2015年02月20日

作家


僕は,自分の中では,作家というのは,

小説家,

だと思っていて,文学者というと,純文学系,日本文学全集に名を残す作家のことと,思い込んでいた。

作家というのは,辞書では,

詩歌,小説,絵画など,芸術品の制作者,特に小説家。

ウィキペディアには,

「作家とは、芸術や趣味の分野で作品を創作する者のうち作品創作を職業とする者または職業としていない者でも専門家として認められた者をいう。
芸術家に含まれる者の多くはこの意味での作家であるが、職種・肩書きとして、○○作家と呼ぶかどうかは、すでに固有の職業名称が確立しているか否かによる。すなわち伝統的芸術分野では詩人・画家・作曲家・監督などの呼称が確立しているため○○作家とは呼ばないが、新しい芸術分野や趣味の分野では、○○作家、○○創作家、○○クリエイターという用い方がされる。ただし伝統的芸術分野においても、○○作家という語を用いる場合がある。
ただ単に『作家』と言った場合、著作家、とくに小説家を指す場合が多い。だが、『作家』という職業は様々に枠が広いため、そう呼称されるのを嫌うものもいる。逆に、小説は書いていないが単に作家と称するケースも存在する。」

とあり,作家=小説家というのは,あるいは,先入観なのかもしれない。

「作家」は,

「作(つくる)+家」

で,家をおさめる意,のようだ。しかし,どうして,それが小説家や制作者を指すようになったのだろう。その語源がわからない。

「作」の字は,

「乍」は,

刀で素材に切れ目をいれるさま

を描いた象形文字。急激な動作であることから,「たちまちに」の意の副詞に専用に使われるようになったため,

「人+乍」の「作」

の字で,人為を加える,動作をする,の意を表すようになった,とされている。それで思い出したが,「創造」の「創」の字の,「刂」は,



を意味し,刃物で,素材に切れ目を入れること。素材に切れ目を入れるのは,工作の最初の段階でもあることから,はじめる,の意にも転じた,という。

記憶で書くので,間違っているかもしれないが,確か,鋳造するとき,砂で型をとるが,冷めたとき,刀で傷をつけた,という言われを,どこかで聞いたことがある。もっとも,もっともらしい説には,眉に唾をつけた方がいいかもしれない。

「家」は,

「宀(やね)+豕(ぶた)」

で,たいせつな家畜に屋根をかぶせたさま,である。イエといういみのほかに,専門の学問技術の流派またはそれに属する者という意味がある。

作家を,イエをつくる,というから意味が分からないか,例えば,一家を成すという言葉がある。だから,

イエをナス,
あるいは,
イエをオコス,

と呼ぶと,何となく意味が見えてくる気がする。たしか,かつて中上健次が,文学者のことを,

作家としての店を張る

という言い方をしている。文筆というもので,店を張っている,悪い言い方をすると,

売文

ということになる。おのれの筆先ひとつで,文章で,店を張っている,ということになろうか。その意味では,小説家も,劇作家も,脚本家も,エッセイストも,すべてライターは,作家ということになる。

文筆家

という概念が,ひとくくりするには,妥当な言い方なのかもしれない。

ベイトソンが,

情報とは差異である,

と言っていた。そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389809186.html

触れたが,作家は,筆先で,世界を見せるのだと思う。新たなパースペクティブと言い換えてもいい。それが,小説家や脚本家のように,フィクションの場合もあろうが,エッセイストやノンフィクションライターなら,この世界の,別の見え方を示すことで,新たな視界を開いて見せるのだろう。

その違いは,わずかなのだと思う。わずかな切れ目,差異に目を止め,そこをクローズアップして見せる見せ方,写真家が,同じ世界に異世界を見せるのと同じように,視角と視点で炙り出す,その手際が,腕なのだろう。その意味では,画家を含めた,その他の芸術家にも,同じことが言えるのだろう。

そのことから,得られるのは,

新しいパースペクティブなのか,
新しい(こころの)風景なのか,
異なる視点なのか,
いままでとは違うものの見方なのか,
新しい価値の世界なのか,

いずれにしろ。そのことで,自分の実人生の体験では得られない体験をすることになる。でなければ,その店で買いたいとは思わないだろう。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




今日のアイデア;
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2015年02月21日

感謝


感謝というのは,

有り難く感じて,謝意を評すること

という意味である。

ありがとう,

と言う。この「ありがとう」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163565.html

で書いた。別に,「お陰様」という言い方もする。これについても,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163470.html

に書いた。「お陰様」と「ありがとう」は,微妙な差がある。あるが,相手への感謝にかわりはない。

感謝は,

「感(感じる)+謝(礼をいう)」

だが,「感」は,

「心+咸」

「咸」は,戈で,ショックを与えて口を閉じさせること,

で,「緘(とじる)」の原字。で,「感」は,

心を強く動かすこと,

で,

強い打撃や刺激を与える,

という意を含んでいるようだ。だから,

強く心にこたえる(「感銘」)
強く相手の心を打つ
強く心にこたえるもの
神経の刺激によって得るもの,感じ,感覚
寒暑や環境のショックを受けること

といった意味になる。一方,「謝」は,

「射」が,はりつめた矢を手から離しているさま,
弓の緊張が解けてゆるむ

という意味で,「言」をつけることで,「謝」は,

言葉に表すことによって,負担や緊張をといて,気楽になること,

という意味になる。で,

あやまる,心の負担をおろしてせいせいできるように,礼,お詫びの意を表す(「謝謝」「謝礼」)
断る,言い訳をしてことわって心の負担をおろす(「謝絶」)
御礼,またはお詫びの気持ち,またはそれをあらわす金品(「薄謝」)
つげる,言葉を飾っていう
勢いが抜けてさる(「代謝」)
張りつめて開いた花や葉が,緊張を解いてぐったりする(「凋謝))
多謝,謝謝

という意味になる。

こう見ると,

ありがとうございます,
とか
お蔭様で

と言いつつ,実は,感謝と言うのは,する側の,心理的負担というか,心理的負い目というか,その借りを返すという心理がなくもないことを,鋭く,「謝」の字自体が示しているようである。

だから,確かに,感謝と言うのは大事だし,お蔭様でという気持ちも重要だが,そこに,当てにしているものがあるとすると,そこには下心があることになる。

ではなく,本心から,

ありがとう
あるいは,
お蔭様で,

と言える心性というのは,どういうものなのだろう。

たとえば,その関係そのものの中にいるのではなく,それを俯瞰する位置に自分を上げたとき,そこから見ると,感謝の意味が変わるのではないか。

誰かに,
とか,
何について,
とか,

ではなく,感謝自体の意味が見えてくる。そのとき,実は,

心の負担があるから,感謝するのではない,

逆に,

感謝すると,心に負担があったかのように感じる,

ということなのではないか。

心に負担はないが,

感謝した瞬間,

まるで心の負担が軽くなったような気持ちになる,と言うところが見えてくるような気がする。

つまり,感謝は,誰かのために,あるいは,何かのために,するのではなく,

感謝自体のために感謝する,

まるで心に何か負担があったかのように,その瞬間心が軽くなる。たとえば,

ありがとう,
あるいは,
お蔭様で,

と言うことで,あたかも,何かひとつ心の重荷が取れて,軽くなったような気になる。そういう効果が,あるということなのではないか。ということは,そう口に出せば出すほど,なにやら,

心が軽くなっていく,

そんな心地なのではあるまいか。







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2015年02月22日

野次


過日,国のトップが,国会の委員会で,野党の質問者に,関係のない「野次」をとばして話題になった。

一説によると,ネトウヨにとって,左翼,とか反日というのと同義で,「日教組」という罵りや揶揄が使われるそうだから,トップの心性が,ネトウヨとまったく地続きだということが,はしなくも露呈した,ということでもあるらしい。

ま,そんなことはどうでもよく,本題は,野次って何,ということ。

「野次」は,「弥次」とも当てる。「やじる」

やじること。また、その言葉。「やじを飛ばす」とか「やじの応酬」という使われ方をする。

という意味だが,「野次馬」の略,という意味もある。これは後回しにするとして,「やじる」を調べると,

(「やじ」を活用させた語)第三者が当事者の言動を,大勢に聞こえるように大声で非難し,からかう。また一方を応援するのに,他方の言動を嘲笑し,妨害する

とある。芝居の野次でも,国会での野次でも,外野が言う。直接言えないし言える立場にもないから,外野から揶揄する,悪態をつく。それを,第三者ではない当事者が,幾らでも直接言えるし,言う機会も場も与えられている当事者が,他方の相手に対し,当人が質問をしている最中に,話している相手とはまったく関係のない嘲笑や悪態をついたとしたら,それは,もう野次ではなく,本人への罵倒か悪口である。それは喧嘩を売っている,と社会通念上はみなすのではないか。

「野次」では,語源がみあたらないので,「やじる」を調べると,

「ヤジウマのヤジ+る」

で,騒ぎ立てる,からかいや非難の声をかける,という。では,ヤジウマの語源は,というと,

オヤジ馬からオが脱落したもの

という。

老いた馬が,若い馬の後にくっついてばかり,

の意とある。。転じて,

ただ騒ぐだけの人

となり,現代では,

物見高く見物していて騒ぎ立てる人々,

という意味になる。別説に,「ヤンチャ+馬」の変化したものというの語源説があるらしいが,それならば,仮名遣いが,ヤヂウマとなるはずであし,くっついて歩くだけという意も,「ヤンチャ」にはないので,「?」としている。

『大言海』では,「老牡馬」の「老」が落ちたものとある。

老馬は,役に立たないものにて,常に若き馬の尻につきて歩くより,「尻馬」とも呼ばれ,その尻馬から,雷同の意に転じた,

とある。『古語辞典』の「やぢうま」の項では,

「彌次馬」とも書くが,

近世,宿駅用意して,官用に供した馬,

とある。本来は,これだったのかもしれない。

で,「野次馬」を,辞書で調べると,

「馴らしにくい馬,悍馬」という意とともに,「老馬」として,「おやじうま」の略とも。

もうひとつ,

自分に関係ないことを人の後についてわけもなく騒ぎまわること,またそういうひと,

とある。

やはり,当事者が騒ぎ立てることは,野次とも野次馬とも関係ない暴言で,喧嘩を売っているに等しい。しかし相手がそれをたしなめた場合,普通,立場がなくなるはずである。それを,しれっと,さらに繰り返し,翌日も開き直るどころか,あさっての返答をして平然としている。こういうのを,ふつうは,頭がおかしい,とみなす。残念ながら,それがわが国のトップであり,日本という船の船長なのである。

野次の類語は,

半畳をいれる,

が最も近いが,これは,「半畳ヲ入レル」が語源。「半畳」は,昔の芝居小屋の敷物で,

芝居役者の演技に不満があるとき,見物人が半畳を投げ入れた,

ところから来ている。相撲で,横綱が負けると,座布団が飛ぶが,それがこの雰囲気に似ている。いまは,

非難の声を出す,

という意で使われる。この類語は,

からかう,
茶化す
冷やかす
揶揄
囃す
嘲る
玩ぶ
愚弄

という,相手にとって嬉しくない意味が含まれている。更に関連語を拾うと,

妄言
憎まれ口
悪口
悪態
妄言
雑言

というのが続く。

この雰囲気が腑に落ちない向きは,ためしに,友人にか,家族にか,相手と話している最中に,話と無関係な悪態で,茶々をいれてみるといい。別に「日教組」である必要はない,「パン」でも「小豆」でも「美人」でもいい,入れたときの相手の表情に,すべてが現れている。

コミュニケーションは,相手がどう返すかで,自分の言ったことの意味が決まる,

のである。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)







今日のアイデア;
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2015年02月25日

いなせ


「いなせ」は,

鯔背

と書くらしい。語源は,江戸日本橋の魚市場の若者が,

鯔(イナ ボラの幼魚)の背のような髷を結ったから,

という。威勢のいいこと,粋で,勇み肌なこと,またそういう気風を指す。その髷を,

鯔背銀杏,

というらしい。因みに,「粋(粹)」は,

心意気の略

である。その意味は,

気持ちや身なりのさっぱりして垢抜けしていて,しかも色気をもっていること,
あるいは,
人情の機微に通じ,特に遊里や遊興に精通していること,

ということらしい。しかし,漢字の,「粋」の字は,

小粒できれいにそろったさま,

の意で,

「米+卒(卆)」の「卒」は,

「衣+十」で,ぱっぴのような上着を着た十人ごと一隊になって引率される雑兵や小者を表す。小さい者が揃いの姿をしたの意らしいから,小さい者という意。で,「米+卒」で,

小さいコメがそろっていて混じりけのないこと,

ということになる。類語に「伊達」というのがある。語源は,

ひとつは,「取り立てる」の「タテ」で,目立つという意味。実際以上に誇示する。

いまひとつは,「タテダテシイ」の「ダテ」で,意地っ張りという意味だ。伊達の薄着,というように,言ってみると依怙地を張っている,というニュアンスである。だから,

ことさら侠気を示そうとすること,
とか
派手にふるまうこと,
とか
人目につくこと,

とあって,そこから,

あか抜けていきであること
とか
さばけていること

となっていく。しかし,どこかに,「見栄をはる」とか「外見を飾る」というニュアンスが抜けない。

似たものに,「伝法」というのもある。「伝法な」は,

浅草伝法院の下男が,寺の威光を借りて,悪ずれした荒っぽい男であったのが,「デンポウ」な,の由来,

とされる。転じて,無法な人,勇み肌という意になっていく。「鉄火肌」というのもその流れだろう。「鉄火」というのは,鉄火場,つまり博奕場である。しかし,「鉄火肌」の「鉄火」は,

鉄火(鉄が焼かれて火のようになったもの)

という意味から来ているので,気性の激しさを言っている。

どうも,いきがっている本人ほど,周囲は,認めていず,だからいっそう伊達風を張る。その辺りの瘦せ我慢というか,依怙地さは,嫌いではないが,所詮,

堅気ではない,

のである。まっとうな,素人ではなく,その筋の,玄人なのである。それは,額に汗して働く人の上前を撥ねる連中である。だから,

いき
とか
いなせ

を気取る人間が嫌いである。どうやら,そういう男伊達というか侠気というのは,

戦国武将の気風の成れの果て,

らしく,そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163232.html

で,「サムライ」と「ヤクザ」について触れた。いずれも,

無職渡世,

と相場は決まっている。つまりは,寄生虫である。いくら粋がっても,嫌われ者なのである。だから,余計に粋がる。

いなせやいきは,気骨とは違う。気骨については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/404572114.html

で書いた。粋がるのではなく,気骨,

「気(気概ある)+骨(人柄)」

こそが,サムライである。

容易に人に従わない意気,自負,

こそが,粋である。それは,心映えだから,見栄を張って,外に着飾るものでも,言い募るものでもないのである。心映えについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html

で書いた。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)






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2015年02月27日

楽天


天を楽しみて命を知る。故に憂えず

とは,『易経』繋辞上伝にある。いわゆる楽天の出典らしい。

何度も書いたが,

死生命有り
富貴天に在り(『論語』)

である。ここでいう,天には,「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つがある。

そう,天命が定められているなら,齷齪あがく必要はない,内に聞こえる天の声を承けて,

おのれのなすべきこと

を果たせばよい。

これも,前に書いたが,天命には,三つの意味があり,一つは,天の与えた使命,

五十にして天命を知る

である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,「死生命有」の寿命である。

そして,いまひとつ,

彼を是とし又此れを非とすれば,是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る(横井小楠)

で言う天は,「天理」のことだ。だから,神田橋條治氏流に言うと,

天命を信じて人事を尽くす

となる。

迷った時,何を聞くか,心の声であり,天の声だ。天の声は,天理に通じ,天命に従う。

心虚なれば即ち天を見る

とは,「虚心見理」である。

このとき,自分を離れ,虚心に,天に耳を傾ける。

これを天に照らす

ともいう。ここには,天理にかなうはずという,自らへの確信である。

虚心とは,

心に何のわだかまりもないこと

という。たぶん,虚心に内なる声を聴くとき,

坦懐,

つまり,心たいらか,胸にわだかまりない状態でなくてはならない。そういう意味では,心の鬱屈が解き放たれてのびやかになった状態を表すと言っていい。

おそらく,それを待つのではない。心に鬱屈のない日などは数えるほどしかない。そうではなく,

ただ,天地に連なって立つ(在る)

状態になることで,あるいは,そういう状態をつくることで,心が,開かれる。それが,

確信

である。だから,主体的なのである。そこに,天と心をつなぐ回路が通じる。その意味で,

天命を信じて人事を尽くす,

か,あるいは,清澤満之は,それを,

天命を安んじて人事尽くす,

としたが, もちろん,生きるのも為すのも自分である。他力に頼ったところで,それにすがってやったのでは,自責ではない。他力本願とは,ある意味,すがることの放棄である。

はからい

を捨てることである。それは,逆に言うと,何かをしたからとか,しなかったから,というおのれの思い入れや希望や仮託を捨てることである。それは,自分の責任で生きる,ということに他ならない。

天命

は,ただ,それを自覚しなければ,耳にも心にも聞こえない。主体的なかかわりの中で,自分の責任で生きる。その結果を忖度しない。

他力には義なきを義とす

とは,

「『義』とは,自力のはからいをさしているから,人間の思慮や作為を否定するのが他力である」

意味である。

天を楽しみて命を知る。故に憂えず

とは,天の理法を楽しみ,自分の運命を生きる喜びを知るならば,人に憂いはない,という意味である。その意味で,

「楽天」と「知命」

はセットである。だから,それを受け入れて,楽しめるのである。





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2015年03月01日

かたじけない


謝ることについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409986995.html

で触れたし,感謝については,「ありがとう」について,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163565.html

で触れた。改めて,違う角度で考えようとしたとき,「かたじけない」という言葉が気になった。

かたじけない,

は,

忝い
とも
辱い

とも当てる。いささか古い言い回しで,昨今こんな大時代な言い方をする人はいないだろう。語源は,

「カタジケ(緊張・おそれ)+なし(甚だし)」

で,ありがたい,おそれおおい,という意味になる。

漢字の語源では,

「辱」は,

「辰(やわらかい貝の肉)+寸(手)」

で,「辰」は,

二枚貝が開いて,ぴらぴらと弾力性のある肉がのぞいたさま,を意味する。

「寸」は,「手のかたち+一」で,手の指の一本の幅のこと。因みに,尺は,手尺の一幅で,指十本の幅。

で,「辱」は,強さをくじいて,ぐったりと柔らかくさせること,らしい。そこから,人の心を砕く,となる。

「忝」は,

「心+音符 天」

で,「天」は,大の字にたった人間の頭の上部の高く平らかな部分を一印で示したもの。もと,巓(てん・いただき)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らかに広がる意。「心」は,心臓を描いた象形文字。血液を細い血管すみずみまでいきわたらせる心臓の働きに着目したもの。この場合,「天」の字にはあまり意味がないらしい。で,「忝」は,

心にべたついてきになること,

という意味になる。まあ,心に引っかかる,という意味なのだろうか。

同じ,「かたじけない」に当てても,「辱」と「忝」では意味が少し変わる気がする。「辱」は,

はじる
はずかしめる

という意味があり,「自信や体面をくじく」「挫けた気持ち」「だいなしにされた気持ち」という意味がある(「恥辱」)。で,そのニュアンスで,「かたじけない」には,

相手が体面をけがしてまで,おやりくださったという意味を込めた,ありがたい,

という意味になる(「辱知」「辱交」)。他方,「忝」は,

かたじけなくする
かたじけない

の意味があり,「分に過ぎて気が引ける」という意味になる。このほかに,

はずかしめる

の意もあるが,「余計なレッテルを張る」「表面を汚す」という意味で,どちらかというと,相手がどうのこうのというより,こちらが,身を縮めている,というニュアンスである。

だから,かしこまる意味では,

辱い

でいいが,恐縮するという意味では,

忝い

でなくてはならない。類語で言うと,

お恥ずかしい,
ありがとう,
もったいない,
畏れ多い
もったいない,
お恥ずかしい,
申し訳ない,
めっそうもない,

というところだ。「もったいない」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/412531070.html

で触れたが,こう見ると,やはり,

自分を卑下するか,
相手を持ち上げるか,

の二つのタイプになる。しかし,自分を下げることは,相対的に相手を持ち上げることだから,いずれにしても,相手を持ち上げることになる。もともと「有り難い」ということ自体,あり得ない(好意,厚意)と言っているのだから,感謝にニュートラルはないのかもしれない。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/414403975.html

で触れたように,感謝自体が,元来,心の負荷を返すことなのだから。






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2015年03月04日

場打て


場打て,

という言葉が,岡本綺堂の小説を読んでいたら出てきた。昨今はあまり耳慣れないが,

その場の空気や様子に圧倒されて気後れのすること。

という意味らしく,

「少しも場打てのした容子もなく、すらりと立って」(里見弴『多情仏心』)
「こんな古風な爺さんとは殆んど出会つた事がないのだから,最初から多少場打ての気味で辟易して居た所へ」(夏目漱石『吾輩は猫である』)
「弁舌さわやか場打てせず」

といった用例が出ている。ただし,用例は,明治,大正期の作家までのようだ。ニュアンスとして,「あがる」の意味より少し強い感じがある。

(人前で)その場の晴れがましい雰囲気に気おくれがすること。

という説明もあるところから見ると,どうやら,その場が,

特別の場

であるらしい。綺堂の小説では,司法試験の試験会場であった。しかし,その語源が,調べた限りではわからない。古語辞典では,

その場のありさまに心打たれておじけるること
場おじ
気後れすること

とあり,「大いに心を苦しめ場打てして思ひけるは」という用例が出ている。現代の辞典では,手元の『広辞苑』には出ているが,他の辞典には出ていないのもある。

「場おじ」

という言いようなら,その場に,その雰囲気に,怖気づいたという意味では,よく分かる。「場打て」の,「打て」が鍵かも知れない。で,「打」は,と調べると,

「丁」は,もと釘の頭を示す,□印であった。直角にうちつける意を含む。

「手+丁」

で,とんとんうつ動作を表す。そこから,

うつ。直角にうち当てるまともにたたく
自分の所有とする
動詞のうえについて,~する意。「打掃」「打畳」
~から
ダース

という意味で,関係ないかもしれないが,「打掃」「打畳」の使い方が,

打ち払う,
打ちのめす
打ち続く

と動作を強める使い方の「打ち」につながっているのではないか,と勝手に想像した。その意味の,「打ち」は,

その意を強める,

のほかに,

瞬間的な動作であることを示す,

として,「打ち見る」のような用例があった。

閑話休題。

漢字の「打つ」ではなく,日本語の「うつ」の語源を調べると,

「手の力で強く打撃する」

からきているらしい。ウツは,アツ,ブツ,などのウ,アの語幹と関連し,

畠を打つ,太鼓を打つ,刃物を打つ,振り仮名を打つ,首を打つ,心を打つ,水を打つ,碁を打つ,舌鼓を打つ,蕎麦を打つ,非の打ちどころがない,網を打つ,芝居を打つ,手を打つ,布を打つ,博奕を打つ,

等々とものすごく幅広い使われ方がある。ためしに辞書で「打つ」を引くと,用例の多さに圧倒される。「手を使う」ものがほとんど入っているという感じである。これは,「打」を当ててはいるが,漢字の「打」の意味を超えている気がする。むしろ,喩え的に,幅広く応用した感じである(広く「あることを行う」にまで転じている)。蛇足ながら,「水を撒く」よりは,「水を打つ」の言葉のもつニュアンスを大事にした気がしてならない。そういう意味で用例が広がったのではないか。

ただ「打つ」に,

強い感動を与える

という意味で,「胸を打つ」「心を打つ」という使い方があり,この場合「打たれる」(「討」「撃」「射」は当てない)という受身の言い方で,

打撃を受ける,
押しつぶされる,
負ける
誓約を破って罰を受ける
気を呑まれる
気圧される,

等々の意味があり,「場打て」の意味としては,

場に気おされて,おじける,押し潰される,

ということにつながってくる。その意味では,類語として,

力む,強がる,気合い負け,気が引ける,気圧される,ステージ・フライト,場臆れする,上がる,

等々とあるが,

場臆れする
ステージフライト
舞台負け

というか,

その場に呑まれる,

と言うのが一番ぴたりとくる感じである。





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2015年03月08日

うつつ


「うつつ」は,



と当てる。意味は,

(死んだ状態に対して)現実に生きている状態。現存。
(夢や虚構に対して)目覚めている状態,この世に現に存在しているもの。現実。
気が確かな状態。意識の正常な状態。正気。「―に返る」
(「夢うつつ」「夢かうつつか」と言うところから誤って)夢とも現実ともはっきりしない状態。夢見心地。夢心地。

といった意味になる。「うつつ」の語源は,諸説あるらしいが,手元の辞書には,

ウツシ(顕)の語幹のウツを重ねた

「ウツ(現実)+ウツ(現実)」

の約で,目覚める意,とある。しかし,「うつうつ」を辞書(『広辞苑』)で引くと,

半ば覚め,半ば眠っているさま,うとうと,うつらうつら,

とある。どうも,

夢うつつ,

が,本来,

夢と現実,

の意味なのに,

夢か現実か区別しがたいこと,

と誤用(?)とされているのは,『古今集』に「夢かうつつか」「うつつとも夢とも」等々と使われるうちに,夢と現の区別のつかない状態,

夢見心地

を指すようになった,とされる。ただ,ある辞書(『日本語 語感の辞典』)には,

「夢心地」や「夢見心地」が夢のような現実の意識を指すのに対して,この語は,実際に夢である可能性を否定しない,

とある。まあ,夢と現の曖昧な状態,という意味では,

うつつを抜かす,

の,「夢中になる」「心を奪われる」という意味で使われているのにつながるのかもしれない。「現」という意味の「うつつ」なら,現実にいる,という意味になるはずなのに,

夢うつつをぬかす,

の「夢」が抜けた状態で使われている。

ところで,「うつつ」には,「うつつ」の「うつ」が,

移る,

と同根,とする説があって,「現実感覚の移る」を「写る」「映る」と絡める説まである。間接的な情報なので,ここからは,妄説の類になるが,「移」は,

「禾(いね)+多」

で,もともと,稲の穂が風に吹かれて横へ横へなびくこと,横へずれる,という意をもつらしい。まあ,考えれば,現実は,流れる川に喩えられる。

うつせみ,

の「うつ」でもある。本来,

現身(うつしみ)

とする説もある。この世に生きている人間,の意味である。それが,音韻変化したこともあるが,元来生きている人,この世,という意味しか持っていなかったものが,平安時代以降(『万葉集』の「うつせみ」を「空蝉」つまり),

蝉の抜け殻

の意味と解するようになったので,はかなさ,無上のニュアンスをもつようになった,とされる。というよりは,この時代の終末思想,末世思想が,「うつせみ」に「空蝉」とあてさせたのだろう。その辺りが,「夢うつつ」を,夢見心地に変じさせた時代背景に見える。

なんとなく,うつつが夢とセットに浮かび,「うつつ」そのものが不確かで,移り行くものにみえている時代を映している。いま,では,現は,確かなのか。

「放射能と共に生きる」

「(放射能に汚染されていても)食べて応援」

「(何でもかんでも,デモも政権批判も,人質救出失敗の検証することも)テロ」

等々とテレビでいい,新聞で喧伝する,そのリアリティさのなさはどうか。一体どちらが,夢うつつなのか,と言いたくなる。日本社会は,いつまで,花見を続けているつもりなのか。足元の危機に迂闊すぎる。

「ありてなければ」

という言葉がある。

あるものはかならずなくなる,
いまあるものはほんとうにあるのか,ゆめかまぼろしか,

という意味だが,その状態に,いまわれわれはいるのか。その自己完結した世界観は,現代の,「うつつ」の中では,存在し得ない。にもかかわらず,夢うつつでいるのは,愚か,でしかない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)







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2015年03月13日

よし


よしなしごと,

の「よし」である。「よしなし(由無し)」は,

手掛かりがない
関係がない
根拠が薄い
くだらない
つまらない

といった意味であるが,「~という由で」「~された由で」という言い方をする,「由」は,古語辞典では,

「『寄(よし)』と同根。物の本質や根本に近寄せ,関係づけるものの意。つまり,口実,かこつけ,てがかり,伝聞した事情・体裁などの意。類語『故(ゆゑ』は,ものごとの本質的・根本的な深い原因・理由・事情・由来の意。」

と,ことわりがある。どうも,「由」と「故」の違いが判らない。それは,後で確かめるとして,まず,「由(よし)」は,

口実・かこつけ
わけ・理由
てがかり
伝えられた事情
趣旨
(平安女流文学で,「ゆゑ」と区別して)二流以下の血統,またその人の風情・趣向・教養・人品
体裁。格好

といった意味になる。語源的にも,

「寄す」の名詞形

とされ,ものごとの拠り所とされる事柄,由緒の意とされる。ついでに,「寄し」はというと,

「由と同根」

とあって,

統治者としてゆだねる,まかす,
近寄らせる,
関係があると(世間で)噂する

とある。そういえば,「何々の由」というとき,少しく,風聞のニュアンスを含めている。明確であれば,「何々の故」という言い方をしそうだ。では,「ゆゑ」は,というと,

「本質的・根本的な深い理由・原因・由来の意。平安女流文学では,由緒正しいこと,一流の血統であること,またその人に見られる一流の風情・趣味・教養などをいい,二流のものはよし(由・縁)といって区別した」

ということわりがあり,

重大な深い理由,確かな原因
正しい由緒
一流の血筋
一流の趣味・嗜好
一流の風情・雅趣

と意味が並ぶ。話は違うが,今日の意味での血筋とは違う。血筋たるべく,血の滲むような教養と修業を積む。

豊臣秀頼は,その血筋たるべく努力を重ね。今日残る墨跡に,その「ゆゑ」が明白に残る。ここで言う,一流とは,ただの血筋ではない。血筋だけを誇る手合いの体たらくは,今日日々目撃させられ,世界の笑いものになっている。ここで血統とは,その血統であれば,それなりの教養と修業を積む機会が与えられたであろう,という前提である。それが身分社会というものらしい。ちょっと話は違うが,八丁堀同心というと,『必殺仕事人』の中村主水を思い浮かべるが,八丁堀組屋敷内に道場があったぐらい,日々必要な鍛錬を怠らない。怠れば,その役にふさわしくない,と見なされる。それは致仕せざるを得ないことを意味する。身分社会とは,その身分に安住し,のほほんとしていることではない。ピンからキリまで,その役目にある限り,果たさねばならない責務がある。それを果たすべく,努力を怠らない。だから,江戸時代,主君が主君の任を果たさなければ,家臣が押し込め(「主君押込」),無理やり隠居させた例すらある。

