2015年07月16日

あなかしこ


「あなかしこ」は,

穴賢,

とも当てるらしいが,『広辞苑』では,

恐惶,

の字も当ててある。一般に,

アナは感動詞,カシコは,畏(かしこ)しの語幹,

と説明される。意味は,

①ああ,畏れ多い,もったいない,
②呼びかけの語。恐れ入りますが。
③(下に禁止の語を伴って副詞的に)けっして,くれぐれも,ゆめゆめ。
④畏れ多いとの意で,手紙の末尾に用いる語。恐惶謹言。

といったところである。ただ,『古語辞典』では,細かいようだが,

ああ,恐ろしい,ああ,恐縮である,

ああ,畏れ多い,もったいない,

を区別している。「穴賢」と当てる,「賢い」は,もともと,

「畏(かしこ)し」の転義,

とあり(『広辞苑』),

恐ろしいほどの明察の力がある,
才知・思慮・分別などが際立っている,
(生き物のや事物の)性状,性能が優れている,
抜け目がない,巧妙である,
尊貴である,
(めぐりあわせが)望ましい状態である,
(連用形を副詞的に用いて)非常に,甚だしく,

といった意味に転じているが,元来は,

「海・山・坂・道・岩・風・雷等々,あらゆる自然の事物に精霊を認め,それらの霊威に対して感じる,古代日本人の身も心もすくむような畏怖の気持ちを言うのが原義。転じて畏怖すべき立場・能力わもった人・生き物や一般の現象も形容する。上代では,『ゆゆし』と併用されることが多いが,『ゆゆし』は物事に対するタブーと感じる気持ちを言う。」(『古語辞典』)

という背景がある,とされる。とすれば,

畏れ多い

畏怖

畏敬

が先で,そこから,

優れている,
際立つ,

となり,

ありがたい,

と転じていく,というのはよく分かる。

しかし,僕の中では,「御文」の末尾の(独特の節回しで)言い回しのイメージが強い。

たとえば,法事で,菩提寺(真宗大谷派)の住職が,お経をあげた後,必ず席を替えて,詠まれるのが,たぶん(記憶に合うところを重ねてみると),

「夫 人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ觀スルニ オホヨソハカナキモノハ コノ世ノ始中終 マホロシノコトクナル一期ナリ
サレハ イマタ万歳ノ人身ヲウケタリトイフ事ヲキカス 一生スキヤスシ イマニイタリテ タレカ百年ノ形躰ヲタモツヘキヤ 我ヤサキ 人ヤサキ ケフトモシラス アストモシラス ヲクレサキタツ人ハ モトノシツク スヱノ露ヨリモシケシトイヘリ
サレハ 朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ ステニ无(無)常ノ風キタリヌレハ スナハチフタツノマナコ タチマチニトチ ヒトツノイキ ナカクタエヌレハ 紅顔ムナシク變シテ 桃李ノヨソホヒヲウシナヒヌルトキハ 六親眷屬アツマリテナケキカナシメトモ 更ニソノ甲斐アルヘカラス
サテシモアルヘキ事ナラネハトテ 野外ニヲクリテ夜半ノケフリトナシハテヌレハ タヽ白骨ノミソノコレリ アハレトイフモ中々ヲロカナリ サレハ 人間ノハカナキ事ハ 老少不定ノサカヒナレハ タレノ人モハヤク後生ノ一大事ヲ心ニカケテ 阿彌陀佛ヲフカクタノミマイラセテ 念佛マウスヘキモノナリ アナカシコ アナカシコ」

という,御文(おふみ)と言われるもので,末尾に必ず,「あなかしこ」がつく。当然手紙なので,末尾にある物なのだろう。

御文(おふみ)は,

「浄土真宗本願寺八世蓮如が、その布教手段として全国の門徒へ消息(手紙)として発信した仮名書きによる法語。本願寺派では『御文章(ごぶんしょう)』といい、大谷派では『御文』、興正派では『御勧章(ごかんしょう)』という。なお、本願寺が東西に分裂する以前は、『御文』と呼ばれていた。」

という。

「蓮如の孫である圓如が、二百数十通の中から80通を選び五帖に編集した物を『五帖御文(ごじょう おふみ)』という。そのうち1帖目から4帖目には日付があるものを年代順にならべてあり、5帖目には日付が不明なものをまとめてある。そのため、4帖目の最後、第15通「大坂建立」は、蓮如の真筆では最後の御文。遺言ともいわれる。」

という。上げた御文は,御文の5帖目第16通「白骨」(はっこつ)と呼ばれるもので,御文の中でも特に有名なものである,という。この御文は宗派により呼び方が異なるらしいが,大谷派では,

「白骨の御文(おふみ)」

とある。

たしかに,手紙形式を取っているので,末尾に,「あなかしこ」とくるのはおかしくはないが,

http://sairen99.cocolog-nifty.com/kotoba/2012/10/post-1c19.html

によると,

「『御文』を書かれた蓮如上人としては、
『親鸞聖人のおしえをいただき、その聖人のおしえやお気持ちを、謹んであなたにお伝え申しあげます』という気持ちがあったことだと思います。」

として,

「お手紙の書き手は、誰に向けて手紙を書いていると思いますか?
一番の対象は、手紙を差し上げる方ではなく、書き手自身だと思います。手紙は、相手に対する思いやりの気持ちを表現します(励まし・注意・感謝・お礼等々)。自分の気持ちと向き合った上で、相手に向かうのが手紙を書くということです。
差出人でありながら、宛先人でもあるのです。自分の気持ちと向かい合わなければ、手紙は書けません。
蓮如上人の『御文』は数多くありますが、それぞれ誰に宛てての「御文」なのか、だいたい分かっています(想定されています)。
確かに、それぞれの方に対して、親鸞聖人のおしえをお伝えしたい気持ちいっぱい(あなかしこ)にお手紙を書かれているのですが、それは同時に、蓮如上人自身がおしえに、自分自身に真向かいになることであります。」

と付け加えてある。ということは,それをよみつつ,住職もまた,

自身に向かって自問している,

という形式になる。手紙を繰り返し伝える,とは,読み手が聴き手に伝えるだけではなく,読み手自身も,蓮如をなぞって,自問する,というカタチになるのかもしれない。前記の書き手(真宗のお寺の副住職らしい)は,

「『あなかしこ』には、『謹んで“あなたに”お伝え申しあげます』という気持ちと共に、『弥陀の慈悲、親鸞聖人のおしえを、この蓮如、有り難くいただきました』という感謝の念が込められているように感じられます。
そのように感じられてこそ、『あなかしこ』が『南無阿弥陀仏』と聞こえてきます。」

とまとめている。あなかしこには,

畏怖

畏敬

(それが転じた)感謝

の思いがこもっている。

あなかしこ

には,手紙の末尾で,読んでいただいたことへの御礼もまたこもっているようである。

あなかしこ あなかしこ。





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2015年07月17日

でたらめ


「でたらめ」は,

出鱈目,

と当てる。江戸末期から使われていた,という。「目」はサイコロの目を指し,

さいころを振って、出たその目のままにする意,

という。

根拠がないこと,
首尾一貫しないこと,
いいかげんなこと,
またそのさまや、そのような言動,

をいう。まあ,その実例は,今日のどこかの政府に,絵に描いたように顕現している。意味は,

いい加減,

に似ているが,「いい加減」は,「良い加減」とあてるように,

「いい(良い)+加減」

から来ていて,本来,良い状態,良い程度ををさし,それが転じて,一貫性や明確性を書いて,行き当たりばったりな態度に使うようになった。ある意味,

加減の基準(の幅)がぶれまくる,

という意味合いだろう。『大言海』は,

好加減,

と当てて,「東京語,加減も,位も,程合いなり」として,

ほどよきこと
心を尽くして処分せぬこと,いいくらい,

と,意味を説く。「心の有無」を,ここでは問題にしている。

「出鱈目」は,サイの目次第だから,

出たとこ勝負,

という感じである。『大言海』は,「出た次第の目の意,出鱈目は当て字」としている。で,

「口に出ままに,虚言などを述べ,または,法にも理(すじ)にも当たらぬ仕業などすること」

とある。一六勝負だから,である。だから,

筋の通らない,
でまかせ,

ということになる。結果として,いい加減と似ているが,そもそも,出たとこ勝負なのだから,思いつくまま勝手なことを言ったりしたりするので,もともと責任とか徹底性とかがあるはずはない。いい加減は,

その都度基準が違う,

から,その場しのぎといってもいい。『デジタル大辞泉』には,

「『でたらめ』は思いつくまま勝手なことを言ったりしたりすることであり、『Aさんをめぐる噂 はでたらめだった』では『いいかげん』と置き換えられない。」

として,

いい加減な解決の仕方,
とか
いい加減な態度を取る,

というのは,

出鱈目な解決の仕方,
とか
出鱈目な態度を取る,

には置き換えられない,とする。確かに比べてみると,そこに微妙な語感の差がある。敢えて言えば,

倫理の有無,

なのではないか。つまり,(その人の生き方,ありようと関わる)責任の有無が入るか入らない,という感じであろうか。出鱈目は,口放題だから,その埒外である。たしかに「でたらめ」は「いい加減」に(「いい加減」を「でたらめ」にも),言い換えられない感じのなのである。

『大辞泉』には,

「類似の語に『出まかせ』『めちゃくちゃ』『ちゃらんぽらん』がある。『出まかせ』は『口から出まかせを言う』のように勝手放題の意で、『めちゃくちゃ』は『めちゃくちゃな話』のように筋道の通らないの意で、『でたらめ』と相通じる。『ちゃらんぽらん』は無責任の意で、『いいかげん』と相通じる。』

ともある。そう,でたらめは,出放題だから,嘘とか,空ごと,とはちょっと違う。そういう責め方の外にある。いい加減は,虚言,戯言,譫言につながる。

さて,どっちが,無責任度が高いのだろうか。それが,責任ある地位の場合は,どうか。

参考文献;
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)






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2015年07月19日

彌造


彌造(弥造あるいは弥蔵とも)は,

やぞう(やざう)

と読む。隠語大辞典(http://www.weblio.jp/content/%E5%BC%A5%E9%80%A0)によると,

「弥次郎兵衛の転語で、懐手して拳を肩先にふくらませる格好。町の無頼漢や下品な職人がする風体。」

とある。弥次郎兵衛は,というと,

「人形の一種。頭と胴に見たてた短い立棒に,腕に見たてた長い横棒をつけ,横棒の両端におもりをとりつけたもの。立棒の下端を指で支えると,大きくゆれながら,バランスを保つ。振り分け荷物を肩にした与次郎人形の姿に作ったのでいう,与次郎人形,つり合い人形」

とある。『広辞苑』によると,

振り分け荷物を肩にした弥次郎兵衛の人形を用いたから言う,

とある。『古語辞典』では,「彌蔵」を当て,

近世,男の奉公人の通名,
懐手して拳をつくり,衣を突き上げる恰好。近世後期,江戸で言う,

とある。『広辞苑』では,「弥蔵」と当てている。

奉公人の通称,
懐手をして,着物の中で握りこぶしをつくり,肩の辺りを突き上げる姿形。江戸後期,職人,博徒などの風俗。

とある。やっている仕草はよくわかるが,これは,

ちょっと粋がって見せている,

ということなのだが,どうも,普通の町人というよりは,火消や鳶職の人を指しているに違いない。だから,

男伊達,

を気取っている,ということになる。伊達については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163232.html

で触れたが,いまで言うと,

鳶職の人のズボン,
あるいは,
土木・建設工事の作業服,

というか,

ニッカボッカ(Knickerbockers)

をさらに膨らませたのを穿いている,のがそれにあたるかもしれない。かえって危ないのではないか,と思うが,どうも流行らしい。

元来は,(鳶や火消しは)通常の着物では仕事として動きにくいため,

下半身は股引き,上は筒袖,

というスタイルで,いまの洋服と変わりがない。忍者や行者(修行僧)達もちょっと膨らみのある,裾は絞ったものをはいていた,というから,激しい動きや足捌きを必要とする人にとっては,



でも邪魔で,足首を絞る必要があったのだろう。

忍者袴,

と呼ばれたりするが,まあ,要は,脛の部分に巻く布や革でできた,

脚絆,

を巻いたものなのかもしれない。かつての日本軍の歩兵が巻いた,

ゲートル,

でもある。

「障害物にからまったりしないようズボンの裾を押さえ、また長期歩行時には下肢を締めつけてうっ血を防ぎ脚の疲労を軽減する等の目的がある。日本では江戸時代からひろく使用され、旧日本軍では巻き脚絆が軍装の一部を構成した。現在でも裾を引っ掛けることに起因する事故を防いだり、足首や足の甲への受傷を防ぐ目的で着用を義務付けている職場がある」

としているから,ニッカボッカと股引の混血のようなものになる。それをわざわざ膨らませる,というわけだ。

話を元へ戻すと,

彌造,

は,ちょっと男伊達を気取った風体ということになる。それにしても,本来,

奉公人

を指していたはずなのに,どこから,

粋な格好つけ,

に変ったのだろう。『大言海』は,

懐手をして,着物の中で握りこぶしをつくり,肩の辺りを突き上げる姿形,

の意味しか載せていない所を見ると,明治には,まだそんな風体が残っていたのかもしれない。そのせいか,野村胡堂の『銭形平次』には,

彌造に馴れた手,
腹立ちまぎれの彌造をこさえて,
彌造を拵えて,

と,鯔背を強調する書き方をしきりにしている。いなせについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/414618915.html

に書いた。








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2015年07月20日

けれんみ


けれんみは,

外連味

とあてる。

はったりを利かせたりごまかしたりするようなところ,

という意味だ。「けれんみたっぷりの芝居」「けれんみのない文章」といった使い方をする。

語源辞典には,「けれんみがない」で出ていて,

「外連(歌舞伎芝居用語 わざとらしく客受けする演技)+み(接尾語)+がない」

で,はったりやごまかしがない,誠実で自然な態度をいう,とある。

外連

は,戯の慣用語ゲの当て字,外(ゲ)を使い,「戯れにはったりをする役者を道に外れた連中」と見て,「外連」を使い,意味を通わせたと思われる,としている。

他の説では,「けれん」は

「江戸末期、歌舞伎で宙乗りや早替りなど大掛かりで奇抜な 演出をいった演劇用語から一般に広まった。それ以前は、他流の節で語ることをいった 義太夫節の用語で、『正統でない』『邪道だ』の意味を含む言葉であったことまでは解っているが,語源は未詳」(http://gogen-allguide.com/ke/kerenmi.html

とし,「けれんみ」が使われるのは近代以後としていて,すこし矛盾がある。こういうときの『大言海』は,

(上手の節を真似て,似て非なるに起こり,外の者も,それに連れて真似る意なりと云う,いかが)

として(「いかか」とは,珍しく,審らかではないらしい),

義太夫の節を語るに,本法を破り,おのが作意にて,偏に味をつけて語ること,

とし,転じて,

事を紛らかすこと,

とある。どうやら歌舞伎の演技ではなく,義太夫の我流を言ったものらしい。「けれん」も「けれんみ」も『古語辞典』には載らないが,『広辞苑』には,共に載っている。近代以後,という説は,一理ある。

けれんは,辞書では,

「もとは演劇用語で、歌舞伎で早変わりや宙乗りなど、奇抜で大がかりな芸によって観衆に意表をつくような演出をいうようになり一般にも広まった。
かつては『邪道な』という意味合いも含まれていたが、現在では『けれんみのない文章』というように「ない」を伴なって、いい意味合いで使われることが多い。」

とある。例の,市川猿之助の,

「『義経千本桜』「四ノ切」で披露した「宙乗り」を皮切りに、明治の演劇改良運動以後は邪道として扱われ顧みられなかったケレンの演出を次々に復活させた『猿之助歌舞伎』」

がまさに,外連である。

けれんみの類語は,

はったり,うけねらい,巧を弄して拙を成す,芝居気たっぷり,子供騙し,

等々いい意味はない。しかし,

ごまかし,
横様,
わざとらしい,

とは少しニュアンスが違うようだ。もし,

中身のないこと,

という意味なら,むしろ,

こけおどし,

の方が近い。こけおどし(こけおどかし)は,

虚仮威し,

と当てる。

見えすいたおどし,
愚か者を感心させる程度のあさはかな手段。また見せかけはりっぱだが,中身のないこと。
実質はないのに外見だけは立派に見えることにもいう,

とある。

虚仮は,

内心と外相が違うこと,
思慮が浅い,愚かなこと,またそういう人,
(名詞などの上に付けて)むやみにするという意を添え,また,けなして言うのに用いる,

とある。

虚仮にする
虚仮の行
虚仮おしみ
虚仮歌

といったふうに使うが,総じて,嘲るにおいがある。語源は,仏語だが,

虚仮(きょか)の呉音,

で,「世間虚仮,唯仏是真」からきているそうだ。どうみても,「虚仮」は,中身のないのに,虚勢を張っている,ところから転じて,ただの間抜け,を意味するようになったようだが,

虚仮の一念,

というか,

虚仮の一心,

とも言う。上辺だけでは,ひとを見誤る。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)








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2015年07月21日

仕方話


仕方話は,

仕形噺(仕方咄)

とも書く。

身振り・物まねによって話をすること,
または,
身振りを交えて演ずる落語,

という意味である。前に,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/419038957.html?1431719109

で触れた,「仕方ない」と重なるかもしれないが,少し探ってみたい。

仕方は,

なすべき方法,手段,やり方,
ふるまい,しうち,
(「仕形」とも書く)てまね,身振り,

という意味である。「しかた」は,

「サ変の連用形シ(為)+方」

で,本来の意味は,

為べき手段(手立て),

の意味で,やり方,ということになる。

という意味のはずである。

しかし,「仕方」を,

手振り,身ぶり,

を指すには,何か意味がありそうである。

仕方舞(仕形舞)は,ずばり,

身ぶりや手まねで表現する舞。ものまねの所作をまじえた舞,

である。舞に所作があるのに,あえて,「仕方」を付けるには,「仕方」にしかるべき意味があったからではないのか。しかし,手元の辞書では,わからない。

漢字の「仕」は,何度か触れたことがあるが,「つかえる」という意味であり,「士」は,「おとこ」という意味で,

陰茎の突き立ったさまを描いた象形文字,

という。「牡」の字にもある。


という意味と,
直立する,

という意味とが含まれる。「仕」は,

真直ぐに立つ男(身分の高い人のそばに真直ぐ立つ侍従)のこと,

として,「事」に通じ,事君(君に事ふ)と仕君(君に仕ふ)とは同じ,とある。

「方」は,

左右に柄の張りでた犂を描いたもの。→のように,左右に直線状に伸びる意を含み,方向の意となる。方向や筋道のことから,方法の意が生じた,

とある。

では,「形」は,というと,

左側は,もと「井(ケイ)」で,四角いかたちを示す象形文字。「彡(さん)」は,指事文字。飾りや模様を表す記号として,彩,影,形などに用いられる,

とあり,で,「形」は,

いろいろな模様を為す,わくどりや型のこと,

とある。だから,「形」には,

かたち(外に現れた姿),
型,外枠,
カタチ,実物,
かたち,ようす,

という意味と,

かたどる,物の形を写し取る,

という意味がある。

ということから,勝手に妄想すると,

「仕方」は,

なすべき方法,手段,やり方,

であり,

「仕形」は,

身振り・物まねによって話をすること,

だったのではないか。手振りは,無意識の話の中身をなぞっている,何か形を表現しようとしている,のである。その意味そのものが強まれば,

身振りを交えて演ずる噺,

となる。どうも,億説だが,「仕形」と「仕方」は別々なのではないか。「しかた」という読みから,両者がまじりあったのではないか,と。







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2015年07月22日

新造


新造,

というと,例の(といっても,もう一般に通じないだろうが)

「ご新造さんえ、おかみさんえ、お富さんえ、いやさお富、久しぶりだなァ。」

という与三郎の台詞が思い浮かぶ,いつぞや,落語会で,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/417758970.html

さん生師匠の「お富与三郎」を伺ったせいかもしれない。台詞は,与三郎の,

「しがねぇ恋の情けが仇,命の綱の切れたのを,どう取り留めてか木更津から,めぐる月日も三年(みとせ)越し,江戸の親にやぁ勘当うけ よんどころなく鎌倉の谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても,面(つら)に受けた看板の疵がもっけの幸(せいうぇ)いに,切られ与三と異名をとり,押借り,強請(ゆすり)やぁ習おうより慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな),その白化(しらばけ)た黒塀に,格子造りの囲いもの,死んだと思ったお富たぁ,お釈迦さまでも気がつくめぇ,よくまぁ おぬしぁ 達者でいたなぁ。」

と,有名な文句につながるのだが,この背景は,

「若旦那・与三郎は、木更津海岸で美しいお富を見染め、たちまち二人は恋に落ちます。しかしお富は、妾の身。逢引が見つかって与三郎は、身体に34ヵ所の刀傷を受けて海にほうりだされます。お富は海に身を投げますが、救いあげられ、江戸に売られ、人の世話で何不自由なく暮らします。数年後、身を持ち崩した与三郎が仲間の蝙蝠安とゆすりに行った源氏店で、なんと、お富の家に。互いに死んだと思っていた二人は、再会に驚いて」

という顛末になる(『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』)。因みに,「げんやだな」とは,

「玄冶というのは三代将軍家光の時代に将軍お抱えの医者として名を馳せた岡本玄冶、その屋敷のあった所が玄冶店です。『冶(や)』の字を『治(じ)』に置き換えると『げんじ』となり、そこへ「源氏」という字を当てて芝居の舞台にしました。」

ところから来ている。

さて,話を戻すと,新造とは,『古語辞典』では,

新しく造ること,
新婦の称,
近世前期,新しく客を取るようになった遊女,
近世後期,禿あがりで比較的若く,姉女郎にに付属して自分の部屋を持たない遊女,

とある。ところが,これに「御」をつけて,

御新造となると,

新築の建造物を敬って言う語,
身分ある人の新婦の敬称,
武家・医者・上中層町人などの妻女の敬称,

と変わる。与三郎の,「御新造さんえ」は,多分に皮肉が交じっている(お富は,多左衛門の妾になっている)。

このいきさつは,やはり『大言海』にあった。

(貴人,妻を迎ふる前に,新しく其の居所を造る故に云ふと云ふ。其の居所指して云ふ名称なるべし)

として,大穴持命が娶るために屋を造る云々という『出雲国風土記』を引いていた。で,

身分ある人の新婦を呼ぶ敬称

とし,呼称の階層を,

奥様の次,おかみさんの上,

略して,

ごしんぞ,

と呼ぶ,とある。ひょっとすると,敬称の御新造が先にあり,それに準えて,遊女を称したのではあるまいか。そのせいか,遊女の新造にも,

振袖新造,
留袖新造,
太鼓新造,
番頭新造,

があるらしいが,普通は振袖新造を指す,という。振袖新造は,

「吉原で御職女郎(その娼家の中で最上位の遊女。最も売れっこの遊女)に付添った若い見習い(まだ水揚げの済まない)女郎のこと。16~17歳で客をとるが、新造はその前の段階を指す。身の回りの世話をする。姉さん女郎のところに複数の客が登楼している場合に、待たせる方の客の話相手をするのも仕事。美人で器量がいいと、引込新造(振袖新造の中でも、禿時代から花魁に付いて勉強している花魁候補生)になる。」

要は,売り物のとしての付加価値を高めるために,吉原の娼家が,あれこれランクを付けたものなのだろう。「新造」こそ,いい迷惑である。

語源的にも,

「新(新しく)+造(つくる)」

で,嫁の居所を新たに造る意から,武家や町家の妻女の意を表した,

とある。そういう財力のある者でなくては,御新造と呼べる嫁を娶れなかった,というべきかもしれない。

御新造は,

ごしんぞ

と,「ごしんぞう」の訛ったもの。与三郎の台詞はそれ。それにしても,昔の,歌謡曲「お富さん」は,

粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の洗い髪
死んだはずだよお富さん
生きていたとは お釈迦さまでも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄治店(作詩 山崎正)

と,一場をきれいに描きっている手際に,呆れる。子ども心に耳に残った言葉が,うろ覚えなのに気づかされる。。

参考文献;
http://ginjo.fc2web.com/173otomi_yosaburou/otomi.htm
http://www.kabuki-bito.jp/kabuki_column/todaysword/post_174.html






今日のアイデア;
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2015年07月23日

ちょこざい


「ちょこざい」は,

猪口才,

と当てるらしい。

さしでがましい,
なまいき,
こりこう,

という意味だが,三者微妙に意味がずれる。

「差し出がましい」は,出しゃばる,という意味。差し出口が,分を越えて口出しすること,だからそのニュアンスがある。

「生意気」は,なまじいに粋がること,年齢・地位に比して物知り顔や,差し出がましい言動をすること,という意味だが,語源的には,「生(中途半端)+意気」で,中途半端に意気を示すだが,年齢の割に偉そうな態度を見せるということになる。

「小利口」は,目先のことに気が付き,抜け目のないこと,小才のあること,小賢しい,逆に,だから気が利いている,とも,小意気ともなる。出過ぎかどうかで微妙に変わる。

「小(こ)」というのには,

賢しいにつくと,小賢しいになり,
生意気につくと,小生意気になり,
細工につくと,小細工になり,

と,あまりいい意味にはならない。『古語辞典』の「小」の説明がいい。

物の小さいことを示す,年齢の小さいことを示す,身分・地位の低いことを示す,

といった「少」「低」の意の他に,

未熟なものに対する軽侮の意を表す,

とあり,さらに,

程度の少ないこと(足りないこと),ちょっとした動作であることを示す(「小腰をかがめる」等々),

といった「少ない」「わずか」といったニュアンスで,また,

その動作がちょっとしたことであるが,妙に気に障ったり,心に残ったり臑することを言う,

とある。この「小」と猪口才の「ちょこ」とが関係ありそうである。

猪口才の語源は,

「ちょこっとした(少ない・軽少な)+才能」

「ちょこ(猪口)+才(才能)」

の二説があるが,猪口の「ちょこ」は,「ちょく」(猪口)の訛。ちょこは,杯のほか,さしみのつけじょうゆを入れる小さい器や,ちょっとしたつまみの料理を盛る器をさすこともあり,盛りそば,ざるそばなどのつけ汁を入れる器もそば猪口という。

「ちょこ」は,「ちょこちょこ」とか「ちょこまか」とか「ちょこっと」といったときに使う,「ちょこ」であり,つまりは,いずれにしても小さいを意味する。

「ちょこちょこ」も,本来は,小児などの小足にあゆむさま,をさしているから,「小」と同様,少しとか,少ない,という意味から,それが(大人から見て)からかう意味になり,やがては蔑む意に転じた,というところではないか。たとえば,

ちょこちょこは,ほほえましいが,ちょこまかは,気に障る,

というように。あるいは,

小才,

は,まだ気が利くが,

小利口,

はちょっと,気に障る。

猪口才,

は,もっと目障りになる,という感じであろうか。その出し方が,なかなか難しい。

出る杭,

も,出なければ,認知されないが,出過ぎると,今度は,

煙たがられる,
か,
厭われる,

それにしても,いつまでこんなことをしているのだろうか。資源のない国にとって,

出る杭,
いや,
出過ぎるほど出る杭,

を出さねば,どうやって生き残っていくのだろう。








今日のアイデア;
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2015年07月24日

はばかる


憚り,

というと,今はあまり使わないが,

便所のことだ。語源辞典では,

「言うを憚る所」

という意味で,便所の意で,本来は,遠慮,恐縮,支障の意とある。つまりは,もともと,

「憚る」

から来ている。それについても,語源辞典は,

「ハバ(幅)+カル(動詞化)」

として,

幅があって,狭いところに入りきらない意,

とあり,転じて,気兼ねして避ける,遠慮する,という意で,近世になって,

幅をきかせる意,

にも使うようになった,と説明している。辞書(『広辞苑』)には,「憚り」について,

おそれつつしむこと,
差支えがあること,
憚りさまの略,
便所へ行くこと,または便所,

とある。語源の意味の分枝が,そのまま生きているらしい。『古語辞典』では,

(「ハバメ」(阻)と同根。相手方の力や大きさに直面して,それを怖れ,あるいは障害と意識して,相手との間に距離を置くのが原義)

