2013年01月20日
「場」が育てていく学習~「場」についてもう一度考える
前に,Tグループ体験をきっかけにして,「場」について考えてみた。
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11044109.html
今回は,「場」について続いて考えてみるが,別の切り口からアプローチしてみたい。
場が主役といった場合,その場をどう枠づけるかがカギになるのだろうか。もう一度前回のまとめを繰り返すと,
場という時,次の3つを考えてみる必要があるのではないか。
ひとつは,その場の構成員相互の関係性と言い換えてもいい。別の人とだったらそうはならなかったかもしれない。
ふたつは,その場の構成員相互の行動・反応である。ある行動(非言語も含め)にどうリアクションがあるのか等々。
みっつは,その時の状況(文脈)である。明るい日だったのか,寒い日だったのか,うるさい環境だったのか等々。
その時の全体の雰囲気である。前項と関係があるが,フィーリングと言ったものである。
これが場の構成要素だとすると,B=f(P, E)は,場(field)=Fを中心に,
F=f(P, E,B)
となるのではないか,ということであった。数学的に正しい表現なのかどうかわからない。しかし場があるからこそ,相互の関係も,その場の雰囲気も変わっていく。その意味で場を地ではなく,図として考えてみる。
これについて思いつくのは,金井壽宏と中原淳の対談(『リフレクティブ・マネジャー』)で中原がこういっていることだ。
ジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガーは,人材育成と組織行動の関係を理解するのに役立つ革新的な枠組みを提唱した。「正統的周辺参加」(Legitimate Peripheral Participation)と呼ばれるそのモデルは,「個人としての学習効果をいかに組織としての仕事に結び付けるか」という問題提起を否定し,この問題の前提にあった「学習-仕事」「個人-組織」といった二項対立的な認識に変更を迫った。
といい,そのモデル「リベリアの仕立屋」をこう説明する。
西アフリカのリベリアの仕立屋では,徒弟は衣服製造の仕上げ,つまりボタンをつけたりする工程から仕事をおぼえ,それができるようになると,生地を縫うこと,さらに生地の裁断というふうに,製造ステップとはちょうど逆の順番で学習していく。これにより,最初に徒弟は衣服の全体像を把握でき,前工程がどのように次の工程に役だっているかを理解しやすくなる。その上,店としては失敗がない。服を作るうえで,一番難しいのは裁断であり,次が縫製で,一番ミスが許されるのはボタン付けだからだ。
こうした正統的周辺参加モデルにおいては,新人(学習者)にとって学習は,仕事の中の日常的行為に埋め込まれたものであり,「学習-仕事」という対立概念は存在しない。(中略)共同体の実践活動に参加するときに,学習者が意識しているのは,知識やスキルの習得などシステマティックに細分化された目的ではなく,トータルな意味での実践活動における行為の熟練だ。傍目には「新人が知識を身に着けた」とか「新人が重要な問題点に気づいた」というふうに見えても,学習する本人は「いい仕事をしよう」と思っているだけで,「今,自分は学習している」とは考えていない。
そんなのは職人の世界やブルーカラーのだけだと言われるかもしれない。しかし,中原はこう言っている。
正統的周辺参加モデルはホワイトカラーの職場にも見られる。人がよく育つと言われる職場では,一人の課長がぐいぐい引っ張るというよりは,メンバーそれぞれの成長度合いに合うように仕事をうまく配列されていて,相互に助け合いの関係がある。そういう職場や職場内の関係をつくることも,「教育者」としてのマネジャーのお役割ではないかと私は思う。
ここから,二つのことを連想する。
ひとつは,職場長は,その職場の風土そのものだ,ということだ。風土が変わると職場が変わる。
ふたつは,かつて,ある百貨店の,全新人の10年後をフォローした調査で,入社3年間についた上司で,その新人の成長度(伸び白)というか,出世が決まる,と言われたことがあった。その職場の上司が,新人に何を教えたかだ。
ジーン・レイヴ,エティエンヌ・ウェンガーは,言う。
学習を正統的周辺参加と見ることは,学習がたんに成員性の条件であるだけでなく,それ自体,成員性の発展的形態であることを意味する。私たちはアイデンティティというものを,人間と,実践共同体における場所およびそれへの参加との,長期にわたる関係であると考える。
そこで得られる知識も大切だが,「共同体と学習者にとっての参加の価値のもっと深い意味は,共同体の一部になるということにある」のだ。
訳者の佐伯胖さん,全ての学習がいわば「何者かになっていく」という,自分づくりなのであ」る,と言っている。とすると,「場」が,そういう人を作り出していくのでなくてはならない。
そういう機会はいっぱいある。たとえば,すぐれたコーチやカウンセラーを見ていると,自分の勉強会を自分がやっていたのが,そこで学んだ人が,今度は自分が代わってその場を運営したり,外へ新たな会を横展開させたりしている。それも,「リベリアの仕立屋」バージョンといっていい。
自分はいま,本当に学びたいことがいっぱいある。しかし,しなくてはならないと感じていることも一杯あってなかなか全てには出つくせないが,そういう「場」を見つけることだけでなく,(いまさらめくが)そういう「場」づくりを手伝うことにも,目を向けてみたいし,それをやってみたいと思っている。それがまた自分の成長につながる,という気がしている。
参考文献;
ジーン・レイヴ&エティエンヌ・ウェンガー『状況に埋め込まれた学習』(産業図書)
中原淳・金井壽宏『リフレクティブ・マネジャー』(光文社新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2013年03月17日
自分の依って立つもの
プロフェッショナル・コーチが伝える経営の極意 ~ひとりぼっちで燃え尽きないために~に参加した。
http://www.facebook.com/home.php#!/events/324556944314505/330199050416961/?notif_t=plan_mall_activity
主催者は,こんなことを書いていた。
今回、数々の経営者の方や事業家の方の支援をしてきているプロフェッショナル・コーチ&コンサルタントの2名による、経営者の方々がご自身で自分を奮い立たせるスイッチを見つけて頂くきっかけを、体験を通して掴んで頂くためのワークショップを開催いたします。
年度末前に一度立ち止まり、過去の自分を振り返ること、自分の内側を探ること、五感を使って表現することを通じて「自分を自ら奮い立たせるスイッチのようなもの」を手に入れたいとお考えの経営層の方々、是非ご参加下さい。
やったワークは,
①人生曲線を描くことで,自分の二大トピックスを上げ,その時感じたこと,そこから得た信念を確かめること
②いまの仕事に就いたその時を振り返り,なぜついたのか,そしてなぜ続けているかを,その時を思い描いて確かめること
③そのシェアを通して,参加者からポジティブフィードバックをもらうこと
④ここで得たこと
だが,それぞれ細部を振り返るよりは,大きく,いまとその時との落差を自分の中でどれだけ意識していたかを感じ取っていた。
基本的に僕は過去を振り返らない。現在を過去から原因をもってくる因果関係を信じていない。それは一つの物語に過ぎない。ナラティブ・セラピーの言う,ドミナントストーリーに過ぎない。いまの見方を変えると,過去が変わり,過去のパースペクティブが動く。そこに別のオルタナティブストーリーが,いくつでも浮かび上がってくるだろう。
だから,信条は,いつでも今が過去最高。今が人生の頂点,という考え方だ。当然まだ高みは,この先にある。
二大トピックという意味で言えば,父の死で,母と妹たちを呼び寄せたことだろう。まだ新婚一年目だった。覚悟というより,こういう人生か,という悲壮感があった。いま一つは,ちんけな会社で,トップと争い,徒手空拳で会社を飛び出したことだろう。自己嫌悪と絶望があったが,どこかで,自分の才能を信じていた。まだ三十代の半ばだ。その後一旦その会社へ呼び戻されたが,やっぱり辞めた。四十代初めだ。
そこから,いまの仕事を始めたが,やりたくて始めたのではなく,ほかに見当たらなかったから始めた。いつの間にか,それが業になった。
きっかけは,先輩に慫慂されて,あるいろんな人の企画の網羅されている冊子に,仕方なくでっち上げて載せた企画が,大手の担当者の目に留まり,ビギナーズラックで,大きな仕事になったことだろう。考えれば,それが間違いのものとで,うまい話はそうそう続かない。そこから地獄の谷底を這う日々が続く。
だが,何とかかんとか,生きのびてきたのは,大した努力も勉強もしないのに,おのれの持っている資質だけで,ある程度のことにすべて応えてきたということだろう。こなすというか,でっち上げるというか,依頼や打診があれば,文句たらたら(基本的に怠け者で,あまり働き者ではないので,忙しいのは嫌いなのだ!),それでも必死で企画書にまとめて提案する。でっち上げ,というか,創造というか,何しろ構想をまとめ上げていくのは得意らしい。ビジョンづくりなど考えたこともないのに,企業のビジョンづくりの提案をまとめ,一年,あるソフト会社の取締役とミーティングを積み重ねた。もちろん,企画書の能書き通りにはできないこともあるから,リピートのないのはいつものことだ。
しかし,全てが,考えてみれば,もしそこに誇るべきことがあるとすると,すべてが,人真似ではないことだ。自分の頭で,オリジナルに考え出したことだ。だからと言って,オリジナルがいいと言っているのではない。でも,ピンの二番煎じや人真似より,キリのオリジナルがいい。自分はそういうスタイルしか取れない。僕の言う,でっち上げる,というのはそういう意味だ(こんな例を挙げるのは,大袈裟で口幅ったいが,ビル・ゲイツがIBM-PC向けにMS-DOSを開発したのも,言ってみればでっち上げに近い)。
だから人の真似や人のライセンスや人の翻訳や人の弟子になったことは一度もない。いろんなことを学んだけれども,その流儀のトレーナーだけにはなりたいとも思わなかったし,なったことはない。トレーナーは,その通りやるということだ。それを奴隷と僕は呼ぶ。何たら資格のトレーナーとは,何たら資格を考えた人の奴隷にすぎない。僕にはそれが難しい。まず自分流儀に解釈し,換骨奪胎してしまう。ライセンスを与える側は,それに腹が立つらしい(というかきちんと学んでいないいい加減さに対して苛立つらしい)。MBTIでは,「杉浦さんは,本当に学ぶ気があるんですか?」と担当者に嫌味を言われた。本気度が見えないというか,ちゃらんぽらんというか,そのいい加減さが透けて見えたのに違いない。
しかし学ぶというのは,自分に必要なところを学べばいいので,学者になろうとしているのでも学問をやろうとしているのでもない。自分の考えを撚り合わせて太い繊維に仕上げていくための糸の一本にすぎない。なのに,何で,それを丸ごと奴隷のように身につけなくてはいけないのかが,僕にはわからない。へそ曲がりなだけといえばそれまでだが,逆から言えば,その矜持,その自恃こそが,自分の依って立つところだ。
人から学ぶのはいい。しかし守破離。いち早く破って,離れる。それが自分のスタイルだ。僕の書いたものも,考えたものも,まとめたものも,たぶん未だかって誰も言っていない,僕だけが考えたものだからだ。そういう自分のオリジナリティをカタチにしつづけたい。そうでなければいま,自分がそれを表現する意味がない。そこに自負がある。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2013年05月19日
修羅場体験
修羅場は,ふつう「しゅらば」と読むが,辞書によると,「しゅらじょう」とある。そして,「阿修羅王が帝釈天と闘う場所」とある。そこから転じて,血なまぐさい戦乱,激しい闘争の場所の意味になる。
しかしここで言う意味は,自分自身の限界との戦いの意味だ。
最近自分のキーワードになっていて,それを切り口にして,いろいろ考える傾向がある。
僕のイメージでは,自分の限界を超えないと対処できない事態にどれだけ,意識的に対応し,クリアしてきたかということだ。自分の知識と経験,スキルでは到底切り抜けられないような事態に,正面からぶつかって,それを潜り抜けたか,ということだ。そういうシチュエーションを経ていない人は,どこかに,
事態を甘く見るというか,
自分のキャパを甘く見るというか,
人の苦労がわからないというか,
自分の役割が見えないというか,
そこで自分のなすべき何かがみえないというか,
一緒にやるには何かが足りないというか,
人として信の置けない感じがある。
修羅場というシチュエーションで起きているのは,自分というものの限界線,境界線,あるいは閾値を超えていく,というか超えない突破できないところに置かれているということだ。あるいは,それは自分の伸び白一杯一杯まで引っ張りに引っ張って,なんとかかんとか自分を拡大しきらなければ,その事態を乗り切れない。出来るとか,出来ないなどを,口にもできないし,そんなことを言い訳にもできない事態という意味でもある。言い方は大袈裟だが,不安と恐怖で,悪夢にうなされ,はっと目覚める。そんなことを繰り返し,長いトンネルの向こうに,自力で抜けられる,光明が見える。その時,一つステージが上がっているはずだ。
必死で自分の容量以上のタスクをこなすためには,自分の知らないことを必死でインプットしなくてはならない。知らない,出来ないことを,人に聞きながら,教えを乞いながらでも,やらなくてはならない。だってそれが自分のやらなくてはならないことだからだ。それを天命と呼ぶか,役割と呼ぶか,使命と呼ぶか,タスクと呼ぶか,役目と呼ぶかはどうでもいい。それを逃げられない自分の仕事と思い定めたら,やりきるしかない。それを,責任を取るというのだと思う。
そこでは,
自分との格闘がある。
自分の心との格闘がある。
自分の技量との格闘がある。
自分の器量との格闘がある。
自分の技術との格闘がある。
自分の無知との格闘がある。
自分の生き方との格闘がある。
自分の思想との格闘がある。
自分の弱さとの格闘がある。
自分の根性との格闘がある。
自分の気力との格闘がある。
アップアップ状態でも,そこから逃げ出せず,そこに踏みとどまり,為すべきことを必死でする,そういうことだ。
その経験を経ていないと,自分の資質のままにこなしてきたので,自分の限界というものがわからない。だから,
それが自分の能力の限界なのか
それが自分の経験不足なのか,
それが自分のスキル不足なのか,
それが自分の知識不足なのか,
という見方をする。そうではない。自分自身のトータルの限界なのだ。だが,そこで耐えてそれを何とかしようとはしないで,やり直します,出直します,という。そうではない,いま,そのできない状態の自分のまま,限界までやりきってしまわなければ,同じことを繰り返すということが,わからない。
だから,他責(これはおれには合わない)となるか自責(おれはだめだ)になる。そのどっちでもない。言い方は酷だが,今まで何も自分を酷使しなかった「つけ」だということだ。
大口をただけるほど,修羅場をくぐったと言えるかどうかわからないが,そのつど必死で自分の限界を超えてきたことは事実だ。その瞬間の格闘を過ぎると,いつの間にか次のステージに立っている。その時見える世界が変わる,そういう体験を何度かした。
振り返ると,そのプロセスは,フロー体験に近い。気づくと何時間もたっている,ということが何度もあった。それは決して楽しいばかりの時間ではない。修羅場体験にとっては,楽しいかどうかは,どうでもいい価値観に思える。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#修羅場
#のびしろ
#自分との格闘
#自責
#他責
#オリジナリティ
2014年04月25日
学ぶ
学ぶのは,
自分の伸び白を知る
ためだと思う。伸び白は,
あるのではなく,
見つける,
あるいは,
創り出す,
炙り出す,
ものだと思う。それは,自分の発見なのだと思う。発見というと,他人事だが,
自分を掘り起こす,
あるいは,
自分を膨らます,
といってもいい。風船に空気をいれるような感じ,というと少し危いか…!
では,何を学ぶのか,というとき,思い浮かぶのは,G.ライルの言う,
Knowing how
と
Knowing that
である。そのことを知っている中に,その「遂行の仕方を知っている」が含まれなければならない。なぜなら,前にも書いたが,能力というのは,
知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
出なければ,そのキャパは増えないと思うからだ。だから,ある意味,
そのことを知っている,
の中に,
そのことのやり方を知っている
が含まれ,入子になっているのかも知れない。そして,学ぶとは,
何を知らないかを知ること,
に他ならない。学ぶ前は,何が分からないかが分からないから,
何が分かっていないか,
が分かる。
まさに,
知れるを知るとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり,
である。あるいは,知るとは,
どうすればそれが得られるか,
という手段知をも手に入れることでもあるかもしれない。そのことによってパースペクティブが広がり,見える世界が変わる。向こうにまだ山が屹立しているのが見える。
学びて思わざれば則ち罔(くら)く,思いて学ばざれば則ち殆(うたが)う
僕は,学ぶことは,メタ・ポジションを手に入れることだと思う。学ぶたびに,俯瞰とまではいかないにしても,ものを見る視野が広がることだ。広がれば,ますます広く見たくなるのが人情というものだ。
そこにおのれの伸び白を見る。
如之何(いかん),如之何と曰わざる者は,吾如之何ともする未(な)きのみ,
である。
見えていないものが何かが見える,
それが伸び白である。あるいは,
知らないことが何かが分かってくる,
のでもいい。まだ,その心境にはいきつかないが,
これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず,
に行きつけば,おのれの伸び白がまだあることに,喜び,学びに喜ぶかもしれない。しかし,まだ,知らないことに,愕然とする一方の日々だ。
参考文献;
ギルバート・ライル『心の概念』(みすず書房)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm