2014年10月25日
性根
性根が腐っている
とか,
性根が曲がっている,
という言い方をする。
性根とは何か。
語源的には,
しょう(本性)+ね(根)
人間の根源的な性質
を言うらしい。
で,性根の意味には,
①その人の根本の心構え。心の持ち方。根性。
②確かな心。正気。
③物事のかなめとなるところ。本質。
④情人。また,情事。
とあるが,どうやら,①の使われ方が,多いようだ。では,「性」という字は,というと,
「しょう」
とも
「せい」
とも
「さが」
とも
訓むが,
「性」は,
うまれつきもっている心の働きの特徴
さが,ひととなり,ひとやモノに備わる性質,傾向,たち
性別
外形のもとになる,中にひそむもの
の意で,
生
は,芽が地上に生え出る様であり,性は,うまれつきの澄みきった心のこと,
と言う。
「性」で意味が通じるのに,
性根
だの
根性
だの
本性
だの
性骨
だの
土性骨
だのという,根や本や骨をつけるのは,強調するためなのだろうか。では,
根
は,というと,語源は,
本源,元
の意味。植物の根,基底に広がるものということで,大和島根,富士の高根等々で言う,ネであり,あの人は,ネはいい人,というネであるらしい。
漢字の
根
は,木+艮(コン,木のモトの意)で,本と同じ,と言う。
艮
は,眼(目の玉の入る穴)の原字で,
一定のところにとまってとれない,
という意で,根は,
止まって抜けない木のネ
という意味と言う。つまりは,動かない,という含意がある。
その意味で,根性が,
①その人の本来的に持っている性質。しょうね。また,あるものに特有の性質。
②物事をあくまでやりとおす,たくましい精神。気力。
心根が,
心の奥底。本当の心。真情。本性。
というのもよくわかる。因みに,性骨は,
技芸などにおける個性的なうまさ,うまれつき会得している器用さ
である。
しかし,つくづく疑問に思うのは,こういう性質やら心根が,
カタチあるもの
実体
のように言われていることだ。結局,その人の人生は,シーケンシャルで,決して可逆的ではない。その軌跡を,印象としてとどめているから,相手のことをそう思い込むのだし,自分についても,強い印象的なことが図になって,他の面を地として沈めているだけだ。
もとより,自分というものも,自分のタチも,自分のショウネも,形はない。どこかに,そういうコアのようなものがあるのではない。
印象の蓄積に過ぎない。
しかしいったん与えたイメージを覆すことは容易ではない。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年11月19日
伸びしろ
伸びしろは,
伸び代
と書く。「代」は,
くいの形を描いた象形文字,弋(よく)に人を加えたもの,
で,
同じポストに入るべき者が互いに違いに入れ替わること,
という意味になる。そのせいか,
代々(だいだい)
とか
代々(よよ)
といったり,
世代
交代
代理
という使い方をする。「しろ」という意味の使い方は,本来の漢字の字義にはない,わが国のみに通用する「訓義」という。しかし,「代(しろ)」を見ると,
その物の代わりとして償う金銭や物品,「代金」「代価」
というほかに,
何かのために取っておく部分,糊代,縫代,
田または他の一区画,田代,
田地の丈量単位(稲一束を収穫する免責を一代)
とある。僕の持っている『広辞苑』には,
伸びしろ
は出ていない(最新版には載っているらしい)が,その意味は,
①金属などが折り曲げられる際に発生する伸び。また,その長さ。
②転じて,組織や人間が発展・成長してゆく可能性の大きさをいう。
とあって,「伸び代」とあてるらしい。そこから敷衍したのだろうが,
「伸び代の『代(しろ)』は,のり代,縫い代などと同様に,ある用途や作業のための余分に取ってある部分のことをいう。そこから『伸び代』とは,新しい会社や若い人について,発展したり成長したりする余地,可能性を意味している。」
という説明がなされるものがある。しかし,それはおかしい。糊代も,縫代も,あらかじめ予想された余裕,というかハンドルのアソビのようなもので,それも織り込み済みなのであって,
「伸びる余地」
という意味に使うのは,意味が違うのではないか。では,上記の,
「金属などが折り曲げられる際に発生する伸び。また,その長さ。」
は,どうなのか。調べると,
「金属加工では,金属を曲げ加工しました時,局部的に金属が延びます。これを一般的に伸び代,ひき代,曲げ代(いろいろな呼び名があります)と言います。」
という使われ方で,こちらの方が,
「伸び代」
の本来の意味に近いに違いない,という気がしてくる。で,調べると,
「材料としての金属は、曲げやプレスなど力を与えて変形させる加工をした場合に伸びるという性質がある。そのため加工前の材料を切り出す際に、後々の伸びを考慮して若干小さいサイズを用意するということが行われる。その「伸びを考慮する」ことを『伸び代を〜』と表現したようである。
しかし、どういう加工の際に伸びがどれほどかの見極めは経験に負うところが多く、『伸び代が云々』が業界の外の人には正確に伝わっていなかったようである。そのため、『何かすると伸びて余分が』ぐらいのキーワードが変形し、現在の『伸びるために必要な余分』という意味になってしまったらしい。」(http://muzinagiku.exblog.jp/17707635/)
とあって,ようやく納得がいった。本来,「期待値」という意味ではなく,どう伸び代を読んでサイズを用意するか,という作業員のノウハウにわたる部分だったのだろう。
本来は,たとえば,こんなふうに使われている。
「曲げ加工後の曲げ角にはR形状が形成され,その結果,材料に伸びが発生します。曲げ加工前の展開長から曲げ加工後の仕上がり寸法A,Bを引いた値を「両伸び」といい,その両伸びの1/2の値を片伸びといいます。伸びしろは,材料属性(板厚・材料定数など),金型属性(ダイV 幅・ダイ肩R・パンチ先端R),加工属性(ボトミング・コイニング)に影響を受けます。」
で,ここから言うと,「伸び代」というのは,
将来性とかポテンシャル
という意味ではなく,
「あると嬉しいもの」ではなく,「あることを読む必要のある職人的な勘が求められ,要求されるもの」
なのである。当然,類語として挙げられる(ネットでも類語として挙げられていた),
期待値,成長の余地,潜在能力,隠れた能力,
等々という意味を本来持っていたものではないのである。
むしろ,その意味で言うなら,注目したいのは,医学の現場で使われているらしい,
予備能
という言葉である。これは,
脳や臓器の機能の予備能力,
を指すらしい。手術などに耐えられるかとか,部分切除した残りの臓器が機能を果たせるか,といった意味で使われ,こちらのほうが,ポテンシャルの意味で使われる,「伸びしろ」に近いのかもしれない。
では,伸びしろに,「代」を当てるのはどうかというと,「代」が,
何かのためのあらかじめとっておく,
という意味からすると,金属の延びる部分をあらかじめ読んでおく,という意味での,
伸び代
なら,それでいいが,
伸びる余地
とか
ポテンシャル
の意味では,
「何かのために取っておく部分」としての糊代の意味とも,縫代の意味ともフィットしないのだから,
「代」
の字を当てては,的外れになるのではないか。不遜ながら,では,「しろ」に当てられる字は,というと,
「素」
「白」
の字がある。
素
とは,「しろ」であり「もと」であり,「はじめ」である。意味としては,
撚糸にする前の基の繊維,蚕から引き出した絹の原糸
とか,
模様や染色を加えない生地のままの,白い布
等々,下地とか地のままとか生地とか元素といった意味合いが強い。このことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/401709935.html
で触れたが,『論語』の,
絵の事は素(しろ)きを後にす,
でいう「素」である。これは,古注では,
絵とは文(あや),つまり模様を刺繍することで,すべて五彩の色糸をぬいとりした最後にその色の境に白糸で縁取ると,五彩の模様がはっきりと浮き出す,
と解すると,貝塚茂樹注にはある。しかし新注では,
絵の事は素(しろ)より後にす,
と読み,絵は白い素地の上に様々の絵の具で彩色する,そのように人間生活も生来の美質の上に礼等の教養を加えることによって完成する,と解するらしい。
どちらも,「白」に通ずる。白は,
どんぐりの形状を描いた象形文字。下の部分は実の台座,上半は,その実。柏科の木の実の白い中味を示す,
という。その意味では,
なにもない
という意味,
何色にもそまっていない,
という意味の「白」からすると,
伸び代
より,
伸び白
と書きたい気がしてならない。で,ときどき勝手に,そう当て字しているのだが。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年11月24日
だらしない
実は,「たらしこむ(誑し込む)」の語源を調べていた。
「誑らす」
「蕩らす」
と表記し,
たぶらかす
の略ということで,簡単に決着がついてしまった。意味は,
うまくだまし込む
とか
誘惑して自分のものにする
ということらしく,それ以上の奥行はなかった。しかし,語源辞典の同じページにあった,
だらしない
が気になった。
意味は,
しまりがない,
ふがいない,
期待外れで情けない,
節度がない,
体力がなく弱弱しい
といった意味になる。だが,「たらし」について,
たらしとは女性を騙したり,言葉巧みに誘惑して弄ぶ男性のことで,「たらし」には動詞形「たらす」の「巧みな言葉で騙す」という意が含まれている。ただ,「たらし」を「だらしない」の略として「女にだらしない男」という意味で使っている人も少なくない。「たらす」は対象を特に女性を騙す男性と限定していないが,たらしは「女たらし」の略語として普及したため,こういった男性を指す,
とあって,まんざら,「だらしない」と無縁ではないらしいのである。
「だらしない」の語源は,いくつか説がある。
①「シダラ(手拍子)+ナイ」の倒語説。手拍子がしまらない,という意味。
②「シダラ(自堕落)のなまり+ナイ(甚だしい)」。自堕落の極み,という意味。「ふしだら」のシダラとする説もある。
③「シダラ(梵語,修多羅=秩序規律)+ナイ」で,無秩序の意味。
その他にも,
「しだらない」から「だらしない」に音節順序が変ったには,江戸時代に逆さことばがはやり,「あたらしい」が「あらたしい」になったのと似た現象とする説,
もある。類語を,拾ってみると,
ふしだら(サンスクリット語「sutra」を音写した「修多羅」が語源。 古代インドでは ,教法を「多羅葉」という葉に刻書し,散逸 しないように穴を開け,紐を通していた。 この紐や糸を「修多羅」といい,「シダラ(修多羅,きっちりと束ねる)」。これに「不」がついて,だらしない,しまりがない。)
大雑把(「雑把」は,雑にまとめられたものを表す。薪にするために切り割ったした木切れの「薪雑把(まきざっぱ)」という使い方をする。使われる。 方言では,燃料 にする屑板の束や,粗い茶の葉を「ざっぱ」という地域もある)
おざなり(「お+座+なり(そのまま)」で,その場を取り繕うだ,いい加減な処置の意。江戸時代,「ざなり(座成)」や「ざしきなり(座敷成)」と用いた。 座敷(宴会の席)でその場だけの取り繕った言動をするさまを表した。)
ちゃらんぽらん(語源は「チャラン(鉦の音)+ポラン(鼓や木魚などの音)で,いい加減な,の意味。無責任な態度,「ちゃらちゃら(勤続の触れ合う音)」も同類。)
ふぬけ(「腑+抜け」で,身体の中の臓腑が抜けている意。信念や態度にしっかりしたものがない。)
ぐうたら(近世,「ぐずくずして気力のない男を擬人化した「愚太郎兵衛」からきている。)
杜撰(「宋の杜黙の詩が,多く律に合わなかった故事」が語源。付可視化でいい加減なこと。)
だらだら(「タラ(垂ら)+くりかえし」の,水や汗がしたたり落ちる様子を表す言葉の濁音化。たらたらを強めた不快感を表す。)
でたらめ(「出たら+目」で,さいころをふって出たら,その時に出た目に合わせる,という意。ランダム。)
でれでれ(語源ははっきりしないが,擬態語に近いのではないか。動作・態度・服装などに締りがなく,だらしないさまだが,特に異性に心を奪われて毅然とせず締りのないさま。)
のんべんだらり(①「ノベル(伸)+ダラリ」。身体を伸ばしたまま,だらりとしているさま。②「ノベル(延)+「ダラリ」。仕事を先送りして,だらだら日を暮す。③「飲むべえでだらり」。酒ばかりのんでだらだら過ごす。三説とも,自然発生的に出てきた俗語。)
ルーズ(英語のlooseから来ている)
不摂生(身体の健康に気をつけないこと。摂(攝)の「聶」は,いくつかの物をくっつけることを示す。「手+聶」で,散乱しないわように多くの物をあわせてもつ意。生のコントロールとよめなくもない。)
