2013年03月21日

自分を表現する


自分を表現するということは,自分の中にあるものを表出するという個人に自己完結したものもあるが,そうではないものもある気がしてならない。

元来,文学青年であった自分にとっては,自分の内面の外在化という,個人としての自己表現こそがすべてであった。そのために,どう言語化するか,については悪戦苦闘もしたし,好きな古井由吉の『杳子』等々をほぼ全文を書き写して,その文章のリズムと生理を体得しようとしたこともあった。「風はとつぜん生理のようにおちていった」という「固有時との対話」の一節が,いつも頭をよぎっていたものだ。あるいは,Ô saisons ô châteaux,おお、季節よ、城よ,も頭をよぎる,そうしてフレーズが蓄積していく。

結局,いつの間にか,自分の文章のリズムはできた,というかどう工夫してもその先行かない,自分の書き方が固まってしまった。ま,日常的に文章にするのを業にしてしまったせいで,書き上げなくてはならないから,とにかくまとめきってしまおうとする。そうすると,表現の工夫は遠のいた。

流儀は,ロジカルではなく,噴出するように描き切ってしまう。書き方も,アバウトな全体が見えると,部分を書き連ね,最後に一気に流れに変える。しかし,ついに生理としての文体は自分のものになっていない。

それは,何と言おう,自分のありようと一体化した文章,呼吸するように,息遣いがそのまま文章になって起伏していく文章がそうなのだろうとは,あては衝く。しかしそれを自分のものにするのとはちょっと違う。

しかしここで言いたいのは,文章論ではない。それだけが自己表現ではない。そんな当たり前のことに,最近気づいた。いまある方と,セミナーになるか,ワークショップになるかわからないが,一緒に何かをやろうということで,いろんな話をする機会がある。それは生き方の話であったり,コーチングの話であったり,夢であったり,コーチのあり方についてであったりする。

そんな中で,ふと気づいたのだが,僕はセミナー講師をしたり,研修講師をしたりするが,自分でそれを企画して売り込んだことが一度もない。元来が怠け者で無精だから,せいぜいホームページを98購入と同時にでっち上げたくらいだ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/

初めに,プログラム集のような冊子に企画をでっち上げたということを,前々回に書いたが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11122506.html

その時も,特に売り込む意識があったわけではない。だから,人をどう集めるとか,どうやったら人の関心を呼ぶのかとかに,強い意識がなく,自分の言いたいこと,手渡したいスキルは何か,そういう自分のコンテンツの表現に意識向きがち。だから,テキストは,膨大に厚い。基本的にプロジェクターを使わず,パワポも使わない。

つまり自己完結した自己表現の延長線上にずっといる,ということなのだ。

しかし,別の自己表現がある,という当たり前のことに気づいた。つまり,自分を素材にする,ということだ。自分は,自分の表現ではなく,人の表現の素材になる,という自己表現の仕方である。

自分のコンテンツを表現するのではなく,そこにいる相手とともに表現する。例えば,

相手を語ることで自分を表現する
相手に語られることで自分を表現する
相手と語り合うことで自分を表現する
相手と共にいることで自分を表現する
相手と共に何かをすることで自分を表現する
相手と共にいるだけで自分を表現する
相手との関係性そのもので自分を表現する

そのとき,表現は自己完結していない。その時,表現は,

その場そのもの
その雰囲気そのもの
その空気そのもの
その空間そのもの
その関係性そのもの
そのフィールドそのもの
その磁場そのもの

が自分を表現している。その時,自己は,そこで表現しようとするものの要因というか要素というものになっている。表現の自己完結性が崩れている。ここらに,いま表現としての新しい意味を自分として発掘,発見,創造しようとしている気になっている。そこでは,

自分の個を生かす場である,

と同時に,

自分の個が,そこに融解していく場である,

と同時に,

別の個が,そこで現実化する場でもある。

あるいは,その場そのものの中で化学変化を起こしていく。そのプロセスそのものが自己表現と置き換えてもいい。

そういう止揚の場,そういう変質の場,そういう昇華の場でありたいと思っている。いままでのコンテンツは,そこで脱皮するに違いない。その脱皮自体もまた新たな自己表現になる。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


#場
#自己表現
#自己完結
#昇華
#脱皮
#ワークショップ
#セミナー
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2013年04月17日

3分間プレゼンテーション~自分を伝える


鈴木安子さんの「基本のき」の特別バージョン「でこぼこ会」の二回目。いよいよテーマを決めて,自分のことをプレゼンテーションするためのシナリオを創り,その表現を工夫するの巻。

そこで,事前のメールでは,こういうメッセージがありました。

■その3分間とはどんな場面で話をする3分間ですか?
 何名くらいに、いつ、どんなテーマで話すのか?
 そこにいらっしゃる方は、どんな方たちですか? 年齢は? 知っている人通し?男女比は?
■これだけは伝えたいというメッセージはなんですか?
■その3分間の目的はなんでしょう?
 例えばオープニングであれば・・・
 安心してほしい/やる気を起こしたい/ラポール、信頼関係を作りたい など。
■3分間に必ず入れたい項目、流れはありますか?
例えば、ウエルカムの言葉/自己紹介/体験談やたとえ話・データ/効果/全体プログラムの流れなど。
もし具体的な場面が思い浮かばなかったとしたら、想像、想定もOKです。

前回の学びでは,

①プレゼンテーションはプレゼントであるということ。
②プレゼントには,自分自身も含まれること
③そのための自分らしさの自己表現とは何かを意識すること。

であった。で,自分のプレゼンスを踏まえて,どう話すかのシナリオがあり,それをどう届けるかのデリバリーがあり,そのためのデリバリーツールの工夫がいる。

シナリオとしては,
「かきくけこ」(①過去 ②きっかけ ③苦労話 ④結果 ⑤これから)
「PREP法」(①Point ②Reason ③Example ④Point )
等々があるが,今回は,
①き~今日のテーマ,期待+目標(ゴール)
②く~苦労話,工夫していること,できたらいいなということ
③こ~心がけたいこと
でつくった。

つくったのは,以下の話。まずテーマは,「自分の人生に旗を立てる」ということ,②苦労話というか,きっかけになったのは,ある研修で,自分の仕事にキャッチフレーズをつけてもらったら,結構乗り気になったこと,③これから一人一人が自分の人生に旗印を立ててもらいたい。旗については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11129007.html

