2013年03月19日

修羅場を生きる


ある人から,相談を受けた。自分の契約を継続せず,前から望んでいたある職場の面接を受け,内諾を得たのだという。しかし,契約更新をしないとの意思表示が,契約書にある一か月前を過ぎていたため,それを楯に,後任者がきちんと仕事をできるまで留まって,ちゃんと引き継げ,それをするのが常識ある社会人だ,と脅してくる,という。

法的なことは,僕が知人に聞いて,確かめたのだが,いざ経営陣と面と向かうと,本人は,弱腰になるのか,出来る限り遺漏のないようにすると誓約書を書かされてしまった。たぶん,一人で数人の経営陣に囲まれればそうなる。またそういう状況で書いたものは,争えば,効力がないことを確定するのはそう難しくもないし,知人に頼んで,強力な弁護士も立てられるだろう。

しかし問題は,法律問題ではなく,心の問題だ。心の弱気だ。相手はそんな慮りはないのに,相手への善意や好意を勝手に受け止めて,相手に悪いので,とか,後足で砂をかけられないとか,どうでもいい心配り,気配りをしてしまう。いまそんなことが問題ではない。自分がやりたいことがやれるかどうかの瀬戸際なのに,だ。

よく日本人はおもてなしの心がある,なとどとつまらぬことを言う人がいるが,そういう人はこういう修羅場にあったことのない人だ。時に,経営者は平気で人の人権を踏みにじる,上司も平気で部下の人生をぶち壊す。そのことを非難する気はない,そういう立場になれば,人は非情になりうるし,ならなければ,自分自身が生きのびられないだけだ。もちろんそうでない選択肢を取ることはできるが,それはそれで別の修羅場になる。

だから,僕に言わせれば,おもてなしとは,上から目線なのだ。お情け,ないし温情目線と言い換えてもいい。あるいはゆとりと余裕のあるときの,特殊にしつられたシチュエーションのことだ。人を切る時,人から切られる時,そんなことを言っている余裕は自分から消えているだろう。でなければ,自分が切られる。

茶の湯で,初めて「一期一会」を言った井伊直弼は,一体何人の若い逸材を無残に殺戮したか。ただ徳川幕府という権威を守るためだけに。人は,場合によっては,そうなるということだ。「茶室」という特殊な状況のそれを一般化する議論を僕はほとんど信じないのはこのためだ。しかも,「茶室」内は,あれはあれで,裏面で,実は様々な思惑が入り混じっている。表面的なおもてなしなどに騙されているお人よしには見えないだけだ。「茶室」もまた,丁々発止の,緊張した修羅場なのだ。

結局おもてなしとは,おためごかしであり,親切とは,相手を出汁することであり,心配りとは,ためにするものだと,そう割り切らなければ,おのれを縛る束縛を脱することはできない。自由を得るためには覚悟がいる。何が何でも自由になる,という覚悟ではない。自由のためにはすべてをかなぐり捨てる覚悟だ。すべての慮りも忖度も無駄な配慮と思わなければならない。そういう心配りは,相手からは隙に見える。その隙を相手は衝いてくる。

相手がおのれを貶めようと嵩にかかっている時,優しい気持ちを持つのは,人間としては悪くはないが,ますます自分が追いつめられるだろう。対峙すべき時に,きちんと立ち切っていなければ,相手にとっては隙に見える。腰を引くことは,それはそのままおのれでおのれを貶めているのと同じだ。

ある作家が,右翼についてだか天皇制についただか書いた時,有名右翼に呼び出された。そして,最後こう言われた。「同じ日本人じゃないか」と肩に手を置かれたという。それを読んだ瞬間,背筋が寒くなった。丸めたところで事態は変わっていない。しかし,丸めてしまうことで,差異を消そうとする。しかし,情報の価値は差異にしかない。丸めた情報はただの一般論だ。一般論に丸めることで事態を収めようとしたのだろう。こういうのを清濁合わせ呑むという言い方をする人がいる。いわば,合わせ呑まれた側に立ったことがない人のセリフだ。修羅場とは,合わせ呑まれそうになったものの状況を言っている。

今回,本人は敗北感にまみれている。つまり,相手を信じたが,あるいは相手の好意を信じたが,それは相手にとっては衝くべき隙にしか見えなかったということだ。鮮やかにその隙を衝かれてしまった。自分の心が押し込まれた分だけ,敗北感が募る。

こういう修羅場をくぐっていないで,表面的で,きれいごとを言う人間を,僕は信じない。

この修羅場をくぐるときには,一切の妥協も配慮もかなぐり捨てなくてはならない。しかしそれができる人は本当に少ない。人は,皆人が好いのだ。人の好さは,こういう場合,隙そのものだ。

ひとは,自分のことしか考えていない。自分の利益を守るためにしか相手に向き合わない。修羅場で同情心や心配りは,おのれを衝く致命傷になりかねない。

そして結局思うのは,それが自分にとって,生涯を賭けるに値すると思ったら,修羅にならなくてはならない。人間性を棄てても構わない。その覚悟がなくて,得たいものが,のほほんとして得られるなんてことはない。

決断とは,捨てることだ。覚悟とは,斬ることだ。自由とは断念することだ。

かつて,僕は,「君は,うちの社風にあわない」と言われて,辞職に追い込まれた。上司やトップに逆らうことをそう呼んだらしい。そのとき,僕の内側で,どんな葛藤があり,どんな断念があり,どんな悲壮感があったかなんかは,関係ない。それは,隙でしかない。

何も捨てず,何も断念しないで,えられるものはない。自由には自由の代償がいる。

自由でいるつもりだが,本当にしたいことをしようとした時,初めて桎梏が,足枷が,見えてくる。それを断ち切らなければ,あるいはそれを断ち切る勇気を持てなければ,いまのままの奴隷の状態でいる方が安寧というものだ。

自由が戦わないで得られるなどと思ってはならない。断固とした決意なしに,自由になることなんて難しい。

もちろん,付言しておくが,しがらみを断ち切るのをよしとしているのではない。断ち切れる人と断ち切れない人の差は,覚悟の問題だと言っているだけだ。どっちにしたって,同じ人生。いい悪いはない。どの道死ぬまでの一生だから。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#自由
#決断
#断念
#覚悟
#修羅場
#おもてなし
#一期一会
#茶の湯
#しがらみ
#井伊直弼
posted by Toshi at 04:15| Comment(6) | 決断 | 更新情報をチェックする