のらくら(「のらりくらり」が語源。)
妄り(「乱る(水垂る)」の派生語。「妄」は,「亡(道理に合わない)+女(小さくてかわいい)」とか「女性が心を惑わされ,我を忘れる」といった意味で,正統でない,普通とかけ離れた意。)
脆い(擬態語「ポロポロ,ボロボロ」から来ている。壊れやすい。)
益体もない(「益体なし」を分解した語。役に立たない意。)
みっともない(「見とうもない」「見たくもない」が見苦しいに変化した。)
等々になる。いやはや,これだけならぶと,「なんだかなあ」と言いたくなる。
結構,多く,日常の振る舞いやら動作,その様を表す擬態語から来ているらしいところが,面白いと言えば言える。その「だらしなさ」の状態,様子を,そのまま敷衍化したと言えば言える。たとえば,ぐずぐずとしているのを,
ぐずる
と,一般化していくのに似ている。「ぐずる」は,
「ぐず(擬声語)+る(活用語尾)
から来ている。ぐずったり,ただをこねたりする,を大人に転用すれば,
言いがかりをつける,
になる。いまも,日常の態度から,擬態語,擬声語として,一般化するものが出てきているにちがいない。そのうち,
スマホる
がヒマつぶしと,汎用化されたりして。
まあ,それだけの話。お粗末様。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
だらしない
実は,「たらしこむ(誑し込む)」の語源を調べていた。
「誑らす」
「蕩らす」
と表記し,
たぶらかす
の略ということで,簡単に決着がついてしまった。意味は,
うまくだまし込む
とか
誘惑して自分のものにする
ということらしく,それ以上の奥行はなかった。しかし,語源辞典の同じページにあった,
だらしない
が気になった。
意味は,
しまりがない,
ふがいない,
期待外れで情けない,
節度がない,
体力がなく弱弱しい
といった意味になる。だが,「たらし」について,
たらしとは女性を騙したり,言葉巧みに誘惑して弄ぶ男性のことで,「たらし」には動詞形「たらす」の「巧みな言葉で騙す」という意が含まれている。ただ,「たらし」を「だらしない」の略として「女にだらしない男」という意味で使っている人も少なくない。「たらす」は対象を特に女性を騙す男性と限定していないが,たらしは「女たらし」の略語として普及したため,こういった男性を指す,
とあって,まんざら,「だらしない」と無縁ではないらしいのである。
「だらしない」の語源は,いくつか説がある。
①「シダラ(手拍子)+ナイ」の倒語説。手拍子がしまらない,という意味。
②「シダラ(自堕落)のなまり+ナイ(甚だしい)」。自堕落の極み,という意味。「ふしだら」のシダラとする説もある。
③「シダラ(梵語,修多羅=秩序規律)+ナイ」で,無秩序の意味。
その他にも,
「しだらない」から「だらしない」に音節順序が変ったには,江戸時代に逆さことばがはやり,「あたらしい」が「あらたしい」になったのと似た現象とする説,
もある。類語を,拾ってみると,
ふしだら(サンスクリット語「sutra」を音写した「修多羅」が語源。 古代インドでは ,教法を「多羅葉」という葉に刻書し,散逸 しないように穴を開け,紐を通していた。 この紐や糸を「修多羅」といい,「シダラ(修多羅,きっちりと束ねる)」。これに「不」がついて,だらしない,しまりがない。)
大雑把(「雑把」は,雑にまとめられたものを表す。薪にするために切り割ったした木切れの「薪雑把(まきざっぱ)」という使い方をする。使われる。 方言では,燃料 にする屑板の束や,粗い茶の葉を「ざっぱ」という地域もある)
おざなり(「お+座+なり(そのまま)」で,その場を取り繕うだ,いい加減な処置の意。江戸時代,「ざなり(座成)」や「ざしきなり(座敷成)」と用いた。 座敷(宴会の席)でその場だけの取り繕った言動をするさまを表した。)
ちゃらんぽらん(語源は「チャラン(鉦の音)+ポラン(鼓や木魚などの音)で,いい加減な,の意味。無責任な態度,「ちゃらちゃら(勤続の触れ合う音)」も同類。)
ふぬけ(「腑+抜け」で,身体の中の臓腑が抜けている意。信念や態度にしっかりしたものがない。)
ぐうたら(近世,「ぐずくずして気力のない男を擬人化した「愚太郎兵衛」からきている。)
杜撰(「宋の杜黙の詩が,多く律に合わなかった故事」が語源。付可視化でいい加減なこと。)
だらだら(「タラ(垂ら)+くりかえし」の,水や汗がしたたり落ちる様子を表す言葉の濁音化。たらたらを強めた不快感を表す。)
でたらめ(「出たら+目」で,さいころをふって出たら,その時に出た目に合わせる,という意。ランダム。)
でれでれ(語源ははっきりしないが,擬態語に近いのではないか。動作・態度・服装などに締りがなく,だらしないさまだが,特に異性に心を奪われて毅然とせず締りのないさま。)
のんべんだらり(①「ノベル(伸)+ダラリ」。身体を伸ばしたまま,だらりとしているさま。②「ノベル(延)+「ダラリ」。仕事を先送りして,だらだら日を暮す。③「飲むべえでだらり」。酒ばかりのんでだらだら過ごす。三説とも,自然発生的に出てきた俗語。)
ルーズ(英語のlooseから来ている)
不摂生(身体の健康に気をつけないこと。摂(攝)の「聶」は,いくつかの物をくっつけることを示す。「手+聶」で,散乱しないわように多くの物をあわせてもつ意。生のコントロールとよめなくもない。)
のらくら(「のらりくらり」が語源。)
妄り(「乱る(水垂る)」の派生語。「妄」は,「亡(道理に合わない)+女(小さくてかわいい)」とか「女性が心を惑わされ,我を忘れる」といった意味で,正統でない,普通とかけ離れた意。)
脆い(擬態語「ポロポロ,ボロボロ」から来ている。壊れやすい。)
益体もない(「益体なし」を分解した語。役に立たない意。)
みっともない(「見とうもない」「見たくもない」が見苦しいに変化した。)
等々になる。いやはや,これだけならぶと,「なんだかなあ」と言いたくなる。
結構,多く,日常の振る舞いやら動作,その様を表す擬態語から来ているらしいところが,面白いと言えば言える。その「だらしなさ」の状態,様子を,そのまま敷衍化したと言えば言える。たとえば,ぐずぐずとしているのを,
ぐずる
と,一般化していくのに似ている。「ぐずる」は,
「ぐず(擬声語)+る(活用語尾)
から来ている。ぐずったり,ただをこねたりする,を大人に転用すれば,
言いがかりをつける,
になる。いまも,日常の態度から,擬態語,擬声語として,一般化するものが出てきているにちがいない。そのうち,
スマホる
がヒマつぶしと,汎用化されたりして。。。。
まあ,それだけの話。お粗末様。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年12月03日
謝る
ごめんなさい,
申し訳ない,
というのが,詫びるときの普通の言い方だ。
「すいません」というのもあるが,これは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/398895440.html
にも書いたように,「済まない」ことを済ませよう(済ませてもらおう)とする,何となく曖昧な(心理的な)逃げがあって,本当の詫びとは思えないところがあるように,僕は感じる。
「済みません」は,
相手に悪く,自分の気持ちが片付かない。申しわけない。謝罪や依頼の時にいう
という説があるが,僕は取らない。謝る意思があるなら,
御免なさい,
か,感謝なら,
ありがとう(ございます),
であり,どこかニュートラルな(心理的な)逃げの表現に思えてならない。あるところで,
「ごめんなさい」という言葉は「許してください」というニュアンスで,自分が悪いことをしたときの言葉,
で,
「すみません」というのは,自分が悪いことをしたのではないという感じで,単純な間違いで特に誰かに迷惑をかけたわけではない場合,不可抗力,
という感じが言語化されているとあったが,その通りだろう。
ごめんなさい
過ち,非礼をわびる
他家を訪問,辞去するときに言う
と,辞書にはある。
御免は,元来,
「御+免」
で,「免ずる」の尊敬語。「お許しを」の尊敬語でもある。つまり,「御免」は,
相手が正式な許可や認可を下すことを敬った言い方,
である。ということは,許すか許さないかの決定権は,相手にある。だから,ごめんなさい(御免なさい)は,
自分の罪を認めて相手に許しを乞う謝罪の言葉,
であり,「御免」+なさいで,許す主体を敬っている。そのためか,鎌倉時代や室町初期から初見があるらしいが,
御免あれ
とか
御免候へ
と,自分を下げるか,相手を上げるか,の使い方がもともとある。だから,家をおとなうとき,
御免ください,
というのは,家へ入ることを断っている,ということになる。これに似ているのは,
失礼します,
である。ただ,日本語のニュアンスとして,「御免」には,
勘弁してください,
という意味合いなので,
「狭い道路で相手の車と擦った程度の場合には使えても,停車中の車に激しく追突したり,相手に及ぶ被害や迷惑の度合いが大きくなるにつれて使いにくくなる」
「第一原因が自分以外にあるような逃げの謝罪という印象がある」
という説が,『語感の辞典』にはあり,微妙なニュアンス差がある。
一方,申し訳ないは,
相手にすまない気持ちで,弁解のしようがない。たいへんすまない。相手にわびるとき,
に使う。この場合,
申し訳のしようもありません,
というニュアンスがある。つまり,
申し開きのしようがない,
とか
弁解の余地がない,
とか
一切の責任はこちらにあります,
という意味で,「ごめんなさい」や「済みません」よりはるかに謝罪の程度が大きい。逆に言うと,単純な名前の読み違え程度で,これを使うと大袈裟すぎて,慇懃無礼になる恐れもある。
しかし,この辺りは,相手との関係をどう自分が認識しているか,をそのまま表していて,一般論で当てはめるのは危険である。このほかに,謝罪には,
堪忍してください,
遺憾に思います,
御気の毒に存じます,
お詫びいたします,
心苦しく思います,
恐縮です,
等々がある。たとえば,「堪忍」の主体は,相手であり,御免に較べると,上下関係の錘の差はないのではないか。「勘弁してください」に近い。他の,詫び方は,たとえば,
「遺憾」に思っている自分をメタ化して,そういう気持ちです,と言っている。
「御気の毒」に思っている自分の同情心をメタ化して,そういう気持であることを伝えようとしている。
「お詫び」の気持ちをメタ化して,そういう気持ちを伝えようとしている。
「心苦しい」という気持ちをメタ化し,その気持ちである自分の心情を伝えようとしている。
「恐縮」という「身を縮めている」じぶをるメタ化して,そういう状態ですと伝えようとしている。
等々と,少し,自分に距離を置いている,という意味では,本当の意味で「謝罪」する主体ではない,というニュアンスがある気がする。「失礼しました」も,これに入る(「失礼」した自分を対象化し,そういう自分であったことを伝えようとしている)。
といった具合で,こういう表現を拾っていくと,謝る主体の微妙な立ち位置が透けて見えてくる,日本語の微妙な儀礼が隠されている。
かつて「書札礼」というのがあり,書簡を出すときの礼法が厳しく定められており,差出人と宛所の書き方などの書式や文面,字配り,文字の崩し方,紙の種類や折り方,封書の方法など文書全般に関わる礼法があり,それを見ただけで位置関係が分かった,という。「書札礼」ほどのことはないが,身分差を背景とした,ものの言いようの名残りが,まだまだ残っている。不思議なことに,その体感覚が,ある世代までは,残っていたようである。
だが,いまは,それが消えているような気がする。単に礼儀の有無というだけのものではないのかもしれないが,少なくともその振る舞いの背景に親(の振る舞い)が透けて見えるのかもしれない。僕のようながさつでお行儀の悪い奴が言うのもなんだが,躾は怖い。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年12月05日
凹む
凹むとか落ち込むということは,間々ある。その度に,たとえば,「凹む」について,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163424.html
あるいは,「落ち込む」について,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163576.html
等々と書くことで,自分の底から立ち上がる。あるいは,それを対象として描こうとした時は,立ち直っているのかもしれない。強靭な精神の持ち主がうらやましい。
凹むというのは,
「ヘ(減)+コム(籠む)」
というのと,
「引+込むの音韻変化」(ヒッコム→ヘッコム→ヘコム)
