2012年12月26日

「自分を開く」について


一昨年,評判を聞いて,C・オットー・シャーマー『U理論』を読んだ。そこで,直感したのは,「開く」という言葉であった。それを,あるセミナーで公言したら,たまたまそこに,版権を持っている会社の社員の方がいらして,名刺交換した時,「恥ずかしながら,ザックリと開くことだと受け止めた」と申し上げたら,笑いながら,肯定的な反応をいただいた記憶がある(勝手読みか?)。

翌年早々のある勉強会で,「今年のテーマは『開く』だ」と,また公言したところ,何人かから好意的な反応をもらい,その後の懇親会で,それまで,つかず離れず,長い付き合いのあるカウンセラーに,付き合ってくれと言われて,驚いたのをよく覚えている。自分を開く,という言葉に,それほどの反応があるとは予期せずに,動揺したのを覚えている。残念なことに,3月に3.11が来て,しばらくそれどころではなくなったが,気持ちとしては,続いていた。ただ,あまりそれを公言しないでいた。ただ,「自分を開く」と公言することに,自分の予想を超えて,(すべての方ではないが)強く反応される方々がいらっしゃることに,少し戸惑っているのは確かだ。

自分のイメージでは,この「開く」は,いわゆる自己開示とはちょっと違う。自己開示は,心理学辞典では,

他者に対して,言語を介して伝達される自分自身の情報,およびその伝達行為をいう。狭義には,聞き手に対して何ら意図を持たず,誠実に自分自身に関する情報を伝えること,およびその内容をさす。広義には自己に関する事項の伝達やその内容を示す。自己開示の中でも,非常に内面性の高いものを開示することを告白という。

として,自己開示と自己呈示をこう分けている。

自己開示は言語的な伝達のみを対象としているのに対し,自己呈示は非言語的な伝達も含む。自己開示は意図的であるか否かはかかわりないが,自己呈示は意図的であることを前提にしている。他者が好むような行為をあえて見せたりすることを含む。自己開示については,すでに,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11027122.html

で触れた。

しかし,自分のイメージでは,ちょっとこれとは違う。単にドアを開けている,というのでも,シャッターを下ろさないというのでもない。もう一歩踏み出して,自分の考えていること,自分の感じていること,自分の思いを,必要な時に,いつでもオープンにできるし,そのことにこだわらず,いつでも手放せられるというニュアンスがある。

いってみると,自分についての執着を捨て,こだわりを捨て,とらわれを放ち,頓着しない,という感じが強い。あまり自己限定しないという意味では,ブレインストーミングでアイデアをまとめていくときのあの感覚に近いかもしれない。そのあたりは,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1129.html

ですでに触れたが,ここではもう少し先へ踏み込むと,その時,二人であれ,三人であれ,もっと多くの人がいるのであれ,その場に溶け込める,というニュアンスもある。

それまでは,いい意味でも,悪い意味でも,どこか肩肘張って,おれがおれがという感じが付きまとい,浮いている感じがあった。いや,もうちょっというと,浮いている自分を,むしろ,よしとしていたきらいがあった。それを自恃と称していた。いまも,それがなくはないし,完全溶け込んだのでは,情けない。ここでの意味は,その場とひとつになり,その場そのものが独自に動き出すのに,主体的にコミットできるようにする,という感じだ。いつもそれがうまくできているわけではないが,姿勢としてはそのつもりだ。

それとの関連で言うと,もうひとつ「自分を開く」にニュアンスがあるとすれば,人との接し方というか,人とのかかわり方である。これは自分特有の問題かもしれないが,育成歴もあって,人との接触の範囲が狭く,それを広げることに消極的だったということがある。だから,人見知りをする。初めての場には行きにくい。大体初めての場に行かなければ,ますます自己閉鎖していくことになる。悪循環だ。

ある日突然,というか,これは,「開く」と公言する十年位年前,あるコーチングの勉強会で,講師から「鎧を着ているみたいだ」と言われ,その人に,カウンセリングでも学んだら,と言われたのがきっかけで,以来,カウンセリング,セラピー,コーチング,心理学等々,好奇心の赴くまま,積極的にいろんな集まりに出るようにしてきた。だから,開くには人との接触への馴れというのもある,という気がする。馴れれば,おのずと開いていく。「自分を開く」と公言した前後から,この傾向がますます増幅してきた。その意味で,自分の中では,「開く」のニュアンスには,もっともっともっと広く人と接するというのがある。

ところで,『U理論』では,直接的に「開く」にかかわることを,そんなに言及していないが,まずは,3つの「私たちが生まれついて持っている」能力について,

①開かれた思考(マインド) 理性的な,IQタイプの知性にかかわる能力。ここでは,物事を,事実も数字も先入観なく,新鮮な眼で客観的に見る。「思考はパラシュートのようなもの-開いて初めて機能する。」

②開かれた心(ハート) これは感情指数,EQを働かせる能力だ。他者と共感し,異なるコンテキストに適応し,他者の立場になって物事を考える力。

③開かれた意思 真の目的と真の自己を知る能力。このタイプの知性は意図やSQ(スピリチュアル指数)と呼ばれることもある。この能力は,手放す,迎え入れるという行為にかかわっている。

この能力は個人レベル(主観性)だけではなく,集団のレベル(間主観性)のどちらにも備わっている,とシャーマーさんはいう。

そのためにしなくてはならないことは,いっぱいあるのだろうが,まずは,

・評価・判断の声(VOJ:Voice of Judgment)を保留し,
・その時,その場,相手への皮肉・諦めの声(VOC:Voice of Cynicism)を棚に上げて,
・古い自分を手放して,恐れの声(VOF:Voice of Fear)を克服する,

必要があると,シャーマーさんは言っている。しかし,こう考えれば,難しいことではないと感じる。

評価・判断の声(VOJ:Voice of Judgment)を保留し,
その時,その場,相手への皮肉・諦めの声(VOC:Voice of Cynicism)を棚に上げて,

は,いわば,おなじみの,ブレインストーミングのマインドだ。つまり,「批判禁止」。相手を批判するということは,自分の価値・評価からしているので,批判をやめた瞬間,こころのシャツターが開くことを意味する。相手の意見を閉ざすことは,自己完結して意見をまとめているのと同じだ。自分一人の価値と評価でまとめるくらいなら,人と話さなければいい。

そして,そうやってこころのシャッターを開けた瞬間,自己完結した,閉じた世界を開いたことなので,すでに古い自分を手放すことを始めているといっていいのではないか,と思う。

そのための自分の習慣として,シャーマーさんが,こんなことを提案しているのが,気に入っている。

①朝早く起きて,自分にとって一番効果のある,静かな場所へ行き,内なる叡智を出現させる
②自分なりの習慣となっている方法で自分を自分の源につなげる。瞑想でもいいし祈りでもいい。
③人生の中で,今自分がいる場所へ自分を連れてきたものが何であるかを思い出す。すなわち,真正の自己とは何か,自分のなすべき真の仕事は何か,何のために自分はここにいるのかと問うことを忘れない。
④自分が奉仕したいものに対してコミットする。自分が仕えたい目的に集中する。
⑤今はじめようとしている今日という日に達成したいことに集中する。
⑥今ある人生を生きる機会を与えられたことに感謝する。自分が今いる場に自分を導いてくれたような機会を持ったことのないすべての人の気持ちになってみる。自分に与えられた機会に伴う責任を認識する。
⑦道に迷わないように,あるいは道をそれないように,助けを求める。自分が進むべき道は自分だけが発見できる旅だ。その旅の本質は,自分,自分のプレゼンス,最高の未来の自己を通してのみ世の中にもたらされる贈り物だ。しかし,それは一人ではできない。

このすべてがわかっているわけではないが,自分を取り戻する時間が必要だということはわかる。しかし,この前提に,あらゆるところで,自分を開けていなければ,この習慣は意味がない。

開くというのは,ある意味,平田オリザのいう,「協調性から社交性」に通ずるとも思っている。協調とは,周りとの関係性に主眼がある,しかし社交性は,こちら側からのアプローチだ。それは,開くことで効果をアップする,と信じている。

そして,「自分を開く」は,開けば開くほど,ますます深く開ける。そう確信している。


参考文献;
C・オットー・シャーマー『U理論』(英治出版)
平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#U理論
#C・オットー・シャーマー
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#VOC
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#自己開示
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2013年03月15日

リアル世界強化はコーチングの場づくりとはつながらない!


ファウンデーションという時,いまの生活基盤,自己基盤の見直し,強化をいっている。

僕は,もう十年程前になるが,1~2年,精神分析派ではないので,教育分析とは呼ばないが,教育的意味で,カウンセリングを受けた。その時のカウンセラーが件の老カウンセラーだが,そこで,「この時間はあなたの時間なのだから自由に使っていい」と言われ,自由にふるまいながら,自己確認をする機会を持ったことがある。しかしそのことで,カウンセラーは,特別自分の癖やコンプレックスなどを暴かなかった。ただ,そのままの自分でいい,ということを確認してくれた。そういうカウンセリングでもあった。つまり,厚化粧などする必要がない,という圧倒的な受容と共感をもって,僕という存在を承認してくれた。

でなくても,コーチングをするのに,自分を取り繕う必要があるのだろうか。くだらない人生しか送っていないことを恥じる必要があるのだろうか? すでにそれだけで,自己一致していないと言えるだろう。つまり,生きざまになっていない。自分の生き方を自覚していないのではないか。

少なくとも,自分のファウンデーションとは,自分のリアル世界の生き方のためだ。それはクライアントに関係のない,コーチ自身の生き方の問題に過ぎない。コンサルタントの福島正伸さんは,「自分はいつも絶好調」と言っていたのは,自分の体調の是非はクライアントには関係ないからだ。それがプロフェッショナルの心構えだろう。コーチの条件,事情に関係なくコーチングはある。あらさねばならない。そこにコーチの技量がある。

もちろんコーチングの場で,クライアントが変わることで,コーチにも強い影響を与え,コーチ自身の生き方が変わることはある。しかし,それはコーチのファウンデーションの問題ではなく,コーチングを介して,クライアントとの間で生まれた影響に過ぎない。人と人が関わることでの変化ではないか。
 
ファウンデーションを口にしている時,何処かに自分を取り繕い,よりよく見せようという虚栄心はないか。それに無自覚なら,そもそもコーチは自己一致ができていない。

AというコーチのAとしての生き方をコーチングに反映するということ自体が怪しい。それは,クライアントのためのコーチングではなく,コーチのためのコーチングになっている。おのれのバックボーン,成功したコーチ,大金持ちのコーチ,自己実現したコーチ,上手なコーチ等々。それ自体が,すでに色眼鏡になっている。そしてそういうファウンデーションを楯だか杖だかにしないとコーチングができない印象をもつ。

何たらの資格を持っている。博士号をもっている。経営学修士をもっている,プロフェッショナル・コーチ,マスターコーチ,大学教授である,一時間数万円のコーチ料を取る有名コーチである等々というリアル世界のコーチの生き方は,一瞬の場を創るコーチングの場が創り出せなければクライアントにとって何の意味もない。

ファウンデーションなどを強化しても,コーチングの場でのコーチとしての技量はアップしない。それは,コーチのリアル世界での強化にはなるが,コーチングの場の強化とは無関係だからだ。もっぱら,コーチングの場で問題なのは,コーチとしての技量の問題だ。

ここでいう技量とは,スキルではない。心技体,コーチとしてプロとしての姿勢,プロとしての存在感,プロとしてのマインド,プロとしての覚悟,プロとしての断念,プロとしての集中力,プロとしての生きざまだ。この生きざまは,コーチ個人のリアル世界での生き方ではなく,コーチングの場でのコーチとしてのありよう,生きざまを言っている。コーチングの場しか,コーチの生きざまを示す場はない。それが覚悟と断念だ。

クライアントとしての僕のコーチは,わが鏡だ。同時に,コーチにとっても,わたしは鏡だ。その意味で影響しあっている。写し写される中で,お互いが影響しあい,成長していく。コーチは完全ではない。未完成だ。その自分に自覚的かどうかが問題になる。

しかしそれはリアル世界の事ではない。そのコーチングの場でのことだ。それが強くマインドと心に響きあう。その意味で,場の外へ影響し,場の外が内へ影響しあうことがないとは言わない。しかし,それは繰り返すが,生きざまの事であって,生き方のことではない。生きざまは,生活の仕方ではない。どんな覚悟で生きているかということだ。そしてそれを自覚していること。飲んだくれであれ,怠け者であれ,関係はない。それがコーチの生きざまと,コーチ自身が自覚しているかどうかが問題だ。そこに在るのは,貫かれている自分の意志と覚悟だ。

コーチングに出会って自分を見つめ直すことはある。そのためにコーチングがあるのだから。しかしコーチになってまっとうな人間に成ったというような輩は信じない。それは,コーチングが,自分の人生の手段になっている。

コーチになってコミュニケーションのあり方を説き始めたやつを信じてはいけない。
コーチになってまっとうな人間に成ったというひとも信じてはいけない。
コーチになって人に何かができると信じるような人間を信じてはいけない。
コーチになっていき方を変えた人間を信じてはいけない。
コーチになっておのれの価値観を変えた人間を信じてはいけない。
コーチになっておのれを180度変えたという人間を信じてはいけない。
コーチになって急に人が変わった人を信じてはいけない
コーチになっていきなり前向きになった人間を信じてはいけない。
コーチになって今までの自分の生き方をリセットした人をしんじてはいけない。

こういう人は,自分を偽っている。自分を糊塗したがっている。サッカーの何某が自分探しをしているように,コーチングに出会っただけなのだ。外に自分を探している。

なぜなら,そういう人は,また変える宗旨が出てくると,自分を変える。信仰を変えるように,いきなり自分を変える。こういうコーチにコーチングを受けたいだろうか。

繰り返すが,コーチングを受けて,自分が変わるのは当たり前だ。そのためにコーチングがある。そうではなく,コーチになって変わることだ。コーチとはリアル世界のあり方を指しているのではなく,コーチングの場でのあり方を指している。その差が,自覚できなければ,コーチである自分を見直すべきだろう。

人は,いつまでたっても,死ぬまで,自分であることからは逃れられない。変えるとは,衣装を変えるのではない。自分が脱皮していくことだ。翅が生えたからと言って,自分でなくなったのではない。ファウンデーションを言う時,そんなニュアンスがほの見える。

神田橋條治さんが言うように,自己実現とは,遺伝子の開花である。しかし鵜は鵜に,鷹は鷹になり,鷲にはなれない。

いまの自分を見つめ,格闘し,深刻に悩み,とことん考え抜いた末,いまの自分を容認できた人だけを信ずる。その悩みに大小,高低,是非,可否はない。

何かにとりつかれたようにあるものに出会って,人間が変わったというのを僕は一切信じない。そこには,自分の中の答えではなく,外的な答えに出会って錯覚しているだけだ。別の外因が来ると,衣装を変えるように,また自分を変えるだろう。自分の中での格闘も,葛藤もない。格闘すればいいというものではないが,そういう時,多く,外に答えを見つけ,それに飛びつく。

たった一人で,孤独に徹底的に自分の中で答えを見つけた経験のないものに,人に自分の中の答えを見つけさせるのに耐えられないだろう。我慢できず,必ず自分の答えを与えようとする。

王陽明は言う。

孔子は無知な男がやってきて質問した時,予定された知識によって応対するのではなく,ひたすら心を空しくして相手に対し,相手が自覚して是非を,すみずみまで確かにしてやるだけであった。そしてその是非がひとたび彼において明確にされるや,無知な男も判然として悟りを得るのである。
その男が,かれみずから発揮したその是非こそ,彼に本来賦与された天則そのものの発現なのであり,たとえ聖人の聡明をもってしても,それに何ら手を加える余地はないのである。
ただ,彼は自分を信ずることができなかった。そこで孔子が彼の眼を開かせてやり,それによって,彼は余すところなく自らを発揮し尽くした,ということなのだ。
もし,孔子がその男と話を交わすにあたって,少しでも自分の知識をひけらかしたりしたら,相手を十全に発揮させることなどできなかったし,道の本来のあり方に違うことになっただろう。

「道」をコーチングと置き換えれば,そのまま通ずる。必要なのは,「孔子」である必要も,「賢人」である必要も,「有名コーチ」である必要も,ファウンデーションの整った生活基盤のすぐれた人である必要もない。それは,答えを与えようとするからそうなる。ファウンデーションを言った瞬間,自分を取り繕い,ハロー効果を出したいという虚栄心がほのかにのぞく。ここにズレを感じる。どこかに裸の自分を恥じている,糊塗したがっている。

まして,コーチは,コーチ自身の人生の手段ではない。コーチ業はコーチの自己変身の道具ではない。

コーチは自己変身のツールではない。クライアントの自己変身のツールではあっても,コーチのそれではない。


参考文献;
王陽明『伝習禄』(溝口雄三訳 中公クラシックス)

今日のアイデア;
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2013年05月10日

リアリティを支えるもの


ロバート・ウォボルディング『リアリティ・セラピー』を読む。

グラッサーの『選択理論』を読んだ流れから,ここに遡っている。リアリティ・セラピーについては,訳者の柿谷正期氏が,こう要約している。

他のカウンセリングと違う点は,過去の出来事が現在の状況に直接関係していなければ,クライアントの過去についてあまり話をさせないようにすることである。また,「感情」は「全行動」の構成要素のひとつに過ぎないので,コントロールしやすい「行為」と「思考」に関連づけ,いつまでも「感情」に焦点をあて続けることをしない。変化をもたらす具体的な方法では,クライアントが現在欲しているものを尋ねる。そしてここからクライアントが自分の人生を展開していきたいと思っている方向に広げていく。

だから,クライアントの今していること(全行動)に焦点を合わせ,現在の方向は自分で選択したものであることを理解させる。

リアリティ・セラピーの中心点は評価の質問にある。「現在の行動を続けていて,自分の求めているものが手に入る可能性があるか。また自分が行きたいと思っている方向に行くことができると思うか」と尋ねる。

過去を重視しないのは,ブリーフ・セラピーは,過去を問題にしないので,リアリティ・セラピーの専売特許ではないが,「行為」に着目するところは結構面白いと思う。ソリューション・フォーカスト・アプローチのミラクルクエスチョンでは,奇跡の起きた朝を,詳細に聞いていくが,必ずしも行為ではなく,その場,そのシチュエーションを詳細に描写する方に力点がある。そうすることで,奇跡のリアリティが高まり,それだけで気づきが起きる。

リアリティ・セラピーの前提になっているのは,次の二つである。

ひとつは,人間を動かしている基本的な欲求は,4つである。
①所属の欲求 人と親しくなり,かかわりをもちたいという欲求
②力への欲求 人との競争の中,あるいは何かを達成したいという欲求
③楽しみの欲求 遊びや笑いの欲求
④自由の欲求 選択肢場所を移動する自由,内面の自由の欲求

いまひとつは,人の行動は,行為,思考,感情,生理反応の4要素から成り立っている。

そこから,リアリティ・セラピーの原則が生まれる。
第一原則 人は欲求(ニーズ)と願望(ウォンツ)を充たすことに駆り立てられている。
第二原則 自分の求めているものと,置かれた状況で自分の得たものとの差(フラストレーション)が具体的な行動を生み出す
第三原則 人間の行動は,行為,思考,感情,生理反応で構成されており,目的がある。すなわち行動は,自分の求めているものと,自分が得ているとおもうもののあいだにあるギャップを埋めようとするものである。
第四原則 行為,思考,感情,生理反応は,分離できない行動で,内側から生じる。そのほとんどは選択である。
第五原則 知覚を通してこの世を見るが,知覚には,出来事や状況を知識として取り入れる低いレベルと,それについて評価を加える高いレベルがある。

ある意味で,望んでいること(目標)と現状とのギャップを明確にして,その目標実現をサポートしていく,問題解決プロセスに近似しているように見える。

だから,まず「何を欲しているか?」「何を望んでいるか?」という質問が重要である。そこで自分の欲求をどう満たしたいかを明確にしていく。しかし,それが,本当に望んでいるものかどうかが,クライアント自身にだってはっきりしているとは限らない。一見,試験に通ることを望んでいるようでいて,実は,その先の,「自由」を目指していることだってある。で,こんな質問になる。

「もし欲しているものが得られたら,何を手に入れることになりますか?人生はどうなると思いますか?」

だとして,

「いまあなたのしていることは,そのために役に立っていると思うか?現在の方向は満足のいくものになっていると思うか?」

そして,

「人生をよりよいものに変えるために,今晩どんなことをしてみたいですか?」

つまり,自分の人生の支配権は自分にあり,人生そのものが自分の選択にかかっている,ということを質問を通して,クライアントに提案している,あるいはリクエストしていることになる。

人生の大まかな方向について明確にした後,具体的に何をするかを詰めていく時,有効なのが,「行為」についての質問だ,というところが,リアリティ・セラピーの要になることのように思う。

「あなたは何をしているか?」

という問いである。

何が出来事に遭遇してばたついたときや欲求不満に陥ったとき,われわれは自分の感情には気づいても,その時の「行為」には気づいていない。リアリティ・セラピーでは,他のセラピーがするように,「感情をみきわめ,感情に触れ,何年もさかのぼって,原因と思われる過去の出来事に対して洞察を得る」ようなことはしない。感情は,あくまで,クライアントの選び取った行動から自然に出てきたものと考える。あくまで,行為の結果とみなす。だから,行為に着目する。

確かに,落ち込んだり動揺しているとき,心の状態に意識が向いているので,そのとき自分が何をしていたか,そのときの振る舞いや行為には無自覚だ。そこで,

自分の行動の「行為」の部分を変えれば―ということは,よりよい選択をすれば―感情も必ず変わる…

と考える。そこで,クライアントが一番気づいていない「行為」に焦点をあてる。特定の日に,何をしたかを,テレビカメラで記録するように,詳細に,描写する。

その上で,クライアント自身に自分を評価させる。

「あなたのしていることは,役立っていますか?」
「いましていることをつづけて,自分の求めているものを手に入れられますか?」
「あなたの欲しているものは現実的ですか?達成可能なものですか?」
「そのような見方をして役に立ちますか?」
「あなたは此のカウンセリングで自分の人生を変えることに,どれほど本気で取り組む決意ですか?」
「それは役に立つ計画ですか?」

そして,行為を変える,行動計画を立てるが,リアリティ・セラピーの計画は,些細な「行為」にある。

「今晩何をしますか?」

は,大それたことである必要はない。たとえば,いつも喧嘩している妻に,「笑顔になる」という行為であるかもしれない。鬱の女性は,車で送迎してくれる娘に,「川がきれいだね」と一言言うのかもしれない。

小さなものの積み重ねがあって完成があるが,何かを完成させることは小さなことではない。

大事なのは,結果(目標)中心ではなく,過程中心の計画なのだと,リアリティ・セラピーは考えている。小さな行為を積み重ねる(選択する)ことで,行動が変わる。行動が変わることで感情が変わる。

楽しいから笑うのではなく,笑うから楽しい。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11165966.html

で触れたように,怖いから鳥肌立つのではなく,鳥肌立つから怖い,つまり,笑うからうれしいし,泣くから悲しい。これが今の脳科学の常識らしい。その意味では,小さな行為を通して,行動を変え,感情を変えていくことは理にかなっている。


参考文献;
ウイリアム・グラッサー『選択理論』(アチーブメント出版)
ロバート・ウォボルディング『リアリティ・セラピー』(アチーブメント出版)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#ウイリアム・グラッサー
#選択理論
#ロバート・ウォボルディング
#リアリティ・セラピー
#ブリーフ・セラピー
#ソリューション・フォーカスト・アプローチ
#ミラクルクエスチョン


posted by Toshi at 04:06| Comment(85) | カウンセリング | 更新情報をチェックする

2013年08月31日

関わる


「関わる」というよりは,「つながる」ための関わり方だったように思うが,関わり続けることで,結果としてつながりができる,というニュアンスで,関わるをテーマにしてみた。

先日,現代朗読協会主催の「水城ゆうの共感的コミュニケーション勉強会」に参加した。

https://www.facebook.com/events/649409725072178/

ベースは,NVCである。案内には,

共感的コミュニケーションはアメリカの心理学者,マーシャル・ローゼンバーグによって提唱され体系化されたNVC(Nonviolent Communication)を,いくらか噛みくだき,とくに言葉使いなどを日本人にも使いやすくすることを目的に,水城ゆうが整理したものです,

とある。NVCについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11284895.html

で触れた。そのとき,アサーティブのプロセスとの対比を述べたが,実際にやってみた気づいたことは,プロセスのパターンは似ているが,実体は真逆ということだ。

それを中心に,いくつか疑問を整理しておきたい。

水城氏は,「共感的コミュニケーション」つまり,NVCの目的は,自分自身とおよび誰かとつながることだ,と言われた。そのためには,

まずは自分のいまの状態を丁寧にみる(向き合う)こと,

自分の感情をなかったことにせず丁寧に拾い上げる(向き合う)こと,

自分自身の大事にしていること(ニーズと呼んでいる)に向き合うこと,

そのことが,相手に対しても,その状態,感情,ニーズに敏感になる,という。それはよくわかる。

基本ステップは,前回述べたのと同じだか,水城氏が一部改訂している。すなわち,

1.事実(観察) ただ起こった事実に,判断,感情抜きに注目する
2.表現 そのとき自分の中に怒ったことを表現してみる
3.感情 どんな感情が生まれているのかを確かめる
4.価値 その感情はどんな価値が満たされたか,損なわれたから生まれたのか,必要なことは何かを確かめる
5.行動 自分の大切なことを撚り大切にするために何をしたらいいか

を,自分に,あるいは相手に問いつづける。

ひたすら矢印は相手に向けている。相手に向き合っているときは,ひたすら,自分は棚に上げて,相手に問いつづける。

言ってみると,相手自身の話題について,

相手自身の感じたことは何か,

相手自身の大事にしていねことは何か,

をひたすら,聴きつづける。こういうこと?こういう感じ?大事にしているのは何?ただ相手そのものについて,関心と興味を持って聴きつづける。話題は,相手自身,相手というのテーブルの上で,ひたすら,相手の心の中にあるものを確かめていく。

極端に言うと,シカとされても,問い続ける。その場を立ち去られても,その立ち去った人のニーズは何かを推測する。それを次に会ったときにつなげていく。それは相手ではなく,こちら側の関わりつづけようとする意志ということである。そこにあるのは,

矢印を相手に向けつづける,

相手とつながろうとしつづける,

ということだ。

アサーティブと真逆というのは,アサーティブは,相手に自分の感情を伝えようとする。だから,初めに,相手に乗ってもらう土俵がいる。

NVCは,相手のことを聴きつづける。したがって,土俵は,相手自身,相手の話題自身,相手の感情自身,浮いてのニーズ自身になる。

矢印が真逆だ。そう,だから,傲慢と感じたのは,当たっている。相手がどうあろうと,自分の関心や興味で関わりつづける,相手がそのことでどう受け止めるかはともかく,こちらは,相手に関心と興味があれば,つながりたいという姿勢を貫く。これは,いわば,つながりの押し売りでもある。だから,

つながりたくない人には,矢印を向けない,

と。

そのプロセスが,聞いてもらっていると相手に伝わるのはよくわかるし,そのことで,自分のことを伝えやすくなる(回路が開く)のもよくわかる。しかし,疑問が二つ涌いた。

第一は,「ねばならない」ではなく「したい」でなくては人生つまらない,と水城氏は言った。正直,また出たと思った。心理系の人は,多くこういう言い方をする。価値につながっていないことをしない,という趣旨だと思う。

しかしそうか?

これについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11184445.html

で触れたことがある。

灑埽応対からはじめて、窮理尽生に至る,

と。つまり,礼は,掃除,人との応対から始まり,物事の心理に至る,とも言う。

ところで,コミュニケーションのタイプについて,国分康孝氏と大友秀人氏が,

単に,指示命令したり,業務に関わる情報交換といった,ソーシャルリレーションレベルの

関われる能力(責任・使命からの役割行動。國分氏らは,つきあい能力としている)

と,ときに,新しい仕事への不安や自信がないためのおびえについても,理解し,励ましたり,サポートしたりできる,パーソナルリレーションレベルの

ふれあえる能力(感情交流,自己開示)

の両方が欠かせないと,言っていた。二人の主張はカウンセリング・マインドには,ともすると感情レベルに重きを置くが,ソーシャルレベルが欠かせない,という趣旨であった。

何を言いたいかというと,人は,したいことだけしているわけにはいかない。すべきことがある。しなければならないことがある,という当たり前のことを強調したい。

僕は,しなくてはならないことを本気でやったことのない人間のしたいことなど,浮ついて,信じられない。僕の知っている限りで断言するのはどうかと思うが,したいことにこだわるヒトの多くが,ヒトとしてしなければならない何かを置き忘れている人がいる。それはヒトにって違うので,大事な片付けができない,ヒトとの約束をたがえる,時間にルーズ等々。些細なことだが,そういう小さなことからの積み重ねの上に,しなければならないことがある。ヒトには,社会的なかかわりの中に,居場所がある。そこ抜きでは生きられない。そこでしなければならないことは,役割かもしれないし,責務かもしれないし,義務かもしれないし,責任かもしれない。我慢ししてやれと言うつもりはない。大事を大切にするものは,小事も疎かにしない。その重みのわからないものは,誰にも相手にされない,ということだ。

そのあたりは,別にまた論ずるが,したいことが大事なのではない,

あなたは何をするためにそこにいるのか,

それはその意味と目的にかなっているかだけだ。そこに価値があるはずだ。それ抜きで,したいとかしたくないとか,そんなレベルのことを言っている人間は,信用できない。

第二は,ニーズだ。ニーズを満たすと,別のニーズが出て,それを見たすと,と掘り下げていくと,最終的に本人のコアの価値にたどりつく,という。これはちょっと疑わしい気がした。「ニーズ」という言葉にあまりにも多くの意味を含めすぎて,矛盾をきたしているように思える。

CTP(コーチ・エイのコーチ・トレーニング・プログラム)のテキストでは,ニーズと価値を区別している(僕の学んだ2004年頃のものでは)。

(物理的ではなく,内面的)ニーズとは,

自分らしくあるために必要なものであり,自分が良い状態にあるために必要不可欠なもの,

とし,ニーズが満たされないと,いらいらしたり,焦ったり,不安になり,ニーズを満たす行動をとってしまう。しかし,

こういうエネルギーは健全なエネルギーではなく,一度ニーズが満たされてしまえば,それで完了してしまい,引き続き行動を起こさせる原動力にはならない。

問題の多くは,ニーズに無自覚なこと,自分のニーズに気づければそれは満たすことができる。ただニーズは一時的,時間や環境によっても変わる。

では価値は,

人が自然に惹きつけられる行為や活動を指し,その人が努力せずゴールを立てることもなく,行動できるもので,その人が夢中になり,いくら時間を費やしてもいいと感じるような活動,興味の対象,その人の質の高い健全なエネルギーを引き出す。そのとき,人は最も自分らしくいられる。

ニーズと価値は,それぞれのリストを見ると,重複するところが結構あるが,違いは,充たされたら,それで終わるかどうかだ。価値には,そういう感覚はない。無尽蔵の容量を持っている。

だからニーズを掘り下げても,あくまでニーズであって,価値にはならない。

価値を妨げているのは,

充たされないニーズ,すべきこと,妥協,未完了,ストレス,お金,義務,

等々とある。ニーズを満たすことは,価値に気づく心の余裕が生まれるかもしれない。しかし,必ずしも,ニーズが満たされるとその先に充たされないものがあり,それが満たされると,という重層の流れにはならない気がする。

この辺りは,まだ探求途上だが,小さな違和感は全体への不信につながる。すべては人そのものに関わる。


参考文献;
国分康孝・大友秀人『授業に生かすカウンセリング』(誠信書房)
コーチ・エイ『CTPマニュアル』(コーチ・エイ)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#国分康孝
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#ニーズ
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#コーチ・エイ
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2014年12月17日

スピリチュアル


(日本語で)スピリチュアルというと,どうも,スピリチュアリティ(spirituality,霊性)と同じ意味で,

「霊魂や神などの超自然的存在との見えないつながりを信じる,または感じることに基づく,思想や実践の総称」

という意味に使われがちである。しかし,先日ブリーフセラピー研究会での,平木典子先生の,「平木典子が解説する『鋼鉄のシャツター』」(これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410724005.html?1418676377

で触れた)に参加していて,こう言われたのである。

「最近,カウンセリングにおいて,スピリチュアリティ(Spirituality)という言葉を導入するようになった」

と。あるいは,強く意識する,というニュアンスだったが,それに強い印象を受けた。それは,そもそもカウンセリングという言葉の発祥にかかわる。カウンセリングという言葉は,パーソンズが,

「Vocational guidance」

のなかで使ったのが嚆矢なのだが,これが従来「職業指導」と訳されてきた。そう訳されてしまうと,そもそもパーソンズが,vocationalという言葉を使った意図が消えてしまうらしいのである。ここには,単に職を見つける,就職ガイダンスではなく,

天職

というニュアンスがあり,

個人と仕事のマッチング

というときに,アセスメントを総合して個人と仕事の適合をはかる場合の「仕事」には,callで言うのと同じ,天職というニュアンスがあり,天職とのマッチングなのである。で,カウンセリングで,スピリチュアルが重視されるようになったのは,スピリチュアリティの,その本来の意味,

「何のために生きているか,を考えようとする頭の働き」(平木典子)

が,カウンセリングにおいても重要だという再認識にある。言い換えれば,生きていることの,

意味,

目的,

を考えるということである。生きている意味,あるいは,

何をするためにそこにいるのか,

である。あるいは,価値でも,使命でも,天命でも,役割でもいい。V・E・フランクルは,それを問い続けていた。

人生が何を自分にしてくれるか,ではなく,自分が人生にどう応えるかだ,

といい,人間が実現できる価値は

創造価値,体験価値,態度価値,

だと提唱した。

創造価値とは,人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値である。仕事をしたり,芸術作品を創作したりすることがこれに当たる。
体験価値とは,人間が何かを体験することで実現される価値である。芸術を鑑賞したり,自然の美しさを体験したり,あるいは人を愛したりすることでこの価値は実現される。
態度価値とは,人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である。

フランクルの,『夜と霧』を読むと,最後まで生き残るのは,

自分が生きる意味,

を意識している人々であった。僕は,最初に旧版で読んだとき,それを「クリエイティブであること」と受け止めていたが,あながち的外れではなかった気がしている。フランクルは,

「なぜ生きるかを知っている者は,どのように生きることにも耐えられる」

と,そして必要なのは,

「生きる意味についての問いを百八十度転換することだ。わたしたちが生きていることから何を期待するかではなく,むしろ,ひたすらいきることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ,」

と。それは,

何をするために自分はいるのか,

何をするために自分は生きているのか,

を意識しているということでもある。それを考えることこそが,

スピリチュアリティ

であるということだ。僕は,それを,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163010.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163175.html

でも書いたが,

旗を立てる,

という言い方をしている。自分の仕事に,自分の人生に,

何をするためにそこにいるのか,

という問い自体を立てる,と言い換えてもいい。

それは,

自分が生きやすければそれでいい,

ではなく,自分ができることが,誰かのためになる,その意味なのに違いない。それが,マズローの言う,自己実現の意味のはずである。それは,


であり
天命

である。何度も書いたが,天には,三つの意味があり,一つは,天の与えた使命,

五十にして天命を知る

である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,「死生命有」の寿命である。

そして,いまひとつ,

姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る(横井小楠)

で言う天は,「天理」だ(もう一つ加えるとすると「天道」か)。

だから,人事を尽くして天命をまつは,神田橋條治流に,

天命を信じて人事を尽くす,

清澤満之は,それを,

天命を安んじて人事尽くす,

と言った。結局そこに行き着く。

参考文献;
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(みすず書房)






今日のアイデア;
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2015年06月09日

カウンセラー


先日,第75回ブリーフ・セラピー研究会「平木典子先生の『私とカウンセリング』」に伺ってきた。

1.なぜカウンセラーになろうと思ったのか?
2.カウンセラーとして、過去に経験したカベ
3.そのカベをどのように克服したのか?
4.影響を受けた考え方や理論
5.カウンセラー、セラピストとして大事なこと

と,ご自身の来歴を,こんなに率直に語られる方も,珍しいと思う。最後のところで,ロジャーズの,

共感的理解
受容
自己一致,

のうち,自己一致,あるいは,

ジェニュイン(genuine),

平木先生ご自身の訳では,

邪気のない,

あるいは,

本物の,

あるいは,

ありのままの自分でいること,

となるが,ご自身は,

ざっくばらんの人,

というのが近いと言われるが,それについて,ロジャーズが,

最終的にこれさえあれば,

と言っていたのが,最近(「歳をとったせいもあるが」)よく分かる,と言われた。そのままの話しぶりであった。言ってみると,素手で,この国のカウンセリングを切り開いてこられた,そのもとになる考えは(前にもうかがったが),留学先で,

Vocational counseling

に出会われたことだと思う。それは,vocationが天職という意味で,単なる職選びではなく,

生き方のカウンセリング,
あるいは,
その人らしく生きるのをどう助けるか,

だというところに,カウンセリングというもののアンカリングをされているという,先生の軸の再確認でもある。そのころ,

(その意味では)「専業主婦も天職だ」と思った,

という言葉が印象的であった。その観点から見ると,例の(ランバートLambert, M. J.の論文に端を発した),

セラピー以外の要因 40%
クライエント-セラピスト関係 30%
セラピーの技法 15%
プラシーボ効果 15%

の,セラピー以外,つまり,クライエントの潜在能力につながっていくような気がする。

ちょうど70~80年代のセラピー理論噴出(400を超える)の時期,一方でTA,REBT,精神分析,ゲシュタルト,Tgroup等々と数々の理論と技法を学ばれながら,その間学校でのカウンセリングの実践での手探りの格闘を続ける中で,(クライエントの背後にある)家族との関わりを痛感されて,家族療法を学ぶために再度渡米され,その後も,つい先年オーストラリアへナラティヴ・セラピーを学びに出かけられるなど,精力的に,なお研鑽しつづけられ,いま,療法の統合と社会構成主義(social constructivism)に立っておられる。

冒頭で,

「キャリアをつくるというのは,生まれたときからの自分を辿ってみると,自分のキャリアにつながる。」
あるいは,
「だれもが自分の物語を生きている。自分をつくりつづけることをやりつづければ,自分の物語になる。」

と言われた言葉がそのまま物語とキャリアになっておられる,と感嘆させられた。

いま,社会構成主義の立ち位置から,

「その人がその人らしく生きるのを手伝うとはどういうことか」

という問題意識から,

Self-construction

つまり,自分をどうつくっていくか(どうつくってきたか),という

自己構成,

のためのagent(「企画体」と訳しておられる)になれ(つまり,自立的に助ける人になれ),というところに到達されている。ただ,それを今流の,

自分探し,

という自己完結した世界に収める発想はない。クライエントを手助けして終わりではない,という意味で,

Change-agent

という表現が印象的だ。家族療法という言い回しを,いま世界はしない。

システム療法,
あるいは,
システミックセラピー,

と呼ぶそうだが,人を自己完結した,個として見るのではなく,システムあるいは関係性の中で見る。

人は関係性のなかでしか生きられない,

のである。だから,ひとりのクライエントが変るということは,

その人が変ろうとすることでシステムが動き,変化したから変わった,

と見る。とすると,その人が変ることで,その人の所属するシステム(家族であったり,会社であったり)は,小さな漣(変化)が起こる(かもしれない),ということだ。

「カウンセラーにはそんなことはできない,と思ったら何もできない」

という言葉は重い。クライエントの背後の家族を,組織を想定した,広い視野のなかに置く(カウンセリングの)視点でしか,そういう発想は出てこないだろう。それは,

ほんの小さな動き,

だとしても,そういう意図で関わる,というカウンセラーの覚悟というものを垣間見させていただいた。

参考文献;
平木典子『新版 カウンセリングの話』(朝日選書)







今日のアイデア;
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2016年02月05日

自分を生きる


第78回ブリーフ・セラピー研究会 定例研究会,平木典子先生の「ライフキャリア・カウンセリングへの道ーワーク・ライフ・バランスとは何だろう?」に伺ってきた。

平木先生からのメッセージには,

「家族療法とキャリア・カウンセリングに関わってきた私には、『ワーク・ライフ・バランス』と『仕事と家族の葛藤』は常に実践の中に現れるテーマでしたが、仕事と生活はバランスとか葛藤といった対立的なイメージで語られるものではないのではないか、という問いが今回のテーマの意味です。キャリアとは、もともと『生涯の生き方』を意味する言葉であり、『仕事』という意味になってしまったところから、対立のイメージが生まれたかもしれません。そんな問題意識を持って、以下のようなことをご一緒に考えてみたいと思います。
 1.キャリア・カウンセリグの意味の変遷(講義)
 2.ライフキャリアの探り方(演習)
 3.自分を生きるとは(講義)
 4.あなたは、どんなライフキャリアを送ろうとしているだろうか?(演習)」

同会での平木先生については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/420367918.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410724005.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395253856.html

で触れたことがある。多少重複するかもしれない。

キャリアカウンセリングは,

仕事のガイダンスから,仕事と自分のマッチングを経て,現在,

「自分がこの時代のなかで,どうすれば自分を生かして,自分の能力を開発し,職業を選択していくか」

という,人生の主体としての「生き方」そのもの(「内的キャリア」)を掘り下げることに関わることだ,というところにきている。それは,究極,自分のキャリアは,自分で,

つくる(起業)

しかない,ということになる。別の言い方をすれば,

「自分の課題を追求し,いざというときに,自分のさまざまなものを準備していく(レディネス),そういうものがあれば,選択できる,

のではないか。ある面,ドナルド・E・スーパーの言う

「キャリアとは,人生の各時期(キャリアステージ)で果たすライフロールの組み合わせであり,キャリアの発達は一生を通じて,自分のライフロールのなかで行う選択と意思決定の継続」

ではある。その中で,

選択したこともあるし,
選択を強いられたこともあるし,
状況によってコントロールされたこともある,

その意味で,

個人的な部分,
社会的な部分,

は選べない。しかし,それを,

どうとらえるか,

で違ってくる。人は,

自己完結

して生きているのではない。常に,関係性のなかで,生きている。吉本隆明の言う,

関係の絶対性,

である。そう,

人間関係のなかで生まれ,
人間関係の中でいき,
人間関係のなかで死んでいく,

とき,サヴィカス曰く,

「自分らしく生きろ」

なんて,生きてくる中で,言われたことがあるか,と。多くは,

「世の中で生きていくにはこうしたほうがいい」

と言われてきたはずだ。そのこと自体がいけないのではない。必要なのは,

自分の道を探ること,

だが,それは,

その人のストーリーのなかに自分自身がどれくらいいるか,

ということでもある。起業,とは,

ひとりひとり起業家のように自分のことを考えていかないと自分らしく生きられない,

という意味であり,

自分の人生の著述家,

になるという意味でもある。

自分の人生のストーリーを自分で作っていくのが自分の人生ではないか,

ということに尽きる。その意味で,ナラティヴのもつ,

自分が選ばされたストーリーと選んだストーリーの渾然一体の中から,見えていない自分を聞きだして,その人のテーマをつなげていく,

というアプローチは,互いに語り合いながら,

共構成,

する作業として面白い。それは,日常生活の中で,

お互いがわかりあう,

とは,「あなたのいいたいことはこういうことだよね」と。わかりあう機会をいっぱい作り,そうやって,その人との関係のなかで人生が作られていくことの,一つのモデル,というか象徴でもある。

自分の物語を探し出す基準は,

関心,
こだわり,

にあり,例えば,

小さいときに何に熱中していたの,

という問いから,その人のテーマが引き出されてくる。

人は,大切にしていることは決して忘れていない,そういうテーマをつなげていくことで,その人の分厚い人生が語り出されていく。

「人は自らに影響を与える一つの世界観(『ストーリー』もしくは『物語』)を積極的に作り出している。」

参考文献;
マーク・L・サビカス『キャリア・カウンセリング理論』(福村出版)

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
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2018年02月27日

対象化


第89回ブリーフ・セラピー研究会 定例研究会『家族療法―多世代理論を学ぶ』に参加してきた。実践とは程遠い立場で,頭だけの理解かもしれないが,僕なりに整理してみることにした。

今回は,システム論による家族療法シリーズの第一回目として,を取り上げているが,平木典子先生からのご案内には,

「家族療法は、関係性を重視するシステム理論を基礎にしながら、家族のどの側面からアプローチするかによって学派が分かれています。今回のシリーズ『家族療法』で私が担当する多世代理論の特徴は、家族関係を家族の発達とシステムの歴史的な側面から理解し、少なくとも3世代の関係性を中心に支援しようとするところです。世代の異なる家族メンバーの関係を個人の心理的成長の歴史も含めて理解しようとするところは、個人療法中心に臨床活動をしている臨床家にも世代間関係を重視する日本人にもなじみやすいと思われ、私の臨床実践の中核ともなってきました。個人療法の事例を家族関係の視点から理解するための入門としても参考になるでしょう。」

とあり,その代表として,

ボーエン(Bowen, M.)の自然システム理論の鍵概念と主要技法,
ナージ(Boszormenyi-Nagy, I.)の文脈療法の鍵概念と主要技法,

を取り上げた,という内容になる。

家族をシステムとして見る,

つまり,

家族を個々の成員が互いに影響を与えあうひとつのシステムとして考える,

という家族療法のアプローチでも,それをどういう切り口で見るか,によって派が分かれるようであるが,今回は,

家族を多世代にわたる歴史的集団の関わり,

として理解する,いわゆる,

多世代派,

を取り上げている。その特色は,平木先生のレジュメによると,

①家族の発達,歴史,時間の流れ,世代間の視点から(少なくとも三世代の拡大家族システムの中で),理解する,
②親の源(原)家族との関係を理解する(「親もかつて子どもであった」)
③過去や前の世代を問題の原因とは考えない,
④個人のライフサイクルと家族のライフサイクルの重なりを重視,

とあり,特に,③は,

「世代を経て誰もが受け継いでいる解消されていない痛み,苦しみ,頑張りなどをセラピストも家族も理解し,家族の相互影響過程を促進し,癒していく」

とある。まさに,

その人の背負っているもの(受け継いでいる解消されていない痛み,苦しみ,頑張り)を,肯定も否定も,承認もせず,受けとめる,

アクノリッジ(acknowledge)する,

ということに尽きる。ある意味,自分を,

家族という関係性の中に置いて眺める,

つまりメタ・ポジションから見るということを通して,自身も家族も,それぞれを確認する,ということなのかもしれない。ボーエンは,それを,

自己分化,

というキー概念で,ナージは,

公平さ,

というキー概念で,アプローチして行こうとする。自己分化は,

differentiation of self

であり,人間の活動も生物と同様,「自然過程に規制」されており,

情緒システムと知的システムの分化のプロセス,

として見ようとする。例えば,生まれたばかりの赤ん坊は,情緒システムオンリー(平木先生はそれを右脳と喩えられた)で,そこから知性システム(左脳)へとシフトしていく,という考え方で,分化度が低いほど,情緒システムに支配されやすい,ということになる。別の言葉で言うと,

自己対象化,

のレベル,ということになる。その意味では,家族を客体化することを通して,自分自身を対象化することを促す,ということなのではあるまいか。当然,そこに言い悪いはない。そういう家族システムの中で,自分が何を背負ってきたかを,

言語化する,

ということなのかもしれない。改めて,セラピーの場で,家族とセラピストとの関係性の中で,

言葉を結び合うことを学び直す,

そのこと自体が,自己対象化を促す。それが知性システムを活性化する。やはり,どこか強く,フロイトの系譜を継いでいることがわかる。分化程度を見ていくのに,関係性をメタ化する技法として,三角(者)関係を図解し,二者関係での問題を,三者関係化(巻き込まれる)で見て行こうとするものがある。

似た分化度のものがパートナーとなりやすい,
親の分化度が子に伝わる,
不安定な二者関係は,三者関係化することで安定する(それは自己分化の程度が低いため第三者で代替させる),
分化度が低いと,横の関係の代わりに他の人を介在させる,

等々,自分を対象化することを強いられて,結構身につまされてくる技法ではある。

ナージのキー概念は,

公平さ,

は,少しわかりにくかった。正確には,

関係の倫理としての公平さ,

という表現で,

相互作用しているメンバーが維持しようと努める努力(心理的遺産),

とある。

「教えられなくても不公平は感じる」

という。生きてきた過去を振り返りつつ,それを,

正当に評価する場としてのセラピー,

なのだ,という。そういう会話のシーンを通して,その人が背負ってきたものを認める,という機会とする,ということでもある。そういう背負っているものを考える概念に,

忠誠心,

という概念がある。ちょっと誤解されやすいが,

個人が対象に向ける積極的な信頼や態度,

とある。

子どもの問題行動は,無意識の(親への)忠誠心,
虐待されてきた人は,子どもとの関わり方を虐待しか知らないので,虐待してしまう,
離婚して母親に引き取られた父親への隠れた忠誠心,

等々。あるいは,「破壊的権利付与」という概念がある。

「あたかも破壊的権利をもってもいいということを授けられたように振る舞う」

という。その人は,他人からは,他者への感受性,関心が欠けているように見える。例えば,こんなケースを紹介された。

六歳で両親を失って,自分の力だけで自立し,今日家庭を築いた男性は,19歳の息子のことを訴えてきた。母親は,いろいろ心配し,あれこれ気を使うが,父親は,あまり関心を示すように見えない。父親は「だって19歳なんだから,自分で考えているだろう」という。で,その人の生い立ちを聞くと,六歳で両親と死別し,一人で何とか自立し,家庭を築いてきた。母親は,それを初めて耳にした。父親にとっては,苦労を苦労とも思わずひとりで生きて来て,情をかけてもらうという経験がないから情をかけるということを知らない。

ともすれば,そういう冷たいパーソナリティと見られてしまうものを,それが,

どうしてつくられてきたのか,どう一生懸命生きてきたか,どうしてそういう対応しかできないのか,

を,みんなの前で明らかにし,認め,表現する場としてセラピーを見なそうという考え方である。

「表現されることで葛藤が起きる」

ケースの夫婦は,「初めて,帰りに二人で喫茶店へ行った」という。他人の前でオープンにできないことを言語化することで,その人の背負っているものを認める。そのことで,関係性に影響が出る。

ボーエンとナージの切り口は,違うが,その人が背負っているものを,一人の中に(完結させれば単なるパーソナリティになってしまうものを)完結させず,世代を超えた関係の中に配置することで,自分を,

対象化,

することで,自分を,さらに,相手を,関係を見る視点が揺らぐ。場合によっては,

背負いきれないものを背負っている自分(相手),

に,気づいたり,

背負うべきことでないものを背負っている自分(相手),

に,気づく。人のものの見方は,見え方を変えなくては変わらない。見え方を変えるには,いつもと違うように見るしかないポジションに立たざるをえないようにするというのは,鉄則のようである。

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1

スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8

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