2013年01月18日
どこかに貴種へのあこがれがある~『戦国武将 敗者の子孫たち』を読んで
高澤等『戦国武将 敗者の子孫たち』(歴史新書y)を読んだ。
ここでは,武田勝頼,真田信繁,明智光秀,石田三成,豊臣秀勝,松平信康,今川氏真,
が取り上げられている。真田信繁は,いわゆる幸村のこと。秀勝は秀次の弟,松平信康は信長の娘と結婚し,若くして自死に追い込まれた,家康の長子,今川氏真は,義元の長子。
言ってみると,負け組戦国武将の子孫が,どういう血脈を残したかを,延々描いていくので,それ自体は,退屈なものだが,所々で,著者は,自分の読みを披歴する。
たとえば,明智光秀には,「ツマキ」という妹だか,側室の妹だかが,信長の側に仕えていたが,本能寺の前年,死んでいる。「多聞院日記」に,「惟任(光秀)ノ妹ノ御ツマキ死量,信長一段ノキヨシ也,向州(光秀)無比類力落也」とあるらしい。これが,光秀の織田家中での立場を弱体化させた,とある。
あるいは秀吉については,百姓出の武将というイメージが定着しているが,それを覆す。
母親仲は,中田憲信編の『諸系譜』によれば美濃関鍛冶の系譜を引き,父は関弥五郎兼員と称していたとされる。『祖父物語』では青木一矩は秀吉の従弟としており,引用元の不明だが『若越小誌』は「青木一矩は秀吉の従弟」としている。
一矩の父は青木重矩,母は関兼定の娘であり,青木氏が美濃安八郡青木を本拠地としていた地縁を考えれば,隣接する美濃赤坂の刀工であったという関氏の女を母としたことも自然なことであろう。(中略)家康の側室にお梅の方という女性がいる。(中略)このお梅の方の父は青木一矩であり,(中略)江戸時代の竹尾善筑が編纂した『幕府祚胤伝』には,……青木一矩の娘お梅の方は家康の外祖母華陽院の姪であると明記されているのである。(中略)
つまり秀吉が生まれる以前の話,秀吉の母仲の姉妹が青木氏に嫁いでおり,その青木氏は家康の祖母華陽院と血縁であったことを徳川の史料が認めていることになるのである。
秀吉の葬儀では,青木一矩が福嶋正則と供に秀頼の名代をつとめている,というのも,ここから推測すると,意味深に見える。さらに,『百家系図稿』によると,秀吉の養父となった竹阿弥という人物について,水野氏の支流である水野藤次郎為春の子であるとし,
その真偽を補完する一次資料はないが,ただ秀吉が織田家の一部将であった頃用いた家紋は沢瀉紋であり水野家の家紋と一致する。
沢瀉紋はその後,形を変えて秀吉と姻戚関係にある浅野家,福嶋家,木下家も用い,羽柴秀次も旗印としており,…さらに秀吉が作らせた世界最大の金貨とも言われる慶長大判にも沢瀉紋が刻まれている。それだけ沢瀉紋は秀吉にとって特別な家紋であったことは確かである。(中略)
そして「藤吉郎」というような,「藤」の文字を通称に用いるのは藤原氏系に多くみられ,この通称は,水野家でよく用いる藤四郎,藤七郎,藤九郎,藤次郎,藤太郎などにも符合するものである。
秀吉来歴の幅を再確認するだけで,通常のイメージが変わっていく。こうした箇所がいくつかあるのが,本書のもうひとつの面白さかもしれない。
こうした血縁のつながりは,敗者の血のつながりが,たとえば,石田三成の血脈が,「尾張徳川家に入り,さらに四代徳川吉通を通して公家の九条家にも渡っていった」ということを考えると,同じ家格の家同士が婚姻でつながっていく,特に戦国時代,生き残りの重要な結合手段であったことを考えると,そんなに不思議ではない。
また明智光秀の血脈は皇室に入っているが,その系譜は,
一本は細川ガラシャ→多羅→稲葉信通→知通→恒通→勧修寺顕道室→経逸→婧子→仁孝天皇となり,もう一本は細川ガラシャ→細川忠隆→徳→西園寺公満→久我通名室→広幡豊忠→正親町実連室→正親町公明→正親町実光→正親町雅子→孝明天皇という流れである。
光秀ですらこれである。同じ家格同士が縁組するとすれば,420あるといわれる大名諸侯の間を血が行ったり来たりし,それが皇室・公家にまで行くのは,江戸時代という閉鎖された社会では十分ありうる。
比較的確実な系譜をたどってもこれである,女系で先があいまいになった場合を含めれば,すそ野は広がる一方だろう。我が家のようにどこの馬の骨かわからないものにとっては,うらやましい限りだが,それでも,細君の母方は,新田義貞の直系らしいので,どんな馬の骨にも,血脈は流れている,らしい。当たり前のことだが,全人類は,アフリカのたった一人の女性へと辿れるのだから,負け惜しみかもしれないが,血脈の貴種を競うことに意味があるとは思えない。
確かに貴種へのあこがれはわからないでもないが,江戸末期,徳川家定の後継を巡る継嗣問題が,一橋慶喜と紀州徳川慶福で争われているとき,肥後の横井小楠は,
人君なんすれぞ天職なる
天に代わりて百姓を治ればなり
天徳の人に非らざるよりは
何を以って天命に愜(かなわ)ん
堯の舜を巽(えら)ぶ所以
是れ真に大聖たり
迂儒此の理に暗く
之を以って聖人病めりとなす
嗟乎血統論
是れ豈天理に順ならんや
と呼んだ。今日でも,こうはっきり言い切ったら,右翼に狙われるかもしれない。小楠は,明治初年,新政府に召しだされた直後,京都でテロに殺られた。はっきりものをいうことは,今も昔も,結構覚悟がいる。
今日のアイデア;
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#高澤等
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#横井小楠
#血脈
2014年02月27日
謀略
鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』を読む。
鈴木眞哉,藤本正行両氏が,本能寺の変を巡る,百家争鳴ただならぬ中で,謀略説をまとめて撫で斬りにしている。まあ,気持ちいいくらい,一刀両断である。因みに,藤本正行は,桶狭間の奇襲説を,『信長公記』を読み込んで,正面突破と初めて主張した人だ。いまそれが定説になりつつある。
もともと戦前は,明智光秀の単独犯,
を,あまりにも自明の事実として,
ほとんど謀略説はなかった。そこへ,例えば,
足利義昭黒幕説
イエズス会黒幕説
朝廷黒幕説
を代表に,
明智光秀無罪説,羽柴秀吉黒幕説,徳川家康黒幕説,毛利輝元黒幕説,長宗我部元親黒幕説,本願寺黒幕説,高野山黒幕説,酒井証人黒幕説等々,
まあ後を絶たないというか,こんなに日本人は,謀略だの黒幕だのが好きなのかと思うほどだ。
そこで著者らは,
本能寺の変の実態を再検討する,
ことから始め,それを踏まえて,
個々の「謀略説」が成立するものかどうかをチェック
し,そのポイントに,
実証性があるかどうか,
をおいた。そして,
それぞれの説が論理的な整合性をもっているかどうかも重要だが,単に表面上,理屈があっているかどうかでは足りない。常識的にみて納得できるかどうかが問題あある,
とする。しごく当たり前で,オーソドックスなアプローチだといっていい。素材は,『信長公記』だけでなく,本能寺襲撃に加わった明智の下級武士の覚書,「本城惣右衛門覚書」,ルイス・フロイスの『日本史』等々。
そして,「謀略説に共通する五つの特徴」として,こうまとめる。
①事件を起こした動機には触れても,黒幕とされる人物や集団が,どのように光秀と接触したかの説明がない,
②実行時期の見通しと,機密漏えい防止策への説明がないこと,
③光秀が謀反に同意しても,重臣たちへの説得をどうしたのかの説明がないこと,
④黒幕たちが,事件の前も後も,光秀の謀反を具体的に支援していないことへの説明がないこと,
⑤決定的な裏付け資料がまったくないこと,
そして,こう問う。
この事件が,あの時点,あの場所,あの形でなぜ起きたのか,
と。そして,
結論を言えば,光秀の謀反が成功したのは,信長が少人数で本能寺に泊まったからだ。そういう機会はめったにない。また,光秀が疑われることなく大軍を集め,襲撃の場所まで動かせる機会もめったになかった。光秀にとってこれらの好条件が重なったとき,初めて本能寺の変は成功したのである。すなわち本能寺の変は,極めて特異な〈環境〉の下でしか発生しなかった事件なのである。
そのことを予想して謀略をめぐらすことはできない,と著者は言うのである。その絶好の条件は,
光秀自身が作ったものではないということ,
さらに,
彼以外の特定の誰かが作ったものでもない。光秀が中国出陣を命ぜられたのは,その直前に秀吉から信長への援助要請が届いたからだ。また,他の武将たちがすべて京都周辺から離れていたことも,織田家の内部事情によるものであり,光秀を含めて特定の誰かが工作した結果でもない。
つまりこの好機は,天正十年五月の後半に突然飛び込んできたものなのだ。当然謀反の準備はこの時から始まったと見なければならない。こうした事実は,謀反を計画した真犯人が別にいたとする謀略説に,決定的なダメージを与えるものである。
と述べ,むしろ,光秀という人物像を,改めるべきだと指摘する。ルイス・フロイスは,『日本史』で,
裏切りや密会を好み,刑を科するに残酷で,独裁的でもあったが,己を偽装するのに抜け目がなく,戦争においては謀略を得意とし,忍耐力に富み,計略と策略の達人であった。また築城のことに造詣が深く,優れた建築手腕の持ち主で,選び抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた,
と評している。光秀を,
古典的教養に富んではいるが,どこか線の細い常識家で,几帳面ではあるが,融通のきかない人物,
とするイメージを払拭すべきだと,主張する。フロイスの示す,
一筋縄ではいかない,したたかで有能な戦国武将,
というイメージで見るとき,光秀が,実質「近畿管領」(高柳光寿)というべき地位にあり,畿内の重要地域を任されていたという意味で,
光秀と信長は馬が合う人間だった,
とする高柳氏の指摘を注目すべきだ,指摘している。そして,こういう言葉には,説得力があるように思う。
光秀が絶対に失敗を許されない立場にいたことを忘れてはなるまい。フロイスの『日本史』に,光秀が重臣たちに謀反を打ち明けたあとの行動について,「明智はきわめて注意深く,聡明だったので,もし彼らの中の誰かが先手を打って信長に密告するようなことがあれば,自分の企てが失敗するばかりか,いかなる場合でも死を免れないことを承知していたので」直ちに陣容を整えて行動を開始したとある。
これこそ,常識的な見方といっていい。そして,朱子学的な順逆の価値観を捨ててみれば,光秀の決断は,下剋上の戦国時代において,別段特異な現象ではないことがわかるはずである。
目の前に天下(この場合,日本全国ではなく,中央部分,すなわち畿内を指す)を取れる機会があるのを,むざむざ見逃す手はない,ということなのではないか。
参考文献;
鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』(歴史y新書)
今日のアイデア;
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2014年02月28日
信長
池上裕子『織田信長』を読む。
戦国大名の研究家である著者の「信長」伝である。いわば,最新の信長研究の成果といっていい。
著者は,先ず,
「信長許すまじ」と,平成のいまも眉をつりあげ,言葉を激する人びとが少なくなかった。(中略)北陸,東海,近畿,中国地方など,殊にその傾向がつよかったように思う。
瀬戸内の島々の人びとのなかには,信長勢と戦う一向衆の応援に水軍としてはせ参じた船の民の末裔があちこちにいて,ご先祖の船乗りたちがいかに水上戦で信長軍をほんろうしたかを,きのうのことのように唾をとばして語ってくれる人たちがいた…。
と,五木寛之が新聞に寄せた文を引用し,こう言う。
私はこの文章に深く共鳴し安堵の思いをもった。近年は,平和が勝者=権力者も含めて多数の希求していた絶対的な価値であるようにみなして,平和のために統一をめざし実現したから民衆に支持されたという権力象を描く立場もある。そうなると,信長や統一政権に抵抗した人々の立つ瀬がないのである。
それで思い出したのは,花田清輝が,
戦国時代をあつかう段になると,わたしには,歴史家ばかりではなく,作家まで,時代をみる眼が,不意に武士的になってしまうような気がするのであるが,まちがっているであろうか。時代の波にのった織田信長,豊臣秀吉,徳川家康といったような武士たちよりも,時代の波にさからった―いや,さからうことさえできずに,波のまにまにただよいつづけた,三条西実隆,冷泉為和,山科言継といったような公家たちのほうが,もしかすると,はるかにわれわれに近い存在だったのかもしれないのである。
そう皮肉っていたのを思い出す。
では信長は何をしたのか。
楽市楽座,
検地,
兵農分離
等々,信長が古い時代を打ち壊したというイメージが喧伝されるか,実は,楽市楽座も,検地も,北条氏を始め,他の戦国大名がすでに行っている。では,信長は何をしたのか。
信長の人物像を示すものとしては,ルイス・フロイスが『日本史』で言う,
きわめて戦を好み,軍事的修練にいそしみ,名誉心に富み,正義においては厳格であった。彼はみずからに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。…彼はわずかしか,またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず,一堂からきわめて畏敬されていた。…彼は日本のすべての王侯を軽蔑し,下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
著者は,信長の言動に合致するところが多い,と評する。
では信長は何をしようとしたのか。
天下布武
が有名だが,この段階,つまり美濃攻略後,岐阜城に移った時点での,
天下
は,当時の用法にならって,京都・畿内支配,を指していた。しかし,本願寺との和睦がなった頃,
天下一統
を使い始めたときから,天下は,全国に拡大する。そこで目指していたのは,
分国,
つまり自分の領国の拡大戦である。それは,家臣構成を見るとわかる。
領国が拡大するにつれて,数郡・一国の領域支配を,家臣にゆだねていく。たとえば,秀吉には,
江北浅井跡一職進退
出来るようにゆだねる。こうして拡大した織田の分国の,分国を家臣にゆだねていく。しかし,その大半は,織田一門か譜代の尾張出身者が占めている。わずかに美濃出身者がいる程度だ。そして,領国支配をゆだねられた家臣のうち,
尾張・美濃出身者で信長に離反したものはいない。信長との強い絆が形成されていたからであろう。
そう著者は言う。離反者は,
松永久秀,荒木村重,明智光秀,
だけである。その理由を,
信長の戦争は現地の武士を利用し,彼らを家臣に組織しつつ進められたのではあるが,結局のところ,戦国大名はもちろん,有力な国人・武将の多くを討ち滅ぼしたり,追放したりして命脈を絶っていく戦争であった。領国支配者=大名に取り立てられたのはほとんどが譜代家臣であり,現地の中小武士はその給人に編成されることによってのみ生き残ることができた。
だから,こう言い切る。
その意味では信長は旧い秩序の破壊者であったかもしれない。(中略)しかし,もっとも大きな破壊は人的破壊だったのではないだろうか。容赦のない殺戮戦を展開し,その後の信長譜代の直臣を大名にすえる。信長の分国とは信長と譜代直臣の領域支配体制であった。
その意味では,家臣の官位叙任に当たって,
羽柴秀吉が,羽柴筑前守,
明智光秀が,惟任日向守,
等々としたのは,譜代をその地域の(この場合は九州の)大名とする布石と考えれば,納得がいく。
戦国大名らの地域権力は信長のもとで生き残ることはできないから必死の抵抗を試みる。荒木村重や光秀のように信長に取り立てられても,譜代重用のなかでいつまでその地位が保てるかわからない不安がつきまとう。かすかな勝算に賭けて謀反に走るしかなくなる。謀反と頑強な抵抗は,信長の戦争,分国支配のあり方が生みだしたものである。
したがって,明智光秀の謀反も,村重の謀反の延長線上で,著者は捉えている。
本能寺の変の背景や原因を考える時,光秀が村重と似たような立場にいたことに思い至る,
と。村重は,播磨攻略の中心にいて,黒田孝高の活躍も村重が信長に伝えていた。それを突如秀吉にとって替えられた。
光秀は,四国の長宗我部の取次として,強いパイプを保ってきた。然し突如として四国攻略戦略が,三男信孝のもとで遂行されることになっていくのである。
戦功を積み重ねても,謀反の心をもたなくても,信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない不安定な状態に,家臣たちは置かれていた。一門と譜代重視のもと,譜代でない家臣にはより強い不安感があった。独断専行で,合議の仕組みもなく,弁明,弁護の場も与えられず,家臣に連帯感がなく孤立的で,信長への絶対服従で成り立っている体制が,家臣の将来への不安感を強め,謀反を生むのである。
と,著者が言う通り,これほど家臣の裏切り,謀反の多い戦国大名は珍しい。
最後に,著者は言う。
光秀の謀反は,村重らのように城に立て籠もるのではなく,信長を直接襲撃するという手段に出て成功できた。単独で極秘に策を練り,機を逃さなかったことが成功へ導いた。だが,それゆえに連携がなく,次への確かな展望と策を持つことができなかった。
この一語で,世にかまびすしい謀略説のすべてを粉砕している。上質な研究者の確信といっていい。
あとがきで述べている言葉も,なかなか含蓄がある。
信長の発給文書をみて気づくことは,信長自身は百姓や村と正面から向き合おうとしなかった権力なのではないかということである。郷村宛の禁制以外に村や百姓支配に関わって発給した文書はほとんどないのである。
あくまで,領主にのみ目が注がれ,そのために,
信長には農政・民政がない,
と。これもなかなか含蓄がある。家臣に丸投げしているのである。
基本的には命じられた本人が,戦術を練り,調略・攻撃を駆使して自己の責任で平定の成果をなるべく短期間であげることが求められた。そのために必要な兵力・兵粮・武器弾薬の調達は本人の責任である。
だから,築城,道路整備,,兵粮もふくめた百姓の陣夫,夫役は,家臣たちがしている,ということになる。信長は,
百姓らの負担がどれだけ過重かは関知しない。
その意味で,極めて危い土台の上に成り立っていることがよく分かる。
恵瓊の有名な予言,
信長の代五年・三年は持たるべく候,明年辺りは公家などに成らるべく候かと見及び候,左候て後,高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え申し候,
とは,そんな信長体制の危うさを見抜いたものと言えそうだ。
参考文献;
池上裕子『織田信長』(吉川弘文館)
花田清輝『鳥獣戯話』(講談社文芸文庫)
今日のアイデア;
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2014年03月01日
機
渡邊大門『信長政権』を読む。
このところ連続して,読み逃していたのを拾い出して読んでいる。これもその一冊。
本能寺の変に焦点を当て,信長政権というものに迫っている。
著者の結論は,
信長の「天下一統」(あるいは戦争)の根幹には自己の権力欲と言う,極めてパーソナルなものがあった。「天下一統」後における展望や構想などがはっきりと見えてこない。…際限なき勢力拡大欲である。
信長の政権はパーソナルなものから出発したが,領土拡大とともに分国支配を配下の者に任せざるを得なくなった。そして,統治を任された配下の大名たちは,一定程度の自立性を保ち,領国支配などを行った。一見して信長独裁ではあるが,実体は多くの配下の大名たちに支えられていたのである。しかし,譜代や一門が優遇されたのに反して,外様は危機感を抱いていた。…荒木村重,別所長治はその代表であり,謀反の危険性は絶えず内包していたのである。意外と政権の基盤は,脆弱であったと言えるかもしれない。
と言う。そして,信長の対室町幕府,朝廷に対しても,それを潰そうとか,変えようとかとする姿勢はなく,
温存しながら自らの権力を伸長しようとしていた,
とみる。たとえば,義昭と交わした五カ条にわたる条書には,第五条に,
天下静謐のため,禁中への奉仕を怠らぬこと
を,義昭に求めている。著者は言う,
信長にとっての天下とは,少なくとも朝廷と幕府との関係を抜きにしては語ることができなかった。しかもその政策は意外なほど保守的である。
その意味で,本能寺の変の朝廷黒幕説はほとんど意味をなさないし,変後の光秀の行動を見る限り,突発的に決断したとみるのが妥当だ。
与力であるはずの,しかも娘婿でもあり舅でもある細川藤孝・忠興,筒井順慶が加担しなかったばかりではなく,摂津の,高山高友,中川清秀,池田恒興といった有力武将は誰一人積極的に加わらなかった。
光秀は,髷を切って出家した細川藤孝・忠興親子にあてた手紙が残っているが,そこでは,
摂津の国を与えようと考えているが,若狭がいいならそう扱う,
私が不慮の儀(本能寺の変)を行ったのは,忠興などを取り立てるためである,
等々と哀願に近い文面である。ここに計画性を見るのは難しく,著者が,
光秀が本能寺の変を起こしたのは,むろん信長がわずかな手勢で本能寺に滞在したこともあったが,他にも有力な諸将が遠隔地で戦っている点にも理由があった。彼らが押し寄せるまでには時間がかかると予測し,その間に畿内を固めれば何とかなると思ったであろう。こうした判断を下したのも,変の結構直前であったと考えられる。
と言うとおりである。しかし,
周囲の大名が積極的に光秀に加担しなかったところを見ると,光秀の謀反には無理があり,秀吉のほうに利があると考えたと推測される。
状況を見る限り,もともと無理筋の計画だったというほかはない。ところで,その光秀であるが,著者は,
これまで光秀は(室町幕府の)外様衆・明智氏を出自とすると考えられてきたが,それとは程遠い存在と言える,
のではないか,と名門の出自に疑問符を投げかけている。
つまり,幕府外様衆の系譜を引く明智氏ではなく,全く傍系の明智氏である可能性や,土岐氏配下の某氏が明智氏の名跡を継いだ可能性も否定できない。
と。つまりは,どこの馬の骨かははっきりしないということだ。だから,
いずれにしても当時の明智氏は,全くの無名の存在であった,
ということになる。だからこそ,変の直前の家中軍法で,
既にがれきのごとく沈んでいた私を(信長が)召し出され,さらに多くの軍勢を預けてくださった,
と,光秀自身が書いているのは,重みのある言葉なのだ。
光秀どころか,秀吉,滝川一益等々,信長家臣の多くは,氏素性のはっきりしないものが多い。著者は,高柳光壽氏の,
光秀の性格は信長に似ている,
を引き,こう付け加えている。
ちなみに秀吉も庶民派的な明るい性格のイメージがあるものの,実際は真逆であった。秀吉は戦場において磔刑を行い,抵抗するものには厳しい罰を科した。(中略)高柳氏が指摘するように,信長がこうした「アクの強い人物」を好んだことには注意を払うべきである。
主人は凶暴だが,部下もまた,それに似た凶暴な人物が集められている。つまり,世上言われるほど,光秀が,名門土岐氏出身の知識人というわけではないということだ。そういう先入観を取ってみれば,目の前の天下(ここでは中央すなわち畿内と意味)取りの千載一遇のチャンスを逃すはずはない,のではあるまいか。
参考文献;
渡邊大門『信長政権』(河出ブックス)
今日のアイデア;
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2014年03月03日
総括
谷口克広『信長の政略』を読む。
著者は,労作『織田信長家臣人名辞典』をまとめた,市井の歴史研究家である。僕は昔から,結構ファンで,『秀吉戦記』『信長の親衛隊』『織田信長合戦全録』『信長軍の司令官』『検証本能寺の変』『信長と消えた家臣たち』『信長の天下所司代』『信長と家康』等々,ほとんど読んでいる。
本書の動機について,
『織田信長家臣人名辞典』という本が,私の実質上のデビュー作である。出されたのが1995年…その18年間に単著だけで20冊近くも信長関係の本を書かせていただいた。(中略)ただそれら20冊近い著作を振り返ってみて気が付いたのだが,信長について総括した概説書が一冊もない,
という「信長の政治の総括」,いわば,政策全体の概説というか評価というのが本書である。
で,
外交と縁組政策
室町幕府と信長,
朝廷と信長,
宗教勢力と信長,
という周囲との政略と,
信長の家臣団統制
信長の居城とその移転政策
信長の戦略と戦術
という統一選へ向けた政略と,
土地に関する政策
商工業・交通に関する政策
町に関する政策
という民衆統治に関する政策とで最後に総括につなげていく。
朝廷との関係にしても,室町幕府との関係でも,それを破壊するという革命性は薄い,と著者は言う。
信長にとって,律令制の官位というのは,名誉栄典として利用する以上のものではなかったと思う。天正三年十一月の権大納言兼右大将任官は,追放した足利義昭(権大納言兼征夷大将軍)を意識したものだったと思われるが,その後…拒否の姿勢もない代わりに,猟官運動の跡などまったくない。…信長自身の政治的地位は,官位体系とは別次元に存在していた…と(いうのが)正鵠を得た表現といえよう。
そして,足利義昭との関係も信長には義昭を排斥するつもりはなかったようで,人質の子息義尋も殺していない。
著者は,吉田兼和の『兼見日記』にある兼和との対話で,自分の天皇や公家の評判を聞いている信長の様子から,
将軍と対決しようとしながらも,その正義の拠りどころを天皇に求めようとしている信長の姿,また京都にいる貴族や庶民の中に形成された世論をも気にしている信長の姿が浮かび上がるであろう。
そして,
信長ぐらい世間の思惑=世論を気にした為政者はいない,
と言う。
いわゆる,楽市楽座も,別に信長が嚆矢とするわけでもないし,信長が座を安堵しなかったわけでもない。いわゆる兵農分離は,直属の馬廻衆ですら,安土城下での出火騒ぎで,家族を尾張の領地に残したままであることが露見したくらいで,意図とは別に,徹底できていたとは言えないようである。
当然検地も,太閤検地と比べようもなく,
荘園制の特性である重層的で複雑な収取権を否定しきっていない,つまり,中間搾取の形を残してしまっている,荘園領主と妥協した政策を展開した,
と。また,安土城をみるように,近世の城郭の端緒をなすものとの位置づけがなされてきたが,
防御機能はほとんど顧みられず,政治・経済の中心としての役割を置いた白とみなされてきた。だが,惣構えの土手の発見により,
少し様相が変わってきた。近世の城に惣構えなど存在しない。いわゆる戦国自体特有の惣構えのある城,ということになると,安土城の位置づけも変わってくるのである。
しかし,にもかかわらず,著者は,革命児には当たらないが,こう総評する。
信長は現実家なのであり,その基調は合理性にある。だから,「合理的改革」と呼ぶのが最も相応しいのではあるまいか。仮に本能寺の変で倒れず,いよいよ信長の下で統一政権が発足したならば,その改革は次々と成就していったものと思われる。(中略)信長は,途中で倒れるけれども,その成果は時代の豊臣政権,更に徳川幕府へと受け継がれていく,
と。そして,「たら」「れば」で,もし本能寺の変がなければ,四国,九州,東北が,軍門に降るのは,
おそらく三年ほど。五年とかかることはなかった,
と著者は推測する。
参考文献;
谷口克広『信長の政略』(学研パブリッシング)
今日のアイデア;
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