で,すでに書いた。意味はそれでいいが,それをプレゼンテーションのストーリーとして少し整理してみた。

まずは,全ての人が自分の人生に旗を立てる,というのがテーマ。それは,自分が生きている意味を,キャッチフレーズにするのでもいいし,本当の旗印にするのでもいい。「今,自分は何をするためにそこにいるのか」,という人生の目的と意味を自分で明確にし,確信を持つ。

その背景にあるのは,全ての人の人生に意味がある,という考え方がある。それについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11118382.html

で書いた。

このきっかけになったのは,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1030.html

にも書いたが,「やる気がない」と研修担当者決めつけられた若手の人と研修をしていて,「自分の仕事にキャッチフレーズをつけよう」としたとき,ほとんどの人が,それに夢中になった経験がある。「たまたまをそもそも」としているきらいはあるかもしれないが,そのとき思ったのは,「誰もが自分のやっていることに誇りを持ちたがっている」ということだ。それをとりあえず,「仕事に旗を立てる」といった。

何をするために自分はそこにいるのか,
そのために自分は何をするのか,

それを考えることは,自分のポジショニングを明確にし,組織の中での位置と役割を主体的に明確にするということだ。それを人生そのものでやったらどうなるか,というのが,今回の狙いと意図だ。

考え方としては,その前に,

自分のいる場所(フィールド)は何処なのか
自分の居場所は何処か

ということが明確になってからではないのか,という考え方もある。しかし,それが自分の生涯の居場所かどうかなんて,そうそう分かるはずはない。まず,自分のいまいるところで,そこにいる自分の意味を考えてみる。しっくりこなければ,変えればいい。居場所そのものが違うことに気づくかもしれない。

その見つける手がかりは,

自分のやりたいこと
自分にできること
自分のやらなくてはならないこと

をもじって,

自分の夢(未来像)
自分のリソース(自分の蓄積)
自分の天命(役割)

から考える。そうすることで,自分の人生の方向が明確になり,自分ののりしろが見えてくる気がする。

では,自分の旗は何か。ずっと,いつもはっきり自覚しなかったが,「表現者」だが,もっとズバリ,「書き手」なのだと思う。「ライター」という表現のほうが正しいか。

ずっと若いころ,毎月毎月何件もの取材記事を書き,その後は,転じて,ケースライティングを『LDノート』というケース誌の編集長も含めて20年以上手がけてきた。その意味では,ケースライティングについては,独立後も,どんな依頼にも応えてきた。いわゆる職場(のマネジメント)ケースから,インシデント・プロセス・ケース,インバスケット・ケースまで,いわゆる企業の研修や人事考課で使うケースをずっと続けてきた。その意味では,根っからのケース・ライターなのだ。

と同時に,文芸批評を(半ば趣味だが)手がけてきた(ホームページに公開している)「(自称)批評家」であり,毎年一作小説を(これも趣味だが)完成し続けている「(自称)作家」であり,現在は,ブログ「剛毅朴訥仁に近し」を毎日更新しているブロガーであり,全編オリジナルで自作したホームページの「(フロントページを使っているが)ホームページビルダー」であり,30年来の研修講師として(オリジナルな教材と資料とシートとチェックリストをつくる)「著作者」であり,5年来の大学講師として(オリジナルな教材と資料とシート)をつくる「著作者」であり,できる限りオリジナルに「でっち上げる(独自に創り上げる)」を方針にしているので,チェックリストもチェックシートも記述するワークシートもすべてオリジナルに創る「著作者」であり,何冊かの単行本と何冊かの通信教育テキストを執筆する「著者」であり,何十篇かの雑誌論文の「ライター」であり,そしていまもその心構えであり,どんな時も「書く」という姿勢でモノを見,モノを考えている。だから,「書く」ということの,多層な意識の階層についても,虚実皮膜の「皮膜」の層の厚さと言い換えてもいいが,(例えば,ライターと書き手と語り手と対象との間の)どこにポジショニングしているか,自覚的である。

その意味で,あえてチャレンジングに,「クリティカル・ライター」という旗を掲げておく。

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/
http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

#基本のき
#プレゼンテーション
#プレゼント
#プレゼンス
#かきくけこ
#PREP法
#シナリオ
#デリバリー
#デリバリーツール
#ケース・ライター
#インバスケット・ケース
#インシデント・プロセス・ケース
# LDノート
#クリティカル・ライター




posted by Toshi at 05:28| Comment(13) | 自己表現 | 更新情報をチェックする

2013年04月19日

期待はコントロールできない


期待は,自分で望めない。相手が勝手に期待し,無期待外れを起こす。これが困る。

ネットを見たら,期待をこう整理していた。

●「将来・理想などにかかわる期待」として,希望・願い・願望・希望的観測・予感・与望(を担う)・心待ち(にする) ・心づもり等々
●「儲け・利得などにかかわる期待」として,思惑・甘いユメ・そら頼み・目算・夢想・見込み・当て・予期する・取らぬタヌキの皮算用・思い入れ 等々
●「(良好な進展・好都合の返事などが)期待できる」として,手ごたえ・脈がある・望みがある・楽観できる・成算がある・(効果が)見込める・現実味を帯びる・確かな感触を得る・霧が晴れる 等々
●「(成長・活躍などが)期待できる」として,見どころのある・(末)頼もしい・成長株・有望株・新進気鋭・前途洋々・大器晩成の~等々
●「期待を持たせる」として,気を持たせる・相手の気持ちを)くすぐる・思わせぶりな態度・空手形を振り出す・リップサービス等々

と上げていた。ここにあるには,こうあるべきだ,こうなるはずと,思い込んでいることを指す。まあ,それが自分に関わることなら,自分がそのつけを払い,めげたり,自己嫌悪に陥るだけなので実害は,他には及ばない。

しかしよく言うのは,ひとに,(多くは,子供や部下や,といった目下の者に)「期待しているよ!」と,まあ本人は,励ましのつもりか,本心で信じているかは別として,そういわれた側は,相手が親や上司だった場合,プレッシャーを感じる。

よく言われるように,本人の望まないアドバイスは,説得(あるいは陰に命令)という。つまりは,「こうしろ」といっているようにしか聞こえない,と。

それをもじれば,本人の求めていない期待は,単なる負担であり,プレッシャーでしかない。つまりは,「当然できるものと思っているよ」「当然やるはずだよな」「やってくれなくてはな」「やれ」と言っているようにしか聞こえない。

なぜこんなことが起きるのか。

もともと期待は,期待する側が,勝手に自分の思いを相手に託して,相手の像を作り上げているからだ。その像は,期待される側とすりあわされてはいない。期待する以上,

自分が相手に何を求めていて,
そして相手にはそれをする力がある(あるいは,ここでそれにチャレンジするには,いい機会だ)
同じ状況に自分もある(あるいは,ぼくも同じチャレンジの場だ)

等々と,期待している側が,自分の思っていることを伝えなくては,その期待されている側には,相手の思い入れに反駁したり,反論したり,軌道修正を加える機会が持たれないまま,期待の負荷を背負わされて,挙句の果てに,結果だけで,勝手に期待外れを起こされても困るのだ。

期待というのは,両者の立場の相違が最も出るものだと思っている。上司と部下,親と子,いずれも,心底相手ができると思っている場合も,そう思っていることをきちんと伝えなければ,「できない」「でるはずない」(と思い込んでいる)自分にとっては,期待はただの重荷でしかない。肝心のことを言わないで,期待の空手形を振り出されると,それだけで,不渡りにしそうで,相手への信頼や尊敬や敬愛の気持ちがあればあるほど,その期待を重荷に感じ,「何とかしなくては」「何かとか応えなくては」と,プレッシャーに押しつぶされる。

この時,相手に,自分が心の底から信じていて,「仮に今回できなくても,次への大きなステップになるはずだと信じている」とまで,言葉にして伝えていれば,プレッシャーではなく,自尊感情と自分への自信が,期待に応える力を発揮させるかもしれない。そこで必要なのは,コーチングでいう承認であり,認知なのではないか。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06431.htm

確かに,事実としての「できていること」を承認することも大事だが,特に,その人の持っている可能性や潜在力を強く指摘し顕在化させる認知も重要になる。

そういう両者のコミュニケーションの場として,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06461.htm

ジョハリの窓を念頭に置くといいと,いつも思っている。自分の認めていることと相手の認めていることをすりあわせた「パブリック」づくりを日々意識していれば,期待へのプレッシャーも期待外れも起きないですむはずだ。

期待は所詮,一方的な思い入れで,期待されている側はコントロールできない。

「こうあるべきだ」
「するべきだ」
「せねばならぬ」
「こうならなければ」
「こうなるはずだ」
「するのが当然だ」
「する必要がある」

と思っていても,それが自分にとって当たり前でも,相手にとっては寝耳に水かもしれない。それを忘れると,期待外れから,両者の齟齬は拡大する一方になる。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


#ジョハリの窓
#承認
#認知
#期待
#期待外れ

posted by Toshi at 06:00| Comment(10) | 自己表現 | 更新情報をチェックする

2013年05月01日

齟齬をなくす


コミュニケーションにおけるわかりやすさとは,教科書風に言えば,次のようになる,らしい。

わかりやすさとは,相手に,賛成反対は別として,話し手が何をいっているかがいかに明確に伝わるかを意味している。それには,ふたつの切り口で整理する必要がある,とされる。

●必要なマインド,態度
 ・相手の立場を配慮する姿勢があること
 ・自分の理念,ポリシーが明確であること
 ・礼儀あるいは誠意があること
 ・情熱,熱意があること
 ・わかりやすい言葉遣いであること
 ・視野狭窄ではない広い視点をもっていること
 ・これしかないという思い込みがなく,選択肢のある,柔軟なものの考えができること
 ・情報収集,論拠がきちんとしていること
 ・自分のリズムだけでなく,相手との間合い,リズムにも配慮できること
 ・オープンマインとで,質問,疑問にも即応できること
 ・自己コントロールできていること

●内容と表現の工夫
 ・前後関係あるいは文脈を確認する 話の前後関係,背景,文脈の共有化がはかられている
 ・メッセージの主旨明快 5W1Hで,内容が筋道の通り,すっきりしていること
 ・一貫性 シーケンシャルな話の流れが,一筋明確で,たどりなおせる
 ・簡潔性 盛りだくさんにならず,負荷のかからない簡単明晰な短い言葉遣い。箇条書き,要約がある
 ・論理性 ロジカルであることの利点は,再現性,なぞることによる共有のしやすさにある

で,さらに,コミュニケーションにおけるわかりやすさの4要素とされるものがある。

①明快さあるいは簡潔さ~伝わりやすさの工夫は,ポイントを最初に示す。言いたいことは3つ。
②共有性あるいはたどり直せる~ロジカルである、筋がとおっている。後から検証できる
③理解しやすいあるいは把握しやすい~構造として示す。図解して全体像を示す。
④言葉のやさしさあるいは独特の言い回しがない~組織内や自分しか使わない言葉を使っていないか。

しかしこんな理想的なマインドと姿勢で,教科書通り表現できるなら,誰も,世の中これ程悩んだりはしまい。もうすこし自分流儀で,簡便なやり方を,実践的に考えてみたい。

そもそもコミュニケーションは自分の伝えたことではなく,相手に伝わったことが,伝えたことである,といわれる。まずは,相手に聞く姿勢になってもらうための準備作業がいる。それをセットアップというが,それについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11053863.html

で触れたので,その土俵が出来た上で,ではどうするかを考えてみたい。

たとえば,何かを伝えたいのだとする。その場合,原則は三つだと思っている。

①自分が何を言おうとしているかが明確であること《指示内容の明確さ》(指示内容の明確性)
②わたしはそう考える,わたしはそう思う,《発言主体を明確にする》(「私」の発言であることの表現)
③相手はどう受け止めているのか,《フィードバックをえる》(相手の「着信状態」を確認する)

まずは,雑談の場でなければ,誰かに言葉を発するのは,みずからの意思をキチンと伝えるためであることが多い。いくら内容が明確でも,意思のない言葉に力はない。意思の力とは,自己確信である。そしてそれが相手にどう伝わっているかを確かめつつ発信することができる必要がある。

そのためには,最低限,考えながら話さないこと。できれば,「言いたいことは,3つ」というように,最初に言いたいことを言い切ってしまって話し始める。ということは,事前に何を言いたいかが自分の中で整理できていなくてはならない。特に重要なことを伝えようとする時は。

信頼のバックボーンは,言葉である。といって怒りも腹立ちもなくすことはできない。なまじ「バカヤロー」と言いたい気持ちを隠すよりも,「ぼくは,バカヤローといいたい気分だ」「そう大声で怒鳴られると萎縮してしまいます」と,感情を言葉にするのも悪くない。これは前に触れた。感情的になるのと,感情を表現するのとは違う。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10972726.html

少なくとも,感情を言葉として表現することで,①自分の感情との間合いが取れる,②相手の感情とも距離を取れる。感情のやり取りを感情のぶつかりあいでなく,言葉によるコミュニケーションの土俵ができるような気がする。それがとっさの反応で怒ってしまうと,まあ身も蓋もなくなるのだが。

世の中に正解があると思うから,誰かの名を借りたりしたくなる。しかし正解はないとなれば,「僕は~と思う」と言うことで,仮に「~」が間違っていても,主観の器に乗っている以上,僕の意見に過ぎない。そういう責任の取り方はしなくてはいけない。リスボンシビリティとは「有言実行」と訳すと言った人がいたが,言ったことに責任を取るとはそういうことだ。

それでも,言えばいいというものではない。大事なのは,内容や「私」の主観的な発信が,独りよがりにならず,相手に伝わっているかどうかを確かめられるのがいい。自分の言うことに対して,相手がどんな身振り,手振り,感情,言葉等々から,相手がどう受け止め,どう感じ,どう理解してくれているかを推し量ることができることである。

とはいえ,こういうところに名人芸はいらない。出来るなら,フィードバックを,言葉でもらうのが一番いい。伝わったことをストレートに返してもらいにくければ,「どう思った?」「どう感じた?」と,感想でも,印象でもいい。それで初めて,同じ土俵で,そのことについて語れるだろう。

口頭のメッセージは歩留り25%と言われる。どっちにしたって歩留りは悪い。それなら,それが30%になったら御の字ではないか。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#土俵
#フィードバック
#コミュニケーション
#口頭のメッセージ

posted by Toshi at 06:42| Comment(358) | 自己表現 | 更新情報をチェックする

2013年05月24日

スイッチ


コーチングを受けていて,自分が,時々思考を中断したり,自己との対話を中断して,別のことを言いだしたり,別のことに関心を向けたりする,と指摘された。まあ,目まぐるしく思考が展開し,その都度他へそれる。言ってみれば落ち着きのない,うろつき症候群というか注意欠陥・多動性障害(ADHD)のような思考パターンということだ。

かねがね自分は,人と話していても,話が先へ先へと進み,聞いている人が追いつかないと言われたことがある。こういうのを,NLPでは何たら,と言ったように記憶しているが,ほとんど忘れている。ラベル貼りには興味がない。貼られた瞬間に,自分もそうだが,現実は動く。動くことで,ラベルとの間に隙間風が出る。必要なのはその感性で,貼ったラベルに拘泥するのは,頭が固いが,自己防衛か,「這っても黒豆」という強弁かのいずれかだ。

そういう自分の落ち着きなさというか,情報の切り替えの早さというか,関心や注意のスイッチの目まぐるしい変換は,どうも昔かららしい。

しかし無意識でそれを切り替えているが,それを意識的にできるということについても,少し体験がある。例えば,出張で,移動中,ここでは,何々について考えようと意識を向けると,それについてのアイデアや着想が連続して出てくる。それをそこでやめないで,しばらく持続していると,それについての発想が動き始める。

当然切り替えて,懸案のことについて思いをはせると,そこで頭が動き出す。別に僕だけの特技ではないだろうが,それを平行して,意識的に進めていけるところだろうか。ただ,考えているA,B,Cという三つの課題があるとすると,しばらくAに意識を向けて,アイデアが煮詰まったら,Bにいく。そこでいくつか発想がわいて,疲れたら,Cに行く,というぐあいだ。その場合,大概メモを取りまくる。書くとそのことが刺激で,着想が続くことがある。

これが僕にとってのスイッチで,これは意識的にしようとすれば,できる,ということの再確認なのだ。つまりは,意識的に「~について」考えようと,意識を向ける。それだけだ。

もうひとつ最近気づいたことがある(と,ここでスイッチが切り替わる!)。それはこのスイッチと関係があるかもしれないが,自分の思考スタイルというか知識スタイルについて,確か,野中郁次郎氏は,「知識は思いの客観化プロセス」というようなことを言っておられたと思うが,僕にとって知識は蓄積型ではない。どういう意味かというと,誰それがどういった,どういう説だという,人の意見や考えを蓄積して貯め込むことに全く関心がない。ではどういうスタイルかというと,フロー型なのだと思う。貯め込むことはない。

そのつど,そのつど現実と葛藤しながら,考えている。だから,その時々に読んだ本が,そのとき,自分の葛藤を切抜けていく支えになっているが,どれか一つに依存することはない。あくまで,その時,そこで,それが役に立ったという意味でしかない。だから,僕は学者ではない(というかとてもなれない)。知識を蓄えることにも,知識を伝達することにも,関心はない。そのせいか,自分の尊敬する人とか傾倒する人と言われると,即答ができない。流れていくからだ。

あくまで,知識や本は,いま生き抜いていくためのサプリメントか食物に過ぎない。だから,何たらノウハウ本とか,何々の入門という本には関心がない。それはその人の排便した(尾籠な話で失礼!)滓に過ぎない。その人が咀嚼したノウハウなんぞ,その人に役に立つかもしれないが,他人に役に立つはずはない。ハードルが高くても,敷居が高くても,きちんと自分の考えをまとめているものを読む。

その都度生きている間に,いろんな体験をし,本を読みつぐ。それがその都度の自分の思考や思いや考えと刺激しあいながら,その都度の考えが生まれてくる。それは完全に流れていく。たまることはない,しかしそれは蓄積されないので,その時そう考えたことは,5年後は,その通り蓄積されておらず,微妙というか,変化しつつ,いまの中に流れ込む。

だから(だからと言っているが,つながっていない。ここでスイッチを切り替えている!)軸がないように見えるが,違う。僕は基本左シフトだ。アンチ権力であり,アンチ・エスタブリッシュメントであり,反権威である。これは,父から受け継いだものだ。父は,日中戦争の初期,上海敵前上陸で上陸部隊がほぼ全滅,わずか数十人の生き残りとして,戦傷し,それから戦中戦後を生きてきた。そういう生きのこりのものの視点は,戦争にいきもせず戦争ごっこの大好きな政治家どもとは全く違う,その意味で頑固であり,頑迷な反権力思想といっていい。大義なき無名の師で,危うく殺されかけたものが殺そうとしたもの,おのれは安全なところで逃げ隠れし,民を意味なく死地に追いやったものを好きになるはずはない。人間ならね。

だから(と,またここでスイッチが切り替わっている!),右翼は当然,自民党も半分以上視野の外だ。しかし,というか,にもかかわらずというか,義理と人情で,何の因果か自民党の某代議士の選挙応援に行く羽目になった,もうん十年前のことだ。そこでは当の代議士の応援電話をし続けると同時に,別の選挙区の公明党代議士との票の融通の仕合,お互いにバーターで電話による応援しあいをすることになったり,現金数千万を紙袋に入れて持ち運んだりと,案の定,自民党の腐れ具合をもう何十年も前に実体験した。おまけに,その某代議士,わずか一週間で内閣総辞職したにもかかわらず,大臣経験があるというだけで得体の知れぬ利権を持ち,自治体や公的な機関の開発した土地の売買について,買い手から,何らかのリベートを当然のように受け取っていた(確認したかぎりその元大臣はうん億円を濡れ手で粟だった)。こういう実態を見てもなお,政権政党を信用する人は,何らかの利権のおこぼれに与ろうとする人と決まっている。現に,元法務大臣のその代議士のところには,小は,交通事故のもみ消しから,大は新規の航空路線の開設相談まで,蜜に集まる蟻のように,様々な人種がやってきていた。今政権に復帰した自民党各代議士のところへはさぞかし蟻が殺到しているだろう。

そのときの選挙応援をしに集まった仲間とは,いまも年に一度会うが,その時その代議士の私設秘書だった人,大臣の助力を求めてきたトラック会社の御曹司,私設秘書の秘書等々,(僕以外)みなばりばりの自民党支持者だったのにいまや自民党を見限ってしまった。その実態を見た人間だけが,そこで,おのれの思想の限界というぎりぎりの修羅場を体験した人間だけが,真実につながると,つくづく思う。それは地震や津波といった被災体験や地獄のような,あるいは戦場体験のような外的な体験を言っているのではない。修羅場とは,心的体験でしかない。自分のさまざまな限界,自分のさまざまな弱み,自分のさまざまな無知等々と格闘した心的葛藤を経て,自分を乗り越えた人間だけが信じられる。

さて(でやっと,コーチングに戻る),話が横へ逸れた。コーチングの最後に,いまはやりのコーチングゲームのカードを引かしてもらった。過去→現在→未来についてだが,引いたのは,過去がreflection,現在がgoal,未来がguilt。どんな解釈も可能だが,少なくとも,最後自責に駆られるらしい。いまひとつ,かえるカードも引いたが,それは,「1豊かさ」であった。

だがたまたま引いたカードで,自分の未来を思案するというのは,僕の趣味ではないので,あんまり深くはそこから意味を出すことはしない。そんな偶然を必然にしてはいけない,と考える。特にその時は裏返しのカードを引いたので,たまたま偶然の出会い,偶然の出来事をどう解釈してもいいが,そこは出発点であり,そこで,いまの現実をどう動かすか,関係性なら,それをどういう風にしていくかは,これからの現実の自分の選択であり,意思だ。出たカードをこれからの自分を動かす梃子にしてはならない。それが僕の鉄則だ。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#コーチングゲーム
#修羅場
#スイッチ
#自民党
#公明党
#日中戦争
#上海上陸作戦
#右翼

posted by Toshi at 05:22| Comment(4) | 自己表現 | 更新情報をチェックする

2013年09月03日

無邪気


よく無邪気と言われる。

素直とも言われる。

好悪がはっきりしている,とも言われる。

子どもっぽいという意味かもしれない。あるいは,大人になっていないという意味かもしれない。

でも考えようによっては,奥行きがない,見えるまま,ぺらぺらということでもあるし,

無防備ともいえる。

しかし,考えようによっては(自分でリフレームするなら,),自己開示している,ともいえる。僕はこういう素直さは大切にしたい。といって,できないことが多いが,

まずシャッターなしに受け入れる。

色眼鏡なしに聞く耳を持てる。

それができればできるに越したことはないが,そういう大人の分別さが嫌いなのだ。

わきまえもいらない。

分別もいらない。

小賢しさもいらない。

嫌いなものは嫌いであり,好きなものは好きなのだ。

だから子供っぽい。

無邪気な好奇心がいい。

それが直感を鋭くするような気がする。

ただ素質だけで感じ分けられるものはたかが知れている。いわば,思い込みと大して変わりはない。言ってみれば錯覚である。

言葉は悪いが,ストーカーの錯覚,思い込みと大した差はない。いわば,自分の視角しかもてていない。自分の視野は自分だけにしか見えないものだ。人も同じように見えていると思っては大間違いだ。その視野で見えたものを唯一と信じ込めば,ストーカーになる。

違う視角というと,知識や経験というのもある。それが,ものごとに距離を置いてみさせる。ある意味広いパースペクティブをもてる。しかしそれも相対的なものだ。地べたを這うような視角であることは,似たり寄ったりだ。

ではあとは何か。たとえば,神の視点というのがある。これは別に俯瞰する視点ではない。地球を外から見るような視点は,知識の視点であって,神の視点ではない。

全く別の世界から,こっちを見るという感覚だろう。僕はこの視点を持ったことも感じたこともないので,あくまで想像だ。

たぶん,たぶんとしか言いようがないが,相手の心の世界を俯瞰する。あくまで(ロジャーズの言う,あたかもas if)だから,幻想かもしれない,錯覚かもしれない,すれすれのところなのではないか。相手が違うと言えば,全く幻を見ただけになる。