というのが,語源としてあるらしい。
「落ち込む」は,
「落ち+込む」
で,「穴に落ち込む」の意味から来ている。一種,見立てというか,メタファというか,アナロジーである。
心が,あるいは気分が穴に落ちている状態である。
めげる
とか
気が塞ぐ
とか
意気消沈
といった心理状態である。
あるところで,
「落ち込んでいる人の原因は,次の2つのみです。
存在
能力
この2つのどちらかです。」
と断言していた。断言されると,
そうかな,
と思うが,しかし違うのではないか。
能力
や
存在
等々という大層な問題でもないのに,些細な振る舞いや,しくじりで,おのれのありようや能力に起因させてしまっているから,落ち込みがひどくなるのではないか。
「いまは」
「そのときは」
「(もう少し)努力(工夫あるいは配慮等々)すれば」
を付けると,できないことは,「能力」そのものではないし,「存在」そのもののせいではない,と気づく。
たまたま
を
そもそも
としてしまう一般化の癖を,たしかミルトンモデルにあったような気がする。そう,
いつでも,
そもそも,
とおのれを責める方が,あるところでは,楽なのかもしれない。だから,そういう原因帰属を選択して,落ち込む。しかし,そのおのれと決別するのであれば,どこかで,立ち直らなくてはならない。それは,振る舞いや言動という,限定された部分に特化しなくては,浮かび上がるきっかけがつかめない。
だから,実は,分かっている。
そもそも
であるかどうか,
いつでも
であるかどうか,
は,わからないにしても,結局,
具体的なアクション
によってしか,穴からは出られないのだということを。しかし,
悔しいから,
あるいは,
自罰
として,
あるいは,
一時避難
として,
凹んだり,
落ち込んり,
という心理的牢獄に,ちょっとの間,おのれを閉じ込めてみたいだけなのである。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年12月14日
恙無し
恙無しとは,
病気・災難などがなく日を送る。平穏無事である
という意味で,。「恙無く暮らす」とか,「恙無く日程を終える」という使い方になる。まあ,
息災である
無事である
という意味である。つい,日々是好日が浮かぶが,表面的にはともかく,意味合いが違うようだ。
こだわり,とらわれをさっぱり捨てて,その日一日をただありのままに生きる,清々しい境地,
を指すらしいので,どちらかというと,嵐の日であろうと,何か大切なものを失った日であろうと,悲嘆にくれる日であろうと,ただひたすら,ありのままに生きれば,全てが好日なのだ,という境地を指すらしい。まあ,そうはいかない。
「恙」は,
田野で人をさし,発病させる寄生虫,つつがむし
を指し,
無恙(ブヨウ)
と言うと,
つつがむしにやられない意のことから,無事で日を過ごすこと,
を意味する。『楚辞』から始まって,漢・六朝から,対手の安否を尋ねる手紙の常套句となった,
とある。「恙」には,その他,
病気,やまい,
の意があり,「恙病(ようへい)」で病気,「清恙(せいよう)」でご病気,「恙憂(ようゆう)」で心配,を指した。
ツツガムシ病は,
ツツガムシリケッチアの感染によって引き起こされる,人獣共通感染症のひとつであり,野ネズミなどに寄生するダニの一群であるツツガムシが媒介する,
という。症状は,ネットで見ると,
「ツツガムシに刺されてから5-14日の潜伏期ののち,39度以上の高熱とともに発症し,2日目ころから体幹部を中心とした全身に,2-5mmの大きさの紅斑・丘疹状の発疹が出現し,5日目ころに消退する。倦怠感,頭痛,刺し口近くのリンパ節あるいは全身のリンパ節の腫脹も多く見られる症状である。重症例では,髄膜脳炎,播種性血管内凝固症候群や,多臓器不全で死亡する」
こともあるとされるので,結構大変である。そう考えると,「無恙」の意味がちょっと重い。
「恙無し」の日本語の語源には二説ある。
ひとつは,「ツツガムシの被害にあうことがない」で,無事という意味
いまひとつは,「継ぐ+継ぐ」で,「ツギにツグ」つまり,継続するという意味。つづけるも同源とする。
しかし,別の説もある。
「手紙などで,相手の安否などを確認する為の常套句として使われる『つつがなくお過ごしでしょうか…』の『つつがなく』とは,ツツガムシに刺されずお元気でしょうかという意味から来ているとする説が広く信じられているが,これは誤りである。
もともと「恙」(つつが)は病気や災難という意味であり,そうでない状態として『つつがない』という慣用句ができた。これと別に正体不明の虫さされのあとに発症する原因不明の致死的な病気があり,それは『恙虫』という妖怪に刺されて発症すると信じられていた。これをツツガムシ病と呼んだ訳だが,後に微細なダニの一種に媒介される感染症であることが判明し,そこからこのダニをツツガムシと命名したものである。」
と,「恙」が病気の意味があり,それにツツガムシを当てた,ということになる。どちらが正しいかは知らないが,恙無しが,平穏無事,という意味に変わりはない。
ところで,むかしから,ある仕事や業務をし始めて,三年くらいたつと,仕事をしていて,
順調に行っている,
という,何と言うか,順調感というか,平常感というか,そういう感覚がある,と思っている。普通は意識しないが,あるとき,異和感,あれっ,というなんだろう,変だなという感覚を感じるときがある。別に具体的に何か起きているわけではないが,自分の感覚に,いつもとちょっとしたずれというか,異質感を感知したとでもいうものだ。僕は,これが,その仕事の現場感覚で,大事な問題感覚だと思っている。
問題の定義は,いろいろあるが,期待値(自分がこうあるべきだという感覚,こうしなくてはいけないという基準感,こうしたいという期待感等々を含む)と現状とのギャップである。意識しているときは,自分の思惑との差といってもいい。しかし,意識の閾下なのだが,皮膚感覚というか,空気感というか,違和を感受することがある。それは,自分の中の期待水準が明確であればあるほど鋭くなる。
一見恙無いように見えて,そのポジションを少しずらして,視点を変えると,違うということに,意識的になれる。しかし,その前に,感覚は,異和感を感じ取っていることが多い。
レミングの行進として知られている,ある種の鼠の集団自殺があるが,僕はいま日本がそんな状態にあるように思えてならない。
あるラジオ番組で,経済アナリストの,藤原直哉という方が,いまの日本人を評して,
「今だけ,カネだけ,自分だけ」の社会,
と,痛烈に批判されたそうだが,一方で,内向きで,自分探しだの,ありのままの自分だの,にうつつをぬかし,他方では,一日で何億稼いだと吹聴し,明日のことに全く思いを致していない。しかし,全体としてみると,レミングの行進になつていることに,ほとんど無沈着だ。「今だけ・カネだけ・自分だけ」のたこつぼに入っている状態だからだ。あの戦争前夜に酷似しているという人が多い。そういう人の感覚を無視してはいけない。そういう感覚を感知する人たちには,いま・ここにいながら,それを対比するアナロジカルな視点を持てているから,そう感じられるのだ。一種のメタ・ポジションである。埋没した行進の最中にいては,その異和感は感じにくい。
あるいは,なにがしかの異和感を感じているのだとしたら,おのれのその変だな,という感覚を無視してはいけない。後から振り返ると,あれだったか,と思い当ることが多いのだから。
この道しかない春の雪ふる
という種田山頭火の句に,重なるのは,春ではなく,極寒である気がする。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
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2014年12月18日
勿怪の幸い
「勿怪の幸い」
とは,思いがけないような幸運が舞い込んでくること。降ってわいたような好機。
まあ,僕にはあまり縁がないが,
「物怪の幸い」
とも書くらしい。語源を調べると,「もっけのさいわい」とは,
「(思い)設ケヌサイワイ」
の変化,という。
モウケノサイワイ→モッケノサイワイ
と変化したという。「勿怪」は当て字で,別の表記,
「物怪」
は,「ブッカイ」で,
あやしいものの意,という。
「物怪」からきているのか,「勿怪の幸い」の「勿怪」とは,
人にたたりする死霊や生霊の「物の怪(け)」のこと,
とする説もある。でもって,
「もののけ」が「もっけ」となり,「妖怪」「変化」の意味となった,とする。それが,室町時代,「意外なこと」という意味になり,「意外な幸運」という意味に変じた,と。つまり,
「もともとは,物の怪(勿の怪)の幸いといい,物の怪(妖怪)がもたらす幸福を意味した。山姥や鬼や座敷童子が禍や福をもたらすという,各々違う物語が伝承されていて,妖怪は祟りや恐怖だけの存在ではなく,時として幸福を授けてくれる存在であり,古神道や神道の神々や,九十九神も同様に禍福をもたらす存在である。これらは,自然崇拝に見られる特徴であり,自然の一部である天気や気候においても,適度な晴れや雨は実りや慈雨であるが,過ぎれば日照りや水害になることと共通する。」
とも。どちらが正しいかはわからない。要は,語源の定かではない言葉らしいということだ。ただ,
禍福はあざなえる縄の如し
で,たとえば,「化け」が
「大化け」
になるように,あるいは,化粧が
化生
から来ているように。いや,あるいは,本来,化生は,
語源は仏教語にあり,あらゆる生きものを生まれ方の違いによって四分類した四生(ししょう)の一つ
だそうである。因みに,四生は,
胎生(たいしょう)。母胎から生まれるもの。人間,象,牛などの人類および獣類。
卵生(らんしょう)。卵から生まれるもの。孔雀などの鳥類。
湿生(しっしょう)。湿気の中から生まれるもの。蚊・蛾などの虫類。
化生(けしょう)。よりどころなしに,自らの過去の業力によって忽然と生まれるもの。天の神々,地獄の住人,前世の死の瞬間から次の生を受ける瞬間までの中間的存在である中有(ちゅうう)の生きもの。
で,そのため,仏や菩薩など天界の衆生を指して,
弥陀の浄土に直ちに往生すること,
といった意味さえあるのに,変じて,
化け物,
変化
を指すに至るのと,似ている。
それにしても,「勿怪の幸い」は,
思いもうけぬこと,
意外,
という意味だが,例えば,こう言う説明がある。
想像も出来ないことから災いが福に転じることや,思いもしなかったような幸せが転がり込んでくるさまを表す言葉である。不幸中の幸い,棚から牡丹餅に通じる。
棚ぼたは,たまたま頭上の棚から牡丹餅が落ちてきた,というだけのことだ。たしかに,
思いがけない幸運
には違いないが,昔の人が,「勿怪」「物怪」を意味なく当てたとは思えない。「物怪」「勿怪」は,
思いがけないこと。不思議なこと。また,そのさま。
異変,災害,けしからぬこと。不吉なこと。また,そのさま。
とある。「勿怪顔」という言葉もある。
不思議な顔
意外な顔つき
という意味である。確かに,「勿怪の幸い」の類語は,
まぐれ幸い
僥倖
拾い物
という言葉があるが,「物怪」の,裏の意味,つまり,
不吉なこと,
や
異変
のなかの,
にもかかわらず,
それなのに,
それが,意想外に幸いをもたらした,
災い変じて幸いとなる
とか
禍を転じて福と為す
というニュアンスが込められている気がしてならない。だから,「勿怪」「物怪」の字を当てたように思えてならない。
因みに,「わざわい」は,
「ワザ(人力の及ばない不気味な神意)+ワヒ(接)」
で,「サイ(幸)+ワヒ」に対する語。ついでに,「禍」は,
「示(神・祭壇)+咼(まるくくぼんだ穴)」
で,神の祟りを受けて4思いがけない落とし穴にはまることを意味する。つまり,神が下すわざわい。「災」の,
「巛」は川をせき止める堰
で,それに「火」を加えた「災」は,
順調な生活を阻んで止める大火のこと,
それを転じて,生活を邪魔する物事を指す,という。
「災」にしろ「禍」にしろ,身の不幸を嘆いた,と思いきや,一転幸運が舞い込んだ,その一端の落ち込みが,そのあともたらされた幸いの嬉しさの大きさを示している,そんな気がする。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
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2014年12月27日
目くじら
目くじらを立てるとは,
目をつりあげて人のあらさがしをする。他人の欠点を取り立てて非難する。目角(めかど)を立てる。
という意味で,たとえば,「小さなミスに目くじらを立てる」というように,あまりいい意味には使わない。
目くじらとは,
「目+くじら(端・尻)」
で,目尻を指す。「目をくじる」とも言い,
他人の欠点を言い立てる,
