2013年01月05日

「場」を主役にして考える~Tグループ体験を振り返る


「場」については,一度考えてみたことがあったが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11007605.html

もう少し,別の切り口で考えてみたい。いつも「場」を考えるときは,自分側から,どう「場」に入るか,あるいは「場」の中で,どう一体化するか,あるいは,「場」にどう主体的にかかわるか,という視点からのみ考える。しかし,主役は「場」ではないのか。

たとえば,有名なK・レヴィンは,人間の行動(B:Behavior)は,人間(P:Person)と環境(E:Environment)の関数,B=f(P, E)であるとした。それを生活空間(life space)といった。

レヴィンの生活空間は『場の理論(field theory)』(トポロジー理論)とも呼ばれる。主体的な人間の認知・判断だけでは人間の行動が決まらず,目標とする対象や相手が持つ「正・負の誘発性」によって人間の行動は大きな影響を受けるという双方向性を説明している点に意味がある,とされる。つまり,人間の行動が『生理的な欲求・本能的な願望』という動機だけで決まるわけではなく,「環境の変化・他者の反応」といった環境要因との相互作用によって規定されることを説明した。

たとえば,人間が特定の対象や相手に対して欲望(目的)を抱く時には,その欲望(目的)が簡単には達成できず,その実現を妨げる障害があることが少なからずある。そして,そういった状況下では,緊張感や欲求不満を伴う葛藤が高まりやすくなるが,人間は「欲望の充足・目標の達成=接近」か「欲望の断念・目標の引き下げ=回避」によって葛藤を解消して安定した平衡状態を回復しようとする,というのである。

以上,受け売りのレヴィンの考えは,あくまで,主体は人にある。相手や状況は地になっている。この図と地を逆転して考えるべきではないか,というのが,ここでの問題意識である。

僕の中のイメージは,20代の前半,会社の指示で,参加したTグループ(感受性訓練)での体験だ。いまでいうとエンカウンターグループの源流の一つのようだが,僕の参加したそれは,立教大学の早坂泰次郎さんが主宰していたものだと記憶している。その頃いわゆるST(感受性訓練)が大流行であった。

資料はすでに処分しているので,正確な系譜や背景はわからない。記憶のなかにあるイメージだけだが,最終日(連休中に二泊三日か三泊四日の長いワークショップだった)あるいはその前日位には,自分の皮膚が溶けて,その10人前後のグループという「場」に一体になっていた気がしている。その時の感覚は,朧だがよく覚えている。その一体は,(後でいろいろ聞き合わせてみた限りでは)そのグループが特に先鋭だったのかもしれないが,お互いが,何を感じているのかが分かった。

たとえばの話だが,僕はある女性が好きだと思っていて,その女性も僕のことを好きだと思っている,そして周囲の人間にもそれがよくわかっている,言葉はないが,お互いが,皮膚という境界が溶けたように,感情がつながっている感覚であった。もちろん錯覚に違いない。しかしそういう錯覚を共有しあえる「場」が,そこにできていた。

その時,僕であるとか,何某であるとかがそこにいるのではなく,そういう「場」に,僕であり,何某がいる。しかしその「場」をつくっているのは,僕であり,何某だから,何某の代わりに,○○でもいいかというと,そうはいかない。

見も知らぬ何人かが,トレーナーの「でははじめましょう」の一言で始まるが,別に何かを言うわけではない。沈黙が続くと,その時間を無駄と思う人も出てくる。何の指示もしないトレーナーに文句を言う人も出てくる。その中から,互いに,そこにいる自分を受け入れ,そこにいるお互いを受け入れ,そこにいる時間を受け入れ, その「場」を受け入れて,なんとなく和解的,緩和的な雰囲気の中で,何を話すというのでもない日向ぼっこのような瞬間が来る。その時,しゃべりたかったら何をしゃべってもいいし,聞きたくなかったら,聞き流してもいい,話さなくても,黙っていても,お互いを気にせず,その空気の中で浸っていられる時間が,ゆっくりと流れていく。

これが,たぶんロジャースのいう「基本的出会い(encounter)」ではないのかと思う。

その「場」を離れて,その後同じメンバーで何度か同窓会をしたが,やがて日々の中で相互の存在も忘れていった。でもこう思うのだ。その時の「場」が,その時お互いの作り出した「場」が,お互いの関係を深めたのであって,その「場」が崩れてしまえば,その関係は,水をなくした藻のように,枯れていく。そのTグループというワークショップの枠組みの中で,疑似的につくられた共感的空間だという言い方もできるかもしれないが,そうではなく,そういう「場」をつくる仕掛けさえあれば,日常的にも,それは可能なのではないか。主題は,「場」なのではないか。

Tグループとは,「参加者相互の自由な(非指示的な)コミュニケーションによって,人間としての人格形成をもたらそうというグループアプローチ」(『カウンセリング大事典)とある。

ネットで調べると,Tグループといった場合に,狭義にはTグループ(未知のメンバーで構成され,何を話せばいいとか,誰かがどのようにすすめるかなど一切決まっていないグループ)もしくは,そのセッションをさし,“今ここ”での人間関係に気づき,自分のことやグループのことを学ぶセッションであり,一般に,90分前後で1セッションが構成される。広義には,Tグループセッションも含め,実習を使ったセッションや小講義などからなる何日かの一連のプログラムからなるトレーニングをTグループと呼ぶこともある

いずれにしても,これもレヴィンのアイデアによるようだ。権威的な運営グループより,民主的なグループ運営の方が,課題達成成果が上がったというようなことが背景にあるらしい。もうひとつ,ネットで拾ったのは,次の文章。

Tグループは,個人が学習者として参加する,比較的構造化されていない(unstructured)集団である。その学習のための資料は,学習者の外側に存在するのではなく,Tグループ内での学習者の直接経験とかかわりをもっている。つまりその資料とは,成員間の相互作用そのものであり,集団内での自分たちの行為そのものである。すなわち,成員たちが,生産的で,活力のある1つの体制,すなわち1つの小さな社会を創造しようとして奮闘しているとき,その社会内でのお互いの学習を刺激しあい,支持しあうときの相互作用そのものであり,集団内での自分たちの行為そのものである。経験を含むということは,学習のための十分な条件ではないが,必要条件である。成員たちは,Tグループにおいて,自分自身の行動に関する資料を収集し,同時にその行動を生起させるにいたった経験を分析するという探求方式を確立しなければならない。このようにして獲得された学習結果は,引き続きそれを利用することによって,さらに検証され,一般化されていくのである。かくして,各人は,他者に対処する場合の自分の動機,感情,態度などについて学習するであろう。あるいはまた,他者と相互作用の場をもつとき,自分の行為が他者にどのような反応を呼びおこすかについても学習するであろう。人は,自分の意図とその結果が矛盾するとき,他者との人間関係において,自由闊達にふるまうことができなくなるような垣根をつくってしまう。このことによって人は,自分自身の潜在力について[今までと違った]新しいイメージをつくりだし,その潜在力を現実化するために,他者からの助けを求めるのである。(L.P.プラットフォード&J.Rギップ&K.Dベネ『感受性訓練:Tグループの理論と方法』(日本生産性本部))
 
上記の,「成員たちが,生産的で,活力のある1つの体制,すなわち1つの小さな社会を創造しようとして奮闘しているとき,その社会内でのお互いの学習を刺激しあい,支持しあうときの相互作用そのものであり,集団内での自分たちの行為そのものである」というところを,別に読み替えると,「場」という時,次の3つを考えてみる必要があるのではないか。

ひとつは,その場の構成員相互の関係性と言い換えてもいい。別の人とだったらそうはならなかったかもしれない。

ふたつは,その場の構成員相互の行動・反応である。ある行動(非言語も含め)にどうリアクションがあるのか等々。

みっつは,その時の状況(文脈)である。明るい日だったのか,寒い日だったのか,うるさい環境だったのか等々。

その他,その時の全体の醸し出す雰囲気である。前項と関係があるが,フィーリングと言った感じのものでもある。

これが「場」の構成要素だとすると,B=f(P, E)は,場(field)=Fを中心に,

F=f(P, E,B)

となるのではないか。数学的に正しいかどうかはわからないが,ほとんどシミュレーション不能なのではないか。つまり,その時,その場の体験でしか味わえないのではないか。

ただ,稀有だが,それが意識的に作り出せないものでもない。その「場」を最初に,それがどういう「場」なのか,そこで一人一人が何をするのかを,最初に共有化すれば,「場」の中で,おのずと役割を認識し,「場」として動き出し,その「場」に機能するように各自が関わる,そういう体験を,4人でだが,したことがある。

たとえ,見も知らぬ者同士でも,その「場」を共有して何かをしようとすることが共通認識としてあれば,「場」は作り出しやすいのではないか。

それを自律的な「場」としてスタートさせるには,各自が,自分のポジショニングをきちんと決める,最初の第一歩を間違えないことと,そのために,「場」の意味と各自のゴールを共有することと,その「場」に非協力的でなく,その「場」で何かを達成したいと思っている人(後ろ向きでさえなければいい)が構成員で,そのために他のメンバーとも,協力関係をつくろうとすることがあることが,大事な前提のような気がする。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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2013年02月20日

自分の芯について


ずいぶん昔,ランボーの『地獄の季節』という岩波文庫の薄いのを読んではメモし,メモしては読んでいた記憶があるが,いつの間にか紛失してしまった。改めて買ったが,もう昔の熱は冷めていた。

それが,大量の書籍と日記を処分した時に,ポロリと出てきた。すべての記録とか日記とか文書類を廃棄してしまったので,いまは,かつて自分の書いたものは,この文庫に走り書きした,詩片らしきものしか残っていない。

そして,最近思うのだが,この世の中の基準では,その人が,何を考え(てき)たかではなく,何を(果)したかにのみ意味があるのではないか。だから行動に移されなかった思いや,言葉にされなかった思い,活字にならなかった文章は,なかったも同然なのだ,と。まあ,確かに,その通りだ。一篇も書かぬ詩人は,詩人ではない。

そうであるかもしれない。だが,だ。結局考えて,考えて,考え抜いた末,何もしないという決心も,ある,とこの頃は思う。あるいは,書き込んで,書き込んで,書き込んでも,結局ものにならないものも,あるいはものにしないと決めることも,あるかもしれない。その時,人生には,人の眼から見れば,何の軌跡も残さぬことになるだろう。そうかもしれぬ。しかしそれでも,いいのではないか。そう思うようになった。

何度も同じ引用で(口癖のようになってしまったので)恐縮だがガイアシンフォニー第三番で,

人生とは,なにかを計画している時に起こってしまう別の出来事のことをいう。結果が最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味をもつのは,結果ではなく,過ごしてしまったかけがえのないその時間である。

とある。それが「過ごしてしまったかけがえのない時間」なのかどうかはわからない。しかし,そこで思い詰め,考え込んだ時間があったことだけは確かだ。その圧縮された時間感覚だけが,いまの自分の中にある。確かに,底流としてあるし,土台としてある,そんな気がする。

「思い群ならず」という,杜甫の言葉がある。李白をほめたたえた詩の中で,「白や詩敵無し,飄然として思い群ならず」とある。ここでそれを言うのは,負け惜しみというか,強がりかもしれない。しかし,一人一人が,自分の言葉を口にしても,雑踏の中では,ひとまとまりの雑音となってしまう。それと同じで,ずっと視点を遠ざければ,同じことだ。

だからと言って,声高の声に同調したり,流行っている者に乗ったり,誰かのお先棒を担ぐ,というのは嫌だ,誰かの真似や,誰かの弟子や,誰かの後塵を拝するのはもっと嫌だ,とまあそんなことを言っているから,所詮我流からしか抜け出せない。我流でも,宮本武蔵までいけば,一派が立つ。そこまでの気概も器量もない。

自分の思いに拘泥していると言えば,言えるのかもしれない。しかし,そこにコアがあるのなら,それを簡単に手放していいはずはない。まあ,一種の開き直りに近い。

フロムは,こういう。

私たちは自分自身を「信じる」。私たちは,自分のなかに,ひとつの自己,いわば芯のようなものがあることを確信する。境遇がどんなに変わろうとも,また意見や感情が変わろうとも,その芯は生涯を通じて消えることなく,変わることもない。この芯こそが,「私」という言葉の背後にある現実であり,「私は私だ」という確信を支えているのはこの芯である。

自分自身を「信じている」者だけが,他人に対して誠実になれる。なぜなら,自分に信念をもっている者だけが,「自分は将来も現在と同じだろう,したがって自分が予想しているとおりに感じ,行動するだろう」という確信をもてるからだ。自分自身に対する信念は,他人にたいして約束ができるための必須条件である。

他人を「信じる」ことのもうひとつの意味は,他人の可能性を「信じる」ことである。

このコアがあるからこそ,世界に自分を開ける。ブーバーは言う。

他の人間そのものに自己を向け,自らを開くものののみが,自己の中に世界を受けとる。

いまは,だから,我執というシャッターを開いて,外に向かって,おのれを全開するときなのだろう。それがどういうコアであろうと,それを信ずることで人を信じ,世界を信ずる。

参考文献;
マルティン・ブーバー『我と汝・対話』(岩波文庫)
エーリッヒ・フロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

#マルティン・ブーバー
#我と汝・対話
#エーリッヒ・フロム
#愛するということ
#龍村仁
#ガイアシンフォニー第三番



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2013年05月22日

望む場


いつも引用して恐縮だが,龍村仁の,ガイアシンフォニー第三番で,

人生とは,なにかを計画している時に起こってしまう別の出来事のことをいう。結果が最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味をもつのは,結果ではなく,過ごしてしまったかけがえのないその時間である。

と言っているのを紹介していた。この言葉の,「過ごしてしまったかけがえのない時間」と言える時間をすごせることが,場に参加する意味だ。そこでは,参加することで単なる自己確認ではなく,さらなる成長と自己拡張をするきっかけを見つける場でなくてはならない。もっと言うと,自分ののびしろを目いっぱい引き伸ばす場,ということになる。

それには,

①場そのものが自立している
②場そのものが独自の価値をもっている
③場そのものの中で新たな自分を発見できる
④場そのものも成長している
⑤場そのものが呼吸し,生きている
⑥場そのものが個性を持っている
⑦場の存在そのものがオリジナリティをもっている
⑧場そのものが自己主張している
⑨場がフラクタルでランダムな予測不能なエネルギーを持っている
⑩場そのものが場を生む力をもっている
⑪場では一人一人が自由で開かれていること
⑫場の中で切磋琢磨しあえる刺激に満ちている

等々がいる。場については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11007605.html

でも触れたし,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11007605.html

でも書いたが,『U理論』に,こうあった。そういう『場を保持する』ために,その場で必要なのは,場を保持するための,三つの聞く力だという。

第一は,無条件に立ち会うこと。
「立ち会うこと,つまりここで話している保持することの特質は,個人がサークルの源(ソース)と同一化することです。」
「一人ひとりの何かを見る目,感じる心,聴く耳が,もう個人のものではなくなるのです。ですから,予測を状況に重ねてみることはほとんどありません。生命がその瞬間に起こすことに対して自分たちを開くこと以外の意図はほとんどありません。ただ感受性があるだけで,何の企てやもくろみもありません。判断をせず,ありのままを祝福して受け入れる精神だけです。」

第二は,無条件の愛で水平に開くこと。
「部屋のエネルギーの焦点は頭から心臓のあたりに降りてきます。というのは,ふつうその入り口は誰かの心が本当に開いたときに,そしてもちろん領域の存在が感じとられたときに生じるからです。エネルギーの場は降りていくほかないのです。」
「個人的ではない愛には祝福があります。その愛は個人を超越しているということです。個人の人格は関係ありません。私たちは集団としてこの個人を超越した場のレベルを,ただ保持できているだけだと私は思っています。」

第三は,どこ注意を向けるか。
「私たちには真の自己を見るという合意があります。私たちの中の誰かがどんなことをしようと,ほかのひとはその人がしくじったとは考えません。そういう風には考えないと決めているのです。その行為の意図は本来の自己にあるのです。人のためにしてあげられるもっとも素晴らしいことの一つは,その人の本来の自己を見つめることです。私がそれを見ることを通して,その人はもっとも自分自身を生きられるようになる。」

前にも触れたが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11189806.html

清水さんの卵モデルでは,割った卵同士の,白身と白身の混じり合うところが場だ。

その場の中で,自分を開き,他者とドッキングし,その中で一体化することを通して,自分の中に埋もれていた何かがあふれて出ていく。その経験を通して,場から出た時,自分が大きな変化の種を手に入れている。そういう場の生成プロセスがあるといいと思う。いわば,昔の若者宿のような,成長のステップとなるようなプロセス,しかし次に集まると,また次のステップへと飛躍していける,そういう場でなくてはならない。

いったん自分を解体し,そして再構成するために,その場で,徹底的に自己を融解し,再組成する,というと大袈裟か,しかしそういう「るつぼ」のような場がいい。

そこでは,緊張した個と個が,ぶつかり合い,溶けあい,解体し,そして,新たな自己を生まれ直して,出ていく。そういう場でありたい。

確かに,混じるのは白身だが,そうしたプロセスの中で,コアの黄身もまた,その過程で微妙に変わっていく。そのことで,白身も変わり,接点としての場もまた変わっていく。

そこに参加するものは,真剣に自己成長を望み,他のメンバーの成長を助けるに値する刺激のある,価値ある自分でなくてはならない。場の外での自己研鑽と自己成長が不可欠になる。

ま,しかしそういう緊張した個のぶつかり合いを通して,のびしろを極限まで引っ張り,成長する場を望む同士を見つけるのは難しいし,ましてこの歳では,と半ばあきらめている。

で,次善の方法として,いままでであったことのない白身と,真新しく遭遇する機会をいっぱいつくることで,自分にとってのチャレンジを続けてみることだ。


参考文献;
清水博『場の思想』(東京大学出版会)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#龍村仁
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#場
#U理論
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posted by Toshi at 06:47| Comment(5) | 場の理論 | 更新情報をチェックする

2013年11月13日

コミュニティ



JCAKファウンデーション講座第5回「コミュニティ」に参加してきた。

コミュニティという言葉はなじみが少なく,フェイスブックなどのSNSでは,同じ趣味・目的の下に形成される集まりをコミュニティと称しているので,更に紛らわしい。

共同体と訳されているが,英語で,「共同体」を意味する語に由来しており,

同じ地域に居住して利害を共にし,政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まり,地域共同体。転じて国際的な連帯やインターネット上の集まりなども「コミュニティ」と呼ばれる。

とされている。瞬間に浮かんだのは,例の,社会学で学んだ,ゲマインシャフト(Gemeinschaft)と,ゲゼルシャフトGesellschaft)。前者が,

ドイツ語で,「共同体」を意味する語に由来して,地縁,血縁,友情などにより自然発生した有機的な社会集団のこと,

とされ,コミュニティに近い。後者は,

機能体組織,利益組織。ゲマインシャフトの対概念。いわば,会社組織や団体をイメージしていい。

なぜこれにこだわったかというと,いまの自分をつくりあげてきたコミュニティを拾い上げていくとき,

どの範囲まで拾い上げるか,その境界線をどこにおくか,

が意識されたからだが,あまり厳密に考えず,自分が意識的に選択したか,選択できなかったかは別に,そこで自分が様々な人と,どう関わりあい,どんな影響を受け,それがどう自分の中に生きているかを,僕は,

集団としてよりは場として,

点検してみることにした。

なぜなら,どのコミュニティに所属したところで,自分にとっては,人と人との関わりは,清水博さんの言われる,「自己の卵モデル」で言う,

白身と白身の接触

であり,その接触が,鍋の中であれ,丼の中であれ,同じだからだ。ただ場については,別に触れたことがある。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11007605.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11189806.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11098267.html

それと重ならないように,この場で考えたことを,まとめてみた。

まず過去,どんなグループ,集団,団体とかかわり,どんな影響を受けたか,

それが,自分のリソースとして何を得たか,

そこから自分の対人スタイルが生まれているか,

等々を振り返って気づいたことは,高校までは,高1のほんの一時期演劇部にいただけで,遊び仲間というのを別にすると,ほとんど家族以外のサークルやグループに関わっていなかったことに気づく。そういう意味で,自分の中でまず浮上するのは,大学時代のサークル活動で,それについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11056480.html

で,それに触れた。そこで触れたこと以外で言うと,チームを組んで,地方へ出かけるが,チームワーク,あるいはチームのリーダーシップがうまく働かないと,緊張感のない凡ミスが頻発し,地元の方とのトラブルまで発生し,さんざんなめにあったことを思い出した。

それは別の言い方をすると,信頼関係で,それがあると,互いに相手に気配りし,相手の迷惑にならないように,気を張る。それがないところでは,弛み切って,作業が流れ,ろくなことにならない。

もうひとつは,足かけ20年在席した会社での,編集・企画という仕事だ。毎週少ない人数で,例会と称する会員向け(会員無料の)セミナーを開いていて,毎週人が来るか来ないか,企画力を試される修羅場(全く人が来ないということはないが)を踏んできた。結果が,その場ででるだけに,冷や汗もののことは結構あった。

つくづく,そこで,編集というのが,情報の編集であり,それが情報を読むことなのだ,ということを教わった。情報を読んで,仮説を立て,企画を立てる,その是非が,すぐに検証される,という連続である。考えると,いまの自分の発想の原型を創り出す場であったといえる。そのときの上司はすでに亡くなったが,同僚とはいまも付き合いがある。その意味では,自分というもののコアになる,仕事の仕方,ものの考え方,ものをつくりあげていくノウハウを学んだ場であった。

不思議なことに,いまでも,ときどき夢を見る。それが,あの会社のフロアで,いまではつきあいのない何人かが,夢の中で,いま,ここで,のように,自分と何かをやり取りしている。僕の意識しないところで,深い影響を与えているに違いない。

思うにこの二つが,他にあったかもしれないコミュニティとのかかわりの中で,群を抜いて,僕がコミットメントしたということなのだ。それが自分自身に反照している。

過去は,大きくは,この二つだ。そのときの人との関わりが,今の自分を作っているし,その後も結構影響を与えていると,感じることが多い。

次は,現在のコミュニティとの関わりだが,一人になって20年以上,かっこよく言えば,孤立して,一匹狼でやって来たので,つい最近まで,団体とのかかわりは,担当者との点と点の,ビジネスライクなかかわりばかりであった。よく考えれば,20年以上たったひとりで考え,たった一人でつくり上げるという,いってみると遠回りの仕事の仕方をしていたように思う。

たぶん,人と一緒にやれば,不足を補いあい,相乗効果を発揮して,もっと大きな仕事ができたのかもしれないが,性分としては,仕事は,一人の脳で勝負と思っているので,まあ,誰の助けもいらない(とまでは言わないが)というかなしでコツコツ考えて,人と違うことを「そっと」アピールするのが,これまでやって来たことだ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/

98時代から,コツコツ作り上げてきたホームページがその象徴かもしれない。

だから,いまのコミュニティとのかかわりは,いままで続いている友人関係をのぞくと,ほとんどフェイスブックで最近関わったコミュニティばかりだ。そして,その面白いところは,点と点で関わりながら,その背後のその人物の背負っているものと向き合うことだ。それがあわなければ,一回限りだし,ちょっとシンクロすれば,少し続く,そして,昔なら考えられない幅広い世界の人との関わりができている。

まあ,今は,それを楽しんでいる。それ以上に,自分がそこに首を突っ込むだけの気概と元気は,もうない。

では未来のコミュニティとはどんな関わりをしたいか,どんなコミュニティと関わりたいか,が最後のワークだったが,僕には,そんなに長い時間が残されてはいない。

その意味では,逆にどんなコミュニティに出会えるかを楽しみに,関わりの触手を伸ばし続けてみたい,と思う。そこで新たな出会いが,自分の中の残された伸び白を引き出し,それを顕在化してくれたら,それはそれで面白いではないか。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#コミュニティ
#清水博
#自己の卵モデル
#仮説

posted by Toshi at 06:30| Comment(0) | 場の理論 | 更新情報をチェックする