2013年01月12日

「おじさんと呼ばれる年齢になって」について


何年か前,岡山を旅行中に,市内の郷土文学館で,見つけた,

おじさんと
人に呼ばれる齢になっても
じっきに
かっとなる癖はやまぬ
思慮分別もたらぬ
金も力もないが
名誉も地位もほしくない(吉塚勤治「自己紹介」)

という詩が気にいっている。「自己紹介」という題なのも,いい。もう,おじさんどころか,爺だが。

歳をとると,視野が狭くなる。行動範囲も限られてくる。必然的に,いつもの場所で,いつもの人と,いつもの会話しかしなくなる。

認知症にならない3条件というのを,ずいぶん昔,「ためしてがってん」でやっていたと記憶している。それは,

①メタボにならないこと
②有酸素運動をすること
③コミュニケーション

③のコミュニケーションというのが,みそだ。コミュニケーションというのは,家族やいつもの知り合いと,あいさつしたり,「風呂,めし」というのとは違う。ましてや,テレビを観て,ぶつぶつと文句を言うことではない。それは,一般に独り言という。しかし,上記の近親者との会話も,自己完結している。自己完結している,ということは,脳をとりたてて酷使しなくても,なんとなく流れていく,そういう状態を機能的固着という。

何がひらめいた時,0.1秒,脳の広範囲が活性化するという。それは,いつもの使い慣れた部分ではなく,自分の脳に蓄えたリソースと,広範囲にネットワークがつながる,ということだ。これがなくては,脳は,どんどんしぼんでいく。

その意味で,脳を酷使しなくてはならない。そのために,

①まずは,ウォーキング
②いろんな人と出会う機会を逃さない
③積極的に自己表現する

を心掛ける。人と出会えば,人は自分とは違う。違う人と会話するためには,いつもと違うところを使わざるを得ない。そのことによって,今までアクセスせず,断線していた脳のネットワークが再接続するかもしれない,新たな,接点をつくりだすかもしれない。そのことが,まずは脳にとって刺激だ。

自己表現とは,自分を語ることでもいい。新しい機会,新しい場所,新しい時間,新しい人と出会うこと自体が,すでに,自分に何らかの表現を強いるはずだ。

そして,

④広範囲の読書

少なくとも,若い時と同じスピードで本を買うと,どんどん積読になっていく。読書スピードはどんどん落ちていく。

だからといって,速読をしようとは思わない。読書のスピードはその人の思考のスピードなので,無理に速度を上げても,思考が研ぎ澄まされ,シャープになるとは思えない。速読者で,ノーベル賞,芥川賞,仁科賞等々をもらったという話を寡聞にして聞かない(いたらごめんなさい。話の都合上いないことにします)。ここで言いたいのは,頭がいいかどうかではない,人真似ではない,独自のものを考えている人を見たことがない,という意味だ。まして,速読を宣伝している人は,自分オリジナルの技術でも考え方でもない人がほとんどだ。

人の真似をしたり,人のお先棒を担ぐ人は,好きになれない。たとえ,ピンでなくても,キリであっても,自分で必死に考え,必死につかんだ結論でなくては,意味がない。そういう人でなければ,権力者の周りにうろつく手合いと同じ人種だと思っている(かつて選挙を手伝ったとき,蜜に群がる蟻のような手合いをいっぱい見た。こういうのを泥棒という)。自分で,血を流して,考えろよ,安易に,人の正解をもらうな!が自分のせめてもの意地だ。それも,おじさん予防対策の一つだ。言ってみると,意地というか,虚仮の一念,意地をなくしたら人間おしまいだ。

読書は読むことに主眼があるのではなく,ましてやいかに早くたくさんの本を読むかではない。一行ずつ,書き手と対話することのほうが大事だ。

それに,いかに速読が瞬間は,脳の酷使でも,速読に馴れれば,脳にとっては何の刺激にもならず,速読という機能的固着を一つ増やすだけだろう。閑話休題。

だから,まだ前へ進もうとしている。いくつになっても,前へ進む。新しい何かをする。

生きるとは
位置を見つけることだ
あるいは
位置を踏み出すことだ
そして
位置をつくりだすことだ

位置は一生分だ
長い呻吟の果てに
たどりついた位置だ
その位置を
さらにずらすことは
生涯を賭すことだ
それでもなおその賭けに
釣り合う
未来はあるか
それに踏み切る
余力はあるか
まだ

死んだ後,おのれの位置が定まる。棺を蓋いて事定まる,という。しかし,人は生き方通りの死に方をする,ともいう。出処進退を過たず,の気概でいこう。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


#生き方
#死に方
#出処進退
#おじさん


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2013年04月28日

嫌悪感は社会的に育てられる


嫌悪感とは決して腹黒い感情ではない。嫌悪感とは,他者に共感できる文明化された人間であるがゆえの副産物である。

嫌悪感はきわめて社会的な感情である。

レイチェル・ハーツは,『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』で,こう書いている。

ただ,ハーツの言うのは,disgustのことで,むかつく,嫌気と訳されているが,監修者の綾部早穂さんは,

怒り(anger)は,頭や腹にきて,嫌悪(disgust)は胸に来るもののようである。「胸糞悪い」もdisgustに対応する。

と書いている。もともと日本人は,嫌悪の表情は,怒りや悲しみとまぎれやすいらしいので,日本人は嫌悪の表情を出すのが北米人に比して少ないとも言われているようだが,それは表情のことであって,感情としてはないわけはない。しかし,ハーツもこう言う。

嫌悪感とは,おおむね普遍的でありながら,生まれつき備わっている感情ではないことがわかった…。何を不快に思うかは人それぞれであり,時と場合によっても意味が異なる…。つまり置かれた状況,文化,そして生い立ちによって形作られるのである。また,嫌悪感には人間の感情でも独特の複雑さがある。

ふと連想したのは,ハンソンが,21世紀のわれわれと13世紀の人々とは、日々巡る太陽に同じものを見ているのだろうか?なぜ、同じ空を見ていて、ケプラーは、地球が回っていると見、ティコ・ブラーエは、太陽が回っていると見たのか?という問題意識だ。

たぶん,われわれは対象に自分の知識・経験を見ている。あるいは知識でつけた文脈(意味のつながり)を見ている。21世紀の我々には、宇宙空間の適当な位置から見れば、地球が太陽の回りに軌道を描いていると知っており、その知っている知識を見ている。13世紀の科学者は、太陽が地球の回りに描く軌道という知識、プトレマイオスの天動説を見ている。見ているのは知識なのだ。

アインシュタインは「われわれに刷り込まれたモノの見方の集合体」と呼ぶが、邪魔したのは、この「~として見る」「~としてしか見ない」われわれの知識である。ゲーテが,われわれは知っているものだけを見る,と言ったそうだが,それと同じことが,嫌悪感にも言えそうなのだ。嫌悪感には,こちら側の知識と経験がある。

西洋人には,納豆は,「アンモニア臭とタイヤを燃やしたにおいがマリアージュ,つまり組み合わさったように思える」という。しかし,そのハーツでさえ,「カース マルツゥはイタリアのサルディーニャ地方でよく食べられている羊のチーズ」は,苦手だという。「俗にうじ虫チーズと呼ばれていることからもわかるように,このチーズには文字とおり生きた幼虫がひしめいている」。そして「食べごろになったカース マルツゥには,通常,何千もの幼虫が宿っている。それどころか,地元の人々は,幼虫が死んでいるカール マルツゥは危ないと考えている。そのため,生きた幼虫が蠢いたままで,供される。」

で,こう言い切る。「もっとも原始的な嫌悪感情の生来の目的は,私たちが,腐敗して毒性をもつ食べ物を口にしてしまうのを避けるためにある」と。

ほとんどの場合,何かに嫌悪感をいだくか否かというのは,見る側の気持ちが決める。

その背景になるもののひとつが,文化だ。食べ物の価値が敵と味方を分ける。

文化を区分する際にもう一つ大切な目印は,…人間の体は,食べたものと同じにおいを発する。…これは,食べ物に含まれている臭気成分が,肌や汗を通して放出されるからである。こうしたにおいは,共通の食文化を有している限りは,「同じものを食べているからあなたが好き」と言う根拠になる。

