2012年12月21日

自分の思いを伝えるということ~どうしたら土俵を共有できるか




人を好きになったり,嫌いになったりは,恋は思案の外,という言葉があるくらい,理屈では分からない。だから,その思いを伝えようとすると,なかなか難しい。しかし,それは自分の視点からしか見ていないからかもしれない。

今昔物語に,有名な話がある。 (といっても,恋い焦がれた男が,相手を嫌いになるつもりで,便器を見たら,香木があったという,さんざんこけにされたという印象程度しかなかったので,ためしにグーグルで「うんこ 香木」で引くと,今昔物語の巻3 0とわかった。『宇治拾遺物語』第3巻には「平貞文本院侍従の事」にも似た話があり,谷崎純一郎の『少将滋幹の母』にも同じような場面が出てくるし,また芥川龍之介はこれをもとに『好色』を書いているようだ。以下にそれを要約してみた)。

兵衛佐の平定文が,通称は平中という人がいた。上品で,容姿は美しく,立ち居振る舞いや言葉もあか抜けしていて,当時,この平中にまさる色男は世の中にいなかった。だからもてる。プレイボーイである。その平中が,藤原時平に使える侍従の君と呼ばれる若い女性に夢中になる。

しかし歌を送っても,返事もくれず,せめて「見た」と二文字でいいから返事がほしい,と書き送ると,自分が書き送った手紙の<見た>の部分を破って,薄紙に貼りつけて返す。平中は,哀しさと情けなさで,ふさぎこんでしまった。

しかし長雨の続くある日,こんな夜に訪ねていったら,鬼のように非情な心の持主でも,哀れに思ってくれるのではないか,そう思って,暗い雨の夜,その家に仕える女性たちの住む部屋のあたりへ行き,以前より取り次ぎをしていた小娘を呼んで「思いつめた末にやってまいりました」と伝言させると,やがて小娘が帰ってきて,「今はまだ他の人も寝ていないので,御前を下がるわけにはいきません。しばらく待っていてください」との返事,散々雨の中待たされた末,人々が寝る気配があり,やがて内側に誰か来る音がして,引き戸の掛金をそっと外した。喜んで戸を引くとなんなく開く。もう夢心地で,心を静めて部屋に入ると,そこには香のかおりが満ちている。寝床とおぼしいところをさぐると,柔らかい衣ひとかさねを身につけて,女が横たわっている。頭から肩にかけてほっそりと,髪は凍っているように冷ややかである。嬉しさのあまり語りかける言葉も思いつかなかったところ,女が,「たいへんなことを忘れていました。障子の掛金を掛けていません。行って掛けてきますからね」といって,上にはおっていた衣を脱ぎおき,単衣と袴ばかりを着て行った。障子の掛金を掛ける音が聞こえ,もう来ると思ったのに,足音は奥の方に去っていき,戻ってくる音もしないまま長い時間がたった。おかしいと思って,起きて障子のところへ行って調べると,掛金が向こう側から掛けられているのがわかった。また,平中はコケにされた。

その後平中は,なんとか彼女の欠点を耳にして,嫌いになってしまおうと考えたのだが,まったく悪い噂がない。ふと,あんなにすばらしい女だけれど,便器にするものを見たら,百年の恋もさめるんじゃないかと思いついた。

そこで,便器を洗いに行くところを奪い取って,中身を見てやろうと,女の部屋のあたりをうろついていたところ,小娘が,香染の布に便器を包み,赤地に絵のある扇で隠しつつ部屋から出てくるのを見つけた。それをひったくって,中をみると,金漆を塗った便器であった。肝心の中身はともかくとして,包んでいた布といいその便器といい,ありきたりのものとはかけ離れたすばらしさ。おそるおそる蓋をとると,たちまち丁子のよい香りが匂う。その意外さに驚いて中を覗きこむと,薄黄色い液体が半分ばかりあって,親指くらいの大きさの黄黒い物体が三切れほど,丸まっている。香りがあまりにかぐわしいので,鼻にあてて嗅ぐと,黒方(くろぼう)という,数種の香を練り合わせた薫物のかおりであった。便器の液体は,丁子の香りが深くしみている。ちょっと嘗めてみたら,苦くて甘く,かぐわしいこと限りない。尿に見せかけた液体は,丁子を煮てその汁を入れたのであり,ウンコのようなのは,野老(トコロ)と黒方にあまづらを混ぜて捏ね,大きな筆の軸に入れて押し出して作ったのだとわかった。

それにつけても思うのは,こんな細工自体は,ほかにも思いつく者がいるかもしれない。しかし,便器を奪って覗くやつがいるかもしれないなどと,そもそも誰に予想できるだろうか。彼女は常人の心を超えているのだ。この人間界の人ではない。それからというもの,平中は,ただただ思い惑って,そのあげく病気になり,とうとう死んでしまったという。

平中は,今風に言えば,ストーカーなのだろう。しかし相手に完全に遊ばれている。逆に言うと,平中の思う土俵とは別のところで,侍従の君はゲームをしている,と言えなくもない。平中は,自分の土俵で相手にしてもらえない,と嘆き,落ち込むが,侍従の君の遊びの土俵の上で,相手の仕掛ける罠を,こちらも予想しながら,楽しんだら,別の土俵かもしれないが,何かを一緒にしていることになったのかもしれない。

ここまでコケにされてもなお,好きでありつづけるのはかまわない。しかし自分の土俵に相手が乗ってくれることを期待し続ければ,ストーカーになるしかない。しかし普通はありえないが,侍従の君のように,多少変態的に見えるが,相手をおちょくり,痛めつける遊び(?)の土俵に乗ってみるという,土俵の共有化もあるのかもしれない。

対人魅力の研究では,「好意の返報性」が指摘されている。自分を好きとか素晴らしいと思ってくれる人を,好ましいと思いやすい,という。しかし侍従の君にはそれは当てはまらない。ストーカーにも当てはまらない。

対人認知の類別というのがある。相手との相互作用の有無で親疎を分けている。相互作用というのは,自分(相手)の反応で,相手(自分)が懐く印象が変わったり,相手(自分)が示す振る舞いが変わったりする関係である。結果依存性という言い方もされる。それには一方的な影響を与える非対称性と相互に影響しあう対称性の二つがあるとされる。

①レベルゼロのひとたち たまたま,すれ違っただけ,行きあわせただで,再び会うことのない,将来のかかわり(相互関係)のない,人物として意味づけられることのない他者。
・注目するだけ その人の存在に気づいて,その人に注意を向ける。電車に乗っている時の向かい側の席の人。
・速射判断するだけ その人の外見や振る舞いを見て,その人がどんなタイプかを判断する。美人だな等々。
②レベル1 人物として認識されているが,相手との何らかのやりとり(相互作用)が行われていない他者。
・グループA タレントや有名人など,テレビに映る人たち。こちらが一方的に知っているだけの人たち。
・グループB 友人の友人で,その人と付き合うことには関心を持てない人たち。フェイスブックでつながっているだけというのも含まれるかもしれない。
・グループC 相互作用をしたいと思っているのではなく,お店の店員に声を掛けたり,バス待ちの人に声を掛けたりと,その場だけのかかわりとなるひとたち。
③レベル2 相手から一方的にコントロールされたり,支配されたりする関係。教祖との関係もこれに近い。この場合,結果依存性が,一方的な影響を与える側と,それを受ける側の二つがあることになる。
④レベル3 対等に相手に影響を与え合っている関係。共同作業をしている場合には,テニスの試合のような競争関係も含まれる。相手を正確に認知しようとし,評価に敏感に反応する傾向がある。
⑤レベル4 ここでは単なる関心ではなく,相手からの好意が気になる相手。その相手への思い,関心の高さは,他のレベルとは比較にならない。好意を示すものを好むという,好意の返報性と同時に,好ましさに目が向きがちというポジティブ・バイアスがあるとされる。

で,われわれは,相手から何らかの好意的反応を得ると,それが本当かどうかを,確証をえようとし,相手が自分をどう見ているか,自分を受け入れようとしているのか,自分をどのような人物だと判断しているかに,関心をよせる,と言われています。

遠くからあこがれているだけでは,「心の中の島」は,はるかに離れた「心の中だけの夢」にとどまる。鏡越しに垣間見るだけでは,現実の距離は縮まらない。そこへ近づくには,どんなに遠くても現実に第一歩を踏み出すことから始めるしかない。しかし,自分の思いと,相手の思いとは,同じスタートラインにはいない。そのスタートラインの違いを気づかなければ,ボタンのかけ違いが起こる。

どうも,平中は,レベル4を期待し,侍従の君は,レベル3の段階で,相手を試していたと見える。ここで,平中は,土俵から降りてしまった。諦めたというのは,自分の土俵に相手が乗ってくれないと,見極めたということだ。でも,侍従の君は,別の土俵にいる。もともと何の関係もない二人なら,ボタンが掛け違っているのは当たり前。それなら,どこかで,こちらが調整するしかない。調整は,相手はしてくれない。好意を示した側が,土俵をしつらえ直すほかはない。そう見える。

確かに,ちょっと男性から見ると,切ないが,しかし相手が自分に合わせてくれることを,一方的に期待し続けるのは身勝手というものだ。そこを踏み越えると,ストーカーに陥っていく。

たとえば「好きだ」と一方的に言うだけでは,相手から見れば,何も伝えていないに等しい。伝えているのは,ただ,自分の感情だ。情念だ。しかし,それを受け止める必要が相手になければ,その思いは,宙に舞うだけだ。まして,相手には,相手の事情がある。

かつて先輩に,「魚のいない池で釣糸を垂れている」と言われたことがあるが,それに近い。言ってみれば,空しい独り相撲に過ぎない。

たぶん,どこかの歌会で一緒にいられる場を見つけるとか,何かそういう迂遠でも,ともかく土俵を同じくするところから,スタートを揃え直すというのも一つの方法だが,思うに,仕掛けられたゲームという土俵で,すでに競争関係(レベル3)に入っている,それをまずは一緒に楽しむという余裕があったら,それで同じスタートラインに立てていたのではないか。むろんそれでは嫌なのかもしれないが,でも,遠くから眺めて憧れているだけよりはましではないか。そういう視点の切り替えが必要だったのだろう。

自分の土俵,つまり自分の求める相互関係だけにこだわるのは,コミュニケーションの扉を閉ざすことになるらしい。


参考文献;
山本眞理子・原奈津子『他者を知る』(サイエンス社)

今日のアイデア;
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posted by Toshi at 10:44| Comment(3) | 対人認知 | 更新情報をチェックする

2013年07月24日

コミュニケーションの土俵


例えば,好きという思いを,伝えても,相手が自分の想いの土俵に乗らなければ,

片思いであり,

無理強いをすれば,ストーカーになる。しかし考えてみれば,何もこれは特殊なことではない。

普通の人と人とが知り合い,わかりあう,

というのとどこも変わりはない。

自分の想いを共有しあうというのは,そう簡単ではない。しあっているつもり,と言うだけのことかもしれない。

安易にわかりあう,

つながり合う

という言葉が嫌いなのは,そのあたりの微妙な齟齬やすれ違いに敏感なだけだ。思い込んで,その気になるのに耐えられないだけだ。

下手をすれば,単なる思い込み,と言うか幻想に過ぎないかもしれない。それでも,つながっているという感じが好きなら,それはそれで,僕の関知しないところだ。しかし,それがストーカーと同じくらい主観的で,主情的なことだと僕は思っている。

だから,「心のケアお断り」と張り紙をされてしまう。

同じ土俵にいないのに,あるいは同じ土俵に乗りたくもないのに,

同じ土俵にいるという前提で,話を進められても困る。

同じ土俵にいたじゃないか,と迫られても困惑する。

何と言うのだろう,そういう思い込みは,それぞれ,心には同じ土俵の上で会話している二人の関係を思い描いているが,それぞれの描いているものが同じという保証はない。まったく別の土俵に乗っているのに,二人は,それぞれ同じ土俵の上に乗っている自分たちを思い描いているだけかもしれない。

同じ赤色を見ていても,見ているのが同じ赤とは限らない。

人はミラーニューロンで,相手を見倣う。しかし見倣っているものが相手と同じとは限らない。なまじいに,相手の振る舞いから相手の心が読めるだけに,それが自分の思い描くものと,同じと思い込みやすい。

しかしそれはあくまで幻想だから,わずかな行き違いで,心理的破綻はくる。

でもだ,皮肉ではなく,お互いが同じものを見ているとお互いが信じられている限りは,その違いは,それぞれの中で微細なものとして無視できるほど,関係が心地いいのかもしれない。なまじ齟齬が見えない分だけ,心地よいと思えるのかもしれない。それを信頼というのだろう。しかし,それが儚い幻想の上に立っている,と最近思えてならない。

別にシニカルに言っているのではない。信頼関係というのはその程度だということだ。人は,所詮一人ぽっちだ。何人に囲まれて死のうと,死ぬのは一人だ。それが野垂れ死にだろうと,祝福された天寿であろうと,同じだと最近思っているせいもある。それを寂しい人だと称する人がいる。いやいや,死が迫った時,どんなに親身に世話をし,親身に相談に乗ってくれたところで,その不安を分かち合うことはできない。わかることもできない。

その上でなくては,両者の土俵なんて創れっこないのだ。

初めっから,信頼だの,絆だの,つながりだのと言う,浮ついた言葉ありきでスタートする関係を,最近,ますます信じなくなった。まあ,もともとと言えば,原点回帰に過ぎないかもしれないが。

むしろ,その両者の越えられない溝というか,淵というか,そこからスタートし,幻想でもいい,ハイパーな土俵を創ることからしか,スタートしない。その厳しい,隔絶をわからなければ,安易にひとがわかるなどと言ってはいけない。


今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:40| Comment(3) | 対人認知 | 更新情報をチェックする

2013年09月08日

間合い


人との間合いがよく見えない。たぶん,ぼくが距離を置くと,相手も距離を置く。しかし,僕が間を詰めると,相手が両手で突っ張るように見えた時,僕には,それ以上踏み込む気がなくなる。

人との関係の難しさが,いい歳になっても,身に染みる。

これは立ち会いと同じだと思う。本来真剣勝負なのだ。宮本武蔵は言う。

敵をうつ拍子に,一拍子といって,彼我ともに太刀の届くほどの位置を取り,敵の心組みができない前に,自分の身も動かさず,心も動かさず,すばやく一気に打つ拍子である。敵が,太刀を引こう,外そう,打とうなどという心組みが決まらないうちに打つ拍子,これが一拍子である,

という。武蔵の本を見ると(剣の心得がないので勝手読みだが)意外と間合い外しをやる。

敵よりも素早く,構える間もなく,敵の懐に入り込んで,敵に全身を寄せてしまうという,秋猴の身という技もある。あるいは,敵のまぎわに入り込み,体ごと敵にぶつかる,というのもある。また,相手に身を密着させて離れない,漆膠という身の置き方もある。

こういう間合い崩しは,ふつう腰が引けたり,手だけで接近したりする。その恐怖をかなぐり捨てて,敵に飛び込むというのは,おそらく,相手は想定していない。そういう間合い崩しは,小手先の技とは異なり,全身でぶつかる,というのに近い。

人との間合いで,妨げになるのは,身をかばう防衛心なのかもしれない。庇うことが,かえって,距離を遠ざける。

多敵のくらいというのがある。一人で大勢と対峙する場合,全体を見てしまう。しかし,

どの敵が先に,どの敵が後にかかってくるか,その気配を見抜いて,先にかかってくるものとまず戦う,

という。結局,一対一なのだ,と言っている。

同じ趣旨のことを,宗矩も言っていて,

立ち会うやいなや,一念にかけてきびしく切ってかかり,先の太刀を入れんとかかる,

と,先んじて打ち込むことを言っているが,もう少し踏み込んで,

一太刀打って,打ったぞと思うと,その打ったと思う心がそのままそこに留まる…。打ったところを,心が元に戻らないため,一瞬,心が空白状態になり二の太刀を敵に打たれて,先手を取ったことが無になる,

と。これを,心を返す,という。

心を返すとは,一太刀打ったら,打ったところに心を置かず,すぐに心を戻して敵の気色をみよ,という。

機先を制したと,得意になっていたら,敵は,そのことに敵愾心をもやし,かえって厳しく対応してくる,それが油断である。

病とは,心の留まることをいう。仏法ではこれを執着といって,もっとも嫌う。心が一か所に執着してとどまれば,見るところを見外して,意外な負けをとる。

心は,形のないことは虚空のようであるが,一心はこの身の主人であり,すべてのわざをすることはみな心に源がある。その心が動いてはたらくことは,心の営みである。心の動かないのは空である。空の動くのは心である。空が動いて,心となって手足へ作用する。立ちをにぎった(相手の)拳の動かぬときに素早く打つので,空を打てという…。

いわば,この場合,相手の太刀を捧げた手の動かないところは,心が働いていない,つまり隙である。そこを打て,という。

まてまて,立ち会いの話に転じてしまったが,人との関係の話であった。

たぶん,心が何かに固着して動かないから,相手が見えないのだろう。心を返す,自分の立つ位置に常に戻す,それがいわば平常心というものではないか,というところに落ち着くが,何の解決にもなっていない…か。

宗矩の師,沢庵は,

人ごとの身の中に神あり,

といっている。それと関わるが,宗矩は,神妙剣について,こう言う。

神(しん)内に在りて妙(みょう)外に顕る。…たとえば一本の木に,内に木の神ある故に,花咲き匂い,みどり立ち,枝葉しげる也。これを妙という。木の神は,木をくだきても,これぞ神とて目にみえねども,神なくば花緑も外にはあらわるまじく也。人の神も,身をさきても,これぞ神とて目には見えねども,内に神あるによりて,様々のわざをなす也。神妙剣の座に神をすえるゆえに,様々の妙が手足にあらわれて,軍(いくさ)に花をさかす也。神は心の為には主人也。神が内にありて,心を外へつかう也。此の心また気をめしつかう也。気をめしつかい,神の為に外にかける,此の心が一か所に逗留すれば,用がかくる也。然るによりて,心を一か所にとどめぬようにするのが肝要,

と。心を止める,つまり執着しないこと,に尽きるのかもしれない。

別の言い方をすれば,

軽やかに,

ということになる。


参考文献;
宮本武蔵『五輪書』(講談社)
柳生宗矩『兵法家伝書』(岩波文庫)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#宮本武蔵
#五輪書
#柳生宗矩
#兵法家伝書
#沢庵

posted by Toshi at 04:05| Comment(1) | 対人認知 | 更新情報をチェックする

2013年09月20日

共振れ


既に一度触れたことがあるが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11041914.html

「恋」を,ちょっと別の角度,「共振れ」(あるいは「共振れ幻想」)という視点から考えてみたい。まあ,艶っぽいこととは無縁な無粋な人間ではあるが,だからこそ考えてみたい。与謝野晶子,の

柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君

てやつである。

恋と哀れは種ひとつ

ということわざがある。これは違うと直感する。

哀れは上から目線だ。なくはないが,逆かもしれない。下から目線,というと憧れ,あるいは慕うという方が,重なるような気がする。

あるいは,

崇める,

憧れる,

敬う,

という,憧憬や尊崇の目線が,相手と同じ目線になるきっかけのようなものがあるに違いない。まあ,言ってしまえば,勘違いするきっかけ,思い違いするきっかけ,といってもいい。それによって,同じ目線になったと思い込む,あくまで思い込みだが。

しかし考えようによっては,人との関係をいろんな切り口で考えるとき,「恋」を,親しみの極端に振れた時というふうに捉えることができる。人によって,その感情は違うので,共振れというふうに,感情がシンクロするとは限らない。これを共鳴(共鳴り)と言い換えても,同じだ自分が鳴っていても,相手が鳴っているとは限らない。

いやいや,そもそも共振れなどということは,生理的に,たとえば,あくびが伝染するようにあるかもしれないし,同じ映画を観ていて,同じように感情が共振れすることはある。しかし相互の感情や感覚が,共振れすることがあるのか,というと,どうも,幻想以外には難しい,という気がする。

少しひねくれているのかもしれない。

人は,自分の観ている現実が,その感覚が,人も同じだと思いがちだが,全く別だ。現象学的に言えば,人は,結局自分の幻想のなかに生きている。だが,人は自分の物語を生きる。

とすれば,その物語を共有するには,

よほどミラーニューロンが発達していて,鋭く察することができるか,(いやいやそれだって,ただ自分が察しているのは察しているつもりになっているだけの自分の幻想かもしれない),

心がシンクロしているという幻想を現実と思い込めるほどの思い込みの強さか,

相手の振る舞いとのシンクロさせる(つもりな)のが巧みであるのか,

相手と一緒の土俵の上にいるつもりになっているのか,

相手も自分にシンクロしていると思い込んで揺らがないトンネルビジョンに入り込んでいるのか,

いずれにしても,独りよがりでしかない。もし,相手が,両手で近づくのを突っ張っているのに,それが見えないか,それを見ないか,それは見間違いと思いこみ,あるいは相手が勘違いしていると思い込み,それを踏み越えて行けば,ストーカーになる。

しかし,そうした人との関係は,何も恋愛という関わり方だけとは限らない。

だから人との関係は難しい。

ただ,一つの結論を持っている。

「物語」は共有できる。しかし,その物語に感じた感情や,その物語に仮託した思い,その物語にイメージした世界は共有できない。

だから,物語がたぶん,共振れのキーなのかもしれない。

ひとつの物語を共有できれば,それぞれの思いと感情は微妙に違っても,一緒いることかできる。

人の認知形式,思考形式には,

論理・実証モード(Paradigmatic Mode)



ストーリーモード(Narrative Mode)

がある。前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。

ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。

物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。

思いと感情は齟齬があっても,意味を共有化するというのは,もはや恋ではない。したがって,恋には,意味はいらない。共振れの幻想のみが必要なのだ。

恋は思案のほか

とはまさにそのことだろう。

たしか,ロジャーズは,

クライアントの私的世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取る,

といったが,ただしこう付け加えるのを忘れていない。

あたかも~のように(as if)という性質を失わないこと,

と。この制約を自覚しない共感は,共振れ幻想に過ぎない。それは恋とその極限であるストーカーに近い,というと言いすぎか?

参考文献;
ドナルド・A・ノーマン『人を賢くする道具』(新曜社)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm






#ドナルド・A・ノーマン
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#論理・実証モード(Paradigmatic Mode)
#ストーリーモード(Narrative Mode)
#ストーリーモード(Narrative Mode)
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posted by Toshi at 06:06| Comment(0) | 対人認知 | 更新情報をチェックする