という意味らしい。「くじる」は,
くりねじる,
と言うのの約で,
穴に入れてねじりほじくる,
という意味になり,重箱の隅をほじくる,いった意味となり,いずれも,言外に,
目くそ鼻くそ
じゃないか,という冷笑の含意がある気がする。これについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/404676321.html
で触れた。これは,類語を拾うなら,
非難する,咎める,詰る,厳しく注意する,責め立てる,文句を言う,苦情を言う,抗議する,苦言を呈する,責めつける,責める,責め立てる,批判の声を上げる,批判する,小言を言う ,
等々とあるが,微妙にニュアンスが違う気がする。あえて言えば,
咎める,
責める,
詰める,
だが,
なじる,
が近い気がする。「咎める」は,
とが(科,軽い罪)+メル(動詞化)
で,軽い科を責めなじる,という意味になる。「責める」は,「攻める」と同根で,「攻める」は,
「攻む」(間隔を詰める)
で,「相手に近づいて力を加える」で,「責める」も同様,
相手に迫って,相手の当然果たすべきことを咎める,
という意味になる。当然,そこから「詰める」も類推が働くが,「詰む」とか迫る,という意になるが,「詰」は,
言い逃れの余地のないように締めつけながら問い質す
の意で,漢字そのものに咎める意味がある。
しかし,いずれも,明らかに,相手に重大な瑕疵があるとまでは言えないのに,大袈裟にとがめだてる,という意味から言うと,「目くじらを立てる」とは,少しニュアンスの差がある。
「目くじら」には,傍から見ていて,「何を大袈裟な」というか,ちょっと咎める側を嘲笑するというか,たしなめる意味合いがありそうである。
針小棒大
である。つまり,
針ほどのことを棒のように言う,
という感じが近い。大袈裟にとがめだてるほど,咎めている側の人となりが露呈する,というか,その人の器量が鏡にうっすうと,明らかになる。咎める,というのは,咎めるに値する瑕疵というか,問題があったということである。問題とは,期待値(こうあるべき,こうなっているはず,こうしたい,こうありたい等々)と現状のギャップだから,咎めている側の価値基準が,明示されているに等しい。
問題や瑕疵というのは,重大なルール違反や法律違反はともかく,結局,そうあるべし(そうしたい)という咎めている価値とのズレを責めているにすぎない。
その期待値を共有していなければ,咎めている側が咎められる。しかし,である。
小事は大事,
だから,周囲が小事と思っているからといって,ほんとうに,それが小事とは限らない。重箱の隅の穴が,蟻の一穴かどうか,咎めている側を嗤う側にも,またその器量が問われていいるのに違いはない。
蟻の一穴,天下の破れ,
ではないと確信がないものが,軽々に,
目くじらを,目くそ同様に笑う資格はないのである。哂っているおのれ自身が,世界から笑われていないとは限らないのである。おのれ自身をモニタリングするメタ・ポジションを持てない限り,そのリスクはいつもある。メンターというか,スーパバイザ―というものの存在が,必要である,というのはそのことなのだと思う。
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2015年01月06日
義
『孟子』にある,
我善く浩然の気を養う。敢えて問う,何をか浩然の気と謂う。曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞(み)つ。その気たるや,義と道とに配す。是れなければ餒(う)うるなり。是れ義に集(あ)いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(こころよ)からざることあれば,則ち餒う也。
は,「浩然の気」が独り歩きして,士の心映えを示すものになった。その例が,文天祥の,
天地に正気あり,
雑然として流形を賦す
下は則ち河嶽と為り
上は則ち日星と為る
人に於いては浩然と為る
沛乎として滄溟に塞つ
皇路清く夷(たい)らかに当たりて
和を含みて明庭に吐く
時窮まれば節乃ち見(あら)われ
一一丹青に垂る
という「正気の歌」につながる。この歌は,これに和した,藤田東湖の,
天地正大の気
粹然として神州に鍾まる
秀でては不二の嶽杜為り
巍々として千秋に聳ゆ
注いでは大瀛(だいえい)の水と為り
洋々として八洲を環(めぐ)る
発しては万朶の桜となり
衆芳與(とも)に儔(たぐ)ひ難し
凝りては百錬の鉄となり
鋭利鍪(かぶと)を断つ可し
盡臣皆熊羆にして
武夫盡く好仇なり
神州孰か君臨せる
万古天皇を仰ぐ
皇風六合に洽(あまね)く
明徳太陽に侔し
世として汚隆無くんばあらざるも
正気時に光を放つ,
という「正気歌」を通して有名になった。しかし,明らかに,文天祥にとって,おのれ一個の気概をうたったものが,おのれがたつ国誉めに変身してしまった。
文天祥に和して,東湖は,意味を変えた。
正気,浩然の気とは,おのれの信ずる確信に基づく。自分のなかにある譲れない何か,それが正気に通じている。おのれのみの節義だ。それはこの国のありようとはつながらない,おのれの拠って立つ何ものかのはずだ。それをこの国のありようとつなげた瞬間,おのれの生きざまの言い訳になる。おのれを小さな国体につなげてしまったことになる。そうすることでおのれの拠って立つ拠り所をえたかも知れぬが,天地はもっともっと広く,広大無辺のはず,そういう天地の正気ではなくなっている。
それは東湖にとって,異国への,おのれを正当化する言い訳として,だしに使われている。国がなくなろうが,会社がなくなろうが,おのれが持さねばならぬ義ではなくなっている。
いま,それと同じ空気が流れている。自画自賛が満ち溢れている。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/404516184.html
で,触れた。
義は,
正義ではない。「義」の字を構成する,
我
は,「ぎざぎざとかどめのたった戈」を描いた象形文字であり,「義」は,
「羊+我」
で,
かどめがたってかっこうのよいこと,
きちんとして格好の良いと認められるやり方,
を意味する。孟子の言う意味は,
よしあしの判断によって,適宜にかど目をたてること,
という。あるいは,
羞悪の心が義の端
とする。悪すなわち悪く,劣り,欠け,あるいはほしいままに振舞う心性を羞じる心である。それは,あくまで,倫理である。倫理とは,
(おのれが)いかにいくべきか,
であって,人に押し付けたり,押し付けられたりするものではない。そう見れば,文天祥の義に対して,東湖のは,大義や正義に紐づけられている。おのれの生き方ではないところから,義を語っている。
そういう語り口が闊歩し始めたら,危険の兆候である。
僕は,義とは,
問い
であると思う。どこかに正しい答えがあるのではない。これでいいのか,このありようでいいのか,とみずからを問うものである。その意味で,答えは永遠にないはずなのである。それは,
倫理に通じる。倫理は,
生き方
である。この生き方でいいのか,と自らに問う。それと同じである。だから,孟子は言う。
天下の廣居に居り,天下の正位に立ち,天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に因り,志を得ざれば,独り其道を行ふ。富貴も淫すること能わず,貧賤も移すこと能わず,威武も屈すること能わず
と。
参考文献;
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
冨谷至『中国義士伝』(中公新書)
今日のアイデア;
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2015年01月10日
当局者迷
「当局者迷」というフレーズを,昔手帳に書きとったまま,放ってあった。調べると,
当局者迷 傍観者清(旁观者清)」
と続くらしい。だから,
当事者は目がくもり傍観者はよく見える,岡目八目,
となる。これも,元は,
「碁を打っている本人は局面がしばしばわからなくなるが,傍で見ている人は却ってはっきりとわかっている,というところから派生して,当事者は問題の局面がしばしばわからなくなるが,部外者のほうが却ってはっきりと把握していることをいうようになった。」
とある。しかし,
当局者迷
だけなら,
知らぬが仏,
ということになる。裸の王様,と言い換えても的を外すまい。「知らぬが仏」は,「知るが煩悩」か「見ぬが秘事」と続く。知らない方が,幸せということもあるが,どこかに嘲りがある。
トンネルビジョンに陥りやすい,ということなのではないか。多く,迷路に入り込んだとき,頭の隅で,自分がトンネルに入っているのではないか,という疑念がかすめる。人は,メタ・ポジションにも,メタ・メタ・ポジションにも立てる。それがそう囁いている。しかし,信じているというか,思い込んでいるというか,妄想に陥っているときは,そこしか見えない。
これしかない,
とか,
この道しかない,
等々というのは,もはや迷路に入り込んでいる証拠である。ヴァレリーだと思ったが,
アイデア一杯の人は決して深刻にならない,
と言った。選択肢が一杯あることを知っているからだ。この選択肢が一杯だせることを,発想力が豊かと言うが,思い込んだ結果,鬱に落ち込むか,ひと様を巻き込んで,一緒に奈落に陥るか,のいずれかである。だから,トンネルビジョンに陥ったときは,まずは立ち止まり,
距離を置く。
時間的にか,空間的にか,距離を置く。いまひとつ,自分を他人の目でみるという手もある。たとえば,自分の尊敬した人の目で,「その人なら自分をどう見るか」と,いわゆるエンプティチェアの独演である。しかし,所詮,自己対話に過ぎない。限界がある。
だから,優れたトップは,別の声を必ず傍に置く。ホンダやトヨタの例を出すまでもなく,秀吉なら,小一郎(秀長)であり(堺屋太一『豊臣秀長―ある補佐役の生涯』がある),家康なら本多正信,と言うところだ。しかし,小一郎死後秀吉がトンネルビジョンに陥ったように,ひとり舞台となると,自分の妄想から出られなくなる。
軍師と言うのは,講談本ならともかく,日本には存在しなかった。たとえば,
「軍師は,西欧の軍制度における参謀などと異なり,軍司令官的な存在とも対等,ないしやや上位の関係にあり,賓客(要人),顧問的な立場であった。時として君主の師匠扱いもされ,君主より上位の存在の場合すらあった。」
と言うが,こうした軍師像は,儒教道徳的な考え方,後世のイメージによって創作された部分が大きく,実際に軍司令官的存在に対し,上位の立場で軍事にのみ助言する軍師という存在は『三国志演義』・『水滸伝』,あるいは日本の戦国時代を基に作られた軍記物などの創作の世界にのみ登場する存在,らしい。
たとえば,ウィキペディアでは,
「官制上の軍師は,両漢交替期の群雄が名士を招聘したことに端を発する。劉秀配下の鄧禹における韓歆,隗囂における方望が当時の軍師の例である。諸軍閥は軍師を文字通り『師』として,帷幄で謀略をめぐらす任務を託した。群雄と軍師との関係は君臣の間柄ではなく,軍師は進退去就の自由を有する賓客として遇された。両漢交替期の軍師は戦時体制下の臨時職であったため,後漢の中国統一ののちに廃止された。」
とあるから,今川義元の,朝比奈泰能,太原雪斎がそれに近いのかもしれない。軍師と言うより,師と言う感じである。その意味では,上杉景勝の直江兼続は,家康の本田正信に近い存在かもしれない。謀臣ではあるが,軍師ではない。対話対手,という言い方が近い。
実際,秀吉の軍師として有名な官兵衛も,肝心の賤ヶ岳の合戦には,戦場にいなかったことが,官兵衛に指示する文書から明らかだし,竹中半兵衛も,将官に過ぎず,秀吉を動かせる人物ではない。第一,官兵衛も,半兵衛も,信長の家臣で,あくまで信長の指示で秀吉を与力しているにすぎない。
自己対話は,多く妄想を増殖させる。それを煽るのが,佞臣。つまりへつらう臣である。多く,その実像は,今日の日本の為政者周辺で見ることができる。メディアのトップ,産業界のトップまで,官房秘密費で,飲食し,「いわゆる同じ釜の飯を食う」に近い状態にしている。これでは,自己増殖は止まらない。
自己対話に,批判的な視点をいれるのが,いわば,謀臣であり,参謀であると思う。謀臣とは,はかりごとを立てる臣,という意味と,主君に反逆する臣下の意味とがある。参謀とは,指揮官を補佐して,作戦,用兵その他一切の計画・指導に当たる人,である。因みに補佐とは,人の仕事を助ける人,とある。補佐は,輔佐ともかく,
「補」の字の, 「甫」は,
田んぼの(「圃」)原字。平らにへばりつくの意をもつ。「おぎなう」意である。
「衣+甫」で,布切れを平らにして,破れ目にぴたりとへばりつかせる,
という意になる。で,「補」の意味は,「おぎなう」だが,