ここで「ゆゑ」というのは,そういう重みがある。ゆゑを「一流」とするにはそれなりの所以があるのである。因みに,「ゆえん」とは,

故ニナリがつまって,ユエンナリとして使われ,ついでユエンだけが独立して使われるようになった,

とある。そうすると,所以もまた,確たる例証,根拠なく,使うと,語の定義からすると,誤用になるのかもしれない。

ついでに,「縁」を調べると,

因果の法則の直接的原因を助けて結果を生じさせる間接的原因としての補助的条件。またこの二つの原因を合わせて,因とも縁ともいう。

なるほど,直接的原因ではないから,「由」と類縁なのか。

縁は異なもの味なもの

という「縁」は直接的な結縁ではないが,男女をつなげる不思議な因縁とは,なかなか微妙である。

「よしなし」も,ただつまらない,という意味ではなさそうである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)







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2015年03月14日

かたなし


かたなしは,

伊達男もかたなしだね,

等々とつかう。しかし,かたなしは,同じ,

形無し

と当てても,

跡かたがないこと,形跡が残っていないこと
さんざんなこと,面目を失うこと
形無し銭(文字がつぶれた見えないようになった銭)の略

というほかに,形容詞としての使い方があり,

容貌が醜い,汚い
形跡が残っていない

という使い方があり,『古語辞典』にあるのは,前者の使い方例だ(記憶では,前者の使い方に「陋無し」を当てていた例がある。「陋)は狭いとか粗末という意味。乚+丙は,足さえ左右に開けない狭さの意。阝は,「阜」で,土盛り)。

語源をみると,

形無しは,

「カタ(形)+無し」

で,みじめな様子,本来の姿が損なわれてすっかりだめになること,という意味らしい。

この辺りは,原意は,

何かの調子に本来の形を損なったさま,

だったのだろう。それに毀誉褒貶の価値観がはいると,

面目を失う,

になり,美醜の価値感がはいると,

みっともない,
みにくい,

となる,というような。

漢字の「形」という字は,

左側は,もともと井(ケイ)で,四角いかたを示す象形文字。「彡」は,指事文字。

飾りや模様を表す記号として,彩・影・形等々の字に使われている。で,「形」は,

「井+彡」で,いろいろな模様をなす枠取りや型のこと。

異説に,「幵(そろえる,たいら)+彡(刷毛で刷く)」というのがあり,その場合,

美しい線で象られたものの形態,

となる。「型」の字は,「刑+土」で,

刑は,「井(四角い枠)+刂」で,小刀で枠の形を刻む意を持つ。「刂」は,刀で,そう言えば,「創」の字は,

鋳造するとき,できた後,刀で鋳型に切れ目を入れる

意だと,どこかで聴いた記憶がある。左側は,「形」と同じで,井の変形。「耕」の「井」と同じで,畑に枠の筋目を入れる=たがやす意味。「刑+土」は,

砂や粘土で作った鋳型のこと,

という。その「型」からきているのか,日本語の「かた」は,

カタ(堅・固)

で,土を固めて乾かし,カタを取ったのが,語源。だから,

カタ
カタチ
カタメル
イガタ

のカタも同源。平面的なカタより,立体的なカタのことを指すらしい。となると,わかりやすい。そのかたちが崩れていれば,形無しである。

こう見ると,どちらにしろ,きちんとカタのあるもの,形の整った姿勢,振る舞い,評判の人が,そのカタチを崩し,見る影もなく,尾羽打ち枯らす状態を指す。

「尾羽打ち枯らす」という言い方は,鷹の,尾羽が損じてみすぼらしくなること,を指しているから,烏や雀には使えないのと同様,「かたなし」も,もともと形のない人には使えない,ということになる。。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)








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2015年03月22日


目の前を妨げるものの喩えとして,



という言い方をする。目の前を遮る,あるいは,おのれの超えられない境界の喩えとして使う。

壁を,辞書で引くと,

家の四方を囲い,また室と室の隔てとするもの。ことに塗壁,すなわち下地をわたし,木舞(こまい)をかき,土を塗って作ったものを言う,

とあり,その他に,

(壁を「塗る」と「寝(ぬ)る」とをかけて)夢。
(女房詞,白壁に似ているところから)豆腐,おかべ,
登山で,直立した岩壁,
障壁,障害物
吉原の女郎屋の張見世(はりみせ)の末席(壁際),新造女郎が坐った,
近世後期,江戸で野暮,無粋を言った,

と並ぶ(『広辞苑』)。まあ,正真正銘の壁から,ものの喩えに移っていくのがよくわかる。

壁と見る,

というのは,野暮と見なす,つまりは軽蔑する意だが,

壁に馬を乗りかける,

というのは,無理押しを指す。この言い方がなかなか粋である。

閑話休題。

ここでは,

壁に突き当たる,

を言いたいために,遠回りした。何せ,障害というか,押しても引いても,動かない,まさに,二進も三進もいかない状態である。しかし,壁を無視すれば,問題と同じで,なかったことで過ごせないわけではない。

「かべ」というのは,語源に,

「カ(処)+ヘ(隔)」,場所の隔ての意味

「カキ(垣)+へ(隔)」,建物の周りや内部の仕切りの意

の二説があるらしい。漢字の「壁」の原字は,

「辟」

で,薄く平らに磨いた玉,表面が平らで,薄いという意味を含んでいる。で,「土+辟」は,

薄くて,平らなかべ,

の意らしい。「牆(しょう)」が,家の外を取り巻くながい「へい」で,それに対して薄く衝立式のを「かべ」を言ったらしい。それがのちに,家の内外の平らな「かべ」を言うようになった,という。ちなみに,「牆」を調べると,「爿+嗇」で,「爿(しょう)」は,「木を両分せし形,片の対」とある。「檣」は,「麥+作物をとり入れる納屋」からなり,収穫物を取れ入れる納屋を示す。「牆」は,納屋や蔵の周りに作った細長いへいをしめす,という。

壁というのは,

スランプ
とも
凹む
とも
落ち込む

というのとも,違う気がする。凹むや落ち込むについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410104152.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163424.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/398404438.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163576.html

等々,何度か触れた。スランプは,誰かの台詞ではないが,一流のスキルや技量の持ち主がなる,一時的な不調,不振なので,僕のようなものには,あまり関係がないが,いずれも,内的な要因である。つまり,心理的にか,技術的にか,ペースダウンの状態である。しかし,壁というのは,主観的なものであることは同じだが,

いまの自分にとって大きな障害,ハードル,

がある,と感じていることだ。多く,才能や技量という内的なものが,外の障害に跳ね付けられて,そう感じるという意味では,実は,いまの自分の力量にとっては,階段を昇るようには,越えられないハードルと感じている,ということだ。仮に,外からの手助けがあるとしても,そのステージの力量が満たなければ,また別の壁にぶつかるだろう。

壁は,何かにチャレンジしなければなく,ただの見晴るかす視界があるだけだ。何かにチャレンジしようとするものにだけ,そこに壁が見える。しかし,結局,それは,外に在るのではなく,

自分の内の限界意識,

が作り出す,影に過ぎない。しかし,その限界意識は,主観的に,作り出しているものではない。具体的に次のステージに上れないという事実が突きつける壁である。自覚的なものであると同時に,現実的なものでもある。たとえば,才能,というとき,それは,主観的だが,その差は,歴然として,客観的に在る。世の中は,多く,ステージごとに住み分けているから,同じプロフェッショナルと言いながら,あるステージからは相手にされないプロだってある。そのとき,差は,主観的ではなく,客観的にある。

ただ,思うのだが,その自分が直面している限界を,顕微鏡で見るか,遠眼鏡でみるかによって,壁の見え方が変わる。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/399787014.html

で書いたように,どつぼにはまった状態と同じく,その嵌りきった凹みというか,壁そのものと真正面に向き合った立ち位置から,距離を取って,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/413585389.html

で書いたことと重なるが,自分を俯瞰できる立ち位置に立てられれば,その壁の見え方も変わるかもしれない。

ただ,それは壁がなくなったわけではない。壁があるという事実を消すわけではないので,その突破口が,というより,

迂回路,

というべきか,まだチャレンジする経路が見える,というだけのことに過ぎない。

それを慰めとするか,諦めとするか,元気づけとするかは,その先どうするかの決断次第,ということに尽きる。








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2015年03月27日

蜻蛉返り


「蜻蛉返り」というのは,

(トンボが勢いよく飛びながら,急に向きをうしろにかえることから)
空中で体を上下一回転させること,宙返り
歌舞伎で,役者が舞台で手をつかず宙返りすること,筋斗(とんぼ)返り
目的地に着いてすぐ引き返すこと

という意味がある(『広辞苑』)。もともと,

トンボリ・トンボ返り

で,返りは,空中で身をひるがえす擬態語,つまり掌をつかずに宙返りすること,とある。

歌舞伎の立ち回りには,

千鳥・大回り・むなぎば・腹ぎば・横ぎば・ぎば・入鹿腰・ひともかえり・二ツがえり・つづけがえり・逆立・杉立・そくび落とし・胸がえり・手這・猿がえり・あとがえり・重ねがえり・飛越・ほくそがえり・死人がえり・かわむき・水車・一ツとこがえり・仕ぬき

等々とある。「ぎば」というのは,宙返りのことである,そうな。

「中通り(ちゅうどおり)の役者は,『蜻蛉返り』ということを,必ず知っている…。」

と鳶魚先生はおっしゃる。ちなみに,中通りとは,名題役者(看板役者)の下,その下が下回りということになるらしい。名題下とか,相中(あいちゅう),下立役(したたちやく)とか,名題の下の役者を階級化したのは明治以降らしい。その区別は,正直よくわからない。

で,「蜻蛉返り」という名のいわれは,

「進んで来た位置で,そのまま後ろへ退ることが出来るのは蜻蛉だけで,その他の動物にはない,そこから起こったものだという。」

この説明がリアルである。実際に蜻蛉を見慣れたものだけが,その本当の意味が分かる。単に「身をひるがえす」ではわからない具体的なイメージが浮かぶ。つまり,「蜻蛉返り」の表現には,それぞれを受けとめた人それぞれに,

エピソード記憶

として,そのトンボの具体的な姿が,あったのである。

しかし,歌舞伎の立ち回りとなると,立役が主役とおもいきや,鳶魚曰く,

「主役となる者よりも,蜻蛉返りの方が見せものなので,それが,舞台の変化,局面の転換とでもいいますか,そういう方に効能があったのみならず,またすこぶる舞台面を賑やかすものでもあったのです。」

とある。主役だけで芝居は出来ない。そういう立役を,名題以下の中から抜擢する仕組みを捨てた今日の,血脈だよりの歌舞伎界の貧困化は,当然と言えば言える。

さすがに鳶魚は,その始まりを調べていて,享保十七年(1732)の新浄瑠璃『壇浦兜軍記』に,捕物場面で,「真逆様に,でんぐり返り」とあり,さらに,延享二年(1745)の『夏祭浪花鑑』には,「とんぼう返り仕やらふ」とあるとして,人形が蜻蛉返りをやっていた,と伝えている。

これが歌舞伎になると,

「蜻蛉返りをする者を,『トッタリ』というのは『捕えたり』ということで,むろん捕物の話ですが,これらの言葉は,人間のする芝居に発生したものでなく,人形芝居から起こったのではないか,という疑いがある。」

として,そのことに詳しい伊原青々園(せいせいえん)という人の説明を紹介している。

「自分の考えでは,能の方に『仏倒れ』といって,はずみをつけないで,体がそのまま,そこに倒れるという仕方がある。これはたしかにトンボの一種である。その次は人形の方で,『太閤記』の鈴木孫一が,腹を切ると蜻蛉返りをする。これは人形では死の苦悶などという,こまかい表情ができないから,ああいう倒れ方をしてそれを見せる。」

と言っている。さらに,どうも,この軽業のような所作が歌舞伎に入ったのには,「阿国歌舞伎以来,あらゆる見せ物から,面白いことは皆歌舞伎に取り入れているので,蜻蛉返りもそのころからあったものじゃないかと思われる。」と付け加えている。中国の芝居の影響もあるかもしれないと断ったうえで,さらに,

「『劇場年鑑』などをみましても,天明二年(1782)から立ち回りに後ろ返りをはじめたと,書いてあります天文(1736)以来は,弥弥人形芝居の方で,いろいろな仕出しの多かったときですから,…蜻蛉返りは,人間がやるには相当な稽古を要するけれども,人形ならば簡単に行われる…。」

と,推測している。

思うのだが,この宙返りに,

蜻蛉返り

と名付けたセンスに,驚く。

鼠返し,

というのは,そのままズバリだし,

燕返し,

というのは,確か宮本武蔵に敗れた,佐々木小次郎が得意とした剣技だったが,これも,

ツバメの素早く身をひるがえして飛ぶ様子

から,身を反転させること,あるいは,

ある方向に振った刀の刃先を急激に反転させる技,

に名づけた,蜻蛉返しと似た命名だ。これには,

柔道の足技の一つで,相手の足払いを瞬間的に足払いで返す早技,

というのもあり,麻雀のいかさまにも,

隙を見て牌山と手牌をすべて入れ替えてしまう技

に燕返しというのがあるらしいが,まあ,剣技から来た流用に過ぎまい。それにしても,燕返しの方が,ひらりひらりの感覚は,ピタリだと思うが,すでに,その言葉が剣技として広まっていたせいで,その名は使えなかったのだろうか。

参考文献;
三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)






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2015年03月28日

徹底


徹底的,

という言葉を,随分昔,

テッテ的,

と言い換えるギャグ(というか風刺)があった。つげ義春が『ねじ式』で使っていた記憶がある。そういう雰囲気があった時代が確かにあった。いまや,ドイツの公共放送ZDFが,日本政府と原子力産業を「情報隠蔽と改竄の常習犯」と報ずる時代だ。テッテ的とは程遠い。

だから,先日来日した独のメルケル首相が安倍首相に,慰安婦問題は過去を踏まえてきちんと解決をと何度も言ったそうだが,安倍首相は,最後に「内政干渉だ」と怒り出した,という。そういう国とそういう時代に,わが国のありようは,この何年かですっかり変わってしまった。「八紘一宇」が,この国の国会で,堂々賛美されるところにまで,今日来てしまった。

さて,徹底とは,

其処まで貫き通ること,
残る隈なく行き届くこと,
ある一つの思想・態度を貫くこと,

という意味だ。そのほかに,

蘊奥に達すること,

という意味もあるようだ(『大言海』)。

徹底は,日本語源にはない。中国由来,

「徹(とどく・とおる)+底」

が語源。中途半端ではなく,どこまでも押し通す。それは,どうも日本流儀では,かつても今もない,らしい。

それで思い出した。肥後の神風連(しんぷうれん)太田黒伴雄(大野鉄兵衛)の師となる(同じ勤皇党の川上彦斎にとっても師となる),原道館・林櫻園は,

兵は怒りなり,

と言い,攘夷論の盛んであった時期,

国を焼き尽くしてでも、夷狄と徹底的に戦うべきだ,

と主張した。攘夷論に,そこまでの覚悟を持った主張はなかった。それは,

「我国太平久しく、軍備廃頽し、軍器の利鈍、彼我比較にならない。戦わば敗を取るのは必至だ、しかし上下心力を一にし、百敗挫けず、防御の術を尽くせば、彼皆海路遼遠、地理に熟せざるの客兵である。かつ何をもって巨大の軍費を支えん。遠からずして、彼より和を講ずるは明々白白の勢いではないか。もし、一度彼が兵鋒を頓挫すれば、我国威は雷霆の如く、西洋に奮うべし。」

その戦いを通してしか、おのれの日本人としての背骨は通らない,その背骨なくして,世界に伍していくことはできない,という趣旨であった。そこにあるのは,完膚なきまでに,旧弊を灰燼に帰せしめる,という荒療治だ。こうした徹底論は,妥協派というか,現実派の前に,狂気として葬りさられる。言うところの,

焦土灰燼に天佑あり,

は,所詮妄想に過ぎない,と言えば言える。しかし,何かを貫徹しなくては,新たな地平は開かない。

櫻園の対極にあるのは,同時代の,同じ肥後の実学党と呼ばれた,横井小楠である。

日本に限らず世界中皆吾が朋友なり。

と言い,二人の甥を龍馬に託して洋行させる折送った,有名な送別の詩,

堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
なんぞ富国に止まらん
なんぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ

に,小楠の思いの丈がある。僕はこの徹底した楽天主義が好きだ。これを,「とほうもない誇大妄想」(渡辺京二)という評言もある。しかしこれはこれで,現実的な処方箋は立つし,また小楠なら立てたであろう。

衆言は正義を恐れ
正義は衆言を憎む
之を要するに名と利
別に天理の存する在り,

小楠と櫻園とは,ちょうど真反対に振り切れる立ち位置だが,何れの立ち位置も,いまだかって日本はとったことは一度もない。

昨今の,過去と遂に(というか踏ん切り悪く)訣別できず,過去の亡霊を復活させているありようを見ると,絶望に駆られる。

「徹底ということは,底に徹することであるが,その『底』というものは,自己の限界であることは明白である。」

とは,悲惨を悲惨として,敗北を敗北として,焦土を焦土として,徹底的に受け入れることだ。それが本来の米百俵,

「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」

の精神のはずだ。

しかしわれわれは,230万人の戦死者(その150万人は餓死者)の他,2,000万以上のアジアの人々の戦争犠牲者を出したことについて,遂に主体的に,徹底して向き合うことはなかった。別にドイツが素晴らしいとは言わない。他国は,どうでもいい。是非はともかく,70年もたって,いまだ戦後処理が終わっていない(と他国に揶揄される),この体たらくは何だろう。関係国とのすべての交渉が終わっていない,という政治的未処理の
継続に70年もかかっていて,その処理を終える意志が全く見えないことに,呆れるばかりである。対米関係でも,この国土が電波,空域,原子力のすべてに対米従属状態(占領下とはあえて言わないが,しかしアメリカの許諾抜きでは自由に意思決定できない状態)であること自体,いまだ戦後処理は完了していない。その意味では,敗戦処理はほとんど終わっていない。しかし終わっていないことにすら,気づいていない,というか,認めていない。

ドイツのように,領土に固執するのをやめることが是,と言っているのではない。それは交渉事だ。しかし,主体的に,本気で戦後を処理し尽くす覚悟を,為政者も,われわれ国民も,しなかったし,しようとしていないし,多分することはないだろう,ということだ。決断とは,

何かを捨てることだ,

それは,金や物や土地とは限らない。おのれの面子を捨てることもある。しかし,

面子を捨てる,

ことは,

矜持を捨てる,

ことではない。おのれの体面を守ることで,かえって矜持を捨てていることに気づいていない。

どうやらわれわれは,徹底という言葉を,自国のことばとして,持っていないということだ,と思う。言葉は,自分たちの現実を丸めるところから生まれる。和語として,遂にそういう言葉を持たなかった。なぜなら,そういう振る舞いをしてこなかったし,していないから,それをあらわす言葉がない(のではないか)。

言葉は,その人の振る舞いを表す。

参考文献;
渡辺京二『神風連とその時代』(洋泉社)







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2015年04月06日

ばつをあわせる


「ばつをあわせる」は,

跋を合わせる,

と当てる。

調子を合わせる
とか
話の辻褄を合わせる

という意味だが,「話の辻褄を合わせる」という意味なら,

帳尻を合わせる
とか,
平仄を合わせる,

と言い方があるが,しかしちょっと違和感がある。それだと,一応辻褄が合う,というか整う,という感じになる。そうではなく,むしろ,

その場しのぎ,

というニュアンスなのではないか。その意味では,

調子を合わせる,
とか
折り合いをつける,
とか

という感じに近くなる。使い方としては,

うまくばつを合わせてその場をごまかしました。
会議で失言したが、彼がうまくばつを合わせてくれた。

という例になる。

跋は,あとがきの意味だから,帳尻を合わせる感じに受け取りがちだが,漢字の「跋」の,「犮(はつ)」は,犬の後足に「/」印をつけて,犬が後足を跳ね上げることを示す指事文字。したがって,

ものをはねのけて,二つにわける,

という意味を基本的に持っている。それに「足」を加えて,

草を踏み分け,はねのけて進むこと,
足を跳ね上げることから踏みにじる,乱暴にふるまう

という意味が生じた,とある。乱暴な要約だが,

道のないところに無理やり道を付ける,

といったニュアンスであろうか。

三田村鳶魚の話では,こういう使われ方をしていた。

元治の頃火付盗賊改についた古河近江守は,巡邏先(火付盗賊改役の頭は,テレビで長谷川平蔵がそうであったように,街を巡回したようだ)で,橙を買った。しばらく経つと一つ足りないことに気づく。で,

「誰かに取られた,と言いますと,ついていました付人(元盗賊を手先に使う場合こう呼んだ)が,それは私が取りました,と言って袖から出した。古河近江守は,いや,これはなくなったのではない,貴様を試そうと思ったのだから,一つ袂へ隠したのだ,お前達は急にその場で跋を合わせることばかり骨を折っているふうがある,それで御用が勤まるか,と言って戒めた。これは,付人の弊を救おうとしたものなのです。」

というのである。昔取った杵柄,とっさにひとつくすねた,と付人は(思ったのか,そういうことにしようとしたのか),おのれが白状した(近江守はそれを跋を合わせると感じた)が,しかしこの話は,そういう振る舞いを,(近江守が仕掛けたか,いたずら心でそうしたかは別に),そうやって瞬時に,取り繕ってみせた近江守のその場の裁き方のほうが,「跋を合わせる」にふさわしいように見える。第一,付人なのに,火付盗賊改の頭の懐から一つ橙をくすねるようなことを,それも相手に分かるようなやり方をするものかどうかが,まずは疑わしいではないか。

だから,どうも,「跋を合わせる」という言葉のニュアンスは,

調子を合わせる,
とか
その場を繕う,

というよりもっと強く,

這っても黒豆,

と言い張る,というか,強引に幕引きをする,という感じが色濃い気がする。

鹿を指して馬と為す

という故事,つまり,

「秦の趙高が自分の権勢を試そうと二世皇帝に鹿を献上し,それを馬だと言って押し通した。皆が趙高を恐れていたので,反対を唱えた者はおらず,『鹿です』と言った者は処刑された。」

だと,もっとニュアンスがはっきりする。三田村鳶魚の例は,仮に,付人と古河近江守の立場が逆なら,ああは行かない。権威というか権力を背景にして初めて成り立つ「その場しのぎ」なのではないか。

跋を合わせる,

にそんな謂れがあるかどうかは知らないが,勝手に言葉のニュアンスを想像してみた。

参考文献;
三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2015年04月07日

付人


付(き)人は,

付き添って世話をする人,

という意味で,芸能人や相撲取りの身の回りを世話する人というのが相場である。ウィキペディアでも,

「一般的に,徒弟制度やその流れを汲む育成システムが存在する組織の中にあって,序列・位・格などでより上位の者の側に付いて,その雑務などを務める者のことである。」

といい,内弟子とも呼ばれ,いわゆる「かばん持ち」などがこれにあたる,という。で,

「徒弟制度で人材育成が行われている職種の多くにおいては,“師匠”“先輩”“上司”などの上位の立場にある人間が,“弟子”(直弟子、孫弟子、弟弟子、練習生)または“部下”などの後進の育成を行い,“弟子”は付き人として“師匠”の仕事の補助や身の回りの世話をしながら,その仕事の手順・技法・作法・慣習などといったものを習得し,師弟関係を築き上げてゆく。また“師匠”が所用で外出したりそもそも外を回る仕事では、“弟子”もそれに付いてゆき,現地でも雑用や下働きなどをこなす。」

ということになる。これだけなら,別にブログのネタにはならないが,三田村鳶魚話の中に,

「火付盗賊改に限ったことでありますが,付人といって,軽輩の者を許して使う。」

というのがある。例の池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』では,

元盗賊の密偵,

を手先に使っているが,これを指している,と思われる。

「常に自分の側に置いて使うのみならず,牢屋の中へ入れて罪人の状態を探らせる」

などということをやったようである。当然巡邏する時にも付人は随行する。

「付人が悪い」

という諺が,三田村鳶魚の生きていた時代,大正前後にはあったらしいが,

「火付盗賊改の方の言葉から出たことのように思う。」

とあった。長谷川平蔵は,付人をうまく使ったようだが,中には二股を掛けたり,役を使ってうまいことしたりと,あまり評判がよろしくない向きもある。そんなところから,「付人が悪い」と出たのではないか,というのが三田村鳶魚の説である。

しかし,『大言海』には,「付人」として,

付き添い護る人,

とあり,

カシヅキ

モリヤク

という意味も添えられている。

カシズキは,

「傅き」

と当てる。意味は,

大切に養育すること,
世話をする人,介添え役

とある。ここで連想だが,

傅役

という言葉がある。

必ず,かつて貴人や武家では,世継ぎを育成する役として,傅役を付ける。鎌倉,室町あたりだと『乳母めのと』とその夫が該当するというが, 戦国期だと信長の傅役として,平手政秀が有名である。信長の乳兄弟は池田恒興だから,既にこの時代は,「乳母めのと」は傅役の意味から切り離されていたらしい。傅役との関係は,例えば,武田信玄の嫡子義信の傅役である飯富虎昌は,義信廃嫡時,処刑されている,というほど,両者のつながりは強い。さらに,江戸時代になると,「御三家」当主の「付家老」を傳役と呼んだりするようになるらしい。

傅役の始まりは律令制下の朝廷で,皇太子の指導を司どった役を「東宮傅(とうぐうふ)」と言う役職だったからである,と言われている。

で,ここからは想像だが,本来の付人は,傅く(かしずく)ひとから来ているのではないか。言い換えれば,傅役である。

付人が悪い

という諺(?)は,そうとらえれば意味がよく分かる。

三田村鳶魚さんの説に逆らうようだが,付人は,本来傅役の意味だったのではないか。それが,御三家の監視役「付家老」をそう呼ぶようになり,ついには,火付盗賊改の手先の元盗賊にまでの格に下がった。その意味では,現代の付人が,師匠の世話役,というのは,少し格が上がったのかもしれない。

「傅役」は,最近,

守役

と当てるようだ。護るから守るに代わり,傅く意味が消えているのが,面白い。

「守」は,「宀(屋根)+寸(て)」で,手で屋根の下にかこいこんでまもる,意味。ついでに,「護」の字の,「蒦(かく)」は,手で外から包むように持つことを意味する。それに「言」を添えて,「護」は,外から取り巻いて庇うこと。

なんとなく,気のせいか,「守」方が,過保護に見える。「傅」の,右側のつくり(音はフ)は,「専」ではない。「物に手をピタリとあてがう,助ける」の意で,「補」(ぴたりと布を当てる)「敷」(ぴたりと面に当てる)「膚」(ぴたりと身体に引っ付いた肌)と同系,とある。「傅」は,それに「人」を加えて,

ピタリと付き添うおもり役,

とある。この字の方が,付人に近い。

参考文献;
三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)







今日のアイデア;
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2015年04月08日

粛々と


「粛々と」とは,

今日為政者の,常套句である。要は,

何と言われようと,(いまの行為あるいは立場を)やめない,

と言っているだけである。だから,翁長知事が,官房長官との対談で,

「官房長官が『粛々』という言葉を何回も使われるんですよね。僕からすると問答無用という姿勢が大変埋め立て工事に関して、感じられて、その突き進む姿というのはサンフランシスコ講和条約で米軍の軍政下に置かれた沖縄、そしてその時の最高の権力者がキャラウェー高等弁務官だったが、その弁務官が沖縄の自治は神話であると言った。
私たちの自治権獲得運動に対して、そのような言葉でキャラウェー高等弁務官がおっしゃって、なかなか物事は進みませんでしたけど、いま官房長官が『粛々と』という言葉をしょっちゅう全国放送で出て参りますと、なんとなくキャラウェー高等弁務官の姿が思い出されて、重なり合わすような、そんな感じがしまして、私たちのこの70年間は何だったのかなというようなことを率直に思っております。」

と言った。つまり,どんな民意があろうと,異論があろうとも,一切変えないで,突き進む,ということを言っていただけに聞こえるからだ。それは,確かに,

「上から目線」

に聞えるだろう。結論を押し付けるのを,対談とは言わない。だから,既成事実を積み重ねて,後戻りのきかないティッピングポイントを越えてから,対談したように見える。当然,翁長知事が,軍政下に置かれた沖縄に君臨し,「(沖縄住民の)自治は神話でしかなく、存在しないものだ」と豪語した高等弁務官キャラウェイに擬して,

「キャラウェイ高等弁務官の姿が思い出される」

と言い,「名護市長選、知事選、衆院選で示された辺野古移設反対の民意が存在しなかったかのように振る舞う」ことは「工事中止は神話」と言うに等しい,と批判したのである。それに対して,官房長官は,「辺野古(移設)を断念することは普天間の固定化につながる」と述べ,移設作業を「粛々と進めている」と語った。しかし,辺野古に移設しても,

「普天間が返還されて、辺野古にいって4分の1になるんだという話があります。嘉手納以南が返されて相当数返されるというのですが、一昨年、小野寺前防衛大臣がお見えになったとき、一体全体それでどれだけ基地は減るんですか、とお聞きしたら、今の73.8%から、73.1%にしか変わらないんです。0.7%なんです。」

と,沖縄の実質負担はほとんど変わらないのである。何のための新基地設営なのか。琉球新報は,

「代替の新基地を求めること自体もっての外だ。日本政府が米国の不当行為に加担して、普天間の危険性除去のために沖縄が負担しろというのは,知事が主張するように『日本の政治の堕落』でしかない。」

と,手厳しい。さらに,翁長知事は,

「『戦後レジームからの脱却』ということもよくおっしゃいますけど、沖縄では戦後レジームの死守をしているような感じがするんですよ。一方で、憲法改正という形で日本の積極的平和主義を訴えながら、沖縄で戦後レジームの死守をするようなことは、私は本当の意味での国の在り方からいうとなかなか納得がいきにくい、そういうものを持っております。」

と言ったが,普通なら,返事に窮するはずである。

一旦決まった既成事実をそのまま推し進めるのは,日本の(政治家・官僚・軍人の)常套である。古くは,大鑑巨砲主義が終り(終わらせたのは日本軍の海軍航空隊である),航空機の時代が来たのに,無用の長物「戦艦大和」を造りつづけ,結局片道分の燃料を積んで無意味な特攻にしか使えなかった。そのために三千人もの死者を出した発想と同じである。八ッ場ダムも,原発(再稼働)も同じ轍である。言い方を変えると,既得権益といってもいい。この場合,

粛々と,

とは,無謀と同義である。「粛々と」とは,

「謹んで気を引き締める様子」

を指すのであって,いったん決めたことを,立ち止まって再検討しないなどと言う独断専行,と言うか,

耳を閉ざす,

ことを意味していない。辞書には(『広辞苑』),

謹むさま,
静かにひっそりしたさま,
おごそかなさま,

としかない。耳を閉ざし,いったん決めたら,手古でも動かない,

頑冥さ,

を指してはいない(もちろん,こういうのを「ぶれない」などとは言わない)。「肅(粛)」は,

「聿(筆をもったさま)+淵(ふち)の略字体」

で,筆をもち,深い淵のほとりに立ち,身の引き締まるさまを示す,

とある。「淵」の右側は,廻りを囲んで,その中心に印をつけて,水のたまったことを示す」とも言う。「肅」には,

縮む
とか
謹む,

という意味しかない。「粛々」を見ると,

厳正な貌,
敬い謹む貌,
静かなる貌,
鳥の羽の声,
松風の声,

とある。まさに,頼山陽の,

鞭声粛粛夜河を渡る,

である。「粛々」に「と」を付けても意味は変わらない。

「政治家が対立する政党や世論の反対・批判を押し切って物事を進める時によく使われている。」

が,そういう意味ではない。「謹む」とは,

「包む」と同源。自分の身を包ひきしめる,

という意味である。謙虚と言い換えてもいい。

「政治家がいつ頃から『粛々』を使い始めたかは不明ですが、対立する政党や世論の反対・批判を押し切って物事を進める時によく使われる、という印象です。やや難解で強さのない『粛々』で露骨さを和らげながら、批判には耳を貸さず方針を押し通すのに使ってきました。かつては、この言葉がスマートに聞こえた時代があったのでしょう。しかし、今日では言い訳がましく聞こえます。」(東海テレビ|空言舌語より)

という意見もある。政治家は,誰のために存在するのか,国民のためになのか。一体誰の負託を受けているのであろうか。まさか,

アメリカや米軍のために,

存在するのではないだろう。鳩山元首相のように,一度でも,アメリカと本気で交渉しようと試みた政治家は,ほかにいない。地位協定の不平等さひとつとっても,米軍に牛耳を執られている空域制限にしても,電波にしても,独立国家なら,

粛々と,

アメリカに物を言ってはどうか。基地を撤去させたフィリピンの政治家にも劣るのではないか。

「日本の国の品格という意味でも、世界から見てもおかしいのではないかなと思っておりまして、この70年間という期間の中で、どれくらいの基地の解決に向けて頑張ってこられたかということの検証を含めて、そのスピードからいうと、責任はどうなるのか、これもなかなか見えてこないと思っています。」

と言う,翁長知事の言に,まさに,粛々と,耳を傾けるべきではないか。

因みに首都圏の空は,米軍に空域を蓋われている。民間機は,それを避けて飛ぶ。

Yokota02.gif


参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
米軍基地移転問題に関する初会談(冒頭全文)http://logmi.jp/48814







今日のアイデア;
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2015年04月10日

堅実に


「粛々と」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416946633.html?1428437361

で書いた。ところが,「粛々と」

が不評(?)だから,というので,これからは,

菅官房長官は「粛々」を改め「適切に対応したい」
中谷防衛相も「堅実に進める」

と,表現に変えた,という。(もっとも,安部首相は,菅義偉官房長官の禁止発言から僅か2日で,国会答弁で「粛々」と発言したようだが,それも含めて)笑うしかないが,とても笑えないのである。

ちったぁ反省するなら,別の言いようもある。

「粛は,『自粛』のように行動などをつつしむ,「粛正」のように厳しく対処する,「静粛」のようにおごそか,静か、という意味で用いられる漢字。この「粛」を重ねた「粛々」は、静かなさま、おごそかなさまを表す言葉」(http://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%97/%E7%B2%9B%E7%B2%9B-%E7%B2%9B%E3%80%85%E3%81%A8%E3%81%AF-%E6%84%8F%E5%91%B3/
等々と言われるのだから,

厳粛に,

か,あるいは,その含意を汲んで,

慎重に,

丁寧に,

謙虚に,

ならともかく,「堅実に」「適切に」とは,確実にそのまま進める,という意味でしかない。

「適切に」とは,

状況・目的などにぴったり当てはまる,
その場や物事にふさわしいことよく適合している,

という意味であり,「適合」とは,

ある条件や事情にぴったり当てはまること。である。その条件や事情が,民意や異論との適合でないことは,いままでの経緯からはっきりしている。

堅実とは,

手堅く確実なこと,
確かであぶなげのないこと,

つまりは,(妥協の余地なく)確実にしとげること,要は,

(いままで通り)やる(べき)ことを確実に,

と言っているだけだから,まあ,

有無を言わせず,

やることをやるということを,より露骨に,表明したに過ぎない。

「堅実」の「堅」の字の,「臤」は,臣下のように,体を緊張させてこわばる動作を示す。それに「土」を加えて,

固く締まって,壊したり,形を変えたりできないこと,

という意味である。「実」(「實」)は,「宀(やね)+周(いっぱい)+貝(たから)」で,

家の中に財宝を一杯満たす意,中身が一杯で書け目がないこと,

で,実る,とか,みちる,という意味になる。つまりは,形を変えられないほど膨らんでいる,という意味にもとれる。

「適」の字の,「啇」は,啻(ただ)の変形したもので,一つにまとめる,真っ直ぐ一本になった,という意を含む,という。それに「辶」(足の動作)を加えた「適」は,

真直ぐに一筋にまともに向かう,

という意味になる。

いずれの語意をひもといても,要は,何があってもひたすら突き進むという真意を,まあ,露骨に言い換えただけだ。こういうのを,

語るに落ちる,

と言うのではあるまいか。

それにしても,この政権が権力を握ってから,話し合って何事をも決める,ということを全くと言っていいほど,しようとしない。それについては,ほぼ一貫した政権だ。稀に,被爆者の声を聞いたかと思うと,

見解の相違,

と切り捨てる。思えば,議論を戦わす,ということは,一切なくなったのではないか。

真意が伝わっていない,

ということを言い,

丁寧に説明する,

というが,「丁寧に説明する」ということが(丁寧に)説明することだと思っているとしか見えない。あるいは,

平然と噓を言う,

ことすら憚らない。よく聞いていると,ただ,

俺の言うこと(だけ)を聞け,

と言っているようだ。異論は,受け付けない。受け付けた例はない。終始一貫,

日本を取り戻す,

の路線を邁進している。それは,戦後レジームからの脱却ではなく,戦前への回帰であるとしか見えない。その追随者は,よほど戦前おいしい思いをしていた(裔)のだろう。その味が忘れられないに違いない。そう思うほか,この数年の進め方を理解のしようはない。

国民の意見を丁寧に聴く,

という手続すら,まっとうに踏まず,国会の議論は,

ニッキョウソ,ニッキョウソ,

と,ネトウヨそのものの野次で,質問者の質問を聞いていないか,すりかえて,たまに的を射たことを言われると,

逆切れ

し,議論を積み重ねないまま,閣議決定で,いわば,

こそこそと,

決定を積み重ね,国民を蚊帳の外に置いたまま,

秘密保護法,

をはじめとした

集団的自衛権,
戦争立法,
原発再稼働,

等々,これからは,

日米ガイドライン改訂,
派遣法改悪,
残業代ゼロ法案,
首切り自由化法案,
10%への消費税アップ,

等々,国民の間はおろか,国会ですら,まっとうに議論を尽くそうしたとは見えないし,これからもするようには思えない。そもそも真摯な質問に,

嘲笑
か,
野次
か,
すりかえ
か,

か,
居眠りする

姿しか,テレビで見たことはない。ひたすら閣議で決めたことを,それこそ,

粛々と,

失礼,

堅実に,

手続の瑕疵がないことにだけ心がけて進めているように見える。批判を封じるためか,

メディアとの頻繁な会食,
メディアへの介入,

を繰り返し,メディアを幇間化していく。まさに,

常軌を逸している,

としかいいようがない。しかし,ほぼ,大半は,

無関心

である。無関心は,

容認,

であるという自覚があるのかどうかは知らない。

いまだけ,
かねだけ,
じぶんだけ,

の狭い範囲に,自閉している。その方が気楽だろう。しかし,

子のある親は,

子の未来にも,関心がないのだろうか。

ツイッターで,

20130729麻生「ナチスの手口に学べ」
20141226石破「戦争をするにあたって」
20150316三原「八紘一宇」
20150320安倍「我が軍」
20150325菅 (我が軍は)「誤りにはまったく当たらない」

と,並べてみた人がいる。言外の意図がはっきり見える。杞憂だろうか。杞憂であろうと,予兆にはリスクヘッジをするものだ。2000年問題への備えを笑った人がいたが,杞憂に終わったと笑えるのは,それに備えたからだ。いま,それに備えている人が何人いるのか。

せっかく戦後,

民があってこそ国がある,

に変ったのに,いまや,

国があってこそ民がある,

に逆回転しようとしている。そのつけは,子供の世代が,身をもって払うことになる。それを承知の上なら,もはや何をか言わんや,老耄のやつがれは,

お先に失礼,

するばかりである。








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2015年04月15日

仕出し


仕出しには,

(工夫して)創り出すこと,工夫・趣向を凝らすこと。またそのもの。新案。流行。
装い。いでたち。おしゃれ。
注文に応じて料理を作って配達すること。出前。
財産を作り上げること。また、その人。
演劇・映画で,本筋に関係なく,ちょっと現れるだけの端役。通行人や群衆など,場面の雰囲気を作るような役。
建物などで,縁側のように外側に突き出して構えた部分。

等々の意味がある。語源をしらべても,

作り出す,

で,注文に応じて,料理を作って出す意とあり,

芝居用語では,

「し始める」

という意で,通行人など,ごく軽い役をさしている,とある。古語辞典を拾うと,

シイダシ。

の略とあり,

ものごとを新しく作り出す,また,やってのける,

というのが初めに載る。つづいて,仕立てる,初めてする,新工夫,と続く。後は,いわゆる国語辞典と同じだ。

本来は,

しいだす,

だったのだろう。そこには,

なしはじめる,
新しく作り出す,
準備する,
料理などを調えて届ける,
やってのける,
かせぎだす,

等々の意味が続くが,本来は,古語辞典にある,

しいだし,

で,「為出し」と当てる。これだと,

つくりだす,
しはじめる,
事をやってのける,

という意味になる。芝居用語で,「仕出し」を,

し始める,

としているのは本来の使い方を残しているのかもしれない。通行人とか,何となく人が通るとか,で芝居の場面が設えられて,ストーリーが始まるからであろうか。そこから,端役をさすようになった,というのは,何となくわかる気がする。

一般に言えば,エキストラであり,通行人,群集など物語で重要性の少ない役を演じる出演者だが,その人がいなければ,町の雰囲気は出ない。人がいて,町という場面になる。。日本の映画業界では、「仕出し」,古くは「ワンサ」とも言ったらしいが,「わんさ」とは言い得て妙。音楽の分野では、楽団などの演奏に正メンバーなどの代理として臨時出演することを言うらしい。

いまは,仕出しというと,仕出し弁当のような,出前の意味だが,仕出し弁当は,天和・貞享(1681~88)の元禄直前頃始まったとある。出前と似ているようだが,少し違う。感覚としては,店屋物は,出前という印象だが,仕出しというと,祝い事や法事などに用いる和食の弁当や寿司などと,ちょっと印象が違う。その印象を強めているのが,予約の有無だ。出前というと,予約が要らない感じである,というのである。

そば,うどん,などの,いわゆる出前は江戸時代から存在したと言われるが,出前という言葉自体は,明治頃まで遊女の年季勤めが終わり,遊里を出る前をさす意味にしか使われなかった,という。

出前は,出(店の外へ出る)+前(本来敬称,客)で,

「前」は「一人前」「分け前」など「それに相当する分量」「分」を表す接尾語。「前」で,出向いて注文された分を届ける意味,

と,

敬意を持っていう時の「お前(御前)」の「前」で,出向いて御前のところに届けるといった意味,

との二つの説があるようだ(http://gogen-allguide.com/te/demae.html)。

しかし,仕出しという言葉から考えると,前にも書いたが,「仕」は,「人+士」で,

「士」は,男の陰茎の直立するさまを描いた象形文字で,男,直立の二つの意味を含む,

という。それに「人」をプラスして,

真直ぐに立つ男(身分の高い人のそばに真直ぐに立つ侍従)のこと,

と言い,「事(じ)」に通じ,仕君(君につかふ)と同じこと,

とある。「為出す」を「仕出す」に当てたとき,そこに,「仕」,つまり,つかえる,というニュアンスが込められたのではないか,と想像する。だから,仕出しは,いまで言う出前のように,普通庶民が簡単に取るものではなかったのではないか。

時代劇でよく見るように,ついこの間まで,豆腐ややシジミ・野菜のように,売って廻っているのがあったし,落語などでもあるように,そば・すし・天ぷらなども,屋台(といっても天秤棒を担い)売り歩いていた。

一般庶民は出前など取らない。大店の主人,家族,大名などに限られていたと考えていい。

となれば,「(料理を)出す」のを「仕(つかまつ)る」としたことに意味があるのかもしれない。ただ,「為(す)」の連用形「し」に,「仕」を当てて用いる例は,

仕事
仕儀

等々あり,そこでも,「つかえる」「役目につく」という意味が込められていたようであるから,「仕」のもつニュアンスが生かされているような気がする。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)







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2015年04月16日

燕合わせ


燕合わせ

というのは,

燕算用(つばめさんよう)とも言う。

合わせ数えること,
合計すること,

という意味である。略して,「つばめ」「燕算」とも言う。

帳尻

というのが類語である。帳尻を合わせる,というと,

帳簿に記載した事柄の末尾が合う,

という意味だから,転じて,

事の顛末,
話の辻褄,

を合わせるとも言う。

古語辞典を見ると,燕算用とは,

収支の決算,
しめ,

として,井原西鶴『世間胸算用』から,

「毎月の胸算用せぬによつて,燕の合わぬ事ぞかし」

という用例が載っている。ただ語源がわからない。『大言海』には載っていないので,江戸時代の用法かもしれないが,それにしては,『広辞苑』に載っているのが面白い。

算用

というのは,

数を計算すること,
勘定,
あるいは,
支払,
精算,

を意味する。帳尻の合うか合わないかは,ここにはなく,ただ計算する,というところまでを指す,と言っていい。

ただ,古語辞典をみると,「燕算用」の略,「燕」そのものも,

合算すること,しめ,決算,

という意味を表したらしく,その用例として,

「(絶句の)三の句で転換するほどに,一・二の句と断ちたるやうなれども,四の句で燕を合するほどに,よく一・二と相続する也」

とあるので,合算して,帳尻が合う,というニュアンスがなくもない。ここでは,燕合わせは,喩えとして,帳尻,というか,平仄(ひょうそく)が合う,という意味に拡げられている。

平仄とは,

中国語における漢字音を,中古音の調類(声調による類別)にしたがって大きく二種類に分けたもの。漢詩で重視される発音上のルール。平は平声,仄は上声・去声・入声であり,漢詩作法における,平字,仄の字の韻律に基づく排列のきまり,

を指す。日本では一般に「平仄を整える」という使われ方をし,ほぼ「てにをはを整える」の意味で使う。「平仄」をつじつまとか条理という喩として使う場合は,「平仄が合わない」意味で使う。

その意味では,上記例は,「合算」という意味の「燕」ではなく,「辻褄」という意味の「燕」に拡大されている。

結末を付ける,という意味に広げれば,けりをつける,に似ていなくもない。「けり」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/404290600.html

で書いたが,「けり」を付ける,つまり,「~しける」と,「けり」をつけることで,そう語っていることが,語っているいまの時点から見て,それが,

終ったこと

過去のこと

として,

それを終わらせる,

ということだから,帳尻を合わせる,とは微妙に違うが,決着を付ける意味では重ならなくもない…。

それにしても,「燕」は何から来たのだろう。

日本語「つばめ」の語源は,二つあるらしい。

「チュバ(鳴き声)+メ(小鳥を表す接尾語)」

つまり,鳴き声を発祥とする説。ツバクラ,ツバクラメも同類。いまひとつは,

「ツバ,ツマ(軒端)+メ」

軒端に巣をつくるコトり,という意味を発祥とする説,

とがある。漢字の「燕」を探ると,燕を描いた象形文字というので,ここから「燕合わせ」の意味が見えそうにない。敢えて妄想すると,ツバメは,かつては,電線に列をなして止まって居た。ああやって列をなす鳥は,他にあまりないので,それを数えるのをさしたのかもしれない,と妄想をする。鯖を読むというのが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/414131601.html

で触れたように,

鯖は大量に捕れるが鮮度の低下も早いいので,時間を惜しんで鯖の数量を目分量でざっと数え,急いで売りさばいた,

という謂れからきていることをみると,何となく,燕の生態から来ているような気がしてならない。まあ億説だ。さらに妄説を続ければ,音韻と音感から,たとえば,「つばめ」と「つぼむ」の転訛のような変化かもしれない。

参考文献;
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2015年04月17日

濫妨


濫妨

乱暴

とは違う。乱暴は,

荒々しくふるまうこと,
粗雑であること,

という意味であるが,濫妨は,

乱妨

とも表記し,

荒らしまわること,
略奪すること,

という意味になる。

どうも,元来は,戦国時代の,乱捕,乱取,

敵地に乱入して略奪すること,

という意味である。

乱妨取り

とも言い。

戦国時代から安土桃山時代にかけて,戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為を指す。当時の兵は農民が多く,食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。人狩りの戦利品が戦後,市に出され,大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり,褒美として付近を自由に乱取りさせた,

という。それらの狼藉は黙許というか,悪事ではないとされていたようである。ルイス・フロイスは,

「日本での戦は,ほとんどいつも,小麦や米や大麦を奪うためのものである」

と書いていて,戦国期の日常的に荒廃した田畑が,一層そういう傾向を助長したとみられる。戦国期の人身売買の記録もあり,人取り(生捕り)は,多く,身代金目当てか,売買であり,武田信玄の軍による大掛かりな人取りについて,

「男女生取りなされて,ことごとく甲州へ引越し申し候,さるほどに,二貫,三貫,五貫,十貫にても,身類ある人は承け申し候」

という記事もある。また謙信も,関東に攻め込んだ折,攻め落とした小田城下で,人の売買をしていたともある。

すでに江戸時代に入る,大阪の陣を描いた,

「大坂夏の陣図屏風」

にすら,徳川方の雑兵による大規模な乱妨取りが,大坂市中で行なわれている様子が克明に描かれている。

乱取は,常態であったらしく,『甲陽軍鑑』には,桶狭間の合戦について,緒戦で織田方の砦を落としたため,戦いに勝ったと思った今川の兵が略奪に夢中になっている中,織田軍が味方のように入り交じり,義元の首を取った,

という説明があり(現に「今川軍が略奪し、油断していた」と徳川家康の証言もあり),今川方が略奪に夢中になっている隙を織田方に突かれたのが敗因,という説があるようである。

切り取り(斬取)強盗武士の習い

という諺は,こういうことを背景にしているに違いない。諺の説明には,

人を殺して金品を奪ったり,強盗したりすることは武士には珍しくないことである。
零落した武士が生計のために言った口実。

とある。口実かどうかは知らず,切り取って領地を増やす,ということを含めれば,武家のありようを,そのままの表していると受け取っていい。

何せ,武器を持っているのだから,強いに違いない。しかも,江戸時代になると,法度で,刀と脇差の二本をさすことは,士に限ったのだが,面白いのは,その寸法が定められていて,

寛永十五年(1638)には,長刀が二尺八寸以上,大脇差が一尺七寸以上,

となっていたのに,

寛文十年(1670)には,刀が二尺八寸九分まで,大脇差が一尺八寸,

と長くなっていく。普通は,

刀は,二尺以上,
大脇差は,一尺九寸以下,
中脇差は,一尺七寸九分まで,
小脇差は,一尺以上,

となっていたらしい。二尺となれば,刀と言っていた。どうもこの背景には,

長脇差,

いわゆる長どす,というやつで,例のやくざ者がさすようなもののことだ。これが,だんだん伸びて,長脇差だか刀だかの区別のつかない,二尺以上のものが出てくる。極端になると,

二尺五寸以上の脇差,

をさすのまで出てくる。どうも,その走りは,旗本らしい。二本さして出歩くかわりに,長脇差一本で出歩くようになり,二本差しの手前,それを長くして体裁をとった,ということらしく,二尺以上の長脇差,二尺五寸の長脇差をさすものさえ現れた。それを,

旗本流,

と異名をつけられたりした,という。それがいわゆる長脇差(長どす)になっていったものらしい。二本をさせないので,寸法の長い脇差をさした。幕府も,

長脇差を帯はし,目立候衣服を着し,不届之所業に及び,

云々と,度々禁制をだしたらしい。江戸時代も中期以降,男伊達を見せる場のなくなったサムライがヤクザ化し,ヤクザがサムライ化してゆく経緯は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163232.html

で触れた。もともとは,農民から発祥したのが武士だから,かつては農民も,刀を皆さしていたのかもしれない。しかし,

「一体刀を帯しているということは,腰が重くって立ち居にもうるさい」

ことになる。自然おごそかににふるまわざるを得ない。天和三年(1683)に,町人は一切刀をさしてはならないことになったが,一本であれ二本であれ,あんなものをさしていては,仕事にはならない。

「本当の閑人だから,刀をさして威張ってみる気になれた」

ものに違いない,とは名言である。

参考文献;
三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
藤木久志『戦国の村を行く』(朝日新聞社)







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