2013年01月16日
人形劇体験について~物語を物語るⅢ
フランクルは,人は誰もが人生の物語をもっていて,それを語りたがっている,というようなことを書いていた記憶がある。しかしそれは,語りだしてはじめて,芋づるのように,エピソード記憶が手繰り寄せられる。
少し個人的なことを続けたいが,いきなり,学生時代へ飛ばす。
そのほとんどの時間を費やしていた,人形劇のことを語ってみたい。
人形劇といっても,プロとして本格的にやっていたわけではなく,学生時代,児研(児童文化研究会)というのに二年生から所属して,創作劇を作っていたにすぎない。多くの児研は,いわゆるセツルメントなど,子供会や地域活動に力を入れていたはずだか,僕の所属した大学の児研は,政治の季節を通過した直後でもあって,もう少し突っ込んだ活動をしていた。
といっても,政治活動ではなく,どう自分たちの思想を劇化して表現するか,ということが主要課題であった。僕たちは,それを,「自分自身がいかに生きるか,より生きるためにどうしたらいいかを考え実践していないものに,よりよく生きるにはどうしたらいいかなど,伝えられるわけがないし,伝わらない」などと,生意気なことを言っていたものだ。
大学先輩に児童文学者(山中恒)がいたりして,その影響かもしれない。先輩に宮沢賢治大好きの人がいて,影響されたりもしたが,どこかに文学青年のにおいをさせた先輩がいっぱいいたせいで,その影響を強く受け,アピール性の強い人形劇の脚本を何本か(すべて廃棄したので正確にはわからない)書いた。春と夏に,巡回と称して,へき地の村に出かけていて,確か岩手県,三宅島,山梨県が三大ルートで,それぞれグループを組んで新作をもって行った記憶がある(同時には二地域だったと記憶している)。僕は春夏ずっと山梨県の南巨摩郡の,もう静岡と接する奈良田まで入っていった。いまは静岡へ抜ける道が通ったらしく,全く昔とは違うと,聞かされたことがあるが,以来行ったことはないのでわからない。
巡回は,正確に覚えていないが,一週間前後,巡回中は,全部自炊なので,ひとり三升かそこらを背負って,行った記憶がある。まるで登山をするような大きなリュクに,米と,大道具(といっても幕でできているものだが)と人形を担いで,山道を登った。おかげで,米を飯盒で炊くことも,料理をすることも,失敗しながら覚えた。下手なものを作ると,それでメンバー5,6人が大迷惑を蒙る。
劇良し悪しのレベルはわからない。しかし,自分たちに大きな問題意識がある限り,すさまじい勢いで新作が作れた,そしてそれにあわせて,立ち膝で操作する人形を手作りする。粘土でかたどり,ガーゼとボンドで何枚にも重ねたものを,乾かせて最後は粘土を抜く。すると,口を開けたり閉じたりの操作をする心棒を除くと,軽いものだが,立ち膝でやるので,結構しんどい。しかしその創作プロセスは結構楽しかった思い出はあるが,苦労したという記憶はない。むしろ体力がいるというので,学館(旧学館,今のは知らない)の屋上でうさぎ跳びをやらされたり,発声練習をさせられたのが,きつくて嫌だった。
脚本を書くのは一人だが,その登場人物を造形していくプロセスは,イメージを共有し,同じグループのメンバーでこしらえていく。そのわいわい言い合いながら作っていくプロセスそのものが楽しかったのではないかという気がする。
秋には,学園祭があり,そのたびにいろんな出し物を出した。放送劇も何作か作った(これも破棄したので正確には覚えていない)が,本人は意欲作のつもりでも,先輩からこっぴどくやられて,言い返したりした記憶がある。結構熱くなりやすかったのだ。友人曰く,「結構人の心にひっかき傷をつけた」と。
放送劇を,オープンリールのテープレコーダーでリールテープを編集するため,テープをカットしたりつないだりと,微妙なことを結構やっていた(まだ売っているのをネットで見たし,NHKの公開番組において、歌手が唄う際カラオケ用の音源として,現在もオープンリールが使用されているケースがあると聞いたことがある。動作が見えてわかりやすいのでスタートの確認がしやすいためらしい)。そこは一人の作業で,そういう集中する仕事がつくづく好きなのだと,思っていたものだ。
一種の祭の後のような,芭蕉の句ではないが,「面白うて やがて悲しき 鵜飼かな」といった寂しさを,巡回の後も,学園祭の後も,感じたし,卒業した後も,そんな感じであった。なんとなく,後ろに,大事なものを残したまま来てしまったような,後ろ髪をひかれるさみしさであった。