しかしそれはそういう視角を持てるということで,その視角が自分に対しても持てるかというと,たぶんできない。その視角を取ろうとした瞬間,自分についてのさまざまな思い,感情が,視角に迷いをもたらし,自分の期待や不安を見てしまう。

自分のことはわからない。

だからひとからのフィードバックが必要なのだろう。

直感もまた,そういうフィードバックと思えば,さまざまなタイプがあることは,プラスになる。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm








#直感
#フィードバック
#ロジャーズ
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2014年01月02日




旗については,もう何度も書いた。自分の旗を立てる意味については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11129007.html

で触れたし,そもそも仕事で,「旗」を立てるについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11011724.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10966920.html

で触れた。で,自分の旗についても,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11156432.html

であらましは触れた。ここでは,もう少し突っ込んで,自分の旗についての続きを考えたい。

前提になる考えは,

第一は,すべての人の人生に意味があるということ。これも触れた。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2013-0313.html

第二は,清水博さんが,『コペルニクスの鏡』で書いていた,「生きている」(現在)ことと「生きていく」(未来)ことの差だ。これも,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11149915.html

で触れた。つまり,いのちは一人では生きられない,生きる場所なしでは生きられない。「居場所」という。僕らは,「そこで自分は何をするためにいるのか」の答えを出すことが,求められている。それを旗と呼ぶ。あるいは,組織論的には,ポジショニングと呼ぶ。

旗とは何だろうか。自分で言っていながら,それを表現しようとすると,うまく伝えられない。改めて,かつての武将の旗指物と同じだとして,その意味は何か。それでおのれを掲げるのだとして,考えられるのは,

①自己表現 自分自身をそれによって表現しようとする。旗そのものが自己表現。
②自分の存在のアピール 自分がここにいると存在を表示し,存在を誇示
③自分の出自 言ってみると,家紋,家柄等々。西洋でも紋章がある。
④自分のあり方,生き方を表現する 自分の思想の表明としては,赤旗というのもあるが,いまどき流行らない。

等々が思い浮かぶが,単なる自己表現では,ファッションと変わらない。

自分は何者か
何をするために生きているのか
何処へ向かうのか
自分のリソースは何か

を示せるものがいい。

確かに家紋は,出自を表わしはするが,たとえば我が家は「横木瓜」。しかし源平藤橘以外は,所詮地名を苗字にした程度の,どこぞの馬の骨だから,大した出自でもない。

別に自分はペンネームを持っているが,それはあくまで仕事用の,ビジネスネーム。大して考えもせず,適当に決めたものだから,あまり意味はない。せいぜい同姓同名がいないというのが奇跡に近い。

仕事,つまり生業にしていることを旗印にするというのもいいが,小説家とか劇作家とか,劇団主宰といったものならともかく,個人事業主では大した旗にもならない。それに,なりわいはあくまで生業で,それがおのれを示していることにはならない。サラリーマンが,営業です,人事です,という程度では,ただやっていることを表現したに過ぎない。確かに何者であるかの一端を示してはいるにしても。ましてや,職業や社会的地位,名声では表現としては足りない。

旗は,ただおのれが何者かを示しているだけでなく,その背負っている使命を示し,その向うべき方向も示さなくてはならない。そして,併せて思いつくのは,旗をひらめかせるということは,ただ自己表現ではなく,同時に仲間に自分をアピールする機能もあるのではないか,ということだ。

そこで改めて,思い出すのは,清水博さんが示している「自己の卵モデル」だ。それは,

①自己は卵のように局在的性質をもつ「黄身」(局在的自己)と遍在的性質をもつ「白身」(遍在的自己)の二領域構造をもっている。黄身の働きは大脳新皮質,白身の働きは身体の活(はたら)きに相当する。

②黄身には中核があり,そこには自己表現のルールが存在している。もって生まれた性格に加えて,人生のなかで獲得した体験がルール化されている。黄身と白身は決して混ざらないが,両者の相互誘導合致によって,黄身の活(はたら)きが白身に移る。逆もあり,白身が黄身を変えることもある。

③場所における人間は「器」に割って入れられた卵に相当する。白身はできる限り空間的に広がろうとする。器に広がった白身が「場」に相当する。他方,黄身は場のどこかに適切な位置に広がらず局在しようとする。

④人間の集まりの状態は,一つの「器」に多くの卵を割って入れた状態に相当する。器の中では,黄身は互いに分かれて局在するが,白身は空間的に広がって互いに接触する。そして互いに混じり合って,一つの全体的な秩序状態(コヒーレント状態)を生成(自己組織)する。このコヒーレント状態の生成によって,複数の黄身のあいだでの場の共有(空間的な場の共有も含む)がおきる。そして集団には,多くの「我」(独立した卵)という意識に代わって,「われわれ」(白身を共有した卵)という意識が生まれる。

⑤白身が広がった範囲が場である。したがって器は,白身の広がりである場の活(はたら)きを通して。黄身(狭義の自己=自分)に「自己全体の存在範囲」(自分が今存在している生活世界の範囲)を示す活(はたら)きをする。そして黄身は,示された生活世界に存在するための適切な位置を発見する。

⑥個(黄身)の合計が全体ではない。器が,その内部に広がるコヒーレントな白身の場を通じて,黄身に全体性を与える役割をしている。現実の生活世界では,いつもはじめから器が用意されているとは限らない。実際は,器はそのつど生成され,またその器の形態は器における人間の活(はたら)きによって変化していく(実際,空間的に広がった白身の境界が器の形であるという考え方もある)全体は,卵が広がろうとする活(はたら)きと,器を外から限定しようとするちからとがある。

⑦内側からの力は自己拡張の本能的欲望から生まれるが,外側からの力は遍在的な生命が様々な生命を包摂しようとする活(はたら)きによって生まれる。両者のバランスが場の形成作用となる。

というものだ。コアの黄身が自分。そして自分の振る舞いや行動によって,人と接触していく。そこに場ができる。そこでは,ただいるのではなく,自分が何をしようとしているかが,相手にはっきりしているほど,相手に伝わる。

どこへいっても,そこで割られた割られ方で,誰とどう接触し場ができるかは,自分の振る舞いにもよるが,相手の自分への志向にもよる。

そこでやろうとしているのは,「つながり」の可能性を周囲に示していることになるのではないか。あるいは,「この指とまれ!」を触れ回っていることになる。

その意味では,旗が自己を主張するだけではなく,そこに旗のもつ機能と効果と意味が,出てくるような気がする。

「この指とまれ!」

と言うためには,旗は何を表していなくてはならないのか,を照らし出してくれるような気がする。

それは,単に,

自分のリソース
自分の夢・目指すもの
自分の役割

を表現するだけでは伝わらないのではないか。自分の役割を表現するということは,その持つ社会的意味を表現するということにつながる。それには,まだ結論は出ていないが,どうも,物語が必要な気がしている。旗と旗をめぐる物語が。

しかしここまで書いてきて言うのもなんだが,旗に必要なのは,あるいは,旗は,もはや,

自分そのものなのではないか,

自分の顔であり,
自分の振る舞いであり,
自分の衣装であり,
自分の言葉であり,
自分の口吻であり,
自分という存在そのものであり,

それ自体が何かを醸し出す,そういうものではないか。

自分自身が自分の物語の結末であり,夢の果てであり,自分のリソースそのものの顕在化であり,自分の役割そのものの表現である,

とすれば,そこにいるだけで,すでになにかを主張している,というような。

となるとだ,もう旗はある。それを飾ろうとしたり,いい格好しようとしたり,繕ったりしようとしても,隠せぬものがある。それが,旗なのではないか。

それを,

生きざまのつけ,

と呼ぶとちょっと可哀そうだが。いまさら隠しようもないから,そのままさらし者にしておいていい。

ただ,負け惜しみかもしれないが,まだのりしろが残っている。

ということは,まだ旗は変えられる,ということだ。

そのための余命といってもいい。

棺の蓋を覆うまで,

人は可能性の中にある。


参考文献;
清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社)
清水博『』(東京大学出版会)

今日のアイデア;
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#旗
#清水博
#コペルニクスの鏡
#場の思想
#物語
#リソース
#居場所

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2014年01月03日

チャレンジ



チャレンジというのは,ニュアンスとしてアグレッシブという意味合いがある。挑戦というのは,戦いに挑むので,当然そうなる。

ただそこには,戦いそのものが,他人とであれ,自分とであれ,状況とであれ,結果として,蛻変とか変身とか変化とか変態とか変容とか変貌というものが付きまとう。というか,そういうのがあるから,チャレンジする。

チャレンジは,

●自分自身を,ひとつも二つも上の(理想ないし目指す)レベルへと飛躍させようとする,

●自分の目の前の懸崖やハードルを飛び越えようとする,

●目の前の壁や抵抗を突き破る,

●いまの自分を乗り越える,

●いまいるところよりも,より高みへ,もっと高みへと挑む,

●自分の閾値,世間の常識や限界を突破していく,

●自分の殻や膜を破る,

●いままでとは違うこと,いつもとは違うことをしようとする,

●いまの自分を維持したり,持続しようとする圧力に逆らう,

●体制や権力にあえて異を唱え,立ち向かう,

●権威や正統に刃向う,

●前へ前へと進み続けようとする,

●したいことを探してやり続ける,

●いままでの伝統や記録や姿勢を突破する,

●新しいステージや舞台を創り出す,

●何かに挑むこと自体にこだわり続ける,

等々,自分に対してか,他人に対してか,状況や現状に対する,Noを突きつけ続ける姿勢といっていい。しかし,多くは,自分自身が足枷であったり,桎梏であったりする。それを断ち切ることが一番のチャレンジかもしれない。

チャレンジそのものが目的ということもなくはないが,多く,

それは,現状維持の否定である。

それは,いまのままの否定である。

それは,権威の否定である。

それは,既得権の否定である。

それは,守勢の否定である。

それは,墨守の否定である。

そして,

それは,限界の否定である。

つまり,チャレンジは,何かを目指すための手段に過ぎない。それがどれだけエネルギーを擁することであれ,それが得られなければ,意味はない。

その多くは,変化といっていい。

蛻変,

脱皮,

を経て,変身,変容,変貌,変態等々。

自分が変わるにしろ,

状況が変わるにしろ,

そこに新しいステージが拓ける。

僕のイメージは,ストップモーションのように,自分が少しずつ,いまの自分からずれて,変化していき,やがて,気づくと,蛇や甲殻類の変態のように,自分が変わっている,そういう変化のプロセスそのものが面白いと思っている。

それは,自分が微妙に変化していく感触というか肌触りが面白いのかもしれない。あるいは,徐々に移っていく自分の変化の流れが,味わいたいのかもしれない。

しかし,多くは,気づくと,すでに,目の前に,別の景色が見えている,ということの方が多い。

変化のプロセスは,僕の場合,一瞬だったり,目覚めたら,気づいたら,既に起きている,ものらしい。

だから,そのプロセスなのだと思っている。

さて,残り少ない人生,怠け者で,あまり大袈裟なことは言いたがらない性分の僕の場合は,ひそかに,ただ黙って,ちょっと挑み続けるというのがいい。

挑むのはおのれの才能という,巨大な壁である, こいつだけは努力や精進だけでは超えられない,生得というか,遺伝子レベルで決まっているというか,そういうものに,しかし終生挑む,というのが,いまの自分の残された課題である。勝ち目は薄い,しかし薄いから,やってみない手はない。勝てる戦ならやらなくてもわかる,しかし勝てない戦いであるからこそ,やらなくてはわからない。

そして,わずかながら,微動する気配のある,そのプロセスを楽しむ,という心意気でいい。


今日のアイデア;
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#蛻変
#脱皮
#変身
#変容
#変貌
#変態
#チャレンジ
#遺伝子レベル
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2014年03月17日

作品


多く作品というと,芸術作品をイメージする。例えば,辞書的には,

作品とは,作者の精神活動を通じて創作された表現物を指す,

とある。

英語に詳しくはないが,英語に訳すと,productかworkであり,芸術作品なら,work of artとなるだけで,製品と作品を区別しないらしい。日本語だと作品と製品を分ける。作品には,個人の仕事,製品は,大量生産とは言わないが,工房の仕事,というニュアンスになる。

漢字的に言うと,

製は,

裁つからきている。

衣服を仕立てるところにあるようだ。しかし詩文を作るにも,この字を当てるらしい。どちらかと,カタ,カタチをなすものを指すらしい。製塩,製造,製紙,製糸,製糖,製版等々。

作は,

田をつくる

書をあらわす

ということに端緒がありそうだ。どうしても,作家,作詩,作曲,作事,作者,作品,作法,作用,作業,作文等々。

同じつくるだが,微妙に差がある。しかし,ここからは,個人の思い入れだが,

個人が自分がつくった,

と思えるものなら,作品なのではないか。

知人で,断熱・保温塗装の外装作業を請け負っている人がいるが,その人は,自分の完成品を,

作品

と呼んでいる。ひとつひとつ,カスタマイズし,その現場の状況に合わせてつくりあげている,という意味らしい。それは,ひとつの見識だと思う。

僕は,労働とは,

自己対象化

なのだと思っている。ほんのわずかしかそこに自分らしさが対象化できないこともあるし,自分丸ごと対象化できることもある。その意味で,その労働には,自分が生かされていなくてはならない。

これはおのれの仕事ではなくやらされていることだ,お金のためにしていることだ,と思う人は,自分の人生の無駄遣いをしている。そこで,時間と肉体と頭脳を使って,仕事をしている以上それが,自分にとってただの他人事であるなら,それこそ自己疎外を,自ら招いている。

疎外について,こうある。

人間は意識し,考える存在である。意識し続けながら,自分の中のものを自分の外へ出す。また外界に働きかけることによって,自分の外へモノをつくる。自分の考え出したことやつくった物が,自分を豊かにすることもあるし,反対に自分を抑圧し,非人間にすることもある。

もちろん仕組みや制度的に制約はあるが,そこに作品と見るか製品と見るかの分かれ道がある。

作品を表現と考えれば,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389193629.html

で書いたように,そこに,

自分にしかできない何かを現出させたということになる。

それがわずかな工夫であれ,わずかな寄与であれ,自分にしかできないことを創り出すために,そこに自分がいる。それを,僕は誇りと呼ぶ。

知人は,

作品,

と呼んだ時,明らかに,誇らしげであった。

どんな仕事も,僕は,作品だと思う。あるいは,別の言い方をすると,自己表現である。前にも書いたが,労働とは,能力の現出化である。

能力とは,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),である。

発想とは,いままでの知識と経験ではできないことに向き合って,それを何とかすることである。ここに創意工夫がある。もし発想がなければ,単なる前例踏襲,日々同じことを繰り返すルーチンである。

だからこそ,それぞれの能力の自己表現は,作品なのである。




今日のアイデア;
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2014年04月18日

偏屈


われながら嫌になる。ときどき,むきになる。むきになると,

一歩も引かなくなる。

議論を交わすというのではなく,押し潰す,という雰囲気になってしまうらしい。自説を引っ込めないというか,

自説を変えない。

そういう悪癖がある。自分でも,その瞬間は,頑迷そのものの(そうでなくても頭が固いのに),

嫌な奴,

になっているのがわかる。目を剥き,梃子でも引かなくなり,(わずかに装っている)柔軟さと温厚さは,影を隠す。ときどき,そういう事態を,自分が引き起こす。瞬間,周囲が引く,というか,呆れたようにひきつった笑いに変わる。それがわかっていて,引くに引けなくなる。

時に,その場を,

凍りつかせる,

ことすらある。それが,後から振り返ると,ずっと落ち込ませる要因で,

しまった,

と臍を噛むが,後の祭り,まさに,

後悔先に立たず,

である。振り返っても,

その時こだわっていたことはわかるが,なぜそれほど拘泥したのかは,よくわからない。

何にこだわるかは,そのときどきで,自分でも分からない。ただ,何かにフックがかかると,

それに執着する,

多くは反論と言うか,異論をとなえるときが多い。あるいは,質問の形で,問い質す。多く,問い質された側が,こちらの向きになりように,反応して,頑なになる。

ちょっと前のことだが,あるワークショップの場で,講師との間でそんなことがあった。はじめは質問のつもりだったが,途中で,問いつめている問いに変わっていたらしい。相手もむきになってきて,会場が凍りついた。

そこをさらりと,ユーモアで交わせたらいいのだが,とつくづく思う。

しかし,自説を翻す気はないので,反省は,

自説をこだわったことではなく,

むきになって言い募ったことで,その場をしらけさせたことの方に向いている。

かつて,知人が,(見るに見かねて)とりなして,代弁を買って出てくれたことがあったが,その人が,僕を上回る屁理屈屋で,却って,その場の雰囲気を悪くしてしまったことがあったが,逆に,そこでフリーになった自分が,

ああ,こういうふうに,この場の雰囲気を壊したのだな,

と思い知らされたことがあった。

ただ思うのだが,御説御もっともと,ただ頷いていればいいのか,と言うと,それはそうは思わない。だから,自説を提起すること自体が悪いとも,それにこだわることがいけないとも,僕は思わない。

自説にこだわりすぎる,と言うのは,

頑迷,

強情,

と言われるかもしれない。もちろん,

這っても黒豆,

というのは論外としても,それぞれの意見は,

自分の頭で考えた以上(自分で考えたことであればあるほど),異説,異論,異見,と言われようと,そうそう軽々に譲れない。譲れないところが問題ではなく,異説同士を戦わせて,

別のひとつにまとめていく,

そういう努力に欠けるところが問題なのだと,思う。

自説は,堂々と言ってもよい。よいが,言うかぎりは,他の意見に耳を傾ける,

柔軟性,

が必要なのだろう。つくづく思うが,

平板で,短兵急な声になる(むきになるとそうなるらしい)と,それだけで人は反発し,拒絶反応を示すらしい。

やはり,ユーモアではないか。

ユーモアは,メタ・ポジションに立たなければ,言語化できない。それは,

余裕,

を生み,声も厚みのある,ゆったりした声になる。

欠けているのは,その姿勢かもしれない。




今日のアイデア;
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