2013年01月19日

掛け合うことで奥行きが増す~トークライブに参加して


先日,第1回 高田稔×飯塚和秀 月例トークライブ「ビジネスセンスを磨く為に今、実践すべきこと」に参加した。お二人の話を聞く機会は,前にもあったが,今回は,掛け合いのトークによって,別の面白さを発見したので,そのことから書き始めてみたい。

通常,講師が話をする場合,テーマに即して講師が用意したストーリーを,話の巧拙,面白さの良し悪しは別として,一本の筋で話していく。もちろんふんだんに,聞き手と対話していく場合,質疑の中で膨らませられる場合もあるが,対話式のトークライブの場合,講師が自分の問題意識で話し出したことを受けて,相手役が自分の関心で,さらに突っ込みたいところや,例示や例えを変えると,講師側も,それに引き出された関心領域や問題意識を示しながら,少し,最初の話からずれながら,話が進んでいく。
こういうキャッチボールの面白さは,二人の人が同じテーマ,同じ例題を話しながら,それによって自分の中から引き出されるものが微妙に違うし,見ている視点も少し異なる,あるいは同じ例示を示しながら,見えている光景は違っているかもしれない。そのライブ感覚が,フリーセッションに似て,増幅される感じになると,面白くなる。

その意味では,どちらかに正解があるというよりは,その微妙にずれたり,噛み合ったりするものと,聴講側も,頭の中でキャッチボールしながら,考えていく。公開の対談に似ているようだが,どちらかというと,対論に近い,噛み合いながら,テーマをそれぞれ側の関心と問題意識で支え合って,(聞き手から見ると)そこで別の結論が見えたりするのが面白い。ここで結論を出そうとはしているわけではないけれども。

さて,これに参加した直接のきっかけは,「ビジネスセンス」という言葉だ。

センスは,その良し悪しは,たとえば仕事の仕方ひとつとっても,日々の徒ごとのこなし方,ちょっとした提案の仕方,アイデアの出し方,物の言い方,上司との接し方等々,すぐに感じさせるものがある。それは日常の場面でも同じで,人との付き合い方,料理の選び方,着ているものそのものと着こなし方,しゃべり方,何気ないしぐさ・ふるまい等々,何をやっていても,いろんな場面で,センスのいい人というのはいる。

それは,努力でカバーできるのか,例えば,勉強したり体験したり,情報に接する機会をたくさん作る,といったことで,ある程度研ぐことはできるのか,そう問いを立ててみると,どこかに天性の部分もあるかもしれない,と少し諦めたくなる類のものだ。自分はそういうものがないほうだと諦めているので,それがどこから来るか,いつも気にはなっていた。

辞書的には,「センスがある」と言えば「判断力が優れている」「物の微妙な見極めができる。」「感覚が優れている」「細部の違いまで理解できる」のような意味で使われるらしい。

似た言葉に,筋がいい,という言葉がある。辞書的には,可能性,潜在能力,将来性を指す。確立として,あるレベルに達するということを,「(まだ)荒削りだが‥‥」,という言い方をする。別に将来が保証されているわけではないが,呑み込みがいいとか,覚えが早いとかといったニュアンスだ。ここも,要領がいいというのとはちょっと違う,「センス」に関わるところのような気がする。

もう一つ,勘,という言い方がある。直観,直覚とも言い換えられるが,これは,経験と知識から,事態をパターンでとらえる,というのが近い気がする。勘がいいというのは,同じ経験をしていても,微妙に抑えどころが違っている場合があることを指している。不思議と勘所を外さない人というのはいる。ここにもセンスによる差がある気がする。

たとえば,どんなことも,経験しただけでは,ノウハウやスキルにはならない,という。その意味はどうそれをメタ化するかにかかっている,ということらしい。しかし,同じ経験をしていても,何をそこでつかむかは,その人のセンスにかかっているところがある。コツというかツボというか,抑え所を外さない人が必ずいる。

だから,ある面では,天性のものがある気がする。

しかし,美術や陶芸,あるいは骨董もそうだが,よく一級品を観ること,というのは言われているので,全くの天性というよりは,経験を積み重ねていることで,筋が見える,少なくとも眼力は,ピンキリはあるにしても,ついてくるもののようにも思う。だが,誰もが努力すれば,イチローのようになれるわけではないし,優秀な目利きになれるわけでもない。

それは,「ビジネスセンス」といった場合にもある程度当てはまる。基本の一歩は,ビジネスの原理原則の修得と,ビジネス環境を見る目がいる。ある程度,知識とともに,経験,とりわけ時代状況とその変化をつかむための情報集収集がいる。いまの時代で勝ち残っている企業の商品やサービスをよく見ることで,目を肥やす,この場合だと多くの情報をつかんでみることはできるかもしれない。

しかし,それは勉強であって,直接センスにはつながらないのではないか,という危惧がある。

その場合鍵になるのは,本ではないし,新聞のような二次情報でもない,ましてネットでもない気がする。肝心なのは,なにより,人のような気がする。マイケル・クライトンが大事にするのは人から聴く話だそうだが,直接間接を問わず,いろんな人に接してみること,まずは,当代の売れっ子をウォッチしてみることだ。そこで,どういう判断をしているか,自分なりに筋をつかむ。そうやって,筋を外れない,勘違いのないエリアにとどまれるようにするにはどうすればいいかをフォローする。もちろん真似でいい,徹底的に,○○流を会得してしまうのが悪くない。ただ,守破離の,「離」が出来なければ,第二の○○でとどまる。亜流ではだめだろう。たとえキリでも,自分のものにしなくては。

定石という言葉があるが,ビジネスの定石というと,少しセンスには届かない。「定石を覚えて二目弱くなり」という言葉があり,真似であれ,覚えたものであれ,会得したものであっても,知識や経験は,それを金科玉条にしてしまうと,機能的固着に陥る。いわゆる固定観念になる。時代の動き,時代感覚,現場感覚で,「おかしい」「そうではない」と感ずるかどうか,このあたりにセンスの意味がありそうだ。

「定石は覚えて忘れよ」という言い方もするのは,碁盤上は千変万化,その現場での感覚を重視しなくてはならない,という意味なのだろう。定石を,状況の変化で変わっている,どこが変わっているのか,という問題意識で,それを変えていけたら,ピンのセンスというところなのだろう。

たとえば,この日学んだ例でいえば,

【AIDAM】
Attention
Interest
Desire
Memory
Action

【AISAS】
Attention
Interest
Search
Action
Share

【AMTUL】
Attention
Memory
Trial
Utility
Loyalty

こういうマーケティングの基本の流れを学んだとして,そのままではたぶん頭の片隅に入るだけだ。知識を学んでも,センスにはなっていかない。

大体が,センスは,30代40代でないと,時代そのものについていけなくなっている,という。というより,50代60代では,時代の中心にはいないのだから,当たり前だろう。どうしても過去の価値や経験を覆す経験やモノの見方を身に着けることが難しくなっている。というよりも,仮に時代についていけても,どうせ付け焼刃,今までの考え方を変える視点や発想は取りにくい。変化に心底から驚くのではなく,それに抵抗したり,反発する方が強くなっている。

無理を承知で,それでもなお,出来上がった自分のものの見方を,変身・脱皮していくには,ものすごいエネルギーを必要とする。それができる60代は,相当なものだが少数派だろう。自分の成功体験を手放して,再度ゼロからチャレンジし直すつもりでないと,新しいものの見方を自分のものにするのは難しい。

そこで,現代に使えるビジネスセンス磨きの基礎編を,自分(60代)向けにまとめてみるなら,次の五項目になる。

①モデルを選んで,その眼を借りる
この場合,知識や学説のものの見方の他に,人のものの見方もある。

たとえば,AMTULが最新モデルとすれば,その知識の眼を借りて,いま,
Attentionは何か,
Memoryは何か,
Trial は何か,
Utilityは何か,
Loyaltyは何か,
のそれぞれを指針にして,売り方やサービス,商品をみてみる。
当然,○○という人をモデルに,その人ならどう見るか,その人の見識・眼力に仮託して,ものをみてみるというのもある。

②まずは,ウォッチング,トライアル
なぜ,あのやり方は成功しているのか,あの店は繁盛しているのか,成功例をできるだけ,身体で体験してみる。行ってみる,食べてみる,使ってみる等々。さらには,それに関する情報を拾ってみること,そういう人が話したり,しゃべったりする機会があれば聞き逃さないというのも含まれる。

③問題意識をもつ
疑問と言い換えてもいい。なぜ,お試し期間」があるのか,何でポイントカードがこんない何種類もあるのか,何でもいいが,ちょっと疑問に思ったら,その意味を考えながら,自分なりの答えを出す。性急に正否を出すのではなく,自分の答えとして,とっておく。それはどこかで,現実にそれをどう考えているかを聴く機会はある。それまでどんどん貯めておく。答えを急がない。たとえば,マックの競争相手は誰か,立ち食いソバの競争相手は誰か,コンビニの競争相手は誰か等々もいい。

④人とキャッチボールをする
自分だけで自己完結させていても,発展はない。自分の疑問,問題意識,観察は,機会を見ていろんな場で,質問したり,キャッチボールしたりしてみる。それ自体が情報交換であり,情報収集であり,周囲の人のネットワークになり,センスをまねたり,学ぶ場にもなる。

⑤仮説を現実に当てはめる
たとえば,自分の強みと相手のニーズがベン図の重なりになっているのが,自分のビジネスモデルの基本だとしたら,自分が今から商売を始めるとして,自分の強みはそもそも何なのか,そのレベルはとうか,それがいまの時代の人の誰に使えるのか,正しいかどうかは別として,それを仮説として,現実にそんなユーザーがいるのか,その眼でいまの時代を観る。5W2H(why,what,when,Where,How,How much)であてはめてもいい。「誰」を想定してみるのもいいし,どんな場面,どんな機会,どんなとき,と思考実験してみるのもいい。現実に確かめる機会はここでも有効だろう。

しかし,これをやったらセンスが身に付くとまでは言い難い。同じことをやってもツボを外さないセンスのいい人はいる。しかし,まあ,いまの時代とビジネスを観る視角は得られるだろう。まずはそこからだ。が,若いからこそできることかもしれない。脳のキャパがあると言っても,老人にはこれは相当きついかも……。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#5W2H
#マーケティング
#ビジネスセンス
#勘
#筋
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#AISAS
#AIDAM

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2013年03月29日

自分を認める



「第3回 月刊☆西澤ロイ コトバの宇宙を巡るトークライブ」に参加した。

https://www.facebook.com/events/497115303659783/

今回のトークテーマは「質問力」。コーチングにおける,質問については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10977211.html

で触れた。

最初に焦点になったのは,いわゆる疑問,質問,当たり前を当たり前としない,ということだが,次第に,自分への問いかけ,声掛け,問いかけ・投げかけにシフトして,自分をどう認知しているかに焦点が移った。これを質問力と呼んでいいかはわからないが,コーチングでは,

脳は,問われた答えを自分の中に探そうとする,

という。その問いが,「何かいいところはありますか?」と問われれば,いいところを必死で探す。逆に,「何か問題がありますか?」と問われれば,問題を必死で探す。同じように,抽象的な問いなら,抽象的に,具体的なら具体的に,問われたことを鏡として,自分の中から答えを出してくる。

ということは,プラスの問い,いい問いをすれば,いいことをいっぱい脳は探してくる,ということになる。

その言葉レベルの問い(あるいは投げかけ・問いかけ)が葉とすると,

枝が思考で,
幹が考え方で,
根がパラダイム,世界観,

とたとえることができる。仮に「弱い自分」を変えようとして,トレーニングしたり,勉強したりしても,自分の世界観(自分は弱い人間だ)が変わらなければ,どんなにトレーニングしたりしても,「弱い」自分はそのままだと,何かにしくじれば,「やっぱり駄目だ」ということになる。むしろ,「弱い自分」を認めてしまうことだ,とロイさんは言う。弱い自分を受け入れてしまうことで,弱さに執着することがなくなる,という。

それは一つの考え方だと思う。顕在意識は3%,潜在意識は97%という。自分の中の弱さそのものを顕在化し,それと向き合う,それと対話する,というのが,そのやり方にひとつになる。

しかし,別の切り口から考えると,「弱い」自分を鍛えるために,その答えを外に求めているからではないのか,ともいえる。トレーニングや勉強してそれを克服しようとするのは,その克服する武器を外に探している。正解がどこかにあるのではないかと,外へ探す。本を読む,識者に聞く,講演を聴く,勉強会に参加する,その手の答え探しは,自分探しを外へするのと同じく,徒労に終わる。まず,自分の中に,自分の経験とリソースの中に,探さなくてはならない。答えは自分の中にある。自分の中にしかない。

自分の中に,それを克服する方法は,二つだと思っている。

まず,「弱さ」と丸めた言葉レベルのレッテルを剥がして,その実態を具体化することだ。弱さというのは,何を指しているのか,行動レベル,在り方レベルで,何がどうなっているかを明確にすることだ。ひょっとしたら,「弱い」と,相手や誰かに言われたのをそのまま使っているだけかもしれない。

そこで,第一は,その具体的な自分の実情を,はっきりさせる。

強い奴に喧嘩で勝てないことなのか,
いじめられても言い返せないことなのか,
うじうじとなきごとを言っていることなのか,
他の誰かを殴れないことなのか,
弱いものをかばって助けてやれないことなのか,
先生や親にいじめられている事実をきちんと言えないことなのか,
是は是,非は非ときちんと言えないことなのか,

具体化することで,自分が何をすればいいのかが見える。何をしたいのかが見える。それは,強弱ではなく,

自分が立つべき軸,依って立つべき位置がはっきりしていなかったことなのかもしれないし,
自分が何におびえていたのかがはっきりするかもしれないし,
自分が戦うべきものが相手なのか自分なのかが見えてくるかもしれない。

後は,何をするかの決断と決意だ。そこまでわかっていても,何も決断できなければ,自分で自分を弱いと決めつければいい。そして,「そうか,いまは,それができない自分なのだ」と認めればいい。

ただし,「いまは」という限定を付けるのを忘れてはならない。そうしないと,「そもそも」「永遠に」「死ぬまで」弱い自分と認めてしまうことになる。

いまひとつは,その実情を,強者や勝者の視点ではなく,ただ事実として,その意味を再評価する。いわゆるリフレーミングする。「弱い」には,「強い」が是として,非を鳴らしている視点がある。しかし,本当に「弱い」の中身,ラベルを剥がした中身は,「非」とされるべきことなのか。

人をいじめたり,殴ったりできない優しさかもしれない,
人からの非難や咎めを自責として受け入れる素直さなのかもしれない,
どんなにいじめられても殴り返さない寛容さかもしれない,
自分を追い詰めていくことで周囲に非を鳴らさない責任感かもしれない,
自分でとことん考える思考の忍耐強さかもしれない,

それは,「弱い」というラベルの中にある,自分のリソースなのではないか。そう思った瞬間,それを強化することを,方向転換として志向するようになるかもしれない。

大事なのは言葉のレベルではなく,言葉が丸める前の現実の方だ。そこに,突破する方向が示されている,と思う。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#顕在意識
#潜在意識
#言葉
#丸める
#ラベル
#パラダイム
#世界観

posted by Toshi at 04:40| Comment(184) | トークライブ | 更新情報をチェックする

2013年06月01日

作家と作品


先日,竹山貴さんの【第2回 アートの世界から学ぶ本当の価値の見つけ方】に参加した。

http://www.facebook.com/home.php#!/events/232459216896334/

一番関心のあったのは,作家と作品の関係だ。すごくわかりやすい言い方をすると,アートディレクターとして,

天才的な作品を描くが,人間が信じられない人



作品は△だが,人間が信じられる人

がいるとすると,どちらを取るか,という設問が出された。竹山さんの答えは,心中してもいい作品があれば別だが,一応チームワークだ,といい,

「作品にハッとさせられる」があって,人として◎なら,その人と付き合う,

であった。「自分のやっていることを研鑽し,こつこつやる努力型が好きだ」とも。

要は,そういう人と付き合いながら,

作品と作家はセット

作品を売っているようで作家を売っている

ということになる。

が,僕は,そうではなく,誰がやっても売れる作品を描く人が,そうはいないだろうが,いるとしても,それは誰がやっても売れる人だ。「竹山貴」という人間が,自分にしか見つけられない作家と作品に目をつけ,育てて,売れる作家にする, その醍醐味の方に,魅力を感じている,というように感じた。「チームワーク」という表現には,そういうニュアンスが含まれている気がした。

無論そうしなければならないような状況や背景はあるにしても,ディレクターとしては,まだ原石の才能を見つけ,それを一緒に育てていく,というところに,自分の自負と矜持と楽しみがあるに違いない,と感じた。

だからこそ,

その人の何を見るのか,その人に何を考えて生きてほしいのか,

が,作品の前にある気がする。これについては,前回も,生きざまをみる,ということで話が出たが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11152009.html

「意識して生きる」ということだ。ここは,いろんな異論もあるところだが,人と違う作品を描くためには,人と違う着眼を磨く必要がある。あるいは人と違う自分を見つけなくてはならない。自分の持つわずかな差異を広げなくてはならない。それには,漫然と描くのでも,漫然と考えるのでもダメだ,まして漫然と生きるのではだめだ,というのはよくわかる。

人との差異は,たぶん,天才を別とすれば,ほんのわずかな違いだ。まず,自分のそのわずかな差異を自覚しなくてはならない。いわゆるのびしろとは,この「差」,違いのことに違いない。

ベイトソンではないが,「情報とは差異である」。その差異を気付くには,人の作品を見るにしろ,本を読むにしろ,物を見るにしろ,物を考えるにしろ,自分がどういう反応をするのか,何に反応をするのか,それは人とどう違うのか,その自覚から始めなくてはならない。そこにしか,自分のリソースはないからだ。人の真似をするのも,真似し切れず,寸足らずか,はみだすか,オーバーするか,未達か,そこに,自分の特徴を見る。守破離の「守」はその意味で,寸足らずな(それはマイナスではない,特徴と見なくてはならない)おのれの発見プロセスでなくてはならない。

その努力はどういう方向でするのか。「間違いのない方向性」というとき,それはやり方であるよりは,何のためにその努力をしているかが,問われている,と感じた。

「やりたいこと」がはっきりしているとき,技術を磨くのは,そのための方法として明確だからいいが,それがはっきりしていない時に,技術だけ磨くのは,作品としてつまらない,というような言い方をされたのは,「やりたいこと」をするための手段としてではなく,技術そのもののアップを目的化する,という意味なのだろう。まず,自分ありきであり,まず自分の描きたいものありきなのであり,その中で,自分の力を出し切って,自分にしか描けないものを描き切る。それを10年と言われた。いわば,修業時代は,それだけの期間しかないともいえる。

10年一剣を磨く

という。10年というのは一つの節目なのだろう。いわば,そこで自分が試されている。そこまで自分を賭していく覚悟が問われている。

もちろん作家本人だが,見届ける竹山さんのそれでもある。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#竹山貴
#作品
#作家
#修業時代
#ベイトソン
#アートディレクター
#チームワーク

posted by Toshi at 05:30| Comment(2) | トークライブ | 更新情報をチェックする

2013年08月01日

目的


先日,【第7回 月刊☆西澤ロイ 人生を変えるコトバの宇宙トークライブ】に参加した。

https://www.facebook.com/events/317173241750276/

テーマは,「目的」。

ロイさん曰く,

目的とは,自分がエネルギーが出るもの,

と。目的はタイムレス。目標はタイムリー,言ってみると,道しるべ。測れるということだ。例のSMART,

①具体的(Specific 個別性,特定性)何かが明確であること,「何が」が特定されていること
②測定可能(Measurable 計測性,検証性)量で測れること,あるいは後から検証可能であること
③達成可能(Achievable 実現性)現実的で,達成には特別の努力を要するものであること
④重要性(Relevant 有意味性)その目標達成が,目的達成にとって意味がある(寄与できる)こと
⑤具体的な期間(Time-bound 期間限定性)達成期間が限定され,期限が決まっていること

といったりする。頭文字に,いろいろなバージョンがあり,コーチングのCTIでは,RをResonant(エネルギーが動いている),TをThrillingとしている場合すらあるので,他の言葉をあてる例もある。

ま,ともかく目標は,明確かつ具体的ということらしい。で,

目的は,大きい,ちいさい,

目標は,近い,遠い,

ということで,「目的」というとわかりづらいが,「志」「使命」「ミッション」と言い直すと,受け入れやすいイメージになるようだ。そして,

それを受け止めて生きるためには,自分をまず受け入れる,

という「自己受容度」にかかっている,ということに落ち着いた。

ただ聞いていて,目的と目標を,僕なりに整理し直すと,

目的――手段

という枠組みがまずあり,それに,

目的――目標

使命(ミッション)――役割

戦略――戦術

という,それに当てはめた応用編がある,というふうに考えたほうがわかりやすい,と感じた。

目的――手段
は,目的の下に,手段がいくつかぶら下がったツリーをイメージする。相対的だから,手段の下に,更に下位手段がぶら下がる。下位手段から見ると,上の手段が目的になる。目的は,下位手段から見ると,目的の目的になる。当然目的の上に上位目的があり,上位目的から見れば,目的は手段になる。

手段を目的化するとは,目的達成のための手段に過ぎないものが,目的化して,そこで完結してしまうことを言う。戦争は,一つの手段だが,敵との交渉の失敗の結果でしかない。「戦わないことが最高の戦略」というロイさんの言は,その意味では,最終戦略の失敗が,戦争を目的化してしまった,政治の失敗を意味しているからだ。

閑話休題。

で,目標は,目的達成の手段だが,目的は,目標から見たら,「目標を達成したら何を実現するのか」というのが目的になる。それを次々上位へ登っていくことができるが,たぶん,最後は,企業の理念と年次目標の間ほどに,ギャップがあるかもしれない。その意味では,遠い将来(タイムレスに)実現したいビジョン(理念を遠い時間軸の果てに具体的にイメージ化したもの)となっていくかもしれない。

正確に言うと,ミッションは,いまの任務や役割の上位目的として,遡っていった先に見えるものなので(逆にミッションが先にあって,そのために自分が何をするか,とブレークダウンさせてくるということもある),目的――手段という枠組みから見ると,目的――目標とは,微妙に違うが,一人の人の中のことなので,

いまの自分の目指しているもの(目標)――それによって実現しようとしていること(目的)

いまの自分のやらなくてはならないこと(任務・役割)――それによって実現したいこと(使命)

と,並べてみると,そこが自分の中で重なることはあり得る,とは思う。

いずれにしても,そこで必要なのは,

いま自分は何をするためにそこにいるのか,

そのためにいましなくてはならないことは何か,

そのために自分にできることは何か,

という問いが必要なのだろう。その前提が,

自己受容,

なのか,

自分の意味づけ(旗と僕は呼ぶ)

なのかは,次回の課題のようだ。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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posted by Toshi at 04:29| Comment(3) | トークライブ | 更新情報をチェックする

2014年02月08日

決断



先日,「第7回 アートディレクター竹山貴のガチンコ人生!!!月例晒し者にする会」

https://www.facebook.com/events/258508767648683/268877603278466/?ref=notif¬if_t=plan_mall_activity

に参加してきた。久しぶりにトークライブを聴かせていただいた。そこで話されたことのほとんどは,あまり詳細にはここで語れないことがあるので,僕なりに受け止めたことを,整理してみたい。

キーワードで言うと,

決断,

チャンス,

ということだ。僕は,ほとんどの意思決定は,直観だと,どこかで読んだ記憶があるし,体験的にもそんな気がしている。未知のこと,未来のことを決定する以上ロジカルな筋だけで,決断ができるとは思えない。確かに,時間をたっぷりかければ,シェルの例のように,シナリオライティングによって,いくつかのありうる未来を選択肢として提示することはあるし,現に,シェルは,確かそれで石油ショックを乗り切ったのだと聞いているが。

まあ,一般論は言い,何かを瞬時に決定する,そのとき,何が決め手になるのだろう。

竹山貴氏は,

やれる感,

というような言い方をされた。それが僕にはよく分かった。

それは,まさに直観なのだが,ひとは,(三年位と見ているが)ある程度仕事に習熟すると,仕事のスムーズな感じ,うまくいっている感がわかる,そして,逆に,そのいつものスムーズ感があるから,変だなという感じ,微妙な違和感を感じることがある。言葉では言えないが,その感覚を,僕は大事にしている。

人は,別に頭だけでモノを考えているのではなく,体全体で考えている。感じ取っている。その体感覚,皮膚感覚は大事だと思っている。

それが,新規の仕事,未知の案件に遭遇したときも,働くような気がしている。それは,ヤマ勘ではあるが,丁半の
博打とは違う,経験と知識とに裏打ちされた直観なのだと思っている。

直観は,パターン認識である。自分の経験の中から,(ほとんど無意識に)その案件を測っている。経験の全くないことは,その直観が働かないはずである。

そのとき,

なんとなくできる感じがし,

何となく完了している状態が目に浮かび,

自分の使えるリソース片が,ジグソーパズルのように,あてはめていける,

感じがしたら,たぶんできるという感じになる。竹山氏が,決断したことには,そんな雰囲気があったと(僕の勝手な読みだが)感じ取った。当然,リソースの中には,ヒト・モノ・カネ・チエ等々がすべて含まれる。

人の能力は,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)だと思っている。最後の発想が,博打の部分,つまり,何とかなるという判断の部分だ。しかし全くできないことには,パターンは当てはめようがない。

その瞬間に,いろんなことが駆け巡る。でも,僕は思うのだが,一番最初の関門は,

やるか,やらないか,

でしかない。なのに,実は,それをぼやかせる,不安や野心や思惑が,もやもやとわく。しかし,その靄を追い払えば,その択一しかない。そして,やる,と決めて初めて,どうするか,誰の手を借りるかという,Howが具体的に俎上に上ってくる。その瞬間に視界が開ける,といってもいい。

決断は,やるかやらないかの,二者択一しかない。時間延ばししても,その択一は,変わらない,という気がする。

そこで,その案件が,自分にとってどんな意味をもつかが,重要な気がする。

チャンス

と呼べるような機会は,確かにそうそうはない。あるいは,自分の飛躍のチャンス,あるいは,世に出るチャンス。成功するチャンス等々,なんでもいいが,いまの自分の現状から見たら,とてつもない大冒険,大勝負,と言えるものを,逃す人と逃さない人の差は,

自分を信ずるか信じないか,

あるいは,

自分の経験を頼むか頼まないか,

あるいは,

自分の技量を当てにするかしないか,

ではないか。結局決断を後押しするのは,自分の中のエネルギーでしかない。前もってチャンスの準備などできるはずはなく,不意に訪れるそのときに,間髪をいれず,

やる,

と,自分に一歩を踏み出させるのは,自分自身の積み重ねてきた人生そのものでしかない。僕などは,何度も逃してきたので,口幅ったいことはいえないが,たぶん,瞬時に,

やりたい,

と感じたら,心は,すでに前のめりになっている。その自分の心を見逃さず,意志が後追いできるかどうか,なのではないか。理屈では決断できない。

脳は,意志がそう決める何秒か前に,活性化している,という。それに従えばいいのだろう。脳は,意識化できている以上のことを知っている,というのだから。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#竹山貴
#アートディレクター
#決断
#脳

posted by Toshi at 06:55| Comment(0) | トークライブ | 更新情報をチェックする

2014年03月15日

看護師


【第1回 上原春日の知っていそうで意外と知らない「看護の世界」】に参加してきた。

https://www.facebook.com/events/534013656713049/?ref_notif_type=plan_edited&source=1

僕自身入院もしたし,外来は毎月通っているし,母の入院時には,通常の病棟から緩和ケアへ移動し,余命を数えるほどになって,死後に備えてのあらかじめの準備(葬儀社の手配等々)もアドバイスしてもらったり等々で,看護師の方々には結構世話になったし,なっている。その面では,患者としての視点からしか,見ていなかった看護師の方々の話を看護師の方から伺うというのは,なかなか興味深い。

まず,知っているつもりだが,知らなかったのは,

女性だけの世界…

(という下世話な興味に,男性看護師は,2~30人に一人程度だが)ドクターも,技師も男性が多く,女子だけの世界とは思わない,との答えが,一番意外であった。

そういえば,ナースセンターには,男性看護師以外にも,医師がいたり,技師の方がいたり,と確かに男性が結構いたことを思い出す。

いまひとつ関心があったのは,

看護師の仕事のやりがい,

をどこに見つけるか,ということだ。これは,看護師だからといって,皆同じということはないので,この場合,上原さんのやりがいということになるが,

楽しいスイッチ

を見つけることだ,と言われた。いわば,看護師の仕事は,援助職であり,一般化すればサービス業になる。サービスの対象は,病棟だから,入院患者になる。彼ら彼女らが,どうすれば喜んでくれるか,あるいは別の言い方をすると,患者の求めていること(ニーズ),欲していることと,どうマッチするところを見つけるかが,「楽しいスイッチ」の意味することのようだ。

身体を洗うとか体を拭くとか,看護師側が,良かれと思っても,そう欲していないこともある,いや逆に嫌だと思っていることもある,患者のシチュエーションを見極め,その間合いというかタイミングを合わせることで,せっかくのサービスをサービスとして受け取ってもらえるようにする,という意図とも言える。

上原さん本人は,注射や採決のスキルアップそのものではやりがいが感じられず,サービス相手の喜びとリンクして初めて,それがやりがいになる,ということのようだ。もちろん,自分のスキルアップそのものにやりがいを感じている方も結構いるだろう。

僕の知っている範囲では,コーチングやカウンセリングやNLPを学んでいる中に,結構看護師さんがおられた。それは,あるいは,どうすれば,患者とのコミュニケーションや関わりをよりうまくできるかを考えて,勉強に参加されておられるのだろうから,ある意味,上原さんと同様,患者とのかかわりにやりがいの焦点を当てている方は多い気がしないでもない。

専門職の世界だけに,確かに特殊さはあるにしても,組織の中で起きることは,大体起きる。病院という組織の世界で起きていることも,僕は,それほど,他の企業や自治体組織の中で起きていることと変わらないとは思っている。

大きな病院になると,結構研修システムがしっかりしていると聞くし,看護協会も,ステージごとのスキルアップやリーダーシップ研修をしているように聞いているが,それでも,聞くところによると,中堅がごっそり中抜けになっているところが多いという話は,看護師の方から必ずうかがう。

それが,国家資格に守られてたいるので,キャリアアップの転職がしやすいからなの,激務のために転職していくきっかけになるのかは,はっきりわからないが,僕の知っている範囲で言うと,看護師の方々は,多く,まじめで,それだけに,仕事を抱え込む傾向がある。それが,自分を責め,人を責めるきっかけになる気がする。

ここからは,僕の勝手な妄想になるが,

抱え込むということは,ある面,何でも背負い込むという傾向になる。それは,真面目ともいえるし,視野が狭いともいえる。たとえば,何かがあると,個人に起因させる。自分だと,

自分で何とかしなくては,
自分が頑張れば,

と,言ってみると,自分の能力に起因させてしまう,ということだ。基本的に,個々の能力アップの問題は当たり前だし,それぞれの能力アップの,個人として,組織としての努力は必要だが,それは承知の上で,僕は,何でもかんでも,個人の能力に還元させてしまう志向には,賛成ではない。

人に頼むより自分がやった方がいい,
当てにならないなら自分て処理してしまおう,
自分ががんばれば何とか回る

といった意識は,そのまま個々の能力に還元する発想に転ずる。大なり小なり,他の組織でもあるが,看護師の世界は,専門職集団だけに,これが強い,という気がする。しかも,それを自分がかかえこんでいる,抱え込ませているとは,思っていないことが多い。

電子カルテなど,IT化で,フールプルーフの仕組みが進んだ様に見えるが,個人の仕事レベルで各自が,それも仕事のキーマンが,抱え込んでしまったら,そこが,仕組みの脚を引っ張るのではないか。

例えば,コミュニケーション能力だが,個々の能力(伝えるのが上手い下手,親しくなるのが上手い下手等々)の問題にしてしまうと,結局「あいつが悪い」で済ませてしまって,組織としての能力はいつまでたったも,ちっとも変わらない。

最低限,誰がやっても,業務で必要なことは,必ず伝わるし,伝わったかどうかが確認できる,

そういう仕組みやルールを作るだけで,どれだけ無駄な悩みから解放されるか,と僕は思う。

例えば,部下に何かを指示したが,一向報告がない,でやきもきして,あいつは,報連相がなっていない云々という。そうではなく,指示したことについて,その結果報告がないことは,やっていないとみなす,それだけのルールでいい。そのルールが両者でか,チームでか,確認ができていれば,忘れていようが,報告しそこなっていようが,できていないのと同じになる。

つまらぬ例だが,別にIT化が必要なのではない。簡単なルール,取決めレベルで十分なのだ。それを部署レベル,組織レベルまで広げるには,別の仕掛けがいるかもしれないが,簡単な決め事をするだけで,無駄な心労から解放されることはある。

大事なことは,個々の能力に還元しない発想なのである。どうすれば失敗やロスやミスを,少なくするような仕組みはできないか,というふうに考える,本来,フールプルーフやフェイルセーフは,そういう発想のはずである。

だから,中抜けがほとんどの病院で問題になっているとすると,業界全体として,どこかに問題があるのではないか,個々の事情や個々の病院の組織に起因させず,どうすれば,中抜きを減らせるのか,それは,

モチベーションの問題なのか
キャリアとしての看護師の職業としてのあり方に問題があるか,
処遇に問題があるのか,

等々,いずれにしても,僕は解決できない問題はないと思っている。問題は,解決像を,個人レベルにおいているか,看護師レベルにおいているか,病院レベルにおいているか,業界レベルにおいているか,社会レベルにおいているか,それによって動かすべき対象が違うし,ハードルがどんどん上がるには違いないが,要は本気で解決したいと思うかどうかだと思っている。。

さほど内情に通じているわけではないのに,話がずれてしまったか…!



今日のアイデア;
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2014年04月06日

価値創造


先日,【第9回 アートプロデューサー竹山貴のガチンコ人生!!!月例晒し者にする会】に参加してきた。

https://www.facebook.com/events/284161448403734/?ref_newsfeed_story_type=regular

今回から,アートディレクター竹山から,アートプロデューサー竹山に変更になったせいか,絵画のプロデュースに話が及んだが,僕が関心を持ったのは,画家ないし,絵を売り込むというか,プロデュースするというのはどういうことなのか,ということだ。

瞬間に,思い浮かんだのは,

価値創造,

あるいは,

創造価値,

という言葉である。

これは,V・E・フランクルの言う,創造価値の意味ではない。因みに,フランクルは,

創造価値(人が何かを行ったり創造したりすることで実現される価値)
体験価値(何かを体験したり,誰かを愛することで実現される価値)
態度価値(人が動かしがたい運命に遭遇したとき,それに対してとる態度で実現される価値)

を,人の人生における意味の見つけ方として挙げたが,想像がつくように,アウシュビッツを体験したフランクルは,態度価値を重視した。どんな逆境でも窮地でも,生きている限り,態度価値実現の可能性はある,と言うことだろう。

人は死ぬまで可能性の中にある,

実存主義の一つの考え方に違いない。閑話休題。ここで言うのは,その意味ではない。

創造物の価値はどう決まるのか,

ということである。少なくとも,誰にも知られず,秘匿されているものには価値はない。それを欲しい,観たいという人々につなげて,そこで,買いたい,観たいという意味や価値を感じさせて初めて,絵は,世に出る。いや,世に出るとは,そういうことか。

となると,それを観て,

それが優れている,

と感じたとき,その作品(とともにその作家)をどう他の人に知らしめるか,ということになる。

こんな素晴らしい絵を,

あるいはこんな絵を描く画家を,

広く世間に知らしめたい,となる。

というか,いい作品だ,と思ったとき,

いい作品というだけでは,人には知られない,と言うことだ。言い方が変か,こう言うべきか,

優れた作品は,その優れた作品の力だけで,人に知らせる力がある,

というわけにはいかないということだ。僕の中に,ちょっとした幻想がある。

優れた作品は,必ず,いつか日の目を見る,

そのときとところを得て,と。まあ,あくまで夢想だ。そんなわけはない。そうするための努力をする人間がいる,ということだ。

そのとき,それを世に知らしめる人間は,

その作家か,

その作品か,

に価値を見出していなくてはならない。そこで,

これは売れる,

と思うのも価値かもしれないし,

この作家は面白い,

と見出すのも価値かもしれないし,

これは凄い,

というのも価値かも知れないし,

これは破壊力がある,

というのも価値かもしれない等々。いずれでもいいとは言わないが,その価値に応じて,知らしめ方は違うのかもしれない。多くの人なのか,ある一定の個人なのかは,ともかく,

その価値を価値として認める人

とつながなくてはならない。つまり,

見つけた「価値」を,それを「価値」として認める人に,

手渡しする。あるいはつなげる。そこで,価値がうつつの中に顕在化する。当然,認めた価値の中身は,両者で違うかもしれない。しかし,それは,当初見つけた価値より広がっているか,深く穿っているのか,いずれにしろ,それが価値の伝播ということになるのだろう。

となると,知らしめる方法以前に,やはり,

作家,

作品,

に出会わなくてはならない。恐らく,ここが一番難しく,一筋縄ではいかないのだろう。

ここからは,素人の勝手な妄想だが,結局,他の分野もそうだが,昨今,

凄くスケールが小さく,まとまってしまっている,

という気がしてならない。ひと様のことを言えた義理ではないが,素材がどうとか,技法がどうとか,画材がどうとか,はどうでもよく,

書きたい何かがエネルギーとしてわっと溢れ出すような,

破格の絵に出会いたい。

こちらの常識や世の枠や埒や矩を超えた絵,

をこそ出会いたい。そういうものを見極める目利きができるかどうかは,いささか覚束ないが。

ただ思うのだが,そういうパワーというかあふれ出るエネルギーだけは,育てる埒外なのではないか,という気がする。それは,その描き手の人間としての何か,魂(という言い方も変だが)の求めている何か,なのではないか,という気がする。画家が何を求めるかまでは,育てようがない。

求めているもやもやした巨大な何かをキャンバスにぶつける,

そんな絵と観る側をつなげてほしい。

やはり,これは確かに,ディレクターではなく,プロデューサーの仕事である。


参考文献;
國分康孝編『カウンセリング辞典』(誠信書房)



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2014年04月07日

トークライブ


トークライブというのは,

「talk+live」。おしゃべりや対談を中心に構成される催し。トークイベント。

とある。まあ,昔から,対談のような形であったものだが,いまブームらしい。ネットで見ると,

ブームというよりは,文化が定着した感じ。トークライブがやっと認知されてきた。今まではトークをわざわざ見るっていうのが珍しかったけど,だんだん知られて定着していった,

という現場の声があった。

飯塚和秀氏が,電子書籍『普通の雑談』で,主宰しているトークライブについて,その狙い,意図を語っている。

飯塚氏の口癖は,ゲストとの,

ガチトーク,

である。したがって,

当日ゲストと会うまで,ファシリテーター側もゲスト側も,事前準備なしで,
当然資料はない,
トークの展開は,全く読めないフリートーク,

というところが特徴になる,とある。

登壇するゲストは,飯塚氏自身が,選ぶ。基準は,氏の直感,

この方って,なんだかとっても魅力的という,フィーリングだけでゲストとしてお招きする,

とのことで,相手のことをそれほど知らないことも多いそうだ。事前に相手のことを調べないのは,

一般参加者の代表という立場で,

トークを進行する,というこだわりがあるようである。そこで,ファシリ役とゲストだけで参加者を置き去りにしないために,

専門家vsど素人

という構成を狙うのだという。そうすることで,

ファシリテーターが「素人目線」でゲストの「専門性」を引き出していく。そのことで,一般参加者との壁が無くなり,「一体感が生まれるイベント」

に近づく,と。

僕自身も参加したことがあるのでわかるが,他のトークライブで,単なる司会進行役の人がいて,ゲストがほとんどの時間しゃべるというのとは,少し様相が違う気がする。

たぶん,氏のトークライブでは,ファシリテーターとゲストが

半々くらいで,

喋り合っている。氏自身は,これを,例の,タ○リの,友達の○になぞらえて,

雑談,

と表現されている。確かに,雑談ではあるか,それだと,「ガチ」の意味が伝わりにくい。

用意なく,

そのとき,その場で,

の両者の「自分」がぶつかり合う,と言うと大袈裟だが,

出会いがしらのやり取り,

というのが特徴のような気がする。そこが,

ガチ,

たるゆえんだ。

何度か参加者として,参加させていただいた感じから言うと,仕掛けはある。

場づくり,

がうまいと感じる。何を話すかについて,主導権は,トークゲストにはない。ゲストが話したいことを話すこともなくはないが,多く,

何を聞きたいか,

を参加者に尋ねるか,飯塚氏がいくつか挙げたりする。その聞きたいリストに沿って,概ね進んでいくことになる。つまり,

ゲストの話したいことではなく,

参加者の聞きたいこと,それに,飯塚氏自身も聞きたいこと,を加え,劈頭から,参加者側の聞きたいことに焦点を当てるので,参加者とゲストとの壁というか敷居が下がる。そのために,途中で,

質問や突っ込み,

が,参加者も随時入れやすい雰囲気になる。それが場づくりになっていて,

ファシリテーターとゲストのトークではなく,

ゲストとファシリテーター+参加者

とのトークというか,自然なやり取り,つまり,

雑談,

的な雰囲気になる。一方的に参加者が受け身になる,という雰囲気意ではない,(少人数ということも手伝っているかもしれないが)と,僕は感じている。

そうやって話が始まっても,その中身について,確かにゲストが主役なのだが,ゲスト自身の世界を,ゲストが好きなように喋れるわけではない。

どこに焦点をあてるか,

何をもっとふくらませるか,

どう広げるか,

どこへシフトさせるか,

は,多くファシリテーター飯塚氏のイニシアティブになる。あるいは,随時参加者に問いかけたり,参加者が投げかけたりする質問によって,結構曲折がある。当然とんでもない方向に行くこともある。

特に目立つのは,飯塚氏の,ゲストの世界に対する,ある時は,突っ込み,ある時は,ぼけ,ある時は,素朴な質問で,結構細かいところまで,押し広げていく。

そのファシリテーションの鍵になるのは,ご自分の体験である。

ひとつは,ご自分の若い頃の芸能界時代の個人として業界を生きてきた経歴,
いまひつとは,IT企業の管理職というビジネスパーソンとしての問題意識,
あるいは,マージャンやスポーツ(野球等々)といった個人的な体験談,

に引き寄せながら,話を膨らませる。たとえば,

それってこういうことですか,
それって何々に似てますね,
それって自分の何々と同じですね,
それってこういう意味じゃないですか,
いまビジネスシーンではこんなことがあって,それと対比すると云々,

等々。その多くが,メタファーやたとえ話,アナロジーの効果をもち,理解が具象的になることがある。その意味で,

ご自身(の経験)をだし,

にして,意識的に,ご自分の素をさらけだし(?)つつ,ゲストの素を引きずり出していく,というやり取りになっていく。まさに,例えは悪いが,

ご自分の持てるリソースをえさに,ゲストに喰いつかせている,

という感じである。

多くの参加者が口々に言うのように,まさに飯塚氏のファシリテーションあっての,トークライブになっている。だからと言って,それがいわゆる対談のような堅苦しさではなく,

雑談,

の自然さを失っていない。だから,障壁なく,参加者からも突っ込みやすい雰囲気が保たれる。

ここでゲストに語られることは,飯塚氏が引き出さなければ,あるいは,飯塚氏に促されて,参加者が訊かなければ,決して語られることのない話なのだという気がする。

言い方が悪いのだが,本来,

黒子のはずのファシリテーター,

なのだが,どちらかというと,

狂言回し,

に近い。狂言回しは,

物語において,観客(あるいは読み手などの受け手)に物語の進行の理解を手助けするために登場する役割,

端的に言うと「進行役」兼「語り手」兼「語り部」に当たる役割である,

そう,自分のことをだしに,相手の話を引き出し,それをご自分の経験に引きつけて,意味づけたり,例えたり,解釈したりして,

ゲストの世界を,参加者の世界とつなぐ,

そういう役割を果たしているように思える。

確かに,終ったあとは,ゲストの話が残るのだが,考えてみると,トークライブのプロセスでは,それを引き出すために,

対照として,飯塚氏自身の経験や考え方をだしに,というか,それを七色のスポットライトにして,

ゲストの経験・考え方・生き方

を様々な角度から照らし出している気がする。だから,最後に,印象として残っているのは,まぎれもなく,

ゲストの多面的な姿そのもの,

が浮かび上がっているのである。たぶん,飯塚氏がファシリテーションしなければ,こういうゲスト像は描き出されることはない,そういうトークライブになっている。当然,それは,いい意味でも悪い意味でも,飯塚氏(と参加者)の持っているものによって,深度も広がりも制約される(参加者によって,だから場の雰囲気も進行も,中身もかなり変わる)。

その面から言っても,間違いなく,飯塚氏とゲストの

ガチトーク,

なのだ,とつくづく思う。

更に付け加えると,ゲストの面白さを,こういうカタチで,現実化する舞台装置を整える,という意味では,ファシリテーターの顔以外に,

ゲストと参加者をつなぐ,

(飯塚氏の肩書にある)イベントプロデューサーとしての顔も十分機能しているのも,また確かである。。




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2014年04月19日

グレーゾーン


【第15回 月刊☆西澤ロイ~人生を変えるコトバの宇宙トークライブ】に参加してきた。テーマは,「グレーゾーン」。

https://www.facebook.com/events/241564532694632/

参加しながら,あれこれ頭の中を駆け巡ったことを,書き出してみる。

ウィキペディアでは,

日本語として古くから「白黒つかない」「白黒はっきりさせる」のような慣用句が存在する。 グレーゾーンとは,そんな白でも無い黒でもない曖昧な状態をグレー(灰色)と喩え,どちらとも付かない状態のことを指す。 場合によっては「黒(白)に近いグレー」という言い方もし,通常は白が合法・適切を意味することが多い。

とある。

灰色(gray / grey)は物を燃やした際に出る灰のような色,ということで,色の名は,洋の東西を問わず,自然界から取っている。

たとえば,



青竹
茜色
浅葱色
小豆色
亜麻色

と言った具合である。「赤」色には,丹,朱,紅,緋,茜と区別がある。

では,西洋ではと思って,当たると(昔からかどうかは分からないが),

アーモンドグリーン
アイアンブルーJ
アイボリー
アイボリーホワイト
アイボリーブラック

と続く。まあ,色で見る限り,グレーゾーンそのものなのだ。

ただ,グレーゾーンという言葉で,瞬間的に思い浮かんだのは,

墨絵,

いわゆる水墨画である。

「墨」一色で表現される絵画で,墨線だけでなく,墨を面的に使用し,暈かしで濃淡・明暗を表す,

という。灰色といっても,

黒と白の配合の割合の違いで,さまざまな明度を持つ色を作ることができる,

から,グレーゾーンといえども,幅と奥行きがある。

さて,いきなり本題から逸れた。

すべてがグレーゾーン,

というところから話が始まったのだが,まあ,色ひとつとっても,グレーでないものはない。グラデーションには幅がある。たとえば,

われわれの知覚



われわれの認識



われわれの名づけ

とで考えると,よく言われるように,クオリアレベルでは,

同じ赤と言っていても,見えている色が同じとは限らない,

のだが,それに「赤」と名付けた瞬間から,他と区別される。境界線が引かれる。本来主観的には,

丹,朱,紅,緋,茜…

を見分けていても,「あか」と括ってしまえば,



になる。言語は,基本的に,丸めるためにあるから,区別,というか差異を表現するには,差異は,

丹,朱,紅,緋,茜,

と名付けなくてはならない。あるいは,自分の見つけた色に,別途名づければ,いくらでも,

色名,

はつく。それが,社会的に認知されれば,文化の中に定着する。

藤田嗣治の乳白色

も,名はついたかどうか知らないが,それ自体が,代名詞になる。

僕は思うのが,画家なら,色づけだが,われわれ一人一人が,言ってみると,20万年前のアフリカのミトコンドリア・イブから始まった,

ハーフのハーフのハーフの…

という,いわば

グレーゾーン,

そのものなのだ。ナチスの優生学が噴飯なのも,ヘイトスピーチが滑稽なのも,わずかな,

グラデーション

でしかないところに,無理やり境界線を引こうとするところにある,まあ,

目くそ鼻くそ,

の類なのである。また,話がそれた。

で,たとえば,

白と黒

を便宜的にグラデーションの両対極に置いたとき,しかし,

100%の反射率を持った「理想的な白色」の物体は実在しない,

反射率50%の灰色は,視覚的には黒に近く見える,

と聞くと,すでに,「白」も「黒」と,便宜的に対極に置いたものも,

グラデーションの切り取り方,

次第と知れるのである。

思うのだが,その場でもいったが,実は,

グレーゾーン,

という自己認知があるとき,それは,たとえそれ自体がグラデーションを切り取ったものにしろ,

両極が見えている,

ということなのではないか。たとえば,グレーゾーン=曖昧,と認識しているとしても,

両極が見えているから,そう感じるのだ。問題は,

萌黄色と若草色

という黄緑色の狭い両極なのか,

白と黒

の両極なのかは,その人のものの見方の幅,パースペクティブに圧倒的な差が出る。

何かに偏り始めたら,そのグラデーションの両極を意識すれば,少なくとも,

視野狭窄

に陥ることは避けられるだろう。




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2014年05月16日

プロ


先日,【第7回 女流漫画家 渡邊治四から学ぶキャリアアップのために必要なこと】に参加してきた。

https://www.facebook.com/events/267242173453374/

最後ということで,結構参加者からいろんな突っ込みがあったが,その中で,僕が気になったのは,かつてアシスタントをされていた,ある売れっ子漫画家が,何が受けるか,を考えて,

その感覚(あるいは嗅覚?)を具体的に落とし込んでいく,

というようなニュアンスのことを言われた。

そこが結構引っかかった。僕は,どんな仕事でも,

自分に解決できる形に置き換える,

こういうカタチになら出来る,と常にどうすればできるかを考える,

という姿勢が大事だと思っていて,それを,僕流に自責化と呼んでいた。

それを思い出したのだ。駆け出し時代は,やりたいことなどやらせてもらえない,というか本当に自分がやりたいことなど分からない。そんな中で,やりたくないこと,難しいことを,一つ一つクリアしていく中で,会得しなくてはならないことがあるように思う。それは,どんな仕事でも,自分流儀に捌いていく,捌き方を手に入れるということだ。それをすればするほど,自分のリソースが増える。あるいは,

得意のフィールド,

と呼んでもいいが,それが広がる,あるいは深まる。その経験が,まったく新規の仕事をする時の,そのひとのベース,というか,取り組み姿勢,取り組む身構え,になる。人によって違うかもしれないが,

やったこともないテーマや課題を与えられたとき,自分の中でどういうカタチならできるのか,できないところではなく,自分の出来ることに置き換えていく,

それで,おおよその仕事の枠組みが見える。例は違うかもしれないが,その売れっ子漫画家のやっていたのは,

世の中の売れ筋を,自分のフィールドに置き換えてみていた,

のではないか,と思う。

僕は,プロとアマの違いは,ここだと思った。もちろんピンからキリまであるが,プロは,依頼されたテーマを,自分のフィールドへと置き換えて,どうすれば自分がそれを料理できるかを考えるのだと思う。アマは,自分のフィールドからしか,テーマが見られないから,そことの距離に目が行く。そうではなく,それの埋め方を,考える。

違う言い方をすると,

(異領域から自領域までの)着地のためのステップ数を数え上げていく,

あるいは,

自分の感覚を(具体的なレベルまで)現実化するステップ数をたどる,

といってもいい。それでどうしても算段のつかないことはある。その算段のつかなさの度合いが,たぶん,プロになればなるほど小さいのではないか,と思う。というか,一流のプロになればなるほど,依頼する側が,得意領域を弁えていて,あさってのテーマを持ち込まなくなる,ということがあるのかもしれないが。

たしか,イチローが,

キライなことをやれと言われてやれる能力は,後でかならず生きてきます,

というようなニュアンスのことを言っていたと記憶するが,それが踏むべき場数なのである。ただの経験ではなく,いやなことも,できないことも,難しいことも,

むりくり算段して,

どうすればできるか,ということを経験することで,

未知を既知に当てこむノウハウ,

をつかむのだと思う。その積み重ねが,ますます,

どうやれば自分にできるカタチに持ち込めるか,

のキャパシティが膨らむ,あるいはおのれの懐が深くなるのである。違う言い方をすると,

得意技,

に持ち込むことができる,ということである。あるいは,

得意技が増えて,

容易に自分のフィールドへ持ち込む通路というか回路が増える。それはマンネリとは違う。

ああ,これは,誰某の書いたものだ,

と瞬時に読み手にわかる,その人の世界,を持っている,

あるいは,

その世界がいくつもある,

ということだ。ピンはピンなりに,キリはキリなりに,

自分の世界と呼べるもの,

を創り出してしまえる,そこがプロフェッショナルの技量なのだと思う。それは,テクニックではない。その技量の量には,

その人の人としての器量,

が入る。もちろん,ピンはピンなりに,キリはキリなりに。

だからといって,アマを軽侮する気はない。純粋にそれに打ち込むことで,損得抜きのフロー体験を味わったことのないプロは,結局テクニカルにそれをこなすが,本人には,フローというものがいつまでもわからないのかもしれない。そういうことを幸と思うか,不幸と思うかは,人によるが,僕はそのフローを知っていることで,

自分が時を忘れ,場所も忘れで,打ちこんでいる,脳内の大発火を知っている,身体(脳)が覚えている,

ことは,自分が燃え上がる状態を知っている,

ああ,これは発火している,爆発している,と感知できる,

という意味で,その感覚は,

自分の燃え上がり度のバロメーター

として,プロになっても欠かせないものだと思っている。

まあ,あんまりプロになりきれず,,いつまでもフロー体験に固執する,僕のようなセミプロ人間が言うことだから,あてにはならないが。



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2014年09月18日

プロデュース


久しぶりに,第14回 アートプロデューサー竹山貴の「月例 あなたの知らない世界」

https://www.facebook.com/events/1518801601669591/?ref_dashboard_filter=upcoming

に参加させていただいた。いろいろ掘り下げた話が出されたが,そのままここで出すわけにはいかないので,僕なりの解釈で,まとめてみたい。

まずは,全体を聴いて,

Produce

ということの意味を思った。

Produce

を辞書で引くと,

前に(pro)導き(duce)出す

とあった。だから,意味的には,

生ずる,産する,創作する,描く,というアウトプットする系

引き起こす,将来するという招き寄せる系

提示する,提出する,取り出すといったささげる系

世に出す,上演するといったパフォーマンス系

等々があるが,どちらにしても,外へ出す,ということである。しかし,日本語では,

映画・演劇・テレビ番組などを企画・製作する

という意味に特化してしまう。だから,

プロデューサーは,

映像作品,広告作品,音楽作品,ゲームなど,制作活動の予算調達や管理,スタッフの人事などをつかさどり,制作全体を統括する職務

となり,プロデュースは,

「様々な方法を用いて目的物の価値をあげること」

ということになるらしい。それは,製作全般を統括するという言い方ではなく,元のproduceの意味のように,

前に導き出す

という意味に近い気がする。まあ,舞台を設えて送り出す,という感じか。しかし「前」へ,「舞台」へ,出すにしても,プロデューサー自身が,それを推せないものは出せまい。だから,僕は,プロデュースの鍵は,

目利きすること

ではないか,という気がした。それは,

メタ・ポジション

に立つ,といってもいい。作家も顧客も,あるいは歴史も,業界も,俯瞰するメタ・ポジションをとれること,それがすべてであるような気がする。で,その眼力を証明するためにも,作家を,どうエンカレッジし,育て,製作物をどうプロモートしていくかの仕事が,その意味として出てこざるを得ない。

この場合で言えば,作家という存在の目利きである。いまのそれから,どれだけの「のびしろ」があるかを,見極めなくてはならない。それは,こう言うことらしい,

本人の努力と精進で補えるものがどれくらいあるか,

というふうに言い換えてもいい,と。逆に言うと,

どんなに努力と精進をしてもどうしてもカバーしきれないもの

つまり伸び白の限られているもの,いわば素質を,見きわめることだ。

誰もが,どんなに努力しても(それができること自体が才能ではあるが)イチローにはなれない。才能という言葉は使いたくないが,もって生まれた素質というか素材の可能性を見極めるということらしい。

前にも書いたが,

能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)

という公式は,実は素材の良し悪しを抜きにしている。教育のレベルではそう言うしかない。しかし,実は,どんなに努力しても超えられない壁がある。それは身をもって体験してきた。

アートの世界は,画いたもので,歴然と差がつく。

どんなデッサンが優れ,鋭い観察力を具えていても,それだけでは超えられないものがある。それは,原石に過ぎない。しかし,磨いて光る石か,磨いても光らぬ石かの,その素質が,備わっていなければ,努力だけでは超えられない壁がある。

しかし,目利きは,おのれの目利き力すらも,

メタ・ポジション

から見極めなくてはならないもののような気がする。

その目利き力は,想像するに,あるステージに上った時,はじめて,見える世界の違いに気づく,そういう類のものかもしれない。目利きする作家とは,多分二人三脚であるはずである。目利き力が挙がれば,それにかなう作家が,近づいてくる。そのポジションからの風景もまた変わるはずである。

自分がいいと思えないものをプロデュースできないはずである。

当然見える風景が変われば,目利きの基準もまた上がっているはずである。最近,竹山氏のプロデュース作家の絵が変わってきたような気がするのは,錯覚であろうか。





今日のアイデア;
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2014年11月09日

売れる


トークライブに参加してきた。

https://www.facebook.com/events/537050229762032/

最近は,参加頻度が落ちているが,こちらのエネルギーがついていけないからだ。

さて今日もいろいろな話題が出たが,一番興味をそそられたのは,若手の作家が,(竹山さんから)声を掛けられて,グループ展をし,そこから個展へとステップアップしていくためには,

その展覧会での売り上げ

その作家の作家性

であるということであった。これは,前にも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163298.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163204.html

等々で,似た話があったと思うが,ここでは,作家性を,

伸びしろ

と言われた。そこからは,アートプロデューサーとしての腕ということになるが,

その作家にどんな将来性があるか,

を見極める,ということになる。そのとき,その眼鏡にかなわず,しかも,顧客の嗜好にも合わなかった作家は,

リベンジの機会

を得るか,雌伏するか,開き直るか,諦めるか,の選択を迫られる。僕は,この意思決定に興味を惹かれた。僕なら,開き直るだろう。しかし,その意思決定は,多く自己閉鎖というか,自己完結に堕すおそれがある。となると,たぶん,リベンジしかないはずである。それが,自分に目標と,世に問う場,を与えるからだ。

グループ展自体が,普通に考えれば,与えられた(つかんだ)チャレンジの場に違いない。そこで,評価が下されることになる。恐らく,おのれの資質と才能にうぬぼれていればいるほど,評価と主観とのギャップに懊悩するはずである。

よく,昔,量販店を取材していたとき,売れ筋。売り筋,見せ筋等々ということを耳にしたものだ。

売れ筋とは,他店でも売れていて自店でも売れている,
売り筋とは,他店では売れていないが自店で力を入れて売っている,
見せ筋とは,客寄せに,目立って華やかで人目を引くが,売れることは期待せずに販売される,
死に筋とは,他店でも自店でも売れていない,

と,その他に,

隠れ筋(他店で売れているが,自店ではあまり売れていない)

というのもあるようだが,僕の印象では,売り筋は,

店が売りたがっている,

ということから,あまりいい意味では使われなかった。メーカーが力を入れていたりして,粗利が取れる,動きが悪くて消化したい,といった理由がある,という印象であった。しかし,店の意思として,

差別化できるとか,

自店のアイコンとして育てたい

という意思の示し方としての売り筋もある。とすると,グループ展は,僕には,売り筋の場に見える。もちろん個展もそうだろうが,新しい,海のものとも山のものともつかない若い作家のデビューの場だ(作家自身ではなく,プロデューサーを商店にたとえるなら,竹山商店にとっての)。もちろんそこで問われているのは,それが,

売り筋に値するのか,

という「竹山商店」の眼力も,だろう。しかし,僕は思うのだが,少々グループ展で売れるより,まったく相手にされない,完膚なきまでの敗北の方がいいのではないか,という気がする。

そこそこ

というのがよくない気がする。「そこそこ」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/405919893.html

に書いたが,「そこそこ」の自足も達成感もない,そのどん底で,初めて,おのれの意志が問われる。

このまま続けるのか,

再度チャレンジするのか,

何をするかは,この際,とにかくどうでもいい。まず,

まだ(作家として)前へ進む気があるのかどうか,

という,描きたいのか,という意思だ。それは,野心とか,志とかと言った類のものではない,

まだ諦めきれない,

という自分への憐憫というか,愛着というか,執念と言ったものだ。理性や理屈ではなく,ここで止めたら,

後からきっと後悔する,

という微かな自分への未練である。あるいは,自分の中の炎である。それを確かめなくてはならない。それがなければ,単なる見栄や反撥では,その後が続かない気がするのだ。で,確かめて,そこで方法を,選択する。リベンジか,別の場か,それともおのれ独自のやり方か…!

思うのだが,習作時代に,どれだけたくさん描いたかは,画家だけではなく,クリエイティブな分野では,常に言われることだが,だからと言って,

描くこと

を目的しては意味がない。で,具体的なチャレンジの場がいる。その意味で,素人考えだが,

グループ展

が一番いいように思う。自分の作品を,同時代に同じようにチャレンジする作家と並んで,おのれの作品を客観的に眺める,競演の場として,最適のはずだ。できるなら,しばし,個展ではなく,

そこそこ

ではなく,

いける

と自分も,納得できるまで,並べて眺める機会を意識して一杯作るといいのではないか。そこで,自分の特徴が,自分の位置が,自分の差異が,見えてくる,そんな気がする。作家たちに,

「見捨てられた感じがない」

と言わしめたのは,その気があるならチャレンジできるよと門戸を開けている感じがするからだろう。

「10年くらいするとわかる」

とも言われた。前にも挙げたが,

10年一剣を磨く

である。しかし,それでも,また正念場がくるはずだ。いつも問われる。

このまま続けるのか,

と。立ち止まって,自分の声を聴かなくてはならない。その声に従ったからと言って,もちろん正解とは限らない。そこが難しい。一生分を賭ける決断なのだから。





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル:売れる
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2015年09月18日

創造


久しぶりに,【第26回 アートプロデューサー竹山貴の「月例 あなたの知らない世界」】

https://www.facebook.com/events/1609096202675550/1623199377931899/

に参加させていただいた。話題は一杯だったが,僕が興味を惹かれたのは,例のエンブレム事件に関わって,

創造性,

ということだ。オリジナリティと言ってもいいが,まあ,ひとりひとりがオリジナルなので,そんな切り口では意味があるまい。

創造というのは,辞書(『広辞苑』)的には,

「新たに造ること」
「新しいものを造りはじめること」

とある。しかし,この二つは意味が違う。「新たに」造るのと,「新しいもの」を造るのとは違うのである。

エンブレムに関して言えば,ぱくろうと,コピペをしようと,模造であろうと,「新た」だと言い張ることはできる。しかし「新しいもの」かと言われれば違う。口幅ったいが,「神が宇宙を造ること」が創造なら,「新たに」ではなく,

新しいもの,

でなくてはならない。些末なことにこだわるようだが,別に,

「新しいものを産み出すこと。創作や発明、あるいは新しい考え方など、オリジナリティの強いものに対し使うことが多い。」

という説明をしているものがあった。このほうが正確である。創造の,「創」の字は,

きずつける,

という意味である。記憶で書くが,

鋳造するとき,最後に砂でつくった型を,刀で切れ目を入れる,

という意味だと,どこかで読んだ記憶がある。手元の漢和辞典には,

刃物で切れ目をつけること,素材に切れ目を入れるのは,工作の最初の段階であることからはじめるの意に転じた,

とある。「創」の字の「刂」は,「刀」を表す。

さて,本題に戻ると,最近の絵画は,デジタル化し,手でアナログチックに描くというのは少数派だということを伺った。それが実態だとすると,デジタルは,一からそもそも書き上げない。ある素材を組み合わせていく。そのとき,

その組み合わせにオリジナリティがあるとすると,何か,

というような質問をさせていただいた。それに対する答は,

思い,

であった。何々を参考にさせていただいたが,「ここだけは違います」と言い切れるものがあるかどうかとも。

有名な,ヴァン・ファンジェの“創造性”の定義は,

①創造者とは,既存の要素から,彼にとっては新しい組み合わせを達成する人である
②創造とは,この新しい組み合わせである
③創造するとは,既存の要素を新しく組み合わせる(組み替える)ことにすぎない

である。まあ,

既存の要素の組み合わせ,

である。確か,ジョブスも,

創造性とは結びつけること,

と言っていた。しかし,結びつけば何でも新しいのか,というとそんなことはない。川喜田二郎は,確か,

「本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける」

というようなことを言っていた。言い換えると,

新しい意味があるように組み合わせる,

あるいは,

組み合わせたものに新しい意味を見つける,

と言い換えてもいい。つまり,

新しい意味づけ,

である。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/426036155.html

でも書いたが,それは言い換えると,

目的,

が明確であること,あるいは,目的意識,つまり,

何のためにそうしたか,

が明晰でなくてはならない。当然,その意図と,表現されたものが,リンクしているはずである。ある人が,

パクられた人が(パクリかどうか)一番よくわかる,

という言い方をしていた。僕も自分のホームページ上の独自の図を,コピーしてセミナーテキストに使っている(のを転載している)のに気づいたことがある。コピペは,出典を明記するのが当たり前だが,それすらしない。それをしない人は,基本,自分の頭で考えたことがない人なのだ,と思う。

閑話休題。

確かに,新たな着想,新たな発想は難しい時代になったが,それは,何か外から得ようとする(安易さ,下心)からではないのか。自分のものの見方からしか,パースペクティブは得られない。たとえば,

風景はある,

のではない,

風景は見つけ出される,

のだ。その意味で,すべては,自分の頭(あるいはものの見方)からくる。そのことを悩まない人は,才能というものの熾烈な格差に悩んだことのない人なのだろう。

それにしてもつくづく思うのは,,後代のわれらは,ニュートンではないが,何ごとも,前代の方々の,

巨人の肩に乗ってものを見ている,

ということを忘れてはならない。








http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 04:56| Comment(0) | トークライブ | 更新情報をチェックする