2013年02月05日

言葉によって見える世界~好きなフレーズを拾うⅠ


かつて学生のころ,ひとつの転機を表現する意図だと思うが,二つの代表作の完結について,

(鉄腕)アトムは太陽に向かって飛び,(サイボーグ)009は流れ星になった,

という名文句を,読んだ記憶があるのだが,たぶんそれだと思った石子順造の本(『マンガ芸術論』)には出ていなかった。もう一人の石子だったかもしれない。そう思うと,かつて読んで,心に残った一言が気になりだし,とりあえず気になるところをひろいあつめてみた。

太宰治の「晩年」のエピグラムに,ヴェルレーヌの,選ばれてあることの/恍惚と不安と/二つわれにあり,というのが載っていて,ひどく気にかかったのを覚えている。

太宰つながりで言うと,田中英光が,「さようなら」で,「さようなら」とは,さようならなくてはならぬ故,お別れしますというだけの,敗北的な無常感に貫かれた,いかにもあっさり死の世界を選ぶ,いままでの日本人らしい決別の言葉だ。そう書いた田中自身が,太宰の墓の前で,「あっさり」自殺した。

そのつながりで言うと,吉本隆明の言う,<わたし>たちが宗教を信じないのは,宗教的なもののなかに,相対的な存在にすぎない自分に目をつぶったまま絶対へ跳び超してゆく自己欺瞞をみてしまうからである。この言葉の,苛烈かつ明晰な自己意識が好きだ。これを自己倫理と呼ぶ。

自己を律するという意味では,五省はいう。至誠に悖るなかりしか,言行に恥ずるなかりしか,気力に欠くるなかりしか,努力に憾みなかりしか,不精に亙るなかりしか。自分を律するとき,頭を,「言行に恥ずるなかりしか」と言葉がよぎる。誤解されると困るので,あわてて付け足す。別に江田島好きではない。この言葉が好きなのだ。

それとつなげれば,石原吉郎の,わらうべき一切は/わらうべきその位置でささえねばならない,という覚悟というか矜持が好きだ。

ハイデガーの,人は死ぬまで可能性の中にある,というのも,どうしても,『存在と時間』の中からは見つけ出せなかった。記憶違いかもしれない。

フランクルは言う。ここで必要なのは,生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく,むしろひたすら,生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。…もういいかげん生きることの意味を問うことをやめ,わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々,そして時々刻々,問いかけている。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく,ひとえに行動によって,適切な態度によって,正しい答えは出される。生きるとはつまり,生きることの問いに正しく答える義務,生きることが各人に課す課題を果たす義務,時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。『夜と霧』全体の印象と関係してくる。自分のなすべきことを強くもっていた人は,死んでいない。

これと関連させて,神田橋條治が,誰かの言葉として,

人事を尽くして天命を待つを,天命を信じて人事を尽くすと言い換えたのを紹介していた。この方が,ぴったりくる。

最近のお気に入りは,

龍村仁の,ガイアシンフォニー第三番で,人生とは,なにかを計画している時に起こってしまう別の出来事のことをいう。結果が最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味をもつのは,結果ではなく,過ごしてしまったかけがえのないその時間である。この言葉の,「過ごしてしまったかけがえのない時間」と言える時間をすごしているのか,が自省である。

勝海舟が,誰にもまして,最近は好きだが,勝海舟はいう。おれは,いままでに天下で恐ろしいものを二人みた。それは横井小楠と西郷隆盛だ。勝の人物評は,多少割り引く必要があるが,しかしこれは本音だと思っている。もうひとつ,勝の言葉に,おのれに振りかかった理不尽な批判に,行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存候。こう福沢諭吉に返事した。この強烈な矜持が好きだ。

ヴィトゲンシュタインは,人は持っている言葉によって見える世界が違う,と言っていた記憶があるが,やっぱり探したが,見当たらないので,正確な文言は違うかもしれない。でも記憶化されて残ったほうに意味があるのだろう,と思う。

人が使う言葉には,その人の独自の世界が,その言葉に見えている。それを共有できるかどうかは,その言葉の向こうに何を一緒に見ているかどうかだ。

コーチングで,コーチはクライアントの見ている世界を一緒に見ているのか。

見ているだけではだめだ。それが見えているか。見えているつもりになっているだけではないのか。言葉ではなく,その人の感情や思いでもなく,その人の見ている世界,その人に見えている世界が,一緒に見えるまで,クライアントに寄り添っているか。田中ひな子さんは,クライアントの脳とドッキングさせる,といった。

クライアントに耳を傾けているか。クライアントの使う言葉に敏感になっているか。それは,言葉というコード情報からだけでは見えない,クライアントの文脈や背景に一緒に立ち,その雰囲気とニュアンスにあるモード情報でしかつかめない,クライアントの言葉のニュアンスをかぎ分けているか。自戒を込めて,言葉にナーバスになろう!



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#太宰治
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posted by Toshi at 05:56| Comment(96) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2013年11月04日

意地


意地という言葉は,あまりいい意味に使われない。

意地汚い
意地が悪い
片意地
意地っ張り
意地を通す
意地にかかる
意地になる
底意地

等々まあ,依怙地というか,頑固というか,執心というか,心映えが悪いというか,おのれの我を通すという意味に使われることが多い。

這っても黒豆,

といった,強情さそのもののように言われる。

しかし,へそ曲りなので,僕には,意地を張らぬ人間は軟弱に見える。強く押されてへなへなと腰を引くのではなく,瘦せ我慢が必要な時はある。

情張りと突っ張りは強いほどいい

とも言う。時に強気であることは必要なのではないか。

とはいえ,意地を張るのは,見栄っ張り同様格好悪さは否めない。しかし,

徹底
執念
貫徹
押し切る
頑張る
突っ張る
一徹
凝り性

と少しニュアンスを変えると,同じ頑固でもプラスイメージが湧く。ある意味,

夢を追い続ける
持続し続ける,
墨守し続ける,

等々持続していくには,そういった意地が必要で,突っ張る心根がなければ,無理なのではないか。その面で開き直って,突っ張るのも,ときには悪いことではない。だから,

意気地なし

という言葉もある。だから,やりぬこうとする気力や心の張りの部分に焦点をあてれば,プラスにはなる。

しかし,総じて悪いイメージの意地に引き換え,

意気

は,ちょっとした違いなのに,結構いいイメージだ。

心意気
意気軒昂
向こう意気
意気天を衝く
意気込む

元々は「粋」に転ずるくらいだから,いい心映えを意味している。意地のニュアンスの部分も,意気には,

土性骨

の意味もあり,意気地のあることも含めていて,やっぱり意気には勝てない。

どうせ意地を通すなら,小粋にやれば,意気になる,ということか。

どうもそれって,その人そのものの品性というか,人品骨柄とでもいうか,生来のかっこよさなのかもしれず,ちょっとかなわないな。

例えば悪いが,イチローがやるとかっこいいが,松井がやると野暮になるのに似ているか。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#意地
#意気
#土性骨
#意気地なし
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2013年11月21日

ことば


コーチング・フェローズの毎月一回のコーチング・セッション会に参加してきた。そこでの体験については,何回か書いたことがある。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11132452.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11099351.html

ただ,最近は,コーチングということにこだわるのをやめている。クライアントが望むなら,どんどん自分の体験から,直言することも妨げなくなった。

コーチングだから,

コーチだから,

という言い方をするのは,一種の自己防衛と思っている。カウンセリングやセラピーとの境界線を設けるのも逃げだ。もしそれを避けようとするなら,自分がカウンセラーとしての資格を得るか,勉強して,自分の間口を広げておけばいいことだ,と思うようになった。そう思うのは,たまたま僕がカウンセリングを経て,コーチングへ戻ったというせいばかりではない。

幅広く言えば,E・H・シャインのいう,プロセス・コンサルテーションに関わっている以上,それはこちら側の準備のひとつに過ぎないのかもしれない。クライアントにとって,いつも健康状態とは限らない。落ち込んで鬱状態になることもある。そんな時,それは自分の領域ではないと言えるのかどうか。

それは,正解はないが,コーチとしての姿勢のひとつと言えるかもしれない。

話が横へ逸れた。

今回も,コーチ役,クライアント役,オブザーバー役と,三役を経験して,改めて,オブザーバーの重要性に気づいた。

なんとなくコーチ-クライアント関係を見比べて,観察しているが,オブザーバーとしてきちんと観察(メタポジションに立つ)ができないと,それは,ひょっとすると,自分のコーチング最中にも,レベル1(矢印が自分),レベル2(矢印が相手),レベル3(矢印が全体)どまりで,それ全体を俯瞰する,

レベル4,

というか,メタ・ポジションを取れないことを意味する気がして,ここでどんなフィードバックができるかは,コーチとしての力量を計る目安のような気がしている。その意味で,三人一組でやらないコーチング・セッションは重要な体験をしそこなっている気がしている。というより,メタ・ポジションの体験抜きのセッションは,いくらやっても,コーチ-クライアント関係といういつもの平面での振り返りしかできない,自分の限界領域が見えない気がする。それは,オブザーバー役からのフィードバックを指しているのではなく,自分がオブザーバー役をきちんとできるかどうかのメタ・ポジション体験を指す。

今回久しぶりに参加して気づいたことは,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11367327.html

で確認したこととつながる。

クライアントがテーマを語っている中に,すべてがある,ということだ。

そこに当面の悩みというか主題があるが,同時に,

それを問題にしているクライアント自身の姿勢,感情,思い,

その思いの背後にある,クライアントの価値観,大切にしていること,

もっと言うと生き方,

更には,こうなりたいという憧れ,夢,

あるいは,気づいていないかもしれないが,こう生きたいという生きざまへの希望,願望,

等々がねじれ,ないまぜになって言語化されている。

よく仕草や感情,息遣い,エネルギーレベルに注目という。僕は,人は,ことば(言葉と書くのと,ことばと書くことにも差がある。ここではことばにしてみる)にしている,と思っている。というか,

ことばにすること自体の中に,

ことばがある,と思っている。もっとことばに注目すべきだ。クライアントは,意味なく,そのことを言い出してはいない。

口に出たことばも,

言い出しかけたことばも,

そうとしか言えないが別のことばの隠れたフレーズや台詞も,

もっと注目すれば,そこには何かがある。そんなことを最近ひどく気にしている。

ことばは,

想いの,

気持ちの,

こころの,

あぶくだと思う(意識の20分の一しか言語化できないにしても)。

もちろん,言ったことではなく,その態度や表情を見るのも大事だか,そうではなく,

出されたことば,

出かけたことば,

をもっと大事にすべきた。それを,

別のことばに言い換えて返す,

要約して返す,

そのまま返す,

いずれにしても,そのことばの微妙なニュアンスの差の中に,クライアントは深い溝を,深い淵をみつける。

そのためのコーチのことばセンスは重要だと思う。

自分のことばに読み替えないことだ。

人は,持っていることばで見える世界が違う,

と言ったのはウィトゲンシュタインだと思うが,だからといって,同じことばだと,わかってはいけない。そのことばで見えているものを確認しないと,ことばの意味もニュアンスも違う可能性がある。

その人がその人であるのは,

エピソード記憶(多くは自伝的記憶と重なる)

の差だ。そこにたどりつかないと,本当のニュアンスはわからない。そして,その大事にしていることばには,その人の価値や大切にしているもの,その人の生き方につながっていく,と僕は信じている。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#ウィトゲンシュタイン
#言葉
#ことば
#エピソード記憶
#コーチ
#クライアント
#コーチング

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2014年04月28日

間(ま)


間抜けの,「マ」が気になり,続いて,

合間と間合と隙間,

という言葉がふと浮かんだ。

単なる思い付きだが,ここから,どんな展開にできるか,成り行き任せ,ということで…。

合間,というのは,物事の途切れた間,あるいは,「たまに」。

間合,というのは,何かをするのに適当な距離や時機,ころあい。調子や拍子の間。相手との距離。

隙間,というのは,モノとものとの隙,開いている時間,乗ずべき機会,油断。

隙間については,ニッチということで,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/392660201.html

で触れた。間合については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163431.html

で書いたことがあるし,間(ま)についても,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163296.html

で書いた。またひととの距離感についても,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163218.html

で書いたので,少し違うところから,考えてみる。

「間」という字が,まずは気になる。「間」は,「閒」の俗字とある。その意味は,

「門」と「月」。門の間から月の光が差し込んで「間」という意味を表したもの,

だとする。なるほど。象形文字だ。発音は,

呉音 : ケン
漢音 : カン
訓読み : あいだ,ま

およそ,意味は,

①「あいだ」二者間の物理的,時的又は形而上のへだたりのこと。間一髪,間隔,空間,隙間。年間,期間,時間。
②人と人との関係。人間,世間,仲間。
③隙を探る。間者,間諜。

等々。用例から,細かく見ると,

①(あいだ,ま,かん,けん)二者間の物理的へだたり。隙間,間隔,間合,眉間
②(あいだ,ま,かん)二者間の時間的へだたり。この間,いつの間にか,間近い,時間,合間,間食
③(あいだ,ま)二者間の概念上のへだたり。間違い,間引く,間抜け
④(ま)言葉のやり取りのタイミング。話す時に言葉を言わないでおく時間。間が悪い,間の取り方
⑤(ま,あいだ)人と人との関係。仲間,間柄,間に入る,間男
⑥(ま)部屋。板の間,居間,謁見の間,床の間
⑦(ま)めぐりあわせ,運,タイミング。間がいい,間が悪い,間に合う

等々。

どうも,鍵は,「間(ま)」になるようだ。ここからは勝手な妄想だが,合間と間合と隙間の違いを考えてみる。

合間,というのは,ニュートラルで,あいた「間」をさす。それが,主体的に意味を持てば,

間合,

になり,意味がなければ,

隙間になる。しかし,隙間は,

本来空いているべきでない,「間」が,空いていることだから,

隙,

にもなる。隙間は,あってはならないものだから,詰めるべきものだが,間合いは,その距離に意味があ。

間(ま),

を詰めれば,命取りにもなる。合間は,それを意識すると,意味ある,

距離,ないし空白,

となり,意識した側に,アドバンテージがある。だから,意識しなければ,

隙間,

に変わる。しかし,隙間は,間合いにはならない。本来空いていてはいけないというか,詰まっているべきものがあいているのたがら,

空穴来風,

という言葉があるそうだが,隙間があるから穴に風が入ってくる。その意味では,

知らぬ間に,

とか,

いつの間にか,

というのは,隙でしかない。人との距離も,モノとの距離も,出来事との距離も,情報との距離も,知識との距離も,須く,意識して,取らなくてはならないのだろう。それが,

専守防衛,

というものだ。

ぼんやりしていて,

いつの間にか,

相手に間を詰められてしまったのでは,ほとほと,

間抜け,

としか言いようはない。緊張感が欠ける,というか,そもそも,意識して,その間(ま)を選んでいないから,つまり,

方便として,

そう言っていただけだから,ぼろが出た。

間の取り方を知らぬものが,軍支度したところで,勝ち方をそもそも知らない。いままで,卑怯な,

奇襲,



不意打ち,

か,

騙し討ち,

を好み,都合が悪くなると,神風頼み。まことに,

どの時代を差して,

良い時代,

といっているんだか。ほとほと,

間抜けに見えて仕方がない。




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posted by Toshi at 04:46| Comment(2) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2014年05月04日

迷い


いまさら迷うような歳ではない,とふとつぶやいて,迷い,という言葉の意味が気になった。

言ってみれば,迷うということは,煩悩は凡夫ゆえに仕方ないとして,何かを未決のまま,決めかねている状態といっていい。まあ,ここまで生きてくると,それは少ない。というか,迷いを蹴散らさなくては(見過ごす,目を瞑るも含めて),生きてこられまい。

辞書では一番に,
①布の経糸と緯糸がほつれて偏ること,

とでる。つづいて,

②紙などが乱れること
③迷うこと,惑い
④まぎれること
⑤成仏の妨げになる妄執

とある。煩悩の方はさて置くとして,しかし,

迷い,

惑い,

は同じか?でもって,辞書を引くと,

事態を見極められず,混乱して応対の仕方を定めかねる意,

として,以下を挙げる。

①見当を失って途方に暮れる
②悩む,心が乱れる
③取り違える,考え違いをする
④うろたえる,あわてる
⑤髪の毛の乱れる
⑥他の動詞について,その状態がひどい意を表す。たとえば,荒れ惑い,

とある。どうやら,迷って,迷路に,というか迷いっ放しのまま,迷宮に入り込んだ状態が,惑いで,迷路の中で,何かを決めかね,決断がつかないまま混乱した状態ということになる。

