2013年02月17日
出雲の神々に卑弥呼の影を見る
村井康彦『出雲と大和』を読んだ。
著者自身が,「古代の出雲世界とは何だったのか。本書はその答えを求めて各地をたずねた,文字通り遍歴の軌跡」と言うように,各地の神社の写真を織り交ぜながら語っている,「出雲理解のデータ」は三つである。
第一は,三輪山の存在である。本殿のない山そのものが神体とされた,その祭神・大物主神(大己貴神,大国主神と同神)が出雲系の神であること。大神神社には,神を祀る本殿はない。三輪山そのものがご神体であり,かつては全山禁足,いまも許可を得ないと入れないところがある。大神神社が今も本殿を持たないのは,由緒の古さだけではなく,この神社が最も古い祭祀=信仰の姿を残している証拠であり,その出雲系の神が,なぜ大和なのか,しかも大和の中心にあるのか,ということ。
第二は,八世紀初め,出雲国造が朝廷に奏上した神賀詞(かむよごと)の中で,貢り置くとした「皇孫の命の近き守神」が,三輪山の大神神社,葛城の高鴨神社など,いずれも出雲系の神々であったこと。そして,それが意味があったのは,「それらの神々が守神になりえたのは,大和朝廷以前から大和に存在していた神々であったから」であること。
第三は,『魏志倭人伝』で知られた倭の女王卑弥呼の名が,『古事記』にも『日本書紀』にも全く出てこないこと。しかも『日本書紀』の著者たちは,卑弥呼の内容も存在も知っていて,にもかかわらず名を出さなかったことは,卑弥呼が大和朝廷とは無縁の存在であること。従って,邪馬台国は大和朝廷とはつながらないということ。
そこから推論されることは,
①大和朝廷が出雲系であるか,
②大和朝廷が,出雲を取り込んだか,
③大和朝廷が,出雲を滅ぼしたか,
である。もし③なら,出雲系の神々は,別の伊勢系の神々に取り換えられているはずで,残るはずはない。①は,国譲りの神話や神武東征の神話から見て,矛盾が出る。で,著者は,②をとる。
そして,著者の立てたのは,邪馬台国は出雲勢力が(大和に)立てたクニであった,という仮説である。
そのカギになるのを,ひとつは,長髄彦(ながすねひこ)にとる。神武軍は,待ち構えた長髄彦にてこずり,手痛い敗北を喫している。奈良の富雄川沿いは,長髄彦の遺跡が点在しているが,その中で富雄地域の中心である,忝御県坐(ひうのみあがたにいます)神社は,祭神が武乳速命(たけちはやのみこと)であるが,地元の人は,武乳速命が長髄彦と信じ,「神武東征の折の孔舎衛坂(くさえのさか)の戦いでは,自分たちの先祖は長髄彦に従い,生駒山頂から大きな石を神武軍の軍兵に投げたものだ,と戦いのさまを昨日の事のように語ってくれる古老がいたとのことだ」と著者は書く。長髄彦が,祭神から消されたのは,明治になってからだという。「近代国家になった時期に消された,この種の祭神が少なくなかったことを記憶にとどめておきたい」とは,神社を丁寧にめぐっての,著者の実感だろう。
カギのもうひとつは,その長髄彦が仕えていたのが,饒速日命(にぎはやひのみこと)であり,その饒速日命が,抵抗し続ける長髄彦を殺し,「天津瑞(あまつしるし)」(天のしるしの神宝)を差し出した。この饒速日命の帰順を,著者は「国譲り」とみる。
苦労して大和へ侵攻した神武軍だが,生駒から桜井方面に回った長髄彦との戦いにどうしても勝てなかった。神武軍が圧倒的優勢というわけではなく,長髄彦側にも勝機があった。にもかかわらず,長髄彦を殺して,饒速日命は帰順した。だからこそ,「国譲り」だと著者は言う。饒速日命もまた,出雲系である。
そこで,著者は,邪馬台国を,出雲系の国と推定する。そして,邪馬台国の「四官」に注目する。『魏志倭人伝』では,四官,すなわち,
伊支馬
弥馬升
弥馬獲支
奴佳鞮
であるが,それぞれの字をあてる天皇名があることから類推して,弥馬升→生駒,弥馬升→みます(葛城一帯),弥馬獲支→みまき(三輪山のふもと,天理から桜井にかけて)と読み,奴佳鞮を「なかと」と読み,地域的に,生駒,みます,みまきに囲まれた「中央」ととらえた。奈良盆地の中央,「大字なし」のエリアになる。
この大胆な考えの是非はともかく,神社を徹底的に歩いた末にたどり着いたこの仮説は,大きな新しい視界を開いていることは間違いない。著者は,「はじめに」で,この本についての姿勢を,こう書いている。
(出雲系の神々をたずねた旅の軌跡を書くにあたって,)「心に決めたことがある。それは。これまでの通説にこだわらず自由に発想すること,であった。対象が対象であるだけに,しばしば神話の世界にも分け入り,古代人の思惟や行動について考えるところがあったが,そこは歴史研究者にとっては禁断の領域であるかもしれなかった。」
しかし,頭でひねり出しているのではない。足で神社をたずねまわり,その祭神,由緒を紐解くところから出た仮説なのだ。それを検証しないで,云々するものは,学問を知らぬものだ。まず大胆な仮説を,出す勇気がいる。
日本の社会科学系の学者が,ほとんど欧米学説の金棒引きか自己完結型が多いのは,実にこの点にある,と感じている。前例踏襲(師匠の学統)から出られない。その分絶対に世界に通用しない。なぜなら,何十年か前の欧米の学派の後塵でしかないからだ。こういう大胆な仮説があってはじめて,それを検証するに値する。そこから新たな学問の視界が開けていく。
老いてなお,新たな仮説に邁進する著者に最敬礼!こういう姿勢しか世界に伍す研究はない。
参考文献;
村井康彦『出雲と大和』(岩波新書)
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2013年11月08日
ストレス
家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』を読む。
あとがきで,著者は,
従来の日本史研究者があまりにも健常者中心であること,
を問題意識に,西郷隆盛のストレスを,久光との葛藤を通して,幕末から,明治六年の政変まで辿る。是非はともかく,西郷隆盛の抱えていた桎梏が見え,それはまた同時に,西郷自身のものの考え方の一貫した軸のようなものまでをあぶりだすところが,いままでの史書にない,斬新さといっていい。
朝鮮へ政府要人を使節としてなにがなんでも派遣しなければならないほど,朝鮮問題が緊迫化していないなかで,
西郷が朝鮮使節志願を,突然,閣議で願い出た後,板垣(退助)に,協力を求めて,
是非,此処を以テ戦に持込不申候ては迚も出来候丈に無御座候付,此温順の論を以テはめ込み候へば必ズ可戦機会を引起し可申候付,只此一挙に先立,死なせ候ては不便杯と若哉姑息の心を御起し被下候ては何も相叶不申候間,只前後の差別あるのみに御座候間,是迄の御厚情を以御尽力被成下候へば死後迄の御厚意難有事に御座候間,偏ニ奉願候。最早八分通は参掛居候付,今少の処に御座候故,何卒奉希候…
という必死の手紙を認める。著者は言う。
この文面からは,当時の西郷が,まるで死神に取り付かれたかのように死に急ぐ姿が浮かび上がってくる。
と。この後,三条(実美)との会見を板垣に報じる,西郷の文面にも,
此節は戦を直様相始め候訳にては決て無之,戦は二段に相成居申候。只今の行掛りにても,公法上は押詰候へば可討の道理は可有之事に候へ共,是は全ク言訳の有之迄にて,天下の人は更に存知無之候へば,今日に至り候ては全ク戦の意を不持候て,隣交を薄する儀を責,且是迄の不遜を相正し,往先隣交を厚くする厚意を被示候賦を以,使節被差向候へば,必ズ彼が軽侮の振舞相顕候のみならず,使節を暴殺に及候儀は決て相違無之候間,其節は天下の人,皆挙て可討の罪を知り可申候間,是非此処迄に不持参候ては不相済場合に候段,内乱を冀ふ心を外に移して国を興すの遠略は勿論,旧政府の機会を失し無事を計て終に天下を失ふ所以の確証を取りて論じ候…
と,その動機を余すところなく語っている。
第一は,「使節を暴殺に及候儀は決て相違無之候間,其節は天下の人,皆挙て可討の罪を知り可申候」と,本来なら征韓するほどの理由がなかったにもかかわらず,それを強引につくりだそうとしている,
第二は,「内乱を冀ふ心を外に移して国を興す」と,不平士族の不満をそらそうとしている,
第三は,「旧政府の機会を失し無事を計て終に天下を失ふ所以」と,旧幕府が平穏節を計り,事なかれ主義に陥ったために滅んだが,新政府の現状はそれに近いという危機意識がある,
というのである。それにしても,と著者は言う。
西郷はひどく急いていたのである。ここには,余裕を失っている,それまでの西郷とはまったく異なる別人の姿が見られる…
と。そして,この時期,西郷は,極度の体調不良に陥っていた。
数十度の瀉し方にて甚以て疲労…
という状態なのである。これは,下剤を日常的に用いていたゆえに起きたことだが,それは,陛下から遣わされたドイツ人医師の,持病である「肩並びに胸杯の痛み」対策として,肥満解消のための瀉薬療法と食事療法という処方にもとづくが,このために,日に五六度の下痢に苦しめられることになる。
その原因となった西郷の持病に,著者は,ストレスを見る。
その一つは,西郷の性格である。一般には豪放磊落と受け止められているが,
ステレオタイプ化された西郷 隆盛像から離れて,西郷のありのままの姿を追う…,
として次のような特徴を上げた。
第一は,軍好き。単なる戦闘好きだけにとどまらず,戦に臨む前の緊張感を持って日常を生きるのを好んだ。
第二は,多情多感。目配り,気配りの凄い,きめ細かな感情の持ち主。感情の豊かな人間味あふれた人物であった。血気にはやり,自分の感情を率直に噴出させるタイプで,その分好き嫌いが激しい。「相手をひどく憎む」「度量が狭い」という藩内の評もある。
第三は,策謀家・政略家。緻密かつ論理的・組織的な頭脳の持ち主。あ相手との駆け引きを楽しむタイプ。無策な人間を軽蔑した。ただし策略家としては,失敗が多い。
そして,著者は,
こうした容易に他人に信をおけないタイプの人間は,当然相手の行為をめぐって憶測をたくましくし,そのことで強いストレスを受ける羽目になる。
というが,むしろ,西郷が矢面に立つほかない出色の人物である故に,というべきなのかもしれない。そして,西郷の特色は,常に死の意識が付きまとっていることだ。いつくかのエピソードで有名なのは,僧月照と入水自殺から,一人生き延びた後,大島に流罪になるが,このエピソードで,
南洲は此事あってより後は…終始死を急ぐ心持があったものとおもわれる,
という(重野安繹の)回想もあるが,西郷自身は,「土中の死骨」と自ら称し,
投身という「女子のしさうな」手段を講じ,しかも自分一人生き残ったことを悔いる言葉を吐いた,
という。それが強く西郷の中にあったらしく,それを象徴するのが,二度の流罪から赦免されて軍賦役になった西郷が,長州藩邸に乗り込み,長州藩を関係者を説得するとして,
迚も説得いたし付け候儀は六ケ敷候得共,承引致さず候迚空敷帰し申す間敷,殺し候えば長には人心を失い申すべし,
と,朝鮮使節と同じ発想,自分の死を持って,軍の名分を立てようという発想がみられる。
しかしそれ以上に,ストレスとなったのは,斉彬死後,国父として薩摩の実力者となった島津久光およびその近臣との間での葛藤として,現在化する。
とりわけ,「地ゴロ」(田舎者)発言以来,久光の憎悪を一身に受け,奄美大島,沖永良部島と二度の流人生活を余儀なくされ,軍賦役で復帰して以降は,久光を意識し格段に慎重になった,と言われる。
しかも慶応三年時点ですら,武力倒幕に傾く,「暴論派」は,藩内でも少数派で,小松帯刀も,慶喜の大政奉還以降,慶喜を新体制の中心に据えようという方向に転じ,京都藩邸ですら,武力討幕を志向するものは少数派であった。しかし,この時期に,久光は,体調不良に陥り,国元へ帰国,代わって,藩主茂久が上洛,以後,その機をつかんで,曲折を経ながら,鳥羽伏見で,戦端を開くに至る。
藩の大勢,当然久光自身も,倒幕を容認していない。そんな中で戊辰戦争に引きずり込まれ,薩摩藩は,多大の犠牲を払い,しかも人口の四分の一にまで達する,他藩と比較にならない20万人に及ぶ武士が,廃藩置県で路頭に迷うに至る。その憎悪とプレッシャーは,西郷に重くのしかかっていた,と言えるだろう。
それが病気の一因かどうかはどうかはわからないが,西郷という人間に大きなストレスを与えていたことだけは間違いない。少なくとも,ただ,西郷自身の志向だけから,征韓を急いだというより,薩摩の藩内事情(久光の反発を含めた)が,西郷にその善後策を強いたということだけは間違いない。その責めを一身に背負うタイプの人間でもあったということだ。
そうした西郷を取り巻く環境を,病気という切り口で,いままでは異なる歴史の断面を剔抉した手際は,鮮やかだと思う。
ところで,小松帯刀と島津久光の体調不良がなければ,鳥羽伏見に始まる戊辰戦争を経た明治維新への回路はよほど違ったものになったということを,感じる。著者は,小松が体調を崩して鹿児島から上洛できなくなったのを,
…このことが薩摩藩ひいては日本国そのもののその後の運命を大きく変えることになったと言ってよい。
と,述懐する。確かに,「たら」「れば」は歴史にはないが,こう思わせるのは,結局歴史を作るのは人間だからだとつくづ思う。
参考文献;
家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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#島津久光
2014年08月31日
コピペ
コピペということで,散々叩かれ,自殺者まで出した日本の研究者状況の貧困な精神風土には辟易する。
ただし,僕がうんざりしているのは,コピペ問題ではない。僕は,ひと様のコピペを言挙げ出来るほどオリジナリティに富んだ人間ではない。
素人の僕も言うのも,口幅ったいが,研究は(何も研究だけに限ったことではないが),
オリジナルな着想が命である,
と思う。しかし,その着想の是非の前に,コピペを言い立てて問題を本題から逸らし,そんな奴がろくな研究をするはずはない,というようにすりかえ,例によっての,よってたかってのバッシングのほうである。
大体,一体何人の研究者・学者が,人のコピペを嗤えるのか。
欧文をただ邦文にしただけの,タテヨコのコピペ,
翻訳しただけで,原著者と同じような顔をして,その説を吹聴して金を稼ぐ翻案コピペ,
ただ先達の墨跡をなぞっているだけのなぞりコピペ,
あちらの哲学を哲学する哲学コピペ(自分の哲学ではないから哲学者の哲学コピペ,政治コピペ,心理コピペ等々),
あちらの研究の喧伝者というアンプコピペ,
あちらの研究・学説・著作の金棒引きコピペ
あちらの研究・学説の解説コピペ
あれこれをつぎはぎしただけのパッチコピペ
等々,どれもこれも立派なコピペではないのか。おのれにコピペの自覚がないだけなお始末が悪い。
一体日本の,何人の学者,大学教授,研究者が,真実おのれの頭で考えたと言い切れるのか。(すべては先人の成果の肩に乗ってというのは当たり前だが)たとえば,自分の論文を欧米で堂々翻訳出版できるのか。翻訳したら,たぶん多くは失笑されるだろう。国内ならばれないが,現地へ行けば,厳然たるオリジナルが存在し,それをなぞっただけなのがバレバレだから。それは,他の分野も同じだ。
僕は研究のケの字も知らぬ素人だが,オリジナリティは,
着想にある。
あるいは,
ひらめきにある。
あるいは,
発想にある。そう思っている。その発想がないから,人の剽窃で平然としていられる。
それで,思い出すのは,ずいぶん前,読んだ研究者の話である。生態のわかっていない山岳地帯の蜂の研究をしたくて,捉えては,育てようとしたが,どうやっても育たない。さまざまに気温を変え,環境を設定したが死滅してしまう。あるとき,ふと思いつく。ひょっとすると,寒暖の差が必要なのではないか,と。このことである。ひらめきというのは。
ひらめきの起きたとき,0.1秒,脳の広範囲の部位が活性化する,
という。つまり,多角的な経験・知識のリンクである。それは,何かを突き詰めて考えたとき,トンネルを抜けるように,ぱっと視界が開けた状態といっていい。
例のコピペ騒動の時,研究者の一人として,あの着想がどうなのかに着目し,その着想の是非,検証に乗り出したうえで,批判した人が,一体何人いたのか。学問批判の,それが常識ではないのか。
すべての着想は仮説である。仮説は,検証・実証されるまで,
妄想
に過ぎない。妄想だと笑うものは,一度も,自分の頭で,徹頭徹尾ものを考えたことのないものだ。
そんなに簡単に仮説が検証されるはずもない。アインシュタインだって,検証されるまで妄想に過ぎなかったのだ。つい最近だって,光より早いものがある,アインシュタインの仮説が崩れた云々と大騒ぎになったばかりではないか。
そういう仮説の妄想を嗤うものばかりだから,コピペに話がずれていった。
こういうと顰蹙をかうかもしれないが,論文のコピペだろうと,卒論のコピペだろうと,何が問題か。そんなものは,手続きというか,関門を通るための手段に過ぎない。まあ,くりかえさないが,ウィキペディアをコピペするのと,外国の論文を(翻訳)コピペするのとは,
目くそ鼻くそ
である。そんなことより,オリジナルな着想をして,それを検証したら,勝ちではないのか。そこに着目できない,わが国の研究風土の貧弱さと貧困さには,目を蔽いたくなる。
曖昧さ,
くだらなさ,
と
前例打破
とはほとんど同義である(天才と狂人が紙一重なのと同じである)。コピペでバッシングしている学者の顔が,下劣で愚かしく見えたのは,一人として,オリジナルな着想の重要性に言及せず,ただ手続きの瑕疵だけを問題にしているように見えたことだ。
着想
だけが宝なのだ。アーサー・C・クラークが言っている。
権威ある科学者が可能というとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能というとき,それは多分間違っている,
と。誰も考えたこともないから,
オリジナル
なのだ。それは,現在の評価基準,常識には当てはまらない。だから,新しい。そこからしか出発しない。それが検証し,実証できなければ,
ただの妄想
だっただけのことだ。過去にある,累々たる仮説の屍の一つになっただけのことだ。しかし,それを嗤うものは,
研究の,
科学の,
あるいは,
オリジナルにものを考えることの,
何たるかがわかっていないだけのことだ。
先日やっと検証実験の中間報告がでた。
未だ,つくれず,
という。これがまっとうな批判というものだ。しかし,まだ結論ではない。そんなに簡単に白黒がつくわけはない。100m走をしているのではないのだ。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm