2013年04月18日

待つことについて


ずっと何かを待っている,ということはないか。ゴドーを待ちながら,というのを観た時,自分が待っているのが,神でも人でもなく,単なる僥倖のような気がして,待つのをやめようと思った記憶がある。

爾来,というかもともとというべきか,待つのが嫌いである。並ぶことも嫌いである。むしろ,並んでいるような店は避ける。評判や世評に乗せられるのを潔しとしない。それは,自分の判断の放棄である。そういう好奇心は,他力の好奇心である。自分の感覚と感性で,失敗しながら,探っていく。

意味なく行列をつくる。意味なく,待つ。診察を待つ,ラーメン屋で待つ。入場を待つ。有名店で並ぶ。死ぬのを待つ。その間も時間は過ぎていく。

確か秋元康は,人生は,電話に差し込んだままのテレフォンカードと同じだと言った。話をしようとしまいと,度数はどんどん減っていく。定められた寿命がどのくらいなのか,確か落語の『死神』で,自分のろうそくを見るというのがあった。ネットで見ると,こう紹介されている。


何かにつけて金に縁が無く、子供に名前をつける費用すら事欠いている主人公がふと「俺についてるのは貧乏神じゃなくて死神だ」と言うと、何と本物の死神が現れてしまう。仰天する男に死神は「お前に死神の姿が見えるようになる呪いをかけてやる。もし、死神が病人の枕元に座っていたらそいつは駄目。反対に足元に座っていたら助かるから、呪文を唱えて追い払え」と言い、医者になるようアドバイスを与えて消えた。

ある良家の跡取り娘の病を治したことで、医者として有名になった男だが『悪銭身に付かず』ですぐ貧乏に逆戻り。おまけに病人を見れば死神はいつも枕元に・・・とあっという間に以前と変わらぬ状況になってしまう。困っているとさる大店からご隠居の治療を頼まれた。行ってみると死神は枕元にいるが、三千両の現金に目がくらんだ男は死神が居眠りしている間に布団を半回転させ、死神が足元に来たところで呪文を唱えてたたき出してしまう。

大金をもらい、大喜びで家路を急ぐ男は途中で死神に捕まり大量のロウソクが揺らめく洞窟へと案内された。訊くとみんな人間の寿命だという。「じゃあ俺は?」と訊く男に、死神は今にも消えそうなろうそくを指差した。曰く「お前は金に目がくらみ、自分の寿命をご隠居に売り渡したんだ」。ろうそくが消えればその人は死ぬ、パニックになった男は死神から渡されたロウソクを寿命に継ぎ足そうとするが……。


ろうそくの火は,燃え続けている。休む間もなく,限界まで燃え続けて,いずれ消える。その間,無駄に何かを待つなら,それはテレフォンカードと同じことだ。まずは,自分から迎えに行かなくてはならない。何を?未来の自分を,だろう。あるいは,ジョセフ・ジャウォースキーの「出現する未来」に倣うなら,出現する自分と言ってもいい。

いまの自分を,いま,ここに置き残して,一刻一刻と前へ出る。自分を時に刻み付けて,ひとつらなりに流れとなって,次の自分にたどり着く。あるいは,ヤドカリが自分の将来の住み処を,大きめの貝殻に託すように,大きめの自分にたどり着く。

一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)

とは,ひょっとすると,相手との邂逅ではなく,自分との邂逅なのかもしれない。自分に出会い,そこから,また別れて,新たな自分に出会う。エンカウンターとは,自分と仮設の時間と空間で出会う。しかし,その場を難れると,元の木阿弥になるのは,それが自分の姿勢にまで,マインドセット化されていないからだ。

私は私に耐えない
それゆえ私を置き去りに
する
私は 私に耐えない それゆえ
瞬間へ私を置き去りにする
だが私を置きすてる
その背後で
ひっそりと面をあげる
その面を(「置き去り」)

これは,逃げただけだ。その自分も含めて,自分として受け入れなければ,たぶん背後霊のように付きまとわれるだろう。そこには前進はなく,一歩前進二歩後退が続くだけだ。

生きるとは,そうやって,自分の位置を変えていくことだ。

生きるとは 位置を見つけること あるいは 位置を踏み出すこと そして 位置をつくりだすこと 出なくてはならない。

だからこそ,最後にどういう位置にいて,どこに立つかが問われる。

かぎりなく
はこびつづけてきた
位置のようなものを
ふかい吐息のように
そこへおろした
石が 当然
置かれねばならぬ(「墓」)

最後にどういう位置にいるのかも,自分で決めなくてはならない。自分の物語のエンディングをどうするか,それがHappy ending にしろ,Sad endingかBad endingかは知らないが,それは自分で決められる。そこから,また新しい物語が始まる。

私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(「はじまる」)

だから,待つのはやめる。並ぶのもやめる。それは他力にゆだねることだ。自分の時間をいつも自分のコントロールできるところに置いておこう!

参考文献;
石原吉郎『石原吉郎全詩集』(花神社)
ジョセフ・ジャウォースキー『源泉』(英治出版)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#石原吉郎
#石原吉郎全詩集
#ジョセフ・ジャウォースキー
#源泉
#死神
#落語
posted by Toshi at 06:06| Comment(4) | 自由 | 更新情報をチェックする

2013年04月21日

「ぶれない軸」幻想



人は文脈に依存して生きている。またさまざまな役割を使い分けて生きている。軸とは何かがよく分かっていないが,ぶれないということをよしとする考え方には賛成できない。返って,生きにくいというか,適応性のなさを露呈しそうな気がする。

そう思っていたら,西垣さんが,小説家の平野敬一郎の『私とは何か』を引用しながら,こんなことを書いていた。

個人とは「西洋文化に独特のもの」であり,それをもたらしたのは「キリスト教(一神教)の信仰」と「論理学」だと平野はいう。一たる神に対しては,終始,一貫性のある「本当の自分」が向きあわなくてはならない。また,論理的にカテゴリーをわけていくと,動物があり,人間があり,国民があり,男女があり,ついに最小単位として一つの肉体をもつ「個人」ということになる。(中略)
個人のかわりに平野が主張するのは「分人」だ。「一人の人間は『わけられないindividual』存在ではなく,複数に『わけられるdividual』存在である。だからこそ,たった一つの『本当の自分』,首尾一貫した『ブレない』本来の自己などというものは存在しない」と,平野は言い切る。

人との関係の中で人は生きている。人とのリンクの結節点として生きる。とすれば,相手に応じて,親になり,子になり,友になり,部下になり,上司になり,客になり,サプライヤーになり,と変わっていく。その中でいる自分でしかありえない。頭で考えた自分ではなく,そういう生きた関係の中にいる自分こそが自分であり,その振れ幅分だけ,自分の多様性と柔軟性がある。

クライアントの前のコーチとしての自分と,子の前の親としての自分が,軸がぶれなかったとしたら,その人は人間ではない。そのぶれる幅が自分でわかっていること,意識できていることは大事かもしれないが,終始一貫,変わらないとしたら,たぶん適応障害を起こしているはずだ。

ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)価値観
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)姿勢
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)自信
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)ものの見方
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)愛情
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)コミュニケーションスタイル
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)夢一直線
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)目的
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)ゴール
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)確信
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)生き方
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)好み
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)生活スタイル
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)生活基盤
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)生活環境
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)人間関係
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)友情
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)体形
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)自己認識
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)エネルギー
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)熱意
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)方向性
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)リーダーシップ
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)ミッション
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)戦略
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)強み
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)性格
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)目利き
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)感性
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)眼力
ぶれない(なんなら「ゆるぎない」と言い換えてもいい)批判力

等々と挙げてみると,変わらないのがいいとされるものもあるかもしれない。しかし,あえて言うと,人は変化し,成長する。成長したステージにいてもなお,まだ,前のミッションに拘泥するとしたら,それはそれで自分の使命を見失っているということになりかねない。

また自分のシチュエーションも,おかれる位置も,時々刻々変化し続けているはずである。

人は成長し,変化する。変化とは,

前の自分より大きくなること,
自分を脱ぎ捨てて脱皮すること,
以前の自分を置き残して前へ行くこと,

つまり,以前の自分の軸とは変わっていなくてはおかしい。軸がぶれないとは,成長していないということの証,頑迷固陋の証,固定観念に執着する証なのかもしれないのだ。

あるいは,ぶれるから人間なのではないか。様々な人と会い,様々なシチュエーションにもまれ,ああでもないこうでもないと迷う。ぶれる,振れる。だから人間で,その振れる幅の分だけその人の経験が大きく,閾値が高いと言えるのではないか。軸がぶれないという喩えは,機械にはいいが,人には適さない。

参考文献;
西垣通『集合知とは何か』(中公新書)
平野敬一郎『私とは何か』(講談社現代新書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#西垣通
#集合知とは何か
#平野敬一郎
#私とは何か
#軸
#ぶれる


posted by Toshi at 06:08| Comment(0) | 自由 | 更新情報をチェックする

2013年10月30日

無駄


僕は自分が効率的な生き方をしているとはとうてい思えない。

しかし効率的でない,と言うと,インプットしたエネルギー以上の成果を出せたかどうかとということになるか。あるいは能率的と言うと,一定時間にどれだけの成果を出せたかということになるか。

しかし仕事もそうだが,ただ一定水準のものを次から次へと出せばいいというものではないのではないか(負け惜しみだが)。まして人生は,一定時間にどれだけ仕事をしたかとか,どれだけの効率的な生き方をしたかとかだけで測っていいものかどうか。

僕は,どうも,真っ直ぐには進まないタイプで,

回り道,

横道,

遠回り,

脇道,

に逸れるきらいがある。いわば,道草大好きで,好きな人がいると,すべてを投げ捨てても人生の時間を浪費して惜しまない。

そう言う意味で,

何か成果を出したか,

とか,

何を達成したか,

とかに関心がないわけではないが,目の前の花や団子に目を奪われ,うかうかと時間を過ごす傾向がある。

言ってみると,

どうでもいいことに無駄な時間を使い,一生を台無しにするタイプなのだといっていい。

どうなのだろう。

子どものときに夢中になっていた,

昆虫採集,

凧揚げ,

模型飛行機づくり

等々と,オトナになって,そう効率や能率や成果とは無縁の,どうでもいいこと,

たとえば(酒や賭博や競馬・競輪は除くが),

おまけの大人買い,

アニメの大人買い,

マンガの大人買い,

稀覯本の収集,

落語家の追っかけ,

ガンプラの収集,

等々に夢中になるのは,顰蹙を買うことになるのだろうか。

あえて言うが,人生は,他人のために生きているのではなく,ただおのれのためだけに消尽しつくすのは,その人の唯一の自由といっていい。

僕は,何かにまっしぐらに突っ走る人もうらやましいし,かっこいいとは思うが,どうでもいい感情にこだわって,人生を台無しにするというのも,別にかまわないと思う。一生をかけるに値する感情だったのだ。たとえば,片思いでも,一生を賭しても構わない恋だってある。僕はそういう人を知っている。それはそれで,恰好いいじゃないか。

あるいは,人にとってはどうでもいいものに夢中になり,その収集のために家族も捨て,退職金を擲ってでも手に入れようとするのも悪くない。そこまで夢中になったら,それは,人生を賭けるに値する何かだったのだ。

僕は人生は,一本道であるより,挫折,失墜,落伍,道草,失踪,自殺,何でもアリだと思う。だからと言って,脇道体験があるほど,その人に滋味が出るなどというアホなことは言わない。んなわけはないのだ。

一生をたった一つの夢に賭けてもなお,叶わぬ夢はある。それは人生と等価なのだ。だからいい人生だなどというお為ごかしは好きではない。論評無用なのだ。

行蔵は我に存す,毀誉は他人の批評

である。

ただ,だから人生は自己表現なのだ,と思う。一生を通して,

結果として,自分になる。

人生には,有効,有益はない。

当然人生に,無効,無益もない。そういう秤ではつりあう分銅はないのだ。

それを目方で形にしようとするなら,こういうことか。

おれひとりで呼吸する
おれひとりで
まにあっている
世界のちいさな天秤の
その巨きな受け皿へ
おれの呼吸を
そっとのせる(石原吉郎「呼吸」)

人生には,無駄はない。

本道を行く者には,脇道・横道は,無駄に見えるかもしれない。しかし,横道にそれたものから見れば,本道こそが無駄に見える。

人生楽しければいいなどという極楽とんぼは言わぬが,おのれの道が,脇だろうが,本道だろうが,ひと様には関わりはない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#石原吉郎
#人生
#無駄
#効率
#能率

posted by Toshi at 05:27| Comment(16) | 自由 | 更新情報をチェックする

2014年08月21日

気まま


NHKの番組で,唯ひとり集団的自衛権反対の論陣を張った鳥越俊太郎は,帰路ヤバイ目にあったと言われているし,ネットでは罵詈雑言の嵐だったと聞く。

いまの世の中の風潮を如実に表している。反対者を,徹底的に叩く,しかも,肉体的精神的にも追い詰める。

そんなに嫌なら,日本を出ていけ

という論調である。いまの日本が嫌なことと日本そのものが嫌なこととはイコールではない。よしんば,日本が嫌でも,この日本に生きている資格はある。意見が違おうと,価値が違おうと,生きていく資格がある。基本的人権とはそういうことだ。それを,反対者を徹底して追い詰めていく。まるで,

人非人

のように,この傾向は,いわゆる,

バッシング

の中にすでに垣間見られた。記憶に鮮烈なのは,かつて,イラクで活動していた女性が過激派に囚われたとき,国を挙げて,

自己責任

の名のもとに,追い詰め,押し潰した。そのとき,イタリアは国を挙げて救出しようとしていたのと好対照だ。かつての,

国賊

と言われるのとほとんど同じである(最近は,反日というレッテルになっている。反戦は反日,反原発も反日…らしい)。日本には,いまや,

民主主義

はない。いや,もともとなかったのかもしれない。それが,いま,露呈した。民主主義のないところに,

自由

はない。自由のないところに,

個性



創造性

もない。いま,日本が停滞しているのは,単に経済だけではない。20年以上バブルの後遺症が続いているのは,われわれにそれを打ち破る知恵と創造性が失われている証拠でしかない。

人と意見の違うのは,当たり前,だから,

議論

するし,異見を戦わす。カーネギーが,

意見の不一致を歓迎せよ,
ふたりの人がいて,いつも意見が一致するなら,そのうちのひとりはいなくてもいい人間だ。

と喝破したことを思い出す。

意見が違うからこそ,おのれひとりの自己完結した狭い発想から広いパースペクティブへと広がる。

先日の被爆者との懇談で,

見解の相違

といって,異論を退けて顧みないトップというのは,その瞬間,民主主義も自由も弁えていない,ということをしょうめいしたようなものだ。意見の相違は,前提でしかない。その上で,異見を言わせた結果,

意見の相違

で切り捨てるのは,異見を言わせたのが,たんなるセレモニーでしかなかったことを,露わにしたと言っていい。

最高の責任者は私だ,

と豪語したそうだが,そんなことは当たり前だ,すべての責任を取るために,国のトップなのだ。しかし,それは結果についてであって,結果のプロセスぬきに,

はじめに結論ありき

で,自説を通すなら,議会もいらない,国民もいらない,それなら,国家の私物化である。それを独裁国家という。この時点で,気づくべきであった。ヒトラーか金になりたがっているということに。

議論に負けても意見は変わらない,

とカーネギーの言う通りかもしれない。しかし,お互いが,異見であることを確かめなくてはならない。その上で,共有しうる結論を導き出せさなくてはならない。それさえなされないなら,異見を許さないに等しい。

自由

とは,中国語で,

きまま,心のまま,思うまま,

が語源。明治に,

Freedom

Liberty

の訳語として使われた。一説では,

freedomは束縛されない自由,,

libertyは束縛から解放された自由.

というが,ここに,自由の語を当てたことが,われわれにとっての,

近代的自由(あるいは束縛からの自由)

個人としての気ままさ

の間の曖昧さに,自由をないがしろにしたり,されたりすることの重みに鈍感な根源があるように思える。

が,しかし,ふと思う。哲学的,政治的意味はさておくとしても(どうせ無学な僕にはわかりっこないので),

「きまま」は,

キ(気持ち)+ママ

で,気持ちの向くまま,ということだ。これができる,いや,飢え死にしようとどうしようと,おのれの意志のまま生きていい,ということが,そもそも自由の意味だとすれば,それは,自由の根源にかかわるのではないか,という気がしてきた。種田山頭火ではないが,

春が来た水音の行けるところまで

がありでなくてはならない。

自由とは,少なくとも,

おのれがいかに生きるか

について,それぞれの人との意志にゆだねられる。それが,

人としての尊厳

である。とすれば,結論ありきで,「生き方」「考え方」を押し付けられても,それに,

No

を言うべき資格が,人として与えられている。好戦的でアナクロな右翼が多数派か少数派か知らないが,

人に意見を言わせない,
異論を許さない,

ということ自体で,その人が,自由な意志を持った人間ではない,ということの証明でしかない。人が異論を言うのは,

どのように生きるかはその人の自由,

という根本がわかっていない証拠だからだ。

しかし,いま,そういうこと言うことさえ許さない世の中になりつつある。それかあらぬか,報道の自由度は,世界で,

59位

にまで落ちた。鳩山内閣時代は,11位であった。

参考文献;
D・カーネギー『人を動かす』(創元社)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 03:27| Comment(0) | 自由 | 更新情報をチェックする