そのせいか,その面白い集団活動をつづけたくて,プロの人形劇団に入ったのが,知っている限りで後輩一人,プロの劇団に入ったのが,先輩が一人いた。後は有名になったのは作詞家になった後輩にいるくらいで,残りほとんどは教師か普通のサラリーマンになった。その時どんな心境だったのかは聞いたことはない。
あの集団での活動に匹敵する場に参加してみたことがないので,その意味を相対的に位置づけなおすことができないが,あえて言うと,少し話が飛ぶが,卒業後3年目くらいの時,15人位の小さな会社で,7~8人位で労働組合をつくり,ささやかな要求を粘り強くつづけた,ちっぽけな組合活動をしていた時の,何というか内へ縮まるような凝集感に近いのかもしれない(小枝を切るのに大鉈を使うような感じもなくもないが)。その時相談に乗ってもらった上部団体の人があきれるくらい,自由気ままに,のんびりと,しかし粘りに粘って,ついになにがしかを達成してしまった。あのときの,全くの孤立無援さの中での,仲間同士の凝集度と指向性を考えたら, そういう仲間と一緒なら,何でもできる,という気が,いまさらながら,する。
あのとき,ひとりふたりと脱落者は出たが(某有名映画会社の労働争議でも同じことをしたらしいが,情報を意図して漏らしていた人と警察官僚の奥さんだけであった),あのときつくづく女性は強いと思った。女性の方が,なまなかな妥協を許さない。結局僕は背中を押されて,押し出されたようなものだ。女性が中心にいると,妙な打算と世間知というものがない分,(そういう状態のときは)純粋に突っ走って,怖じず,怯まず,ためらわず,まして後悔しない。これはまたいつか別に書きたいと思っている。
つくづくメンバーの良し悪しがリーダーシップの良し悪しを決める,と実感する。リーダーというものも,リーダーシップというものも,それを支える仲間やメンバーがあってこそのものだ。よきメンバーがよきリーダーを育て,そのよきリーダーシップがすぐれたメンバーシップを育てていく。しかし,最終責任は,リーダーしか取れないし,とってはならない。
よくリーダーは言い訳に反対勢力を口実に使うことがある。唯々諾々と自分に従うものしか相手にしていないから,強く反対するものと真っ向から対峙して,解決しようとすることに,逃げ腰になる。そんなわけで,昨今労働組合は格好の標的にされやすく,既得権益を守ろうとする代表のように言われる。そういう面がなくはないが,組合員たちが,営々と(大袈裟ではなく)血と汗と涙で獲得してきたものだ(誰が収益を削るような出費を喜んでするものか)。利権団体のように,官僚や政治家に密に群がる蟻のようにつかんだものとは違う(昔,ある政治家の選挙運動を協力し,私設秘書というものの実態も,政治家に群がる蟻の生態もつぶさに見て知っているが。これもいつか書く。選挙用に,うん千万円を紙袋に入れて運んだものだ。いまも実態は変わらぬのではないか?)。
本来,労働組合は,一人ひとり孤立する労働者が,団体で,権利の保護と向上を図ろうとするのだから(だからいま,孤立した人が,使い捨てのように,ポイ捨てで首を切られて,どれほど悲惨な目にあっていることか),経営者と利害が一致するはずはない。唯々諾々と経営者に従うような労働組合は,組合という存在目的に反している。それ自体言語矛盾である以上に,存在矛盾だ。
過去の権利が,いま既得権益になって経営の足枷になっているなら,正々堂々と,どこかの市長のように,陰湿な不当労働行為による組合いじめではなく,真正面から同じテーブルに乗って,粘り強く対峙し,解決していくしかない。それがそもそも,民主国家のリーダーとしての覚悟ではないのか。いじましい陰湿な追い落としを陰でやるようなものが,この国のリーダーになれるはずがない。
その解決は,是非,可否という二者択一ではない。対立軸と,真っ向向きあって,二者択一ではない答えを見つける,そういう必死の土俵に乗ってこそ,解決はやってくる。そういう土俵で真正面から相手と向き合ったことのないものが,必ず誰それが悪いと,対抗勢力だの反対勢力だのと,相手のせいにする。経営者も自治体,国のトップも,すべての責任が自分にある,という覚悟で,真正面から向き合おうとしていない。後になって,妥協させられた,いやいや首肯した,等々というようなことは,もってのほかだ。させられたも,させられないもない。それを決めたのは自分だ,そんな程度にしか覚悟と責任が取れない決断をしたということを,恥ずべきではないか。そして,それだけのリーダーでしかないと,証しているのでしかない。
いやいやとんでもないところへ話が移った。このくらいにしておこうかな…。
今日のアイデア;
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