つまるところ,

食べ物と,それを食べる人が不愉快かどうかをきめるのは,私たちの思考,つまり私たちの心なのである。

その嫌悪の感情は,人間の中枢神経システムを支配し,血圧を下げる。そのせいで発汗量が減り,失神,悪心,吐き気などが起こされる。…嫌悪感情からは,やんわりした反感から抑えきれない憎悪まで,さまざまな精神状態が引き起こされるが,これらにはすべて,その嫌悪感情の原因に対して,そこから逃げようとしたり,排除しようとしたり,そして多くの場合,避けようとする衝動感が中核にある。

予想されることだが,嫌悪感は,子供にはなかなか習得しにくい感情である。…子どもというものは幸福感を最初に覚え,次に悲しみと苦痛を覚える。…少なくとも,三歳になるまでは,どんな形の嫌悪感も経験しない。

子どもは怒りと嫌悪の表情の区別がつかないが,その区別の能力は,その子が何かについて嫌悪を感じるようになる能力と一致しているらしい。つまり,最初にトイレの躾をし終えて,「うんちでお絵かきしたりたべたり」しなくなり,嫌悪を理解するようになる。それは,

知的発達と同じ軌跡をたどるのである。
子どもたちは他のどの感情よりも,嫌悪感についての文化や社会の基準に触れ,そこから学ぶ必要がある。たとえ,それが何であろうとも,文化の違いは,不快なものへの態度の違いとなって現れる。

つまり,嫌悪感は生まれつき備わったものではない。人間は嫌悪感を経験できる唯一の生き物といえる。つまりチンパンジーやゴリラにはない文化的な背景が,嫌悪感と深く結びついていることを予想させるのである。

ではそれは脳とどうつながっているのか。

嫌悪感を示す顔を見せた時もっとも活性化するのは,側頭葉,前頭葉,頭頂葉の下に隠れている島皮質がもっとも活性化する。そのため,

嫌悪感を味わうには,損傷のない脳構造のネットワーク,特に島皮質が必要だ。ところが,そのほかにも必要なものがある。嫌悪感というのは,学習を経なければ身につかない唯一の感情だ。そして,それには複雑な思考と解釈も求められる…。言い換えると,嫌悪感にはあるレベル以上の認知能力と社会性が必要なのだ。さらに…他者の嫌悪感を正確に認識するためには,正常に機能する脳を持つことが必要であり,それとともに社会的な学習も求められる。

たとえば,大脳基底核の神経細胞が委縮するハンチントン病の人は,他人の嫌悪感を読み取れない。強迫神経症のひとも,嫌悪表情が読み取れない。ところが,ヘロイン中毒者は,嫌悪感情を理解できている。これは,

社会における暗黙の了解や経験が,嫌悪の解釈や経験にいかに欠かせないものであるかを示している。さらには,社会生活から受けるフィードバックにはあまりも大きな影響力があるため,あなたが抱いた嫌悪感が,そのまま私の嫌悪感になることすらある…。

嫌悪感は,社会文化的な反映であることが,はっきりしている。内に籠ったり,自閉状態にあると,社会的な感情経験と他者との交流の中で育まれる感情が育たず,脳としてのハードウエアが正常でも,嫌悪感情は育たない。外との間の中で,身に着けていくものであるらしい。

嫌悪感情をいだくか否かは,そのような感情をいだいてしまう可能性のある状況や対象についての判断できる能力によって左右される。

参考文献;
レイチェル・ハーツ『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』(原書房)
ノーウッド・R・ハンソン『知覚と発見』(紀伊國屋書店)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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2014年03月28日

読書


本を読むというのが,習い性のようになっている。昔は,あまり本を読んだ記憶がない。少なくとも,高校生の時代は。まあ,おくてである。

しかし,大学に入って以来,無知を悟り,というか思いっきり恥をかいて,夏休みまでに,平凡社の世界文学全集,という文庫サイズのものが実家にあって,それを読破した。その中に,『戦争と平和』もあったはずだか,ショーロホフ『静かなドン』にただ圧倒された記憶がある。

その後,『チボー家の人々』を読み,後は乱読になったと思う。その時代に深く印象に残ったのは,『カラマーゾフの兄弟』だろう。特に,大審問官は,強烈だ。

昔は,結構抜書きをしたり,場合によっては,一作丸々,写しとったこともあったが,日記をやめてからは,ずっと読みっぱなしになっていた。

最近,ブログで本を紹介するようになってから,全体を俯瞰するように変わった。前は,良くも悪くも,虫瞰的で,気に入ったフレーズを引っ張り出して,書きとめていた気がする。そのせいか,全体が見えない癖があるかも。

例えば,記憶では,(石子順造氏が)それぞれのラストシーンを,

鉄腕アトムは太陽に向かい,サイボーグ009は流れ星になった,

といった趣旨のフレーズで表現していたと覚えているが,ところがそれがどこにも見当たらない。あるいは,

人は持っている言葉によって,見える世界が違う,

というのは,ヴィトゲンシュタインだと思っているが,これが見当たらない。あるいは,

人は死ぬまで可能性の中にある,

はハイデガーの『存在と時間』に見当たらない。あるいは,誰だったか,大学の授業で聞いたフレーズかもしれないが,

握った手は握れない,

というのは,これもどこにも探せないでいる。

アイデア一杯の人は決して深刻にならない。

これは比較的最近だが,記憶が確かなら,バレリーだと思うが,定かではない。

フレーズが全体を象徴しているならそれでもいいが,そうでない場合は,とっても恥ずかしい目に合う。昔,ヘーゲルの『精神現象学』を逐語的に(訳が悪かったせいもあるが)読み進め,結局全体像がつかめなかった愚を犯した。そういうことになる。

前にも書いたことがあるが,僕は古井由吉にはまり,『杳子』はほぼ丸ごと,写しとった。その時感じたのは,文体が生理ではなく,文体が生理を呼び起こすという感じであった。吉本隆明の詩に,

風が生理のように落ちて行った,

というフレーズがあったが,意識の多層性,キルケゴールの言う,

自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである,

を,表現していると感じたものだ。

その意味で,日本語というものの持っている表現可能性を,ぎりぎり極限まで突き詰めた文体は,美を通り越して,言葉が示せる極北の世界を見た,と感じた。これ程の文体をもつ作家は,以前も以後もいない。

それを, 不遜にも,

http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique102.htm

で,まとめたことがあるが,これが,

http://www009.upp.so-net.ne.jp/ikeda/shirowada.pdf

で引用された。考えてみれば,いまは,ブログが,自分の発信ツールになっている。

ブログで読書感を書きながら,最近思うのは,結局読書も対話なのだ,と思う。たとえば,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389603151.html

は,著者と対話した感じが残っている。

考えることが,自己対話だとしても,その対話の視点がどれだけ多角的であるかは,どれだけ多様な人との対話をしたかにかかっている。その意味で,読書は手軽な対話の場なのかもしれない。

昨今のわが国の為政者たちを見ていると,その対話が自己完結した人ばかりが,妄想している印象なのは,さまざまな視点や考え方の人と対話を積み重ねる努力をしてこなかったということを,無残にも露呈している。

それは,知的レベルの低さということだ。これでは,他国の知性あるリーダーと対話できるはずはない。そして,それは,日本人自身が,他国から侮られ,軽んじられることを意味する。投票行動を軽んじることは,結果として,天に唾するのと同じことになっている。

僕は,そういう意味で,物理,天文,数学,科学,詩,小説,演劇,落語,歴史,ビジネス,経営,哲学,古典,心理等々,何でもかんでも,興味と好奇心に引かれて,要は乱読だが,その分多様な対話を重ねてみたい。まだまだ出会ってない人が山のようにある。それが,結果として,自分の考える力,つまり自己対話の視点を増やし,おのれの自己完結性(うぬぼれ)を崩すことになる(はず?)。

自己完結は,痴呆のはじまりだ,とおのれを戒めよう。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


posted by Toshi at 05:38| Comment(0) | 読書 | 更新情報をチェックする

2014年05月13日

読む


読むというのは,

読むと,数(よ)むとは語原が同じ,つまり,

数える,

とされる。お経をヨム,と同じなのだそうだ。ヨムは,中国語源では,

文書をヨム
意味を抜き出す,
言葉を眼で追う,

を指すらしい。しかし,どうも作品(多くは文学作品だが)を読む,というときの,

読む,

はちょっと異なるのではないか,という気がする。

吉本隆明の発言に,

文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。

というのがある。例によって,ちょっと逆転した物言いたが,自分に読み取れたことを人は別に読む,という相対的なものの見方が出来なければ,こういう言い方はできない。

多くが,そこに自分を読み込むことで,自分にしかこの作品は分からない,という確信(誤解)をえる。それが,作品の良し悪しの根拠という言い方は,独自で面白い。それは,逆に言うと,作家の自己完結した世界に閉鎖されれば,多くは,跳ねのけられた感覚になるに違いない。

これが正しいかどうかは別として,作品を読むというのは,

作品の意味を読み解く,

のとは異なる。そういう読み方を文芸評論家はするかもしれないが,それは,身過ぎ世過ぎのためであって,作品を読む,という場合,僕は,三つしかない,と思っている。

第一は,作家の描いた世界に,丸々乗ってしまう。まあ,これだって,読者が作品に思い描いた世界と,作家がイメージして文字にしたものとは異なっているかもしれないが。

なぜなら,ひとつの言葉の意味は,辞書的には同じでも,その言葉見るのは,それぞれのパーソナルエピソードに拠っている。人生が同じでないように,言葉に思い描くものが同じなわけはない。

僕にとっては,藤沢周平の作品がそれかもしれない。ただその世界に入り込んで,楽しんでいる。いまは,漫画の『キングダム』が,あるいは,そういう作品かもしれない。

第二は,言葉を自分の世界に置き換えて,読む。作家の描く世界を,自分流にイメージした世界として読む。そのとき,そのイメージは,明らかに,個人的なものだ。

クオリアレベルで言うと,同じ赤といっても,見ている赤の内実は違っている。にもかかわらず,「アカ」という言葉だ代替する。だから,「赤」に,おのれの描く朱を見ることで,その瞬間から,その言葉の拓く世界は,自分の世界に変わっている,と言ってもいい。

僕にとっては,これは,石原吉郎の詩だ。

第三は,作家の言葉の描く世界と,自分がその言葉に見る世界とを,キャッチボールしつつ,両者の向こうに,というか,ベン図の円の重なった部分,といったほうがいいか,そこに,独自の読んだ世界を見る。

あるいは,その作品に影響を受けて,自分の世界を築こうとする。それが,別の作品になるのか,商売になるのか,自分の生き方になるのかは,ともかく,作品に強い影響を受ける,というのは,そこから,自分が新たなアクションを起こそうとする,というのにつながる。それが,作品の完結した世界とはまったく別のものになるにしても,読み手にとっては,作家の世界とのキャッチボールの結果なのだ。

もちろん,このほかに,正確に,作家の発するメッセージを意味として受け取るという読み方もある。しかし,それでは受身だと僕は思っている。いい作品ほど,その影響と格闘することになる。

これは,僕にとっては,古井由吉であり,個別の作品で言うと,ドス・パソス『USA』であり, マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』だ。

この作家とこの作品は,僕の中でいつも格闘が続いている。それは,方法であり,世界観であり,描き出す世界像である。

いずれの読みが正しいかどうかは,ぼくにはわからない。しかし,世の中の大作,傑作については,僕はあまり関心がない。流行していようと,世界的作家であろうと,僕に刺激としてのインパクトと,強烈な存在感を示さないものは,僕にとっては,傑作でも,名作でもない。

その点では,吉本の言うことには,賛成できない。

結局読む,とは,僕にとって,僕個人と,

作家の作品との格闘,

に他ならない。作家とではないが,結果として作家個人と対峙していることになる。そして,いつも,完膚なきまでに負け続けている。






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 04:51| Comment(0) | 読書 | 更新情報をチェックする