と注釈が入っている。ある意味,この場合,物理的な障害ではなく,相手の権力や力,あるいは神威のようなものの大きさを意識して,という意味だ。だから,本来は,

敬遠する,遠慮する,
相手を気にして,差し控える,

という,心理的な「慎み」の意味であったが,それを,物理的な物や人に投影することで,

周囲に差しさわりになるほど一杯にふさがる,
はびこる,幅をきかす,

と,意味が逆転し,こちらが遠慮するものから,相手そのものが,まさに,支障,障害そのもの,こちらを邪魔するものに変っていった。名詞化した「憚り」も基本的には,意味は同じで,

怖れ,謹み,遠慮,引け目,差し障り,
差し控えること,

に加えて,感謝の意味が加わり,「御憚り」で,

「人の親切に対して恐縮に絶えない」

という,感謝,ありがとう,という意味になる。言ってみると,恐縮の対象が,随分,

畏れ多いもの,

から平地へ降りてきたというか,安っぽくなったというべきかもしれない。「憚り」で「便所」を意味するのも,随分ちっぽけなものを憚るようになったのと対かも知れない。どうも,いずれも,江戸時代になってからということなのではないか。

憚りながら,

も,本来は,

畏れ多いことながら,

という意味であったはずが,

口幅ったい,

と随分平地へ降り,

言いにくいことですが,

といった,単なる遠慮というか,配慮というか,という,言ってみると,丁寧な口調になった,と言えなくもない。いつもながら,『大言海』は,「ばばかる」を,

「差し控える」意

「はびこる」の意,

を別項を立てている。「憚る」の「はばかる」は,

沮(はば)むの自動か,

と注記し,「他を侵さじと差し控ふ,畏れ謹む,遠慮する」という意を並べ,もう一項の「はばかる」は,

(はびこるの転といふ。あるいは幅の活用か,幅ある物の狭き間に入り難き意に起こる)

と注記して,「満ち余る,ひろがる,はだかる」「進みあえず,行き悩む」の意を載せる。

ここまで来て,古語辞典も,語源辞典も,語源を混同していたことに気付く。本来,

道にはびこる,

の「はばかる」と,

畏れかしこむ,

の「はばかる」は,まったく別だったのではないか,という疑問である。なぜなら,由来が,まったく違うからである。それが,「はばかる」という,同一音のことば故に,混同していった,というのが正しいのではないか。

『大言海』の用例は,いずれも,古く,特に,「進みあえず,行き悩む」の用例は,天智記から録っているのである(「行き波波箇屢」と万葉仮名であるが)。

「憚」という字の「單」は,薄く平らな働きを描いた象形文字。「憚」は,心を加えて,心が平らかで,上下に震えること,という意味。で,「心配して差し控える」という意味を持つ。

古語辞典とは逆に,「ふさがる」意味が,本来のもので,それに,「憚」字を当てたことで,漢字のもつ意味に引きずられて,

畏れ差し控える,

という意味を得たのではないか。文字をもたない民族である我々は,「真名」(漢字)を得ることで,「仮名」(ひらがな)を手に入れたが,それによって,漢字と和語との相乗効果の中に,深い言葉遣いの陰翳を育んできた,と言っていい。漢字をやめるとか制限するなどということは,自分たちが二千年余培ってきた文化の冒涜である。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)








今日のアイデア;
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2015年07月28日

木で鼻をくくる


木で鼻をくくるは,

きわめてそっけない態度,冷淡な態度をとること,

のたとえとして使われる。

ただ,どうやら,

木で鼻をこくる,

という言い回しが本来らしい。「こくる」とは「こする」「強くこすって取る」の意味で,

「木で鼻をかんでは,紙のようにしなえようがないことから」

そう言うらしい。「くくる」は「こくる」の誤用が慣用化したものであるらしい。

http://www.nihonjiten.com/data/253997.html

によると,

「商家では丁稚に貴重品であったちり紙を使わせず、木の棒で鼻水をこすらせた。『丁稚』の『丁』は下男のことで、下男の通称『久助』は、『久しく奉公する人』を人名のように表した語。」

とある。

ただ,『故事ことわざの辞典』には,意味として,

相手からの相談や要求に対して,無愛想にふるまう,冷淡にあしらう,

という意味の他に,

さっぱりする,

という意味がある。鼻をかんでスッキリする,という意味があるのだろうか。

類語については,前に,けんもほろろで,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/420594101.html?1434140193

で,

取りつくしまもない,
にべもない,
そっぽを向く,
すげない,
鼻にもひっかけない,
木で鼻をくくったような,
つっけんどん,
そっけない,

について検討した際,いずれも,メタファーを使っていることを書いたが,「木で鼻をくくる」は,少しニュアンスが違う。木の葉では,うまく鼻がかめなかったからなのではないか。

それにしても,「鼻もひっかけない」が類語だが,鼻に関わる言葉が,多いのに驚く,たとえば,

鼻も動かさない,
鼻(の先)であしらう,
鼻が利く,
鼻うそやぐ,
鼻が高い,
鼻が曲がる,
鼻突き合わせる,
鼻で笑う,
鼻突く,
鼻で笑う,
鼻にかける,
鼻につく,
鼻の先智恵,
鼻を明かす,
鼻をうごめかす,
鼻も動かさない,
鼻持ちならない,
鼻を折る,
鼻を欠く,
鼻を挫く,
鼻を高くする,
鼻を突く,
鼻をつままれてもわからない,
鼻を鳴らす,
鼻もひっかけない,
鼻薬を嗅がせる,
鼻白む,
鼻高々,
鼻っ柱が強い,
鼻面を取って引き回す,

等々。因みに,「はな」は,

「著しく目立つの意の,ハナ(端)」

が語源。確かに,顔の中心に目立つには目立つが。それから転じて,

先端,

という意味にも用いられる。

岬の鼻,
ハナからうまく行くわけがない,

等々。その場合,「端」の字を当てる。しかし,「ハナ」という言葉が先にあったのだとすると,「鼻」の転用というのは,少し変な気がする。むしろ,「ハナ」を「鼻」に当てることで,「ハナ」の意味にふくらみが出たという感じなのではないか。それには,漢字の「鼻」の字の効果もある気がする。

漢字の「鼻」の字は,

自(鼻の形を描いた象形文字)+界(空気供給)

だと,される。いずれにしても,顔の先についている。顔の尖端についているから,いい面でも,悪い面でも,見事に鼻に出る。ちょっと威張れば,鼻にかける。ちょっと自慢すれば,鼻高々。だから,相手を凹ますのも,鼻を挫く,鼻を明かす。ちょっとあしらいが冷淡なら,鼻先であしらう,となる。相手の感情の機微も,鼻で笑う,鼻も動かさない,で見える。いってみれば,日々の振る舞い,仕草をそのまま感情や意思になぞらえている。目で見えるようだ。こういう言い回しは,日常の中から生まれたに違いない。

しかし,鼻毛となると,随分品が落ちる。

鼻薬を嗅がせる,
鼻毛が長い,
鼻毛を抜く,
鼻毛を読む,
鼻毛を伸ばす,

鼻の下になると,もっと情けない。

鼻の下が長い
鼻の下が干上がる,
鼻の下を伸ばす,

いやはや,鼻にまつわる言い回しだけで,ネタは尽きない。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)







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2015年07月29日

鼻毛


鼻毛は鼻毛ではないか,と思ったが,念のため辞書(『広辞苑』)を引くと,さにあらず,

鼻孔中に生える毛,

という説明は,むろんあるが,その後に,

愚者,

女に甘いこと,またその者,

という意味が載っている。で,『古語辞典』を調べると,

愚者,
女に甘い男,

の意味しか載っていない。では,と,『大言海』を調べると,

「鼻の孔の中に生ずる毛」

とある後に,

「鼻毛長しとは,女に誑かされてあるなり,鼻毛を抜くとは,だしぬく,鼻毛を延ばすとは,女に迷ひ溺るる意。鼻毛を読む,鼻毛を数ふ,とは,女色に迷ひたる男を,女の見抜きて翻弄する意」

と,続く。どうやら,鼻毛は,愚かさと,女色に迷うこと,という暗喩になっているらしいのである。

「鼻毛で蜻蛉を釣る」という言い回しは,鼻毛を長く伸ばしているたととえ(それ自体愚かさをあらわす)のほかに,「阿呆の鼻毛で蜻蛉をつなぐ」と,阿呆を強調する表現になる。

「鼻毛らしい」という言い回しは,

女に甘いさま,

という意味である。さらには,(『大言海』にもあるが)「鼻毛が長い」自体が,

女の色香に溺れ,うつつをぬかしているさま,

という。さらに,「鼻毛を伸ばす(鼻毛が伸びる)」だけで,

女に甘く、でれでれしているとなる。どうも,ここまで来ると,「鼻毛」自体に,そういう含意がこもっているとしか言いようがない。そう考えると,少し前,なでしこジャパンの佐々木則夫監督が

「女房から言われたんですよ。女性を扱うんだから目やにや鼻毛、身だしなみにはしっかりしなさい、と」

と発言していたのに,深い含意が出る。あるいは,加賀藩三代目当主の前田利常が,幕府からの警戒を避けるため,故意に鼻毛を伸ばして愚君・アホ殿を装ったというのも,鼻毛の暗喩の意味を考えると,なかなか意味深い。そこには,バカ殿様だけではなく,女色に溺れていて,政治向きには関心がない,という含意もある。

そう考えると,「鼻毛を抜く」というのも,単なる出し抜くとか,誑かす,という意味だが,もともとは,「鼻毛を読む」,つまり,

女が自分にのぼせている男を翻弄する,

あるいは,「鼻毛を数える」も同じ意味だが(数えて抜く,か,抜いて数える,か),結果として(女性に)出し抜かれる羽目に陥る,というところに端を発して,騙される一般に転訛していったのではあるまいか。

鼻毛は(ウィキペディアによると),

「外鼻孔から入った最初の部分である鼻前庭に密生している毛を指す。鼻腔、いわゆる鼻の穴は、鼻の周囲の皮膚が直接連続しており、その表面には顔面の皮膚部と同様に皮脂腺や毛根が存在する。この毛根から生える」

ものであって,

「鼻腔奥部の粘膜表面にも細かな繊毛があり、鼻腔に入った粉塵や鼻粘膜から分泌される粘液を鼻腔の後方へ運搬する役割を担っているが、これは通常『鼻毛』としては認識されていない。また、鼻表面に生える産毛も同様に『鼻毛』とは呼ばれない。」

つまり,「鼻腔内部の鼻前庭から生え、鼻孔から露出する可能性のあるもの」を指している。なかなか難しいが,鼻孔からのぞいていないものは,「鼻毛」とは呼ばないらしいのである。

鼻毛の機能は,

「鼻から空気を呼吸する際に、フィルターのように塵埃や微粒子をからめ取ることで異物が気管支に入り込むことを防ぐほか、鼻呼吸時の吐息に含まれる水蒸気を吸着し、鼻から息を吸い込む際に蒸発させることで、わずかながら呼気の水分を回収する作用がある。」

のだとされるが,花粉症で悩まされる僕には,いささか,効果が薄い。

鼻毛が,多く男性(の女狂い)を揶揄するのに使われるのは,

「女性の場合は男性に比べて細く成長も鈍いため、男性のように鼻孔の外にまで伸びることは少ない。」

という性差があるせいに違いない。

「『鼻毛』の用法はかなり古く、平安中期の10世紀に編纂された漢和辞書『和名類聚抄』(『和名抄』)(934年成立)には、「鑷」という字に「波奈介沼岐、俗云計沼岐」(ハナゲヌキ、俗にケヌキと云ふ)という注記が見られる。さらに、13世紀の観智院本『類聚名義抄』(『名義抄』)には〈彡偏に鼻〉の字に『ハナケ』の読みがあり、16世紀の『羅葡日辞書』(1595年)にも『Fanague』の表記があるという。」

とある。

夏目漱石の小説『吾輩は猫である』には、猫の主人となる苦沙弥先生が鼻毛を抜いて原稿用紙に植え付けるところがあるが,これは,漱石自身の癖を戯画化したものらしいが,やはり,鼻毛に絡むことは,おりこうには見えない,

ちなみに,赤塚不二夫『天才バカボン』の,

http://www.koredeiinoda.net/manga/oyaji.html

バカボンのパパの(鼻の下に鼻毛とも髭ともつかぬ放射線状の毛をたくわえている)は,鼻毛に見えて(ずっと鼻毛と思ってきたし,それが妥当に思えるが),

「原作では、表紙で本人がはっきりと「これは鼻毛ではなくヒゲですのだ」と明言している回がある。」

そうで,鼻毛ではないらしいのだが,やっぱり鼻毛でなくちゃ。

それにしても,鼻は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/423124944.html?1438026227

で書いたように,

鼻が利く,
とか,
鼻が高い,

とか,あるし,鼻息も,

鼻息が荒い,
とか,
鼻息を窺う

とか,情けないイメージがないのに,鼻毛は,兎角イメージが悪い。

参考文献;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%BB%E6%AF%9B







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2015年08月01日

奇妙奇天烈


奇妙奇天烈は,

奇妙を強めていう語で,「奇天烈」という字を当てることもあり,

何とも奇妙なさま,ひどく不思議なさま,なんとも変なさま,

の意と,辞書にはある。「きてれつ」は,意味不明のようだが,江戸時代に用例がある。

非情に奇妙なこと,
珍妙,

と,辞書にあるが,むしろ,奇妙を強調する語呂合わせに思える。

では,「奇妙」は,というと,

珍しいこと,説明できないような不思議なこと,
ふだんと変わってすぐれていたり,面白みのあること,

とある。前に触れた,「面白い」が,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415405652.html?1426018728

に書いたように,滑稽の方へシフトしたり,「をかし」が,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418220586.html

と,「可笑し」に変じていくのと同じように考えると,奇妙も,元は,

面白みのある,

といったニュアンスだったりのではないか。語源は,中国語で,

「奇(珍しい)+妙(すぐれる)」

で,

予期せぬ不思議さ,

という。「奇」という字の「可」は,

┐印で,くっきり屈折したさま,

で,「奇」は,「大+可」で,人の体がくっきりしてかどばり,目立つさま,また偏る,という意を含む,とある。「奇」は,

珍しい,
とか
あやしい,

という意味がある。「くすし」というか,普通ならざるすぐれもの,という意味で,



というニュアンスがある。

「妙」の字の「少」は,

「小+ノ(けずる)」

の会意文字。小さく削ることを表す。「妙」は,「女+少」で,女性の小柄で細く,なんとなく美しい姿を示す。細く小さい意を含む,という。「妙」は,

精巧善美を極める,
とか
極致
とか
神秘

という意味がある。その意味でも,「奇妙」は,本来は,

不思議にめずらし
めずらしくすぐれる

と,漢和辞典に意味が載る意味だったのだろう,と思う。漢和辞典には,奇妙とは別に,

奇奇妙妙

が載っており,この繰り返しは,「々,ゝ,〱,ゞ」について,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/422553516.html

で触れたように,強調の意図があり,

極めて不思議,
甚だしく奇妙,

という意味となり,古語辞典も,「きめう」として,

不思議窮まること,世にも珍しいこと,
並みはずれてすぐれていること,

という意味しか載せない。これが,『大言海』になると,

奇しく妙なること,珍しくすぐれたること,

の他に,

常に異なりて,面白きこと,

を載せ,意味が,微妙にずれる端緒を示している。

奇奇怪怪

も,奇怪の強調で,

極めてあやし,

という意味になるが,

奇妙奇天烈摩訶不思議,

と重ねると,その摩訶不思議さが倍増する。「摩訶」は,

(梵)mahāの音写。大・多・勝

の意で,非常に不思議と,不思議を強調してる。言葉遊びのきらいがなくもない。

因みに,奇妙というと,奇妙丸という,織田信忠の幼名を思い出す。確か,

奇妙丸

といったと思う。真偽は知らないが,

「生まれたばかりの信忠を見た信長が『なんか変な顔だ』と思ったからだとか」

というらしいが,二男の信雄は,幼名が,茶筅丸,三男信孝は,三七(3月7日生まれだったためとも),四男秀勝は,於次,五男勝長は,坊丸,六男信秀は,大洞,七男信高は,小洞,八男信吉は,酌,九男信貞は,人,十男信好は,良好と,いい加減な名が多い。幼名に「お捨て」とか「捨丸」などと,縁起を担いだりしないらしいところが信長らしい。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)








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2015年08月02日

土性骨


土性骨というのは,

「ど」は接頭語で、「土」は当て字,

だそうで,ど根性とか,どでかい,といったいい方をする。もともとは,

「ど(接頭語)+背骨」

が,せぼね,しょうぼね,と訛ったもの,という。意味は,

強い心根,

ということになる。連想で,「性根」を思いつく。『古語辞典』で,「しゃうね」(性根)を引くと,

正念

が,転じたもの,として,

しっかりした心,
正気,

という意味になる。ところが,『大言海』で,「しゃうね」(性根)を引くと,

ネは,根を和訓したるものか,

として,

根性に同じ,

という意味を載せ,「コン(根)」を見よ,とある。で,「根」をみると,

ね,もと,
仏教の語,人の天賦の性質,性能。根性,
ことを行ふに久しく堪へ忍ぶ精神の力。精力,気力(根気,精根,根が強い)

という意味を載せている。どうやら,「せぼね」が「どせぼね」から「どしょうぼね」と変ったのだが,「ね」に,「根」の字のイメージが付きまとったのではないか,と憶測をたくましくする。声で出してみると,

どしょうぼね

の「ぼね」は,「骨」ではあるが,「どせぼね」が「どしょうぼね」に訛ったとき,「土性骨」と当てたものらしいが,「性骨」という言い回しは,「しょうぼね」とは読ませず,「しょうこつ」と読ませる。その場合,

もって生まれた資質。特に技芸・運動の素質。また個性。

という意味で,「土性骨」の意味の「性根」の意味とは少しずれる。いや,むしろ,その素質を指す言葉で,「根性」とか「性根」という意味は,「土性骨」にしか使わない。むしろ,「土性骨」と漢字をあてたとき,性根の「根」のもつ意味が影のように付きまとっていたような気がする。

話を戻して,「どしょうぼね」の接頭語「ど」を引くと,

罵り卑しめる意を表す。たとえば,どあほう等々,
その程度の強いことをことを表す。どぎつい,ど真ん中等々,

とある。で,ふと思い出すのは,

ドン引き,

の「どん」で,これは,

接頭語「ど」を強めた語,

とある。どん尻,どん底,といったような。ただ,横道にそれるが,「ドン引き」は,もとは,

「もとは、映画やテレビの撮影で、ズームレンズを引いて被写体を小さくすること」

をいったらしく,

「日本語俗語辞書」(http://zokugo-dict.com/20to/donbiki.htm

によると,

「もともとドン引きは映画撮影やTV撮影で使われる放送業界用語で、目一杯引いて撮る手法(広範囲を撮影するもので、ズームアウトともいう)のことを言った。ここから、芸人の間で、ギャグ、ネタが全くウケず、お客さん引いた状態のことをドン引きというようになる。」

とある。が,「どん」とつよめて,「引く」状態を言っていることには間違いない。

で,「土性骨」は,したがって,

性根,性質を強め,またののしって言うとあり,辞書によっては,

性質・根性を強調,またはののしっていう語。ど根性。「―をたたきなおす」
人をののしって,その背骨をいう語。「―をへし折るぞ」

と,区別するのもある。

いずれにしても,「土性骨」は,ただ根性の意ではなく,そこに悪意が含まれている。類語で言うと,

神経が図太い,
ちょっとやそっとでは動揺しない,
肝っ玉の大きい,
腹が据わる,

等々という意味で,

土性骨のすわった ,
土性骨のある,

という使い方もするが,

それがない奴に対して貶める,
あるいは,
相手への面罵の言い回し

として,の含意が強い気がする。昨今,あまり使われないのは,男気,心臓に毛が生えている,というのは,鈍感の代名詞のようになり下ったせいかもしれない。サムライがいなくなると,やたらとサムライを持ち上げるのは,蛮勇というか猪武者と同義だ。

暴虎馮河

とは,思慮のなさの代名詞である。僕は,臆病であることを称揚する。無駄にいきがるやつにろくなやつはいない。







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2015年08月04日

閑日月


閑日月は,

かんじつげつ,

と読み,

暇な月日。
ゆったりとして余裕のあること。

という意味だが,どうも単なる閑人や庶人については言わないらしい。たとえば,

英雄閑日月あり,
とか
名人閑日月あり,

という使い方をするようだ。たとえば,

「英雄といわれるほどの人物は、遠謀と大志に思いをはせ、小事には無頓着で悠々としているので、傍目には暇人のように見えるということ。」

であり,まあ,閑人が,しゃれで,英雄を気取って,「閑日月」などと言ってみるということもある。

しかし,ずっと暇な場合には使わない。

はさまれた時間,

を指すのではないか。しかし考えたら,

閑,
暇,
隙,

そのものが,合間を指しているのではあるまいか。このことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/400075750.html

で触れたことがある。ひとつながりの時間の流れの,

句読点,

という感じであろうか。「閑」は,

門+木

で,牛馬の小屋の入口に構えて,勝手に出入りするのを防ぎ止める閂の棒,を指す。「ひま」の意に用いるときは,

「間(すきま,あきま)に当てた仮借的な用法だが,後に,「閑」を使うことが多くなった,

とある。つまりは,

ひま,
とか,
たいせつでない,
とか
用事がない,

といった意味になる。「隙」のつくりは,

「小+小+白(ひかり)」

で,小さな隙間から,白い光が漏れることを示す。それに,「阜(土盛り,土塀)」を加えて,土塀の隙間を表す。だから,「隙」は,そのあいた,「間」(あいだ,あき)そのものを示す。「暇」の「叚」は,

「かぶせる物+=印(下においたもの)」

という会意文字で,下にものを置いて,上にベールをかぶせるさま,という。それに「日」を加えて,

所要の日時の上にかぶせた余計な日時,

を指すらしい。て,

仕事がなくて余った時間,
とか
官職や奉公を辞めてひまになったこと,

という意味では,「間」というよりは,のっぺりとした無為の時間,という意味がある。だから,

閑日月,

とは言っても,

暇日月,

とは言わない。「閑」の字は,上述のように,「間」(閒)の当てたので,「間」自体が,

忙の反,

という意味を持つ。まさに「閑」は「間」なのである。「ひまじん」は,

閑人,
とも
暇人,
とも
隙人,

とも当てるが,のべつ暇な人は,暇人であって,たぶん,閑人とは違うのであろう。









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ラベル:閑日月 閑人 庶人
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2015年08月05日

おたんこなす


「おたんこなす」は,

まぬけ,とんま,と類する,人を罵る言葉,らしい。「おたんちん」が意味として出る。「おたんちん」を引くと,「おたんこなす」が出る。「おたんこなす」は,「おたんちん」から来たらしい。語源は,

「牡丹餅面」の変化したもの,

という。「botamoti+面」から,otamoti+nと,bが落ちnが加わって変化した語,とされる。『大言海』も,

牡丹餅面(ぼたもちづら)の略訛にてもあるか,

と注記している。ただ,

「女を卑しめて呼ぶ口語」

とあるところが重要に見える。併せて,

「筑前の博多にても云ふ」

と付言している。記憶にないのだが,夏目漱石の『吾輩は猫である 』で,苦沙弥先生が,細君に,

「夫れだから貴様はオタンチン・パレオロガスだと云うんだ」

と言っているのは,「おたんちん」にかけたしゃれと言っていい。この使い方が,たぶん,「おたんちん」のもつ意味を反映しているように思える。

俗説は,一杯ある。たとえば,http://zokugo-dict.com/05o/otankonasu.htmには,

「おたんこなすは同義語『おたんちん』からきた言葉で『ちん(男性の生殖器官のこと)』の部分を『小茄子』に例えたという説があるが『おたんちん』の語源自体が定かでないため断定は出来ない。また、おたんこなすは「炭鉱の茄子」の略で、灰をかぶった炭鉱エリアの茄子は売り物にならないことから先述のような意味になったという説もある。」

と出ている。その他,

「『おたんこなす』本来は『出来損ないの茄子』を指す ことから、単純に『おたんこ=出来損ない』或いは『おたんこなす』 と言う様になった。」

「『おたんちん』とは、江戸の新吉原(要は遊廓街)での言葉で、遊女達が嫌な客のことをこう呼んでいたと言います。男性のシンボル『おち○ち○』が短いことを『短珍棒(たんちんぼう)』と呼び、丁寧に『御』を付け、言葉が長くなるので、『棒』を省略して『御短珍(おたんちん)』になったのではないかということです。『おたんこなす』は「御短」と『小茄子』に分けます。「おち○ち○」を『小茄子』に喩えて『おたんこなす』という言葉が完成したようです。」

等々。いやはや,まことに理屈と膏薬はどこにでもつく,とはよく言ったものです。しかし,億説と退けられないのは,『大辞林』には,「おたんちん」について,

まぬけ。人をののしっていう語。

の他に,

〔遊里語〕 嫌いな客。

が載っている。だから,どういう意味か謂れなのかは別に,遊里で使われていたことは確かのようだ。

「~ちん」

というのは,接尾語で,

人名に付いて、軽い親しみや軽い軽侮を表す語。また、容姿・性格などを表す語に付いて、そういう人の意を表す,

で,「しぶちん」とか「でぶてん」とか「あほちん」といった使い方をする。

「おたんちん」も「おたんこなす」も,悪罵というよりは,からかう,揶揄するニュアンスがある。『大言海』や苦沙弥先生の使い方を考えると,遊里で使っていても,悪意や嫌悪があるようには見えないのだが。

ぐず,のろま,頓馬,と言うのと,おたんこなす,というのと,
たわけ,馬鹿,まぬけ,と言うのと,おたんこなす,と言うのと,
ばかたれ,あほんだら,ぬけ作,と言うのと,おたんこなす,と言うのと,
あんぽんたん,薄のろ,あほ,と言うのと,おたんこなす,と言うのと,

比較すると,どこかユーモラスな感触がある。面罵と言うより,おちょくっているというか,茶化しているという雰囲気が伝わる。

別に遊里説に異をとなえる気はしないが,ひょっとすると,嫌っているふりをして,

あのおたんちん,

という言い方をしていたのではないか。衒いというか,照れ隠しというか,本音を隠すという意味で,使っていたのではないのか,という気がしてしまう。

色男 (ねこ) もおたんちんも、かよひ郭の仲街 (なかのちゃう) 

と言う言い回しがあったようだから,持てないやつの総称としても,

うちの宿六,
とか
馬鹿亭主,

と似た,ニュアンスで言ったのではないだろうか。今の語感で言うので,間違っているかもしれないが,

おたんこなす

おたんちん

には,罵りや嫌悪よりは,親愛を込めた揶揄のにほひがしてならないのだが。

参考文献;
http://zokugo-dict.com/05o/otankonasu.htm
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
ラベル:おたんこなす
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2015年08月06日

~ない


仕方がない,については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/419038957.html

で触れたが,同義の表現として,

仕様がない,
やむを得ない,
詮方ない,
詮ない,
余儀ない,
是非もない,
よんどころなく,

等々がある。どちらかというと,

他に打つ手がない,
そうする他ない,
避けて通れない,
逃げられない,
不可避の,

といった意味だが,いずれも,「~(余儀,是非,栓,仕様,仕方,等々)」がついて,「ない」となっているが,なんとなく,これを,昔の人は使い分けてたのではないか,とふと気になった。

「しかた」は,前にも書いたが,

「サ変の連用形,シ(為)+方」

やり方,手段である。「仕方」は,だから,

なすべき方法,やりかた,
ふるまい,
(仕形とも書く)てまね,

という意味が載る。「仕様がない」の「仕様」も,似た意味で,「仕様」は,

「仕(しごと)+様(ほうほう)」

で,物事をする手段,方法,を指し,

施すべき手がない,

という意味から,「始末におえない」「しょうがない」に転じた。「やむをえない(やむをえず)」は,

已むを得ない,
とか
止むを得ない,

と当てる。ほかにどうしようもない,仕方ない,という意味だが,「やむにやまれぬ」は,

とめようとしても止められない,そうするしかない,

という意味だが,「やむなく」「「やむない」となると,仕方がない,となる。「やむ(已む・止む)」は,

長く続いていた現象や状態が自然に止まり,消え失せる,

という意味で,「やむなく」も「やむにやまれず」も,自力ではなく,他力,ありていに言えば,他責のにほひがしなくもない。

「詮方なし」は,語源が,

「サ変動詞の未然形『せ』+意志の助動詞『ん』+方(方法)」

なので,「為ん方無い」が正しい。「詮方ない」は,「詮無い」との関連の当て字ではないか。で,「詮無い」は,

「詮」は,中国語の選ぶ,具わる,

という意味で,「詮」の,「全」は,

「集めるしるし+工または玉」

で,ものを程よくそろえること。「言」をくわえた「詮」は,

言葉を整然と取り揃えて物事の道理を明らかにすること,

とある。「詮なし」は当て字らしい。「詮方なし」が語源とある。『古語辞典』をみると,

「詮は物事の理の帰着するところ」

とあり,

無益・無意味である,
かいがない,

という意味が載っていて,「詮方ない」のやむを得ないというニュアンスではなく,「やる意味がない」という意味から来ているようだ。用例も,

「一人当千と聞ゆる平家の侍どもと軍して死なんとこそ思ひつれども,このご気色ではそれもせんなし」

とあるので,しかたないというより,その甲斐がない,のでしかたない,と仕方ないは,結果として訪れる。

「余儀ない」の「余儀」は,

「余(他)+儀(方法)」

で,「仕方ない」の「仕方」や「仕様がない」の「仕様」と似ている。たた,「儀」は,

ほどよく整った手本となる人間の行為,

が原義で,手本(儀法)とか作法(儀式)といった意味がある。

「是非(も)ない」の「是非」は,

是と非,
正と不正,
良し悪し,

の意味であり,是非を云々することもない,というところから,仕方がない,という意味になったと思える。似た使い方で,「是非に及ばず」は,前にも書いたが,

織田信長が本能寺で光秀軍に取り囲まれた際,

「是非も及ばず」

と漏らしたと,『信長公記』にある。この場合はわかる。是非を云々するに及ばない,そんな暇はない。そういう切迫した事態だとということではなく,

おのれが重用した惟任光秀が,

という意味では,おのれの所業の付けである,仕方ない,というニュアンスではないか。『大言海』は,

為ん方ない,是非するまでもない,やむところをえず,

と,「是非」の意味を載せる。

「よんどころない」は,

「よりどころ(根拠)がない」

の音便化。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415685379.html

でも書いたが,結局,手段がない,是非(のいとまも)ない,と理由をあげながら,つまるところ,

(自力では)止むをえない,

と諦めてしまう。それは,他責化といってもいい。

潔い,とは思わない。生きる執念がなさすぎる。おのれを大事にしない,というよりは,大きな流れに逆らおうとしない,その結果命を粗末にすることになる。まだ打つ手はあるにもかかわらず。だから,何度でも為政者に騙される。いつまで,こんなことを繰り返すのだろうか。まあ,おのれにもあるその心性の,自戒を込めて。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)







今日のアイデア;
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2015年08月11日

あてずっぽう


あてずっぽう

とは,

根拠や目当てなしにことを行うさま,

という意味である。この語源が,また,よく分からない。

http://gogen-allguide.com/a/atezuppou.html

の『語源由来辞典』によると,

「江戸時代,根拠もなく推し量ることを『当て推量』といい,『あてずい』とも略された。それが擬人化され『あてずい坊』となり,変化して『あてずっぽう』となった。」

とある。もっともらしいが,擬人化される謂れがわからない。手元の『語源辞典』によると,

「当て+寸法」

で,

鉄砲伝来以来,atezunpouが促音化し,atezuppouと音韻変化した,

とある。なぜ「鉄砲伝来」の説明がいるか,というと,「teppou」と掛けたいのかもしれないが,あくまで,音韻変化の結果として似たというだけなのではないか。どうも首をかしげたくなる。

しかし,『大言海』は,「あてずっぽう」について,

當推坊(あてすいぼう)の急呼転にて,當推量を擬人化したる語なるべし,

とある。「呼転」とは,

「語中・語尾の音を、その語を書き表す仮名自身の発音によらず別の音に発音すること。」

という。『大言海』は,

筒袖(つつっぽう)
風来坊
悔しん坊

を例示している。そのほかに,暴れん坊,食いしん坊というのもある。因みに,「当推量」をみると,

「あてずいと,下略するは,極隋一を,ごくずい云ふがごとし」

とあり,

「推當(おしあて)に思ひはかること。略してあてずい,また,あてずっぽう」

とある。どうやら,『語源由来辞典』に軍配が上がりそうである。

ただ,公平に見ると,

当て推量→あてずい坊→あてずっぽう,

という変化説の他に,

「物差しもなしに長さを測ることをいう『当寸法(あてずんぼう)』が転じた」

との説もあるにはある。

「あて」というのが,「宛」「当」「充」「中」と,当て方で少しずつずれる。「宛つ」「当つ」「充つ」「中つ」の名詞化なので,それぞれを(『大言海』で)見ると,

「当つ」は,突き合わせる,触れさせる,
「中つ」は,目的に当つ,の意。目的に届かす,
「充つ」は,「宛つ」ともあてる。割り当てる,あてがう,

等々だが,「あて」で,辞書を引くと,「当て・宛て」の字を当てて,今は厳密な区別をつけていない。

①めあて。目的。
②みこみ。めあて。
③たより。期待。
④当てること,あてがうこと,

等々,むしろ,他の語と複合して,肩あて,肘あて,当て身, 鞘当て,さけのつまみ等々として使われている。

あてずっぽうも,

目当て
なのか,
見込み
なのか,
期待
なのか,
あてがい
なのか,

で,当てにした空頼みが違うニュアンスが出るのが面白い。はずれた「あて」は,何であったにしろ,当てにされた側は,とんと覚えがないに違いない。

類語に,

壁越推量
揣摩(しま)臆測,

というのがある。「揣摩」は,

「あれこれ推し量ること。推し量る意の「臆測」に重ねて、意味を強調した語らしいが,『戦国策』が出典という。いまはあまり使われない。一番似ているのは,

山,
とか
山勘,
とか
山を張る,

他が,これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418594092.html

で触れた。








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2015年08月13日


「ぶん」の意の分である。

分を弁える,

の意味で使う。意味は,

各人にわけ与えられたもの。性質・身分・責任など,

の意味で,分限・分際,応分・過分・士分・自分・性分・職分・随分・天分・本分・身分・名分等々という使われ方をする。

前にも書いた気がするが,「分」の字は,

「八印(左右にわける)+刀」

で,二つに切り分ける意を示す。ここでの意味で言えば,

ポストにおうじた責任と能力

の意だが,「区別」「けじめ」の意味も含む。「身の程」「分際」という言葉と重なるのかもしれない。それはある意味,

「持前」とも重なる。

分を守る,
とか
分を弁える,

という言葉が身に染みる。あるいみ,「慎み」とは,そういうことなのではないか。

慎むこと。控えめに振る舞うこと。
江戸時代,武士や僧侶に科した刑罰の一つ。家の内に籠居 (屏居)して外出することを許さないもの。謹慎。
物忌み。斎戒 (さいかい) 。

といった意味があるが,上にか天にか神にか,分を超えたことへの戒めととらえることができる。

「身」という字は,

「女性が腹に赤子を身ごもったさまをえがいたもの。充実する,一杯詰まる,の意を含む」

とある。「身の程」は,身分がらとか地位の程度を指すようだが,

天の分,

を指すのではあるまいか。つまり,

天から分け与えられた,性質・才能,

の意味のそれではなく,

天から与えられた分限,職分,

の意である。

死生命有
富貴天に在り(『論語』)

の意である。

潔さとは,

身のほどを弁える
とか
分を弁える

ところからしか生じないと,僕は思っている。潔いとは,

思い切りがよい。未練がましくない。また、さっぱりとしていて小気味がよい。

等々といった意味だが,単に気風のことを言っているのではあるまい。「潔し」は,

「イサ(勇・イサムの語幹,積極性ある意)+清い」

で,潔白ですがすがしい,意味とされるが,古くは,「清」「明」「潔」をイサギヨシと訓ませていた,とある。その意味では,

積極的で清浄なという男性的感覚,

として,本来は(自然の風景が澄んでいるという意味の),

綺麗に澄んでいる,清浄である,

という意味だったのかもしれない。それから派生して,

気分がすがすがしい,さわやかだ,

と,主体側の気分を表現する意に転じたというのは,わかりやすい。そこから,

思い切りがよい,さっぱりしている,淡々としている,

に転じるには,人の在りようなり振る舞いを指して言うようになった,と考えられるが,そこは,風景にすがすがしさを感じるのに準えて,人の振る舞いを指し,さらには,それを評するこちらの気分に転じた,とたどれなくもない。

「潔」という字の,「絜」は,ぐっとひきしめるという意で,それに水を加えて,

清い(清廉潔白),
きよめる,きっぱりとけじめをつける,

といった意味で,「潔い」という字を当てたところから,漢字の意味に引きずられたのではないか,と勘繰りたくなる。

「けじめ」という言葉は,

「ケ(段・分段)+チ(つ・の)+目」

で,分け目,区別の意味で,そこから準えて,

道徳や規範によって行動・態度に示す区別。節度ある態度。

という意味に敷衍されている。分,身の程と近いが,差異というか切れ目に着眼しているので,目線が外からの色合いが強い。分,身の程は,内からの自分での弁え,ということになる。

潔さとは,分を守ることの徹底に見る。僕は,松陰の『講孟余話』よりも,それ(みだりに異国に華夷の弁を立てるの)をたしなめる山県太華に,身の程を見る。腐儒などと言われるものの方が,(小楠も含め)まっとうである。いま,憲法学者を罵るものに,(文を弁えぬ)無恥の暴虎馮河を垣間見る。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)








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2015年08月14日

小癪


「小癪な」という「小」は,接頭語で,

物の数・形が小さい意(小石,小家等々),
ものの程度の少ない意(小雨,小太り等々),
年が若い,幼い意(小冠者,小童等々)
身分・地の低い意(小侍,小法師等々)
数量が足りないが,それに近い意(小一時間,小一年等々)
体を動かす意の句に冠して,ちょっとした動作であることを示す意(小耳,小腰,小手等々)

といった,多寡や程度の少ない意の他に,

未熟なものに対する軽蔑の意(小倅,小わっば等々),
形容の語句に対して,その状態がちょっと気に触ったり,心に引っかかったりする意(小賢し,小面憎し,小気味いい,小奇麗等々),

といった意味がある。「小癪な」もその一つ,

小賢しい,
生意気なこと,

の意味になる。類語は,

小賢しい,
とか
小面憎い,

となるが,「癪」は,いわゆる病気の意を除くと,

腹立ち,怒り,
腹の立つような事柄,

の意で,

癪に障る,

という使い方で,

癇癪を起す,
腹が立つ,

という意味になる。「小」がつくことで,

その(癪の)程度が小さいが,ちょっと気になる,

という程度に収まっている,という意味だ。

「こづらにくい」

は,祖母の口癖で,子供の頃,よく「コヅラニクイ」と耳で聞く限り,

癪に障る,

と,ほぼ同義だと受け止めていたが,「つら」に「面」の字を当ててみると,「腹が立つ」ところまではいっていないのである。「癪」=怒りとすると,その怒りの気持ちにちょっと抵触する,といったニュアンスなのである。むろん,

小賢しい,

とは,ちょっと意味がずれ,ベン図になぞらえると,重なり具合が微妙なのだ。「小賢しさ」は,

確かに,相手の言いぐさは,生意気なのだが,その言いぐさが正鵠を射ているから,反論できず,

小賢しく感じる(小才を振りかざすさまをそう感じる),というのに対して,「小癪な」は,

そもそもおのれに向かって反論してきたこと自体が,生意気だ,

と感じる(そういうことをおのれは言うのか,という受けとめ方な)のではないか。

小賢しさには,これ見よがし,というか,小利口ぶっているさまがある。小癪には,その言動に対する,

小憎らしさ,

がある。だから,癪に障るのである。

小面憎い,

の含意はまさに,似ている。

「癪」の字は,いわゆる,「しゃくを起す」の「しゃく」で,

いや胸が急激にいたんで痙攣をおこす,
さしこみ,

の意である。「癇癪」は,まさに,発作的な怒りを指す。「癇癪」の「癇」の字は,

ひきつけ

を指すが,「疒+間」で,

間をおいてまた起こる,

という間歇性を示す。ただ「感情の激しい怒り」を指す意味は,わが国だけで使われる意味のようだ。小癪に障ることが多いということは,

自分の立場を守ろうとするせいでそう感じるのか,

あるいは,

小生意気な,小面憎い(小僧っ子政治家の)振る舞いが,目につくせいだろうか。

若造,

と,つい言いたくなる自分を抑えている。








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2015年08月15日

若造


若造は,

若蔵,
若僧,

とも当てる。

若者や未熟者の意。多くは卑しめて,あるいはあざけっていう語。

靑造,

という言い方もある。

あるいは,

青二才,

とも呼ぶ。「青」は,未熟の意。

人柄,技両の未熟なること,

と,『大言海』にはある。二才は,

「アオ(未熟)+ニサイ(幼魚)」

で,ボラなどの幼魚を二才,というのに喩えて,

歳若く経験の乏しい男を罵って言うという。

毛二才
とか
小二才

といったいい方もしたようだ。ただ,語源には,

「アオ(若く,経験浅く,未熟)+ニサイ(新背,新成人)」

とする説もある。若者組に入る新入りを,「新背(にいせ)」といい,それが訛ったとする。たしか,薩摩では,若者を「にせ」と呼んだのではないか。

似た言葉に,

若輩(弱輩)

というのがあるが,これは,中国語では,

「若(なんじ)+輩」

で,おまえたち,の意味。日本では,「若」を若いと転じたので,

歳の若いもの,

という意味になった。

似た意味には違いないが,「若輩」は,自分のことを謙遜して言うことが多い。それに対して,

若造,

青二才,

は,人からいやしめて言われることが多い。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/4483/m0u/

によると,

「『若輩』『若造』は、その若さのゆえに未熟者と見なされ軽蔑されるのだが、『青二才』は、経験が乏しいのに言うことだけは一人前といった生意気な若者に対して用いることが多い。」

とある。「小癪な」と言うのに似た使われ方のようだ。

それにしても,いま,こう言う言い方をする人は,少なくなった。年齢だけではなく,未熟さを謙遜して,

若輩者ですが,

という言い方すら,最近寡聞にして聞かない。当然,僕個人の経験でも,経験者や高齢者が,若者を,

青二才,

などと罵る場面に出会ったことがない。

それは,いつの間にか,高齢者の積んできた経験や技量が,一切合財(とはいわないものの)役に立たなくなったから,(と世の中か若い人たちが,というより年寄りたちが)思っているせいなのかもしれない。

本当にそうかどうかは知らない。しかし,国会での今の政権を担っているひとを,自民党の長老たちがたしなめているが,しかし,

青二才,

とは,言わない。言っていいと思う。ほぼ,やっていることも,言っていることも,

チンピラども,

なのである。たとえば,

http://togetter.com/li/832562

に明々白々になっているのは,そのチンピラもどきの一人,礒崎陽輔総理補佐官が安保法案についてツイッターでケンカをふっかけて,相手10代の女子に完全に論破されてブロックして逃亡した,と噂されている一部始終を見る限り,チンピラそのものである。

いま(戦争体験,戦後体験を含めた)経験者の声が,路傍に捨て去られた後に来るのは,

草茫々の亡国,

なのではないか。それは,ITだのテクニックだのといった技量だけでは測れない人の器量の差の結末なのではないか,と年寄は思うのである。








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2015年08月20日

浅はか


おのれを浅はかな奴だとは自認するが,

あさましくはない,

とひとりごちたところで,「あさ」は同じでも,語感が違うと気づいた。

「浅はか」は,

考えが浅いさま,浅薄なさま,思慮の足りないさま,
奥行がなく,浅いさま,
深みがなく,あっさりしているさま,軽々しいさま,

といった意味だが,『古語辞典』では,

アサは浅,ハは端の意か,浅く外れているさま,

と,注記があって,

空間的な浅い,
という意味と,
心遣い,考え,愛情などが浅い,

と二つの意味が出ている。どうやら,空間的な奥行の無さが原義で,それを敷衍した意味が,「浅」慮のように感じる。ただ,語源辞典は,まったく別の説を載せている。

「浅+量」で,アサは浅い,ハカは量(量る・考え)で,考えが浅い(「浅墓」は全くの当て字),
「浅し+はかなし」で,浅くて弱い,

とある。しかし,この両説とも,語彙の外延が広がる,という意味から考えると,こじつけではないか。むしろ,今の意味を考えても,「あさはか」は,空間的な意味から,という『古語辞典』の説に傾きたくなる。

「浅まし」は(『広辞苑』では),

動詞アサムの形容詞形,意外なことに驚く意が原義,善いときにも悪いときにも用いる,

と注記があり,

意外である,驚くべきさまである,
興ざめである,余りのことに呆れる,
(あきれるほど)甚だしい,
なさけない,惨めである,見苦しい,
さもしい,心が賤しい,

といった意味になる。語源は,『広辞苑』の,

浅む(意外でおどろく)の未然形+しい

のようである。『大言海』によれば,

もともと浅しという意の語,

とある。さらに「あざむ(浅む)」を見よ,とあり,

浅(あさ)を活用して,あざむと云ふなり,あきれ返るによりて濁る(淡(あは)むをあばむと云ふと同趣),この語の未然形アサマを,形容詞に活用せさせて,あさましと云ふ(勇(いさ)む,いさまし,傷(いた)む,いたまし)。すなわちあさましく思うなり,あざ笑うも,あざみ笑うなり,

と詳しい。「あさむ」を「あざむ」と濁ることで,意味は評価を下す意味を込めることになる。しかも,加えて,

驚き呆れる,あっけにとられる,興ざめ,の意を含む,

とある。ただ,いやしむというのではなく,

驚き呆れる,

という意味があるということは,想定外,意想外,ということだ。

そういうことをしない人がそんな振る舞いをした,
とか,
こういう場でそんなことはしないだろうということをした,

というニュアンスであろうか。

しかし,元々「浅し」は,

深しの対,

だから,空間的に,

奥行がない,
とか
平面的,

という意味であり(色や香りに転用されて「薄い」もある),それが時間的に意味を広げて,

時間経過が少ない,

となり,身分や関係に敷衍されて,

地位が低い,
縁が薄い,

となり,結果として,

心の至りつくところが深くない,
智恵が未熟,
情が薄い,
趣きが少ない

となる。どうも「あさはか」も「あさましい」も「浅」と縁が深い。浅いということは,あまりいい評価にはつながらないらしい。

薄っぺら
軽い
表面的
皮相

は,いずれも,貶める言い方に通じる。「浅(淺)」の「戔」は,

「戈」二つからなり,戈(刃)で気って小さくすることを示し,小さい,少ない意,

で,「浅」は,水が少ない,意。しかし,「浅い」という意味だけで,やはり,貶めるニュアンスがある。

浅学,
功浅,

等々。何ごとも深く奥行の見えない深みのあるのがいいらしい。嗚呼。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)









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ラベル:浅はか 浅まし
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