えを外から見て,内省することが始まる,自己内省システム。

④いまの中の私([I-in-now]開かれた境界を超えて出現している領域から行動する) 生成的な流れ
 ここでの会話は,自分の内側の視点から,外を眺めていたものが,自分(の内側)から外(の領域)へ出て,外の領域
から物を見始める。自分と他者の境界を超えて,流れているものから話す。その時のその場,その文脈に立って,自分を観,相手を観る。これを,プレゼンシング(Presencing)と呼んでいる。Sensing(感じ取る)とPresence(存在)の混成語。最高の未来の可能性のリソースとつながり,それを今に持ち込むことという,生成的システム。

こうしてみる,結果として,自分自身が自分の境界をつくっていて,おずおずと声を出している。そこでは,相手も,おずおずと私か自分を開示しない。自分の意見を出すと,相手は,それに合わせてたぶん自分の意見を出す。自分の自己開示に合わせてしか,相手も自己開示しないとみえる。

確かに,社会的浸透理論(アルトマン&テイラー)によると,自己開示を通してお互いに相手のことを知ることにより,相互の信頼が増し,好意的な関係が形成される,という。さらに,開示が表面的か内面的かでは,明らかに,内面的な開示の方が,話し手への行為が高まるし,さらには,相手が開示したことが,自分への信頼によるものとみなせたことが,より満足度を与えることになるとされている。

で,開示について,

①関係の初期より,関係が継続するにしたがって,開示と好意の関係が大きくなる。
②女性同士の方が,開示と好意の関係が大きいが,男女間ではあまり見られない。
③特定の人だけに自己開示を行った方が,誰にでも開示するより,好意のとの関係が大きい。
④自己開示の幅と深さほど,好意度との関係が大きい。

とされている。だから,自己開示,それも,内面的な開示をする,そういう場や機会を自分でつくっていかなくてはならない。これは,慣れもある。ザイアンスの法則ではないが,単純接触効果というのがある。何回かあっているうちに,相手の好意度も増すし,こちらもそれによって慣れていく。

しかし,その先にあるのは,心理的障壁だ。ただ開示するのではなく,心と感情と知がオープンにならなくては難しい。ここで,思い浮かんだのは,ブレインストーミングだ。ここで大事なのは,すべてのアイデア(考え方,考えも)是非や可否ではなく,異質さとみなすということだ。良し悪しではなく,違いとみなす。情報とは差異であるとは,ベイトソンの言葉だが,そうみなした瞬間,すべてはイーブンに,どう組み合わせるか,どうそれをクリアしていく別のアイデア(考え,考え方も)に行くかを考える。アイデアについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11000208.html

で触れたが,それとたぶん同じなのだろう。その心理的効果については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11001331.html

でも触れたが,共感性に通じるものがある。自分の枠を出て,自分の意見ではなく,そこにある意見そのものの海の中にいる。そのとき,その場にいて,その場の方向を考えている。かっこよく言うと,(アイデアのまとまった)未来から今を見ている。先の④の今の中の私になれる。

場については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11007605.html

でも触れたが,そのとき,いまを作り出していくのは,たぶん,自分が,内面から自己開示できる程度にまで,自己の境界を超えて出て,心を開く,つまり,

・評価・判断の声(VOJ:Voice of Judgment)
・皮肉・諦めの声(VOC:Voice of Cynicism)
・恐れの声(VOF:Voice of Fear)

という心の中の抵抗(サボ)をかき分けていかなくてはならない。まずは,自分ができない理由(原因,たとえば自分の生い立ちや成長プロセスの外因(佐世保,富山,多治見,岡崎,高山,大垣,一宮と転々として,小学校を4回変わったから,その場所へ入るのに,様子見からはいる云々)に被けることを辞めるところから始めなくてはならない。

参考文献;
C・オットー・シャーマー『U理論』(英治出版)
奥田秀宇『人をひきつける心』(サイエンス社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#U理論
#C・オットー・シャーマー
#VOJ
#VOC
#VOF
#自己開示
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2014年01月11日

好悪



僕は,ストーカーと恋は,わずかの差だと思う。

同じ土俵に乗っていると思う,

のと,

同じ土俵に乗っていると感ずる,

のと,

同じ土俵に乗っているつもり,

のとは少しずつずれる。しかし,「同じ土俵に乗っている」のと「同じ土俵に乗っているつもり」とは,ほとんど変わらない。お互いにそう思っていても,それは,別々の土俵かもしれない。一方だけがそう思って,他方は合わせているだけかもしれない。

そもそも全く接点のなかった関係で,ストーカーは起きない。起きたとしたら,妄想か病気である。

だから,なにがしか,土俵を共有した,という幻想を抱くに足る時間があったということになる。

そういう意味では,恋とストーカーとは,ベン図ふうにいうと,重なる部分がもともと大きい。

恋は仕勝ち

とも,

恋は思案の外,

ともいう。好き嫌いとか愛憎というが,

好きと嫌いは対ではなく,
愛すと憎むは対ではない,

気がしている。もちろん,好きが嫌いに転じることもある。愛が憎しみに変わることもある。だが,対ではない。好きなものは,ずっと好きなのだ。ストーカーの心理を追いかけたわけではないので,勝手な妄想だが,

ストーカーは好きという幻想から抜け出られなくなっている,

だから,相手の土俵は見えていない。自分の土俵に乗っていたはずの(と思っている)相手を,勝手に追い求めている。これだけ追いかければ,わかってくれるだろう,気持ちも変わるだろう,と勝手に思い込む。

だからストーカー規制法によって警察から事情聴取や警告を受けた瞬間,その土俵から降りた相手に気づく。気づいたおのれが愚かしく見えるか,これだけ好意を示すおのれへのこんなふるまいに対して,相手が憎く見えるか,そこで憎悪に転ずるかどうかの岐路がある(かもしれない)。

多くは,そこで断念する。というか,みじめに見える自分を,これ以上みじめにする振る舞いには耐えられない。だから,その土俵を降りる。しかし,おのれの土俵から降りなければ,というか,同じ土俵の上にあった(はずの)相手しか見えていないので,そのときのおのれの思いの丈,好意の分量だけ,相手への憎悪の分量もかさ上げされる。

もともと好きと憎しみとは,好悪という言葉があるように,隣接している。好きから嫌いには転じないが,好きから憎む(悪む)には転じやすい。

愛は,いつくしむ,めぐむ,したしむ,かわいがる,このむ,と,いわゆるlove(の反対はhate)とは微妙にずれている気がする。だから,愛憎より,好悪の方がしっくりくる。

よく,ことわざに,

恋の道には女が賢しい

とある。一般には女性の方が,冷淡と言われる。さっぱりしている,というか,踏ん切りがいい。モトカレのものは洗いざらい捨てる。しかし,未練たらしいのは,男のほうだと言われる。本当のことは人によって,そのときの心理状態によって,二人の関係性によって,違うとは思うが,女性の方が思い切りがいいと聞かされることが多い。女性のストーカーの方が圧倒的に少ないのは,そのせいかもしれない。しかし,これも,個人差があるし,彼我の関係の中で変わる。

よく聞くのは,結婚詐欺師は,女性に信じられているという。相手の土俵にうまく,おのれの好意を残す。というか,そもそも騙されたと相手は思っていないのだという。だから,相手は憎まないのだ,という。そのあたりの,詐欺師の手腕は,

いつまでも,相手の心の土俵に,自分を残りつづけさせる,

ところにあるのかもしれない。どうせ幻なら,そういう土俵の降り方がいい。

そう,ここにはコミュニケーションの基本がある気がする。思えば,こういうコミュニケーションの仕方がいいのかもしれない。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#好悪
#愛憎
#土俵

posted by Toshi at 04:56| Comment(3) | | 更新情報をチェックする