2013年02月03日

さようならと一期一会


「では,また」という言葉を何気なく口にする。しかしもう二度と会えないかもしれない,そういう思いが頭をよぎると,ちょっと気楽には使えなくなる。

一期一会という言葉がある。千利休の弟子の山上宗二『山上宗二記』に「茶湯者覚悟十躰」として,「路地へ入ルヨリ出ヅルマデ,一期ニ一度ノ会ノヤウニ,亭主ヲ敬ヒ畏ルベシ」とあるそうだ。

それを,井伊直弼が自著『茶湯一会集』巻頭で「一期一会」という言葉にして世の中に広めた。あなたとこうして出会っているこの時間は,二度とないたった一度きりのものだから,この一瞬一瞬を大事に,今出来る最高のおもてなしをする,という趣旨であるそうだ。

ところで,さようなら,と言う言葉について,田中英光は,『さようなら』の冒頭,

さようならなくてはならぬ故,お別れしますというだけの,敗北的な無常感に貫かれた,いかにもあっさり死の世界を選ぶ,いままでの日本人らしい決別の言葉だ。

こう書いた。それに続いて,井伏鱒二が,于武陵の「勧酒」という詩の一節,「花発多風雨 人生足別離」を「ハナニアラシノタトヘモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」と訳しているのを紹介し,それを太宰が「グッドバイ」の解題に引用している,と述べていた。そして,他の言語のように,神の祝福をとかまた会いましょうと言うニュアンスがないと嘆いていた。

「左様ならば,お別れします」「そういうことならばお別れします」でいう「さようならば」「そういうことなら」というのは,田中の言うようなニュアンスもなくはないが,文脈依存の日本語らしく,その場の二人,あるいはその場に居合わせた人にしか,「左様」の中身はわからない,そういう次第を共有している者同士が,「そういうこと」で,と別れていくニュアンスではないか,と感じる。

かつて会議の後,上司が,「じゃ,そういうことで」と会議を閉めようとしたら,部下の女性が,「そういうことってどういうことですか」と,気色ばんで食って掛かったことがあった。ある意味,「そういうこと」で丸められては困る状況を無理やり閉じようとした上司への強烈なしっぺ返しだったのだが,文脈依存の「そういうこと」だからは,「そういうこと」が共有できていなければ,こういう裂け目がのぞくことになる。

僕自身は,さよらな,という語感には,ちょっとした悲哀とセンチメンタルな心情があって,嫌いではない。

「左様ならなくてはならない運命だからお別れします」と言うと深刻だが,

「そういう次第なのでお別れします」
「そういうわけなら,お別れします」
「そういうわけで,お別れしましょう」
「そういうことでお別れしましょう」
「そういうことなら,(ここで)お別れしましょう」

というふうに,並べてみると,いまの言い方も,その簡略版で,

「…てなことで,お別れします」
「ていうか,じゃあここで」
「それなら,ここで」
「(それ)じゃあ,ここで」
「(そういうこと)では,ここで」
「そんじゃあ,また」

等々と言うが,結局その場にいるものにしか伝わらない,共有した時間と空間の中での,「そういうことで」と言うニュアンスが,言外に含まれている。

しかし,「さようなら」という言葉には,死別は含まれてしない気がする。死別に際して,「さようなら」とはなかなか言いにくい。第一,相手とは共有できないというか,共有したくないというか,そういう思いが強いので,文脈は,こちらとあちらでは「そういうことなので」とは了解しがたい。でも,そのためか,最近,「では」とか「それじゃあ」と言って別れる時,一期一会が強く意識されるようになった。

ユングは40歳を「人生の正午」にたとえていた。その意図は,「午前の太陽の昇る勢いはすさまじいが,その勢いゆえに背後に追いやられたもの,影に隠れてしまったものがたくさんある。それらを統合していくのが40歳以降の課題だ」というところにあるのだそうだ。

それが統合できたかどうかは,自分ではわからない。ただ,40代以降の方が,生き生きとしていたという思いはある。いやいや,必死だったというほうが近い。そしていま,日没が近づき,その先が見えるようになると,一日一日,時々刻々が大事だと,我に返ると,気づく。「過ごしてしまった時間」がどういうものだったかが,ふと頭をよぎる。

そう気づくと,「じゃあ,また」「またね」「では」「バイバイ」というふうには簡単に言えなくなる。そんなとき,「さようなら」という言葉が,結構役立つ。「そういうわけなので,お別れします」「それならばここでお別れします」という言葉に,いっぱいの思いがあっても,さりげなく言える。

さようなら,はその都度,そういう次第で,ここまでご一緒に過ごさせていただいたが,いよいよお別れのときが来ました,では元気でお過ごしください,との思いを込めて,言わなければならない。それは去っていく側には言えるが,残される側には言いにくいものかもしれない。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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2013年02月10日

日本語のもつ表現可能性~好きなフレーズⅡ


日本語ということで言えば,三浦つとむの『日本語とはどういう言語か』を読んだ時の衝撃は忘れられない。

われわれは,生活の必要から,直接与えられている対象を問題にするだけでなく,想像によって,直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり,過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が,やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し,あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を,われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり,現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに,今朝はふらなかったとすれば,現在の私は

       (予想の否定)(過去)
雨がふら  なくあっ  た

 というかたちで,予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な,いくつかの語のつながりのうしろに,実は……三重の世界と,その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。

ここにあるには,日本語の視点の転換といってもいい。わずかな一文,「雨がふらなかった」にある,昨日予想した雨のふっている「とき」と今朝のそれを否定する天候を確認した「とき」とそれを語っている「いま」という三重の時制の転換,ということは過去,現在,語っている今,という視点の転換でもある。そういう構造を表現できる日本語という言葉の魅力に出会ったと言ってもいい。それをこう解釈した。

話者にとって,語っている「いま」からみた過去の「とき」も,それを語っている瞬間には,その「とき」を現前化し,その上で,それを語っている「いま」に立ち戻って,否定しているということを意味している。入子になっているのは,語られている事態であると同時に,語っている「とき」の中にある,語られている「とき」に他ならない。

そこから,時枝誠記の風呂敷構造に出会い直した。

日本語は時制があいまいとか,主語があいまいという言い方をするのは,基本的に間違っている。

基本的に日本語は,文脈依存だから,主語が周知ということで語られていない。しかし語られていないからと言って,時枝誠記が言うように,日本語は,基本,「辞」と「詞」に分かれていて,「詞」は,表現される事物,事柄の客体的表現,「辞」は,表現される事柄に対する話し手の立場の表現である。「辞」によって,統一されるので,「辞」によって具体的な思いや考えの表現になる。「辞」が欠けている表現を,時枝誠記は零記号と呼んだが,「辞」が隠されているか,言う必要がないだけで,基本的に「辞」のない表現はない。

きりがないが,日本語には日本語の独特の時制と視点という構造がある。その観点から見ると,汲めども尽きぬ泉である。それを自分なりに,言葉の構造と情報の構造としてまとめたのが,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm#

で,昔,古井由吉論をまとめるために,三浦理論,つまりは時枝誠記の「風呂敷構造」を借りて,

http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique102.htm

こんな風にまとめた。

僕は,この古井由吉という作家が大好きで,彼は,日本語のもつ表現可能性を,ぎりぎりまで意識的に追い詰めている,ただ唯一の作家だと思っている。その典型は,『眉雨』だが,まあ,それについては,やめておこう。きりがない。

処女作『木曜日に』以来ずっと古井由吉を追っかけてきたが,最近は,読み切る体力がなくなった。本気で作家と向き合うには,渾身の力がいる。もうそんな体力は僕にはないらしい。

その古井由吉が,小説の「私」について,大江健三郎との対談で,昔,面白いことを言っていた。

「私」というとき,「私」の多くの部分が死者なんです。個別の「私」にはわからないはずの感覚,感性,認識を書いている。例えば,一日の天気のことを考えても,よほど表を歩いて天候の変化をつぶさに観察した場合ならともかく,いや,その場合でも,表現として「私」が完全に個別だったら見えないはずのことを書いている。

確かフロイトだと思ったが,先人の肩の上に乗ってものを見ている,というのを思い出す。その古井由吉の言うのがふるっている。

説明するというのは,普通結び目をほどくことと解釈されるけれども,結び目をつくることでもあるわけですね。

確かに説明は,別次元のものを持ってくることになる。それがかみ合わなければ,説明の説明が必要になる。

ついでに思い出したのは,石川淳の永井荷風の死に対する痛烈な文章だ。それはこう始まる。

一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく,小説家らしくもなく,一般的に芸術てきらしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに,老人はただひとり,身辺に書きちらしの反故もとどめず,そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて,深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。

そしてこう締めくくる。

もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの,一箇の怠惰な老人の末路のごときには,わたしは一燈をささげるゆかりもない。

まさににべもないとはこのことだ。これこそ,「結び目」をつくる文章だ。あえて言えば(「結び目」をつくれば),畏怖し尊敬した荷風への決別の言葉なのだと読むことができる。タモリが,赤塚不二夫の葬儀で,白紙をひろげて,私はあなたの作品だ,と弔辞を読み上げたものの文学者バージョンというべきだ。そこに,おのれはそうはならぬ,という満々たる憤りと矜持がある。その怒りは,荷風へ向けられたものでは,必ずしもない。


参考文献;
三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫)
時枝誠記『日本文法 口語篇』(岩波書店)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#古井由吉
#石川淳
#永井荷風
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2013年10月21日

当たり前


当たり前を当たり前としない,というのを長く習慣のようにしてきた。人が当たり前とすることを,当然と思うようでは,何も違いが発見できない。ベイトソンではないが,情報とは差異である。違いに着目することだ,と。

しかし,当たり前がこれほど大事と思い知らされることが,最近多い。

朝が来るのが当たり前。

明日が来るのが当たり前。

昨日があるのが当たり前。

あの人がいるのが当たり前。

明日も会えるのが当たり前。

日が昇るのが当たり前。

大地があるのが当たり前。

家があるのが当たり前。

月が出るのが当たり前。

当たり前とは,考えたら,それを前提に生きているので,特に意識しないことと言ってもいい。言ってみれば,

何の変哲もない,

ありきたり,

普通,

尋常,

等々,意識しないでいたはずの,

世間並みのはずの世間そのものが消えてなくなる,

平々凡々の毎日が繰り返されない,

常識そのものが雲散霧消する,

そして,自分が非日常の中にいる。だから当たり前を大事にするとか,日々の平凡さが大切ということが言いたいのではない。

あんなに,当たり前を当たり前としない,と口では言いながら,何かを,暗黙のうちに前提にしてきたのではなかったか。

毎日が続く,

明日はまた来る,

帰る家がある,

家族がいつもいる,

考える頭は明日も働く,

だから明日も考え続けられる,

だが,それはそう思い込んでいるだけで,何の保証もない,危うい崖淵を歩く危機の中にある,と言うことに改めて気づかされる。

毎日に差異を見る,ということの本当の意味は,暗黙に前提にして見えなくなっていることはないか,ということではなかったか。

明日が来るとは限らない。

明日また会えるとは限らない。

明日日が昇るとは限らない。

だからこそ,一瞬一瞬が大事なのではないか。というより,

この一瞬よりほかに,そのことをするときはない,

この一瞬よりほかに,そのことを考えるときはない,

この一瞬よりほかに,そのことを感じるときはない,

その一瞬よりほかに,そのことを言うときはない,

その一瞬よりほかに,そのことを見られるときはない,

その一瞬よりほかに,そのことを聞けるときはない,

花がきれいに見えるのは,その一瞬を逃したら,二度とその輝きを見られないかもしれない,その儚さを無意識で感じでいるからではないか。何も月下美人だけとは限らないのだ。

だとすれば,いまというほんの一瞬に,すべてが詰まっている。そこに,過去も現在も未来も凝縮している。

明日有りと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかわ(「親鸞上人絵詞伝」)

とは,よく言ったものだ。

一期一会

は重い。そんな出会いもあった。



今日のアイデア;
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#一期一会
#ありきたり
#当たり前


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2018年02月08日

猪突猛進


「猪突猛進」という言葉がある。

むこうみずに,猛然と突き進むこと,

を意味する。確かに,猪にはそんなイメージがつきまとう。

猪武者,

というのは,

前後の考えもなく,無鉄砲に敵に向かって突進する武者,

である。こういうのは,蔑みの対象である。

匹夫之勇,

とも言う。

思慮分別がなく,ただ血気にはやる勇気,

を指す。

小勇,
小人之勇

とは言い得て妙である。『論語』(子罕篇)に,

「子曰く,三軍(さんぐん)も帥(すい)を奪うべきなり。匹夫も志を奪うべからざるなり。」

とある。しかし,『孟子』に,

「王曰く,…寡人(かじん) には疾(やまい)有り,寡人勇を好むと。対(こたえ)て曰いわく,王請う小勇を好むこと無(なか)れ。夫(か)の剣を撫(にぎ)り疾視(めをいから)して,彼悪(いずく)んぞ敢て我に当らんや曰(い)う(が如き)は,此匹夫の勇にして、一人に敵する者なり。王,請う之を大だいにせよ。」

と。勇を恃むを戒めているのは,「虎嵎を負う」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/456719697.html?1517947992

で触れた,

「孟子曰く、是れ馮婦(ふうふ)を為(まね)するなり。晉人に馮婦といえる者あり,善く虎を搏(てうち)にせり。卒(のち)に善士と爲りて野に之(ゆ)けるとき,衆虎を逐(お)えるあり。虎嵎(ぐう)に負(ちたの)み,敢て攖(ちか)づくものなし。馮婦を望み見て,趨(はし)りて之を迎う。馮婦臂を攘(かか)げて車を下る。衆皆之を悦びしも,其の士たる者之を笑えり。」

にある,「馮婦」の「嵎を負う虎」に素手で立ち向かう蛮勇と同じである。孔子は,それを,

暴虎馮河,

とした。『論語』(述而篇)で,

「暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ,謀を好みて成さん者なり」

と,まさにそれを諷している。『笑える国語辞典』

https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%A1/%E7%8C%AA%E7%AA%81%E7%8C%9B%E9%80%B2%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

は,「猪突猛進」について,

「猪突猛進とは、イノシシの名刺代わりのキャラクターであり、目的に向かって脇目もふらず突き進んでいく様子を例えた言葉。しかしその『突進』の背景には『計画性がない』『周囲の状況を無視』『後退できない』『融通が効かない』といった負の要素が満載で、結局のところ『猪突猛進』は、『おバカな突進』といった意味あいで用いられる場合が多く、誉められたところでせいぜい『がむしゃらに頑張ってるね』程度の含みがあるにすぎない。」

というのが,よく含意を伝えている。古い時代,戦さ場で,

抜駆(懸)け,

を嫌うのは,全体の計画を無視して,おのれの功のみを考える蛮勇故であろう。

http://www.minyu-net.com/serial/yoji-jyukugo/yoji0621.html

に,

「『猪突』の二字は『漢書(かんじょ)』(前漢時代の歴史)に漢王朝を一時乗っ取った王莽(おうもう)が囚人らで組織した軍隊の名に見える。また王莽は「豨勇(きゆう)」という名の軍隊も組織し、合わせて『猪突き勇』と称した。死をも恐れずつき進む勇猛な軍隊だったようだ。」

とある。この「豨勇」と関わるが,「猪突猛進」と似た言葉で,

猪突豨勇(きゆう),

という言葉がある。

豨勇,

とも言うらしい。「豨」は,

大きな猪,

を意味する,と『広辞苑』には載る。で,「猪突猛進」と同じく,

あとさきかまわず突進する,

意となる。しかし,『デジタル大辞泉』には,

「『漢書』食貨志から。『豨』はイノシシの子の意」

として,

「イノシシやイノシシの子のように、あとさきを考えずに突き進む勇気。また、そうした勇気のある人。猪勇。」

とある。「猪の子」というなら,

猪突猛進,

猪突豨勇,

とは少しニュアンスが変わる。子供なら笑って許されることも,大のおとながするとなると,冗談では済まされない。手元の漢和辞典では確認ができなかったが,無鉄砲でも,両者のニュアンスは異なるだろう。

類語に,

直情径行,

がある。少しニュアンスは違うが,感情のまま発信するところは同じである。

「直情にして径行する者有り,戎狄(じゅうてき)の道なり」(礼記)

とあるので,結果は同じである。

参考文献;
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1

スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8

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