迷いが,気分や混乱ではなく,何に迷っているのか,そしてそれが更に選択肢に切り分けられれば,ただの決断の問題に変わる。そうすれば視界は晴れる。

語源的には,迷うは,

①マ(目)+ヨウ(酔う)で,方向がはっきりしない意
②マ(織物の目)+ヨウ(酔う)で,織物の目の間隔が偏り,弛む意に,惑うとの混同が起こり,いまの意に。
③中国語源では,「迷」は,之(しんにゅう)+米(昧)

とある。では,惑いはと,言うと,

目(見当)+問う

で,検討を心の中で問うという意で,ぐるりと回って,迷いへ戻ってきてしまう。漢字的には,

或(わく)+心

で,狭い枠にとらわれた心,となる。

結局,どうしようかと戸惑っている状態から,どうしようかと迷いが生まれ,そのまま混乱の中に迷い込み,惑乱するところまでの,心のどこに焦点を当てるかで,意味のずれが生じてくる,ということになる。

思えば,迷っている状態では,その状態自体が,自分を引っ張り込み,何に迷っているかすら,見えなくなることは,確かにある。

極端に言うと,どつぼにはまる。しかし,考えようでは,少しシニカルに言えば,人生そのものが,迷路のようなものなのだから,そこで少々,

迷おうが,

惑おうが,

そんな差など大したことではないと言えば,言える。しかし,そのわずかな差に,人生を賭けなくてはならない時だってある。わずかな違いにこそ,おのれと他人の差はある,と言えば,軽々に見過ごしていいことではない。

しかし,だ。迷いがなければ,選択肢がなく,選択肢がなければ,決断(何かを捨てること)はない。

そういう人生ってあるのか?



参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)



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2014年05月17日

捌く


てきぱきと手際よく物事を捌く,というのは,傍から見ていて気持ちがいい。手際とは,要するに,

もの事を処理する腕前,

ということになる。手際とは,

手+キワ(処理を極める)

だから,手並み,腕前となる。

捌くは,

サ+分く

で,入り組んだ物事をきちんと処理する意味である。だから,捌くの意味は,

①入り乱れたりからんだりしているものを解きほぐす
②鳥・魚などを切り分ける。解体する
③扱いにくいものをうまく扱う。また,道具などを使いこなす
④錯綜した物事を手際よく処理する
⑤物事を解き明かす
⑥商品を売りこなす
⑦目立つように振る舞う
⑧ふるまう,おこなう
⑨理非を裁断する

と多様に,ものごとを処理する意味がある。

確かに,捌くには,前捌き,売り捌く,荷捌き,手捌き,太刀捌き,といった腕前に絡むことがおおい。では,

こなす(熟す),

のとどう違うのか。

こなすは,

コ(小・細)+なす(為す)

で,細かく砕くが本義。それから,消化のこなれるにもつながる。意味的には,

①食べた物を消化する
②かたまっているものを細かく砕く
③技術などを習って、それを思うままに使う。また、身につけた技術でうまく扱う
④与えられた仕事などをうまく処理する
⑤売りさばく
⑥見下げる。けなす
⑦動詞の連用形に付いて、自分の思いのままにする意を表す。うまく…する。完全に…する

等々。使いこなす,乗りこなす,読みこなす等々。こなすだと分かりにくいが,

こなれる,

だと,状態を示して,

細かくなる,砕けて粉になる,
熟して味がよくなる
物事に馴れる。世情につうじて角が取れる,
巧みになる

等々とよりはっきりしてくる。捌くは,動作面で見ており,こなすは,主体側で見る,つまり,捌くは,仕事や物事側,こなすは,スキル側とみれば,なんとなく,区別がつく。なんとなく,こなすには,小手先という感じがしてしまう。気のせいか。

しかし,こなすには,どこか,

やってのける
やり終える
まっとうする
やり遂げる
まっとうする

というニュアンスが付きまとう。やっとこさっとこ,必死でやり繰りしたというような。因みに,やり繰りは,

遣り+繰り

で,不十分なものを,あれこれ算段する工夫をさす。そんなニュアンスがある。

しかし,捌くには,

つかいこなす

というか,どこか軽やかな,

手綱捌き
太刀捌き
鑓捌き
前捌き
腕捌き
手捌き
足捌き

等々と,颯爽感がある気がするのは,思い過ごしだろうか。

身のこなし

身の捌き

と比較すると,こなしの方が軽く,捌きが重厚な気がする。しかし,

捌けた(人),

こなれた(人),

と,状態で表現すると,結局あまり差が無くなってしまうように見える。けれども,ニュアンス差はいくらか残り,

こなれた

というと,やっぱりスキルチックな軽さがある気がするのは,ぼくだけか。

こなれた人,

と言われるよりは,

捌けた人,

と呼ばれた方が,人としては,上に感じてしまう。錯覚かもしれないが,捌きに長けたものの方が,こなしに長けたものよりも,人としての重みが違うような…。

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posted by Toshi at 04:37| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2014年05月22日

嗜む


たしなむ,

という言葉の響きがいい。語源は,

タシナム(堪え忍ぶ)の変化,

だという。転じて,

深く隠し持つ,
常に心がける,
謹む,
遠慮する,
身辺を清潔にする,
有ることに心を打ちこむ,

といった意味になる,とある。ニュアンスは,嗜みは,

身につけておくべき芸事の心得を指し,「素養」よりも技術的な側面が強い,

とある。では,素養はというと,

日ごろから修養によって身につけた教養や技術を指し,「心得」や「嗜み」に比べ,実用面より知識に重きを置く,

とある。では,教養はというと,

世の中に必要な学問・知識・作法・習慣などを身につけることによって養われる心の豊かさを指す,

とある。どうも,心映えに関わる気がする。心映えについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html

で触れたが,心ばえも,

心延えと書くと,

その人の心が外へ広がり,延びていく状態をさし,

心映え

と書くと,「映」が,映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態になる。心情的には,

おのずから照りだす,

心映え

がいい。つまり,内側のその人の器量が,外へあふれて出るよりは,おのずから照りだす,というのが,

嗜む,

というつつましさに似合っている。どうも,嗜みは,教養,素養,作法よりも,それをもっているとは言わなくても,そこはかとなく滲み出てくる,そんなニュアンスである。そういう,

自制,というか,慎みというか,節度,というか,謹む,とか,床しさ,

という感覚は,セルフブランディングがよしとされる今日にはそぐわないのかもしれない。

しかし,昔は一杯いた。落語の大家さんのような物知りではなく,影のように付きまとうものといっていいのか,それを,

品とか,

雅とか,

優とか,

というのだろうか。ひけらかすとか,見せびらかすのではない,そういう奥ゆかしさと,

嗜む,

とか,

嗜み,

というのはつながる気がする。

まあ,がさつで,無作法,品とか雅とかとは無縁な僕が,ないものを見て憧れる,そういう類のものかもしれない。いまどき,そんなものは,どこにもない,という気がする。


参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 07:10| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2014年05月30日

知る


たしか,映画『たそがれ清兵衛』の中で,娘が,裁縫を習うのは役に立つが,学問をすることが何の役に立つか,と問うところがあった。そのとき清兵衛は,自分の頭で考えることができる,という趣旨のことを答えていたと記憶する。

考えるについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389704147.html

で触れたので,ここでは,知る,ということを考えてみたい。

知るには,語源的に二説ある。

ひとつは,

「シルシ(著し)」で,はっとはっきりわかるから,シル(著る)

という説。つまり,腑に落ちるというか,理解する,ということだ。いまひとつは,

心を占領する(領る),つまり占る,

だという。つまり,ある現象・状態を広く隅々まで自分のものにする,という意味だ。

学は思に原(もとづ)く

とはそういう意味のような気がする。

学びて思わざれば則ち罔(くら)く,

とはそのことだ。

それで思い出したが,前にも書いたことがあるが,

ライルが,知(ってい)る(knowing)には,

Knowing that



Knowing how

があると言っていた。

Knowing thatとは,

~ということを知っている

というこであり,

Knowing howとは,

いかに~するかを知っている

ということになる。ここで,清兵衛が答えたのは,前者の意味だ。それは,違う言い方をすると,

Knowing how

の持っている意味を知っていることこと,と言い替えていい。つまり,

メタ知識

である。現実にいま,われわれが直面しているのは,

解き方のわからないこと(問題,事態),

ではなく,

意味の分からないこと(問題,事態),

であり,それを解明することが,まさに考えることなのだといっていい。だとすると,そのときわれわれが,使えるのは,アナロジーなのではないか,と思う。

問う、如何なるか是れ、「近く思う」。曰く類を以って推(お)す

のと同じである。いわば,アナロジーというのは,自分の既知のものを,

異質な分野との対比を通して,

理解することといっていい。

例えば,Aを,それに似たXを通して見る(理解する)というのは,

・Aの仕組みをXの仕組みを通して理解する

・Aの構造を構造を通して理解する

・Aの組成をXの組成を通して理解する

・Aの機能をXの機能を通して理解する

等々。アナロジーで見たいのは,見えない関係を,「~を通して」見ることで見つけることである。

アナロジーは,次の2つにわけることができる。

●類似性に基づくアナロジーを,「類比」
●関係性に基づくアナロジーを,「類推」

前者は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだすのに対して,後者は,両者の間の関係を見つけ出す。特に関係性が重要なのであるが,これには,次の2つのタイプがある。

・両者の構成要素のもつ関係性からの類推
・両者の関係から生み出す全体構造の類推

以上のことから,アナロジーによる理解には,次の3パターンがある。

・全体に関係が似ているものを見つける
・部分からつながりを見つけ,そこから逆算して関連するものを吸引する
・部分と部分の関係の断片から全体像を見つける

アナロジーのように,既知と未知について,こういう操作をしているということは,メタ・ポジションをとっていることといっていい。つまり,自分の既知と未知とを俯瞰していくメタの位置である。

知るとは,究極,

Knowing that

なのだが,知れば知るほど,

パースペクティブが深まる,

のは,結局,メタ・ポジションが,どんどん高くなっていく,言い換えると,

俯瞰する世界が広く大きくなっていくこと,

に他ならない。

博く学びて篤く志り,切に問いて近く思う,

知は,その中にある,

である。

参考文献;
G・ライル『心の概念』(みすず書房)
佐伯胖監修『LISPで学ぶ問題解決2』(東京大学出版会)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年06月01日

心が折れる


心が折れる,とは,

諦めるや挫折といったような心境

を意味するらしい。

最近使われ出した。印象深いのは,イチローが使ったのだが,元祖は,女子プロだという。

折れる

とは,

曲って二重になる,
曲って,二つに別れ離りる,
道などを曲がる,
挫ける,気勢を削がれる(腰が折れる)
主張・意見を和らげ,相手に従う
ものごとに苦労する(骨が折れる)

とあって,いまのような使い方の「 心が折れる 」の含意がなくはないが,

勢いがそがれる

というニュアンスで,いまの言い方とは微妙に違う。

女子プロで使っていたのも,ウィキペディアでは,

相手の心を折ることだった。骨でも,肉でもない,心を折ることを考えていたんで,相手を痛めつけようとは思っていなかった。本当に相手を痛めつけることなんか,目的じゃなかった。柔道やってたから,勝負に負けるときっていうのは,最初に心が折れるってこと知ってた。

という言い回しだったらしく,

再び立ち上がろうとする相手選手の気力を萎えさせ,奮い立つ気持ちを煮えさせる,

という意味だということができる。その意味では,

気勢を削ぐ,

の延長線上で,別に特に新しい言い方とは言えない。しかし,格闘家にとって,

腕を折られても心が折れなければ負けではない,

どんなに敗北だとされても,自分の心が負けを認めるまでは闘争は続く ,

という敢闘精神というか,

心が負けない,

の意味だとされるから,少し意味がシフトしていなくもない。ダメージが,

精神(こころ)

に及んだ状態,ということだと,削がれるというよりは,

挫ける,

という意味になっている。その延長線上で,「心が折れる」の現在の使い方は,

懸命に努力してきたものが,何かのきっかけで挫折し立ち直れなくなる状況,

と解説される。たぶん,それを決定的にしたのは,イチローの,WBCでの,

ほぼ折れかけてた心がさらに折れて,

という言い回しだったらしい。しかし,この経緯をみると,心が折れるには,それなりの背景が必要で,ただ,

めげる,

落ち込む,

凹む,

ギブアップ,

という気分とは違うような気がする。文脈の中で,自分が最早どうにもならないほど,自分の力の限界を思い知らされて,完膚なきまでに,打ち負かされた状態,

失望

絶望

の差くらいの隔たりなのではないか。それなりの,

努力と精進を経て実力を養ったものにだけ使える言葉,

という気がする。とっさに思い浮かんだのは,武田信玄の挑発に(に乗らざるを得ない状況で,あえて)乗って,三方ケ原で,完膚なきまでに,まさに鎧袖一触,弾き飛ばされて,恐怖で自分の糞尿に紛れて,浜松へ逃げ帰った,松平家康の心境こそ,それにあたるのかもしれない。

しかし,そのおのれの醜態を,そのまま自戒の意味で肖像画として描かせたあたりが,家康の家康らしいしぶとさなのかもしれない。その意味で,

心が折れた,

と言っている人は,(イチローも振り返ってそう言っていたように)そういう自分の追い詰められた状況を,メタ・ポジションから見るもう一つの目をもっている。あるいは,だから,

折れた,

のではなく,

折れかけた,

と言ったのかもしれない。心の折れ切った人は,心が折れた,などとは言わない気がする。その意味で,軽々に,凡人が,

心が折れる,

などという言葉を使ってはならないのかもしれない。

と書いてみて気づいたが,

こころが折れる,

心が折れる,

精神(こころ)が折れる,

とでは微妙に異なるのではないか。

精神(こころ)が折れる,

は文字通り,おのれを失うに近いニュアンスな気がする。自分の骨格をなす精神そのものが木端微塵にされたような。だとすると,それを認めるおのれがいる。だから,こうなのではないか。

心は折れる

が,

精神(こころ)は折る

ものだ,と。



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2014年06月06日

甲斐



「かい」とは何だろう。

甲斐は,

行動の結果として現れるしるし。努力した効果,
期待できるだけの値うち,

とある。

甲斐は,

甲斐,
詮,
効,

を当てる。しかし,

甲斐がない,

詮がない,

効(目)がない,

では微妙に違う。

詮は,「はかり」の意味で,

物事の道理を明らかにとく,
物事の道理が整然と備わっている,
言葉や物事をきれいにそろえて,よいもの,正しいものを選びとる,
煎じ詰める,結局,
詳しく調べる,
なすべき方法,

と,ある。しかし,

甲斐性,
生き甲斐,
やり甲斐
年甲斐,
甲斐がある,
甲斐甲斐しい,

という使い方から見ると,「甲斐」には,

ただの効き目や効果やその測定だけではなく,

値打ちの有無,

のニュアンスがあるような気がする。語源的には,

かう(支う)の連用形。大工の「支う(かう)」では,「こんな細い棒ではカイ(支え)がないのと一緒」

という。とっさに浮かぶのは,突っ支い棒。そこでいう,「支い」と同じではないか,と思う。

かう(替う)の名詞化という説もあるが,そこからも,代価,代償,値打ちの意味が,確かに出てくる。

生きる(た)値打ち
やる代償

と解釈は可能になるようだ。

しかし,値打ちには,自分にとっての意味という部分と,ひと様から見ての意味の部分と二つある。甲斐というとき,その両方のニュアンスがある。

自分から見ると,値打ちだが,
相手から見ると,手ごたえ,張り合い,になる。

いや,

相手からの手ごたえ,張り合いが,
自分の値打ちを確かめるものになる,

とも言える。自分の甲斐が,相手に影響し,その影響が自分に反照する。結局,

甲斐,

は自己完結するのではなく,人との関係のなかで,影響し,反照する中で,強められるのかもしれない。

自分の自己対話の中では,甲斐は,張り合いのない,甲斐のないものなのかもしれない。それと,

行動の結果として現れるしるし,

という言い方からすると,一瞬のそれを測っているのではなく,積み重ねた結果を言っているようでもある。

そこにある,それ自体に,それまで生きてきた歳月の重みがあるのか,

そこで,このまま,生きていく値打ちがあるのか,

と。その歳月が,

馬齢,

なるかどうかは,自分の甲斐次第,ということになる。いや,そういう,照らし,照らし返される関係そのものの積み重ねの中で,

年甲斐

も生まれるのではないか。


参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




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2014年06月07日

すみません


つい言ってしまわないか。

すみません

と。大概曖昧だ。謝る意思を示すときは,

ごめんなさい,

と言う。しかし,すいませんは,ちょっとニュアンスを濁す感じがある。

すむ,

は,

住む,済む,澄む,清む,棲む,栖む,

と当てる。

すみませんは,語源的には,僕の見たものでは,

「澄み+ません」で,謝罪,感謝,依頼などで,「済みません」と書くので,「完了しない」とされることが多いが,違うのだという。

スミは,澄むが語源。かきまわした泥水が,時間経過とともに沈殿して清らかに澄んでくる。同じように,澄むはずの心が,澄まないのが,済みません,の語源,

なのだそうだ。

人から恩義を受けて,心がかき回され,いつまでも心の中が済まない,安定しない状態,

これが済みません,なのだという。

そう受け止めると,北山修氏が,こう書いていたのが,よく分かる。

「済みません」は,周辺や相手の状態がなかなかすまないという状況とともに,「御迷惑おかけして」「ご面倒をおかけして」と,相手にかけた迷惑が自分の心のなかで澄まない,落ち着かない,乱れている,という感覚や自体も捉えています。つまり,周りに濁りや乱れ,騒ぎを生じさせたことについて「すまない」と言い,相手だけではなく自分も内的にすんでいないことを進んで認め,謝罪の言葉としているわけです。それは対話の相手に向けられた謝罪であると同時に,澄んでいることを最高の規範のひとつとして共有する周りや周囲,つまり共同体に対し,自らのすんでいないという,浄化の不十分さを謹んで申し上げているのです。

そう考えると,あいまいさの中に,自分の側の落ち着かなさをも含めているということになる。その段階で,

謝罪,

の責任の所在を,相手にも分有させようとしている,と取れなくもない。

これを英語に訳そうとすると(確かではないが),

○感謝。 Thank you very much

○お詫び。I am sorry.   
     Excuse me

ネットで見ると,もっと細かく分けているのもある。

1相手の立場に関係なく使える表現(通常の表現)I'm sorry.
2「本当に申し訳ございません」と述べる時(通常の表現)I'm very sorry.
3「残念ながら,~です」という表現(丁寧な表現)Unfortunately, ~.
4会議に遅れる場合(丁寧な表現)Please excuse my lateness.
5たいへん地位の高い人に謝罪の意を述べる場合(丁寧な表現)A thousand apologies.
6「恐縮ですが,~です」という表現(やや丁寧な表現)I'm afraid ~.
7「ご理解お願いいたします」という言い回し(やや丁寧な表現)We hope you understand.
8ウェートレスがお客さんの注文を間違えた場合(やや丁寧な表現)I'm terribly sorry.
9本当に罪悪感を感じて謝る場合(やや丁寧な表現)I can't apologize enough.

まあ,ここまで細かに分けなくても,感謝と謝罪が,含まれているのでいいのだが,それだけの含意を,

すいません,

の一言ですませてしまうということは,

謝るのでも,

詫びるのでも,

礼を言うのでも,

ない,結局両者の文脈に強く依存していて,その微妙なニュアンスを,文脈まかせにする,

すいません,

なのだと思う。最近,僕が似たような便利な言葉で,多用しているのは,

恐縮です,

という言い方だ。これも,「すいません」よりは少し軽い,

ちょっとした感謝,

ちょっとしたお詫び,

ちょっとした謙譲,

を含めている。便利だが,本当に詫びなくて話せない時に,

ごめんんなさい,

が言えないということは,本当にお礼を言わなくてはならない,言いたいときに,

ありがとうございます,

が言えない,ということのような気がする。なんとなく,文脈に流して(相手のせいかも,という余韻を残す狡さがある),その場を切り抜けるような方便ではないか,という気がしないでもない。

言葉は,その人の姿勢を示す,もう少し,はっきり言うと,

生き方を示す,

曖昧で玉虫色の言い回しで切り抜ける,というのは,そういう生き方をしていく,と言っている,というか言わず語りに現れてしまっているようで,ちょっと気色悪い。

自分が,

というIメッセージというのは,

自分の責任で発する,という意味があるはずで,

主語を明確にするのと同様,

意味の明晰,明瞭な言い方をすべきなのだ,とつくづく思う。自省,自戒を込めて。

参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




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2014年06月15日

立つ


立つの語源は,「タテにする」「地上にタツ」らしい。立つ,建つ,起つ,発つ,は中国語源に従うとある。これと別系統で,「タツ」というのが,裁つ,絶つ,断つ,とある。これは,タチ切ル,のタチから来ているらしい。

では,立つの意味は,というと,これが凄い。広辞苑(電子辞書版)をベースにいくつか加えると…。

1事物が上方に運動を起こしてはっきりと姿をあらわす
 ①雲・煙・霧などがたちのぼる 「霧が立つ」
 ②月・虹などが高く現れる 「月が立つ」
 ③新しい月・季節がくる 「春が立つ」
 ④波・風などがおこる 「風が立つ」
2物事があらわになる,はっきりあらわれる
 ①高く響く 「声が立つ」
 ②人に知れ渡る 「名が立つ」「目立つ」
 ③はっきり示される 「値が立つ」「押し立てる」「打ち立てる」
3作用が激しくなる
 ①湯がわきたぎる 「湯が立つ」
 ②激しくなる 「腹が立つ」
 ③起こる,生ずる 「不思議立つ」
 ④切れる 「切り立つ」
4(「発つ」「起つ」)ある場所にあった物がそこから目立って動く
 ①たてに身を起こす 起き立つ」
 ②毛などが逆立つ 「逆立つ」
 ③身を起こしてそこを離れる 「座を立つ」
 ④まかる,退出する 「承りて立ちぬ」
 ⑤出発する 「京を立つ」「早立ち」「旅立ち」
 ⑥鳥が飛び去る 「飛び立つ」
 ⑦勇気をもってことを起こす 
5ものが一定の,たてに真っ直ぐになってある
 ①足などで体がまっすぐに支えられている 「火中に立つ」
 ②草木などがまっすく生えている 「電信柱がたつ」
 ③とげ・屋などがたつ 「矢が立つ」
 ④丈の高いものが位置を占めている 「山が立つ」
 ⑤とどまる,たたずむ 「辻に立つ」
 ⑥地位を占める 「先頭に立つ」「優位に立つ」「苦境に立つ」
 ⑦要な役目・地位につく 「教壇に立つ」「選挙に立つ」
⑧位に即(つ)く,位に昇る 「后に立たせ給う」
⑨戸,ふすま,扉などが閉ざされている 「襖が立つ」
 ⑩突き出た形のものができる 「霜柱が立つ」「角が立つ」
 ⑪目的をもってある場所に身を置く 「街頭に立つ」
6(建つ)事物が新たに設けられる
 ①建造物が造られる 「家が立つ」「銅像が立つ」 
 ②初めて設けられる 「市が立つ」
7物事が立派に成り立つ
 ①用にたえる 「役に立つ」「御用に立つ」
 ②そこなわれずに保たれる 「「男が立つ」
 ③やっていける 「暮らしが立つ」
 ④道理・筋道が通る 「理屈が立つ」「見通しが立つ」
 ⑤はたらきが優れている 「筆が立つ」「弁が立つ」
⑥目標などが定まる。 予定が立つ」「計画が立つ」
⑦割り算で商が成り立つ 「六を二で割ると三が立つ」
8物がたもたれた末に変わって無くなっていく
 ①炭火・油などが燃え尽きる 「蝋燭の立つ」
 ②(経つ)時が経過する 「月日が立つ」「一年が立つ」
9他の動詞について,その行為が表立っていることをあらわす
 「思い立つ」「いきり立つ」「はやり立つ」「急き立つ」「競い立つ」「気負い立つ」「勇み立つ」「力み立つ」「奮い立つ」

すっごく単純に言うと,具体的に横たわっているものを「立てる」,という意味が抽象度が上がっても,そのままの意味を保っている,というと大雑把すぎるか。

もともと坐っている状態が,常態だったのだから,

立つ,

ということはそれだけで目立つことだったのに違いない。そこに,

ただ立ち上がる,

という意味以上に,

隠れていたものが表面に出る,

むっくり持ち上がる,

と同時に,それが周りを驚かす,

変化をもたらす,

には違いがない。

立つ,

には特別な意味が,やはりある。

引き立つ,
思い立つ,
気が立つ,
心が立つ,
感情が立つ,

あるいは,

忠義立て
隠し立て
心立て

という使い方もある。伊達も「取り立て」のタテから来ているという説もある。そう思って,振り返ると,腹が立つ,というように,立つが後ろに付くだけではなく,

立ち会い,立ち至る,立ち売り,立ち往生,立ち返る立ち並ぶ立ち枯れ,立ち遅れ,立ち働く,立ち腐れ,立ち遅れ,立ち竦む,立ち騒ぐ,立ち直る,立ち退き,立ち通す,立ち回り,立ち向かう,立ち行く,立ち入り,立ち戻る,立ち切る,立ち居振る舞い,立ち代り,立ち消え,立ち聞き,立ち稽古,立ち込み,立ち姿,立ちどころに,立ち退き,立ちはだかる,立て替え,建て替え,立ち水,立ち塞がる,立待の月,立て板,立て付け,立て直し…。

「立つ」ことが目立つ,ある特別のことだというニュアンスが,接頭語としての「立ち」に波及している。しかし,

立場,立木,立つ瀬,建前,立て方,立ち衆,立行司,立て唄,立女形,立て作者,立ち役…,

と見ると,「立つ」には,特別な意味がある。詳しく調べたわけではないので,素人考えだが,「立つ」ことが,際立って重要で,満座が坐っている中で,立つことがどれほどの勇気がいることで,目立つことかと思い描くなら,「立つ」には,いい意味でも,悪い意味でも,目立つ,中心に立つ,という意味が込められている。

今日,立つこと,立っていることが当たり前になったとき,

立つ,

と同じような効果のある,振る舞いはなんであろうか。かつて,

立つ,

とは,

(おのれが)やる,

ということを主張するに等しかったとすれば,それと同じことは,いま,

よほど目立つことでなれければ,

誰にも気づかれぬことになる。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
『広辞苑(第五版)』(電子辞書)(岩波書店)




今日のアイデア;
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2014年06月22日

視圏


持っている言葉によって,見える世界が違う。

と,ヴィトゲンシュタインが言ったと思い込んでいるが,見当たらない。あるいは,

私の言語の限界が私の世界の限界を意味する

をそう読み替えたのかもしれない。いずれにしても,持っている言葉が,

その人の世界

を限る。

確か,僕の理解では,敗戦に対する思想的な決着として,和辻哲郎は『鎖国』を書いた。鎖国とは,

鎖された国の状態

を指すのではなく,

国を鎖す行動

を意味すると,わざわざ断っていた。その中で,象徴的に,

視圏

という言葉を使っていたように思う。視線の射程を指す。見える視界の違い,である。われわれはいま,その深刻な反省を忘れて,同じく,

国を鎖す行動

をとろうとする為政者に引っ張られて,いつか来た道を歩かされようとしている気がしてならない。相変わらず,

視圏

が,狭く,短く,自己完結している。むしろ,閉鎖的で,自己肥大ですらある。夜郎自大のことである。その言葉で,見てほしい視界があった,といってもいい。

ところで,ランボーの詩(「母音」)に,

Aは黒,Eは白,Iは赤,Uは緑,Oは青,

というフレーズがある。さらに,『地獄の季節』には,

俺は母音の色を発明した。――Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。――俺は子音それぞれの形態と運動とを整調した、しかも、本然の律動によって、幾時かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようとひそかに希うところがあったのだ。俺は翻訳を保留した。(「錯亂Ⅱ」)

とある。たまに,文字に色が見える人があるようだから,ランボーもそうなのかもしれない。「青」「緑」という,そのとき彼の見ていた色がどういう緑色,青色だったかまでは,確かめようはない。

直前の青と
直後のみどりは
衝撃のようにうつくしい
不幸の巨きさへ
そのはげしさで
つりあうように(石原吉郎「不幸」)

あおは,

蒼,青,藍,碧,

とある。「あお」は,

アオカ(明らか)

が語源であろうとされている。だから,藍から藍,緑までを,「あお」と呼んだ。

みどりは,

緑,碧,翠,

とあてる。「みどり」は,

「水+トオル(通・透)」

を語源とする説があり,「緑」をあてる。ミズミズしさ,をミドリと言ったとする。だから,ミドリの黒髪,みずみずしいミドリゴ,若葉の透き通るようなミドリ等々と使われる。

いまひとつ,「カワセミの古語,ソニドリ,ソミドリ」から来たという説もある。

古代日本には,アオ,クロ,シロ,アオしか色名がなかったとされるので,「アオ」の中に,含まれてしまう。「みどり」という語が登場するのは平安時代になってからである,といわれる。

海は断念において青く
空は応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である
むしろ色彩へは耳を
紺青のよどみとなる
ふかい安堵へは
耳を(「耳を」)

このとき,青であって,蒼でも,藍でも,碧でもない。そのことに意味がある。とすれば,使う文字によって,見てほしい視界がある,といっていい。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163545.html

でも書いたが,吉本隆明が,違和ではなく,

異和

と表現するには,その言葉の向こうに,見てほしい世界があるからなのではないか。

言葉を選べは,藍と蒼と青と碧では,見える色が違う。

しかし,為政者は,ひとつの言葉で,丸めて言う。例えば,戦後,自衛という言葉を弄びつづけて,とうとう閾値をこえるところまで来た。かつて,防衛線という言葉を弄んで,中国に侵略し続け,ついに対米戦に踏み出したのを思い出す。気をつけないと,見ている世界が違う。



今日のアイデア;
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2014年06月23日

ヒマ


暇だな,と思ったとき,では暇ってなんだ,と疑問がわいた。

ひまは,

暇,
閑,
隙,

の字を当てる。「すき」との差はあまりない。同じ字を当てる。語源的には,

ヒ(すいたところ)+マ(すきま)

とあり,空間的なヒマから時間的なヒマへと変化した,という。ただ,中国語では,



は,隠れた価値をもつ時間という意味で,

日+瑕(未加工の玉)

という。国語辞典的には,

①物と物とのあいだの透いたところ
②継続する時間や状態の途切れた間
③仲の悪いこと
④仕事のない間,手すき
⑤都合の良い時機,機会
⑥何かをするのにかかる時間,手間
⑦雇用,主従,夫婦などの関係を絶つこと
⑧一時的に休むこと,休暇
⑨(多く「おいとまする」の形で用いる)別れて去ること。また、そのあいさつ。辞去。
⑩喪に服すること。またそのために出仕しない期間
⑪ある物事をするのに空けることのできる時間

等々がある。隙間については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/392660201.html

で触れたが,

空いた時間というのは,ある意味ニュートラルなのだが,そこに,隙間としての意味を加えると,

切り離す,

別れる,

喪,

と言った意味にもなるし,

好機,

手間,

余裕,

にもなる。本来ニュートラルなのだから,

ヒマが明こうが,
ヒマを潰そうが,
ヒマを出そうが,
ヒマを欠こうが,
ヒマを取ろうが,
ヒマを盗もうが,
ヒマに飽かそうが,
ヒマをやろうが,

それ自体に是非も可否もないはずだか,その隙間に,こっちから,あるいは,相手から,意味つげされると,その隙間自体が意味を持ってくる。

ヒマを見て,
ヒマな折に,

ヒマを弄んでもいいはずなのである。しかし,「マ」,つまり,

間(ま)

ととらえると,プラスのというか,積極的な意味になる。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395727101.html?1398628507

で触れたし,これを,

間合い,

と更に意味づけすると,もっとその「ヒ+マ」の意味が変わる。これについても,

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20130908-1.html

で触れた。隙間の距離を,

隔てととるか,

距離ととるか,

間ととるか,

で,こちら側の見る位置が違う気がする。間の中に即自的にいるか,対自的にいるか,間を対象化するか…。

自分との間

人との間

自分の振る舞いとの間
か,あるいは,
自分の人生との間
か…,

こんな文章を見かけた。

「生きがい」をもとめるという動機の観点から注目すべきは,人とは生き甲斐や意味を求めるいきものだという人生観は人が空洞や空虚であることを前提としており,どれほど独創的で価値の高い自己実現であろうとも,生きがいや自己充実とは空虚のひとつの防衛手段であり,生きるための意味を求めるのは無意味の防衛であり,人生の目標も目標喪失の自己防衛だというわけなのです。

こういう言い方もある。本来,たかだか百年足らずという人生の,一瞬の光芒を,闇と闇の隙間,と呼んでもいい。

しかし,その当事者としては,意味のない時間とは思いたくないから,一生かけて,意味を見つけようとする。

それも,本来ニュートラルなヒマのひとつに過ぎない。

といっても,自分とっては,

日+瑕

なヒマではある。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
北山修『意味としての心』(みすず書房)





今日のアイデア;
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2014年06月29日

切ない


切ない,などという心境は,加齢とともに,心臓が鈍磨し,感じなくなって久しい。なかなかナイーブな気持ちに思う。

意味的には,ともかく,語源的には,

切+ない(甚だしい)

で,心が切れるほどの思い,とある。

だから,語義的には,

①悲しさや恋しさで、胸がしめつけられるようである。やりきれない。やるせない。
②からだが苦しい。
③身動きがとれない。どうしようもない。

とある。まあ,

苦しい,
辛い,
やるせない,
たまらない,
やりきれない,
悩ましい,
憂い,

が類語にある。しかし,

苦しい,
辛い,

とはちょっと隔たり,

悩ましい,
たまらない
憂い,

ともちょっと違和感がある。ここからは,ちょっと勝手な妄想に近いが,どこか,嫉妬に似ている,と感じている。嫉妬は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163434.html

で触れたことがあるが,嫉妬というのは,

その立場に成り代われなかった,そこに自分がいたらよかったというそのポジションに自分がいない,どうあがいてもそこにいられないということに対する悔しさといっていい。しかしそもそもそこには自分は立てないことは気づいている。気づいているから,なお悔しい。嫉妬は,その距離が微妙だ。その位置にいられそうな,一つ間違うとそこにいたかもしれない,そうなれたかもしれないのにそうなりそこなった,そんな間合いが,悔しさというか,身もだえするような生なまましい悔しさを感じさせる。

切なさは,それに似ている。というか,その悔しさとダブる。

だから,憧憬とは違う。憧れほど遠くはない。近いのだ,近いが,その同じところにいない,しかも到底届かない,と思い知っている歯がゆさがある。

ザ・フォーク・クルセダーズが,イムジン河が発売自粛にされたため,急遽つくられたといういわくつきの,「悲しくてやりきれない」は,サトーハチローの詩だ。

胸にしみる 空のかがやき
今日も遠く眺め 涙を流す
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせないモヤモヤを
誰かに告げようか

白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて悲しくて
とてもやりきれない
このかぎりないむなしさの
すくいはないだろか

切なさとやるせなさとやりきれなさが,重なるところに,この詩がある。それは,ひょっとすると,若さではないのかもしれない。若いということは,また無限の(と思えるほどの)時間がある(ようにみえる)。だから,その切なさは,ひょっとすると,自己陶酔かもしれない。自己悲哀かもしれない。しかし,心のどこかに時間を頼んで,まだいけるという希望の影が兆す(気がする)。

しかし歳とともに,その距離は埋まらないことを,身に染みて悟るようになる。

四十五十にして聞こゆること無くんば,斯亦畏るるに足らざるのみ,

である。だから,切なさは,二重である。

距離は遥かに遠のき,

しかも,

おのれに残された時間がすり減っている,

まあ,切なさとは,この歯がゆさではないか。



今日のアイデア;
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2014年07月07日

ことば


ことばというのは,『大言海』には,

口にあらわるる意なるべし。ことのは,とも,口のは,ともいう

とある。しかし,語源的には,三説あるらしい。

①コト(言)+ハ(葉)で,言の葉が語源とする,紀貫之の『古今集』の序で述べている説
②コト(言・事未分化)+葉(茂らせる)が語源。事柄を口に出し茂らせる意
③コト(言・事)+ハ(端)が語源で,事柄の一端を口に出すのが言葉,という説

しかし,「ことば」を,漢和辞典でひくと,





辭(辞)

と出る。ことばを,いろいろな漢字に当てたらしいのである。そのつど,どの字に当てるかで,そこに見えて(見ようとして)いた世界が違うはずである。

確かに,中国語では,それぞれ意味に差がある。

舌は,口に在り,言う所以,とあるので,それとの関連だろう。弁舌,饒舌,舌戦など。

言は,辛(切れ目をつける刃物)+口で,口をふさいでもぐもぐいうことを,音・諳といい,はっきりかどめをつけて発音することを言と言う。彦(げん)は,かどめのついた顔,岸(がん)はかどだったきし,で同系。

語は,交差して話し合うこと,

詞は,言+司(つなぐ)で,次々とつないで一連の文句を作る小さい単位,単語や単語のつながりを言う。嗣(後を継ぐ小さい子)と同系。

辭(辞)は,乱れた糸をさばくさま+辛(罪人に入れ墨をする刃物)の意で,法廷で罪を論じて,乱れを捌く言葉を指す。詞と同系。

合わせて「言う」との使い分けで言うと,

言う・謂うは,ほぼ同じで,言うは,口に思うところを口に述べる。謂う,人に対して言う,あるいはその人を評する時も,これを使う。

曰う・云うは,ほぼ同じ。ただ,云うは,意が軽く,曰うは,意が重い。

とある。

言葉は,それを使うことで見える世界が違う,あるいはそれによって(相手に)見させようとする世界があるのだとしたら,

こと(言)

ですんでいたものに,あえて,

ことば(言葉)

と,「は」をつけるには意味があったのではないか,という気がしてならない。



が端緒とするならそこに謙譲というか,謙遜が込められている,というのが正しいかもしれない。

かつては,言霊というほど,事と言とは一体化していた。言は事を引きずっていた。いわゆる言霊とは,一般的に言われるように,

人から出た言葉が現実に何らかの影響を及ぼす,

ということだけではないようである。そこにあるのは,畏れである。

神意

があって,初めて

言葉がその霊力を発揮する,

神意の込められた言が,霊力を持つのである。有象無象の言ではない。そこにあるのは,神への畏れである。そういう類の「言」であったとすると,それとは別の言は,

端くれ

である。そういう意味ではないか。

特に,事とのつながりの強い象形文字の漢字ではなく,かな,を指していると想像するのは,無理筋ではないだろう。

しかし紀貫之が,『古今集』の仮名序で,

やまとうたは,人の心を種として,万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人,ことわざ繁きものなれば,心に思ふ事を,見るもの聞くものにつけて,言ひ出せるなり 花に鳴く鶯,水に住む蛙の声を聞けば,生きとし生きるもの,いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし,目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ,男女のなかをもやはらげ,猛き武士の心をも慰むるは,歌なり

と書くとき,そこには,ひそかな矜持がある。神の霊力からも「事」からも解放された,

(ひら)かな

という文字の,たかが,

端くれ

の言の葉への自信である。

それは,やまとことばが,自分を表現できる文字を持ったことへの高らかな宣言にも見える。

もっとも,この序は,『詩経』の大序の,

天地を動かし,鬼神を感ぜしむるは,詩より近きは莫し,

からのパクリらしいのだが,まさに,そこにこそ,やまとことばが獲得した表現世界がある,というべきである。

言(=事)

からの離脱であり,

借り物の万葉仮名

からの自立でもある。

それは,漢字のもつ,象形文字ならではの,重い意味と事のくびきからの自由でもある。そこではじめて,やまとことばの表現の世界が,広がったのである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)



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2014年07月12日

ご免


天下御免の向う傷,

と言ってピンとくる人は,ほぼ同年代といっていい。しかし,この場合の,

御免



ごめんなさいの

ご免

が同義とは到底信じがたい。語源的には,

御+免

で,

免ずる(免許,免職)の尊敬語

とある。「お許しを」の尊敬語となる。しかし,語義は,

①免許の尊敬語。お上のおゆるし。「天下御免」はそれ。
②免官・免職の尊敬語。お役御免。
③容赦・朱免の尊敬語。転じて,謝罪(ごめんなさい),訪問(ごめんください),辞去(ごめん蒙る)
④希望しないこと,嫌なこと。何々は御免だ。

と微妙に違う。

思うに,本来は,対手に対して,

許可

をもらうということであったはずが,その尊敬語としてのニュアンスが,立場の上下関係に転じて,というか,あるいは,へりくだって,

お許しをいただけますか

と言うニュアンスに転じたといっていい。

だから,本来は,

免じていただけますか,

という風韻,というか味わいだったような気がする。

それが,文脈によって,

お尋ねしたいのですが,お許しいただけますか

が玄関口や店先での,

ご免ください

であり,

ここで失礼したいのですが,お許しいただけますか,

が,辞去や退席の,

御免蒙ります(ごめんなすって)

となり,

それだけはご勘弁いただきたい,

が,

御免蒙る,

となった。もともとどんな言葉も,文脈依存だから,英語はよくわからないが,

God bless you!

もそういう転調の一種だろうが,日本語は,とくに文脈に依存して,

左様なる次第ですので,ここでお別れします,



さようなら,

になり,

ここで,

になり,

じゃあ,

になり,

では,

になる。そこにる人にのみに,「じゃあ」のニュアンスは伝わる。そこには,その場にいる人同士の,互いの関係性の

ぬくもり,

というのがあるはずだからである。

その意味では,丁寧語と言うのは,

文脈によっては,場違いと言うか,場の雰囲気を壊すこともある。

その意味では,

ご免なさい,

よりは,

ご免,

の方がいいし,

悪い,

のほうがもっといいこともある。あるいは,

ご免あそばせ,

の方がいい場合もある…か?

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




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2014年07月15日

面倒


最近,何事もめんどくさがるようになった。えっ,面倒って?ということで調べると,

語源的には,四説ある。

①目+ドウナ(だるい)の変化。見るのも大儀な,の意。
②メドウ(目遠)の撥音便化で,見にくいの意。
③見たくもないの意の「面伏せ」を漢字に訳し,「面倒」として音読した。
④目+ダウ(無益)で,見るのも無駄の意。

どうもこれといって確定していないようだが,見苦しい,くどくてうるさいの意,から転じて,するのが煩わしい,厄介,世話がかかるの意味になったようだ。

面倒臭い,

は,口語的表現。

めんどくさい,

とも略される。億劫,大儀も同義だが,

億劫

は,中国語では,「億劫(おっこう)」=長い時間の意味。仏教用語。

「劫」は,サンスクリット語の音写で,古代インドで,最長の時間単位。「一劫」の長さは,百年に一度天女が高い岩山に舞い降りて頂上を撫で,その摩擦で岩山が消滅するまでの時間,だという。

その一劫の一億倍が,億劫。

きわめて長い時間。まあ,永遠と言ってもいい。そこから,長い時間がかかってやりきれない,から転じて,

おっくう

となった。

大儀は,

重大な儀式

からきて,転じて,

費用が多くかかる,
骨が折れて厄介だ,
面倒で億劫だ,

と意味が変化した,とされる。そこから転じて,

他人の労をねぎらうときに用い,ご苦労,

の意でも使う。

意味を丸めれば,確かに同義になるが,どうも,ちょっと違う。

面倒,

というのは,何しろ,煩を厭う,というか,手間を取ったり,手数を掛けるのを厭う,意味に見える。しかし,

億劫,

というのは,それをするために取られる時間の長さが予想されて,気が乗らない,という感じに見える。で,

大儀,

は,儀が,手本とか,規準とか作法の意味だから,とかく形式ばるというか格式ばって,大仰で,大袈裟で,気が重い,というニュアンスに見える。

だから,

めんどうがる,

のは,ただの怠けに聞こえ,

おっくうがる,

のは,手間を考えて,気が乗らなさに見え,

たいぎがる,

のは,辟易する感じに聞こえる。

元の意味は微妙に違ったのだろうが,日々使ううちに,違いの棘が,すり減って,違いを丸めていく,そういうものなのだろう。

しかし,歳と共に面倒になるのは,

生きること自体

が厄介で大変になるからに違いない。

よっこらしょ,

どっこいしょ,

といわないと,いちいち体が言うことをきかない。これは,いわゆる,

面倒

というのとはちょっと違うのかもしれない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


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2014年07月17日


約束というのは,

括り束ねること
ある物事について将来にわたって取り決めること,約定
種々の取り決め
かねてから定まっている運命,約束事

といった意味がある。日葡事典は,

ヤクソクヲトグル
ヤクソクヲタガユ

という用例があるらしいので,戦国期には使われていたらしい。

これを守るかどうかは,たぶん,その人のコアの倫理観を反映している気がする。あまり迂闊に言うと,お前だって,と突っ込まれそうだが,いったん約束したことは(軽々に約束しがちなところがあるにしろ),何とか守ろうとする。昔,僕自身が切羽詰っていたのに,ある人に頼まれて先輩に御願い事をしていたとき,お前は人の世話を焼いている場合か,と呆れられたことがある。小心ということもある。律儀ということもあるが,その辺りは,その人の価値に拠って立つところがおおきいのだろう。しかし,「約」という字には,ちょっと悩まされているところがある。

『論語』に,何度かこの字が出る。

子曰く,不仁者は以て久しく約に処(お)るべからず,以て長く楽しきに処るべからず,仁者は仁に安んじ,知者は仁を利す(里仁篇)

の「約」は,逆境とか苦境,といった意味だ。しかし,

子曰く,約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし(里仁篇)

でいう「約」は,節度とか控え目,といった意味だ。古注では,驕者への戒め,新注では,広く人全般の行動を指すが,意味は同じだ。あるいは,

子曰く,君子博く文を学びて,これを約するに礼を以てすれば,亦以て畔(そむ)かざるべし(雍也篇)

でいう「約」は,しめくくる,束ねる,集約するといった意味になる。

同じ「約」でも意味が違う。

ためしに,漢和辞典をひくと,意味としては,

つづめる,つつましい,あらまし,

といった意味になる。おおよそ,

①やくす,一点に向かって引き締める,小さく細くつづめるで,類語に,「束」(たばねて締める)が来る。
②やくす,つづめる,細く小さく締めてまとめる,簡略にする
③やくす,紐や帯を引き締めて結び目をつくり,それ見決めたことを思出し,目印とする,またその目印,取決め
約束は,その結び目の目印を指し,そこから転じて,取決めとなる
④やくす,つつましい,つましく引き締める
⑤あらまし
⑥やくす,二つ以上の数を共通に割る

といった意味になる。



は,一部をくみ上げるさまを表し,

杓(ひしゃく)

酌(くみあげる)

の原字。約は,

糸+勺

で,

目立つように取り上げる

意味で,

ひもを引き締めて結び,目立つようにした目印

を意味する,とある。

要(ひきしめる)

腰(細く日は締めた腰)

と同系という。

考えてみれば,象形文字には,表意がある。

ひもをつぼめる

を広げていけば,確かに,倹約になるし,目印にもなるし,集約にもなる。その意味も広がりは,文脈が変われば,また変じ,時代に合わせて,重みもなくなっているのかもしれない。

約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし

を,勝手読みすれば,

節約するもの
であったり,
要約するもの
であったり,
束ねる

であったりとても,意味は通ずる。考えようによると,漢字は,汎用性が高い。高い分,いかようにも丸められる。その分意味が広がり,解釈が多様になる。面白いと言えば面白いが…!

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




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2014年07月20日

仕儀


辞書を調べると,

ことの次第,
ことのなりゆき

とある。語源を調べようとしたが,持っているものでは載っていない。で,大槻 文彦編『新訂大言海 』を繰ると,

旨義
あるいは
時宜

の転か,とある。

旨義は,文章などで表現されているものの,おもむき,意味,とある。

時宜は,ときの宜しきにしたがうこと,程よき頃,とある。

そのとき

を少し長くすると,

過程

ということになり,

次第,

成り行き,

顛末,

経緯,

首尾,

結末,

とほぼ重なってくる。

仕儀の「仕」は,

つかえる

意味であり,「儀」は,

のり,手本となるべき基準,作法,

という意味だ。とすると,たんなる成り行きではない。かくあるべき流れに従って,矩につかえる,といった意味になる。

そう考えると,丸めると,次第とも顛末とも変わりなくなるが,あるレベルを維持して,かくなったという意味になる。

しかも,ものによっては,仕儀には,ただ,ニュートラルな成り行きではなく,

特に,思わしくない結果・事態,

を指すともある。

そう考えると,

左様なる次第にて,おわかれします,



左様なる仕儀にて,おわかれします,

とでは,お互いのそれまでの経緯が,まったくニュアンスが変わる。格式ばっているというようなことではない。

両者の関係が,ニュートラルな,あるいは友好的とは限らず,

かような事態になり,

かかる仕儀になり,

と,どこか詫びるニュアンスが出てくる。そこに,基準においているのが,

両者の期待値なのか,

世の中の求める規準なのか,

は別として,それから外れている,というニュアンスが出る。だから,

野辺の送りもでき兼ねる仕儀と相成り,

といった用例につながっていく。

いやはや,かかる仕儀にて,かようなる結末と相成り,面目次第もござりませぬ。

参考文献;
大槻 文彦編『新訂大言海 』(冨山房)




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