2012年12月25日

自己幻想の罠をどう抜け出すか~人を好きになるということ




人に好きといったことが何度あるだろうか。その一瞬のことを思い出してみると,どうも,相手に対してというよりは,自分の影に向かって言っているのではないか,という気がする。自分自身を見ている。つまり,好きというのは,自己完結して,自己循環しているような気がするのだ。自分というプロジェクターが写したように,自分の幻影の膜の中で見ている相手のような気がする。

キルケゴールは,自己とはひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいはその関係においてその関係がそれ自身に関係するということである。自己とは関係そのものではなく関係がそれ自身に関係することである,といっていた。つまりは,自分との関係を関係するのである。

それは,丁度透明な風船の中に入って,影の自分と対話している。絶望する自分とそれほどでもないと思う自分との対話であったり,希望を照らし出す自分と踏みとどまろうとする自分との対話であったり等々,似たように,好きな人を前にして,その人自身ではなく,自分の描いた自分を見ている。

二人が向き合っていても,自分は,自分自身の中の自分と向き合っているとする。相手も,相手自身の中の自分と向き合っているとするなら,お互いが会話していても,相手の言っていることを,自分の影を通してしか耳に入れていないかもしれない。あばたもえくぼとは,よく言ったものだ。

それでは,自分と相手が,その自分という真の意味で向き合うには,どうすればいいのか。

ここは,妄想だが,啐啄同時ではないが,自分と相手が同時に,自分という自己幻影の膜を抜け出さなくてはならない。

「啐啄同時」が,鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき,殻の中から卵の殻をつついて音をたてる。これを「啐」と言い,その一瞬,すかさず親鳥が外から殻をついばんで破る,これを「啄」と言う。この「啐」と「啄」が同時であってはじめて,殻が破れて雛が産まれる。お互いが,同時に,相手の自己幻影の膜を,啐啄同時に破る。

そうやって,自己幻影の膜を破るとすると,それは,どういう一瞬なのか。自己充足とも,自己満足とも違う,相互が厳しい自己確認をしなければ,自己幻想の膜からは出られない。一人ではなく,相互だからできる気がするのだが,お互いが,相手をただ一人のその人として認め合うことなのではないか。それは,霧の向こうに,一瞬見える。立った一瞬。その時を逃すと,またおのれの影しかそこに見なくなる。

ブーバーは,一人の人に対し,私の<なんじ>として向き合う,という。僭越だが,僕は,丁度さかさまから,ブーバーと出会っているらしい。

ブーバーは,われわれが何かを経験するとき,世界には関与していないという。経験とはわれわれの内部におこることであって,われわれと世界の「あいだ」におきることとはなっていない,と。だから,まず,私という我の中に汝を見出すべきなのだ,経験とは,だから,「我からの遠ざかり」である,と。

でも,それでは,結局自分の影を見ているだけなのではないか,という懸念がある。間違っているかもしれないが,その自分の影を,破らなくてはならない。

フロムはいう。「愛とは,特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの『対象』にたいしてではなく,世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度,性格の方向性のことである」という。だから,「一人の人をほんとうに愛するとは,すべての人を愛することであり,世界を愛し,生命を愛することである。誰かに『あなたを愛している』と言うことができるなら,『あなたを通して,すべての人を,世界を,私自身を愛している』と言えるはずだ。」と。

確かに,人は人を相手しいるとき,心が広く大きくなり,世界を祝福したい気分になる。でも,それは,まだ自分が自分の幻想に惹かれ,その時,その場に自己満足しているからではないのか。そういう態度になるために何が必要なのか。

更に,フロムは言う。「二人の人間が自分たちの存在の中心で意志を通じ合うとき,すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき,はじめて愛が生まれる。この『中心における経験』のなかにしか,人間の現実はない。人間の生はそこにしかなく,したがって愛の基盤もそこにしかない。」と。そしてこう言う。

二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し,自分自身から逃避するのではなく,自分自身と一体化することによって,相手と一体化するということである。

自分自身を「信じている」者だけが,他人にたいして誠実になれる。なぜなら,自分に信念をもっている者だけが,「自分は将来も現在と同じだろう,したがって自分が予想している通りに感じ,行動するだろう」という確信が持てるからだ。自分自身にたいする信念は,他人にたいして約束ができるための必須条件である。

そして,こう言う。

愛するということは,なんの保証もないのに行動を起こすことであり,こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に,全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり,わずかな信念しかもっていない人は,わずかしか愛することができない。

もしお互いが,相手の「なかの芯のようなもの」を信じあえれば,たとえ「環境がどんなに変わろうとも,また意見や感情が多少変わろうとも,その芯は生涯を通じて消えることなく,変わることもない」自己の中にある確信を,しっかり確認できれば,あるいは自己完結の膜は破れていくかもしれない。

コミュニケーションは,「何かを共有する」ことでもある。言葉は,少なくとも,膜を濾してでていく。その言葉を介してしか,それを破り,見つける方法はないのなら,もっともっと,自分を語り,自分をさらけ出していくしかないのかもしれない。

その果てで,自分というプロジェクターが映しているような自己幻想の「好き」から,リアルなおのれを認知してもらうことを通して,相手のリアルな認知をつかみ,そこから,互いの<芯>を認め合うことが,ひょっとすると,本当の意味での自己完結の幻を破れるのかもしれない。仮に幻が破れなくても,まあ,それはそれでいいのかもしれないが,それでは自己満足をついに脱することはできまい。

まずは自分の物語を,もっともっと語らなくてはならない。


参考文献;
エーリッヒ・フロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)
デヴィッド・ボーム『ダイアローグ』(英治出版)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 13:21| Comment(14) | | 更新情報をチェックする

2013年01月03日

「恋」・「愛」・「好」について



自分の知っている範囲なので,あるいはとんでもない間違いをしているかもしれないが,恋には対立語がない。たとえば愛なら愛憎,好なら好悪がある。その意味では,「恋」に憎しみや悪意は似合わない。

辞書的に言うと,日本語には,本来「愛」はない。漢語からきた。だからか,本来の意味とは別に抽象度が高い印象を受ける。古語辞典では(といっても自分の持っている岩波版の古いタイプだが),「恋う(ふ)」には,「思い慕う」か,「異性を思い慕って悩む」という意味しかない。

「愛す」は,①大切に扱う,大事にする,②手心を加える,遠慮して扱う,③あやす,機嫌を取る,の意味しかない。恋とか恋愛はない。

「好む」には,①好く,愛する,②選ぶ,という意味だが,この場合の①の意味は,例で,「いまめかしき事をこのみたるわたりにて…」とあり,「恋」のニュアンスはない。

このあたりからは,憶測と独断になるが,まずは,「恋」・「愛」・「好」の矢印の方向性を考えると,「恋」は,水面に映る自分に恋をしたナルキッソスの話があるにはあるが,「愛」に自己愛があり,「好」にも自己を好むという言い方があるのに,自己恋や「自分を恋う」というのはあまり聞かない。しかも,矢印は,誰でもいいというわけではなく,基本は,一点にピンポイントで向かう。恋のキューピッドの矢が,意味があるのは,そのためだ。「恋」の漢和辞典での意味も,「こふ」に一点張り。ただ,恋々という言葉あるように,「恋」には軟弱さが付きまとう。だから,恋着とか恋泣になってしまうようだ。

「好」は,嗜好とか愛好とか愛玩いう言葉があるので,本来の「愛」の「めでる」「いつくしむ」ということとつながって,かなり狭い範囲に限定された矢印のような気がする。人とも物とも時とも相性のいい言葉らしい。漢和辞典的(といっても角川の『字源』だが)には,「よし(善)」か「うつくし」のニュアンスがあり,もちろん好色の「好」でもあるが,好意の「好」であり,好漢の「好」であり,好事者の「好」であり,好人物の「好」であり,好都合の「好」であり,好評の「好」であり,好機の「好」でもある。

「愛」は,漢和辞典的には,「いつくしむ」「親しむ」「めでる」「したう」とあり,幅が広い。仁愛の「愛」でもあり,愛育の「愛」でもあり,愛児の「愛」でもあり,愛詠(好んで歌う歌)の「愛」であり,愛惜の「愛」でもあり,愛着の「愛」でもあり,愛嬌の「愛」でもあり,愛妾の「愛」でもある。さらに,自愛の「愛」もある。

現代は,「愛」ですべてが代替できるくらい幅広いが,漢字としての「愛」も元来そんな感じになっている。矢印は全方向と言っていい。

恋と愛の違いにはいろいろ説もあるようだが,三島由紀夫が,ことを書いていたそうだ(ネットで知ったので保証はしない)。

 思うに、「好く」というのは、個人資質的な扇形した感情移入を云うのであろう。対極は「嫌い」であり、人はそれぞれ多少なりともその嗜好性向が異なっているので塩梅良くなっているように思われる。「恋」というのは、「好く」の扇形をかなり狭めた極力一対一のかなり濃度の高い「好く」感情移入なのではなかろうか。

 それに対して、「愛」というのは、一対一の「恋」の扇形を開く方向への感情転移なのではなかろうか。「愛」は広がれば広がるほど良いが、いずれ「止まり」がやってくる。なぜなら、「愛」は強めれば強めるほど逆に「憎」を呼び込むからである。こうなると、それまでの「愛」を「第一次愛」と呼び、「憎」と絡みながら織り成していく「愛」感情を「第二次愛」として区別すべきであろう。その上で、「第二次愛」も又広げていけば行くほど良い。

三島らしい屁理屈だが,どうもしっくりこない。僕はベン図で関係性を考えてみた。例の円を重ねたり,つなげたりする,ジョン・ベンの考案した,複数の集合の関係や、集合の範囲を視覚的に図式化したものである。

「恋」は,どちらかというと二つの円が離れている。だから知恵の輪のように接点だけで絡みつく。
「愛」は,二つの円が一部重なっているか,全体が重なっているかだろうが,しかし思うに,重なっている場合は,どちらかの円の方がはるかに大きくて,自分側が大きい方なのか相手側が大きい方なのかは別として,大きな円の中に包み込まれているのではないか。
「好」は,ほんのわずか,相手の円が接している。その接している部分,ないし重なり合っている部分が大きくなるほど,マニアックになるというか,執着が強まる。この場合円の大小は「好」には影響しない。

ただ,「恋」の円は,円ではなく,輪。知恵の輪が絡みつくように,別々のまま。言い様を変えると,まあ一方通行。絡んではいるが,重なることはない。だから,「恋」。だから,「恋」が「愛」になることはない。慈愛という言葉があるが,その時,「恋」ではない。なぜなら,目線がもう「恋」の一方通行の目線ではないからだ。それは「恋」の終焉の果てに,ひょっとしたらありうる境地だ。「愛」の場合も,確かに,特に大きいほうが小さいほうを飲み込んでいる場合,やはり一方通行に違いないのだが,一方通行で自足する傾向がある。自足というかそこで充足している。「恋」は終始,一方通行にじれている。しかし,「恋」には「憎」も「悪」もない。「恨」もないと思う(ここらは異論があるかもしれない)。

「恋」からの連想で,ちょっと古いが,与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」を思い出した。ネットで歌詞を調べてみたが,どうも人を「恋ふ」という感じではない。壮士の勇ましげな空元気っぽくて,好きではない。この中で,有名なのは,一番だが,

妻をめとらば 才たけて
  みめ美わしく 情けある
  友を選ばば 書を読みて
  六分の侠気 四分の熱

二番は,

恋の命を たずぬれば
  名を惜しむかな 男(おのこ)ゆえ
  友の情けを たずぬれば
  義のあるところ 火をも踏む

恋とは言っているが,単なるだしに使われているだけだ。とてもいただけない。与謝野鉄幹という人間の程度の悪さを想像させてしまう(正直のところよく知らないし,こんな歌ではよく知りたくもない)。

全歌詞は,ネットでみるといろいろあるので見てほしいが,あえて好意的に受け止めれば,よく読むと,一方通行で,人への憧憬に満ちている。その意味で,人を「恋うる」というのはあたっていなくもない。

どのみち,自分には無縁で,他にないものかと,いろいろあたってみたが,短歌ならたくさんあるのだろうが,結局この詩に落ち着いた。

他人を励ますことはできても
自分を励ますことは難しい
だから-というべきか
しかし-というべきか
自分がまだひらく花田と
思える間はそう思うがいい
すこしの気恥ずかしさに耐え
すこしの無理をしてでも
淡い賑やかさのなかに
自分を遊ばせておくがいい(吉野弘「自分自身に」)

僕は,まあ,愛とか恋とかには縁のない人間なので,つまるところ,「好」に落ち着いてしまったようだ。こういう含羞の気色が「好」みのようだ。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 07:48| Comment(2) | | 更新情報をチェックする