2014年07月21日

さようなら


語源的には,

左様ならば(そうであるならば)

だとされる。つまり,

そうであるならば,お別れしましょう

の古形である,と。あんまり,学者の説というものにいまいち信がおけない。へそ曲がりのせいばかりではない。何度も書いているが,

さようならなくてはならぬ故,お別れします,

という一種無常観のニュアンスがある気がしてならない。だから,

そういうわけだから,

というよりは,

そういう次第なので,

そういう仕儀なので,

という文脈というか,状況に強いられて,と言うニュアンスが強く漂っている。だから,田中英光は,他の言葉に比して,悲哀,悲壮感がある,と言う言い方をした。確かに,調べると(自信はないが),

再見

Au revoir

Auf wiedersehen

は,再会というニュアンスか,

Adios(aへ+Dios神)

Goodbye(God be with you の古形の略)

Tschuss(adiosが語源)

神とともに,というものとに,二分され,あまり,哀しみのニュアンスが出てくるものはないようだ。

アンニョンヒ カセヨ

は,気をつけてお帰りくださいというニュアンスだから,この系譜に入るかもしれない。

さようならば,お別れします,

はやはりちょっと特殊と言えるだろう。

しかし考えようによっては,二人か三人かは別にして,その場とその時間を共有したもの同士でしか伝えようのない,ニュアンスが,そこにあると言えば言える。誰に対しても,と言うのではない,

一緒に過ごしてきましたが,そういうわけなので,お別れしなくてはなりません,

なのか,

一緒に時間を共にしてきましたが,かくなるうえは,お別れしなくてはなりません,

なのかはわからないが,別れが,主体的な事由によるのではない,不可抗力な何かによって,もたらされたというニュアンスが付きまとう。

もちろん,二人だけにわかる理由があって,

かくかくの次第ですので,お別れします,

でもいいが,別れたくて別れるなら,そういう言い方はしないような気がする。

もうご一緒にはいたくないので,お別れします,

というよりは,

もうご一緒にはいられませんので,お別れします,

のほうが近いようなきがする。

しかし,われわれは,自分がそうしたいときでも,何か別の理由があるような言い回しをすることが多い。そう見れば,

そういう次第なので,

という前ふりは,なんとなく,本心を糊塗する色がなくもない。

ご免なさい

より,

すいません,

と逃げるように,

別れたい,

より,

別れなくてはなりません,

という言い方を好むのではあるまいか。

よんどころない事情で,

とか,

諸般の事情で,

という言い方をして,主意を薄める。それは,責任をあいまいにする,という色合いがある。

言葉を濁す,

誰が,という主語をごまかす,

等々,われわれ自身が,ごまかしている精神構造そのものに行き着く気がするのは,おおげさだろうか。

その意味で,

さようなら,

には,日本語特有の曖昧に,墨色に流していくニュアンスがなくはない。別れに当たってすら,そんな糊塗がいるのか,と思わないでもない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田中英光『さようなら』(現代社)



今日のアイデア;
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2014年07月24日

仕事




という字を調べていて,

侍ろう

から来ており,その連用形,

サブラヒ→サムライ

と音韻変化した,という。高位の人,目上の人の,側近くに仕える人を言う。後,北面の武士ではないが,

武士

を指すようになった,という。つまりは,ただ役割を指しているにすぎない。



は,成人男子を指すが,周代だと,

諸侯―大夫―士

の三層に分かれたし,春秋・戦国時代以降は,

広く,学問や知識によって,身を立てる人

を指す。論語で言う,

士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす。亦重からずや。死して後己む。亦遠からずや

という,あの士である。

この士の字を,中国語源では,

仕事をする場所の目印

とある。つまり,

一(目印)+|(杭)+一(地面)

と分解できるという。そして,事は,

旗を立てる,立つ

と同系,仕とも同系とある。

では,ついでに,

侍という字は,というと,

貴人のそばで仕事をする人,またその仕事

で,

人+寺(仕事)

と分解できる。ついでに,仕事の「事」はどうかというと,

つかえる,

という意味だが,この字は,

計算に用いる竹のくじ+手

で,役人が,竹棒を筒の中に立てるさまを示し,

そこから転じて,所定の仕事や役目の意になったという。

では,「仕」は,というと,同じく,

つかえる

という意味だが,

真っ直ぐに立つ男(身分の高い人の側にまっすぐ立つ侍従)のこと,

という。

事君(君につかふ)と仕君(君につかふ)とは同じこと,

とある。

仕事という言葉自体は,語源的には,

シ(為る)+事

で,すること,しなければならないこと,の意。平安期では用例がなく,中世になって初めて現れる言葉らしい。明治期以降,物理用語として訳されて,

物体が外力で移動する

意らしい。

「侍」は結局のところ,始源的には,その立っている位置というか,立場を示しているだけに過ぎず,大事なのは,どういう「事」に仕えるか,ではないか。

事とは,旗である。旗とは,

「旗」の字のつくりの「其」を除いた部分(風になびくハタの意)+其(合図)

の意味という。旗幟鮮明の「旗」である。「はた」には,

旛(旗幅の下に垂れ下がるしるしばた),旂(鈴のある旗),旃(曲り柄の旗),旆(種々の色の帛でつくった旗),旄(毛で造った旗飾り),旌(あざやかな色の鳥の羽をつけた旗印),旐(亀谷蛇を描いた旗),旒(はたあし,旌旗の垂れ下がるもの),旟(隼を描いた旗)。

等々があるが,なぜ「旗」が,ハタの総称かというと,

龍虎を描く大将の立てるもの

だからである。

自分の旗を立てる,あるいは,仕事に旗を立てる,ということについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163010.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163049.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163175.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163553.html

等々で何度も書いたが,自分の旗を立てるとは,自分が何を仕事にしているか,あるいは,自分は何をするためにここにいるか,を明示するということに通じる,と改めて感じた次第…とは,我田引水が過ぎたか。

しかし,所詮,士とは,役割にしか過ぎない。大事なのは,

死してのち已む

という志というか,心映えがあるかどうかということなのではないか。それが,

事に当たる

の「事」であり,事は,すなわち,

おのれの旗

である。結局,その旗に,仕えることを,

仕事

という。旗なきを,

労働を

何と言うのだろうか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)



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ラベル:仕事
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2014年07月25日

諦める


諦めるは,以前,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163539.html

で書いたことがあるし,諦めるに似た,「心が折れる」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398404438.html

で触れたことがある。

語源的には,前にも触れたが,

明らめる(明らかにする)

である。

明ら+む

で,

先を明らかに見て,否定的に悟る

の意味。まあ,

先々を見通して,だめだと見込む。思い切る,断念する,

の意味になる。

仕方がないと,思いを断ち切る,

とする辞書もある。しかし,もともと,



の字は,

詳らかにする
明らかにする
いろいろ観察をまとめて,真相をはっきりさせる

という意味で,いい意味では,仏教用語の,

悟り

になる。その場合,見通しが真相なら悟りになり,



と同系とあるので,

締めくくる,という意味にもつながる。本来,「諦」の字に,悲観的なニュアンスを見てしまうが,本来の意味からすると,

詳らかにする
明らかにする
いろいろ観察をまとめて,真相をはっきりさせる

には,悲観のニュアンスはないのではないか,という気がする。漢和辞典の熟語では,

諦観

も明らかに見る,だし,

諦思

は,詳らかによく考える,だし,

諦視

は,明らかに見る,だ。それが,わが国では,

あきらめる

に変じた。古語辞典をみても,「明らむ」は,

はっきり見る
(こころを)晴らす
事情・理由をきわめる

という意味しか出ていない。『大言海』をみると,やはりそうなのだが,

明らむ

の次に,

あきらむ

とあり,

詳らかに見極む
理由を究め知る

とあって,「明らむ」の

明らかに見る

の転じたものとある。その次に,

あきらめ  思いを立つこと
あきらめる 思い切る

と載る。屁理屈のようだが,

見きわめた結果,

が,転じて,断念の意味にシフトしたということなのだろう。しかし,悲観のみにシフトしたのは,ひょっとすると,勝手な妄想だが,浄土思想の蔓延していた,平安末期なのかもしれない。見きわめれば見きわめるほど,この世に展望が開けない,というように。でなければ,悲観一方へシフトしきったのがよくわからない。

しかし,何を諦めるというのだろう。




人生
志,
未来,
理想,
自分,
才能,
希望,

しかし,見切ったと思った瞬間,その思いを裏切るように,何かが涌き出てくる。自殺するのであっても,おのれの死そのものにも,何らかの仮託がなければ,そもそも死なないだろう。死ぬことで,得られるものがあるのだ。

楽になる
苦からの解放
極楽浄土
厭離穢土,欣求浄土
救済

いつも,何かを仮託する。せざるを得ない。ということは,

見切りながら,見切った先に別の何かを見ている,

ということになる。

明らむ

とは,まさにその意味かも知れない。




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2014年07月26日


「笑」の古語は,「咲」だという。

『古事記』の天の岩屋戸神話で,

八百万神共に咲ひき,

と,八百万神がアメノウズメの命の踊りに,共に笑ったという表現で使われているのは,

笑う

ではなく,

咲う

である,という。「咲」は,「笑」の古語という。

まずは,「笑う」の語源は,

ワラ(割・破る)+ふ(継続)

である。

顔の表情が割れ,それの継続・反復する状態を言う,

とある。つまり,顔の表情が割れ続ける,を指す。

では,漢字の「笑」は,と言うと,

口をすぼめて,ほほとわらう,から転じて,口を広げてわらう

とある。「笑」は,

竹+夭

と分解できるが,「夭」は,

細くしなやかな人

の意で,「笑」は,「竹+夭(ほそい)」で,もともと細い竹のこと。正字は,

口+笑

とも言う。だから,

口をすぼめてほほとわらうこと,

だったらしい。それを誤って,



と書いた,と言う。では,「咲」はと言うと,

口をすぼめてわらう

という意で,「笑」から転用されたが,日本では,

鳥鳴き花咲ふ

という慣用句から,

花がさく

意に,転用されるに至ったという。

「笑」以外には,

嗤 歯をむき出してあざわらう

哂 息を漏らして失笑する

噱 大笑い

に対して,「笑」は,

喜んで顔を解き,歯を啓く,の意となる。

しかし,



より,



の方が,笑いによってその場が変ずる様子がよく出ているように思う。さすがに,象形文字である。

表情が一変する,

というのもまた,

咲ふ

のほうがよく表現できる。文字の向こうに景色が見える。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




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2014年07月28日


正直,無知をさらけだすようだが,



は,士+心と勝手に分解していた。恥ずかしながら,勘違いも甚だしい。『漢字源』には,

この士印は,進みゆく足の形が変形したもので,「之」(ゆく)と同じ。士・女の士(おとこ)ではない。志は,心が目標をめざして進み行くこと,

とある。

心の之(ゆ)くところ,

ともある。『大言海』は,

こころざし

こころざす

を分けている。

こころざす

は,

①心,其の方へ,動き向かう,思い立つ,めざす
②志して,贈る,あたふ
③亡霊へ,香花を手向く

とあり,

こころざし

は,

①(こころざすの)①,こころばせ,こころばえ,おもいこみ
②贈り物,進物
③亡霊への手向け,追善,追福

とある。では,漢字としての「志」の意味は,というと,

①こころざす,ある目標の達成をめざして心を向ける。「心」+さすに由来する訓。志向。
②こころざし。ある目標をめざした望み。またあることを意図した気持ち。大志。立志。
③しるす。書きとめる。「誌」の同系。
④書きとめた記録
⑤はた,幟に通ず。
⑦やじり
⑧節義,または見識のあること。

とある。


志向性

というより,単に,


指向性

を示しているにすぎないように見える。しかし,違う気がする。

ただ目指す

という意味よりは,

尖り

を感ずる。

志士
士気
志節
志操
志願
志格

等々という語句には,



という言葉のもつ倫理性を強く感じる。倫理性とは,僕流儀では,

いかに生くるべきか

というその人のコアの価値観のようなものがある。

同じめざすにしても,そういう倫理とつながる。だから,

吾十有五にして学に志し

は,単に学問を学ぶというようなことではないのではないか,そこに,「志」が使われている意味は。

当然,『近思録』の由来となった,

博く学びて篤く志(し)り,切に問いて近くに思う,仁はその中にあり

の「志」を,知るに当てるには,それなりの重みがある,と見なせる。因みに,貝塚訳注では,

「志」を「識」つまり記憶するという解釈に従った。「学」は他人に習うことであり,この習ったことを「篤く志る」

とある。一般には,

博く学んで篤く志し,切に問いて近く思う

というように,こころざし,と読ませているが,すでに学ぶこと自体が,

学に志し

ているのだか,志して学んでいるものが,改めて,

博く学んで篤く志し,

は,変である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)



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2014年08月03日

まじめ


まじめ

は,

真面目

をあてるが,当て字で,語源的には,

マジ(擬態・まじまじ)+目

で,真剣な顔つき,誠実な態度,誠意があるなどの意味になる。

まじまじ

は,

たびたびまばたする,眠れないさま
恥じず平気なさま,しゃあしゃあ

とある。前者から,

緊張して,眼をしばたたかせるだけの真剣な顔つき

が連想され,そこから,

本気,

誠実,

に広がったと考えられる。ただ,江戸時代をみると,

阿鼻焦熱の苦しみをまじまじと見てゐられうか

という使い方で,

ただなすところなく見ているさま,じっとみつめるさま,

の意と,

さすがの喜多八,しょげ返りて顔を赤らめ,まじまじしてゐるを

という使い方で,

もじもじ

の意,とある。そこからは,

真面目

の意味は見当たらない。

ただ,手を束ねてこわばっている

か,

照れて気後れ(もじもじ)している,

の意の方が強い。

真面目

の字を当てたのがいつの頃かは分からないが,

しんめんもく(と読むと,真骨頂の意味になる)

の字を当てた瞬間,他の意味が,「地」に下がり,誠実さが「図」として浮き上がった,ということなのかもしれない。

だから,辞書的には,

うそやいいかげんなところがなく,真剣であること。本気であること。また,そのさま。
真心のあること。誠実であること。またそのさま。
真剣な顔つき,本気。

だけが残ることになる。

まじ

と略すと,いっそう一か所に焦点を当てたようで,しかしこう略した瞬間,

すこし真剣さが消えて,諧謔さがでてくる。一説では,

マジは江戸時代から芸人の楽屋言葉として使われた言葉,

らしいのだが,

まじに,
まじで,

から,

まじすか?

まじ~

と,使われると,意味は,「真面目」のニュアンスからかなりずれてくる。

本気

を「まじ」と訓ませるところまでいくと,

ちょっと皮肉が交じっているような気がする。

そう思うと,略された瞬間,軽くなり,軽くなった瞬間,そこに諧謔が生まれてくる気がする。最近では,

スマートフォンを,スマホ,

ガラパゴス携帯電話をガラケー

あるいは,

二子多摩川を,ニコタマ,

ああ,カタカナになると,一層そういうニュアンスが強まるような。

就職活動を,就活,さらにシューカツ

と書くと,そのニュアンスがわかる。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)





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2014年08月04日

呪う


あまりひとを怨んだり,呪ったりということをした記憶もないし,したいとも思わない。しかし,人からは,恨まれたり,呪われているような気がする。

呪う

は,語源的には,

「祈る(ノル)」+「ふ」

で,基本は,「祈る」の延長戦上にあるものらしい。

祈り続ける,

には違いないが,

相手に災いがあるように祈りつづける,

ということらしい。確かに,

のろう,

を漢和辞典で引くと,





が出て,後は,異字体の「咒」等々である。



は,

口+兄

で,もともとは,「祈」と同じで,

神前で祈りの文句を称えること

なのだが,後,「祈」は,

幸いを祈る場合,

「呪」は,

不幸を祈る場合,

と分用されるようになった,とある。



の,



は,俎(積み重ねた供えの肉)や阻(石を積み重ねて邪魔をする)を示す。「詛」は,その流れで,

言葉を重ねて神に祈ったり誓ったりするみと,

の意味だ。どちらも,神に祈る行為の延長戦上で,

自分の幸

ではなく,

他人の不幸

を祈るところへシフトする。しかも,

他人の不幸を実現することで自分の幸を実現しようとする

という,屈折した祈りだ。

ひとを呪わば穴二つ,

というのだが,視野狭窄の中にある執念には,見えなくなっている。

しかし,人を呪うというのは,どういう心性なのだろう。

父のせいとか,

母のせいとか,

誰某のせいとか,

世の中のせいとか,

結局その事態を招いたのは,他人ではなく,自分でしかない。それを受け入れられないというのは,どこかに,

嫉妬

羨望

妬み

があるのに違いない。

自分もそうなれたはず,

自分もそれを手に入れたはず,

なのに,そうならなかったのは,自分側ではない,

外的(阻害)要因

があったと

考えたい,
のか,
思い込む
のか,
信じ込む
のか,

いずれにしても,自分の側に,

理がある
正当性がある,
正しい,
善がある,

と思わなければ,人を落とし込めるはずはない。

それは,いわば,唯一の視点しか持てていない,自分を相対化するメタ・ポジションが持てないということなのだろう。

いやいや,他人事ではない。自分の側に要因を求めなければ,結局,

成長というか,
前進というか,

はなく,たった一つの,その時点に,何年も立ち止まったまま,ということだ。そんな,時間が過ぎていくのも気づかぬぐらいの一念があるなら,とついつい思うが,そういうものでもないのだろう。

そういうのもまた,一つの人生だ。それを選んでいるのは,おのれ自身なのだから。



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ラベル:呪う 呪詛
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2014年08月05日

待つ


ふと,待つというのは,待っている側の時間軸しか見ていないのではないか,ということに気づく。

よく,相手の沈黙を待つ,という。しかし,それは,待っている側の勝手な都合であって,相手は,自分の時間軸で黙っている。

そう思って振り返ると,

待つ,

を少し違う視点から気づくことがあった。

まず,「まつ」の語源は,

マ(間)+ツ(統)

で,時間をひきしめてあわせるようにする

という意味。それに「待」の字を当てた。そこから,待つの意味は,

①来るはずの人やものごとを迎えようとして時を過ごす
②用意してもてなす
③のけておく
④しようとする動作を途中で止める
⑤(俟つ)頼りとする

といった意味になるが,

で,当てた漢字,「待」は,

寺(手足の動作を示す)+彳(おこなう)

で,

手足を動かして相手をもてなす,

とあるが,別の出典では,

彳(あゆむ)+寺(止まりまつ)

で,立ち止まって待つ,ともある。このほうが,「待」の字を当てた意味がわかる。

そもそも,「まつ」には,

待(来るをまつ,また来ればあしらいをする意がある)
佇(たたずむ,まっている)
俟(せかずにものが自然とそこへ来るまでまつ)
候(うかがう,はべる,まつ)
徯(望むところがあって待つ)
竣(待に同じ)
遲(いまやおそしと待ちわびる)
須(互いに求めて相待つ)

と,当てる漢字に差がある。「待つ」と当てたのには,意味がある。

しかし,いずれも,「待つ側」の視点である。いや,言い方が変か,「待つ」と言っているのは,あくまで,

待っている側

の言い分であって,待たれる側は,待たれていることを迷惑と思うかもしれない。僕は,若い頃,待つこと三時間,ようやく待ち人がやってきたが,いまならわかる,その

遅刻

には意味がある。来たくない,あるいは逡巡,躊躇が反映している。待ち合わせの遅刻には,相手にとっての意味がある。そう思うと,よく待ち合わせで,相手が遅れることが多いのは…,いやいやそれは別の話題。

よく,

相手の沈黙

を待つとか

相手の返答

を待つ,という言い方をする。「待てるかどうか」という言い方をする。しかし,考えたら,それは,待っている側の時間感覚というか,「まつ」という姿勢自体が,待つ側の視点でしかない。

待たれている側は,

待っていてほしいと思っているとは限らない。ただ,このまま黙っていたい,この沈黙の中にただひたすら浸っていたい,このままシカトしたい,このままばっくれたい,と思っているかもしれない。しかし,うざいことに,目の前の相手が,いかにも,待っているという姿勢,表情で,見つめている,ということに辟易するかもしれない。

待つ

という行為自体が,待つ側の主観というか,思い入れに過ぎない,ということに,たぶん待つ人は,ほとんど思いが至らないだろう。だから,待たれる側は,遅刻する,黙りこくる,返事を遅らす。

待つ
とか
待てる

等々ということが,自分の時間軸でしかものを見ていない証拠に過ぎない。

相手には,相手の時間軸があり,その時間軸に合わせるとすると,それは,もはや,

待つ

ということではないはずだ。なんというのだろう,

寄り添う
のか
ともにいる
のか,

いずれにしても,もし本当にそう言う姿勢なら,待つという感覚とは遠いはずだ。いや,待つという感覚はないはずだ。

それぞれ人は,自分の時間軸帆を生きている。待つとは,自分の時間軸と相手の時間軸との微妙な隙間をあらわにする。

待たれる身より待つ身

待たるるとも待つ身になるな

等々という感覚は,両者の,そういう時間感覚の違いを言っているようにも見える。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




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2014年08月06日

にほふとかをる


にほふ

かをる

とはどう違うのだろう。

昔,何かを書き込むノートに,匂いという字を使ったら,それは臭気の意味で,ものを知らぬと,揶揄されたことがあって,何十年も前のことだが,心にしこっている。しかし,

辞書で,香り(薫り)をひくと,

よいにおい

とでる。で,匂い

を引くと,

香り,香気

とでる。ただし,

匂い

臭い

は使い分けているようだが,匂いの意味は,

①赤などの鮮やかに色が美しく映えること
②はなやかなこと,つやつやしいこと
③香り,香気
④くさいかおり,臭気(臭いをあてる)
⑤ひかり,威光

とあり,臭いは,匂いの④の意味,とある。つまり,





は,ダブっていて,「臭」は「匂」の一種,ということになる。しかし,漢和辞典には,



は,国字とある。峠と同じく,日本で作った字ということになる。



は,

自+犬

で,嗅ぐことをあらわしている。もともとは,





は同じ字であったが,のちに,

におい

かぐ

に分用された,とある。「匂」は,

韵(ひびき)

の右側を書き換えた,という。つまり



から,



に作り替えたらしい。

よい響きの意からよい香りの意に換えた。香りを聞くという言い方をするから,転じるのに無理がなかったのだろう。この辺りは,メタファーを考える貴重な始原があるのだろうかが,それはまた別の話題。

ともかく,たしかに,語源的には,

ニ(丹,赤い色)+ホ(秀,際立つ)+フ(継続・反復)

で,色が際立って美しく映える,光沢があって美しい

の意であり,転じて,よい香りが際立つことを指す。という。

そう思うと,

におい

は,嗅覚の側からの視点であり,

香り(香る)

は,香っているものの側の視点での表現ということになる。確かに,語源的には,かおりは,

香+居り

で,香りが,あることを指す。

因みに,漢和辞典を引くと,においは,

殠 腐って悪しきにおい
芳 葦のよきにおい,かお。植物のかおりが上下左右に広がり出ていくことをさす。
芬 かおる,ひらく,わかれるの意で,草が初めて生じて香の分かち布くをいう。
香 におい,かおり。もとは,黍+甘(うまい)で,空気に漂ってくるにおいをあらわす。
馥 こうばし,かんばし,ふっくらとしてよい香りを発する
馨 香る,かんばし。磬(澄んだ音を出す石板)と同系で,香りが遠くまで聞こえる。

と出る。

ついでに,「かおり」と漢和辞典でひくと,においで出た,「芳」「芬」「香」「馥」「馨」以外に,

焄 ふすぶ,こうじし,におう
臭 かおり,におい,気の鼻に通ずるもの,くさい
苾 かおり
菲 うすい,こうばしい(貌)
薌 かおり,こうばしきもの
薆 かおる
薫 かおりぐさ,かおり。香草のにおいがたちこめていることを意味する

等々と出てくるが,その使い分けは出ていない。たぶん,漢字は,すべてのかおり,においを区別してかき分けていたはずだが,だんだん抽象的に,いわば丸められてしまったようだ。だから,

匂い

香り

の区別がつかなくなっている,ともいえる。

変な言い方だが,



というのと,

ヒヨドリ

というのとでは,見えている世界が違う。言葉は,その人の持っている世界の違いを顕わす。われわれは,というよりぼくには,その見分ける見え方が出来なくなっている。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル:香り 匂い 臭い
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2014年08月25日

けり


けりがつく
けりをつける

の「けり」は,

助動詞けり

であり,けりがつくは,

助動詞けり+が+つく

の意味だ。助動詞「けり」は,

過去の助動詞キ+アリ

という説,

動詞キ(来)+アリ

とする説などがあるらしいが,いずれにしても,

ある事実を基に過去を回想する意を表し,後世には,助動詞タの意味を詠嘆的に用いることが多いという。

助動詞「た」は,

ある時点で,それがあったと確認した意味を表す,

という。つまり,文末にそれを使うことで,

基準となる時点が今となって,それがすでに起こったことを示す

という意味だから,

過去のことを示す
あるいは
動作の完了を表す
あるいは
動作の実現を促す(たとえば,「どいた,どいた」というように,動作を完了させることを促すという意味になる)

という使い方をするようだ。最後の例は別にして,

「けり」を付ける

ことで,語っていることが,語っているいまの時点から見て,それが,

終ったこと

過去のこと

を示している,ということになる。

その意味では,けりをつける,けりがつくは,

それを過去のこととして終わらせる,

というニュアンスがあり,

終止符を打つ

ピリオドを打つ

と似ているが,具体的に,デッドラインを引くというのとは,ちょっとニュアンスが違うような気がする。

「けりがついた」ことにしておく
「けりをつけた」ことにしておく,

あるいは,

「けりがついた」つもり
「けりをつけた」つもり

という色があって,

本当に終わったのなら,終った,とか,片づいた,と言えば済む。そうではないから,

けりがついた(はず)

というしかないような気がする。そう考えると,

帳尻を合わせる
平仄が合わない
辻褄が合う
始末をつける
落とし前をつける

というのと,どこかで重なりそうな気がしている。つまり,むりやり,決着をつけたという色合いが,どこかにある。そうしてみてみると,「けり」の用法に,

ある事実が過去にあったことを回想する
人から聞いたりして知っていたことを思い出す
過去にあったことをいま話題にのせる
いまあることが,前からのことであったと思う
時を超えてある事実が存在することを述べる

「いま」の時点を,ピンポイントと考えると,それ以前のこととなる。しかし,その「いま」が少しずつずれれば,そのまま(語っている)「今」の直前まで,それは引きずられる。

「いま」

が曲者だ。そういう意味で,

時を超えて

という用例はよくわかる。つまりは,

けりはついていない

ことになるのだろうか。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)



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2014年08月30日

気骨


昨今気骨のある人間が少なくなった,

などときいたふうな口をきく輩が大嫌いである。では,いつの時代ならいたのか。いやしないのである。そんな人間が一杯いたら,日本は今日の体たらくになりはしないし,無益で無謀な戦争にも突入しはしないし,欧米列強の尻馬にのった侵略戦争などを,しはないのである。幕末にだって,そうはいなかった。いたら,戊辰戦争もあんなていたらくになりはしない。

気骨とは,

奇(めずらしい)+骨(人柄,気立て)

が語源。

風変わりなすぐれた性格を言うらしい。言い得て妙ではないか。

気骨の,「気」は,いわゆる,

人間の心身の活力
とか
感情や衝動のもとになる心の活力

とは,直接は関係ないらしい。因みに,気(氣)の,



は,息が屈曲しながら出て来るさまで,「氣」は,

米をふかすときに出る蒸気のことらしい。

辞書的には,「気骨」は,

自分の信念に忠実で容易に人の意に屈しない意気,気概

という。下手をすれば,

偏屈,

へそ曲がりなのである。類語はというと,日本類語大辞典で,

気骨

をひくと,

いき

を見よとくる。で,「いき」をみると,

士気,侠気,血気,生意気

と並んで,気骨がある。

(社会一般から見れば)ヤクザの侠気の程度だという言い方もできるが,剛健の項にいれて,

剛毅,気概,硬骨,気丈夫,反骨,強直,豪気,不撓,不屈,

と並べるのもある。しかし,

剛毅朴訥仁に近し

というのだから,やたらめったらいないのではないか。孔子は,

中行を得てこれと与にせずんば,必ずや狂狷か。狂者は進みて取り,狷者は為さざる所有るなり

といい,中庸の人がいなければ,狷者,すなわち強情屋を友とする,と言っている。

こう見ると,気骨とは,ある一点で,

頑固である

ことなのではないか。それが,どの一点かで,たんなる頑迷か強情張りになるか,骨のある人間と見られるか,の分かれ道のようなのである。

ここからは,妄想だが,地続きにせよ,

頑迷,固陋,偏屈等々は,

たんに個人的なこだわり,あるいは単純な性癖

を指しているという印象が強いのに対して,

気骨のこだわりは,

信念,信条,思想

に対する強い志向があるのではないか,という気がする。ただ,何かに強く粘着するというのは,ある意味,

気質的なもの

だから,共通している部分があり,梃子でも動かくなった瞬間は,たんなる頑迷固陋にしか見えなくなる可能性は高い。そうなれば,

たんなる頑な,ものごとの理非曲直を弁えぬ輩に成り下がるかもしれない。

その程度の頑迷な輩が,気骨あるなどと間違われている程度なのではないか。


参考文献;
芳賀矢一校閲『日本類語大辞典』(講談社)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2014年09月04日

落とし前


落とし前をつける

というのは,どう考えても,一般人が使う言葉ではない。ヤクザ用語かと思ったが,

元来は香具師の間で使われていた隠語で,露店などで客と折り合いをつけるため,適当なところまで値段を落とすことを意味した

という。そこから転じて,

もめごとなどの仲に立って話をつける意味になり,

さらに転じて,

失敗や無礼などの後始末をする

という意味となった。

しかと

とか

ちくる

とか

ばっくれる

とか

しばく

とか

うざい

と同類らしい。起源はもっと古いが,

やばい

というのも,隠語らしい。その意味は,

危ない
悪事がみつかりそう
身の危険が迫っている

といった不都合な状況を意味する形容詞や感嘆詞として江戸時代から盗人や的屋の間で使われた言葉であるらしい。その後戦後のヤミ市などで一般にも広がったが,80年代に入ると若者の間で,

怪しい
格好悪い

といった意味でも使われるようになるが,これが,否定的な意味から転じて,90年代,

凄い
のめり込みそうなくらい魅力的

といった肯定的な意味に変わる。どういうのだろう,ヤクザが一般社会に,経済ヤクザとして浸透したせいか,一般人が,ヤクザ化したのか,一般人とヤクザの境界線があいまいになり,ほとんどまじりあっていく。

昔は,正統(?)なヤクザは看板を背負っていたが,いまは,それも難しくなった。入り混じり曖昧化し,一般人のほうがヤクザになってきたように見える。

素人と玄人

という言い方があるが,素人と玄人の区別があいまいになったからと言って,素人が玄人に成れるわけではない。

アマチュアとプロフェッショナル

という分け方とはちょっと違うかもしれないが,玄人は,日葡辞典はないらしいので,素人に対して,当てたのではないかと言われる。素人は,

シロ(何にもそまっていない状態)+人

で,

経験の少ない人
未熟な人

を意味する。こちらが先にあって,後に,それに対する当て字としてつくられた,という説がある。

どうも思うのだが,

玄人

は自分を玄人とは言わない気がする。しかし,

プロフェッショナル

は,自分をプロと言う傾向がある。というより,意識して,プロを強調する。その辺りの微妙な心理は,玄人の対象とする領域が,芸妓や娼妓を指す場合はともかく,

技芸

相場

の専門家で,とくに技芸は,

伎芸

の字をあてることが多い。そうなると,

歌舞音曲

である。

歌舞は,踊りと舞であるが,音曲(おんぎょく)は,

近代以前において音楽,あるいは音楽を用いた芸能のことを指した

という。「歌舞」「音曲」はは,ともに音楽を伴った芸能全般をさす。まあ,

猿楽,謡曲(謡),勧進能,浄瑠璃,歌舞伎,人形浄瑠璃,狂言,能,義太夫節

等々,伝統芸能を指しているとみていい。そこには,

矜持

が仄見える。いちいちプロなどといわなくても,おのが芸が語っている,と。

こういう寡黙な立ち居振る舞いが好きである。




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2014年09月05日


戀の字の,「心」の上の部分は,

絲+言(ことばでけじめをつける)

からなり,

もつれた糸にけじめをつけようとしても容易に分けられないこと

といい,亂・乱(もつれる)と同系統の言葉という。

亂の左側は,

糸を上と下から手でひっぱるさま,

らしい。それに右側は,



印で抑える意。合わせて,もつれた糸を両手であしらうさま,だという。



は,亂を音符として,心を加えた字

で,

心がさまざまに乱れて思い詫び,思い切りがつかない

の意となる。

巒(きりなく連なって続く山々)

とも同系統という。

別の出典では,

「糸+言(つなぐ)+糸」+心

とも言う。

心を言葉で糸のようにつなぐ,

意味という。しかし,少し作為に過ぎる気がする。そうではない。心を言葉の糸でつなげないから,乱れるのではないか。

恋路の闇

という。


お七こそこいぢの闇の暗がりに,

と浄瑠璃でうたわれる所以である。

なぜなら,恋は盲目ではなく,妄想だからだ。

妄想とは,

ということを真面目に考えるとややこしくなるが,中国語では,

妄(みだり)+想(空想)

で,事実でないことを空想して信じ込むこと,という。要は,

根拠のない主観的な想像

ということになるが,違う言い方をすると,

勝手な思い込み,思い入れ,

ということになる。それは,基本的に,一方的なものだ。だから,僕は,恋は,基本,

片思い

なのだと思う。

仮に,その妄想を相手が受け入れても,同じ妄想とは限らない。相手も相手の思い入れの妄想を描く。言葉ではつながらない。同じ言葉でも,その言葉の向こうに見ているものが違うのだから。

こういうとシニカルに聞こえるかもしれないが,永年連れ添ったからといって,

思いが重なる

とは限らない。重なっていると思い込むことはできる。むしろ,

重ならないズレ

をお互いが了解し合っている,というところに,年月の積み重なった智恵がある(のかもしれない)。


参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




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2014年09月09日


背を焼く

という言葉がある。

(苦しいほど多額の借金)背を焼くような借金

という意味で,梶井基次郎が使ったらしいが,僕には,

背を焼かれるような焦燥感,

焦り,

に見える。語感の問題だから,どうでもいいが。



は,

セ(高く目立つもの)

が語源らしい。

物の後ろ側,
裏面

セイ

と言う。



の字は,

北(人が背中合わせに立った象形)+月(肉)

で,「セナカ」が原義と。

背は,

せ,せなか,

の意の他に,

物の高い部分のこと

を意味し,馬の背とか,橋の背と言う使い方をする。

その他に,

そむく,
背中を向ける,
背中を向けて離れる
(転じて)現世に背を向けて死去する
せおう
背を向けて暗誦する

といった意味があるが,「背」と言うと,「向背」「背信」と言う使い方にあるように,マイナスのイメージがある。背を向けるということからくるメタファーだろう。

「そむく」には,

叛(離反の意)
背(うらはら,になる意,向の反)
反(ひっくり返りて叛く。叛に通じ,謀反・謀叛と使う)
負(恩に背き,徳を忘れるを言う)
乖(そむいて離れる。そのさま。乖離,乖戻)
違(行き違いやくいちがい)
倍(ふたつに離れる)
北(背を向けてさむく,背を向けて逃げる)

と使い分けるが,いずれの場合も,「背」中が見える気がするのは,気のせいか。

別れる時も,離れる時も,反する時も,背中を向ける。

背中合わせ
背中同士

仲が悪いことを指すし,

背(中)を向ける

は,そのことに対して距離を置くことを指す。あるいは,逃げる,という意味も含まれる。しかし背は,

その人の意思表示

でもある。

動物なら,背を向けることで敗北を認めることだ。それに追い打ちをかける類のことはしない。

戦国時代には,そんな言い方をしないが,江戸時代になると,ネットには,

背中を切ることは卑怯とされ,また背中を切られることは敵に背を向けた,すなわち逃げようとしたことを意味するとして恥とされた。安藤信正は坂下門外の変において背中に傷を負い,一部の幕閣から「背中に傷を受けるというのは,武士の風上にも置けない」と非難されている,

というのがあった。しかし,僕には,

背を見せた方の卑怯と,背を見せたものを背後から斬ったものの卑怯とは,同罪に見える。

そもそも,背を見せることが卑怯未練と言うのは,平和ボケそのものに見える。武士道と言われるものを好まないのは,無用になりかけたおのれの存在理由を見つけようとしている程度の,平和な時代の頭でひねくり回した武道論に過ぎないからに違いない。

少なくとも,僕には,逃げることをよしとしない,と言うのは,机上の空論で,戦さの修羅場を知らぬ文官の暴虎馮河の類である,と感ずる。

戦国時代,戦いが常態ならば,そこで逃げなければ,リベンジはない。死ぬことをよしとするのは,死を自己目的化した平和の時代ないし, 戦ったことのないものの言辞に見える。たとえば,

背に腹は代えられない

ということわざがあるが,これは,

五臓六腑のおさまる腹は,背と交換できないの意で,腹を守るためには,背を犠牲にしてもやむを得ない,という意味。それが転じて,さし迫った苦痛を回避するためには,ほかのことを犠牲にしてもしかたないの意に広がった,

といわれる。

つまり,戦闘においては,腹部は大切な部分だから,進退極まった時でも,腹部を保護して背中を切らせよとの意味なのである。腹を切られれば致命傷になる。その点背中には背骨や肋骨があり,斬られても骨が内臓を庇って,致命傷にはなりにくいように背を向ける。

要は,背を向けるには,実践的な知恵もある。

大体戦闘時,殿軍(しんがりいくさ)ほど難しいものはない。秀吉が金ヶ崎で,袋の鼠の織田軍撤退の殿軍を自慢するのは当然のことだ。逆に,織田軍は,後に,撤兵する朝倉軍を,追いすがって一気に殲滅したくらい,

追い切り

という,逃げる敵の追撃戦ほどやさしい戦はない。それだけに,殿軍が重要になる。

戦時でなければ,背を向けるとは,戦意の喪失である。背を見せた人間を打ち負かせば,試合なら非難囂囂であろう。同じことだ,背を向けたものに刃を向けたものこそ,本当は,咎められるべきなのではないか。それこそ,両手を上げて投降した人間を,無視して殺戮するようなものである。

背は,人の意志であり,あるいは,背は,その人の(その一瞬までの)足跡を見せているのかもしれない。別に男の背中だけが,意味あるのではない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




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2014年09月20日

いわく


いわくは,いわゆる,

曰く

からきている。

わけ
とか
仔細
とか
事情

という意味である。

いわくつき
とか
いわく因縁
とか
いわく言い難し

という用例になる。

浩然の気を問われて,孟子が

いわく言い難し

と答えたという。言葉では何とも説明しがたい,という意味だが,

曰く

つまり,「言う」から来ているのを思うと,なかなか面白い。しかし,

いわく

は日本語である。語源は,

イハ(言ふの未然形)+ク(名詞化の接尾語)

で,言うことには,の意。それが転じて,理由,事情となった。

(未だ)言わんとした状態のまま,

と考えると,いわく言い難しはよくわかる。言外の意味と言うか,口に出せないという意味から,わけあり,となるのも分からなくはない。

僕の記憶が間違いでなければ,かつては,

子曰く

を,子のたまわく,と訓ませていた。

のたまわく

とは,

ノタマハ(のたまふの未然形)+ク(名詞化)

だという。ちょっと納得しがたい。で,もう少し見ると,

のたもう(宣う)

とある。

ノリ(宣るの連用形)+給ふ

の約まったもの,とある。言う,告げるの尊敬語ということになる。

つまり,もともとは,

曰(エツ)

には,言うの意味しかないのに,日本語で訓むとき,勝手に「のたまわく」と言っていたことになる。



は,口をあけてものを言う,という意味。

口+乚印で,口の中から,言葉が出てくることを示す,

と言う。因みに,

謂う

は,口を丸く開けてものを言う

で,特に,人に対して言うのを指す。あるいは,その人を評するのにも使う。で,何かをめぐってものを言う時に使う。

言う

は,「辛(きれめをつける刃物)+口」で,はっきりと角目を付けて言うことを指す。

云う

は,口ごもって声を出す意。

道う

は,言うと同じのようだが,「言うは実用にして重く,道うは,虚ようにして軽い」と説明にある。ちょっと意味が分からないが,たとえば,

孟子性善を道う。言えば必ず堯・舜を稱す。

と使い分けている。

よく似たのに,

いわれ(謂われ・言われ)

がある。

由来として言われていること,来歴,理由

の意味で,

謂われ因縁(物事の起こった由来)

という使い方もある。語源は,

言は+る(受身)の名詞化

だという。これは,延々と「言われ」てきたこと→由来と考えれば,そのままだ。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)



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2014年09月24日

そこそこ


そこそこ

がいい,と思ってきた。そこそこは,

①「落ち着かず急ぐさま」や「急いで簡略にすませるさま」を表す。「食事もそこそこに仕事に戻った」
②「少ないが満足出来る程度」という意味。 類義語に『ほどほど』『いい加減』。「遊びもそこそこにしなさい」
③そこそことは量的に辛うじてこれくらいの意で,類義語に『ある程度』『ギリギリ』。「そこそこの自信はある」
④そこそこ(其所其所)とは場所をさすときに使われる。「ほら,そこそこ,すぐ後ろにいる」

といった意味があるが,ここでは,

まあまあ,

ほどほど,

まずまず,



そこそこ

との関係を考えるので,②③の意味に焦点を当てている。

十分ではないが一応のレベルにあるさま,ないし程度

の意味。だから,

ある程度,

可もなく不可もなく

平凡

よくも悪くもない

といったニュアンスである。それって,評価されていることなのか。

そこそこ



まあまあ



まずまず

では微妙にニュアンスの差がある。少なくとも,

まあまあ

は,「かなりの程度」という意を含んでいる。

まずまず

も,「まずまずの天気」という言い方をするので,曇り空ではない。しかし,「そこそこの天気」といったときは,曇り空,少なくとも雨は落ちそうもない,といったニュアンスになる。

まずまずのでき



そこそこのでき



まあまあのでき

と比較してみると,同じ中程度,平々凡々の意味ゾーンに入るとは言うが,ちょっと意味が違う。

不思議なのだが,われわれは,その言外の言葉のニュアンス差を承知している気配である。

頑張った(出来の悪い)部下に,「そこそこ」「まあまあ」とは言わず, 「まずまず」と言う。
期待している(出来のいい)部下には,「まずまず」「そこそこ」とはいわず,「まあまあ」と言う。
大口叩く部下には,「まあまあ」とも「まずまず」とも言わず,「そこそこ」と言う。

この言語感覚は何だろう。言葉で説明しようとすると,ちょっと難しいところがある。基準としては,

ほどほど

なのだが,

期待値より低ければ,そこそこ

となり,

期待値に近ければ,まずまず

となり,

期待値すれすれならば,まあまあ

という。しかし,ほどほどの中に二つの幅がある。

ひとつは,期待値というか,思っていた基準から下げていく,

という評価視線と,

もうひとつは,相手自身の力量評価と言うか,基準から上げていく,

という評価視線である。

これが自分自身だと,

まずまずは,

上の部,

まあまあは,

中の部,

そこそこは,

下の部

となる。やはりそこそこは,ぎりぎりセーフという意味になる。平凡ではなく,かろうじて,人並みという意味である。




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2014年09月27日

てにをは


「てにをは」は,

弖爾乎波

あるいは

天爾遠波

と当てる。博士家の用いた「ヲコト点」の四隅の点を,左下から順に時計回りに,左上,右上,右下の順に読んだことに由来する(「テニヲハ」となる)。

たとえば,

http://www.robundo.com/robundo/column/wp-content/uploads/2011/03/%E3%82%92%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A6%E3%82%93-%E5%8F%B3.jpg

の図を見れば,一目瞭然。

意味的には,

助詞・助動詞・接尾語に用語の語尾を含めた汎称,主として女子・助動詞。

国語の助詞・助動詞など文節の末尾に付く語の総称。

とある。まあ,膠着語と言われる日本語の特徴である。因みに,膠着語に分類される言語は,日本語の他,

トルコ語,ウイグル語,ウズベク語,カザフ語等のテュルク諸語,満州語,朝鮮語,モンゴル語,フィンランド語,ハンガリー語,タミル語,エラム語,シュメール語,エスペラント語

などがある。

一説では,

「ヘボンがそのように呼びました。」

とある。日本語を学ぶ外国人にとっては,「て・に・を・は」の使い方は,悩ましい問題のようなのである。

「てにをは」には,そのほかの意味に,「てにをは」の用法を指し,比喩的に話の辻褄を指す。

たとえば,「てにをは」があわない,といいうと,

てにをはの使い方がおかしい,
話のあわない,話の筋道が合わない,

という意味に使う。最近では,

リテラシー

という言い方をする。リテラシーは,和製英語的には,

「何らかの表現されたものを適切に理解・解釈・分析・記述し,改めて表現する」

という意味に使われているが,元々は,

「書き言葉を,作法にかなったやりかたで,読んだり書いたりできる能力」

を指していたようだ。英語では 「letter 文字」という言葉から派生させる形でliteracyと言い,いまでは,様々に類推的・拡張的に用いられるようになり,一般的には,

「なんらかの分野で用いられている記述体系を理解し,整理し,活用する能力」

まで拡張して使われるようになっていて,たとえば,

メディア・リテラシー
コンピューター・リテラシー
情報リテラシー

等々という言い方をする。

その意味では,「てにをは」の使い方とよく似ている。

もともとは,「ヲコト点」

乎己止点

は,外国語である漢文を訓読するために漢字に付けた,点・線・かぎ形などの符号である。言ってみると,

漢文リテラシー

の成果なのである。それは,

返り点・送り仮名に当たるものや,読む順番を示したり,送り仮名や句読点,片仮名などで,漢字の四隅や中央に朱や青で書き入れ,たとえば,漢字の右上に点があれば「…ヲ」と読む。平安時代初期から鎌倉時代にかけて,僧の間で経典を読むために盛んに行われた,

という。

それにはいくつかの形式があるが,その一つの博士家では,右肩の上・中の点が「ヲ」「コト」を表したのでこの名称がある。四隅を順に読むと,「テニヲハ」になるので,「テニヲハ点」というらしいのである。

つまりは,こうやって,我々の先祖たちは,漢語を自家薬籠中のものとすることで,日本語というものの言語としての奥行を広げていったわけである。たとえば,

「明治維新に欧米の文明を受け入れて自分のものにしたのも,かつて漢字を通して中国の文明を受け入れて血肉化した経験があったからでしょう。ついでにいえば,現在中国で使われている漢字熟語60パーセントが明治維新に欧米語を受け入れるに当たって日本人が作った和製漢語だとききました。」

というほどに使いこなし,かつての知識人は,漢詩まで自ら作った。だから,真名としての漢字に対して,漢字を借りることで作り出したかなを,仮名と呼んでいる。

しかも,漢字を学ぶだけでなく,漢字を通して,

「日本人は中国から文字の読み書きを教わると同時に,花鳥風月を賞でることも学んだ。花に関してはとくに梅を愛することを学んだが,そのうち自前の花が欲しくなり桜を賞でるようになった。梅に較べて桜は花期が短いので,いきおいはかなさの感覚が養われる。」

という自分たち独自の感性を発見するところまで到達するに至る。

わが国には,文字がなかったのである。漢字をとり入れ,自分たち言葉として読む工夫をすることで,

我が国独特の漢字 仮名交じり文

でき上がってきた。「ヲコト点」は,あるいは「てにをは」は,いわば,日本語の原点そのものと言っていい。「ヲコト点」がなければ,日本語は,ずいぶん貧弱だったに違いない。

ちなみに,この「ヲコト点」のように,位置を利用した書き方は,速記の世界でもあるようだ。ただ速記の場合はスピードが要求されるので,数音の言葉に当てはめ,その点の位置から次の速記文字を書き連ねていくらしいが。

参考文献;
高橋睦郎『漢詩百首』(中公新書)




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2014年09月28日

野暮天


粋ではないので,僕は

野暮

を矜持としている。いきがるやつよりよほどいい。

剛毅朴訥仁に近し

である。野暮は,語源的にいくつか説がある。

「野夫」の転。藪者の略。世情に通じない者を言う。

「谷保天神」の略。付会のようだ。

雅楽の笙の17の管のうち「也亡」の二管は吹いても音が出ない。その「也亡」が語源。融通のきかない人間を指す。

やぼてんを「野暮天」とするのは,当て字。

きわめて野暮なこと,

つまり,野暮のきわめつき。天は,

高いところ

を指し,脳天,天井と使うのと同じ。

野暮の類語というと,

無粋
とか
無骨(武骨)
とか
朴訥
とか
愚直
とか

になるのか。では,

朴念仁

はどうか。語源は,

朴(かざらぬ)+念(こころ)+仁(人)

で,かざらぬ,無口で無愛想。人情に通じない人

となる。

へそ曲がり
とか
唐変木
とか
頓痴気
とか
ぼんくら
とか
木偶

とかと重なるのか,というと,微妙に違う気がする。

あるいは,

野卑
野蛮
粗野



愚鈍
間抜け
鈍感

とも違う。どうも

朴念仁

と言ったとき,相手への悪意がない気がする。あえていうと,

可愛げ

というか,

稚気

がありはしないか。少なくとも,多少の好意は感じられる。いい歳をして,可愛げがあると(言われると)いうのは,いかがかと思うが,しかし,

愛嬌

と言い換えると,人としての,ぬくもりのようなものがある気がする。

野暮天

にもそんな口吻がある気がする。憎まれ口に近い。

野暮だな

という口ぶりには,悪意はないが,ちょっと呆れるにほひがある。

いかがであろうか。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年09月29日

そもそも


そもそも

は,

抑々

と書くが,語源的には,

ソモ+ソモ

だという。

ソモ

というのは,

「それも」

という意味らしい。で,文頭のそもそもは,,

一体,
とか
さて,

の意味になる,という。その例示として,

「そもそも,それが間違いのもと」

と示されている。しかし,不遜ながら,それは,ちょっと違うのではないか。

「そもそも,それが間違いのもと」

というのと,

「さて,それが間違いのもと」

というのと,

「一体,それが間違いのもと」

とでは,まったくニュアンスが違うのではないか。

さて,

というのは,辞書では,

「これこれで」「しかじかで」

「そのままで」「そのようで」

と言った使い方をするが,文頭で使うときは,

そうして,
それから,

という意味だという。しかし,ちょっと違う気がする。

それから,

だと,それまでの文意をそのまま続ける感じだか,

さて,

と使うことで,話題を転じるニュアンスがある。たとえば,

何々というわけなのです。さて,

といったとき,むしろ,「ところで」というニュアンスになる。

それより,一体には,

おしなべて,
とか
総じて

という意味になるので,いくらか,「さて」よりは「そもそも」に近いことは近いが,しかし,「一体(に)」は,

一般的に,
とか
全体的に

といった,ひとしなみに括るというか,丸めるという感じがある。あえて言うと,風呂敷でひとまとめにするというか,水平に広げる感覚である。しかし,

そもそも

というのは,

根本的に,

というか,もう少し掘り下げて,

根源的に,

という,垂直的に遡及していく感覚がある。

で,辞書を引いてみると,

「其(そ)も」を重ねた語

とあって,

ものごとを説き起こすときなどに文の冒頭に用いる語

としている。副詞的に

それがそもそもおかしい

という使い方もするが,名詞化して,

はじまり,
最初,
おこり,

という意味としても使われる,とある。この,名詞化したニュアンスが,もともと

そもそも

にまとわりつくにほひの気がする。つまり,

ことの起こり,
というか,
謂われ,
というか,
由来,
というか,
発端,

と言ったような。だから,類語としては,

元から
初めから
元来
元は
元来は
元々
最初から
古来は
当初

等々が出てくるが,しかし,「そもそも」と言うとき,単に,

始め,
とか
最初,

というのではなく,

「軽々しく言われているが,これは,そもそも」

ともったいづけて,何と言うか,仰々しくというか,思わせぶるというか,どこか,実体よりも嵩上げして,

もっともらしく権威づける(逆に大袈裟に貶めるという使い方もある),

といった意図が透けて見える感じがある。でなければ,こんな大仰な物言いはしない。

「そもそも,わが社は,」
とか
「そもそも,我が家は,」
とか,逆に,必要以上に貶めるために

「そもそも,お前と言うやつは,」

と言うのもあるが。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)





今日のアイデア;
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2014年10月23日

四の五の


「てやんでえ」
って何,という話で,
「何言ってやんでえ」
の略だろう。
「四の五の言ううのに,対して言うのでは」
と言ったら,では,
「四の五の」
というのは,どういう意味か,ということになった。それでもって,調べてみるといういきさつで,このブログを書くということに相成った。「四の五の言う」の意味は,

なんのかんのとめんどうなことを言う,

とか

あれやこれやとグズグズ言っているさま,

ということらしい。「四の五の」は,江戸末期の『俚言集攬』に載っているらしい。

賭博用語で「一か八か」の対語として生まれた言葉で,サイコロの四と五の目の形が似ていたことから丁・半のどちらか選ぶか迷っているさま,あるいは,「四だの五だのと文句を言う」を意味した。ここから転じ,一般にも広く普及したが,いまではヤクザ映画や時代劇などで聞かれる程度になっている。

しかし,このほかに,

「一も二もなく」という「即座に」のという意味から,一や二どころか,四や五までぶつぶつ言うところから来ているという説,

四書五経(『論語』『大学』『中庸』『孟子』と『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)に由来し,「四書だの五経だのと理屈ばかりこねる」という意味,

等々もあるらしい。しかしまあ,『俚言集攬』を採るのが妥当だろう。これは,想像だが,薄暗い賭場では,坐る位置によっては,四の目と五の目は見分けにくかったのではないか,だから,四なのか,五なのか,と,「四の五の」ともめやすかったのではないか,と。

『俚言集攬』には,

一富士二鷹三茄子

とか

ちんぷんかん

とかと,いまも残る言葉がある一方,できないことのたとえにして,

富士の山を張り抜く

というような, 富士山を型にして張子をつくる,という言い方のように,とうに消えた物言いが出ているようだ。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/404842040.html

でも触れたが,

しかと
とか
やばい
とか
落とし前
とか
チクる
とか
うざい
とか
ばっくれる
とか

等々結構,ヤクザやその筋でしか使っていなかったことばが,素人というか一般人が平気で使うようになった。メディアの影響かもしれないが,そういう境界というのが,消えている,ということなのかもしれない。この言葉だって,消えていく。

それにしても,考えてみれば,つい,

四の五の

と口走ったが,これ自体,もともとは普通の人は使わなかったのだと考えると,いつの間にか日常語になり,そしていまでは死語に近くなっており,若い人は意味すらわからないのかもしれない。

そういえば,「ラ抜き」が問題視されていたことがあるが,たとえば,

食べられる

食べれる

寝られる

寝れる

というように。年配者は,「言葉遣いを知らない」と批判するが,若い人からは,「食べられる」ではなく「食べれる」の方をOKとするように逆転している。

しかし,この「ラ抜き」現象は,実は江戸時代からあって,それが少しずつ進行してきたものだと,専門家は指摘される。

言葉は生き物なのだから,是非を言い立てる側が,自分の拠って立つ時代背景を根拠にしているだけなのかもしれない。その意味では,いつのまにか,

ナウい

が,それを使うこと自体,微妙な空気を誘うほど,ほとんど使われなくなっている。言葉の消長というか,新しい言葉が生まれて消えていく,消費速度がどんどん早まっているような気がする。

年初にはやった言葉が,それを年寄りが知る年末ころになると,ナウいと同じシチュエーションに置かれる羽目になるのかもしれない。

いやはや,一日一日の過ぎ行く時間の早さを感じるスピードに反して,時代の動きを肌で感ずるまでにはすごく時間がかかるようになる,このギャップの大きさが加齢というもののようなのである。

参考文献;
白井恭弘『ことばの力学』(岩波新書)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル:四の五の
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