衣服の破れ目に布切れをあてがう(「補綴」「補衣」)
不足しているところをたすける(「補欠」)
利益やためになる助け(「小補」)
助ける役
といった意味の広がりになる。では,「輔」は,
「車+甫」
で,車に沿えた添え木。だから,「輔」の意味は,たすけるだが,添え木,という意味で,
車を補強する添え木(「輔車」)
その人のそばにひたとくっついて力を添える
そばに寄り添って助ける
というように,寄り添う添え木の意味が強い。
因みに,「謀」は,楳=梅の原字。暗くてよくわからない,意味。したがって,はかりごとは,陰謀とか謀議とか,あまりいい意味はない。となると,「輔」の添え木ではない,「補」の,不足やかけているものを補う,「補佐」が,この場合の「傍観者」に当たる。
今日,どれもこれも,金太郎飴のように,悪相で,人品骨柄の賤しい人間しか周りにいないのは,トップの器量そのものの反映である。沖縄県知事への対応を見ている限り,到底,人物ではない。しかし,そんな人物をトップにいただくことは,残念ながら,それ自体が,日本人すべての器量の反映である。内誉めでなければ,外からは,そう見えるはずである。
今日のアイデア;
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2015年01月14日
気
中国絵画における,気の表現については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/401855141.html
で触れたが,僕は,気というと,
浩然の気
という言葉がすぐに浮かぶ。浩然の気とは,
曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞つ。その気たるや,義と道とに配す,是なければ餒うるなり。是れ義に集いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(よか)らざることあれば,則ち餒う。
と,まあ,注釈では,
天地にみなぎっている,万物の生命力や活力の源となる気。
物事にとらわれない,おおらかな心持ち。
とある。「天の和気」が浩然の気とされる。では,そもそも「気」とは何か。これはなかなか難しい。
漢字の「気(氣)」は,まず,
「气」は,遺棄が屈折しながら出て来るさま,
といい,
「气+米」で,米をふかすとき出る蒸気
を指す。漢字の「気」の意味は,
①息。「気息」「呼気」
②個体ではなく,ガス状のもの。「気体」「空気」
③人間の心身の活力。「気力」「正気」
④漢方医学で,靭帯を守り,゛い名を保つ陽性の力のこと。「衛気」
⑤天候や四時の変化を起こすもとになるもの陰暦で,二十四気。「節気」「気候」
⑥人間の感情や衝動のもととなる,心の活力。「元気」「「気力」
⑦形はないが,何となく感じられる勢いや動き。「気運」「兵革之気」
⑧偉人のいるところに立ちあがるという雲気。「望気術」
⑨宋学で,生きている,存在している現象を言う。「理気二元論」
⑩かっとする気持ち。「動気」
となるが,日本語で言う「気」は,固有の日本語としてはない言葉で,漢字の音をそのまま使い,
目に見えないが,空中に満たされているもの,
といった意味で,漢字の意味を流用しながら,微妙に違う意味にスライドしている。
①天地間を満たし,雨中を構成する基本と考えられるもの。またその動き。
・風雨・寒暑などの自然現象。「気象」「気候」「天気」
・15日のたは16日間を一期とする呼び方。三分してその一つを,候と呼ぶ。二十四節気。
・万物が生ずる根元。「天地正大の気」
②正命の原動力となる勢い。活力の源。「気勢」「精気」「元気」
③心の動き・状態・働きを歩赤津的に表す。文脈に応じて重点が変る。
・(全般的に見て)精神。「気を静める」「気が滅入る」
・事に振れて働く心の端々。「気が散る」「気が多い」
・持ちつづける精神の傾向。「気が短い」「気がいい」
・あることをしようとする心の動き。つもり。「どうする気だ」「気がしれない」「まるで気がない」「やる気」
・あることをしようとして,それに惹かれる心。関心。「気をそそる」「気を入れる」「気がある」「気が乗らない」
・根気。「気が尽きた」
・あれこれと考える心の動き。気遣い。心配。「気を揉む」「気に病む」「気を回す」「気が置ける」「気になる」
・感情。「気まずい」「気を悪くする」「怒気」
・意識。「気を失う」
・気質。「気が強い」
・気勢。「気がみなぎる」
④はっきりとは見えなくても,その場を包み込み,その場に漂うと感じられるもの。
・空気。大気。「海の気」「山の気」「気体」「気圧」
・水蒸気のように空中にたつもの。気(け)。
・あたりにみなぎる感じ。「殺伐の気」「鬼気」「霊気」「雰囲気」
・呼吸・息遣い。「気息」「酒気」
⑤その物体本来の性質を形づくるような要素。「気の抜けたビール」
等々,僻目かもしれないが,どうも,具体的にもの,形而下的な,あるいは現象としての「気」にシフトして使われている気がしてならない。矮小化する,というと貶めすぎだろうか。
たとえば,元気は,
天地の間に広がり,万物生成の根本となる精気
を指し,「儒教における生成論で宇宙の根源である太極に呼応する概念,『元気・陰陽・四時・万物』の一つ」とされるのに,
活力の源となる気力
から変じて,
健康で勢いのいいこと
と,心と体の活動性を示す言葉に代わっている。
精を練って気に化し,気を練って神に化する
ときにも「気」であるし,五気朝元,つまり,
木・火・土・金・水
の五気(五行)が,「元」に帰一する,「気」であり,さらには,
陰陽二気
の「気」であり,そして,
「神を練って虚に還し,復た無極に帰す」
と,循環する。
「万物は五行に還元せられ,五行は陰陽に還元せられ,陰陽は太極に,太極は無極に還元せられる」
という宇宙観の背景にあるのが,「気」となる。
中国で「気」の哲学される張横渠は,
「天地は虚を以て徳となす,至善なるものは虚なり」
として,「虚の極致,『太虚』」が天地宇宙の別名とする。
「太虚とは…気の充満」であり,
「聚まりて万物とならざることあたわず,万物は散じて太虚とならざることあたわす」
として,
万物は気の凝集によってできたものであり,その気は宇宙合そのものを形成している。
人も万物も「気の海」に浮かんでいる,
とは,まるで,気は「原子」そのものようである。だから,張横渠の哲学は「唯物論」と位置づけられる,と言う。
「気は坱然たる太虚にして,あるいはのぼり,あるいは降り,あるいは動,あるいは靜,あるいは屈し,あるいは伸び,飛揚して一瞬もとどまることがない。これがすなわち『易』でいうところの『絪縕』である。」
『易経』には,
天地絪縕して万物化醇し
男女精を構せて,万物化生す
とある。絪縕とは,「密接にまじりあうこと」という。
「気は不思議な存在である。どこまでも同じ一つの気でありながら,しかも同時に,常に必ず陰陽二気である。二にして一,一にして二,本質的に矛盾的な存在である。いっさいの存在は,このような気(陰陽)の自己運動の過程からせいりつしてくるものにほかならない。それはあたかも水と氷のごとくであって,すべての存在は変化の途中におけるただ一時形,ちょうど水の一部分が氷となって浮かんでいるようなものである。」
このような気の自己運動から,万物が生まれる。
「気によって化する」
そこにこそ「道」がある,と言うのである。
「太虚によりて天の名あり,気化によりて道の名あり」
と。島田虔次氏は,こう表現する。
「『道』とは,野馬,盛んな活動状態を内に含みながら,しかもこのうえないハーモニー,すなわち『太和』を保っているところ,そこにこそ『道』があるのである。」
と。そして,
「生とは気の集結であり,死とは気の解散」
である,と。この先に,理気二元論の朱熹が来るらしいのだが,ま,それは別の話として,こう「気」を振り返ってみると,
「浩然の気」
が,単なる,
天地にみなぎっている,万物の生命力や活力の源となる気。
物事にとらわれない,おおらかな心持ち。
ではないはずである,天地生成の気を感じ,おのれが,道を意識している,という気概まで含んでいるように見える。
「志は気を師(率)いるものなり。気は体を充(統)ぶるものなり。夫れ志至れば,気はこれに次ぐ。故に曰く,其の志を持(守)りて,其の気を暴(害)うこと無れ。…志壱(専)らなれば気を動かし,気壱らなれば則ち志を動かせばなり。」
とはこの心境か。
参考文献;
島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書)
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
今日のアイデア;
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2015年01月17日
もっともらしさ
「地震・雷・火事・おやじ」は,一般には,
地震,雷,火事などの災害に匹敵するほど親父が怖かったのは,年長の男性によって支配される家族制度である家父長制のもとでのことで,現在では親父はそれほど怖いものとは思われていない。
「親父」の代わりに「女房」や「津波」など,怖いと思うものに置き換えて使われることもある。「親父」は「親爺」とも書く。
と説明されることが多い。しかし,「地震・雷・火事・おやじ」のおやじは親父ではなくて,
「大山風(おおやまじ)」もしくは「大風(おおやじ)」であり,簡単にいうと「台風」のこと。
と言うもっともらしい説が,流布している。で,
「・・・『地震,雷,火事,おやじ』のおやじは,オオヤマジ(大きい風=台風)がなまったという説もある」,と『お天気生活事典』などの著書がある福井地方気象台防災業務課長の平沼洋司さん(59)は話す。」(朝日新聞)
という説明があったりするので,ややこしい。しかし,
おおやまじ
すべての辞書検索で該当する情報は見つかりませんでした。
という報告もあり,その報告では,
「なお『大やまじ』説が,はじめて紹介された書籍を調べると,なんと!森田正光さん著の『雨風博士の遠めがね―お天気不思議ものがたり』(新潮社 1977)にたどり着くのだそうです。
ということは,責任の矛先は森田さんに向くわけです。森田さんの弁解?によれば,むかし気象庁などの大先輩の何人もが『大やまじ』説を口にされてるのを聞いた記憶があり,件の書籍で書くに当たって書籍で調べた所,明確な根拠は見つからなかったので『こういう説もある』と断定はしなかったそうです。
それが,テレビのクイズ番組などマスコミであっという間に広まり,いつの間にか通説として現在定着してしまったというのが実態のようです。だいたいマスコミで広まった時期も2000年以降だそうで,このあたり符合しています。」
とあり,上記の朝日新聞記事も,その時期らしい。考えてみれば,
地震・雷・火事・おやじ
と落ちるから面白いのであって,
地震・雷・火事・台風
では,面白くも可笑しくもない。やはり,諺に,もっともらしい理屈をひねり出した人間がいるのだろう。
道を聴きて塗(みち)に説くは,徳をこれ棄つるなり
である。「尤もらしい」の「尤も」というのは,元来,
御尤も
というように,ちょっと茶化すニュアンスがなくもない。
どこから見ても理屈にかなっている
という意味だが,
「もっとも,…」
と接続詞として使うときは,
そうは言うものの
ただし,
はたまた
という余白を残している。だから,
ご無理御尤も
もっともごかし
もっとも至極
もっとも千万
という使い方をするので,「尤もらしい」という口吻をちょっと含めていなくもない。
御尤も役
という,「御尤も」と相槌を打つ役が,端役の代名詞にあるくらいだが(ちょっと意味が違うか)。
「尤」の字は,
手の肘+―
で,手のある部分に,いぼやおできが出来るなど,思わぬ事故の生じたことを示す,という。で,災いや失敗の生ずることで,肬(いぼ)や疣(いぼ)の原字。多くは,
科,
わざわい
とがめる,
失敗を責める
という意味で,いい意味ではないが,
尤者
で,優れたものという意味もあるので,
もっとも,
目立っていちばんに,
とりわけ,
という意味を持っていないわけではない。普通もっともというと,「最も」と当てるが,「最」は,
最上,
最初
という意味で,「最」は,
「おおい+取る」
で,かぶせたおおいをむりやりにおかして,少量ずつ,つまみ取ることを示す,という。もともとは,「極少」の意味なのに,「少ない」の意を失って,「いちばんひどく」の意となったとされる。日本語で言うと,
「最」は,
「いとど」と訳す。はなはだの意で,優れて異なる,という意味,日本語で言うと,「けやけし」になる。「けやけし」とは,
異様だ
際立つ
こしゃくである
と辞書にある。「もっとも」と言いつつ,
確かに理屈に合っているが,小癪,小賢しい,と感じているということだ。つまりは,心のどこかで,
?
を感じている,という意味だ。
もっともらしい,
とは,兎角言い得て妙である。確かに,
地震・雷・火事・大やまじ
には,小癪なもっともらしさがある。しかし,「御尤も」と茶化すに如くはない。
参考文献;
http://flyman.jugem.cc/?eid=1046
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)
今日のアイデア;
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2015年01月18日
MOTTAINAI
日本語の「もったいない」は,
環境3R+R(リスペクト)をたったひとことで表す,
MOTTAINAIとして,世界的に知られてしまったが,本来の意味は,
もったいなし
で,
勿体とは,
ものものしいありさま
高ぶった様子
高ぶったさま
を指す。漢字の「勿」は,
さまざまの色の吹き流しの旗を描いた象形。色が乱れてよくわからない意を示す。あるいは水に沈めて隠すさま,
ともいう。そこから転じて,広く,「ない」という否定詞となり,「そういうことがないように」という禁止の言葉となった。たとえば,
過則勿憚改(過てば則改むるに憚ること勿れ)
と,いうように。「勿」は,「物」とも当てるらしい。で「物」を見ると,
「牛+勿」で,色合いの定かでない牛。一定の特色のない意から,いろいろなものを表す意,となる。牛は,モノの代表として選ばれただけ,
とあり,「勿体」は「物体」とも当てる。
ま,ともかく,「勿」の意味は,
なかれ(禁止の辞)
とか
ない,否定を表すことば
とか
つとむ
とか
にわか
といった意味だから,
勿論で,ろんずるまでもなし,
とか
勿怪で,思いがけない,
とか
勿勿で,にわか,あわただしい,こころがそぞろなさま
と使う。で,
勿体で,
物々しき様子,
尊大なさま,
という意味になる。そこで,「勿体ない」は,というと,語源的には,
①「モッタイ(物々しい様子)+ナイ(はなはだしいの接尾語)」で,ことさら重要らしく見せる,という意。
②「勿(無)+体+ナイ」で,正体がない,よろしくない,もってのほか,という意。そこから転じて,粗末に扱うのはもってのほかだ,捨てるのは惜しいねとなる。
の二説があるらしい。辞書には,,
①神仏,奇人に対して不都合である,不届きである,
②過分のことで畏れ多い,かたじけない,有り難い
③そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい,
といった意味だが,①と②はともかく,③の意味は,どこかとってつけた感じがしなくもない。そのせいか,勿体・物体は,
物の形,
物のあるべき姿
を意味し,そこから,
物の本質
物の正体
となり,そこから,
重々しい態度
などの意味が派生したのだ,と解釈する向きもある。まあ,こういうもっともらしい説は,ためにする部分があり,むしろ,「勿体」自体を,素直に見れば,すでに,
体(軀,躯,躰,體,軆)を為さない,
テイと読むか,タイと読むか,カラダと読むかは別に,この字のそのものから考えれば,
本来の状態ではない,
見かけと違う,
見かけ倒し,
という,否定的なニュアンスがある。だから,勿体の「物々しき様子,尊大なさま」という言葉自体が,見かけ倒しという意味を言外に含んでいる。
因みに,横道にそれるが,体(軀,躯,躰,體,軆)の「體」は,「豊(きちんと並べる意)+骨」。「体は」,「人+本(もと笨で,ホンと読む)」で,中国でも古くから「體」の俗字として使われてきた。尸(人が横になって寝た姿)と同系で,各部分がつらなってまとまりをなした人体を意味し,のちに広くからだや姿の意となった,とされている。
その「体」に,「ない」重ねると,「勿体ない」は,
「テイをなしていない」こともない
となる。
つまり,
大事でないことはない,
とか
重要でないことはない,
という意味に変わる。「勿体ない」は,だから,「惜しい」「畏れ多い」という意味に先祖返りした感じがしなくもない。
そのせいか,
勿体ぶる
とか
とか
勿体がお
とか
勿体を付ける
とか
勿体らしい
という,「勿体」に関わる語彙には,見かけ倒し,という皮肉るニュアンスが付きまとっている。
もともとは,だから,勿体ないにも,
有り難すぎて恐縮する
という,相手の振る舞いへの皮肉のにおいがったのではないか,という気がしてならない。
畏れ多い,
というべきところを,更にへりくだると,
勿体ない,
とおのれを貶める,といったふうな。だから,
ものを粗末にしてもったいない,
仕えるのに捨ててしまうのはもったいない,
という言い方には,少し,相手の振る舞いを咎める意図が入っているので,というか,ものを大事にしろ,ものを粗末にするな,という躾というか,行儀を正す意図があるはずなので,単純に,
その価値を活かしきっていなくて,惜しい,
という意味だけではなかったような気がするのだ。だから,類語の,
畏れ多い,
でも,
惜しい
でも,
不相応な
でも,
捨てるにはまだ早い
でも,
違和感がある
でも,
使い方が雑で惜しい
でも,
粗末にする,
でも,
勿体ないのニュアンスにはならない。もったいないには,仕付ける(仕付け縫いの意味の仕付け)の意味がある。
だから,環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性,ワンガリ・マータイさんが,日本語の「もったいない」に感銘を受けて,
環境 3R+Respect=もったいないを,
Reduce(ゴミ削減),Reuse(再利用),Recycle(再資源化)という環境活動の3Rをたった一言で表せるだけでなく,
かけがえのない地球資源に対するRespect(尊敬の念)が込められている言葉,「もったいない」として,環境を守る
世界共通語「MOTTAINAI」として広めることを提唱した,
という意図は,
勿体ないのもつ,
事々しい言いようにはふさわしい,
のだと思う。それは,人の振る舞いへの行儀,礼儀運動としては,ふさわしい言葉だと思う。
ただ,それをこれからの日本のムーブメントにするとき,かつて,
「欲しがりません勝つまでは」
「生活下げて 日の丸上げよ」
というスローガンとして,かつて国民に忍耐を強いる国民精神総動員運動として,物資の節約,廃品,金属等の回収・リサイクル,歓楽街のネオンのライトダウンなどの取り組みが行われた。その分を軍備や企業の税率を下げることに使われかねない嫌な雰囲気がある。それこそ,
勿体ぶったスローガン
にされる(可能性のある)ことには細心の注意がいる。そのオーソライズに,必ず,
日本の民族信仰である古神道においては,森羅万象に対して,「散る桜の花びら」や,「生き物の吐息の一つ一つ」にまで,慈しみや感謝の念をもって接してきた,
という自画自賛が,裏打ちとされ,
勿体づけられるに違いない。くわばらくわばら(あれ?くわばらってどういう意味だっけ)。
参考文献;
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
今日のアイデア;
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2015年01月22日
くわばら
くわばらくわばら,
なんて言い草は,死語か。しかし,こういう表現にも歴史がある。もちろん,
桑を植えた広い畑。桑田
という意味もあるが,
落雷を防ぐために唱えるまじない。
嫌なことや災難を避けようとして唱えるまじない。
といった,呪文のように唱える,というのがある。そのわけは,
地名や人名伝説に由来する
という。
ひとつには,菅原道真の領地「桑原」にあるらしい。都には落雷が多かったが,この地だけは,被害がなかった。で,落雷除けのマジナイに使った,というのである。
ふたつには,大阪和泉軍の桑原の井戸に落雷後,すぐに蓋をして雷を出られなくしたので,雷神が「自分は桑の木が嫌いなので,桑原と唱えたなら二度と落ちない」と誓った,という伝説によるともいう。この説には,異説もある。和泉の西福寺には雷井戸と呼ばれる井戸があるらしい。このお寺には奈良時代に道行と言う修行僧がいて,雷に遭遇したとき,慌てずに大般若経を浄写したところ雷がピタリとやんだという伝説があり,それ以来ここにある井戸には雷を封じ込める力があると言われるようになった。「くわばら くわばら」と唱えることで「ここは雷を封じ込めた雷井戸のあるクワバラですよ」と雷に教えると言うことになった,というもっと詳しい説明がついたものもある。
三つには,説話的な説で,桑原という人が落ちてきた雷さまを助けたという。そこで雷さまが「おまえとおまえの子孫の住む場所には雷を落とさない」と約束をしたのです。それ以来雷が落ちそうになると,誰もが桑原さんの子孫だと「くわばら くわばら」と言うようになったというものである。
四つには,昔から雷は何故か桑畑に落ちないといわれていて,そのために,雷がなると昔は桑畑に逃げたと言われている。そこから,雷が鳴り出すと「くわばら くわばら」と言って,雷を避けるようになったと言われています。
いずれも,雷除けの呪文として言い伝えられている。雷自体ももちろん怖いが,それが,何かの祟りとなると,もっと怖い。菅原道真が代表だが,崇徳上皇とか,将門といい,落雷や地震などの天変地異と結び付けられる。
怨霊については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/407475215.html
でふれたが,たとえば,菅原道真の場合,藤原氏の陰謀で京都から九州の大宰府へと追い払われた。その死後,藤原の関係者は次々と謎の死をとげたとも言われているほどで,京都の御所では雷が落ちるたびに,菅原道真が雷様となって,藤原氏に復讐しているのだと噂された。そこで,京都の人は藤原氏の巻き添えを食って雷に当たらないようにと「ここは道真様の領地ですので雷は落さないで下さい」と言う意味で,領地名「くわばら くわばら」と,唱えた,という尾鰭までがつく。
さらに,叱られたり,お小言を言われることを「雷が落ちる」と表現したことから,これにも「くわばら,くわばら」と唱えるようになった,という説明もある。ただ,怖いものへのおまじないとして,汎用されただけなのかもしれない。ネットには,
「この言葉の由来は,私の記憶では,雷のときに,遠くの桑畑(桑原)に落ち,近くに落ちるなよという願いでつぶやいた,なのですが,友人の説では,桑畑は雷が落ちにくいといわれており,ゆえにくわばらと唱えると言います。」
というのがあったが,ある意味,災難が,
わが身に降りかかりませんようにとの意味で「くわばらくわばら」
と唱えているので,それを,遠くの桑畑(桑原)に,と祈るか,ここは桑原,と祈るかは,大した差ではない。
しかし,「くわばらくわばら」の類語は,捜したが,見つからなかった。たとえば,
南無さん
神様仏様
と,安全,安穏を祈るまじないはあるが,自分だけというあからさまな,呪文は,見当たらなかった。いまや死語だが,「今だけ,カネだけ,自分だけ」という今の時代には,ふさわしい呪文かもしれない。
呪い(まじない)というのは,
神仏その他不可思議なものの威力を借りて,災いや病気などを起こしたり,また除いたりする
という意味だが,「呪い(まじない)」は,語源的には,
「魔+シ(行為)+ナヒ(接尾語)」
で,魔の作用を実現する行為,という意味。「呪(のろい)」という漢字は,「咒」という字を書く。
「口+兄(大きい頭の人)」
で,もともと「祝」と同じで,
「人が祈りの文句を称えること」
で,祝は,サイワイを祈り,呪は不幸を祈ると,別けて使うようになった,とされる。いずれにしても,
口を通して,言葉として発せられることで,呪力をもつ,
と考えられる。つい言霊,と言いたくなるが,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/403055593.html
でも触れたように,言葉そのものに力があるのではなく,神に託すから,その言葉が威力を持つ。まじないという意味では,たとえば,
験を担ぐ(「縁起を担ぐ」から転じた語か,ある物事に対して,よい前兆であるとか悪い前兆であるとかを気にする)
御幣担ぎ(御幣を担いで不吉を払うという意味から,縁起やゲンを担いで,つまらぬことを忌み嫌ったりすること)
と似ているが,言葉,ということに視点を置けば,呪文ということになる。
① 一定の呪術的行為のもとにそれを唱えると神秘的な力が現れるという言葉・文句。まじない・のろいの文句。
② 密教・修験道・陰陽道(おんようどう)などで唱えるまじない。
という意味だが,
ちちんぷいぷい
が一番使われているか。そのほかに,
オン・キリキリ・~ (密教)
臨兵闘者皆陣列在前 (九字)
エロイムエッサイム,我は求め訴えたり(水木しげるの漫画,「悪魔くん」で使われ有名になる)
アブラカダブラ
等々,やはり経文から切り取った言葉が多いが,「なんまいだぶ,なんまいだぶ」が一番身近か。
たかが,「くわばらくわばら」も,探れは奥が深い。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年01月31日
愛嬌
知らずに使っている仏教用語というのの,ランクが出ていて,
1位 愛嬌 47.9%
2位 挨拶 44.5%
3位 アバター 38.4%
4位 安心 34.3%
5位 食堂 32.3%
とあった。半分以下なので,多くは,承知の上と言えるが,意外なのは,
アバター
で,「ネットワーク上の仮想空間でのユーザーの分身」というのは,判っていたが,
サンスクリット語の「アヴァターラ」が語源で,「(神や仏の)化身」
という意味があるそうである。周知のことなのかもしれないが,「化身」を,ネット上の分身に当てた人が偉いというか,どこまでわかっていたのであろうか。
愛嬌は,愛敬とも書く。
「あいきょう」と読むと,
女性や子供などが,にこやかでかわいらしいこと,またこっけいでほほえましいこと
人に好かれるような愛想や世辞。また催しごとや者をル時に沿えるもの。座興。
ひょうきんで,憎めない表情や仕草
「あいぎょう」と読むと,
親愛と尊敬の念をもつこと。人から愛され敬われること。
顔つき・振る舞い・性格などが,優しく愛らしいこと。
となる。語源的には,仏教用語で,
「愛+敬」
で,愛し尊敬する意(仏・菩薩の,優しく情け深く,穏やかな容貌や態度を表現する愛敬相から来ている)。平安時代になって,『源氏物語』や『枕草子』でも,女性の顔や言動に使われるようになった。
あいぎょうづく
あいぎょうおくれたる
といった使い方で,「あいきょう」に転じた。この意のときは,「愛嬌」と書く。
漢字から当たってみると,「愛」は,
いとおしむ(「恋愛」「愛惜」)
とか
めでる(「愛好」)
とか
好きでたまらない
という意味。「愛」は,
「心+夂(足をひきずる)+兂(人が胸を詰まらせてうしろへのけぞったさま)」
を表し,心が切なくつまって足もそぞろに進まないさま,を意味する。
では,「敬」はと言うと,
うやまう
とか
つつしむ
とか
身をひきしめてかしこまる
とか
尊敬の気持ち
という意味。「敬」の「苟」字は,
苟(きょく)は,苟(こう)ではなく,
「羊の角+人+口」
からなる会意文字(既成の象形文字または指事文字を組み合わせること。会意によって作られた漢字)。角に触れて,人がはっと驚いて体をひきしめることを示す。
「苟(引き締める)+攴(動詞の記号)」
で,「はっとかしこまって体をひきしめること」という意味になる。
「嬌」の字は,
なまめかしい
とか
「阿嬌」で愛人や若い女性を親しみを込めて呼ぶ言葉
という意味があり,艶っぽい字らしい。「嬌」の字の「喬」は,
高の字の先端がなよなよと曲がった形で,曲線状にしなる意で,
「女+喬」
で,女がしなやかに体をくねらせる
という意味になる。
こう考えると,「愛敬」は,敬って身を引き締める,謹む,という意味しかない。「愛嬌」の字に後に当てられたのは,まさに当を得ている。
男は度胸女は愛嬌
と言うが,むしろ,
男は愛敬女は愛嬌
なのかもしれない。
参考文献;
http://news.ameba.jp/20150106-559/
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
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2015年02月03日
ちちんぷいぷい
「ちちんぷいぷい」は,不思議な言葉だ。幼児に向かって言うらしい語感はある。
ちちんぷいぷいは,
一般には子供が怪我をしたときになだめるときに,用語である。主に母親などが,「ちちんぷいぷい,痛いの痛いの,飛んでけ」といったように使用する。 古くはもっと長く「チチンプイプイ御代(ゴヨ)の御宝(オンタカラ)」ととなえた,という。その語源は,
「智仁武勇は御代の御宝」(ちじんぶゆうはごよのおたから),
とされる,とある。これは,三代将軍徳川家光の乳母・春日局が子をあやすために,「知仁武勇は御代の御宝」(知力と武力に長けた貴方は徳川家の宝なのですから,どうか泣かないで下さい)」と残したことに由来する。しかし,異説もあるらしい。もう一つは,
仏教用語の「七里結界」(四方七里に邪を寄せ付けない結界をはる)
に由来するというのである。詳しくない僕には,どちらも,もっともらしいが,単に,喃語に合わせているようにも見える。
似たのに,「どっこいしょ」がある。
民俗学者の柳田国男によると,「何処へ」が語源だとされる。語源的にも,
「何処へ(相撲の掛け声)+しょ(掛け声)
で,本来は,荷物を運ぼうとして力を入れるときの声で,転じて,腰を下ろすとき掛け声のに使う,という。余談ながら,坐るぞ,あるいは,力を入れるぞ,という合図をすることで,身体への不意打ちの衝撃に備えさせる意味では,効果的なのだ,と聞いたことがある。身体への合図,と考えると判りやすい。ネット上には,
「『どこへ』はもともと感動詞で,相手の発言や行動をさえぎる時に使う言葉です。『なんの!』や『どうして!』などと同じように思わず力が入る言葉だったのです。江戸時代には歌舞伎にもよく出てきていました。『どこへ!』が『どっこい!』となり,さらに『どっこいしょ!』と変化したと言われています。相撲で『どすこい!』と言うのも,この『どこへ』が語源のようです。」
手元の古語辞典を引くと,「どこへ」は,
「何処(どこ)への意から,相手の行動などを遮り,止める意。どっこい。」
とある。「ところがどっこい」というのが,いまも生きている。これだけはっきりしていても,異説はあって,
古来からの山岳信仰で,その信仰として山に登る風習があり,その際「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながらのぼっていた。六根,つまり“目・鼻・耳・舌・身・意”とをいい,これらを清めるために「六根清浄」と唱えたのです。「ろっこんしょうじょう」と唱え,それがが「どっこいしょ」と聞こえた,
というのではないかという説である。
しかし,勝手な億説だが,どうも逆のような気がする。たしかに,
「六根清浄 お山は晴天」
と山を登るときに,教えてもらった記憶があるが,江戸時代に,「どっこいしょ」という掛け声が先にあって,あるいは同時でもいいが,(その言葉が人口に膾炙していて)富士講の人々が,どっこいしょという掛け声に,しゃれで,六根清浄を当てた,のではないか。いまで言えば,「だめよ,だめだめ」の類が,あちこちで転用されるようなものだ。真偽は別に,その方が面白い気がする。
「どっこいしょ」に似た掛け声に,「よいしょ」「こらしょ」というのがある。
「よいしょ」には,
力を込めて重い物を持ち上げたりするときに発するかけ声。よいさ。
ある動作を起こそうとするときに発するかけ声。
俗謡・民謡などの囃子詞(はやしことば)。
の他に,名詞として,
相手の機嫌をとって,おだて上げること
というのがある。どちらが先かはわからないが,どうやら,幇間や寄席から出てきた言葉らしい。扇子を広げて,尻を端折った幇間が,扇子を煽って,よいしょ,と掛け声を出している図が浮かぶ。そうやって,客を「持ち上げる」という洒落なのではないか。掛け声が,これも先なのかもしれない。
掛け声は,ことばのルーツとしては古い,と学んだ記憶が,微かにある。歌のルーツも,そうやって一緒に何かするときの掛け声の延長戦上と,考えてもいいのかもしれない。だから,「よいしょ」が「顧客をよいしょする」にしゃれたのだと思う方が,面白い。
「よいしょ,こらしょ」
と対になっているのも,掛け声の自然発生と考えた方が,無理がない。「やっさ」「ほいさ」や「えっさほい」にちかいところでは,「わっしょい,わっしょい」に代わった,「そいやさ」も,掛け声である。
確かに,仏教由来の言葉は,挨拶,玄関,普請,等々日常語にあるのは,確かだが,動作や労働につながるのは,意外にもっと古いのではないか,という気がする。
今日のアイデア;
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2015年02月05日
機・期・幾
機・期・幾,
前から気になっていたのは,「機」と「期」の違い。それと「幾」が絡むとは知らなかった。そこには,
「幾」:ごくわずか,兆し,機微
「機」:物事の仕組みのツボ・勘所
「期」:約束された時,時が熟し満ちる
「幾と機と期を観る」とは,ごくわずかな変化の兆しを察し,それを動かす勘所に焦点を合わせたら,後は時が熟するのを待つことが大切です。
とあった。それが,物事を成し遂げるために必要なことだ,と。御尤もである。でも,自分流に確かめてみたい。
まず,「幾」。
幺+幺(細い糸,わずか)+戈(ほこ)+人
の会意文字(既成の象形文字または指事文字を組み合わせて作られた漢字)。
人の首にもうわずか戈の刃が届きそうなさま
を意味し,もう少し,わずか,細かい,という意味を含む。もうわずかの幅をともなうことから,はしたの数(いくつ)を意味するようになった,という。そのため「幾」の意味は,
いくつ,いくばく。九以下のはしたの数を示す。(「幾人」「幾何(いくばく)」「幾年(いくとせ)」)
近い(幾百里)
ほとんど,もう少し(幾亡国)
こまかい兆し(「知幾」)
庶幾(こいねがわくば)
になる。「幾」と対比されるのが,「殆」。「殆」は,
あやうい,
という意味だが,
「歹(死ぬ)+台(鋤を用いて働いたり,口でものを言ったりして,人が動作することを示す)」
で,これ以上作為すれば死に至ること,動けば危ないさまをあらわすので,「幾」に近い,ほとんど,という意味があるが,その場合は,
(八,九分,という意味だが)危ない場合に使うようだ。
「幾」に「木」の加わった,「機」は,
「木+幾」で,木製の仕掛けの細かな部品。わずかな接触で噛み合う装置のこと。
という意味になる。だから,意味は,
はたおり機(「機杼」)
部品の組み立てでできた複雑なしかけ(「機械」)
ものごとの細かいしくみ(「機構」「枢機」)
きざし(「機会」「投機」)
人にわからないこまかい事柄(「機密」)
勘の良さや細かな心の動き(「機転」「機知」)
となる。では,「期」はどうか。
「期」の字の,「其」は,四角い箕を描いた象形文字。四角くきちんとした,の意を含む。箕の原字。
で,「期」は,
「月+其」で,月が,上弦→満月→下弦→朔を経て,きちんと戻り,太陽が,春分→夏至→秋分→冬至を経て正しく元の位置に戻ること,
を意味する。したがって,「期」の意味は,
取り決めた日時(「期間」)
予定する,必ずそうなると目当てを付ける(「期待」「期する」)
一定の時と所を約束して会う(「期会」)
一ヵ月,または一年
等々となる。
こう考えると,幾→機→期と,時間間隔が延びる,ということになる。ただ,『易経』に,
子曰く,幾を知るはそれ神か。君子は上交して諂わず,下交して瀆(けが)れず,それ幾を知れるか。幾は動の微かにして,吉のまず見(あら)われるものなり。君主は幾を見て作(た)ち,日を終うるを俟たず。
とある。兆しを見て,直ちに機と判別する,ということか。それは,日々の心構えになっているという意味なのだろう。
機に臨み変に応ずる
というが,「機」に臨む前に,「幾」に,兆しに気づいて即応できる構えができていなければ,対応できない。「危機」も「逸機」も,その意味では,結果であって, 「逸『幾』」の結果,「逸機」と「危機」になる。
「機根」という言葉があるらしいが,「気根」とも当てる。
仏教の教えを聞いて修業しうる素質
気力,根気
といった意味だが,「気」と「機」が交換しうる,というのが面白い。「気」については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/412309183.html
で書いたが,
「万物は五行に還元せられ,五行は陰陽に還元せられ,陰陽は太極に,太極は無極に還元せられる」
という宇宙観の背景にあるのが,「気」となる。「気配」の「気」であり,「幾」にも通じる。その意味で,機と期と幾は,気に通じている,と言えなくもない。
「生とは気の集結であり,死とは気の解散」
とまで広げると,意味がなくなる。すでに
http://ppnetwork.seesaa.net/article/406738733.html
で,触れたことがあるが,
情報とは差異である。
人の気づかぬ差異を,「幾」と言い換えてもいい。それは,問題意識と置き換えてもいいかもしれない。問題意識とは,問題に着眼するのではない,常に,
こうなっているはず(という目指す)状態
を常態と見なしているから,その差異に目ざとい。それは,目標意識というよりは,目的意識の鮮明であるかどうかの差であるのだろう。
参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年02月06日
窮すれば通ず
「窮すれば通ず」は,
行き詰まってどうにもならないところまで来てしまうと,案外活路がひらかれて何とかなるものである,
という意味だとされる。『折たく柴の記』にも,
「窮して通ずとこそ題易にも見え侍れ」
とあるらしい。ここが,日本的な極楽とんぼで,窮したら,ただ窮するに決まっている。ずいぶん昔,棋士の呉清源さんが新聞のインタビューで,「日本では『窮すれば通ず』が諺になっているが,本来は『窮即変,変即通』で『変ず』が抜けている」という指摘をしておられたそうだか,そう言いたくなるのはよくわかる。
原文は,『易経』に,
易窮則変 変則通 通則久
とあるそうだ。つまり,「易は窮すれば則ち変じ,変ずれば則ち通ず,通ずれば則ち久し」であり,ただ,
「変ず」
が抜けているだけではない,「変じ」と「変ずれば」が抜けている。つまり「変ず」がなければ,窮したまま,ということになる。しかも,「易は」の主語があって,「窮すれば通ず」というような「窮したおのれ」の慰めにはならない,ということらしいのだ。
『易経』をさらりと読み飛ばしただけなので,改めて探してみると,
易は窮まれば変じ,変ずれば通じ,通じれば久し。ここをもって天よりこれを祐け,吉にして利ろしからざるなり。
とあり,その前がある。
神農氏没して,黄帝堯瞬氏作(おこ)る。その変を通じ,民をして倦まざらしめ,神にしてこれを化し,民をしてこれを宜しくせしむ。
とある。中国の堯瞬の前の,神農,その前の包犧氏という歴史(神話)を例にしているのである。ただ,(個人が)行き詰まってどうにもならないところまで行けば何とかなる,などという意味でないことだけは確かである。
思うに,「変化」に意味があるのではないか,ただ行き詰まったところで,何かが変ずる,というような僥倖がふりかかるなどということではないはずである。
「易とは天地と準う。故に能く天地の道を弥綸(びりん もれなく包み込む)す。」
「易とは象であり,象とは像すなわち物の姿に像(かたど)るという意味である。また彖(たん 卦辞)とは,その卦(か)の全体の意義を総括する材料という意味であり,それぞれ爻(こう)は天下の万物の動きに効(なら)う(爻=効)変化を示す。だらかこそ卦や爻によって吉凶が生じ,微妙な悔・吝も明らかになるのである。」
とある。そして,
「その中に示された道はしばしば変化し,変動して一箇所に停止することはなく,六虚すなわち卦中の六爻にあまねく流通し,絶えず上り下って常住することなく,陰陽剛柔互いに入れかわって,これを一定不変の法則としてとらまえることは困難であり,ただただ変化流転する動きのままにあるよりほかはない。」
ともある。だからこその,
臨機応変
なのであり,誰もが,その「変ずる」に出会えるわけではないのである。
「天下の賾(錯綜,入り組んで見分けがたい複雑さ)を究め尽くしたものは卦の中に示され,天下の動(変動,変化きわまりない動き)を鼓舞するものは卦爻の辞の中に示され,陰陽の変化に即して適宜これを裁ちきって融通性を発揮させることはいわゆる変の中に示され,これを推し進めてその場その場の具体的な処理を講ずることはいわゆる通の中に示され,神妙の働きを尽くしてその理法を明らかにするのは,それを利用する物の資質如何によるのであり,暗黙の中に益の道を成就し,言わず語らずして誠信の実効をあげ得るのは,その人の徳行如何によるのである。」
と。結局は,
「一陽一陰これを道と謂う。これを継ぐものは善なり。これを成すものは性なり。仁者はこれを見て仁と謂い,知者はこれを見てこれを知と謂い,百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮(すくな)し。」
となる。だれにでも,「変」が生じ,「通じる」という意味ではない。
上面を撫ぜただけで言うのは,おこがましいが,
「変化とは進退の象」
とある。つまり,たとえば,どつぼにはまって,二進も三進もいかなくなったとき,前へ前へと同じことを繰り返すと,それはますます深みにはまるだけである。立ち止まる,ということが,変化を生むことがある。何かに憑かれたような一途な執着が,剥がれ落ちる,それだけで見え方が変わることは起きる。
ソリューション・フォーカスト・アプローチに,
もしうまく行っているなら,変えようとするな
もし一度やってうまく行ったなら,またそれをせよ
もしうまく行っていないのであれば,(なんでもいいから)違うことをせよ,
という3ルールがある。これも同じことだ,変化を起こしたくないなら,そのまま続ければいい。しかし,変えたいなら,何でもいい,いままでとは違うことをせよ,である。
易には直接関係ないが,そこから,類推するのは,発想である。行き詰まって,思いつめた頭を,たとえば,「や~めた」と解き放った瞬間,視界が開けることが,たまにある。
よくひらめきの三上(馬上,厠上,枕上)と言うが,何もなくて,ただ寝ていたら,いいアイデアが浮かぶなどということは,三年寝太郎ではあるまいし,ありえないのである。数学者の岡潔氏が,
縦横斜め十文字,考えて考えて考えた末に,それでもだめなら寝てしまえ,
といった趣旨のことを言っておられた由だが,「寝てしまえ」だけとっても,ひらめきの条件にはならない。似たことは,よくアイデアとか創造性が,
既存の要素の組み合わせ
というが,では組み合わせたら,何かいいアイデアが生まれるのか,というとそんなことはない。その辺りは,さすが(NM法の)中山正和氏で,
情報を集めて,加工して,孵化して,
といわれる流れを,
①方向づけする(問題意識の言語化)
②情報を集める
③情報の切断
④組み合わせ
と分解した。まず大事なのは,問題意識とされる。問題意識とは,
第一信号系の条件反射である
から,それを第二信号系の言語によって「意志的に『方向づける』」と言っている。実は,多く忘れられているが,自分の関心につながらないところではアンテナ感度は鈍る。鈍った感度で情報が集まるわけはない。問題意識の言語化は,
アンテナの指向性
を高める操作なのである。これなしの,ステップは,本気でアイデアを考えたことのない人の説だろう。
もう一つ重要なのは,「情報の切断」である。情報は,基本的に自己完結している。情報については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/406738733.html
で触れた。自己完結しているというのは,論旨,意味づけられている,ということである。だから,論旨,というか因果関係といってもいいが,それを切断する。
われわれがひらめいたとき,
脳の広範囲が活性化する,
と言われている。発想は,ただの情報の組み合わせではない。自分の中にあるリソース,
意味記憶,
エピソード記憶,
手続き記憶,
とリンクすることで,情報がリンクしあい,今まで見えなかった意味が,パースペクティブが開く。忘れられているが,発想はそもそも主体的な作業ということである。そのためには,「切断」がなければ,デジャヴな発想に留まる。その意味で,最初の問題意識の言語化が,ここと関わる。発想は,その広げた風呂敷以上にはいかないのである。
ま,というように,「変化」が生まれるには,ただ窮したり,ただ寝ていても,「産むが安し」とはいかない。ブラックボックスの部分を見ないで,慰めにするのは,自堕落の始まりである。
参考文献;
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)
中山正和『発想の論理』(中公新書)
今日のアイデア;
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2015年02月15日
お世辞
どうも,お世辞というのが苦手である。誉めるのも,苦手だが,まだ事実なら,承認のしようはある。しかし,まったくの絵空事へのお世辞は,追従に似ていて,潔しとしない。かつては,多分数えるほどしかなかったはずである。いいことかわるいことか,いまは,平気で言っているかもしれない。しかし,言いながら,照れる。そういうことを言う自分に照れている。
お世辞の「世辞」は,語源を調べると,
「世(世事をうまくおこなうための)+辞(言葉)」
で,「あいそのよいことば」とある。どうも僕のイメージとは異なる。で,意味を調べると,
他人に対して愛想のいい言葉,
人の気をそらさないうまい口ぶり,
相手を喜ばせようとして,実際以上にほめる言葉,
追従口,
とあり,大概,
見えすいた
という形容がつき,
お世辞抜きで上手い
とか
上手いとはお世辞にも言えない
という言い回しがあり,ただの愛想のいい,とは微妙に違う。因みに,「愛想」は,
人に与える好感,好意,
とあって,その他に,
好意のあらわれとしての茶菓などのもてなし
飲食店の勘定(書)
とある。語源は,
「愛(愛らしい)+相(様子)」
とある。そうか,「愛想笑い」とは,相手への好意を示しているのか。たとえば,好意の互恵性というのがあって,
「他者から好かれると,その人を好きにならずにはいられない」
という説がある。これは,前にも書いた気がするが,
第一には,好意的な自己概念を求める欲求がある,
第二には,自己評価と類似した意見の他者を好む傾向がある,
という仮説がふたつあることによるらしいが,僕が社会心理学を,いささか信用できないのは,ストーカーを考えたら,この説は崩壊するからである。
お愛想,という言い方をすると,ここにもやはり,世辞に似たニュアンスがある。
「何のお愛想もできませんで,失礼しました」
とか
「どうも愛想なしで」
という言い方をする。「御愛想尽かし」の意味の勘定をしてくれ,から,「おあいそ」となったという説もある。
異説では,お店側が,「御愛想がなくて申し訳ありません」「愛想づかしなことではありますが」と断りながら,勘定書を示したというのもあるが,それがだんだん短くつまって「あいそ」,ちょっと丁寧に「おあいそ」となり,いつしか「おあいそ」だけで勘定の意味を持つようになり,客のほうも、自分からその言葉を使うようになった,という。
まあ,支払いを画期に,両者のもてなし,もてなされ関係が,一旦(双方で)「愛想」を切る,でもあるし,「愛想」=もてなしを切る,という意味にもなるのだろう。
それにしても,
お愛想,
と
お世辞,
とでは,どっが追従度が高いのだろうか。類語を見ると,
外交辞令
おべっか
おべんちゃら
お上手
巧言
甘言
はむき
等々とある。から世辞という言葉があるくらいだから,世辞より見えすいているのが,から世辞ということになるのか。これと,
外交辞令
は,まあ,いわゆるリップサービスだが,リップサービスは,
口先だけの好意
お世辞
とあり,外交辞令は,
相手に好感を持たせる
外交上,社交上の応接,
から転じて,口先だけのお世辞,
とあるから,基本は,お世辞と同格ということになる。この場合,相手を,
ワンアップ
している感じになる。お上手も,お世辞に似ている。一方,おべっかは,
へつらうこと,
だし,同じく,へつらうは,
気にいるようにふるまう
媚びる,
おもねる,
追従,
となる。追従は,
人の後につき従う,が転じて,こびへつらう,
となる。だから,いずれも,自分を
ワンダウン
して,相手を持ち上げている。相手を実像以上に大きいということで,相手をうれしがらせている。はむきも,おべっかに似ている。
その意味では,から世辞があり,愛想があり,世辞がある,という感じなのだろうか。この場合,自分を下げないまま,口先だけで,相手を持ち上げているのが,巧言と甘言ということになる。その意味で,これは,前捌きで,テクニックで,おのれは脇において,相手だけを持ち上げている。まあ,自分はニュートラルにおいているということになる。
お世辞も,お愛想も,もし,巧言,甘言のように,本当に口先だけではなく,おのれをワンダウンして,言っているとすれば,その瞬間に,ただの追従に化している可能性がある。もしそれに無意識なら,ちょっと始末が悪い。
たぶん,自分を持しつつ,口先だけで,相手を持ち上げる,というわけには,なかなかいかない。だからこそ,苦労するのかもしれない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
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