2013年01月11日
クライアント体験~コーチングを受けて
クライアントになった瞬間,その人がコーチであれカウンセラーであれ,大学者であれただの人であれ,コーチの前でクライアントになった瞬間,クライアントでしかない。でなければ,そこでクライアントになる意味がない。
そこで向きあっているのは,自分自身であり,属性も経歴も関係ない。そこに一人の人として,いる。
にもかかわらず,時にコーチは,おのれの仮説を,あるいは自分の直感をぶつけてくる。
「あなたは過去に蓋をしている」
「あなたは自分を偽っている」
「軸がない」
「自分に気づこうとしていない」
「抱えた問題でバランスを取っている」
「目指すものがはっきりしていない」
「問いをそらす」
「目を合わさない」
「幸福感がない」
「自分に向き合っていない」
わずか30分のコーチングで,これだけ指摘されて,よほどのマゾか,自分自身に悩んでいる人でなければ,コーチングを嫌いになるだろう。これに似た言い方は,ほかにもある。
「本当の自分を知らない」(今ここに居る自分以外に自分はいない。こういう言い方は,ここに居る自分を貶めている)
「箱に入っている」(それはあんたの眼だろう。自分がそうとしか見えない認知の歪みだ)
「自分を偽っている」(だから入信しろといいそうだ!)
等々。まったく,ここまで貶められて喜ぶ自己卑下の持ち合わせは,少なくとも,自分にはない。仮に,直観でそう感じるのは,コーチの自由だ。そう感じさせる何かがあったのだろう。しかし,その直観を捨てずに,強化し,それを合理化するように持っていくコーチングとは,一体何か!こう書いて,自分がはっきり,怒っていることに気づいている。それはなまじいのものではない。憤怒に近い。人をそこまでコケにして,フォローもせず,最後まで,「気の毒に,自分に気づけていないとは」という口吻を続けられたら,ほんと,マジに落ち込まない方がおかしい。まして,相手は,結構著名なコーチなのだ。一瞬,オレッテ,そうなのか?考え込まされてしまう。事実,まだ落ち込んでいる余波が続いている(から,こんなことを書いている)。
コーチングとは何か,について改めて言いたくはないが,たとえば,コーチとは,
クライアントをゴールに運ぶ人
クライアントの鏡
クライアントと一緒にクライアントの真っ白なキャンバスに向かう人
だとしよう。そのためにコーチングがある。そのために,ここまで言われたら,まずは,そのコーチとは一緒に語りたくないのが心情だろう。しかし,だからこそ,冒頭の言葉が効いてくる。コーチングのクライアントになった瞬間,クライアントの立場として,コーチを上に見る傾向はある。そういうポジショニングにある。このことを,最近のブリーフ・セラピー系では,強く意識することを求める。入院したら,患者になり,コーチングの場なると,クライアントになる。
だから,ここまでだめだしされたらどうしたらいいのか,ますますダウンしていくに決まっている。それを意図していたのだとしたら,このコーチは,コーチというよりは,新興宗教の勧誘者に似ている。
あなたには××がついている(悪霊だったり,方位だったり,何でもいい。いまの不幸の原因らしいものを言う)
あなたはしあわせになりたいですか?
だったらまず引っ越しなさい。
もっとしあわせになりたいですか?
だったら,この○○(花瓶であったり,仏像であったりする)を買いなさい!
もっとしあわせになりたいですか?
では,これに入信なさい…
まあ,これと似たり寄ったりだ。もはや,コーチというよりは,悪霊払いに似ている。
コーチの資格がないとは言わないが(そんな資格は僕にはない),明らかに何かに憑りつかれている。偏見なのか,固定観念なのか,知識なのか,直観という悪意なのか,自分を相手に対して,そういうポジションを取らなくては,いいコーチングができないと思い込んでいる。
だから,客観的に見れば,それは,あなたがそう見たのであって,それはあなたの仮説にすぎない。それを自覚せず,その眼鏡が真実という前提でセッションを進めていくと,クライアント像は,ますます歪んでいくだろう。
ミルトン・エリクソンの原則は生きている。
①相手について仮定しない。
②緩やかな変化
③相手の枠組みであること
④みずからの考えを変える力があることを,相手自身が気づけるような状況をつくりだす
⑤そのために使えるリソースとなるものを相手の中に見つけだし利用する
まずは,ダメ出しの連発の前に,自分が気づいていないリソースを見つけさせてくれ,と言いたくなる。そのコーチングが,自分にとっていいかどうかの目安は,僕の私見では,
●コーチングを受ければ受けるほど苦しくなるかどうか
●自分のマイナス,欠点,問題,患部,瑕だけが暴かれていないかどうか
●コーチが自分を遠くから(上から)見ているような感覚にならないかどうか
つまり,コーチが自分の味方なのか,敵なのかだ。それでなくても,まっとうな人なら,ひとつやふたつ,自分を責める材料は持っている。それを誠実な人という。だから,自分を責めている,その自分をけしかけ,煽って,その傷口に塩を塗りたくるようなのは,そもそも金をとってコーチングすべきではない。
その逆でなくてはならない。
●一緒の土俵,あるいは自分の枠組みを尊重してくれているかどうか
●同じ方向を見てくれているかどうか
●どんなことがあっても,自分を承認し,認知してくれているかどうか
同じ土俵で,同じものを見ることについては,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm
で触れた。もし,土俵ができていて,一緒に同じ方向を見てくれていることが分かったなら,前述のダメだしすべては,コーチからの提案と受け取ったかもしれない。しかし,自分について,自分の存在について一切の承認なしの,ダメ出しを人は聞く耳を持っているのだろうか。これって,セールスの基本中の基本なのではないか?
承認については,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06431.htm
で触れている。
いまは,コーチングを受けていて,コーチングのプロセスを楽しんでいる。今までで一番楽しいコーチングかもしれない。すぐこういう声が聞こえそうだ。クライアントが楽しいということは,大事な問題から目をそらしているからだ,と。そういうやり方をするコーチングもあるかもしれない。コーチングについての解釈はいっぱいあるし,実践家によって,いろんなことを言うだろう。しかし,これも人生の一コマなのだ。楽しい人生であっていけないはずはない。
ただ僕はコーチングで人生が変わる,と思ったことはない。しかし自分を変えていくことはできる。変えることで,また別の人生を味わうことができる。もちろん,一人でも,自分を変えることはできるだろう(し,変えたからこそ生きてこられた)が,それがもっと早く,もっと楽にできるはずだ,とまあ信じられるようにはなった。
この程度で人生が変わるほど,自分はもう若くもないし,ナイーブでもないが,しかし新しい自分を作り出す面白さを一緒に楽しんでくれている,いまのコーチに,感謝している。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#コーチ
#コーチング
#ミルトン・エリクソン
#ブリーフ・セラピー
2013年02月06日
体験派のエクササイズ
JCAK(日本コーチ協会神奈川チャプター)主催の,【コーチング基礎編】の第一回に参加した。
講座は【知識習得】【事例観察】【実践練習】 の3つで構成されている。
【知識習得】は,基礎知識を確認するパートで,信頼関係を作るにはどうすればいいかを,二人組で話し合いながら,全体にシェアしあって,共有化していくというプロセスは,まあ,かつてのCTPのクラスに入っている感じで,懐かしくもあるあり,それなりに再確認にはなった。
たとえば,「信頼関係を築くために,どんなことが必要か」については,
・相手を信頼する
・ポジティブに受け取る
・相手を否定しない
・視線をあわせる
・ちゃんと聞く
・聞く雰囲気づくり
・相手に興味をもつ
・自己開示
・名前を呼ぶ
・場所・雰囲気
・コミュニケーションの量
・承認
・言い方・話し方
・相手を優先しているという相手への姿勢
・対等
・継続した関係
等々が出た。しかし,僕は,たった二つを重視したい。
ひとつは,単純接触効果(ザイアンスの法則)。つまり接触頻度が大きいこと,
いまひとつは,好意,というか,好きになる,ということ,
これだと思う。
相手との距離については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11027122.html
で触れたし,好意については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11066869.html
で少し触れた。信頼関係のベースとなるもので,嫌いなら,関係性を築くことはできても,信頼関係というには,一つのハードルがある気がしてならない。相手に好意を感じない限り,信頼の扉があかない気がしてならない。
【事例観察】というのは,あるレベル以上のコーチによるデモコーチングで,それを観察しながら,コーチングのコツをつかみ自分のコーチングの勉強にしていく,そういう趣旨である。振り返りでも,確かに,コーチによるデモコーチングが一番勉強になったという声が多かった。
ただ僕は,ひとつは単なるへそ曲りのせいもあるが,もう一つは,何でも体験していく中でしか身に着けていけない実践派タイプで,一番勉強になったのは,第三部の実践練習だった。
僕がただ素直でなく(というかただの頑固爺になっただけかもしれないが),人から素直に学べないところがあるところがあることは認める。もちろんそういうこともあるにはあるが,蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,ということもあり,所詮自分のレベル以上のことは,わからない。自分のレベルに引き落とさなければ見えてこない。だから御勉強にはなっても,おのが身にはつかないし,本当の凄さはわからないと思っているので,自分が体験しながら,自分なりのコーチングスタイルを積み上げていく,それが性にあっているタイプらしい。
むしろ自分と同レベルなら,いろいろ反面教師として得るものがあっても,あまりにレベルが高くてうますぎる人のうまさや凄さは,そこに到達しなければ見えないレベルの光景らしく,全く実践としてえられるものがわからなかった。というか使いようがなく,高値の花という感じなのだ。
今回,確かにうまいな,とは思ったが,スキルや思考回路ははるかの高みにあるので,自分のレベルでわかることは知れていて,全体像はつかめっこない。そこで見ていたのは,姿勢だけだ。ゆるぎない姿勢は何か,それは絶対にクライアントを否定しない,クライアントのいい面だけを見ようとしている,ということだ。その基軸で,どう関わるかの細部は,おいおい学ぶことにしよう。
僕のような体験重視派にとって一番お得だったのは,【実践練習】で,いわゆるエクササイズを,計三回各20分のコーチングができたことだ。
普通,体験会へ行っても,大体15分程度で,中途半端で,(クライアントはともかくコーチとしては)実を得ることが少なかったが,今回は,三回,しかも振り返りを含めると,各5分プラスさされるので,実際のコーチングセッションに近い時間幅でトライアルができた。しかも,
①無作為のクライアントなので,時分との相性がわからず,ほぼ初対面の方にチャレンジできたこと(第一回だったせいもある)
②偶然ながら,全くの違うタイプの方のコーチングができたこと
③しかもテーマは,家族問題,仕事上の問題解決,クライアント探し,とバラバラであったこと
④従って,全く違うコーチングスタイルでチャレンジできたこと
これが大きな収穫であった。じぶんなりに確認と確信を得た,場であった。このエクササイズを三回コーチ役にチャレンジするのは,疲労感もあるが,最も学びの多い場であった。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#JCAK(日本コーチ協会神奈川チャプター)
#コーチング
#デモコーチング
#コーチ
2013年04月02日
リソースの最大化
確か井原くみ子コーチは,クライアントのリソースを最大化するのがコーチの役割とおっしゃっておられた気がする。では,リソースを最大化するというのはどういうことなのか。
結論から言えば,リソースの最大化するには,学ぶことだと考える。知ること,と言い替えてもいい。学ぶこと,知ることで,自分の可能性を引き出す。ただ,神田橋條治さんが言っていたように,鵜は鵜。鵜は鷹にはならない。大事なのは,おのれの遺伝子(の可能性)を開花させることだ。
人には,「己の為にする」(自己の向上を志す)心があってこそ,はじめて「己に克つ」ことができ,己に克つことができるからこそ,己を成すことができる。そのために学ぶ。それがリソースを引き出し,顕在化することのはずだ。
王陽明は言う。
心がなければ身もないし,身がなければ心もない。ただそれが実体として存在している面から身といい,その全体を主催している面からいうと心といい,心が発動しているその働きについて意といい,意の働きが霊明である面を知といい,意の働きの及んだところを物(こと)というだけであって,もとはすべて一つのものなのだ。
そして一人の胸の内には,誰しもそれぞれに聖人が宿っている。ただ自分でそう信じきれないために,みんなそれを自らの手で,葬ってしまっている。
見性成仏ともいう。自分本来の仏性を生かして,おのれを完成する。
驢に騎って驢を覓(もと)める。おのれの仏性に気づかないというのも同じ意味だ。
もちろん個人差はある。こう王陽明は付け加える。
力量や気魄に個人差があるのは,あるのが当たり前ではないか。もし重量や多寡を比較する心を取り除き,各人が自己にあるかぎりの力量や精神を尽くして,ひたすらこの心が天理に純一となるように功夫(じっせん)につとめたなら,すべてのひとがおのずから『箇箇円成』し,大なるは大を成し,小なるは小を成し,外に求めずとも,いっさいが自己に具足していることになる。
学び方の,王道は一つ。王陽明は言う。
(『中庸』の)「博く学び,審らかに問い,慎んで思い,明らかに弁じ,篤く行う」(学・問・思・弁・行)は,全て学を為すときの根柢となるものであり,学びはするが行わぬということはありえないのです。たとえば,孝を学ぶといえば,必ず骨身を惜しまず孝養を尽くし,みずから孝の道を実践してこそはじめて学んだといえるのであり,徒に抽象論を唱えてみても,決して孝を学んだということはいえない。
「篤く行う」の「篤」とは,篤厚の意で,行う以上は,その行いを篤実にし,休むことなく続けるということです。思うに,学ぶとすれば疑問がないわけにいかず,そこで問いが生ずる。この問うことがそのまま学ぶこと,そして行うことでもあるのです。また,その疑問があることから,思いが生ずるのですが,此の思うこともまたそのまま学ぶこと,そして行うことである。さらにその疑問は,弁ずる(明察する)ことにもつながり,その弁じ明らかにすることもまたそのまま学ぶこと,そして行うことに他なりません。弁ずること明らかに,思うこと慎み深く,問うては審らかに,学んでは能くし,その上またそれを休むことなく続ける。それを「篤く行う」というのであって,ひとまず学問思弁して,そののちにはじめて行いを施すというのでは決してないのです。
その事を能くしようと求める上から,学といい,その惑いを解こうと求める上から問といい,その理に通じようと求める上から思といい,その考察を精にしようと求める上から弁といい,その実際を履行しようと求める上から,行という。
しかし,人のことをただ素直に聞けばいいというのではない。
そもそも学は,自己の心に実得することを第一義とします。もし自分の心におしあててみて誤りだと思ったら,たとえ孔子の言であろうとも,それを是としない。まして孔子にも及ばぬものの言についてはなおさらです。一方,自分の心におしあてて正しいと思ったら,たとえそれが凡庸の人の言であったとしても,それによってそれを非としたりはしない。
天を怨まず,人を咎めず,ただ身近なことを学んで道に達するのみ。ただし,「心が法華に振り回されない」。つまり,既成概念や時流や権威にこだわらず,自由に考える必要がある。
その学び方には,そのレベルに応じて,三種類ある。
「生知安行」(生まれながらに知り,安んじて行う)の聖人,
「学知利行」(学んで知り,利(つと)めて行う人)の賢人,
「困知勉行」(困(くるし)んで知り,勉めて行う)の普通の人
天命と一体の聖人,天に事える賢人に対して,天命が何たるかを知らないから,「天命を俟つ」(人事を尽くして天命を俟つ)以外ない。「殀(わかじに)か寿(ながいき)を全うするかによってその心を弐(たが)えず,身を修めて天命を俟つ」。だから,ひとが一たびするとすれば,おのれは,百たびし,ひとが十たびすれば,おのれは,千たびする,必要がある。
これを絶対的な格差と考える必要はない。自分の中のステップだ。もともと自分の中にある聖人性に到達するためのマイルストーンと考えることができる。
どうもコーチングでもセラピーでも家元制度のように,外の説をそのまま敷衍している人ばかりで,正直オリジナリティを感じない。守破離の,破と離に達している人が本当に少ない。それは,学びではなく,まねびのままにある,ということだ。
むしろ,嬉々としてライセンスをもらうことを喜んでいるふうにも見える。奴隷根性だ。いい加減,守破離の守を破り,おのれの仏性を顕現すべきではないのか。そうやって,外に答えを探している限り,いつまでたっても,自分は見つからない。自分の中の聖人はあらわれるチャンスがないまま潰えていく。それで,クライアントの自分を見つけるのを手伝えるのか?と疑問がわく。
大事なことは,自分でしかできないことをすることだ。
それは自分でなくても言えることではないか
それは自分でなくても伝えられることではないか
それは自分でなくても教えられることではないか
それは自分でなくても手渡せるものではないか
自分でなくてもできることをするのは人生の無駄遣いになる。その自分しかできないことを見つけるのが,リソースを最大化する真の狙いだろう。
その上で,自分にしかできない形で表現する。二番煎じでも,誰かの物まねでも,受け売りでも,翻訳でもなく,
まぎれもなく,いまここで,
自分以外のものには表せない表現スタイルと様式で,
どこにもない,自分だけのパフォーマンスとして,
この世に初めて現出させる,
そこで初めて自分のリソースが最大化したと言えるのではないか。
天下のすべての人に信じられるよりは,むしろただひとりでも真に信じてくれる人がいたほうがいい。道はもとより自在であり,学も自在なのだから,天かすべての人に信じられても別に多すぎないと同時に,仮に一人にしか信じてもらえないとしても,決して少ないとは言えない。
そこにコーチがいてほしい。
その点から,蛇足ながら付け加えれば,コーチングの目的は,
クライアントの夢を実現したり,
クライアントの目標を達成させたり,
クライアントのビジョンをかなえることなどではない。
それは本末転倒だ。そうではない。コーチングは,クライアントがクライアントとしてもっている,リソースを最大限に顕在化し,飛び出させることだ。結果として,夢が叶ったりするかもしれないが,それは末梢のことだ。クライアント自身の遺伝子の可能性が開花し尽くすことこそが,コーチの果たすべき役割だ。
参考文献;
王陽明『伝習禄』(溝口雄三訳 中公クラシックス)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#王陽明
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#守破離
#生知安行
#学知利行
#困知勉行
#遺伝子
#神田橋條治
#箇箇円成
#学ぶ
#成長
#克己
2014年03月12日
コーチの姿勢
フラッシュバックについて,話題にしていたら,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/391125143.html?1394482487
ではどういうコーチングをしたいのか,どういうコーチでいたい(ありたい)のか,とコーチに問われた。
で,ラタンダムに,コーチとして,自分のしたいこと,ありたいことを,できているいないに関わらず,挙げてみた。コーチングは,基本的には,クライアントの自己対話の中に入り込み,そこに異なる視点を持ち込むことだと,僕は思っているが,挙げてみて思うのは,通底するのが,
●相手について仮定しない。
●緩やかな変化
●相手の枠組みであること
●みずからの考えを変える力があることを,相手自身が気づけるような状況をつくりだす
●そのために使えるリソースとなるものを相手の中に見つけだし利用する
という,エリクソンの原則だと,改めて,思った。そこで,
①まずは,自分を脇に置いて,クライアントの側にいる
コーチ自身の仮説や異見がわいてくることはある。しかし,それは,コーチの生き方であり,考え方であって,コーチの人生においては有効で,意味があっても,クライアントに意味があるとは限らない。その意見を言うときがあるかもしれないが,Iメッセージとして,伝える必要があるときまで,とっておけばいい。
コーチングは,ヴィトゲンシュタインの言語ゲームになぞらえれば,コーチングゲームである。両者が合意し,共有する土俵(あるいは電車ごっこの紐のようなものの中)に乗っていることで成り立つ。そこを外せば,成り立たない。
②鏡であること
徹頭徹尾,クライアントの,
言葉,体,心,思い,感情,気持ち,感覚,表情,しぐさ,振る舞い,息遣い,
等々を澄んだ反照で,写し返すこと。まあ,もちろん,コーチに様々な違和感,思いが巡るが,それをどれだけ脇に置いて,ただ,写せるかが,大事だ,と思っている。もちろん,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140302-1.html
で書いたように,そこにコーチの生き方が反映し,それに応じて鏡の立て方が,歪むかもしれないにしても。
ここには,コーチの関心で聴かないとか,仮説を貼りつけないとか,ということが含まれる。その人生のボスは,その人自身である。その人にとってのあるべき姿が大事なのであって,コーチのあるべき姿など,何の意味も役にも立たない。
③聴く
当たり前たが,耳を傾ける。ただ,クライアントに,語るクライアントに注意を傾ける。ひたすら,聴く。それは,その聴くという姿勢そのものが,受容であり,共感である。だから,関心と興味をもって,耳を傾ける。
そこにいるクライアントその人
に,ただひたすら焦点をあてて,聴き続ける。
④いいところにのみ焦点を当てる
相手がどんな人生を送っていようと,その人生のボスはクライアント自身でしかない。その人生を代わることはできない。であれば,相手自身が何を望むのか,どうなりたいのかを引き出すことはあっても,そんな人生は「間違っている」という言い方(そういう言い方をする人はいないが)をしないまでも,こちらに,あるべき姿をもっていて,それに対比しつつ,相手にラベルを貼るというやり方はしない。相手の隠された望みを引き出すために,
出来ていないところではなく,
出来ていることに目を向ける。ソリューション・フォーカスト・アプローチではないが,スケールクエスチョンで,10のうち2だとしたら,8に焦点を当てない。2に,できているところに,焦点を当てる。そこにしか,リソースはないからだ。
⑤一緒に解決しようとする気持ちを手放す
解決主体はクライアントである。そのために問題に焦点を当てるのではなく,解決状態(どうなったら解決したことになるか)に焦点を当てる。そこは当たり前だが,つい一緒に解決策を考えがちだが,解決するのはクライアントでしかない。コーチにできることは,クライアントが解決できるように,その手立て,方法を,クライアントから引き出し続ける。そのために,できないことに焦点を当てても仕方がない。出来ることに焦点を当てる。
⑥心地いいことを拾い上げる
心地よい状態でなくては,心に余裕はなく,発想は豊かにならない。発想力とは選択肢が一杯あること,そのためには,ゆとりがいる。それに効くのは,笑い,だと思っている。クライアントに笑いや笑顔が出たら,まずは正解。そういう雰囲気を一緒に醸成していく。
クライアントの痛いことを聴かないというのではない。別にそんなことをわざわざ引き出さなくても,そこに焦点が当たるように流れていく。そういうものだ。
⑦できることを信じる
というより,できるということを前提にして,コーチングする。クライアントができるとわかっているから,できることを拾い上げる。出来ていることに焦点を当てる。それは,信ずるというより,
出来るのが当たり前,
と考えている,というのが正しい。
⑧否定はない
発想というのに否定はない。ダメ,無理,はない。それと同じことだ。だから,できないところではなく,できるところにしか,できているところにしか,焦点を当てない。承認とはそういうものだ。
⑨リソースの発見
クライアント自身の気づいていないリソースを見つける。あるいは,クライアントにとって当たり前のことが,世の中的には,決して当たり前ではないと,きちんと拾い上げて,フィードバックしていくことが必要だ。
クライアント自身にとっては,特別でないことが,特別なことだと認知することが,リソースの自覚につながる。
⑩承認がベース
当たり前のことだが,そのためには,承認がベースだ。クライアントが,
そのままの自分でいい,
その人のままでいい,
ときちんとフィードバックしなくてはならない。コーチ自身に,生き方やあり方のついての理想像や,あるべき姿があって,それと対比して,そうなっていないクライアントを追い詰めてはならない。それは,二つの点で間違っている。
第一に,そのあるべき姿はコーチのそれでしかないこと,
第二に,問題にしか焦点を当てていないこと,
必要なのは,クライアントのあるべき姿であり,クライアントがどうなりたいと思っているかでしかない。仮に,クライアントがいまのままでいいと思っているなら,それをとやこういう資格は,コーチにはない。それを手放さなければ,それ望まないクライアントを追い詰めているだけだ。
⑪その人以上に見る
その人が思っている以上にその人は大きい,
その人のいま以上にその人は大きい,
そういう視点で,その人を見る。それは,単に,
できるその人,
なりたいその人,
ではなく,その人の中にある,その人の持つ大きさに着目することだ。本人以上のスケールと大きさで,本人を見ること。
⑫何でも話せる場をつくる
以上のことが,設えられて初めて,安心・安全な場になる。安心・安全な場,という言い方を,誰もがする。しかし,それができているためには,クライアントに,自分が何でも話せるのは,誰それだが,それ以外に,ここにもできた,と思ってもらわなくてはならない。そのためには,上記のコーチの姿勢がなければ無理というものだ。
僕は,コーチングにおいては,コーチのモードに切り替える。その瞬間,コーチという帽子をかぶる。そこで,いつも自然体でいたいと思う。その瞬間,コーチングという紐に入る。そのとき,僕は,フランクで,泰然として,クライアントの側にいたい。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月18日
視野狭窄
あるところで,こういうことを書いているいる人がいた。
プロコーチとして活躍したければ,
コーチという職業の本質を理解しなければなりません。
クライアントより,自分としっかり客観的に向き合い,
クライアントと同じ以上に,自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける。
これができずして,クライアントから選ばれることも,
クライアントの心の声を聴くことも,共感することも,最適な質問をすることも絶対にできません。
一見もっともらしいが,僕は,視野狭窄だと感じた。所詮,蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,自分のコーチ観,コーチング観を語っているだけだが,そのことに気づいていない。第一,どうでもいいことのようだが,
絶対
という言葉を,見識ある人間は使わない。
僕は,この人は,ビジネスとしてのコーチングを前提にしているのだと推測する。そういう考えもあるが,そうでもない考えの人のことが,この人の頭には,からっきしない。全く視野に入っていない。だから,
視野狭窄
という。
自分が目標を達成し,ビジネスとして成功もしていないのに,コーチ面している,ないし自己満足している,
この一文にすべてがある。自分は,こういうコーチを目指している,ということを語っているだけなのに,それを人を非難する材料に使っている。それは,そのまま,おのれに返るだけだ。たとえば,
ほとんどの人が自分はさて置き,自分をごまかし,自分を癒すために,コーチングを人にやろうとしているか,自分と向き合うことに酔ってるだけの人だと感じてしまうからです。
こう感じるのは勝手だし,部分的に同感と思うことはないでもない,が,あくまで,自分がそう思っただけに過ぎない,という前提を置き忘れ,所詮仮説であるにもかかわらず,それを事実のごとくに,前提にして語り始める,
僕は,一読して,正直,
自分もやりかねないな,
と思った。ある一点で,相手が見えた気がしてしまう。錯覚に過ぎないが。
所詮,自分のコーチング観に当てはめて,それと違うコーチをけなしているにすぎないのだ。人がどういうコーチを目指しているかは,あるいは何も目指していないかは,人がどう生きるかと同様,他人の忖度すべきことではない。そのことが,この人にはまったくわかっていない。
悪いが,僕は,別にビジネスとして成功させているコーチを偉いとは思わない。また,そういうことを望むクライアントばかりでもない。誰もが,目標達成を悩んでいるわけではない。誰もが,そんなことをコーチングしてほしいと思っているわけでもない(僕は,そんなことぐらい,自分でできないやつこそ,ビジネスの失格者と思っている)。
クライアントが求めるコーチは,全く違うことかもしれないのである。目標などという目先ではなく,人生の目的かもしれない。生き方そのものかもしれない,自分の価値そのものについてかもしれない。自分の存在理由かもしれない。人との葛藤かもしれない。クライアントは,ビジネスに成功したいと人ばかりとは限らないのである。その意味でいうと,コーチングについても,コーチ(像)についても,クライアントついても,まったく,
メタ・ポジションをもてていない。
だから,「ある一点」で,と言った。自己肥大と言い換えてもいい。自惚れと言い換えてもいい。勘違いといってもいい。
世の中にどれほどのコーチがいるのか,どれほどのコーチングがあるのかも,弁えず,いや弁えていないから,野放図なことが言えたのだろうが,おのれのコーチングに鼻を高くしている図は,正直言ってみっともない。
今は昔の光通信の,何と言ったか知らないが,あの社長に似ている。
どうもこの人は,文章からみると,自分のコーチ業が,ビジネスとして成功することが,もっとありていに言えば,金儲けに成功すれば,自分のコーチングに箔がついたと思っているらしい。しかしそうは思っていない人にとっては,そんなことはコーチを測る目安ではない。
百歩譲っても,コーチングあるいはコーチを測る,唯一の目安ではない。逆に,コーチで(あるいはセラピーでといっても同じだか),金儲けしている輩こそ,胡散臭いと考える人間だっている。どっちが正しいかではない。なりわいとしてのコーチについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/390224446.html
で書いた。そういうコーチを求めるクライアントもいるだろうから,それはそれでいい。それはしかし,コーチが決めるのではなく,クライアントが決める。コーチに似たクライアントが,そのコーチに来る,というだけで,それがすべてではない。
大事なのは,相対的なものの見方だ。それを測る目安が,
メタ・ポジション
なのだ。
例えばだが,僕は,コーチをつけるエクゼクティブを軽蔑している。自分の起業をコーチングする人間も軽蔑している。自分ひとりでとことん考えないやつに,経営ができるはずはない。起業ができるはずがない。風潮だから,勝手にすればいいが,トップクラスの企業家がコーチをつけている,聞いた瞬間,トップクラスではないと見なすことにしている。そういうコーチング観もあるということだ。
そのことについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140214-1.html
で触れた。
ついでだから,書くが,自分に向き合うことも,コーチに必須とは思わない。そんなことをしなくても,クライアントに向き合い,クライアントの気づきに立ち会えるコーチはいる。まして,
クライアントと同じ以上に,自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
のも必須とは思わない。そんな程度のことは,普通の人間は,そう意識しないで日常やっている。働くということは,まさに,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
ことなのではないのか。日々営業マンも,事務の人も,開発の人も,研究者も,何も「リスクを賭ける」などという大袈裟な言い方をしないだけで,やってのけている。それだけのことだ。それを特殊と思うこと自体に,思い上がりがあるが,まあいい。
コーチがどんな経験をしているかなんぞは,どうでもいいのだ。クライアントに関心があるのは,クライアント自身であり,クライアントの人生だ。
あるいは,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
というのは,コーチが自分の納得のために,弁明のために,自尊心のためにやっているだけで,クライアントは,クライアント自身の人生について,聴いてほしいのだ。
僕は,呑兵衛でもろくでなしでも,いい加減な人生を送っている人でも,クライアントに向き合った瞬間,
クライアントのいるその場にいて,一緒にクライアントの見るものを見られる人,
なら,それで立派なコーチングなのだと思っている。生真面目に,自己に向き合うほど,らっきょの皮をむくように,何もない自己に気づくだけだ。
ああ,つまらんことに時間を使った。こういうコーチがいるから,コーチング界は,まだまだ未熟なのだ。多様性こそが,どの世界でも,活性化の鍵でしかない。
所詮,コーチング,コーチという理論と実践,方法自体,例によってアメリカから借り物の理論に基づいている。つまり,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづけ…
た結果,自分が考え出したことではないということだ。僕流のプロフェッショナルの定義から言えば,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163044.html
で書いたように,一流ではなく,二流以下でしかないので,誰もかれも,同様に,
剽窃者,
下世話に言えば,
パクリ,
でしかないことを忘れないことだ。
それを謙虚という。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年04月21日
受身
JCAK川本恵神奈川チャプターの,「第8回 コーチング解体新書」に参加してきた。
http://kokucheese.com/event/index/159484/
今回のゲストコーチは,川本恵コーチ。
会の趣旨は,案内によると,
コーチング解体新書はゲストコーチによるコーチング・セッションを拝見しつつ, 「何に気づき何をしたことが機能したのか」を,ゲストコーチや参加者の皆さんと一緒にディスカッションしながら,三井紀代子コーチのファシリテーションと解説で解き明かしていく,
というもの。今回は,二人のクライアント役のひととの,コーチング・セッションを2回拝見させていただいた。
今回,3回目の参加になる。
どんなコーチング・セッションか,よりは,そこで自分が感じたことをまとめておきたい。まあ,
「ちょっとだけ」コーチ,
なので,思っていることと,できているととが,なかなか一致できていないが,一番感じたのは,
コーチの姿勢
である。クライアント役二人は,全くタイプも,テーマも違ったが,コーチング・スタイルは,
テンポも,
姿勢も,
応答も,
まったくといっていいほど,違っていた。というか,クライアントに合わせて,あえて言えば,
ペーシング,
なのだが,それだと単なる技法ということになるが,むしろ,そこに,
コーチとしてのあり方,
コーチとしての関わり方,
コーチとしての姿勢,
がある故だと感じる。
川本コーチがよく口にされるのは,
人は,それぞれたく思考方法が違う,
ということで,それにすごく興味があり,
クライアントの考え方を知ろうとする,
と言われる。もうひとつは,コーチング(セッション)は,
クライアントが考える場(環境)を用意する,
ということだ。で,そこから,
考え,答えを出し,行動するのは,クライアント自身である,
ということになる。その意味では,
2つのセッションで,まったくコーチの関わり方が違ったのは,
クライアントの思考方法,
クライアントの佇まい,
クライアントの振る舞い,
が全く違ったから,それに合わせていかなくては,クライアントの考えるステージにならない,ということが意識されている(自然に見えたが)からなのだと思う。
だから,当然クライアントが求めているものを現実化するために,クライアント自身に考える視点を質問の形でするけれども,あくまで,クライアントの思考方法に沿っていく,と見える。
だからと言って,それをただ受け入れるわけではない。
その考え方は役に立っていますか,
ときにそう問いかけて,クライアントの思考スタイルそのものを対象化する。
コーチングが上手くいかないのは,コーチが何かしようとしたとき,
というニュアンスのことを言われたが,それは,コーチが,たとえば,
何とかして解決してやろう,
一緒に考えてやろう,
何とか役立ちたい,
という思いで,前のめりに,こっちがあれこれ考えて,クライアントに,
質問したり,
状況を聴き質したり,
視点を変えようとしたり,
等々と,こちらから仕掛けていくことだ。後で(懇親会の場で)「合気道」に喩えた方がいらしたが,こちらから仕掛けず,クライアントの動きに対応していく,合気道の受け身の姿勢といっていい。クライアント自身が,自分の置かれている状況は一番わかっている,だから,
どうすべきかの答えを,クライアント以上に出せる人はいない,
のである。それを信じていないから,コーチが前のめりになる。
そこで思うのは,クライアントの思考方法とは,
クライアントの自己対話の仕方,
なのだと思う。とすると,
堂々巡りをしているか,
同じ轍を何度も踏んでいるか,
土壺にはまっているか,
いずれにしろ,その状態はクライアントの問題であって,コーチの問題ではない。ましてそれをどう脱出するかの答えは,クライアントしか出せない,その答えを出すのに,どんな風に考えたらいいか,その切り口をコーチは提案するだけである。だから,
その考えは役に立っていますか,
という問いもあるし,コーチが質問して,クライアントが答えづらそうなら,
いまの質問は役に立ちますか,
と問うこともある。最後に,ひとつのセッションの終りで,
もういまできている,
というメッセージを伝えられた。それを,クライアントへの,
励まし,
と言われたが,ある意味,CTIで言う,
認知,
になっている。CTIでは,認知を,
(コーチが見た)その人の強みや良さを,本人に伝えること,
とあるが,まさに,コーチからのクライアントの持つ可能性の顕在化・言語化である。それもまた,
クライアントを信じている,
という表明になる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年04月14日
アセスメント
アセスメントとは,
Assessment,「課税」「査定」「評価価値」「分担金」などを意味する英語からきている。日本では「評価」「査定」の意味で用いられることが多く,「対象が周囲に及ぼす影響の評価をすること」「開発が環境に与える影響の程度や範囲,また対策について,事前に予測・評価すること」などをさす,
とされる。ここでは,コーチングにおける,自己点検といった意味で使っている。コーチからの課題で,
セルフ・アセスメント項目,
を考える,というのを課され,改めて,現時点での,自己点検項目を洗い出してみた。何度か,コーチングのことについては触れているし,コーチの姿勢については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/391214445.html
でも整理したが,今一度,現時点の確認をして,15項目にまとめてみた。
①姿勢を正す。
別にグランディングを持ち出さないまでも,きちんと,居ずまいを正すことが,聴くことの基本である。そうすることで,相手のすべてに感度が高まり,勘というか,直感が冴える。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/414675457.html
や
http://ppnetwork.seesaa.net/article/417110159.html
で触れた。かつて,僕はかつて,「要約がうまい」と言われ,自分でも,そう思っていたが,実は,相手から見ると,直感を返していたらしいのである。
②間(ま)を意識する。
この場合,相手のしゃべりのテンポ,息遣い,ということもあるが,
言語化のスピード
や
相鎚の間合い,
と言うのも含まれる。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/415288692.html
や
http://ppnetwork.seesaa.net/article/412037148.html
で触れた。間を考えるとき,意外と,聴き手側の相鎚の間合いが重要であることは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/417160692.html?1428781997
で触れた。
③文脈を共有する。
これは,決めつけられた,レッテルを張られた,と相手に感じさせないために,同じ文脈にいる努力がいる,ということだ。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/416425472.html
で触れた。あるいは,従来言ってきたことで言えば,
同じ土俵に乗っているかどうか,
ということとも関係がある。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163150.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163020.html
で触れた。
④遠くを見る。
これは,CTIでいうところの,大きな主題,を指す。つまり,当面の問題解決や,当面の主題ではなく,その人の人生そのものの主題は何か,というところを外さない,ということだ。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/392970265.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/409811339.html
でも触れた。それは,Howに走らず,その人の価値や,大切にしているものを浮かび上がらせる,ということでもある。
⑤ノンバーバルの変化。
これは当たり前だろうが,息遣い,声,身ぶり,居ずまい,そういった視覚的,聴覚的な情報に,感度を上げる,ということに尽きる。聴く,というのは,本来そういうことだ。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/410724005.html
で,触れた,共感性がないところでは,その感受性は,鈍るだろう。
⑥沈黙への感度。
沈黙を待つとか,沈黙を意識するということではない。沈黙を,沈黙として受け止めている限り,聴き手側は,共感性がきちんと持てていない証なのである。沈黙は,当人にとって,沈黙ではない。あわただしい自己対話そのものなのである。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413804239.html
で触れた。言ってみれば,相手と,
一緒になって沈黙の時間をもつ,
ということなのかもしれない。
⑦ラベルを張らない。
エリクソンの言う,
「相手について仮定しない」
ということである。仮説(妄想かもしれない)は,こっちの仮説(思い込み)であって,相手自身ではない。そのことを忘れると,平然と決めつける。決めつけは,文脈の共有化,つまり相手との関係性が出来ていない証でもある。決めつけについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/416425472.html
でふれたし,それによる痛い目は,自分自身が,味あわされた。その痛い目については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163096.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/391125143.html
で触れた。言葉は,ある面,
凶器,
となることを忘れてはならない,軽々にラベルを貼るなど,もってのほかである。
⑧ニュートラルもしくは風である。
自然体という言い方もできる。風にそよぐように,そこにいる。そういう聴き手でありたい。それを,
風,
と呼ぶ。あるいは,そういう自己規定そのものも,手放す,ということかもしれない。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163179.html
で触れた。まあ,コーチ,コーチとしてそこにいない,コーチとしての存在感を消す,と言ったらいいであろうか。
⑨直感を伝える。
姿勢を正すところで触れたが,相手の話していることから受ける直感を見逃さず,聞き逃さず,言語化すること。言葉にしないことは,伝わらない。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/414675457.html
で触れた。最近気づいたのは,僕が要約と思っていたことが,相手には直感と聞こえていたらしいことだ。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/417210569.html?1428869226
で触れた。
⑩フィードバック。
それは,承認の形であるかもしれないし,事実の形であるかもしれないし,直感の形であるかもしれないし,さらには,要約や確認の形かも知れない。ともかく,こちらに写った相手のことを,細大漏らさず,伝えること。承認については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163040.html
で触れた。言ってみれば,私には,
こう写った,
こう見えた,
こう聞えた,
こう感じられた,
と,言葉を惜しまず,言語化することだ。口に出さないことは,決して伝わらない。
⑪○を付ける。
相手に○印をつけるというか,コンプリメントといってもいい。あるいは,できていないことではなく,できていることに焦点を当てる,という言い方でもいい。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163040.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163420.html
できないことではなく,できている状態,どうなったら解決しているかに,焦点を当てる。ソリューション・フォーカスト・アプローチで言う,
プロブレム・トーク
ではなく,
ソリューション・トーク
である。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163304.html
で触れた。
⑫メタコミュニケーション。
会話自体を,メタ・ポジションから振り返る。それは,出発点で,
何を得たいか,
どうなったらいいのか,
を確認してあることで有効になるが,しかし,それは単なる確認で,そのときはそう思っただけかもしれない。だから,会話を経て,確認してみると,まったく違うものを得たいと思っているかもしれない。その確認である
⑬リソース。
その人のもっているものを,リソースとして焦点をあて,人と違う,その人だけの何かを,見つけ出すこと。それは些細なことかもしれない,仄見えるだけかもしれない。それを照らし出す。あるいは,その確認,追認。承認ではなく,相手への認知。そして,そのリソースを最大化すること。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388984031.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163193.html
で触れた。それは,その人らしく,ということでもある。それはまた,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163306.html
で触れたように,遺伝子の開花,である。
⑭いま・ここ。
Dance in this moment(Dance in the moment),
である。それは,
その時,
その場で,
その人とともに,
どこへ行くかは,そのひとまかせで,
行先も,目標も,コースも,歩き方も,
相手にゆだねて,
である。それは,柔軟性,ということでもあり,共感性の別の言い方でもあり,文脈を共有する,ということの現れでもある。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163425.html
で触れた。
⑮いつもおのれでいる。
自然体とは,
自分でいる,
ということだ。それは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163191.html
で書いたように,そこでの在りように,関わり方に,反応の仕方に,応答の仕方に,口の利き方に,結局,
おのれ,
が出る。出るのでいいのだ,と思う。しかし,願わくば,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html
で書いた,
心映えのでる,
おのれでありたい。
アセスメントは以上であるが,先に,沈黙で触れたように,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413804239.html
で書いた,
相手の自己対話に参加する,
と言うのが,基本姿勢である。それがあって,以上のアセスメントが生きる。それ抜きでは,文脈の共有も,共感も,沈黙を共にすることも,あり得ない。質問は,相手自身の自問の代替でなくてはならない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm