2015年06月02日
をこ
「をこ」,つまり,現代表記で,「おこ」は,
痴
烏滸
尾籠
という字を当てるらしい。
愚かなこと。ばかげていること。またそのさま。
という意味になる。柳田國男は,
「人を楽しませる文学の一つに,日本ではヲコといふ物の言ひ方があった」
「人をヲカシと思わせるのが,本来はいはゆる嗚呼の者」
等々といったいるらしい(「鳴滸の文学」)。だから,「嗚呼」とも「鳴滸」とも当てるらしい。『古語辞典』を見ると,
ウコ(愚)の母音交替形,
とある。で,「うこ(愚)」をみると,
ヲコ(烏滸)の母音交替形,
とある。なんだか,同義反復のようだが,「をかし」との関係が,気になる。「をかし」については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/418220586.html
で触れたが,そこで,『古語辞典』に,
「動詞ヲキ(招)の形容詞形。好意をもって招きよせたい気がするの意。ヲキ(招)・ヲカシの関係は,ユキ(行)・ユカシ,ヨリ(寄)・ヨラシ(宜,ヨロシとも)ナゲキ(歎)・ナゲカシの類。ヲカシをヲコ(愚)の形容詞化と見る説もあるが,平安中期以前のヲカシの数多くの例には,ヲコ(愚)のもつ道化て馬鹿馬鹿しく,あきれて嫌に思う気持ちの例はなく,むしろ好意的に興味をもって迎えたい気持ちで使うものが多い」
とある。「をかし」の語源を,
「ヲコ(愚)の形容詞化」
という説を,そのとき,スルーしてしまったが,柳田國男の説を鑑みると,
動詞ヲキ(招)の形容詞形,
という方が,むしろ,もっともらしく見えなくもない。しかし,語源に言う,
古代語「ヲク(招・呼)」+シ(形容詞化)
で,思わず笑みがこぼれる心的状態になることをいう,とある。「平安時代の造語」とあり,
知的感動がある,
趣きがある,
という意味になる。始め,「をかし」は,滑稽の意味ではなく,
「あはれ」の対象に入り込むのとは異なり,対象を知的・批評的に観察し,鋭い感覚で対象をとらえることによって起こる情趣,
と,「あはれ」と対比して使われていたことを考えると,確かに,「をこ」から出たとするのは,「をかし」が,「可笑し」と当てられるような意味に変じてからの,後講釈に見えてくる。
「をこ」自体の語源は,
「ヲコ(蕃人の愚かな風俗)」
だとされている。「烏滸」が,
後漢時代の中国で,黄河や揚子江に集まるやかましい人たちを指していた,
とされる(http://gogen-allguide.com/o/okogamashii.html)
ので,それによると,
「やかましいことを烏に喩え,水際を意味する『滸』から『烏滸』と当てた」
という,中国由来のようだ。「尾籠」は,当て字で,鎌倉時代以降につかわれ,それ以前は,(柳田國男の当てていた)「嗚呼」が使われていた,という。それを「びろう」と音読して,和製漢語に変じた,という。当然意味も,
無礼,不敬,
汚く,汚らわしくて,人前では失礼にあたること,
と変じた。だから,現在,「おこ(烏滸)がましい」は,
出過ぎている,差し出がましい,
という意味で使われているが,本来は,
「オコ(愚か)+がましい」
で,
ばかげている,物笑いになりそうだ,
という意味だったらしい。ただ,ウィキペディアを見ると,「烏滸」で,
『記紀に『ヲコ』もしくは『ウコ』として登場し、『袁許』『于古』の字が当てられる。平安時代には『烏滸』『尾籠』『嗚呼』などの当て字が登場した。』
として,こうある。
「平安時代には散楽、特に物真似や滑稽な仕草を含んだ歌舞やそれを演じる人を指すようになった。後に散楽は『猿楽』として寺社や民間に入り、その中でも多くの烏滸芸が演じられたことが、『新猿楽記』に描かれている。『今昔物語集』や『古今著聞集』など、平安・鎌倉時代の説話集には烏滸話と呼ばれる滑稽譚が載せられている。また、嗚呼絵と呼ばれる絵画も盛んに描かれ、『鳥獣戯画』や『放屁合戦絵巻』がその代表的な作品である。」
とあり,烏滸芸,烏滸話,嗚呼絵,とあるのが,どうやら,冒頭の柳田國男の「鳴滸の文学」に言うことで,そこには,
「是はただ単にをかしいことばかり言って,人を笑はせようとした者のことであって当人自らは決して馬鹿ではなかった」
とある。芸なのであるから,当然である。しかし,烏滸絵については,
「男女の秘戯を描いた絵。古くは〈おそくず(偃息図)の絵〉〈おこえ(痴絵,烏滸絵)〉といい,〈枕絵〉〈枕草紙〉〈勝絵(かちえ)〉〈会本(えほん)〉〈艶本(えんぽん)〉〈秘画〉〈秘戯画〉〈ワじるし(印)〉〈笑い絵〉などともいう。」
とあるので,意味が転じていった結果なのかもしれにない。それは,
「南北朝・室町時代に入ると、『気楽な、屈託のない、常軌を逸した、行儀の悪い、横柄な』(『日葡辞書』)など、より道化的な意味を強め、これに対して単なる愚鈍な者を『バカ(馬鹿)』と称するようになった。江戸時代になると、烏滸という言葉は用いられなくなり、馬鹿という言葉が広く用いられるようになった。」
とある,「烏滸」から「馬鹿」に変じたことと重なるのかもしれない。
で,滑稽との対比が気になってくる。「滑稽」は,
「(『滑』は乱,『稽』は同の意。知力に富み,弁舌さわやかな人が巧みに是非を混同して説くこと,また『稽』は酒の噐の名,酒が器から流れ出るように弁舌の滞りのないことともいう)」
と注記があって,
面白おかしく,巧みに言いなすこと,転じて道化,諧謔,
馬鹿馬鹿しく,おかしいこと,
という意味になる。語源は,
「滑(なめらかに)+稽(はかる)」
という中国語が語源。で,
「滑稽(こっけい)は、中国古代の歴史書『史記』中の列伝の篇名として知られる用語であり、当時は、饒舌なさまを表した。後世、転じて笑いやユーモアと同義語として日本にも伝わり、滑稽本などを生んだ。
一説には、滑稽の語源は、酒器の一種の名であり、その器が止め処無く酒を注ぐ様が、滑稽な所作の、止め処無く言辞を吐く様と相通じるところから、冗長な言説、饒舌なさま、或いは智謀の尽きないさまを、滑稽と称するようになった、という(北魏の崔浩による『史記』等の注釈に見える)。」
と,ウィキペディアにはある。どうやら,「烏滸話」が「滑稽本」になったのではなく,「烏滸」が,「馬鹿」に堕していくにつれて,「烏滸話」は下ネタになっていったように思える。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月03日
アホ・バカ分布図
アホ・バカ分布図
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9B%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%AB%E5%88%86%E5%B8%83%E5%9B%B3
というのがあるそうである。しかし,似た言葉に,「あほ」のほかに,
たわけ,
をこ(烏滸),
まぬけ,
たわけ,
頓馬,
等々がある。「をこ」については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/419978918.html?1433187838
で触れたが,この言葉が気になるのは,子供の頃,(中部圏にはちがいないが)どこで覚えたかはっきりしないものの,
ばかの大足,小足のたわけ,ちょうどいい加減がくそだわけ,
という悪口というか罵りというか,「おまえの母ちゃんでべそ」の類である。しかし,地域によっては,
馬鹿の大足,小足のたわけ,
ではなく,
ばかの大足,小足の間抜け,
とも言うらしいのである。地域によっては,そのあと,
「ばかの大足,小足の間抜け,中途半端のろくでなし」
と続けるところもあるらしい。辞書では,「ばかの大足」は,
「大きな足は、ばかのしるしであるということ。大きな足をけなしていう言葉。『間抜けの小足』などと続けることもある。」
とある。ウドの大木,の類か。長く,「馬鹿」は,例の,「鹿を馬」というか,「鹿を指して馬という」という諺,『史記・秦始皇本紀』にある,という,
「秦の始皇帝が死んだ後、悪臣の趙高が自分の権勢を試そうと二世皇帝に鹿を献上し、それを馬だと言って押し通してみた。しかし皆が趙高を恐れていたので、反対を唱えた者はおらず、『鹿です』と言った者は処刑された。『鹿を馬』『馬を鹿』ともいう。」
という故事に拠っているものと思い込んでいたが,どうやら,
馬鹿,
は当て字らしい。「莫迦」とも当てる。
「梵moha=慕何(痴の意)、または梵mahallaka=摩訶羅(無智の意)の転で、僧侶が隠語として用いたことによる。また、『破家』の転義とも」
言われる。この場合,中国語で「破家」を当てるため,平安期の留学生が伝えた,と想定されているらしい。さらに,
「鎌倉時代末期頃から『ばか」の用例があり、室町中期の『文明本説用集』では、「母娘」「馬娘」「破家」に「狼藉之義也」と説明している。雅語形容詞である『はかなし』の語幹が変化したという説もある(金田一春彦ら)故事の『鹿を指して馬と為す』との関連については、『後付け』であり、語源とは直接関係ない。中国語の『馬鹿(マールー)』は『赤鹿(あかしか)』のこと。』
とある。『大言海』は,
「趙高が事は,欺きて侮蔑したる意とはなれ,愚なる意を為さず」
と簡潔である。その他語源として,
「おこ(woko)の関東方言。voko kkko bokko bako bakaの音韻変化」
というのもある。では,「間抜け」は,というと,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/395727101.html
で,「間(ま)」の意味について触れたように,語源は,
「マ(間・芝居や音楽での調子や調子)+抜け」
の,「変な調子の意」から来ている。転じて,他人と歩調が合わずテンポの狂ってしまう人を言う。
「とんま」は,
「のろまの当て字の『鈍馬』を読み誤ったものの変化」
で,頓馬は当て字。
「たわけ(もの)」は,
戯け
と当てるか,
田分け
と当てるかで意味が違う。「戯け」は,古い言葉で,『古事記』にもあり,
淫らな通い婚
を指したらしいが,後代は,ふざけること,馬鹿者,を指す。「田分け」は,
田地を分け与えて分家を出すこと,
という意味で,「たわけ」の語源に関わってくる。一説(渡部昇一)によると,
「封建時代,幾世代にもわたって財産である田地を分けると,その家は衰退する」
というところから,その愚かさを指している,という。こういう「聞いたふうな説」が一番いけない。
「『バカげたことをする』『ふざける』を意味する動詞『戯く(たはく)』の連用形が名詞となった。」
という語源が,まあ,素直ではなかろうか。
さて,そこで,「あほ(う)」である。語源には,
五山の禅僧が阿呆(アータイ)の漢語をアハウと読んだという説
関西方言の「アア,ホウカ」の音韻変化した説,応答が「アア,ホウカ(ケ)」としか言えないことを揶揄している。
始皇帝の阿房宮(項羽に妬かれたが,あきれたほど馬鹿でかく全焼するのに三か月かかった)説。
等々があるようだが,はっきりしていない。ただ,『大言海』は,
元来,あわう,若しくは,あばうなるべし。あわは,狼狽(あわ)つの語幹(狼狽(あわ)を食ふ)あわ坊の約。小狼狽(あわて)を擬人化したる語。とちめんぼう,同趣なり。新竹斎物語に「くだらぬ理窟,あわう口」,続松の葉に「恥を知らぬは,あほう坊」,またあわわの三太郎などもあり,但馬にて,あはあ,駿河にて,あっぱあと云ふ。あわて者は,まぬけ者なり。常に阿房と書くは,秦の始皇帝の阿房宮を,当字にするなり。あほは,約(つづめ)て云ふなり。山椒(さんしょお)をさんしょ,愛相(あいそう)をあいそがつきる。」
と書き,さすがにその見識を示している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%91%86
によると,「阿呆(あほう、あほ)」は,
「日本語で愚かであることを指摘する罵倒語、侮蔑語、俗語。近畿地方を中心とした地域でみられる表現で、関東地方などの『馬鹿』、愛知県などの『タワケ』に相当する。」
とある。そういえば,上記の,
ばかの大足,小足のたわけ,ちょうどいい加減がくそだわけ,
には,「あほう」はでてこないで,たわけが繰り返されている。僕には実感がないが,「あほう」「ばか」には,
「関東圏であほは馬鹿よりも語感が強く、使う相手やタイミングを考慮する必要のある言葉である。逆に関西圏では馬鹿よりも軽く、親しみの意を込めて使われることも多い。」
らしいが,それは(というかどの悪口もそうかもしれないが)両者の文脈次第で,「あほ」も「ばか」も「たほけ」も,愛情表現ということだって,ありうる。
ま,ともかく,考えてみると,僕の記憶している,
「ばかの大足,小足のたわけ,ちょうどいい加減がくそだわけ」
は,少し地域色が強すぎるのかもしれない。
「ばかの大足,小足のあほう,ちょうどいい加減がくそだわけ」
とすると,いくらか,全国網羅したことになる…か?
参考文献;
http://gogen-allguide.com/a/ahou.html
http://zokugo-dict.com/01a/aho.htm
http://gogen-allguide.com/ta/tawakemono.html
http://gogen-allguide.com/ha/baka.html
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月05日
へんてこりん
「へんてこりん」は,「へんてこ」で意味が通じる。
「変梃」とも当てるが,語源に絡んでいて,
「変+梃」で,梃の調子が悪いことから使い出した,
とある。「変なさま,奇妙なものや人」の意で,
へんちき
とも,
へんちくりん
とも,
へんてこりん,
とも言う。では,この「りん」という語尾は何か。「goo辞書」には,
「りん」は口拍子で添えた語,
とある。そういえば,
「ちんちくりん」
とか
「すってんころりん」
とも言う。「ちんちくりん」は,
背の低い人を嘲る語,
と
着物などの丈の足りない意,
とがある。語源的には,
「狆をもじった語」
だという。「ちんころ」とか言ったりする。本来は,だから,
背の低い愛らしい人,
という意だったようだ。富永一朗の「チンコロ姐ちゃん」は,多分そういう含意だ。しかし,それが転じて,
衣服が身体に比して小さすぎて珍妙,
という意になった。そこに,多少,あざけりのニュアンスがある。似た言葉に,
「つんつるてん」
というのがあるが,この語源は,
「突き+釣る+天」
で,
「足が突き出し,吊るような衣を着た天王を約した語」
なのだ,そうだ。だから,着物の丈の短い様子を言う。
「すってんころり」は,
勢いよく転ぶさま,
で,「すってんころり」ですむところを「ん」を付けた口拍子なのかもしれない。
「すってんてん」という語もあるが,
「ス(素)+天々(頭)」
の意で,頭にけが一本もないこと,から転じて,無一物になる意になった。「天天」は,いわゆる幼児語で,
頭
の意で,「おつむてんてん」と言ったりするところから来ているので,ちょっとと出自が違うようだ。。
似た言い回しで,
「あんぽんたん」
というのもある。語源的には,
「アホンダラを,撥音化して,薬名らしくもじったもの」
という説がある。江戸期の,反魂丹,万金丹をもじって,安本丹,とした語だというから,これは,「丹」に意味がある。これも,「なんたらリン」とは違う。
どうも,語尾に「ん」は,
「この仮名の声は,他の語の下につきて,鼻に触れて発するが如くして出づ。『行燈(あんどん)』『天秤(てんびん)』の如し。他の音の下に加わりて出づることあり。真名の『まんな』となり,ゆゑ(ゆえ)のゆゑんとなるが如し。また他の音を変じて出づることあり。かほばせ(顔)のかんばせとなり,いかに(如何)のいかんとなり,ぬきいず(抽)のぬきんずる(抽んでずる)となるが如し」
と,『大言海』にあるが,「ん」は,拍子をとるのに都合がいいということなのかもしれない。
未然形について,まだ起こらないことを想像して
あらむ,
と言っていたのが,平安中期以降,
あらん,
という表現が生まれた,と言う(~せむと,が,~せんと,となったり,飲まむが飲まん,になった)。「出来ぬ」が「出来ん」になったりというのもある。あるいは,
あるのだけど,
を
あるんだけど,
と「の」を転じると,語りがくだける,だけではない。たとえば,
「とんでもない」は,
「途(と)でもない」の転,
との説もあるから(「飛んだこと」の否定表現という説もあるが),「ん」が入ると入らないでは,「とんでもなさ」が違うような印象がある。似たのに,
「どん詰まり」
がある。『大言海』は,
「止(とど)の詰まり」の音便化,
としている。一般には,「どん」は接頭語とされ,どん底,どんぴしゃり,どん尻,の「どん」で,「ど」を強めている,という説が一般的のようで,「ど」は,関西弁の「ドあほ」の「ど」で,それを強調したものとされている。いずれにしても,「ん」は,強める意味がある。
ただ,「ん」は,転じる前の,「ぬ」「む」「の」とは違い,「ん」を挟んで,ただ鼻に抜けるだけで,テンポが変る。だから,
Un
ではなく,
鼻音化
されていないと,そのリズムが消えて,汚らしくなる。誰だったか,歌手が,最近,
Un
と,鼻に抜けない人が目立つようになった,と言っていたような気がする。音感というか語感の感度が鈍ってきたのかもしれない。せっかく「ん」を発明したのに。
「んまい」
も,unmaiではなく,鼻に抜けるから面白い。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月08日
しな,すがり,すがら
行きしな,の「しな」
道すがら,の「すがら」
通りすがり,の「すがり」
通りがかり,の「かかり」
行きがかり,の「かかり」
行きがけ,の「かけ」
が気になってきた。
端緒は,「道すがら」と,「通りすがり」,それとの連想で,「行きしな」の違いは何だろう,というところから始まった。
まずは「行きしな」「帰りしな」の「しな」。辞書によると(『広辞苑』),
「しな」は,接尾語,
とあり,「行きしな」は,
行く時のついで,行きがけ,
とある。語源的にも,「しな」は,「しに(途中)」の音韻変化,とあり,
~の場合,~のおり,~ついで,
という意味,とある。しかし『古語辞典』によると,「しな」は,
しだ(時)の転,
とあり,「しだ」には,「さだ」と同根として,
「行きしな」「帰りしな」などのシナの古語,
とあり,「とき」という意味になる。因みに,「さだ」は,
シダの母音交換形,
で,時機,盛りの年齢,という意味とある。ということで,「行きしな」は,
行く途中,行く道々,
といった意味になる。では,「道すがら」とどう違うのか,辞書(『広辞苑』)には,
道を通りながら,歩きながら,みちみち,途中,
という意味とある。『大言海』では,
行く路すがら,
とあるので,通り過ぎる,というニュアンスが強いのかもしれない。語源的には,
「過ぎ+ながら」の略,
とあり,通りすごしていく,という意味になる。「すがら」は,
途切れることなくずっと,
という時間経過を示していて,
名月や池をめぐりと夜もすがら,
で,それが空間的に転用されと,
道すがら,
になったと,考えられる,と。当然,
途中,
という意味合いが出てくる,という感じである。「行きしな」には,
途中で立ち止まるとか,立ち寄る,
というニュアンスがあるが,「道すがら」には,
みちみち,眺めた,
という感じなのではないか。
では,「通りすがり」は,というと,意味は,
たまたま通り合わせて,通るついで,通りがけ,
という意味になる。「すがり」は,ここは(どこにも載っていなかったので)想像だが,
過ぐ+り(ある動作が継続中であることを表す助詞),
で,
ちょうど(たまたま)通り過ぎつつある,
という意味なのではないか。そこでの出会いが,たまたまなのは同じだが,
道すがら,には何か(そのことに)意味が主体側に見え,
通りすがり,には行き過ぎていく側には(袖擦り合う程度で,他に)何の意味も見出さない,
というニュアンスがある気がする。
「通りががり」は,
通りかかったこと,道のついで,通りがけ,
という意味だが,「かかる」は,語源的には,
「二物に渡してつなぐ」
という意味があり,
「カク・カカ・カケ(渡して繋ぐ)+ル」
で,通りすがりに較べると,少し,
タイミングがあった,
という意味が含まれている気がする。「行きがけ」は,その意味では,
行く途中,行くついで,
という意味よりは,
行こうとするとき,
で,「かけ」は,
(他の動詞の連用形につき)着手して中途まで行く,
という意味になり,行こうとする,そのついでに,
「行きがけの駄賃」
というように,自分からかかわっていく,という意味が強くなる。因みに,「行きがけの駄賃」は,
「馬子が荷を受け取りに行く途中の空馬に別の荷物を載せて駄賃をもらい,こっそり私利を得た」
の意味で,何かをするついでに他のことをする,という意味になる。さらに,「行きがかり」では,
行くついで,
というよりも,そこから遁れられない,という意味で,
既に物事が進行しつつあって,あるいは関わりができていて,
それまでのいきさつから深く立ち入ってしまっている,
ということになる。
その意味で,「途中」という意味を持ちながら,「行きしな」「道すがら」「通りがかり」「通りすがり」「行きがけ」「行きががり」は,それぞれ関わりの経緯の有無,を微妙に言い表している。
ついでながら,「行」「道」「通」の字の当て方にも,意味があるのかもしれない。
「行」は,十字路を描いたもので,みちをいく,動いて,動作する,という意味。目的があって進む,という意味か。
「通」は,「甬」は,人が足でとんとん地板を踏み通すこと。「辶(足の動作)」を加えて,途中でつかえとまらず,突き通すこと,
「道」は,首(あたま)を向けて進みいく行くみち,
漢字のニュアンスからは,
「行きしな」は,何かしようとして行くついでとなり,
「通りがかり」「通りすがり」は,寄り道のニュアンスがある。
「道すがら」は,みちみち,ということになる。
漢字のもつ意味を損なわずに,使い分けている,とも言える。いまさらながら,かつての日本人のもっていた言語感覚,音感に,敬服する。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月10日
なしくずし
「なしくずし」は,
済し崩し,
と当てる。意味は,
借金を少しずつ返却する,
物事を少しずつすましていく
という意味のようである。語源も,
「ナシ(済し)+崩す」
で,借金返済等の義務を少しずつ果たし,済ましていく,
という意味とある。『古語辞典』にも。「なしくづし」として,同様の意味が出ている。『大言海』は,その借金返済の意を,詳しく,
借りた金高のうちを,若干ずつ,至大に返済すること,
高利貸しなどにいう語。一円を借りて,毎日十銭ずつ十五日に返し,計一円五十銭となる類。
とある。今日でも,会計用語では,
なしくずし償却
という,
「基本的には減価償却と同じだが、暖簾代や特許のような無形資産に用いられる。減価償却は製造工場のような有形資産に適用される。特許は実際に減耗しない為、特許に掛かった費用は、複数年に分けて(なし崩し的に)経費として計上される。無形固定資産の償却は,基本的には原価配分の原則にしたがって,残存価額を考慮しない『定額法』(例外として鉱業権には生産高比例法が認められている)によることになっている。したがって,取得原価のすべてが償却可能額であるのでこれを『なしくずし償却』と呼んで特色づけている。」
等々と説明されるごとく,生きているようであるが,しかし,多く,今日,
なし崩し的,
というのは,あまりいい意味では使わない。まずは,借金の返済の仕方を,物事の処理一般に汎用化して,
ものごとを一度にしないで,少しずつ片付けてゆくこと,
徐々に行なうこと,
と転じて,そこから,
正式な手続きを経ず,既成事実を少しずつ積み上げること,
と,というように転化して,
「済し崩しに既成事実が作られる」
というような使い方をする。例が悪いが,ソリューション・フォーカスト・アプローチで,
イエスセット,
というのがある(逆の,ノーセットもある)。相手がイエスとしか言いようのないことを積み重ねていく,
いい天気ですね,
そうですね,
明日もこんな感じでしょうか,
そうですね,
と,重ねていくうちに,一種トランス状態に入って行く。そのうち,まあそうだな,と変る。例の霊感商法と同じである。
幸せになりたいですか,
はい,
幸せになりたければ○○しませんか,
てなことを重ねて言って,
幸せになりたかったら,これ(壺だったり,塔だったり)を買いなさい,
という奴である。これが,なし崩しである。イエスセット話法などと言う人もいる。詐欺と霊感商法と新興宗教は,紙一重である。例の,「割れ窓理論」,
「軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論。建物の窓が壊れているのを放置すると,誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」
も,一種のなし崩しへの対策である。体験では,放置自転車の買い物籠にペットボトルが一つ投げ捨てられているのを放置しておくと,瞬く間にその辺り一帯がゴミの山と化す。
閑話休題。
一つ穴が書いてしまえば,
まあ,いいか,
このくらいならいいか,
ここまでならいいか,
ここまでいったんなら,これもいいか,
等々となる。乱暴な言い方だが,例のサンクスコストも同じである。サンクスコストとは,
「埋没費用ともいう。事業や行為に投下した資金・労力のうち,事業や行為の撤退・縮小・中止によっても戻って来ない投下資金または投下した労力」
をいう。たとえば,それまで開発等々に相当額を投入してしまうと,その投入額に目が行って,意思決定が先延ばしになる。
既に生じてしまった回復不能なコストは,現在および将来の意志決定入れるべきではない,
というのが意思決定の鉄則である。しかし,我が国は,サンクスコストに引きずられて,ずるずる,まさに,
なし崩し的に,
資金投入し続ける,ということが戦前戦中戦後を通して,変らない宿痾である。とりわけ,
サンクスコストの額が大きいほど,エスカレートしやすい,
と言う。当然そこに巨大な利権も絡んでいるにしても,原発再稼働も,その視点で見ていい。日中戦争(につづく太平洋戦争も)をずるずる戦線拡大し続けたのも,戦艦大和の製造がやめられなかったのも,八ッ場ダムが結局継続されたのも,失う金額(の多寡)に目がくらんで引きずられたと言ってもいいかもしれない。結局なし崩しに,(国民にとって)巨大な借金(だけならいいが命の危険も)が膨らんでいく。
そうやって,知らぬ間に,ティッピングポイントを過ぎ,気づくと,もはや後戻りがきかない。ちょうど,振り込め詐欺にあって,送金ボタンを押した瞬間,あれ,と異和感を懐くのに似ている。後戻りは効かない。
しかし,何時,われわれは,それに気づくのだろう。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月11日
老いさらばえる
老いさらばえるを引くと,
老いさらぼう
から転じたとある。「老いさらぼう」を引くと,
歳をとってよぼよぼになる,
甚だしく老衰する,
とあり,
むく犬の老いさらぼひて,
という『徒然草』の文言が,引用されている。しかし,僻目で言うのではないが,
よぼよぼになる,
までは,描写なのでまだ許せるが,
年をとってみすぼらしくなる,
となると,ちょっと反撥を感じる。それは,視る側の,加齢に対する価値判断だろう,と。ま,それはさておき,
さらぼう,
は,「曝(さ)る」から来ている。
雨露にさらされて骨だけになる,
痩せ衰える,
という意味である。『大言海』には,
「さら」は,曝(され)の転。賓客(まれびと),まらうど。何(いづ)れ,いづら。
「ばふ」は,形状を言う語。散りばう,よろばう。
とある。実にわかりやすい。語源は,したがって,
「オイ(老ゆ)+サラボウ(風雨に曝される)」
で,「年を取ってみじめな姿になること」らしい。どうやら,「老い」は,和語では,
惨めで,
みっともない,
ものらしいのである。「老い」の語源は,
「老ゆ」の連用形,
から来ているが,「老ゆ」の語源は,
「大+ゆ」
で,「自然に経過してそうなる,であろうとされている,という。因みに,上代語「ゆ」の語源は,
経過する,
の意味である。~を通って,の意味となる,とある。
「老」の字は,
年寄りが腰を曲げて,杖を突いたさまを描いたもので,
からだが固くこわばった年より,
を指す。しかし,「老」の意味は,中国語では,老いる,老ける,という意味だけでなく,
長い経験をつんでいるさま(「老練」)
老とす(老人と認めて労わる,「老吾老,以及人之老」)
年を取ってものをよく知っている人,その敬称(「長老」「古老」)
親しい仲間を呼ぶとき(老李,李さん)
といった意味があり,貧しい日本の,姨捨伝説とはちと違う。「曝」という字は,「暴(ぼく・ぼう)+日」だが,「暴」は,
「目+動物の体骨+両手」の会意文字
で,「動物の体を両手でもって日光に当てるさま」
という。「曝」は,さらに「日」を加えて,面を外に出す意を含む,という。「暴」の俗字。「共」は,
「上部はある物(「甘型)の形,下部に左右両手でそれを捧げ持つ姿を添えたもの」で,「供」(両手で捧げる)の原字。
日に曝される,ということなのだろう。皺も増えるわけだ。「老い曝(さらば)う」以外にも,似た言い回しは,
老い歪む,老い朽ちる,老い果てる,老い屈まる,老い耄れる,
等々あるが,ろくな言葉はない。「おゆ」に「老」を当てて初めて,
年ふる,
の「ふる」は,旧るを当てる。
古くなる,
年を経る,
という意味だ。「故」「「古」も当てる。だから,
故(もと)なること,
という意味もある。「古い」は,だから,
「フル(歴・経)+シ」
で,歴史を経た,という意味になる。
新しいものを有り難がり,若さ(あるいはロリコン好みとも言う)を尊ぶ風潮に,妬くわけではないが,それは,年経た年月をなかったことにするに等しい。そのせいか,戦後僅か70年で,積み重ねたものが消滅しようとしている。GDPで測ればいいというものではないが,それに合わせて,今や大卒初任給は,アジアで,シンガポール,韓国の下に行く。70年に一体何を蓄積したのだろう。日本文化の層は,増えたのだろうか。未だに北斎しかない,ということはないだろうね。
老い先よりは,生い先を考えるのは,悪いことではないが,長いタームで見ていたとは到底思えない,そんな昨今の風潮である。
今日のアイデア;
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2015年06月12日
とんちんかん
「とんちんかん」は,自分の代名詞みたいなもので,
頓馬,
ということだと思い込んでいたが,必ずしも,的を射ていない。辞書(『広辞苑』)によると,
鍛冶屋の相鎚は相互に打ち,音が揃わないところから,「頓珍漢」とあてる,
と,注記した上で,
物事の行き違い,前後すること,辻褄のあわないこと,
とんまなこと,
とある。あるいは,
見当違いであること,
という意味も加える辞書がある。語源も,
鍛冶屋の相鎚を打つ音が交互に揃わないこと,
で,言行がちぐはぐなこと,という意味とある。もう少し詳しく,
「鍛冶などで師が鉄を打つ間に弟子が槌を入れるため、ずれて響く音の『 トンチンカン』を模した擬音語であった。 音が揃わないことから、ちぐはぐなことを意味 するようになり、さらに間抜けを意味するようになった。 漢字で『頓珍漢』と書くのは 当て字」
と,説くものもある。ちなみに,
とんま,
は,
「ノロマの当て字『鈍間』を読み誤ったものの変化」
とあるから,まさに,
とんちんかん,
というか,
間抜け
の見本のような話だ。もっとも,異説に,
「トント(とんと)+マ(のろま)」
という語源説もあるようだが。
とんちんかんは,類語をみると,
まぬけ,
とか,
とんま,
とか,
鈍い,
とか
あほ,
とかがあるが,それとはかなりニュアンスが違うのではないか。まあ,結果として,見当違いのことを言っているのだから,そう言われるだけのことだ。
目茶目茶,
ちぐはぐ,
荒唐,
というのとも,まあ,そういうことも結果としてはあるにしても,少しニュアンスが違う。
あることを話していて,それとはつながらない話を継いだり,
あることの例に,見当違いのことをだしてみたり,
ある人のことを話しているのに,別の人のことを持ち出したり,
等々,一つは,その人の話の流れが,前後脈絡が,
ちぐはぐになる,
とか,
その場の雰囲気,文脈と違うことを言い出すという,場違いさ,
とか,
何か話をしていたのに,例を話しているうちに,枝葉末節に流れ,明後日の話になっていく,
等々,必ずしも,その人自身のことを指している,というより,その人の話の仕方,その人の話し出し方,といった,話の中身や会話への関わり方,を指しているように見える。まあ,それ自体が,
まぬけ,
には違いないが,
的外れ,
とか
場違い,
とか
見当違い,
とか
辻褄の合わない,
とか
符合しない,
とか
不適切,
という言い回しが,的を射ている感じがする。空気を読まない,という言い方は,集団圧力で嫌だが,
その場の雰囲気を弁えない,
というような,例えば,通夜の晩にお化けの話をするとか,エロ話をするとか,という類は,
頓珍漢,
というより,
道理を弁えない,
というべきか。葬儀の席で居眠りするなどは,
べらぼう(篦棒・箆棒)
で,
論外,
としか言いようはない。「とんちんかん」は,まあ単なるご愛敬ですむが,それを意識して,ずらし,そらし,とぼけ,嘘,方便,嘯きは,笑いごとでは済まない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・浜西正人『類語新辞典』(角川書店)
今日のアイデア;
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2015年06月13日
けんもほろろ
けんもほろろ,
は,
無愛想に人の相談などを拒絶するさま,
取りつくすべもないさま,
という意味であるが,
いずれも,「雉の鳴き声」を語源にしている。たとえば,
「その鳴き声『けんけんほろほろ』が無愛想に聞こえることから」(『古語辞典』)
「『けん』も「ほろろ」もキジの鳴き声。それと『慳貪』をかけたものか」(『広辞苑』)
「『けん』も『ほろろ』も,擬態語。キジの鳴き声や羽音を,けんつく,つっけんどんにかけた語」(『語源辞典』)
「慳貪なるを,けんけんというを,雉の鳴声の,けんけんほろろに寄せたる語。もには意なき感動詞。つれもなし,らちもないの類」(『大言海』)
最後の『大言海』が,さすがに言い尽くして,漏れがない。
異説に,
「『けん』『ほろろ』はともに雉(きじ)の鳴き声。あるいは「ほろ」は「母衣打(ほろう)ち」からか。また、『けん』は『けんどん(慳貪)』『けんつく(剣突)』の『けん』と掛ける」(『デジタル大辞泉』)
の,「あるいは『ほろ』は『母衣打(ほろう)ち』からか」がある。「母衣打(ほろう)ち」は,
(「保呂打ち」とも書く)キジやヤマドリなどが翼を激しくはばたかせ、音を立てること,
とあるので,やはり雉がらみである。そのながれで,「つっけんどん」は,
とげとげしい,無愛想,
という意味だが,語源は,
「つっ(突,接頭語)+慳貪(無慈悲)」
となる。「慳貪」は,
ものを惜しみむさぼること,
情け心のないこと,愛想のないこと,邪慳,
である。「突」は,「つい」と音便化したりするが,突っ伏す,突っ張る,突っぱねる,突っ走る,突っ放す,突っ突く,突っ込む,「突」で,思いがけず,という意味と(「つい」と音便化する),「勢いを付ける」「ものともせず突き進む」という意味を強化しているように見える。
「着く」「付く」と同源で強く力を加えると,「突く」となる,
とある。それは,漢字の意味によって差が出ている,という。「突」が,
穴から突然犬が飛び出すさま,
を意味するので,突発性というニュアンスが込められている,ようである。
昔,ある先輩の口癖て,
けんもほろほろ,
取りつくヒマもない,
というのが耳に残っている。口伝えで記憶すると,そういうことはある。
「けんもほろろ」の類語には,つれない,冷淡,冷ややか,よそよそしい,他人行儀,そっけない,といったもののほかに,結構気になる言葉が多い。たとえば,
取りつくしまもない,
にべもない,
そっぽを向く,
すげない,
鼻にもひっかけない,
木で鼻をくくったような,
つっけんどん,
そっけない,
等々,「そっぽを向く」は「外向を向く」だし,「そっけない」は,「素気なし」と書くから,まあ,わかりやすいが,そっけないに似ている,「すげない」は,いくつか説がある。
「スガナシの変化,ヨスガナシ・ヨルベナシ(因所無)の意」とするもの(素気ないは,「すげない」の当て字を「そっけない)と読んだところから出た),(『大言海』『語源辞典』)
「スは接頭語。ケは気,ナシは無し。力を添え合うべき間柄にあっても反応せず,相手に手を貸さず,情をかけない意。類義語,つれなしは,無関係,無関心であること」(『古語辞典』)
その「つれない」は,関係性そのものがないこと,あるいはそういうそぶりという意味になるが,これには,いくつか説がある。
「『連れ無し』の意。二つの物事の間に何のつながりもないさま」
「『つれ(方言,仲間,友)+なし』で薄情の意。
「関係性」そのものがない(あるいはない素振り)を指しているので,「相手にしない」という対応の仕方とは,確かに『古語辞典』の言う通り,「つれない」だけは,「けんもほろろ」の類語ではあるが,「そっけない」「けんもほろろ」とは,微妙に違う。
同じ類語で,「取り付く島がない(もない)」というのは,
相手がつっけんどんで話を進めるきっかけがみつからない,
という意味だが,辞書には,
(「し」と「ひ」の混同から)「取り付く暇がない」は誤った言い方,
とあるところをみると,結構誤用があるのだろう。語源は,
「とりつく(たよりすがる)+しま(島)+ない」
であるらしい,「溺れかけている」という状態に準えて,
「頼りにしてすがる島さえない」
の直訳,とある。「島」は、頼れるもの,よりどころを表すらしい。「島(嶋,嶌)」は,
「渡り鳥が休む,海の小さな山,つまり島のこと」
という意味で,そのものずばりだろう。あるいは,別に,
「航海に出たものの,近くに立ち寄れるような島はなく,休息すら取れない」といった状況のこと,
で,困り果てる様子にたとえていう,とあるが,うがちすぎかもしれない。。
最後に,もうひとつ,「にべもない」
鰾膠(にべ)も無い,
と表記する。「にべ」は,
にべ科の海魚,にべの浮き袋でつくる,粘着力の強い膠のこと。にべの浮き袋は,粘りっ気がつよい。その粘着力から,人との親密関係になぞらえられた。で,
にべもしゃりもない,
等々といった使い方もするようだ。
こう見ると,いかに,自然や周囲の道具になぞらえた表現が多いかがわかる。言語表現は,
現実や現実生活を丸める,
ところから生まれる。現実が,自然や生活感を薄めると,言葉が,単純化し,
やばい
や
かわいい
でなんでも代用する。それは,作り上げてきた日本語が,先祖がえりしていることかもしれない。言葉は,現実を写す,ということから言うと,我々は,いま,幼児化しつつある証かもしれない。
参考文献;
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
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2015年06月14日
ルビ
ルビというのは,
Ruby
で,宝石のことだそうである。
19世紀後半におけるイギリスでの文字サイズ名称として,他にエメラルド(6.5ポイント),パール(5ポイント),ダイアモンド(4.5ポイント),瑪瑙(5.5ポイント)などが存在した,
と言われる。もちろん,
「文章内の任意の文字に対しふりがな,説明,異なる読み方といった役割の文字をより小さな文字で,通常縦書きの際は文字の右側,横書きの際は文字の上側に記される」
ものである。
「日本で通常使用された5号活字にルビを振る際7号活字(5.25ポイント相当)を用いたが,イギリスから輸入された5.5ポイント活字の呼び名がruby(ルビー)であったことから、この活字を「ルビ活字」とよび、それによってつけられた(振られた)文字を「ルビ」とよぶようになった」
とのことである。活版印刷ではなくなったが,かつては,
「ルビをつけることを一般的に『ルビを振る』と表現するが,より専門的な用語として組版業界用語では『ルビを組む』と表現する」
とのことである。活版ではなくなったせいもあるが,いまは,活字の大きさではなく,
「振り仮名用の活字」
から,
振り仮名そのもの,
を指すようになっている。しかし,ルビで,言語表現の幅が広がったのではないか。たとえば,
百日紅(ひゃくじつこう),
を,
百日紅(さるすべり)
と,ルビを振ることで雰囲気が変わる。当然,別もそうだ。作家,というか小説家は,それをフル活用していたように見える。たとえば,
扮装をいでち,
鱗をこけ,
等閑をなおざり,
淫売をじごく,
蜻蛉をとんぼ,
等々,幾らでも,自分の膨らましたいイメージに誘導できる。
漢字を和語で振り仮名を振る,
という読み方の導きだけではなく,
漢字にカタカナのルビを振る,
和語にカタカナのルビを振る,
カタカナに日本語のルビを振る,
カタカナに横文字の頭文字をルビに振る(たとえば,クオリティ・オブ・ライフにQWL),
日本語に横文字の頭文字をルビに振る(たとえば,脳波記録検査に,EEG),
等々,実用的だけではない,多様な使い方がある。ある意味表現しようとすることの意味の陰翳を付けることができる,と思う。
しかし,と,ここまで書いて,ふと気づいたのは,当て字は,ちょうどその逆なのではないか。で,調べると,
「日本語においては,漢字とかなの混用によって語の切れ目を表示するため,かつては借用語を含め自立語は全て漢字表記する傾向があった。このため表音文字(かな)で転写できるにもかかわらず,固有名詞の借用語を中心に漢字による当て字の事例が大量に存在する。固有名詞の語形は中国語からの借用が多いが、日本語独自の例も見られる。」
とある。とっさに浮かぶのは,万葉仮名である。音を借りただけではなく,その意味も含めて使っているケースがある。その辺りは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/403477650.html
で書いた。
ルビも含めて,当て字も,表現力の薄い日本語をどう厚みを出すか,悪戦苦闘した結果については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/401176051.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/406309247.html
で触れた。
当て字の多くは,中国から借りた。たとえば,
ギリシャ・希臘
メキシコ ・墨西哥
キリスト・基利斯督,基督
等々。しかし,日本流にアレンジしたものも少なくない。
ドイツ・独逸(中国語表記は「徳意志」)
ベルギー ・白耳義(中国語表記は「比利時」)
等々,その他,アメリカ・亜米利加,フランス・仏蘭西等々もある。和語の当て字は無数にある。詳しくは,
http://www.geocities.jp/f9305710/ateji.html
に譲るが,出鱈目(でたらめ),滅茶苦茶(めちゃくちゃ),珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん),珍糞漢糞(ちんぷんかんぷん)から始まって,珈琲(コーヒー),咖喱(カレー),型録(カタログ),といったものから,目出度い(めでたい),出来る(できる),多分(たぶん),滅多(めった),兎に角(とにかく)まで,無数にある。
一つは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/406309247.html
で書いたように,懸命に明治期に漢字を当てはめたが,その他に,漢字を借りて,表現の幅を広げたいという意識があった,と推測する。
接吻(キッス),背景(バック),頁(ページ),浪漫(ろうまん),骨牌(カルタ),憂鬱(メランコリイ),郷愁(ノスタルヂャア),露台(バルコン(バルコニー) ,帷(カーテン),石鹸(シャボン),
等々と表現することで,何となくハイカラ(古いが)な感じが出た。しかし,いまでも,
麦酒(ビイル)
珈琲店(カフェ)
牛乳(ミルク)
緑玉(エメラルド)
白金(プラチナ)
蹴球(サッカー)
は,生きている。その精神(マインド)は,東スポの当て字から始まって,今や一般紙でも,平然と使う。歌舞伎の演目も,
『恋女房染分手綱』(こいにょうぼう そめわけ たづな),『与話情浮名横櫛』(よわなさけ うきなの よこぐし),『再茲歌舞伎花轢』(またここに かぶきの はなだし),『再茲歌舞伎花轢』(またここに かぶきの はなだし),
等々,いやなにより,昨今のきらきらネーム,
星音(しおん) ,乃愛琉(のえる) ,姫麗(きらら) ,來夢(らいむ) ,妃翠(ひすい),南椎(なんしー),愛舞(いぶ),留樹(るーじゅ),
等々も,その行き着いた先だろう。
今日のアイデア;
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2015年06月15日
愛想も小想も
いまや死語に近いが,
愛想(あいそ)も小想(こそ)も尽き果てる
とは,相手の言動などにあきれ果て、好意や愛情がすっかりなくなってしまうこと。何ごとも,中途半端な僕は,
愛想も小想も尽き果てた,
こともなければ,
愛想も小想も尽き果てられた,
こともない。類語は,
愛想も臍の緒も尽き果てる,
と言うのだそうだ。「小想(こそ)」は語調を強め,整えるために添えられたもの,ということだ。
味噌もくそも一緒,
という言い回しと同様,
愛想が尽きる,
を強めるために,言葉の流れというか,走りというものだろう。
精根尽きる
を,
精も根も尽きる,
というのに似ている。「愛想」というのは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/414077255.html
でも触れたが,
人に接して示す好意や愛らしさ,
とあって,その他に,
好意のあらわれとしての茶菓などのもてなし
飲食店の勘定(書)
とある。語源は,
「愛(愛らしい)+相(様子)」
とある。好意の互恵性というのがあって,
「他者から好かれると,その人を好きにならずにはいられない」
という説がある。これは,前にも書いたが,
第一には,好意的な自己概念を求める欲求がある,
第二には,自己評価と類似した意見の他者を好む傾向がある,
という仮説がふたつあることによるらしい。しかし,giveばかりでは,貸が増えて,気持ちの帳尻が合わない。
「愛」という字の,「旡(カイ・キ)」は,象形文字で,腹が一杯になって胸をつくさま,で,「欠」(腹が減ってしぼむ)の反対。で,「つまる」「いっぱいになってつかえる」といった意味を持つ。「夂」は,下向きの足の形を描いたもの。「降」,「各」(足が使える),「逢」等々,足を示す印として用いられる。で,「足」や「行きなやんで足が遅れる」という意味を持つ。
「愛」は,
「心+夂(足を引きずる)+旡」
で,心が切なく詰まって,足もそぞろに進まないさま,
を表し,「いとおしむ」「めでる」「かわいがる気持ち」という意味を持つ。
「想」は,「相+心」だが,「相」は,「木+目」で,気を対象に目で見ること,AとBとが目で向き合う関係を表し,「ある対象に向き合って対する」意を含む。で,「互いに」「二者の間で」「みる」「たすける」といった意味をもつ。「心」は,心臓を描いたもの。「滲」「沁」「浸」等々と同系。血液を血管の隅々まで,沁み渡らせる心臓の働きに着目したもの。「心臓」「こころ」「真ん中」といった意味になる。
で,「想」は,ある対象に向かって,心で考えることを意味する。
「愛想」は,好意を持って,相手にひたすら向き合う,
という意味となるのだろうか。『古語辞典』では,
「愛想(あいそう・あいそ)」は,
「愛相」(あいそ)
あるいは
「愛想・愛相」(あいさう)
の両方で出ていて,「愛相もこそも尽く」と出ている。で,
「愛崇(あいそう)」の転,
とある。「愛憎」あるいは,「愛相」の字を当てる。で,「愛崇」には,
人に接する時に示す行為と敬意,
言葉遣いや物腰に感じられる情趣・風情,
とある。
念のため,「崇」を調べると,「崇」の字は,「山+宗」で,↑型にたかいこと,転じて,↑型に貫く意を派生した,とある。「たかい」「たっとぶ」「終わりまで貫き通す」という意味を持つ。「宗」は,「宀(やね)+示(祭壇)」で,祭壇を設けたみたまやを示す。転じて一族集団を示す。「族」は,kに転じたことば,という。だから,「みやまや」「本家」「中心」「たっとぶ」等々の意を持つ。
『大言海』は,「愛崇」について,
愛敬相より移る,愛敬の条をみよ,あいそというのは,略転,心に移して書くなり,
とある。で,「音頭」,「おんどう」を「おんど」というのと同じ,とある。意味は,
ひとあしらいのよきこと,礼あり,情あること,
となる。「愛敬」は,
愛敬相より転じて,すべて顔色に可愛気のあること,
とある。「愛嬌相」とは,
柔和な心と温和な恵みを施す容貌,態度。阿弥陀如来,地蔵菩薩などの相貌にいう,
とある。こう考えてくると,
愛想も小想も尽き果てた,
と言っているのが,誰かによっては,大変なことなのかもしれない,と思えてくる。仏の顔も三度,というのに似ていなくもない。
参考文献;
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
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2015年06月16日
木偶
木偶は,
でく,
とも,
ぼくぐう,
とも,
もくぐう,
とも読む。意味は,
木彫りの人形。また,人形。でこ。もくぐう。
操り人形。くぐつ。てぐつ。
役に立たない人。愚か者。でくのぼう。
ということになる。ただ,『大言海』は,
でくるばうの略か,
とあり,「でくるばう」を引くと,
傀儡,
という字を当て,
(人形の操りにて,出で狂ふのより名とす。ばうは,坊にて,嘲り,親しみて云う接尾語)
と注記があり,
ぐぐつ,操り人形,でくるぼ,
と,意味が載っている。ちなみに,「でくるぼまわし」と別項が載っていて,
傀儡子,
という字を当て,
くぐつまわし,人形つかい,
とある。で,ついでに,「くぐつ」の項を見ると,「傀儡」と当て,
(華厳経私記音義,「機関,久久都からくりなり)
と,注記があり,意味が載っている。
①操り人形の類。でくぐつ。てるくばう。傀儡(かいらい)。其の人形を,歌に合わせて舞わす伎を業とする者を,くぐつまわし,傀儡子(かいらいし),
②諸国をめぐるくぐつまわしの妻女(くぐつめ)は,淫を売りしより,くぐつは,遊女の名となる,
「でく」を探ると,以上のようだが,「もくぐう」となると,少し意味が変わり,たとえば,
「副葬用につくられた木製の人形。エジプトでは古くから盛んにつくられ,古代ギリシアでも初期には用いられた記録がある。中国では戦国時代の楚の国で用いられた例が多く,一般に彩色が施されている。」
となる。ここでは,あくまで,日本流の「でく」でいくとすると,語源辞典は,
「手+くづつ(操り人形)」
で,
テクグツ→デクグツ→デク,
と訛ったもの,という説を取る。上方(西日本,福島,栃木)では,
デコ,
というらしい。しかし,「でく」が,「でくるばう」の略,というほうが,僕にはよくそのカタチが見える。つまり,本来は,
でくるばう,
で,それに,
でくのぼう,
で,「坊」を当てたために(「朝寝坊」や「忘れん坊」に倣って「坊」をつけたために),少し意味が変わったのではないか。本来は,「ばう」は,
坊,
ではなく,
棒,
ではなかろうか。木偶人形を見てみたり,操作したことのある人ならわかると思うが,棒の先で,口や目の開閉をする。大学時代,素人ながら,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163102.html
で書いたことがあるように,人形を自分たちで手作りしていたことがあった。そのとき,頭部は,粘土で象ったあと,上に,ボンドと和紙を何重にも重ね貼りし,乾いたところで,中をくりぬき,操作棒をつけて,タコ糸で口や目とつなげて,手元で操作できるようにした。それに衣装を着ける。阿波人形では,
http://www.joruri.jp/html/ningyo/ningyo3.html
と,精巧になっているようだが,木偶は,
棒が中心にある,
のである。「でくるばう」は,その通り,棒が狂うように舞う,というか,そのように操作する。僕らは,中腰でやったが,舞台装置によっては,立ってできるだろう。だから,「木偶」の語源について,
「『でくのぼう』の『ぼう』は,親しみや軽い侮りを表す接尾語としてもちいられているため,『木偶の棒』と書くのは誤りである。」(http://gogen-allguide.com/te/dekunobou.html)
とあるが,僭越ながら,『大言海』も含めて,順序が逆である。最初,人形(つかい)を,
でくるばう,
といっていたのであって,それに,後に,「坊」を当てはめたのではないか。本来,もともと,
でくるばう,
といっていたとき,「棒」を指していたと考えなければ,「ばう」を付ける意味が見えない。
因みに,「偶」の字の,「禺」は,「上部が大きい頭,下部が尾で,大頭の人真似ざるを描いた象形文字」。それに「人」を加えて,人に似せた姿であることから,人形の意となった,とある。日本では,木彫りなので,
木偶,
とあてたものだろう。本来,だから,人に似せて人形,の意味で,考えると,
でくるばう,
が,約められて「でく」になったときに,当てられたのではないか,そこから,
木偶の坊,
と当てたと考えた方が,わかりやすい気がする。まあ,素人の億説ですが。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月19日
おこがましい
「おこがましい」は,
「をこがましい」
と表記し,
「烏滸がましい」
と当てる。で,
ばかげている,物笑いになりそうだ,みっともない,
出過ぎている,差し出がましい,
といった意味になる。語源的には,
「お(を)こ(おろか)」+「がましい(接尾語)」
となる。前に,「をこ」については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/419978918.html
で,触れたが,元来,「をこ」は,
烏滸
とも
痴
とも
尾籠
とも当てる。
おろかなこと,ばか,たわけ,
の意味で,『古事記』に,既に出典がある。『古語辞典』によると,
ウコ(愚)の母音交換形,
とあり,『大言海』には,
可笑(をか)しは,此の語の転という,
とある。意味は,
あほらしきこと,ばかげたること,
だが,『大言海』には,こう言う一文が添えてある。
「尾籠(をこ)と当て字して,尾籠(びろう)と音読にもせり。また,後漢の頃の南蛮に,烏滸(をこ)の国あり,其の風俗に,理非を転倒して,笑うべきこと多し,その語暗合して,後に混淆せり」
と。「をこがまし」は,『古語辞典』には,
ばかげている,みっともない,
という意味しか出ていないが,『大言海』には,その他に,
差し出がましい,
という意味ではなく,
さかしらである,でかしだてなり,こしゃくなり,
が載っている。「でかしだて」とは,
上手くやってのけたという様子を誇示すること,得意然とすること,
だから,小癪なのである。
『古語辞典』には,
馬鹿馬鹿しいこと,
しか意味がなかったのに,『大言海』には,
小癪,さかしら,
の意味が加わり,現代では,それが,
差し出がましい,
と若干ニュアンスを変えた。「おこがましい」が,
差し出がましい,
という意味になったのは,江戸時代という説もあるが,『大言海』には,その意味はないので,妄説といっていい。むしろ,
さかしらである,でかしだてなり,こしゃくなり,
であること,要は,
ちょこざいな,
ことが,言ってみれば,場所柄,立場柄からみれば,
出すぎであり,
場所柄を弁えず,
となり,
差し出がましい,
ということにつながるところから生まれた,と考える方が無難である。「小癪」から「差し出がましい」までは,ほんのあと一歩であるように思う。
穿ちすぎかもしれないが,「をこ」に「尾籠」を当てたことが,影響していなくもない。「尾籠(びろう)」は,
例を失すること,無作法,
汚くて,汚らわしく,人前では失礼にあたる,
という意味だが,「をこ」を「尾籠(をこ)」と当てたものを,音読して,「尾籠(びろう)」と読むようになったものだから,本来は,
礼を失すること,無作法,
の意味であり,
汚いもの,汚らわしいこと,
に使うようになったのは,江戸時代のようである。とすると,「尾籠(をこ)」に,
無礼,不作法,
の意味が写ることで,結果として,「尾籠(びろう)」に,
汚い,
という意味が残った,ということであろうか。結局,「烏滸(をこ)」が「尾籠(をこ)」に,意味まで,スライドしていった,ということになる。言葉は,確かに生きている。いまや,
おこがましい,
自体が,死語である。それは,
差し出がましい,
不作法,
自体が,死語となることを意味している。つまりは,いまや,
差し出がましくでしゃばる
のを,よしとするのであろうか。あるいは,
慎み深い,
とか,
身の程を弁える,
とか,
分を弁える,
自体が,死語なのかもしれない。
嗚呼…!
である。それにしても,かつては,「をこ」に,
「嗚呼」
の字を当てていたこともあるという。なかなか意味深である。まさしく,
嗚呼,
である。
参考文献;
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
http://gogen-allguide.com/o/okogamashii.html
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月20日
りょうけん
「りょうけん(れうけん)」は,
了見
とも,
料簡
とも
了簡
とも当てる。意味は,
考え,思案。(「料簡が狭い」)
考えめぐらすこと,よく考えて判断すること。(「よく料簡して前後を考え…」)
とりはからい,処置,取るべき対策。(「何卒,御料簡あるべしとの御意」)
堪え忍ぶこと,よく弁えてこらえること,勘弁。ゆるす。(「何程詫びても料簡はならぬ」)
である。ただの「考え」というよりは,
何かを決める,何か対応する,何かの対策をとる,
にしても,「よくよく思案して」というニュアンスが込められている。だから,
「料簡勝ち」は,我慢強いこと,
「料簡尽く」は,互いに腹を立てずに穏やかに物事をまとめていくこと,考えに任せて事を運ぶこと,
「料簡なし」は,(思案がつきて)どうにもならない,
「料簡違い」は,不心得(だが,思案が甘いか,思案が偏っているので),見当違い,考え違い,
「料簡深い」は,考えが深い,思案が深い,
「料簡物」は,よくよく考えてみなければならない事柄,
等々,となる。「料簡」は,
はかり選ぶこと,
だが,「料」は,
「米+斗(ます)」
で,穀物をざらざらとますにいれて,かさをはかること,
とある。「簡」(本来は,門の中は,「日」でなく「月」だから「間」は,「閒」)の「間」は,
「門のすきまがあいて,月(日)がその隙間から見えることを示す」会意文字,
で,「簡」は,一枚ずつ間をあけて,綴じる竹の札,を意味する。紙の無かった時代の竹の札である。「簡」には,
「擇」(は,良し悪しをよること)と対比して,「擇より一層優れて良き方を取る」
という意味がある。つまりは,「料簡」で,
考量しつつ,判断していく,
という意味があることになる。
「料簡」は,「了簡」とも書くが,この場合,
「了(さとる,よくわかる)+簡(えらぶ,比べる)」
で,比べて,判別する,という意味になる。「了見」ともあてるが,「了」は,
「物がもつれて,ぶらさがるさま,またぶら下がった物をからげるさまを描いたもの,転じて,長く続いたものをからげて,けりをつける」
という意味の象形文字。「了簡」をつかうと,
あれこれ比較考量し終えて,考えがまとまった,
という方に,意味がシフトしているように見える。さらに,「了見」となると,「見」は,
「目+人」
で,目立つものを,人が目にとめること,また目立って見えることから,現れる,
という意味になる。そうすると,「了」と「見」で,
比較考量の結論がはっきり表れている,というか決まった,
というニュアンスになる。そうすると,
料簡→了簡→了見
の順に,推し量っているプロセスが,結論側にシフトしていく,という意味になる。そうすると,たとえば,
「料簡尽く」
には,
互いに腹を立てずに穏やかに物事をまとめていくこと,
と
考えに任せて事を運ぶこと,
の二つの意味があるが,前者は,
料簡(推し量りながら選んでいく)
でいいが,後者は,
了見(考えがまとまる)
でないと,それをごり押ししていくニュアンスが,でない。あるいは,
「料簡なし」は,
(思案がつきて)どうにもならない,
だから,既に(思案の果ての)結論側から見ているので,「了見」にあうし,
「料簡違い」は,
不心得(だが,思案が甘いか,思案が偏っているので),見当違い,考え違い,
だから,やはり,(思案の果ての)結末が出ているという時点からみているので,やはり,
「了見」が合う気がする。まあ,料簡の浅い人間の言うことだから,
了見違い,
に違いないが。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月25日
べらぼう
「べらぼう」は,
箆棒
と当てるが,
便乱坊,
可坊,
とも当てる,らしい。
並はずれてひどいこと。程度がひどいこと。はなはだしいこと。また、そのさま。
筋の通らないこと。普通では考えられないようなばかげていること。また、そのさま。
人をののしっていう語。たわけ。ばか。
といった意味に使われているが,この語源が,諸説ある。
「薄弱萎軟,竪立てせぬを,へらへらとも,べらべらとも云ふ。延宝(1673~81)の頃,大阪に可坊(べきぼう)と云へる異相の男ありきと云ふ。或いは箆棒の義,穀潰の意なりと云ふは,如何か」(『大言海』)
「寛文(1661~73)末頃,見せ物となった畸人。頭の先が尖り,赤くまるい目,猿のような頤,全身真っ黒で愚鈍な感じであったという。」(『古語辞典』)
「寛文(1661~73)年間に見世物に出た,全身まっくろであたまがとがり眼は赤く丸く,あごは猿のような姿の人間。この見世物から『ばか』『たわけ』の意になった。」(『広辞苑』)
「語源は,『箆+棒』です。穀潰しにしか役立たぬものの洒落です。ベランメイ(箆のものの変化)も同じ語源です。相手を罵る語です。転じて,大変の意です。別に異説として,江戸時代の奇人便乱坊(全身黒く,頭が尖り目が赤く丸い)に由来するという説がありますが,罵る意味が薄く,疑問に思われます。」(『語源辞典』)
「べらぼうとはもともと『あほ』や『ばか』という意味で江戸時代から使われていた。これが転じ、『程度が尋常でないこと』という意味で使われるようになる。また、べらぼうが『あほ』や『ばか』という意味から、そういった出来事や人、言動を罵る言葉としても使われる。ただしこの場合、語意を強める接尾語『め』をつけたべらぼうめや、ここから転化したべらんめえ(べらんめい)のほうが使用度が高い。」(http://zokugo-dict.com/29he/berabou.htm)
「べらぼうは,漢字で『箆棒』と書くが当て字。語源は,寛文年間(1661~73年)の末頃から,見世物小屋で評判になった奇人に由来する。その奇人は全身が真っ黒で頭がとがり,目は赤くて丸く,あごは猿に似て非常に容貌が醜く,愚鈍なしぐさで客を笑わせていた。
奇人は『便乱坊(べらんぼう)』『可坊(べくぼう)』と呼ばれていたことから,『馬鹿』や『阿呆』の意味で『べらぼう』という語が生まれた。
やがて,人を罵る言葉は普通でない者に用いられることから意味が派生し,程度がひどいことや筋の通らないこととして使われるようになった。
一説には,江戸中期の『牛馬問』に,『阿房らしきことをべらぼうと隠語す。これは下賤の時花言葉(はやりことば)なれども今は通用の語となる』とあることから,博打用語を語源とする説もある。しかし,博奕用語の『べらぼう』が『阿房らしき事』をいみするようになった経緯は不明で,奇人の話よりも後の書物であるため語源としては定かではなく,この語が一般に広く使われるまでは,博徒のあいだで使われていたと考えるにとどまる。」
(http://gogen-allguide.com/he/berabou.html)
その他,見世物小屋についての説明にも,
「まず京都の四条河原がその発祥地として,すでに慶長期(1596‐1615)ころには蜘舞,大女,孔雀,熊などの見世物が,歌舞妓や人形浄瑠璃などにまじって小屋掛けで興行していた。籠抜,枕返し,からくりなどが寛文期(1661‐73)の前後に流行し,そのころ〈べらぼう〉という言葉の語源になった〈べらぼう(べら坊,可坊)〉という畸人の見世物もかかった。享保期(1716‐36)以後には曲馬,女角力(おんなずもう),綱渡りなど,宝暦・明和・安永期(1751‐81)には火喰い坊主,蘇鉄(そてつ)男,馬男,曲独楽,曲屁(きよくへ)福平,女力持,エレキテル,鬼娘,飛んだ霊宝,ビイドロ細工,曲鞠などが行われた。…」
と,「可坊」が例として出ている。確かに,そういう見世物があったのかもしれないが,ちょっと「べらぼう」との関連では,異和感がある。で,少しさらに調べてみると,五街道雲助という噺家の,
http://www.asahi-net.or.jp/~cq1t-wkby/otosi.html#chapter32
『落とし噺演題』という中に,見世物小屋説について,
「三馬の『浮世床』などを読んでも『こんべらばぁ』などとのべつに江戸っ子の口から出てきて、べらぼう=江戸弁のような言葉が上方の見世物から出ているとはどうも思い難い。」
といった感じを懐いている中で,「 川柳大兄(川柳川柳師匠のこと?)と楽屋でこの話をして」いて,
「オレのがきの時分に、ウチの方でね(因みに川柳師匠は秩父の山間の生まれ育ちです)あの便所のさァ、もちろんその頃だから汲み取りのやつでさ、あれ糞が溜まってくると、した後におつりがはねかえって来るんだよ。雲ちゃんなんざ知らないだろうけどさ。だからその防止ってほどのもんじゃないけど、甕の上に縦に棒が渡してあるんだよ。つまり糞がこの棒に一旦当たってそれからズルリッと下に落ちるから、はねないわけなんだよ。わかるだろ。でね、この棒のことをべらぼうと言ってたよ。ウチのほうじゃ。」
という説明を聞かされた,とある。そして,雲助師匠は,
「『べらぼう』は『便乱棒』が訛ったものだったんですよ。関東一帯で使われていた言葉が秩父に残っていたとしても不思議はありません。便乱坊の見世物が転じてべらぼうになったのではなくて、便乱棒に糞が積もったような姿の生き物の見世物だから便乱坊だったんです。」(http://www.asahi-net.or.jp/~cq1t-wkby/berabou.html)
「べらぼう」という言葉が先にあった,という感じは,僕もする。この説が最もリアリティがある。
確か,三田村鳶魚だったかが,書いた本は当てにならない,その時代を生きていた,じっちゃんの,
そんなものなかった,
の一言にはかなわない,と言っていたが,まさに,それを地で行く話なのかもしれない(もちろん。個人体験は,たまたまをそもそも,としているきらいがあるにしても)。
同じ糞べらといっても,かなり違いがあるらしいが,例えば,
http://www.honda.or.jp/honda/gaki.html
によると,『餓鬼草紙』という絵巻物の一場面にある図らしいが,
「道ばたで子どもが排便をしています。大便がつかないように高下駄をはき、しかもはだかです。右手には糞(くそ)べらを持って踏ん張っています。糞べらを支えにして勢いよく大便を出せば,お尻につかなくてすみます。仮についたとしても糞べらでこき落とすのです。」
とある(周囲が汚いので高下駄を履く,とも言う)。どうもこれは,ハイヒールの謂れともつながる話のようだ。それで,不意に思い出したが,
如何是仏
乾屎橛(かんしけつ)
という問答がある。その意は,
仏とは何かという問いに対し,くそかきべらじゃよ,と答えている。目の前の何であれ、そこに仏を見る。そこに総ての世界を見る。乾屎橛にこだわってはならぬ。こだわった瞬間、そこに意味をみてしまう。それが柄杓でも、太刀でも構わぬ,ということらしい。
ただ,「箆(篦)」の字は,
びっしりと並ぶ,
という含意があり,本来は,
くし,
を意味し,わが国では,どういうわけか,
へら,
と
の(矢柄)
を指し,細長く平たく削ってつくっただけの小刀,を意味する。
因みに,「べらぼうめ」は,「べらぼう」に強調の「め」を接尾語として付けたもので,「べらんめえ」は,「べらぼうめ」が音変化したもの,というよりは,
「江戸っ子の早口の巻き舌のはなしぶり」
では,そうなるのだろう。それにしても,たった一つの言葉を探るだけで,日本の文化の底へと辿らされる。
参考文献;
http://www.asahi-net.or.jp/~cq1t-wkby/otosi.html#chapter32
http://gogen-allguide.com/he/berabou.html
http://zokugo-dict.com/29he/berabou.htm
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月27日
貧乏ゆすり
「貧乏ゆすり」というのは,
座っている時などに,身体の一部(特にヒザ)を揺らし続けること,
をさす。『古語辞典』では,
びんばふゆるぎ,
という表現で出ている。貧乏ゆすりをしている人は、,指摘されるまで気づかないことも多いらしい。
貧乏ゆすりの原因には,いくつかの説がある。
「何かのきっかけ(脚の後ろをイスに当てるなど)で筋肉が収縮し、それから起こる一連の伸張反射によって、脚の前後の筋が交互に収縮伸張を繰り返すため。」
「ずっと座っていると、下半身の血流が滞ってしまうので、それを解消するために反射的に貧乏揺すりをする。
人間は何もしないという行為は、心理学的に不安になる事が多いために、それを解消するために貧乏揺すりをして気を紛らわせる。」
「貧乏揺すりをしている人は、たいていの場合において何かしらの欲求不満、ストレスを抱えている。
取りすぎたカロリーを本能的に消費しようとするため。」
等々といわれるらしいが,貧乏ゆすりは,何かしらの欲求不満,ストレスを抱えていて,それから脳をリラックスさせるためや,逃避行動の一種ではないかということらしい。確かに,ストレス解消手段の一つではあるらしく,
「足元からの刺激が中枢神経に伝わり、イライラや緊張感を緩和させる」
のだという。だから,中断すると,かえって,イライラが募ってしまうかもしれない。
「貧乏ゆすり」は,「貧乏」にあてこすっているように聞こえるが,
「貧乏+ゆすり」
が語源で,「貧乏ヒマなし」の類で,席を温める暇もない,というところから,
せわしなく膝を動かす,
仕草を言ったのではないか,と想像されるが,
貧乏人が寒さに震える様子から,
高利貸しが貧乏人から取り立てる際に足をゆすることが多かったから,
江戸時代に足をゆすると貧乏神に取り付かれるといわれていたから,
といった諸説があるが,真偽はわからないが,
「『貧乏揺すり』というように,『いらいらしている際の足を揺する行為』に対して名前をつけているのは日本のみである。」
という。会話では,
Jittering
とか
Fidgeting
と言うらしいが,別に膝を揺すっていることを指しているのではなく,
(落ち着かず)そわそわ,もじもじする
という心理を指しているようだ。だから,本来の貧乏ゆすりの意味と近いかもしれない。
因みに,「貧乏」というのは,
貧しいこと
であるが,中国語の,
「貧(貧しい)+乏(財産が乏しい)」
から来ている。古代から,この語は使われていたらしく,
ヒンボク,
ビンボク
とも読まれていたらしい。まあ,関連する語の多いこと。
貧乏神,
貧乏くじ,
貧乏葛,
貧乏芸,
貧乏性,
貧乏線,
貧乏蔓,
貧乏徳利,
貧乏鼻緒,
どれも,余り有り難くない。
漢字から調べてみると,「貧」は,
「分+貝」
「分」は,「八印(左右にわける)+刀」の会意文字。刀で,二つに分けること。
「貝」は,われめのある子安貝,また二枚貝を描いたもの。古代には,貝を交易の貨幣に用いたので,貨・財・費などの字に貝印を含む。
で,「貧」は,財貨を分散し尽くして乏しくなったこと。
ひょっとすると,「貧乏」であること自体が,ストレスであるかもしれない。しかも,将来に何の見込みも,何の見通しも立たないと感じたとき,その解消は,
貧乏ゆすり,
では果たし得ないのではないか。昨今の社会自体が,苛立ち,ストレスで貧乏ゆすりしている状態は,いい兆候ではない。日中戦争直前の,
関東大震災,昭和金融恐慌(昭和恐慌),
以降の停滞した雰囲気と似ている,という人が多い。
日中戦争以降,太平洋戦争二年目くらいまでの,(戦争による)好景気の味を占めようとする動きが出てきてもおかしくはない(現に,JR東海の葛西 敬之は,「戦争でも起きないと日本経済も立ちゆかなくなってきますなあ」と発言している)。いま,もう地獄の一丁目,大瀑布の直前にいる。貧乏ゆすりなどしている暇はないのかもしれない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月28日
ゆする
「ゆする」は,『広辞苑』によると,
揺り動かす
(遊里語)言いがかりをつけて,脅したりして相手の心を知ろうとする
(「強請る」とも当てる)脅したり,言いがかりをつけたりして,無理に金品を出させる
が意味として出ている。しかし,『大言海』は,「ゆする」を,次のように,項を分けている。
ゆする ル・レ・ラ・リ・レ(自動四)(一)響動(とよ)む。どよめく,(二)ゆれる,ゆらぐ,ゆらゆらと動揺す。
ゆする ル・レ・ラ・リ・レ(他動四)(一)ゆする,ゆさぶる,人の目を覚ますために押し動かす。揺り動かす,(二)おどかして,金銭などを強い取る,ねだる,強請る。
ゆする ルル・ルレ・レ・レ・レヨ(自動下二)前々条の語に同じ。
この厳密さが,何度も言うが,村上一郎が,『草莽論』の冒頭で,
「『さうまう』と『さうまうのしん』を別項として,この大辞典の編著上の見識を示している。」
と書いた所以だと思う。ついでに『古語辞典』をみると,
揺り
と
揺すり
を分けているが,「揺すり」に,
「根底に衝撃を与えて,その振動を全体に及ぼす意」
と注記が入っている。そういう原点を考えると,「ゆすり」の意味の波及がよくわかるところがある。更に意味を見ると,
(衝撃の起点から)震動を伝える,ふるわし動かす,
(あることがきっかけで)こぞって大騒ぎする,
ゆさゆさとゆさぶる,ゆさぶりをかける,
おどしかけ,または言いがかりをつけて,自分の意志を相手に受け入れさせる,
あり,名詞化して,
おどすなどして金銭をむりやりとる,
(上方で言う)飾ること,凝ること,
高慢,自惚れ,特に着飾って自慢すること,
とある。別に辞書の紹介をしたいのではないが,辞書もまた,編者の著作なので,編者の仮説に基づいて,意味をひもとく。どれが正しいかではなく,どれが,言語感覚として,腑に落ちるか,ということなのだろう。
僕には,『大言海』の解釈がわかりやすい。それに,
根底に衝撃を与えて,その振動を全体に及ぼす意,
を加えると,そこから,「強請(ゆす)る」につながる気がする。強請られるに値する,瑕疵というか,後ろ暗いことが,その人の在りようそのものに関われば関わるほど,そのゆさぶりは,
全体に波及する。
岡本綺堂『三浦老人昔話』の「鎧櫃の血」に,ある旗本が,赴任地の大阪城の番士を務めるため御用道中をする,という話が出ている。御用道中は,公なので,
「道中は幅が利きます。何のなにがしは御用道中で何月何日にはどこを通るということは、前以て江戸の道中奉行から東海道の宿々に達してありますから、ゆく先々ではその準備をして待ち受けていて、万事に不自由するようなことはありません。泊りは本陣で、一泊九十六文、昼飯四十八文」
というわけで,「駕籠に乗っても一里三十二文」の時代,「御用」という看板のおかげて,楽な道中をすることができる,らしい。そして,こんなことが出ている。
「御用道中の悪い奴に出っくわすと、駕籠屋があべこべに強請ゆすられます。道中で客が駕籠屋や雲助にゆすられるのは、芝居にも小説にもよくあることですが、これはあべこべに客の方から駕籠屋や雲助をゆするのだから怖ろしい。主人というほどの人は流石さすがにそんなこともしませんが、その家来の若党や中間のたぐい、殊に中間などの悪い奴は往々それを遣って自分たちの役得と心得ている。たとえば、駕籠に乗った場合に、駕籠のなかで無暗むやみにからだを揺する。客にゆすられては担いでゆくものが難儀だから、駕籠屋がどうかお静かにねがいますと云っても、知らない顔をしてわざと揺する。云えば云うほど、ひどく揺する。駕籠屋も結局往生して、内所で幾らか掴ませることになる。ゆすると云う詞ことばはこれから出たのか何うだか知りませんが、なにしろ斯ういう風にしてゆするのだから堪りません。それが又、この時代の習慣で、大抵の主人も見て見ぬ振をしていたようです。それに余りにやかましく云えば、おれの主人は野暮だとか判らず屋だとか云って、家来どもに見限られる。まことにむずかしい世の中でした。」
とある。この中の,
「ゆすると云う詞ことばはこれから出たのか何うだか知りませんが」
というくだりが気になったので,蜿蜒調べた次第。しかし,綺堂先生のご説は,当たらないようである。むしろ,「揺する」という言葉の語感からの汎用に見える。
「強請る」のゆするは,
蠕動がじわじわと全体に響いていく,
というニュアンスで,単なる,
脅す,
や
脅し取る
という強面ではないし,
せびり取る
や
吸いとる
や
搾り取る
とも違う。あえていえば「強要」が近いか。『語感辞典』には,
「恐喝に比べ,脅す迫力が弱い」
とあったが。それは当人の心理とは関係なさそうだ。ところで,
強請る
は,「ゆする」と読ませるが,そのほかに,
ねだる
せびる
せがむ
とも読ませる。その違いを,
「ねだる」は,相手に甘えてものを要求する気持ちが強い,
「せがむ」は,物や行動を性急にかつ連続して要求すること,
「せびる」は,主に金銭を強要する色合いがある,
と,区別している。そういう意味では,「強請る」には,
「ねだる」から「ゆする」
間での,意味の幅がある。それは,同じことをしても,相手には,
(度を越した)ねだるの延長線
か,
(度を越した)せびるの延長線
か,
(度を越した)せかむの延長線
か,
(度を越した)ゆするの延長線
かの,その閾値というか境界を越えるか越えないかは,両者の関係,求める側と強いられる側との関係に依存しているように見える。あるいは,それは,
セクハラ
や
パワハラ
のもつ関係性とダブってくるように見えるのは僻目だろうか。
参考文献;
岡本綺堂『三浦老人昔話』(kindle版)
村上一郎『草莽論』(大和書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大野晋・浜西正人『類語新辞典』(角川書店)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年07月09日
きりょう
「きりょう」と聞いて,
縹緻
と思い浮かべた人は,相当の人である。ふつうは,
器量
を当てる。意味は(『広辞苑』によると),
(「器」は材の在る所,「量」は,徳のみつる所の意)
と注記して,
その地位・役目にふさわしい才能・人柄,
才能・力量の優れていること,
ものの上手,
(「縹緻)とも書く)顔だち,見目,また容姿のすぐれていること,
とある。『古語辞典』でも,ほぼ同じ(もうひとつ「からだつき」という意味を加えているが)。『大言海』も同じ。
「器量」という漢字に出典があるらしいのだが,漢字の「器量」には,
はたらき,
度量,
という意味しかない。で,最後に,わが国のみに通用する訓義として,
みめかたち,
の意味が載っている。「器(噐)」は,
「口四つ+犬」
で,さまざまの容器を示す。犬は,種類の多いものを代表している,とある。つまり,器は,
道具であり,
入れ物,
である。孔子が,
君子は器ならず,
といったのは,特定の用途に対応する道具であってはならない,という意味を込めていた。「量」は,前にも触れたことがあるが,
「穀物のしるし+重」
で,穀物の重さを天秤で計ることを示す。穀物や砂状のものは,秤と枡のどちらでも計る。で,後に分量の意となる,そうだ。だから,
はかる,
と,
かさ,
と,
ます,
の意がある。「量」と対比して,「はかる」漢字は,物理的な「はかる」と心理的な「はかる」も,「計る」として,対比している(処が,実際的で面白い)が,その字の多いこと。
「計」は,物の数を数える,
「図」は,(「はかる」と読む)料度,軽量の意。(「はかりごと」と読む)謀略,
「量」は,ます。後に転じて,分量をつもり見る,
「謀」は,心に慮る。人と相談してはかるに用いる,
「度」は,ものさしのときは,ドと読む。転じて大度と用いる。はかると訓むときは,タクと読み,尺度。長短を計る如く,心につもり見る,
「称(稱)」は,はかり。秤にかけて軽重を知るように,釣りあいよくする義,
「権(權)」は,物の軽重を掛けてみるように,差し引き見計らう,
「測」は,水の深浅をはかる。転じて,奥底のはかり知られぬ義,
「料」は,ますめに数える儀,心にはかりつもるにも用いる,
「忖」は,先方の心を推量する,
「商」は,商量,商略に用い,彼此をつもりはかる,
「揆」は,度に同じ,一つのかたに合うか合わぬかをはかる,
「略」は,田地の境を計量する義,切り盛りするに用いる。はかりごとと訓むときは,策略等々。はかると訓むときは,こうすれば善,こうすれば悪と,ひとつひとつはかる,
「算」は,算木。転じて,謀略の意に,
「議」は,ことのよろしきを評定する,
「程」は,これ程と限量をたてる,
「詮」は,はかりにものをかける如く,品位の高低を詳しく品評してわかつ,
「衡」は,はかりのさき,転じて,左右を見合わせ公平にはかる,
等々,これくらいでやめておくが,物理的に計ることが,心での是非,可否の判断になぞらえられ,細かく,文字が使いわけられているのに驚嘆する。これは,使うのも覚えるのも大変に違いない。
いやいや,本題から外れた。ようするに,「器量」という字からは,
縹緻,
の意味は伺いしれない。「器量」という漢字に,
縹緻
の意味はないから,当て字には違いないが,
「器量」の当て字,
という言い方はおかしいだろう。
「 縹緻」の「縹」は,
「糸+票」
で,「票」は,「要(細い腰)の略字体+火」で,こまかい火の粉が軽く目立って飛び上がるさま,を表し,「縹」は,
薄い藍色,肌色,はなだ色の絹布,
薄く軽いほんのりと浮かぶ(「縹渺」等々)
という意味があるが,「はなだ色」というのは,ウィキペディアには,
「縹(はなだ)もしくは縹色(花田色、はなだいろ)とは、明度が高い薄青色のこと。後漢時代の辞典によると『縹』は『漂』(薄青色)と同義であるとある。花色、月草色、千草色、露草色などの別名があり、これら全てがツユクサを表している」
とある。「緻」の,「至」「致」は,
隙間なく届くこと,
で,「緻」は,糸と糸との間が隙間なくくっついていること,の意味。だから,
こまかい,
とか,
隙間がない,
という意味になる。精緻,緻密の「緻」である。どう考えても,「縹緻」の「縹」の字も,「緻」の字も,見目のよさを示す意味はない。しかし,憶測だが,どうやら,見目麗しさに,
縹緻
を当てた人は,「はなだ色」のもつ特色をよく知っていて当てはめたのではないか。とすれば,なかなか端倪すべからざる人物というべきではないか。縹色(花田色)は,
「本来、露草の花弁から搾り取った汁を染料として染めていた色をさすが、この青は非常に褪せ易く水に遭うと消えてしまうので、普通ははるかに堅牢な藍で染めた色を指し、古くは青色系統一般の総括的な呼称として用いられたようだ。ただしツユクサ(ボウシバナ)の栽培種であるオオボウシバナは未だに友禅などの下絵作業に利用されている。」
そうで,
「花色といえば移ろい易いことの代名詞であった。枕草子に『移ろひやすなるこそ、うたてあれ』と嘆かれている儚い色は露草の青である。」
そのはかない美しさを示すのだとすれば,なかなか皮肉な人でもある。小野小町の,
「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
である。
本当は,僕は,人の器の容量を表す,
器量,
度量,
雅量,
広量,
大量,
力量,
度量,
技量,
という言葉が,昔から気になっていた。そのことを調べていこうと思って,話が,横道へ逸れたまま,元へ戻れなくなった。これは,別の機会に譲ろう。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年07月10日
器量
「縹緻」あるいは「器量」について書いているうちに,「器量」の方について,書き残したことを,ふたたび書く。
僕は,自分に器量も度量もないせいか,
器量,
度量,
雅量,
広量,
大量,
力量,
技量,
という,人の奥行を示す言葉が,昔から気になっていた。この中で,その人の大きさを示すのが,
器量,
度量,
雅量,
広量,
大量,
その人のもつ才覚,技能,能力を示すのが,
技量(「技倆」とも書く,腕前,技能の多寡),
力量(人の能力の大きさ),
だら,ここでは,前者の五つが,問題になる。しかし,器量を除くと,雅量(広くおおらかな度量),大量(度量が広いこと,広量),広量(度量が広いこと)は,いずれも,
度量
の大きいことを指しているので,度量と器量の対比,ということになる。因みに,「量」は,前にも触れたが,
「穀物のしるし+重」
で,穀物の重さを天秤で計ることを示す。穀物や砂状のものは,秤と枡のどちらでも計る。で,後に分量の意となるから,
はかる,
と,
かさ,
と,
ます,
の意がある。はかった嵩を取るか,はかった容量をとるか,どっちにしろ,大きさの程度という意味になる。
「器(噐)」は,
「口四つ+犬」
で,さまざまの容器を示す。犬は,朱ネイの多いものを代表している,とある。つまり,器は,
道具であり,
入れ物,
である。だからといって,器量は,その人の図体やがたいの大きさを言っているのではない。辞書的には,
その地位・役目にふさわしい才能・人柄,
才能・力量の優れていること,
ものの上手,
となっているが,むしろ,それなら,技量や力量と言えば済む。それも含めた,
人としての器の大きさ,
ということを準えているのだろう。「度」(ものさしのときは,ドと読む)は,
「又(て)+庶の略体」
とある。尺(手尺で長さをはかる)と同系で,尺とは,尺取虫のように手尺で一つ二つと長さをはかること,という意味らしい。だから,「度」は,
ものさし,
めもり,
基準,
といった尺度に関わるものが多く,そこからの転用で,
心・人柄のぐあい,
といった意味になっている(「態度」「大度」)。
そう考えると,「度量」は,
こころをはかる,
という意味なのだが,辞書的には,「長さと容積」「尺と枡」という意味の他,
心が広く,心を広く受け入れる性質,
となっている。
しかし,器量は,器を指し,度量は,物差しを指す,当然,
度量は,はかる側からの視点,
と
器量は,はかられる側からの視点,
を比べれば,常に,度量の側が,いわば,メタ・ポジションに立っている,という意味では,常に一歩先にいる,という感じであろうか。
だからか,器量の意味は,
その地位・役目にふさわしい才能・人柄,
才能・力量の優れていること,
ものの上手,
と,技量,技量のメタ・ポジションに立っているイメージである。まあ,力量や技量のある人,という意味である。ついでに,技量と力量を比較すると,
技量(「技倆」とも書く,腕前,技能の多寡),
力量(人の能力の大きさ),
で,力量が,技量のメタ・ポジションに立っている。技量は,力量の一部,ということになる。
力量,つまり能力については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/417632824.html
で触れたが,これは,そこでも書いたことだが,アージリスの言った,
コンピタンス
と
アビリティ
の区別で,より明瞭になる。コンピタンスとは,
それぞれの人がおかれた状況において,期待される役割を把握して,それを遂行してその期待に応えていける能力,
であり,ある意味,自分への役割期待を自覚して,そのために何をしたらいいかを考え実行していける力であり,それは,自分がそこで“何をすべき”かを自覚し,その状況の中で,求められる要請や目的達成への意図を主体的に受け止め,自らの果たすべきことをどうすれば実行できるかを実施して,アウトプットとしての成果につなげていける総合的な実行力,である。アビリティとは,
英語ができる,文章力がある等々といった個別の単位能力,
を指す。どうも,これは,Knowing howでしかなく,やれることの意味と目的がわかっている(Knowing that)のでなければ,知っていることにはならない。この両者かずあって,力量と言う,ということになる。これの許容量という意味で,通常力量とされるが,むしろその受容余地という意味で,器量こそが,キャパシティなのではあるまいか。
今日のアイデア;
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2015年07月13日
うしろ
「うしろ」は,
「う(内部)+しろ(区域)」
で,内部から転じて,後部となった語,とされる(『日本語源広辞典』)。あととか背後の意味も持つ。しかし,『古語辞典』をみると,「うしろ」は,
「み(身)」の古形「む」と「しり」(後・尻)の古形「しろ」の結合した「ムシロ」の訛ったもの
とある。で,かつては,
まへ⇔しりへ
のちには,
まへ⇔うしろ
と対で使われる,とある。『大言海』には,
身後(むしり)の通音
とあり,むまの,うま(馬),むめの,うめ(梅)と同種の音韻変化,とある。ちなみに,「しり」は,
口(くち)と対,うしろの「しろ」と同根。
しり(後)
で,前(さき)後(しり)の「しり」が語源とある。いずれにしろ,「後」は,
背後から,後部,背中,後姿,裏側,物陰,
までの意味がある。普通は,
後ろ
と当てるが,「後」という字は,
幺(わがか,ちいさい)+夂(あしをひきずる,おくれる)+彳(いく)
で,足をひいてわずかずつしかすすめず,あとに遅れるさまを表す。後に,「后」に通じるが,「后」の字は,
人の字の変形+口(あな)
で,しりの穴(后穴)を指す。「後」と通じて用いられる。
「後」というのは,したがって,
遅れる
だの
物陰
だの
裏側
だの
背後
だのと,余りいいイメージではない。そのせいか,
後ろ足(逃げ足),後ろ明かり,後ろ歩み(あとじさり),後ろいぶせ(将来への不安),後馬(尻馬),後ろ押し,後ろ髪,後ろ影,後ろ軽し,後傷(向う傷の逆,逃げた証),後ろ暗い,後袈裟,後ろ言(陰口,愚痴),後詰(うしろづめ,後詰(ごづめ)),後ろ攻め,後ろ千両,後ろ盾,後ろ手,後ろ付き,後ろ違い,後ろ礫,後ろ飛び,後巻,後ろの目,後弁天,後ろ前,後ろめたい,後ろを見ず,後ろ向き,後見,後見る,後ろ矢(敵に内応して味方を射る),後安し,後ろ指,後を切る,後を見せる,
等々,どうも明るいものが少ない。
ついでに,「尻」という字は,九が,
「手を曲げてひきしめる姿を描いた象形文字で,つかえて曲がる意を示す」
とあり,「尸(しり)+九」で,人体の末端の奥まった穴(肛門)のあるしり」のこと,とされる。
したがって,「しり」も,
尻から抜け,尻に敷く,尻に帆掛ける,尻も溜めず,尻も結ばぬ糸,尻を割る,尻がかるい,尻が重い,尻馬,尻ごみ,退く,尻目,尻が据わる,尻が長い,尻上がり,尻足,尻押し,尻が来る,尻こそばゆい,尻から焼けてくる,尻切れトンボ,尻毛を抜く,尻声,尻ごみ,尻下がり,尻すぼみ,尻叩き,尻に火がつく,尻ぬぐい,尻抜け,尻早,尻引き,尻舞い,尻目,尻目遣い,尻もや,尻を落ち着ける,尻を食らえ,尻を拭う,尻を引く,尻を捲る,尻を持ち込む,
尻も,後と同様,あまりいい意味はない。そのせいか,「しり」と読むとき,尻と後は,
しりうごと,で後言,とあて,
しりえ,で後方とあて,
しりえで,で後手とあて,
しりさき,で後前とあて,
しりざま,で後方とあて,
しりざら,で後盤とあて,
しりつき,で後付とあて,
しりっぱね,で後つ跳ねとあて,
しりぶり,で後振りとあて,
等々,どうも語感で,「後」の字と「尻」の字を使い分けている感じである。しかし,「うしろ」と訓ませるときは,
後ろ暗いが尻ぐらいとも,
後ろめたいが尻めたいとも,
後ろ指が尻指とも,
後を見せるが尻を見せるとも,
「尻」を当てることはないようだ。どうも,妄説だが,「尻」は,物事の付けのように,一つ一つの振る舞い(しくじり)を指し,「後」は,それ自体がその人の在りよう(の落ち度)を示す振る舞いに敷衍される使い方が多い気がする。「尻」の字と「後」の字が与える印象から来ているのかもしれない。「しり」と「うしろ」では,随分語感が違う。
いずれにしても,背後や背中と言うのは,そうそう人に見せない者なのだろう。後が陰なく,晴れ晴れしているのもいいが,どこか陰翳がない。それよりは,どこか得体のしれないところがある方が,人は魅力的なのかもしれない。
いい歳をして,
いい人ですね,
と言われるのは,聊か恥ずかしい。後ろ影が,暗く,単なる後姿ではなく,暗く深く見える,
陰翳
が,ほしい。それは,たぶん,どれだけ修羅場をくぐったかに,よるのだろう。だから,後傷は恥であり,
向う傷,
が誉れなのだ。それは何にも,成功失敗,功の有無を指さない。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
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2015年07月14日
横
よこざま,
という言葉がある。
横様
あるいは
横方
と書く。当然ながら,
横の方向,
とか
横向き,
という意味たが,僕が見た用例は,
当然でないこと,
道理に背くこと,
よこしまなこと,
という意味であった。どうも「よこ」という言葉に意味がある。
因みに,漢字の「横」は,「黄(呉音おう・漢音こう)」が,火矢の形を描いたもので,上は,「廿+火(=光)」の略体,下は,中央にふくらみのある屋の形で,油をしみこませ,火をつけて飛ばす火矢。火矢の黄色い光,つまり,「黄」は,
動物の脂脂肪(廿印)のついた火を描いた象形文字で,四方八方に発散する火矢の光,
を表し,「横」は,「木+横」で,中心線からはみだして広がる横木,勝手に広がる意を含む,という意味で,多少「はみだす」という含意がなくもないが,和語「よこ」の方にその意味が強いようだ。
「よこ」には,いくつか語源があるが,
ひとつは,「ヨコタフ」が語源で,体をヨコタエルのヨコ,
いまひとつは,「ヨ(寄)+コ(方向)」で,正面に対して,「寄る方向」がヨコ。不正な方向,ヨコシマのヨコ,
この第二説が,横しまは,横様に通じる,と言えるが,どうも,直感的には,順逆がさかさまの気がする。「よこ」のもつ(当然でないという含意というか)意味から,横様が出たのではあるまいか。
もう一つの説は,
ヨキ(避き)と同根。平面の中心を,右または左に外したところ,またその方向の意。タテ(垂直)に対し,水平方向の意。転じて,意識的に中心点に当たらないようにする,真実・事実を避ける意から,「よこごと(中傷)」,「よこしま(邪悪)」等々,故意の不正の意に用いた。類義語「ワキ(脇)」は,中心となる者にぴったりと添ったところの意,
この説の方が,委曲を尽くしているように思う。ただ,(ここまで書いてきて,はたと気づくのは)ひょっとすると,本来,タテ(正道)に対して,ヨコは,縦にするのを横に倒す,という喩から,もともと正しくない,という意を含んでいた,とも見られなくもない。
横様雨,
横様斬り,
は,たた横向きを指しているだけだが,
横様の死,
は,横向きの含意がある。横様の死が「横死」の訓み,で文字通り,非業の死,というニュアンスだが,
犬死,
というか,まっとうではない死に様をしめしている。ただ,
横様の幸い,
は,予期しない幸い,僥倖,というか棚ぼたである。想定外,とか不意に,というニュアンスがある。「横死」の「横」にもそんな含意があるのかもしれない。
横矢,
横槍,
は,側面を,鑓や矢で突かれたことを意味しているから,そこにも,不意打ちのニュアンスがある。
しかし,考えると,
横言,
横訛り,
横飛び,
横恋慕,
横流し,
横取り,
と,「横」のつく言葉は,横向きという以外は,ほとんど悪意か,不正か,当たり前でない,ことを示すことが多い。
横を行く,
と言えば,無理を通すだし,
横車,
も,横向きに車を押す,ことだから,理不尽さ,という意味合いを含んでいる。
横紙破り,
は,線維に沿って縦に破るのではなく,横に裂こうとする含意から,無理押しの意味が含まれる。
そういえば,以前,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/418108792.html
で,「立板に水」に対して,「横板に飴」という言い方について書いたことがあるが,ひょっとすると,「横」に意味があり,木目に逆らって,というところに,不正とは言わないが,不自然さ,というニュアンスを含めていたのではないか,ということに思い至る。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm