2015年04月19日


節(フシ)の語源は,

「フ(経)+シ(処)」

で(出典は『大言海』らしい),竹,葦などの区切り,をいう。たた,「フシ」と読むのと,「セツ」と読むのとで,どう違うのか。

節(セツ)は,中国語の「節」が語源。ただ,「節」の説明は,二つある。

一つは,「竹+即(断ち切ること)」

いまひとつは,「即」は,の左側は,「皀」で,人がすわって食物を盛った食卓のそばについたさまで,「ごちそう+膝を折ってひざまずいた人」の会意文字。ここでは,「卩」の部分(膝を折る)に重点があり,「竹+膝を折った人」で,膝を「ふし」として,足が区切れるように,一段ずつ区切れる竹のふし。

どうも素人が言うのも何だが,

竹になぞらえるか,
膝になぞらえるか,

の違いだが,「区切れ」とか「切れ目」の意味になったものらしい。だから,「節」には,竹の節もあるし,関節もあるし,音楽の節もあるし,文章の区切れ(文節)もあるし,季節の変わり目もあるし,割符の切れも(符節)もあるし,振る舞いの切れ目(節度・礼節)もある。だから,準えられるものにどんどん敷衍されていく便利な言葉に違いない。

天地は節ありて四時成る,

という。この場合,節(せつ)のことである。ちなみに,「節(せち)」とも読むが,そう読ませると,

季節の変わり目
とき
節日

と意味がほぼ特定されてくる。

節(せつ)で引くと,

竹や枝の骨のふし
季節の変わり目
時期,
区切り(曲のふし,分のくぎり)
志を守る
控え目
君命の使者の標識
節点

等々。「節(ふし)」で引いても,大きな差はない。ただ,『大言海』は,「せつ」のほかに,「ふし」を二項に分けて載せている。(「経(ふ)る處の意かという」と断ったうえで)一つ目は,

(経る処の意)竹・葦などの幹の中に,隔てとなれるもの,
樹の幹に柄だの差したる痕
動物の骨のつがい目
絹・麻糸のところどころに瘤のごとくなれるもの

で,いわゆる「フシ」の発祥にかかわる「経る処」を指しているものそのもので,いまひとつは,それら準えた,

事の廉。間に隔てあるより,事の箇条,
時の窺うべきところ,機,時期,
歌の調子の長短,高低の変ずる所,

と分けている。昔,村上一郎が,

「草莽とは,草莽の臣とは違う。『大言海』は「さうまう」「さうまうのしん」を別項として,この大辞典の編著上の見識をしめしている。」

と書いていたのを思い出す。

「その節はありがとうございました。」

というとき,「せつ」とは言うが,「ふし」とは言わない。

「節を正ず」

というとき,矢の箆(やがら)の「ふし」を揃えることだから,「せつ」とは言わない。

節を折る,
とか
節を全うする,

は,やはり「せつ」と言う。微妙な使い分けは,言語感覚として,たとえば,

「せつ」は準えた側,
「ふし」はそのものをさす場合,

の使い分けがあったような気がする。例外的に,「ふしをつける」というような,言いがかりを付ける,と言う言い回しがあるが。

たとえば,メールマガジンに,

「四季の巡りにも,程良い節(せつ)がある。」

「人間も物事も節(ふし)を設けることで成長する。」

という使い分けがあった。

「節」は,切れ目という見方もあるが,節目があること,が強さにもつながっている。惰性に流される,感情に流されるのを押しとどめる堰とも言える。そうみると,

行いを抑える角目(節操,枉節,礼節)
勝手な行いを抑える(節操)
節目を超えないようにほどほどに抑える(節度,節約,節制)

という使い方が生まれてくるのも,「節」「節目」の,止める,抑える,結果としての剛性からの喩えの気がする。

「節」という字に,日本語の複雑な奥行と,言葉の源流が垣間見える気がする。





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2015年04月20日

嘱託


無知をさらけだすようだが,ふつう,「嘱託」は,

ショクタク

と読む。「属託」とも当てるらしい。まあ,そこまでは,いい。で意味は,

頼むこと。仕事を頼んで任せること。委嘱。
正式の雇用関係や任命によらないで、ある業務に従事することを依頼すること。また、その依頼された人やその身分。

という意味である。嘱託殺人とか嘱託社員というのが今の使われ方である。類語としては,

委嘱,委任,付託,負託,寄託,委託,

といったところであろうか。しかし,「嘱託」を,

ソクタク,

と読み,同じく「属託」という字も当てて,

ゾクタク

とも読むらしい。意味は,

報酬を出して,味方になることを依頼すること,
懸賞金で罪人を捜すこと,また,その賞金,

である。『広辞苑』には出ているが,他の小さな国語辞典には出ていない。ちなみに,『大言海』を見ると,

「ソクタク」は,

懸賞にて罪人を検挙すること。賞格。募格。犒(こう)金。

とあり(因みに「格」は止めるという意味があり,「犒」は労う意味があるので,推測できる),それと別項で,

「ゾクタク」があり,

又,しょくたく。頼み委ぬること。また其れを受けたる人

とある。すでに,「しょくたく」の意味が載っている。しかし,『古語辞典』となると,「そくたく」しか載っていない。つまり,

自己の利益のために報酬を払って頼むこと。またその報酬。
懸賞金を付けた罪人を探すこと。またその懸賞金。

である。語源がわからないので,あてずっぽうだが,たぶん,報酬を払って人に何かを頼むことを,

そくたく

といったのであろう。懸賞金を付けて,罪人を探すのは,その派生として生まれたのではあるまいか。江戸時代,「嘱託(懸賞金)」をかけて,たとえ同類でも訴え出れば罪を問わないという立札(嘱託札)を立てた,という話がある。

横道にそれるが,そういう立札を立てても,誰も訴え出るもの(「返り訴人」といったらしい。敵方から味方になるのを「返り忠」というらしい。『隠し砦の三悪人』で,「裏切り御免」と藤田進が叫んでいたやつである。)がない,そこで,所司代をつとめていた板倉周防守重宗という人のアイデアで,その立札の横に,

「ここに立ててある嘱託の金子は余り少ないから申し出ないが,これを倍にしてくださるなら,同類のありかをもうしあげましょう。」

と意味のことを描いた立札を,平仮名書きで立てた,という。それを見た仲間が,誰かに先にやられたらそいつだけ助かる,と疑心暗鬼にかられて,早速訴人してきた,という。なかなか江戸時代の為政者も悪知恵がはたらく。

閑話休題。

漢字から調べてみるとすると,

「嘱(囑)」の「属(屬)は,

ショク(漢音)
とも
ソク(呉音)

とも読むが,

ぴったりくっついてはなれない,

意で,「口+屬」は,相手の耳に口をくっつけて言い含めること,という意味になる。で,

言い含める,
とか
いいつける,こうしてもらいたいと押し付ける,

という意味を持つ。「言葉で何かを(強引に)伝える」といったニュアンスであろうか。「託」は,「乇」が,

植物の種が一所に定着して芽をふいたさまを表す会意文字,

で,一所に定着するという意味があり,「宀(やね)」を付けると,家を立ててそこに定着する,と「宅」となる。「言+乇」で,「託」は,

ことばで頼んでひとところにあずけて定着させること,

という意味になる。で,

まかせる,
とか
かこつける,

という意味になる。こうみると,「嘱託」の意味は,「懸賞」とか「報酬」というニュアンスはなく「しょくたく」と使っている,今の使い方の方が,漢字のもつ意味からは自然に見える。用例を見る限り,

賄賂,嘱託に耽り(源平盛衰記),
とか
嘱託の高札ありといえども(切支丹退治記),

と,そんなに遡らず,いちばん「そくたく」がポピュラーだったのは,「嘱託札」が立てられた江戸時代のようだ。しかし,『大言海』には,「しょくたく」が見えているのだから,

「頼む」

というニュアンスと,

「報酬」

という意味だけが,濾されて残った,ということのようだ。ひねくれた言い方をすると,金で誘って「返り訴人」を雇う,「訴人」になる委託をする,ということの,言葉のロンダリングに見えなくもない。

参考文献;
三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)







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2015年04月24日

どうせ


どうせ,

というのは,貶める口調である。

どうせ,俺なんて,
どうせ,大したことではない,
どうせ,たかが知れている,
どうせやるなら,
どうせ無理,

等々。必ずしも自分だけではないが,結果として,口に出す本人を貶める。だからか,

「『でも』『だって』『どうせ』,この3つのDが成功しない人の口癖です」

とまで酷評される。

意味は,辞書によると(『広辞苑』),

(断定的な気持ちまたは投げやりな気持ちを伴う)どのようにしたところで,いずれにしても,つまりは,所詮,

等々とある。『古語辞典』には載らない。ただ,

どうで,

で載っている(「どうで」は,『広辞苑』にも載る)。

どうしても,どうしたとて,つまり,どうせ,

と,意味が載っている。『大言海』は,両方載っている。「どうせ」は,

いずれにしても,なにせ,なにしろ,つまり,どうで,

という意味で,「どうで」を引くと,

いずれにしても,どうするとも,つまり,どうせ,

と載る。語源がわからないが,「どうで」と「どうでも」が似ている。「どうでも」は,

どうしても,いかにしても,なんとしても,是が非でも,

と,わずか「も」がついただけで,どうでもいいではなく,「どうにかしたい」に変る。

所詮も,同じ意味で使われるが,

詮ずるところ,(理の)つまるところ,押し究めたる,突き詰めたる,つまり,結局,到底,究竟,

という意味だが,原典は,経文で,

人をして,道を明らめしむる(能詮),人に明らめさせらるる(所詮)という語あり,

という。

憶測だが,「とても」は,「到底」から来たのではないか。到底は,

つまるところ,結局,
(後に否定語を伴う)いかにしても,どうしても,とても,

という意味になる。語源は,

「底に到る」

という中国語から来ている。

とても,どうしても,

の意味で使う。

どうせ,とても,どうで,所詮,到底,結局,つまり,

に通底しているのは,「先が見えている」という本人の意識(あるいは思い込み)である。つまり,

「結果の先取り思考であり,まだその時点に達していないにもかかわらず,現時点で,その結果になるであろう状況を先取って受けとめそれに感じとって生きるという発想形式」(竹内整一)

である。

今流のポジティブ思考では,

マイナス面というか,限界に焦点を当てている,

から,「どうせ」をマイナス思考の元凶のように扱う。本当にそうか。

日本人の伝統的な無常観,

に根差しているのではないか。そこにあるのは,

久方のひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらむ

と,嘆いてみせる。しかしその底のしたたかさを見なくてはならない。

「世界全体に占める日本の災害発生割合は,マグニチュード6以上の地震回数20.8%,活火山数7.0%,死者数0.4%,災害被害額18.3%など,世界の0.25%の国土面積に比して,非常に高くなっている。」

しかも,その日本列島に,高い密度で人が住んでいる。そこにあるのは,諦念だけであろうか。

「有るものは無くなり,盛んなものは衰える」

という時間感覚である。それは,

「春はやがて夏の気をもよほし,夏より既に秋は通ひ,秋はすなはち寒くなり,十月は小春の天気,…」

という先取りの,「どうせ」なのだ。「春の日の雪だるま」と喩える。しかし,だから,一日一日を大事にするのであり,好奇心に満ち溢れており,色好みであり,ファッションに敏感なのであり,食に貪欲なのだ。

世はさだめなきこそ,いみじけれ

とは言い得て妙。「どうせ」の先にあるのは,この精神なのではないか。

しかし,日本列島に自己完結した時代ではない。

つぎつぎなりゆく,

うつろひゆく,

のが自然(おのずから然らしめる)であるが,その自己完結から抜け出せなければ,

どうせ

は,その流れに埋没した結果にしかならない。そこからおのれを引っ剥がして(メタ・ポジションから),

身ずからというのもいい,

しかし,「おのずから」のなかに,

「おのおの其処を得」ていく,

のもいい。ただ「移る(移るは,写す,でも,映すでもある)」を眺めているだけではなく,

「おのずから然らしめるもの」

を写し取っていく,ことが必要なのではないか。その辺りは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415685379.html

で触れた。その意味で,

「どうせ(どうで)」

は,

「どうでも」

に意味を変える。

参考文献;
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)






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2015年04月28日




とは,

他の例を引いて、ある意味・内容をさとらせる。たとえ,

である。喩えについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/401399781.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398240083.html

で触れたし,見立て,アナロジーについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/408700916.html

で触れた。ここでは,違う視点から考えたい。

たとえば,岡本綺堂や三田村鳶魚あたりのものを読んでいると,喩えが半端ではない。例を挙げると,

置いてけ堀の話の中で,本所で堀を探すのは,

高野山で今道心を尋ねるようなもの,

という言い回しが出る。今道心とは,

仏門に入ったばかりの者,という意味である。喩えは,

言いたいことを,

それに似た,

何か別のことで言う,ということだ。もともと言葉は,現実を丸める。丸めなくては,言語(この場合指示表現)にはならない。だから,ユング派の人は,言葉を覚えると,人は,

宙に浮く夢を見る,

というような言い方をする。現に,僕は,中空の木立の間を(平泳ぎ)泳ぐ夢をよく見た。それは単に泳ぎを覚えたころのことなのかもしれないが,少なくとも,言語化は,体に対して距離を取れなければ,言葉に置き換えられない。メタ・ポジションと言い換えてもいい。匂いを嗅いでいる瞬間と,その匂いを言語化するところとでは,匂いに対する距離が違う。たとえば,堀を探す,と似た距離を,同じ距離のもので,置き換えるとき,

かっぱ橋で柄杓を探す,

と言うか,

高野山で今道心を尋ねる,

というかは,時代背景(同時代の文化的文脈という意味も含めて)もあるが,個々人(読み手)の教養レベル(という文脈),ということもある。それは,泥道で難儀するのを,

粟津の木曾殿,

というレベルになると,その距離感が,よく分かる。言わずと知れた,木曽義仲の,最後の場面のことを喩えている。平家物語には,

「木曾殿はただ一騎、粟津の松原へぞ駆け給ふ。頃は正月二十一日、入相ばかりの事なるに、薄氷は張りたりけり。深田ありとも知らずして、馬をさつとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。」

とある。同じ表現をするにも,泥道に足を取られた自分を見る目線と同じ距離感のところに,この例文がなければ,こういう喩はでない。

喩は,『大言海』には,

意の述べ尽くしがたき,或いは露わに言い難きを,他の物事を借り比べせて云う。
他事に擬(よそ)へて言う。

とある。

他のことにことよせて,

言うという意味もあるが,ここでは,前者のことを考えている。「他の物事を借りる」ためには,同じ(丸める)水準にあるものでなくてはならない。そして,その言い換えが,相手に伝わらなくてはならないので,(読み手かいし聴き手が)同じ文脈にいることが暗黙の内になくてはならない。

語源的には,「たとえる」は,

「タテ(立て)+トフ(問う)の下一段化」

で,対立物を立てて,問い比べる,という意味で,例を挙げて説明する,準える,という意味になる,とある。しかし,例を挙げるのは,具体例,抽象度の高い「概念」を,具体的例示を上げることで,それは,

例える,

であって,喩えるとは違う。僭越ながら,その認識プロセスが混同されている気がする。『古語辞典』には,「喩へ」について,

甲を直接的には説明しがたい場合に,別のものではあるが性質・状態などに共通点をもつ乙を提示し,甲と対比させることによって,甲の性質・状態などを知らせる意,

として,「なぞらえる」を意味として載せている。しかし,「喩ひ」をみると,

たとえ,例。

とある。あるいは,日本語では,

例示の例える
と,
なぞらえる「喩える」が,

混同されている,ということなのだろうか。たとえて言うと,「例える」は,

ツリー状に,上位の(概念の)下に,下位の具体的例示がぶら下がっている,

ということが言えるが,「喩える」は,

「甲」と「乙」(の概念が)が別々のツリーを構成し,その構成員としてぶら下がっている下位の例が,似ている(と対比できている),

というふうに対比できる。そもそも概念が違うのである。

では,「喩」はどうかと言うと,

「口+兪」で,

「兪」は,中身をくりぬいて作った丸木舟。邪魔な部分を抜き取る意。で,「喩」は,

疑問やしこりを抜き去ること,

とある。で,意味は,

さとす,
さとる,
疑問を解いてはっきりわからせる,
たとえる
例を引いて疑問を解く
たのしむ

が出ている。これを見る限り,「喩」の意味でも,例と喩は混同して使われているようだ。しかし,

「中身をくりぬく」

というのは,喩そのものではないか。

あることをいうのに,その中身を差し替えて言う,

と。その意味で,例だと,

その中身が,具体例を列挙することになる

が,喩だと,

(中身に別の)一つを入れ替える,

というようになる,と考えると,腑に落ちる。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)






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2015年04月29日

横板


横板に飴,

という言い方を,岡本綺堂がしている。いろんな人が,取り上げているので,いまさらめくが,

立板に水,

という言い方はする。因みに,立板というのは,

立てかけてある板,

という意味の他に,

牛車の車箱の両側をそう称する,
木目を垂直あるいはそれに近く通るように用いた板,要は,縦に木目の通った板,

という意味がある。でもって,「立板に水」とは,

弁舌すらすらとしてよどみのないさま,

とあり,「横板に雨だれ」が対で載っている。横板とは,

木目を横にして用いる板,
後坐(能舞台の正面奥の部分),能舞台で囃子方の座の後,鏡板の前の称,床板が横に張ってあるところからいう,

で,「横板に雨垂れ」は,

つかえながらする下手な弁舌,

つまり,立板に水の逆。そのほかに,

横板に泥,

横板に餅,

という言い方もあるらしい。言ってみると,喩えやすい言い方なので,幾らでも,バリエーションはできる。「立板に水」も,

立板に玉(豆),

という言い方もあるらしい。あるいは,

横板に飴を抛付くるが如き

という言い方もあるようだ。確かに,飴は,つっかえつっかえ落ちるだろう。ま,使いやすい,というか言い替えやすい言い回しには違いない。

立板,の「立」は,「縦」の意で,鍵は,木目にある。本当を言えば,縦に置いても,横に置いても,そんなに変わらないから,

立板に飴,

といってもいいところを,「横板」ということで,木目に逆らうという含意がある。それがわからないと,たぶん,面白さが半減するのかもしれない。

そういえば,昔,編集者の時代,紙を注文するとき,

(紙の)タテ目とヨコ目

ということを意識していたはずだ,ということを思い出した。

「紙はひとつのライン上で製造され,一度巻き取られる。巻き取られたロールの状態では常に紙の目の方向は一定だが,シート状(平判)に紙を切る時に縦横どちらの向きでカットするかによって縦目と横目の違いがでてくる。紙のタテ目は,紙の長い方の辺が紙の目に平行している紙で,A判タテ目はAT,B判タテ目はBTと表示する。紙のヨコ目は,紙の短い方の辺が紙の目に平行している紙で,A判ヨコ目はAY、B判ヨコ目はBYと表示する。」

ということらしい。まあ,その当時,そこまで明確に知っていたわけではないが,ここでも,タテヨコが生きている。。

閑話休題。

しかし,ここで言っているのは,立板,横板は,滑舌のことではなく,喋るスピードのことである。

しかし,思うのだが,どんなに饒舌な人でも,どんなに天才的な詐欺師でも,

不意打ちには,弱い,

あるいは,

初めてのことを話すときは,遅くなる,

らしい。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409638012.html

で書いた。だから,通常,

いつも,考えていることを話しているか,
いつも,そのことについて,しゃべり慣れているか,
何回も話したことがあるか,
何度もこう言おう,ああ言おうと,反芻していることか,

等々という以外,その場で,考えながら,喋らざるを得ない状況だと,滑らかにはいかない。だから詐欺師には,

こちらから質問をする,

のが有効だと,言われるのである。

余程頭の回転が速い人でない限り,話すスピードは,意識の流れの1/20~1/30に遅くなるので,どうしても,ある程度,そのことを言葉に置き換えるのに時間がかかる。心の中から,言葉を紡ぐには,言語に置き換えるためのタイムラグが,コンマ何秒でもあり,

立板に水,

とはいかない。その言語力,というか,語彙が多ければ,速いかと言うと,

かわいい,
やばい,

で済まさず,そのことに的確な言葉を選択しようとするので,逆に,テンポは落ちる。それが当たり前で,だから,話していることが信用できるのである。

口車,
とか
口八丁,
とか
口巧者,

というのは,

立板に水,
とか
一瀉千里,

とはだいぶ違う,と思う。






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2015年05月01日

をかし


おかしい

を『広辞苑』でひくと,

「をかし」として,

ヲ(招く)の形容詞形で,心惹かれ招きよせたい気がする意か,

とある。そして,大別,

①(「可笑しい」とも当てる)笑いを誘われるようなさま
②物事を観照と評価する気持ちで,「あはれ」が感傷性を含むのに対してより客観的に賞美する感情

に分けている。①の方は,

滑稽である,変だ・いぶかしい,変だ・変わっている,粗末である,

といった意味であり,②の方は,

心惹かれる気がする,面白い・興味がある,趣きがある・風情がある,かわいらしく愛すべきである,優れている,

といった意味になる。

語源を見ると,

古代語「ヲク(招・呼)」+シ(形容詞化)

で,思わず笑みがこぼれる心的状態になることをいう,とある。「平安時代の造語」とあり,

知的感動がある,
趣きがある,

という意味になる。

『古語辞典』をひくと,

「動詞ヲキ(招)の形容詞形。好意をもって招きよせたい気がするの意。ヲキ(招)・ヲカシの関係は,ユキ(行)・ユカシ,ヨリ(寄)・ヨラシ(宜,ヨロシとも)ナゲキ(歎)・ナゲカシの類。ヲカシをヲコ(愚)の形容詞化と見る説もあるが,平安中期以前のヲカシの数多くの例には,ヲコ(愚)のもつ道化て馬鹿馬鹿しく,あきれて嫌に思う気持ちの例はなく,むしろ好意的に興味をもって迎えたい気持ちで使うものが多い」

とある。結局辞典も編者の考え方ひとつで,こう偏りが出るものに違いはなく,この説によれば,「平安時代の造語」ではなく,そういう意味で使われるようになった,というのが近いのではないか,ということになる。

招きよせたい,

とは,主題側の心を見れば,

惹かれる,

ということになる。「惹かれる」のが,

趣きや風情
なのか,
その面白さ
なのか,

で意味がわかれる。

「あはれ」の対象に入り込むのとは異なり,対象を知的・批評的に観察し,鋭い感覚で対象をとらえることによって起こる情趣,

と説明されると,メタ・ポジションからの視点と聞こえる。それは,まさに,「面白い」の変化と似ている。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415405652.html?1426018728

で書いたように,「面白い」も滑稽さではなく,知的な面白さも含めていたと考えれば,面白いが滑稽の方にシフトしたように,「をかし」が「可笑し」にシフトしても別に驚かない。

平安時代,「もののあはれ」と対置的につかわれ(はじめ)た,「をかし」は,

「『もののあはれ』がしみじみとした情緒美を表すのに対し,『をかし』は明るい知性的な美と位置づけられ,景物を感覚的に捉え,主知的・客観的に表現する傾向を持ち,それゆえに鑑賞・批評の言葉として用いられた」

とされ,それが, 室町時代以降,滑稽味を帯びているという意味に変化した。世阿弥の使い方では,狂言の滑稽な様を「をかし」と呼んだそうだから,清少納言が「をかし」と使ったのとは,すでに,かなり変化したことになる。でも,まだ,そこには,

「品」

が残っていたのではないか。江戸時代の滑稽本でいう「をかし」とは,少し違うだろう。

ちょっと面白いのは,『大言海』が,また,特別な項目立てをしていて,

をかし(可笑)

をかし(可笑・可咲)

をかし(可愛)

とに分けていることだ。意味が変わったのだとしたら,確かに,これが正しい。

「可笑」は,こう説明する。 

をかしきこと。滑稽なること。笑うべきこと。

「可笑・可咲」は,こう説明する。

(痴愚と通ず)をこなり。痴なるがごとく見えて笑うべし(笑うにも,嘲笑,鑑賞,侮弄の三つあり)。いぶかし。

「可愛」は,こう説明する。

物を愛ずる時は自ら笑まるるより転じて,愛ずべし,賞すべし,褒むべし,おもしろし。

それにつけてある注が,

かなしに,憂し,面白しの二義あるがごとく,咲,笑の字に,喜楽と侮弄との二義あり,わらうもまた二義を兼ねたり,

とある。なかなか含意が深い。

当たり前のことだが,辞書の編者も,知力を尽くしている。ひょっとすると,辞書を読み比べると,こんな,意味,解釈の奥行の差が出てくるのではないか。これこそがまさに,

をかし,

である。因みに,『大言海』の「わらふ」の項が面白い。

「わらふ」(笑・嗤・咲・嗤・莞・粲・噱・咍)

として,それぞれの漢字で,わらい分けてみせている。これについては,別途書いてみたくなった。







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ラベル:をかし おかしい
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2015年05月04日

いわれ


「いわれ」と「いわく」は似た意味である。

「いわれ」は

謂れ,

と当てる。「言われ」とも当てるが,

(動詞「い(言)う」の未然形+受身の助動詞「る」の連用形から)物事が起こったわけ,言われていること,来歴,理由,由緒,

という意味になる。「言う」を当てているが,本来は,「謂う」らしい。この違いは,

曰くについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/405702636.html

で触れたので,多少重複するが,

「謂う」の「謂」は,「言+胃」で,「胃」は,

「まるい胃袋のなかに食べたものが点々とは言っているさま+肉」

で,「まるい胃袋」をさし,「言」を加えて,

口をまるくあけでものをいう

という意味になる。特に,人に対して言うのを指す。あるいは,その人を評するのにも使う。で,何かをめぐってものを言う時に使う。

「言」は,「辛(切れ目をつける刃物)+口」で,

はっきり角目をつけて発音すること,

をいう。

「曰」は,「口+乚印」で,

口の中から言葉が出てくることをしめす,

という。「謂」「話」と同系統で,口を丸く開けて言葉を出す意で,漢字を組み立てる際には,「曰」印は,言うという意に限らず,広く人間の行動を示す音符として使われる,とある。

「曰」が一番広い意味なのかもしれない。僕は,

曰く因縁

と思ってきたが,どうも,

謂れ因縁,

とも辞書(『広辞苑』)にはある。

語源的には,「いわれ」は,

「言は+る(受身)」の名詞形,

とある。「いわく」は,

「イハ(言ふの未然形)+ク(名詞化の接尾語)」で,

(~と)言うことには,の意が転じて,理由,事情を意味するようになった,とある。

曰くと謂れは,差がないようだが,あくまで憶測だが,

謂れ,

は,受身なので,伝聞というか,そのように言われてきた,というニュアンスがある。それは,主体の語りではなく,周囲に語られてきたこと,という感じである。

曰く,

は,未然形なので,

「まだそうではない」という意味であり,「そうしようとする」「そうなるだろう」

の意味が含まれていたのではないか。『孟子』の,「浩然の気」を問われての,

いわく言い難し,

がそれをよく表している。「言葉で言い表しようがない」という意味である。「曰く」の意味を見ると,

言うことには,
言うには,

という意味が,わけや,仔細という意味の他にある。

いわく因縁,
いわくつき,

というとき,

「ものごととの背後にある由来やいきさつ」
「何か特別の事情(前科や犯歴等々)のあること」

は,まだ「謂れ」にはなっていない。ここで,それを語り手が,言わないかぎり誰も知らない理由,ということである。それをこれから話すことで,「謂れ」になっていく。その意味で言えば,

謂れ,

曰く,

とは,まったく別のものではないか。とすると,一見,

謂れ因縁(物事の背後にある由来やいきさつ)

曰く因縁(物事の起こった由来)

と書くと,同じように見えて,まったく違うことになる。そうなると,

「謂われもなく」

は,何となくだが,その謂われのなさの意味がもう少し深まる気がする。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)








今日のアイデア;
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2015年05月07日

たちまち



DSC07318.JPG


「たちまち」は,

忽ち

と当てるが,辞書(『広辞苑』)には,

一説に,原義は「立ち待ち」,立って待っているうちにの意,

と,注記し,

にわか,
急に,
すぐ,

という意味を並べる。別の辞書(『大辞林』)は,やはり,

「立ち待ち」の意からか,

と,断って,

非常に短い時間のうちに動作が行われるさま。すぐ。即刻。
思いがけなく、ある事態が発生するさま。にわかに。急に。
(多く「たちまちに」の形で)現に。確かに。まさに。

という意味を並べる。古語辞典では,

「立ち待ち」の意。立ったままで事の成るのを待つ意から,ごく短い時間を表す,

とある。語源的にも,

「立ち+待ち」

で,立ったまま待つうちに,その姿勢で待つうちに,

の意味とする。じつは,この「たちまち」に行き着いたのは,

月の名前,

を調べていて,

満月が十五夜(望月)で,
十六夜の月が,不知夜月(いざよいづき),
十七夜の月が,立待月(たちまちづき),
十八夜の月が,居待月(いまちづき),
十九夜の月が,寝待月(ねまちづき),
二十夜の月が,更待月(ふけまちづき),

と,だんだん月の出が遅くなり,立って待っているうちに,次に坐り,いずれにしても横になって待たないとならないくらい月の出は遅くなり,ついには,夜更けに昇る,という次第。

立ち待ちは,

立ったまま待つ,
あるいは,
其のときになるまで眠らずにいる(『大言海』)

という意味だが,

立待月,

の略でもある。「立待月」は,

「立ち+待ち+月」

で,立って待っているとほどなく出てくる月,を指す。

なんとなく,「立待月」から,「たちまち」が出たと思いたいが,そもそも,

観月,

つまり月見の慣習は,中国に由来する。とすると,それの前後,

十三夜の十三夜月(じゅうさんやづき),
十四夜の小望月(こもちづき),

から,二十日まで,こまかく指折り数えていくのは,日本的だ。「立ち待ち」をそれに当てただけだろう。まあ,

立って待っている間に出る,

という,時間間隔なのだろう。現代人の感覚だと,だんだん,満月に向かって,月の出が遅くなり,立ち待ちどころか,イライラしてしまうが,その待つ間を楽しむ,という感覚だったに違いない。

因みに,「忽」の字の「勿」(ブツ)は,

吹き流しがゆらゆらとして,はっきり見えないさま,

を描いた象形文字。「忽」は,「心」を加えて,

心がそこに存在せず,はっきりしないまま見過ごしていること,

という。これだと,「たちまち」というより「うっかり」「ぼんやり」の気がするが,意味を見ると,

いつの間にか,
うっかりしている間に,

という意味。つまりは,一瞬気がそれ,ぼっとして,また元へ戻ってきた感じであろうか。我に返ってみれば,

ほんののつかの間,

である。裏返せば,

たちまち,

か。

乱は忽ちにする所より生ず,

という。主観的には,たちまちだが,うっかり,ぼんやりは,放心の時間である。「忽」(こつ)はまた,単位でもある。

10-5(10万分の1),糸の1/10,微の10倍に当たる,

微(わずか)の十倍である。因みに,須臾は,

10-15(1000兆分の1)

だそうだ。







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2015年05月08日

やま



023-mountain-2000-color.jpg


やまは,



だが,

山を掛ける,
とか
山を張る,
とか
山を当てる,
とか
山勘,

という言い方の「山」は,どこからきているのだろう,直感では,

山勘

の山が,山師から来ているのではないか。山師は,

鉱山師の略,

とある(『大言海』)。つまり,

鉱物の鉱脈を探っている人,

となるが,山事,つまり,

投機的または冒険的な事業,

をしている人から来ているのだろうか。

山勘,

は,あてずっぽうという意味だが,語源には諸説があって,

例の山本勘助から来ている,という説,
山を掛けた,勘,という説,
山師の勘,という説,

と,(山本勘助説は,山を張るが使われ出した近世以降とは時代が合わないので)どうも堂々巡りする。そのそも「やま」というのは,

野や里に対して,人の住まない所,

という意味で,語源的にははっきりせず,

「ヤマの二音節を分析せず,一語其のものとしてみる」

として,

高くそびえ,盛り上がったところがやま,

である。

神が降下し,また神が領有する神聖な地として信仰の対象,

とされ,近畿では,都を守る山として,比叡山を指す。よく,山車や山鋒を,

やま,

といったりするのは,そこから来ている。「やま」の意味は,

平地より高く隆起した地塊。通例,丘より高いもの,

を言う。で,山になぞらえて,

うず高く盛ったもの,
や物事の絶頂,

といった用例の他に,

(山師の仕事のように)万一の幸を願ってすること,

というのがある。「やま」のもつそういう意味は,

鉱山師が,やま(鉱山)を賭ける,

という意味から派生したとみるのが順当なのだろう。いまや,山師は,

ペテン師,

とほぼ同義になっている。

やま

自体は,本来神聖なもので,山そのものがご神体と考えてきたのだから,ある意味,そういう信仰心の薄れたところから,山自体が,投機の対象に堕した時期以降に,「山勘」の「やま」の意味が生まれたのだろう。

かつては,

山上がり,

という言葉があり,野辺の喪屋に忌籠りする意味の,「山」であった。いまや,たとえば,

山出し,

は,

山から材木・薪・炭などを運び出すこと。またその運び出したものや運び出す人足
田舎の出身であること。田舎から出てきたままで洗練されていないようす。

という意味だが,本来は,「やまいだし」で,

山から運び出す,

という意味である。後者の田舎者は,江戸時代以降である。戦国期を抜けて,山は,いつの間にか,金儲けの対象であり,山は,それにつれて,意味が蔑視に変っていくように見える。

宝の山

ごみの山

借金の山

となり,

山分け

の山に成って行く。山勘は,あるいは,鉱山師の目利きを意味したのかもしれない。しかし,山のイメージが変るにつれて,いかがわしい意味に堕していった,そんなことを想像してみる。






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2015年05月11日

ひとりぼっち


ひとりぼっちは,

ひとりぽっち,

とも言うが,

ひとり(独り,一人)+法師

つまり,

ひとりぼうし,

の訛ったもので,本来,

独法師

とあてる,という。で,

一人住みの法師,

から,

世間から取り残されてただ一人でいること,

という意味に転じた。法師は,

ほうし,

と読むが,法は,呉音ホフで,

ホフシ

とするのが正しいとある。で,

仏法に精通して人の師となる者。また僧の通称,

とある(『古語辞典』)。また,独法師は,

宗派・教団に属さなかったり,世俗を離脱した僧侶の境遇を称した,

とも言われるから,「ひとり」ということが強調されると,

ひとりで,
とか
ひとりだけで,

という感じになる。ぼっちは,

ぽち

の促音化したもの,とあり,

ぽっち

に同じとして,

指示代名詞や数量をあらわす名詞に付けて,「わずか~だけ」の意味になる。たとえば,

百円ぽっち,

というように。「ぽち」には,それに,

不足の気持ちを表す,

ともあるから,「たったこれっぽっち」という言い方には,その多寡の少なさを,言っている。

その意味では,まあ,多くは,

独法師

が,

ひとりほうし,
 ↓
ひとりぼっち,

と訛ったものとしているが,僕には,

(たった)ひとりぽっち(で),

という孤独な感じから,

ひとりぼっち,

となったと考えた方が,妥当のような気がする。で,

独法師

という文字を後から当てたのではないか,と勘繰りたくなる。

しかし,法師には,『広辞苑』も『大言海』も『古語辞典』も,

男の幼児,

という意味が載っている。昔男の児は頭髪を剃ったからと言う。だから,

ぼう,

とも読んだとある。(いまはどうか知らないが,かつては)確かに,男の子を,「ぼうず」とか「ぼう」と読んだ。『大言海』には,

昔男の子は,頭髪を剃れり,

と説明の後,

ぽっち,
ぽんち,

とある。ぽっちは,

坊稚

と当てて,法師の転,とあり,「ぽんち」は,やはり,

坊稚,

と当てて,法師の転で,法師の意味の,

男の子

を意味させている。つまり,ここからは,

一人でいる男の子,

という意味が浮かんでくる。その場合,法師は,僧のことではなく,

男の子,

を指し(そう言えば,自分の息子のことを「うちの坊主」という言い方もする),そういう意味で,独法師は,

一人でいる男の子,

を指し,その転じたもの,ということになる。だから,文字通り,「独法師」の転じたことには変わりはない,か。

と考えてきて,ふと思い出したが,例の,

だいだらぼっち,

のことである。柳田國男が,

別名,ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味である,

としている。この場合,「ぼっち」は,「法師」である。

だいらんぼう,
でいらんぼう,
デエダラボッチ,
デイラボッチャ,
タイタンボウ,
大太郎坊,

の「坊」に意味があるのではないか。『広辞苑』には,区画(「坊」は,「土+方」で,堤防の防と同じで,堤や壁で後に,四角く区切った街路の意,)や僧侶,男の幼児の意味の他に,

有る語に沿えて,親しみまたは嘲りの気持ちを込めて「~な人」「~する人」の意を表す語,

とあり,

風来坊,
けちん坊,
朝寝坊,

の使い方がある。「だいだら法師(ぼっち)」の「坊」は,それだろう。とすると,ぽっちには,

ひとり,

という意味と,

たったひとりぽっち,

という孤独感と,ひょっとすると,

嘲り,

の(「やぁい,ひとりぼっち」といった)ニュアンスがこもっていることになる。

参考文献;
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)辞典
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)








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2015年05月12日

手古


手古の人,

という言い回しがあって,よく分からなかった。辞書を引いてもわからない。ところが,ネットで,

手古

を引くと,

手古摺る

と出ている。てこずるとは,

処置に困る,
とか
もてあます,
とか
閉口する,

という意味だ。それならよくわかる。それを,『広辞苑』で引くと,

梃摺る

と当てている。そして,こう言う説明がある。

「安永1772~1781頃から始まった流行語」

語源には,諸説ある。

「テコ(梃子)+スル(摺る)」で,対象が大きすぎたり,重すぎたりして,支点が取りにくく,扱い兼ねる,

「テコ(梃子)+ズレルの意のズル」で,梃子の視点がずれて扱い兼ねる,

手助けをする者のことを「てこ(手子)」といい,手伝いの手を煩わせること,

手の甲を摩るという意味,

等々。いずれにしろ,

手子は,梃子とも当てる。

「手助けをする者。鍛工・土工・石工などの下回りの仕事をする者。てこの衆」

という意味で,「梃の衆」あるいは「手子の衆」は,

梃を使って働く人々,土工,石工など,下働きの人。手子,梃の者。

である。たぶん,岡本綺堂は,『半七捕物帳』で,その「手子」の意味で,「手古」を当てて,「手古の人」と使ったのだろう。しかし,

手子

に,梃子とも,梃とも当てているところから考えると,「手子」は,梃子の意味からの流用の可能性が疑われる。「梃の衆」が,梃を使う人であったことが効いているようだ。

手古

の字では,

手古舞

というのがある。「梃舞」の当て字,とある。ここでも,「梃」である。『広辞苑』には,

「江戸時代の祭礼の余興に出た舞。もとは氏子の娘が扮したが,後には芸妓が,男髷に右肌脱ぎで,伊勢袴・手甲・脚絆・足袋・草鞋を着け,花笠を背に掛け,鉄棒を左に突き,右に牡丹の花を描いた黒骨の扇を持って,あおぎながら木遣を歌って神輿の先駆けをする,」

とある。しかし,本来は,手古舞は,

山王祭や神田祭を中心とした江戸の祭礼において,山車を警護した鳶職のこと,

といい,もとは「てこまえ」といった。現在は,この「てこまえ」の姿を真似た衣装を着て祭礼その他の催し物で練り歩く女性たちのことをいうようになった。「てこまえ」とは,

梃子前,

と書き,

木遣りのとき、梃子を使って木石などの運搬を円滑にする役

を指す。言うまでもなく,木遣りとは,

1202年(建仁2年)に栄西上人が重いものを引き揚げる時に掛けさせた掛け声が起こりだとされる,

掛け声であり,それがが歌に変化し,江戸鳶がだんだん数を増やした江戸風を広めていった。今日,これが残っているらしい。

ここでも,「梃子」が生きている。ここでは,手伝い,という意味だろう。かつては,鳶や大工は,町内で何かあれば,必ず手伝いをしたものだ。だから,

てこずる

も,

手古摺る
手子摺る
梃摺る

と当てる。因みに,『大言海』は,「梃子擦る」を当て,

「梃の利かぬ意かと言う」

とある。かつては,結構当て字を平気でしていたので,元来が何であったのかが分かりにくくなっているが,

梃子でも動かない,

という言い方もあるから,本来,梃子から来たのに違いない。ま,

手伝いの手を煩わせる,

という意味である。手古舞(梃前)も,梃子も,お手古も,手伝いという意味では,人手を借りなくてはならない,という意味で,共通する。

それにしても,漢字は,よく意味を示す。「梃」の字は,

「木+廷」で,まっすぐ伸びた棒。「壬」は,人が真っ直ぐ立つ姿。その伸びた臑のところを一印で示した指事文字。似ているが「壬(じん)」とは別字。「廷」は,それに「廴(のばす)」を加えた字で,まっすぐな平面が延びた庭。

梃子,

つまり重いものを手でこじ上げるのに用いる棒である。日本語の「てこ」は,

「手+こじる」

つまり,テコジが約されて,テコとなった。漢字を借りただけである。その意味で,梃の比喩,

何かの目的のための手段,

という意味が,いろいろ広くつかわれた結果と考えれば,言葉は,なかなか奥が深い。

因みに,「てんてこまい」も,「天手古舞」と当て,語源は,

「テン(太鼓の擬音,てんつくてん)+テコマエ(梃前)」

で,

「木遣に梃を用いて運びやすくする人,祭礼で神輿の先頭に立って歩くもののこと,この梃前の「前(ヒト)」が転じて「舞」になり,忙しくて落ち着いていられない意となった」

とあるので,無縁ではない(もっとも異説もあり,「てんてこ」は,祭囃子や里神楽で用いる小太鼓のことで,その音に合わせてあわただしく舞う姿から「てんてこまい」と呼ばれたとしている)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
http://gogen-allguide.com/te/tentekomai.html







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2015年05月13日

朝っぱら


いつぞや,朝っぱらから,

ABE IS SLEEPING

の,のどかな映像を見せられて,

むかっ腹

が立った(それについては,http://ppnetwork.seesaa.net/article/416592147.htmlで書いた)が,この,

朝っぱら,の「ぱら」は,



だと言う。つまり,「朝っぱら」は,

「朝+腹」の促音化

で,朝食前の空腹状態が語源で,促音は,朝を強めた言い方になる,という。しかし,

むかっ腹

は,腹には関係なく,

ムカマカ(擬態語)+パラ(腹が立つ)

で,

わけもなく腹が立つこと,

という説明になっている(『日本語源辞典』)が,いまいちしっくりしない。別に調べると(『広辞苑),

ムラバラの促音化,

とある。で,「むかばら(向腹)」を調べると,

むかむかと腹を立てる,

とある。だから,「朝っぱら」も,

朝腹,

で調べると(『古語辞典』),

(促音が入って,アサッパラともなる)

とあり,

朝食前のお腹,

という意味と,

極めてたやすいこと,
朝飯前,

の意味が載っている。ついでに,「朝飯前」を調べると(『大言海』),

朝起きてより,朝食を食う前,
僅かなる間隙(ひま)に言い,たやすきことに言う,

とある。どうやら,朝飯の前というのは,

腹の減った時間,

という意味と,

(食べるまでの)僅かな時間,

という意味とがあり,まあ,そのぐらい簡単にできる,というニュアンスがある。その意味では,その時間は,お腹のすいた,余り機嫌のよくない,エネルギーのない時間,という意味もあるかもしれない。

因みに,「はら(腹)」は,

ハラ(張る)の変化,

という説がある。人の盛り上がった部分で,飲食したり,胎児を宿したりしてハル(張る)ところ,という意味である。いまひとつは,

「ハラ(原)」

が語源で,人体の中で,広がって広いところという意味である。そうなると,「原」を調べないわけにはいかない(『日本語源辞典』)。これにも二説あって,

「ハラ(ハリ,開・墾・治・拓の音韻変化)が語源で,開墾して広がった地,

と,いまひとつは,

「ヒロ(広),ヒラ(平)」が語源で,ハルバル(遥々)やハラ(腹)と同源。広がった広い平地,

という意味になる。

念のため,「腹」の字を調べる(『漢字源』)と,右側は,「ふくれた器+夂(あし)」で,

「重複したふくれることを示す」

とあり,往復の「復」の原字,という。それに,「肉」を加えた,「腹」は,

腸が幾重にも重なってふくれた腹,

の意。異説(『日本語源辞典』)では,

「月(肉)+右側のつくり(覆う)」

で,体内部を覆い包むところ,という意味になる。「原」の字は,

「厂(がけ)+泉(いずみ)」

で,岩石の間の丸い穴から,水が涌く泉のこと。源の原字。水源であるから,「もと」の意味を派生するが,広い野原を意味するのは,原隰(げんしゅう),和泉の出る地,の意味から。ま,「原」が,

ひろびろとした,

という意味なら,「朝っぱら」は,

朝腹
よりは,
朝原

の方が,気分爽快で,朝飯前の気になるし,また,「向かっぱら」は,

向腹
よりは,
向原

の方が,なんとなく,とめどなく広がって,腹立ちが,根拠なく,雲散霧消していく感じで,いいのだが。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)








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2015年05月14日

ほどほど


ほどほどは,

程程,

と当てて,

それぞれの身分。身分相応,

丁度良い程度,適度,

という意味がある(『広辞苑』)。明らかに,後者は,前者に派生した,と思われる。前者は,結構古くから使われた言葉のようである。『古語辞典』をみると,後者の代わりに,

その都度,毎回,

が載っており,その頻度から,ちょうど良い,と言うニュアンスに転じたのではないか,と想像したくなる。『大言海』をみると,

(ほどを重ねたる語)分限に応じてなすこと,それ相応,

とある。で,「ほど(程)」の語源を見ると,

「ホ(含む)+ド(処)」

で,ある含みをもったところ,範囲,程度,

とある。実は,「程」は,『大言海』では,

物事の分限を言う接尾語。ばかり,だけ,

頃に,折に,

しか載っていないが,『広辞苑』や『古語辞典』にはものすごい量の意味がある。因みに,『古語辞典』には,

「奈良時代にはホトと清音。動作が行われているうちに時が経過,推移していくことの,はっきり知られるその時間を言う。道を歩くうちに経過する時間の意から,道のり,距離,さらには奥行,広さなどの空間的な意味にも使われた。平安女流文学では,時間の推移に伴って変化する物事の様子・具合・程度をいい,広く一般的に物事の程度を指すように使われた。中世になると時間の経過を言う意は減少し,時間の全体よりも,時の流れの到達点,時の限度の意に片寄り,時の中の一点を指すとともに,数量や程度の極度に目立つさま,あるいは限度などの意を表した。他方,平安時代には,経過する時間の意から発展して,時間の進展の結果を言うようになり,…ので,…からという原因・理由を示す助詞の用法が生じた。漢文訓読本では,動作や行為の持続する時間を示す『頃』『中』『際』はアヒダと訓んでいる」

と長い注記がある。「程」の字の影響かもしれない。

漢字の「程」の「呈」の下部の字(テイ)は,人間が直立したすねの所を‐印で示した指事文字。「呈」は,それに口を加えて,まっすぐにすねを差し出すこと。一定の長さを持つ短い直線の意を含む。「禾(いね,作物)」を加えた「程」は,禾本科の植物の穂の長さ。一定の長さ→基準→はかる,等々の意となった,とある。

「程」を辞書で引く(『広辞苑』)と,その意味の多様なことに驚かされる。おおまかに,

時間的な度合を示す(おおよその時間の経過,季節)
空間的な度合を示す(ほど遠い,の程を,広さ)
物事の程度や数量などの度合いを示す(程のよい人,見分,当たり,)
例示する意を示す(~されるほどの)

といった使い分けがある。「程」という漢字は,

目盛で測った度合(「程度」「程量」)
一区切りずつになったコース,物事を進めていく上の一定の基準(「過程」)
乗り,一定の決まり(「章程」)
みちのり(「道程」「行程」)
長さの単位(一程は,一分の十分の一)

で,日本語の「ほど」とは,かなりニュアンスが違う。どういうか,

ピンポイント,

ではないが,といって,その,

間(あいだ),

の幅がはっきりしていない,

という意味で,そのゾーンは,かなり曖昧である。しかし,

ほどあい(程度,ちょうどいい程度)
ほどがある(物事には程度がある,度をこすのをたしなめる)

というとき,一定の判断基準がある。だから,

ほどがよい,

は,「洗練されて粋である」という意味になる。その意味では,「ほどほど」は,似たニュアンスの,

そこそこ,
まあまあ,
まずまず,
チョボチョボ,

とは違う。ほどほどは,

そこそこ,

ではなく,いわゆる,

「中庸の徳たるや、それ至れるかな」

という中庸,というのに似ている。「そこそこ」ではないのである。そこそこについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/405919893.html

で書いた。そこで,ほどほどと対比をしたが,ただ真ん中,可もなく不可もない,中程度ではない。だから,「ほどほど」は,

節度,

でもあるし,過不足なし,というのが近いか。しかも,

無理がない,

のでなくてはならない。つまり,ほどほどは,意識しないと,保てないのである。

彼を是とし又此を非とすれば
是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け
心虚なれば即ち天を見る

この感覚である。ある意味,バランス,であるが,その洗練された感覚,という感じである。僕のように,中途半端に尖った人間のよくできる立ち位置ではない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)






今日のアイデア;
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2015年05月16日

仕方がない


「仕方がない」は,多く,

諦め,

の含意がある。語源的には,

「シカタ(手段。方法)+が+ない」

で,どうにもならない,やむを得ない,という意味である。

「理不尽な困難や悲劇に見舞われたり,避けられない事態に直面したりしたさいに,粛々とその状況を受け入れながら発する日本語の慣用句」

という説明がある。同義の表現として,

仕様がない,
やむを得ない,
せんない,
詮方ない,
余儀ない,
是非も無し,
是非も及ばず,

がある。どちらかというと,

他に打つ手がない,
そうする他ない,
避けて通れない,
逃げられない,
不可避の,

という色合いが濃い。「おのずから」そうなっている,という,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415685379.html

でふれた,無常観にも通じるのかもしれない。しかし,天災や天変地異ではない,人為のことにまで,そういうことで,自分を責任の埒から免れさせようとしている,責任逃れの色がなくもない。

織田信長が本能寺で光秀軍に取り囲まれた際,

「是非も及ばず」

と漏らしたと,『信長公記』にある。この場合はわかる。是非に及びようはない。そういう切迫した事態だとということではなく,

おのれが重用した惟任光秀が,

という意味では,おのれの所業の付けである。

あるいは,昭和天皇が,1975年,訪米から帰国した際に行われた記者会見で,広島市への原子爆弾投下について質問されて,

「遺憾に思っておりますが,こういう戦争中であることですから,どうも,広島市民に対しては気の毒であるが,やむを得ないことと私は思っております」

と答えたのも,過去のことだから,こうしか言いようはないのかもしれない。しかし,そういうことで,ご自身が開戦の詔を発したということについては,口を閉ざしている,という意味では,免罪符になっている,とも言える。

もっと言えば,まだ起きていなない,あるいは起きつつある,まさにその瞬間に,

仕方ない,

と言うのは,いかがであろうか。ここにもまた,自分たちの力ではどうしようもないのだから,どうしようもない,まさに,

長いものに巻かれろ,

式の諦観,というよりは,責任放棄である。

「しかた」は,

「サ変の連用形,シ(為)+方」

やり方,手段である。「仕方」は,だから,

なすべき方法,やりかた,
ふるまい,
(仕形とも書く)てまね,

という意味が載る。

まだ,いま,手は打てる,打てるのに,何もしない楽の方に,

いまだけ,
金だけ,
自分だけ,

の刹那の中に,逃げてしまうのは,後になって,

やむを得なかったね,

というのと同じである。敗戦の焼け野原で,

仕方ない,

と思えたから,いま生きている。いま命をつないでいる。しかし,

仕方ない,

と言えないまま,野面に,海に,山に,屍をさらした人は,その言葉をつぶやくことさえない。いま,その瀬戸際にある。おのれや,おのれの子が,そうなることを想定しなくてはならない。自分の子が,屍をさらすのを,

仕方がない,

などとつぶやくようでは,人間をやめた方がいい,かも。







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2015年05月17日

頭を抱える


頭を抱えるというのは,

良い考えが浮かばす,考え込む,

という意味だ。しかし,同じ意味で,

胸を抱える,

という言い回しを見た(岡本綺堂『半七捕物帳』)。思えば,考えたら,思い悩むのは,胸なのだから,

胸を抱える,

と言ってもおかしくはない。

「あたま」の語源は,

「当て+間」

で,鍼灸点のヒヨメキから,頭頂のことを意味し,のちに頭全体を指すようになった,と言うのが,ひとつの説。いまひとつは,

「ア(天・最上部)+タマ(丸い部分)」

が語源と言う説。江戸期に,カシラに代わって使われるようになった。では「カシラ」の語源は,というと,三説ある。

ひとつは,人間の肉体の上部を言う,「カ(上)+シロ(代)」。

いまひとつは,髪の毛の生えている人体部分を言う,「カ(髪)+シロ(代)」。

もうひとつは,中国語『頁』の別音katの転kasiに,諧音ラが加わったもの。

で,漢字の「頭」の字を調べると,「頭」の,「豆」は,

たかつき(食物を盛る脚付きの台)を描いた象形で,じっとひとところに立つ,

という意を含む(のちに,たかつきの形ををした豆の意に転用)。「頁」は,

人間の頭を大きく描き,その下に小さく両足を添えた形を描いた象形文字,

で,「頭」「額」「顎」「顔」等々の字に,あたまを示す意符として含まれている。そこで,「頭」は,

「頁(あたま)+豆(じっとたつたかつき)」

で,真っ直ぐ立っているあたま。

では,「胸」の語源はというと,

「ム(身)+ネ(幹)」

で,人の根幹をなす部分である。首と腹の間の前面。心,思い,の意。

「胸」の字は,もと「匈」と書く。「凶」の字の,「凵」印がくぼんだ穴を表し,「×」印はその中にはまり込んで交差してもがくことを表す。「匈」は,空洞を外から包んださま。胸は,

「肉+匈」

で,中に空洞を包み込んだむね。肺のある胸郭は,うつろな穴である,とある。

で,両者の使われ方をみると,

頭は,

頭が上がらない,
頭が固い,
頭が切れる,
頭が下がる,
頭ごなし,
頭でっかち,
頭にくる
頭に浮かぶ,
頭の中が白くなる,
頭を絞る,
頭を悩ます,
頭をはねる,
頭を冷やす,

とある。しかし,胸の方は,

胸が熱くなる,
胸が痛む,
胸が躍る,
胸が焦がれる,
胸が裂ける,
胸が騒ぐ,
胸がすく,
胸がつかえる,
胸が潰れる,
胸が詰まる,
胸がとどろく,
胸がふさがる
胸が悪い,
胸に当たる,
胸に余る,
胸に一物,
胸に納める,
胸に刻む,
胸にこたえる,
胸に据えかねる,
胸に迫る,
胸に手を置く,
胸を痛める,
胸を打つ,
胸を躍らせる,
胸を借りる,
胸を撫で下ろす

等々とあって,頭が思考なら,胸は,心や心立て,器量と言った人の心情,心意気まで含む。

そう考えると,頭を抱えるは,思考の煮詰まった感じだが,胸を抱えるというと,もっと広く,勘働きも含めた広い思いが行き詰まった,という感じになる。

頭を抱える,

よりは,

胸を抱える,

ほうが,抱えているものの方が深刻な気がするが,いかかであろうか。別に大きさや重さで比較すべきものではないだろうが,それが解けたときは,胸がほどけた方が,気が軽く,視界がより開ける気がしてならない。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)





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2015年05月19日

のたうつ


「のたうつ」は,

ヌタウツの転,

とある。

苦しみもがいて転がりまわる,
のたくる,

という意味である。しかし,『大言海』をみると,「のたうつ」は載っていなくて,「ぬたうつ」で,

「沼田打つ」

と当てて,

「うつは,寝がえりなどする意。またヌタラウツとも云う」

とあって,

猪,草を集めたる上に転がり臥す,賻顚(輾転)。(かるもかくの条,見合わすべし)
人にも言いて,ぬたくる,のたくる,のたうつ,もがく,

とある。人に使うのは転用したものらしい。で,

「かるもかく」

を調べると,「かるも」は,

枯物(かるもの)の略かという,

とあって,枯草を当てる。で,「かるもかく」は,

枯草掻

と当てて,

枯草(かるも)を掻き集めて臥す。猪の眠る時することなり,かるもの床,臥猪(ふすい)の床などと言いて,心安く眠るものなれば,和歌に多くその意に寄せて言う。

とあって,

かるもかき,臥猪の床の寝(い)を安み,さこそ寝ざらめ,かからずもがな,

かるもかく,猪の名の原の仮枕,さても寝られぬ月をみるかな,

の例が載っている。

で,(『大言海』では)「ぬたくる」は,「ぬたうつ」の転とあり,意味として,

うねり転がる。もがきまわる。のたくる。

と,はや,もがくの意味に転じているが,併せて,

塗りつける,筆に任せて書く,

の意がある。この使い方は,いまも,確かにある。ただ,

「ぬた」

は,「沼」で,「沼田」を当て,ぬまた(沼田)に同じとある。『古語辞典』で,「ぬた」を見ると,沼地の意味の他に,

泥,泥土,

と併せて,

魚肉・野菜などを酢味噌であえたもの,

とあり,その他,

しまりがなく,だらしないさま,
ぐうたら,

とある。どうやら,「のたうち」は,

蜿うち
とか
蜿くる

とも当てたりするが,本来は,猪の寝姿を指し,どうやらゆったり眠る,と言うニュアンスが強かったのが,そこに,外見の,というかあまり見栄えの良くない様子から,だらしないに,転じた,というのは推測がつく。酢味噌和えの「ぬた」も,「ぬた(沼)」のイメージからの転用なのもまあ,想像がつく,しかし,のたうつの,

苦しみ,もがきまわる,

という意味はどこから来たのだろう。語源を調べると,

「ノタル(くるしみ)+打つ」

とある。しかし,ヌタウツから来ているのだとすると,この語源は,僭越ながら,ちと,疑わしい。

むしろ,「のた(沼)」と輾転との関連から,

沼にはまってもがく,

という意味と重ねたのではないか,というほうが,言語感覚に近い。『古語辞典』には,

ぬたうち

にだらしない意味はあっても,もがき苦しむ意味はない。で,「ぬたうち」の次項に,

「ぬたくり」

があり,そこに,

泥の中をくねりまわる,

とある。猪と沼が,ここではつながっている。因みに,『語源辞典』には,併せて,

「のたりのたり」

の語源は,「ゆるくうねる様子の擬態語」とあるが,「うねる」の状態を指したものだろう。『古語辞典』に,

のたり

は,ゆったりしたさま,とあり,「のたり」は,別項で,

のたくる,這う,

とある。「のたり」は,とすると,

「のたり」

「ぬたり」

がどこかで,混用されたのではないか,そしてもがき苦しむ様子と重ねあわされた,と想像する。ま,素人の勝手な妄想だが。言葉は,面白い。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)






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2015年05月20日

はやて


はやては,普通,

疾風



という字を当てる。「颶風」を当てるのもある。「て」は,風の意,らしいので,

急に激しく吹き起こる風。寒冷前線に付随することが多く,降雨・降雷をともなうことがある。急風,陣風,はやち,

と辞書(『広辞苑』)にはある。『大言海』には,「はやて」は,疾風,迅風を当て,「はやち」を見よとある。で,

速風(はやち)の義,「ち」は,風の古語,

さらに,

野分の風は,疾風の一種なり,

とある。風の語源を見ると,

「カ(気)+ゼ(風)」で空気の動き,

という説と,もうひとつ,

駈け,馳せ,駈け,の変化,天翔けるもの,空高くすかけるもの,

という説が載っている。「チ」に風という意味が,ない。ただ,「ち」は,『古語辞典』には,

激しい勢いで吹く風。複合語に使われる,

とあって,「東風(こち)」「はやち」の例が載る。「ち」は,風の中の特殊なものということになる。で,風が気になりだした。手始めに,「風」の字。

風の字は,大鳥の姿。鳳の字は,鳳が羽ばたいて揺れ動くさまを示す。鳳と風の原字は,まったく同じ。中国では,鳳を風の使い(風師)と考えた。風は,「虫(動物の代表)+凡」。「凡」は,広く張った帆の象形。はためき揺れる帆のように揺れ動く風を表す。

という。和語の「かぜ」は,漢字の「風」の字の影響が強い。個人的には,この字以外に思い浮かばない。しかし,「風」の音は,「フウ」(呉音)「ホウ」(漢音)なのである。

気になって,漢字の「風」からみを調べてみると,

颪(国字,上より吹き下ろす風),
颯(さっと風の吹くさま),
颱(中国の南海に起こる暴風),
颶(つむじ風),
飄(つむじ風,急に激しく起る風を飄風と言う),
颮(あらし),
飃(風の貌,つむじ風),
颺(吹き上げる),
飅(微風の声)
飆(つむじかぜ,荒い風)
颭(風が吹いて波立つ)
颸(すずかぜ)

等々,まだまだあるらしい。風の種類ごとに作ったのではないか,と思わせるほどある。我々が,「颪」という字を作ったように。たぶん,広大な大地の風は,伊吹下し,赤城おろしというような風の感覚ではなかったのだろう。

その意味では,我々も,「和語」で,風の種類ごとに作っている。その辺りは,「風の名称辞典」

http://www5a.biglobe.ne.jp/accent/kaze/na.htm

に詳しい。

風は,空気の流れ,あるいは流れる空気自体のことであるから,空気のそよぎ,揺らぎがあれば,どこでも風に名がつく。名をつけることで,それを認知した証になる。名づけることで,それが,自分の世界の中のものになる。

風向によっては,

北風,南風,東風,西風

と呼び,その強さや感じ方で,

そよ風,春風,強風,突風,

と呼び,それは場所によって,

海風,陸風,潮風,谷風,出し風,颪,ビル風,

となり,地域によって,

からっ風,春一番,木枯らし,六甲颪,やませ、

呼び変る。まあ,望ましくないが,

竜巻,塵旋風(つむじ風・旋風),乱気流、砂嵐,

も風である。風は,

「一般的には低気圧・高気圧の通過といった総観スケール気象による変化(約4日周期)が最も大きく、次に季節変化によるもの(1年周期)が大きい。またこれと並んで、『風の息』と呼ばれる小刻みな風向風速の変化によるもの(約1秒周期)も卓越する。海陸風の影響を受ける地域では、約12時間周期の変化も卓越する。」

とされ,強風,突風は,

「『強風』と呼ばれる風は、数十分~数日間程度連続する風速の大きい風を指す。強風の大きさを表す数値としては最大風速が適している。」

「『突風』と呼ばれる風は、数秒~数分程度の短時間吹く風速の大きい風を指す。このような風は、強風の期間中において、気流の乱れつまり風の息によって突発的に生じるものがほとんどである。」

と定義されるが,後から,あれば「竜巻」であったなどと,知らされても,それを風とは思えないのが人情だろう。

それにしても,「はやち」の「ち」が,「風」だとすると,「やませ(山背)」の「せ」は,なんだろう。調べると,

「ヤマ(山)+セ・チ・ジ(風)」

とある。山を越してくる風の意だが,「背」は,当て字らしい。どうも「ち」のなまったものなのだろう。で,調べると,

煽(あおち)風(物がばたばたして起こる風),
朝東風(あさごち 春の朝に吹く風),
あなじ(乾風 冬に近畿以西で吹く,船の航行を妨げる強い北西季節風。あなぜ。あなし),
追風(おいて 追い風),
おぼせ(淡路,伊勢,伊豆などで4月頃の日和の時に吹く南風),
強東風(つよごち 春,東から吹く強い風),
盆東風(ぼんごち 夏の終わりに吹く東風。暴風雨の前兆という),
まじ(真風 西日本で南または南西の風をいう。桜まじ。まぜ) 。
南東風(みなみごち 東のやや南寄りから吹く風),
東風(こち 東の方から吹いてくる風。特に春の東風,梅東風,桜東風等々),
星の入東風(ほしのいりこち中国地方で陰暦10月ころ吹く初冬の北東風),

等々,「ち」が,「て」「し」「じ」「せ」に訛っている。そう言えば,「東風(こち)」といえば,

東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな

というのがあった。そのほかに,「はえ」と「ならい」がある。

黒南風(くろはえ 梅雨入りの頃,どんよりと曇った日に吹く南風),
白南風(しろはえ 梅雨明けの頃,南から吹く風)

等々。「はえ」は,「南風」と当て,語源は,

梵語「vayu(風神)」

で,沖縄,西日本は,「南は前」の意識があるので,マヘ,ハエは同じ,と見られている。「ならい」は,

冬に吹く強い風。東日本,特に三陸から熊野灘に至る海岸で言う,

とあり,「ならい風」と言い,

筑波東北風(つくばならい 筑波山の方から吹いてくる北風),

がある。まあ,言葉が,文化だということがわかる。地域ごとに異なる。言葉によって,あるいは,その言葉を使う人にとって,独特の風景が見え,季節が見える。

ヴィトゲンシュタインの言う通り,ひとは持っている言葉によって見える世界が違う,とはまさにこのことだ。もう一つ付け加えるなら,持っている漢字によっては,もっともっと見える世界が違う。「かぜ」というのと「風」と言うのとでは,風景が違ったはずである。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)







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2015年05月25日

無知


確か吉本隆明の口癖は,

無知の栄えたためしはない,

であった気がする。

ロラン・バルトによれば,

「『無知』とは知識の欠如ではなく,『知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態』」,

を言うそうだ。逆に言えば,

「自分はそれについてはよく知らない」

と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことを、とりあえず黙って聞く。

確か,神田橋條治氏は,

優れた人ほど(この場合セラピストないし精神科医を指す),知らないことは知らない,と言える,

と言っていた。そうすれば,相手は,喜んで教えてくれる,と。勝海舟も,

主義といひ,道といつて,必ずこれのみと断定するのは,おれは昔から好まない。単に道といつても,道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは,おれの取らないところだ。

という。発想力とは,

選択肢をたくさん持てること,

であると信じている。。確かに,吉本の言うように,

知ることは,超えることの前提である,

けれども,その「知」とは,

Knowing that

だけではなく,

Knowing how

を持ったものだし,もっと言うと,

Knowing howのKnowing that

を持つことだ。それは,現実を捌き,新しい事態を切り抜けるだけではなく,

未知の視界

を拓いていくものでなくてはならない。だから,知識を得るとは,

見たこともないパースペクティブ

を手に入れることだ。前にも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/403368447.html

で書いたが,無知とは,辞書的には,

知識がないこと
智恵のないこと

とあるが,どうもそういうことではない気がする。確かに,

無(ない)+知(知る)

で,知らない,ということに違いないが,中国語源では,

無恥

つまり,

無(ない)+恥(はじ)

恥知らず,の意味だという。だとすると,なかなか意味深で,確かに,

知らないこと

ではなく,

知らないことを知らないこと,

と考えると,無知は無恥に通じる。

子曰く,由よ,汝に知ることを誨(おし)えんか,知れるを知れるとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり。

と,孔子が,由(子路)にこう諭したのも,そう考えると意味深い。

しかし,だ。「知らざるを知らず」とするのは,そういうほど簡単ではないのだ。何を知らないかがわかるというのは,知についてのメタ・ポジションが取れることだ。そんなことがたやすくできるはずはない。

別のところで,孔子は,自分自身は,「生まれながらにして之を知る者」ではなく,

学んで之を知る者

であると言っているが,「学んで之を知る者」の次は,

困(くる)しみて之を学ぶ者

であるという。しかし,問題は,何を,どう苦しめばそうなれるかだ。個人的には,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415067457.html

で書いたことと重なるが,

問い,

だと思う。答ではなく,何を問うたか,である。

「問う、如何なるか是れ、近く思う。曰く類を以って推(お)す」

である。

「如之何(いかん)、如之何と曰わざる者は、吾如之何ともする末(な)きのみ」

とはそれである。清水博氏の言われる,

「創造の始まりは,自己が解くべき問題を自己が発見すること」

である。それは,吉本の言う,

「沈黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです。」

であり,それは,

「 自分と, 自分が理想と考えてる自分との, その間の問答です。『外』じゃないですよ。 つまり,人とのコミュニケーションじゃ ないんです。」

であり,この場合,コミュニケーションとは,対話であり,それを読書や講義と置き換えてもいい。

参考文献;
清水博『正命知としての場の論理』(中公新書)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
吉田公平訳注『洗心洞箚記』(たちばな教養文庫)







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2015年05月29日

ちゃらい


「ちゃらい」は,

「チャラい」

とも表記する。

俗に,服装が安っぽく派手なさま。ちゃらちゃらしているさま。
また,
軽薄で浮ついて見えるさま。言動が軽薄で浮ついていること,

という意味である。

http://zokugo-dict.com/17ti/charai.htm

によると,

「チャラいとは言動が軽い様を表す俗語『チャラチャラ』を略し、形容詞化する接尾語『い』をつけたもので、言動が軽く浮ついている様や服装が派手で安っぽい様を表す。チャラいは1980年代に使われ始めた言葉で、徐々に使用度が減っていたが、近年、同様の意味で再び若者に使われるようになっている。」

とある。「ちゃらちゃら」というのは,

「小さな薄い金属片などが互いに触れあったり,他の堅い物に当たったりしてたてる音。またそのさまを表す語。」
「よどみなくしゃべるさま,多弁なさま。べらべら。」
「浮ついた態度や軽薄なそぶりで気取るさま。また、服装が安っぽく派手なさま。」
「雪駄の裏の金属を響かせて急ぎ往く足音。」
「女がしなをつくりながら歩くさま。派手で安っぽいさま。落ち着きなく,軽薄なさま。」

といった意味がある。そもそも「ちゃら」というのが,

口からでまかせに,出鱈目をいうこと,また,それを言う人,
偽物,
差し引きゼロにすること,

という意味で,「ちゃらちゃら」自体に,その「ちゃら」を強調する気味がなくもない。そのせいか,

ちゃらかす(出鱈目を言う,冗談を言う)
ちゃらくら(口から出まかせを言う)
ちゃらける(チャラを言う,出鱈目を言う)
ちゃらつかす(出鱈目を言ってごまかす,ちゃらちゃら音を立ててある意思を示す)
ちゃらっぽこ(でたらめ,うそ。またでまかせを言う人)
ちゃらほら(「ほら」は接尾語。口から出まかせを言う)

「ちゃら」に関わる語は,あまりいい意味はない。で,少し語源を調べたが,たとえば,

「ちゃらかす」は,「チャラ(ふざける)+カス(接尾語動詞化)」

とある。「か」は,接尾語で,

カアヲ,カボソシなど,接頭語のカと同根(接頭語「カ」をみると,アキラカ,サヤカ,ニコヤカなど接尾語カと同根,とある),

で,

物の状態・性質を表す擬態語の下につき,それが目に見える状態であることを示す(「のどか」「ゆたか」「なだらか」「あざやか」など。後に母音変化を起こして。「け」となり,「あきらけし」「さやけし」などのケとして用いられ,「さむげ」などのゲに転じる),

とある。「ちゃら」な状態が目に見えるということを示し,動詞化した,ということになる。

因みに,「ちゃらんぽらん」は,

「ちゃらん(鉦の音)+ポラン(鼓や木魚などの音)」

まさにふざけて,いいかげんな出まかせの音,転じて無責任な態度の意。「ちゃらほら」「ちゃらちゃら」も同源としている。だが,上にも書いたが,「ちゃら」の意味に,擬音を当てはめた,という気がしないでもない。

「ちゃら」は,上記の「でまかせ」という意味だが,『古語辞典』には,「ちゃり」として,

ふざける,

という意味が出ていて,その名詞は,

茶利,

と当て,

滑稽な文句または動作,ふざけた言動,おどけ,
(人形浄瑠璃や歌舞伎で)滑稽な段や場面,または滑稽な語り方や演技,

という意味がある。「ちゃり」の動詞化の「ちゃら」という連想も捨てがたい。その連想で,「ちゃめ」というのが浮かぶ。「茶目」と当てるが,

子どもっぽい,滑稽じみたいたずらをすること,またその人,

という意味である。「茶色の目」がいたずらとはつながらないので,「ちゃ(ら)」からきているのではないか,と思いたくなる。。

そういう意味で,「ちゃら」に関わる語を拾うと,

おべんちゃら(口先はかりで実意のない世辞を言うこと,またその言葉,その人)
べんちゃら(口先だけで上手いことを言ってへつらうこと)
へいっちゃら(ものともしないさま,平気)
へっちゃら(ものともしないさま,平気)

と,まあ,口先三寸,でまかせ,無責任,という意味が,一貫している。

どうも,「ちゃら(い)」は,類語で言うと,

うすっぺら,
ぺらぺらな,
浅はかな,
軽い,
安っぽい,

というよりは,

嘘っぽい,
無責任,

というニュアンスが強い気がするのだが。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)








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2015年06月01日

はんちく


「はんちく」というのは,東京の方言らしく,

半ちく,

と書く。

中途半端,

という意味で,

何をやらしてもはんちくだね,
とか,
はんちくな仕事して,

という使い方をする。しかし,

http://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%AF%E3%82%93%E3%81%A1%E3%81%8F

(のみにしか出ていないが)によると,意味が転じて,

(転じて)閑散,

という意味にも使い,

「午前中だけで、学校はんちくだから。どっか遊び行こ?!」
「今日は店、はんちくで終(し)めぇだから、祭りでも見て来いよ。」

とある。どうも,この用例を見ると,

半ドン

の意味に見える。因みに,半ドンとは,最近使わなくなったが,

「土曜日など授業や仕事が半日で終わる日のことで『半分ドンタク』の略である(半ドンのドンが、当時、正午の合図に鳴らした大砲の音とする説があるが、明治始めにドンタクという言葉が流行していることを考えると、ドンタクの略が有力である)。1876年(明治9年)、それまでの1と6のつく日を休日(一六どんたく)にする形から、日曜を休日、土曜を半休(半分どんたく)という欧米にあわせる形をとった。翌年には半ドンと略した言い回しが普及。」(『日本語属語辞典』)

とある。「どんたく」とは,オランダ語(zondag zonは太陽,dagは日を意味し英語のsunday同様、ラテン語dies solisの直訳)の転訛で,

日曜日,
転じて
休日,

を意味する。博多どんたくの「どんたく」も同じである。その意味では,「はんちく」を一人前の半分とすると,「半ドン」の意味に転じた謂れもわからなくはない。それにしても,「はんちく」は,どこから来たのだろう。

「はんちく」と似た言い回しに,

なまはんじゃく,

というのがある。

生半尺,

と当てると,中途半端,いい加減,半(なから)半尺,といった意味になる。

生半熟,

と当てると,半熟を強める言い方で,未熟,生半可,を指す。もともと,



という言葉自体が,

半(はん)

二分の一を表す語。ある物の半分,
不完全であることを表す接頭辞,
奇数。なお、偶数を表す対義語は丁,

等々といった意味があり,半端とか,半可通とか,半熟といった使い方をする。「ちく」は,何かが訛ったものか,転用だと思うが,勝手な妄想をすると,「ちく」で連想するのは,

チクる,

の「ちく」である。「口(くち)」の倒語だが,半人前,というか,半人口を指しているのではないか,と考えたくなる。あるいは,「半畜」とあてたらどうであろうか。「こんちくしょう」「あんちくしょう」というときの「畜」である。

実は,子供の頃高山に住んでいて,そこの方言に,

はんちくたい

というのがある。もともとは,

歯がゆくていらいらする様を表現したもの,

だったようだが,

いらいらする,

にシフトし,いまでは

腹が立つ,

という意味で使われているようだ。僕の個人の言葉感覚では,歯がゆい,じりじりするというか,やきもきする,といったニュアンスで,悪意の表現ではなかった気がしているが,なにせ,半世紀以上前だから,意味も変わっている。

実は,これは,江戸弁から来ている,と言われているのである。飛騨は天領だから,代官が入れ替わり立ち代わり,江戸の風儀を持ち込んだせいだと推測される。そこで気になるのは,

「はんちく」

「はんちくたい」

のつながりである。「はんちく」な奴を見ていて,じりじりするところから,客体の表現から,主体の,はんちくな奴を見ている側の感情表現になった,と考えると,実に,長い年月をかけて,言葉が,生きている,と実感させられるのだが。

参考文献;
http://zokugo-dict.com/26ha/handon.htm
http://gogen-allguide.com/ha/handon.html
http://www23.atwiki.jp/hidagorin/pages/35.html








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:02| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする