2013年03月25日

沈黙とコミュニケーション


「赤ちゃん~脳の成長の神秘」(NHKの再放送)の中で,こんなセリフがあった。

返事をしないからと言って,
赤ちゃんの中で何事も起きていない
と考えるのは間違っている(パトリシア・クール ワシントン大学教授)

耳の背後の言語野が活性化するという。言葉が変わると,それにも反応する。ならば,大人の場合の沈黙は,脳内活性化度は,赤ん坊の比ではあるまい。

コミュニケーションは自分の伝えたことではなく,相手に伝わったことが,伝えたことである,ということをよくいう。その意味では,言葉によるコミュニケーションだけではない,相手に伝わったことが,こちらが意図しようがしまいが,伝えてしまったことなのだ。あるいはこういう言い方もできる。僕のしゃべったことがどう伝わったかは,相手が何を返すかでわかる,と。

たとえば,

   黙っていても

   考えているのだ

   俺が物言わぬからといって

   壁と間違えるな(壺井繁治)

という詩から,相手が,黙っている壺井をシカとしたのだとも受け取れるが,ふてくされていると無視されたともいえる。そのメッセージを正確に受け止めているとは限らない。しかし,黙るということには,ひとつのメッセージが込められている。沈黙の効用については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10994203.html

で触れたので,もう少し踏み込んで別の話をしてみたい。文脈である。

たとえば,

先生 どうして何も言わないんだ。
生徒 (無言)
先生 黙ったままでは,わからん。いったい何を考えているんだ。
生徒 (やはり無言)

という会話で,生徒は一見何も伝えていないように見えるが,この沈黙をどうとらえるか,だ。

吉川悟先生は,こう書いている。

たしかに,生徒は表面的に何も伝えていないのですから,従来の考え方では「コミュニケーションが成立していない」と考えがちです。こうした≪ものの見方≫は,会話の中にある言葉によって伝わる情報だけに目を向けているといえます。
しかし,別の面からも考えられるはずです。それは,「生徒が無言でいるという行動がコミュニケーションの一形態である」と考えることです。つまり,生徒が何もしないという行動は,先生から見れば生徒からのメッセージとして伝わるということです。生徒は「何もしていない」のではなく,返事をすべき時にはっきりと「無言でいる」という行動をとっているのです。この「無言でいる」という行動は,「返事をしない」という意志伝達の意味があると考えられます。つまり,無言で何も話さないという行動であっても,それが会話の前後関係によって異なる意味を持つと考えるのです。

情報には,コード化できるコード情報と,コードでは表しにくい,その雰囲気,身ぶり,態度,薫り,ニュアンス等々より複雑に装飾された情報である,モード情報があると言われている。

つまり,文脈によって言葉の意味はがらりと変わる。たとえば上記の例でいえば,死にたいと言って泣いていた生徒との会話とするか,万引きして問い詰められてふてくされている生徒との会話とするかで,ニュアンスはがらりと変わる。

吉川先生は,

コミュニケーションの前後関係や流れの違いによって伝達される情報は,会話の前後関係・脈絡・場面の状況などから伝えられている情報を含むものであり,表面に表れない意味が含まれています。この考えにしたがえば,(中略)コそのミュニケーションの文脈(前後関係・脈絡・場面の状況など)に関する情報を把握するためには,出来る限りコミュニケーションの全体の流れを理解しなければならないのです。

として,コミュニケーションによって伝達される意味の種類を,僕なりにまとめて,整理すると,こうなる。

①コミュニケーションに用いられているすでに共有されているという前提に立った単語で伝えていることの意味。ただこの場合も意味レベルでは一致しても,そこに描いているイメージが人それぞれのエピソード記憶によって,異なっていて,そこでずれを生ずることはあり得る。犬といっても,マルチーズなのか,シェパードなのか。

②コミュニケーションに用いられている単語の並び方,文法的な規則によって,生まれる意味。平田オリザが言うように,「その,竿,立てろ」というのと,「竿,竿,竿,その竿立てて」というのと,「立てて,立てて,その竿」というので,ニュアンスが違う。

③コミュニケーションによって用いられている文同士のつながりによって生まれる意味。結論を先に出して,経過を説明するのと,経過説明して,結論を言うのと,伝わり方が違うだろう。判決文で,主文を最後にするのと,最初にするのを使い分けているのは,裁判官の意図を伝えようとしているからだ。

④身ぶりや表情など,非言語レベルで伝えられる意味。言葉は明るくても,表情や手が別のことを伝えていることはある。

⑤コミュニケーションを行っている人の声の強弱やトーン,特殊なニュアンスなどによって伝えられる意味。ひそひそ声になることで,それ自体で秘密を伝えようとしていることが,伝わる。メラビアンの法則の言うとおり目に見えているものの,伝達力の方が強い。

⑥その場の状況や会話の前後関係など,文脈によって規定されている意味。会議で順番に発言させられるのと,手を挙げるのとでは意味が変わる。

文脈抜きの情報の危険性は,日々の新聞報道でも,ネット情報でも,いやというほど思い知らされている。情報の裏を取るとは,ある意味で,その具体的な場面について,確かめることを含んでいる。

コーチングでも同じで,文脈を共有できているかどうかは,絶えず確認し続けなくてはいけない気がする。なぜなら,文脈は,言葉出来なく,言葉の背景にあるエピソード記憶(自伝的記憶に重なる)に依存しており,言葉に張り付くモード情報だから,体験を共有していないと,ニュアンスが伝わりにくいからだ。

参考文献;
吉川悟『家族療法―システムズアプローチの「ものの見方」』(ミネルヴァ書房)
金子郁容『ネットワーキングへの招待』(中公新書)
平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 05:28| Comment(3) | 沈黙 | 更新情報をチェックする

2014年07月01日

沈黙


沈黙については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/393712202.html

を含め,何度か書いた。たぶん,

沈黙,

寡黙,

緘黙,

という言葉が好きなのだが,ついつい,いつも,

黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな

という,壺井繁治の詩を思い浮かべてしまうが,しかしこれは,黙っていると言いつつ,妙に,というかやたらと饒舌なことに気づく。言い訳がましい。

石原吉郎にこんな一節がある。

詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば,沈黙するためのことばであるといってもいいと思います。もっとも語りにくいもの,もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が,ことばにこのような不幸な機能を課したと考えることができます。

例えば,

一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)

のほうが,寡黙だ。ここには何も語ろうとしない姿勢がある。

黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです,

と吉本隆明が言っていたが,それは,沈思黙考だ。自己対話であって,それ自体,すでに言葉になっていないが,喋っている。沈黙は,それとはわずかに違う。

単純な意味での外側への働きかけという姿勢は,私にはないかもしれません。ただ,最終的に沈黙することはできない。なにをいってもだめだけれど,最終的に沈黙することはできないというぎりぎりの所で,私は詩を書いてきたと思うし,これからも書いていくしかないとい思うわけです。

とも石原は言っているので,ヴィトゲンシュタインの言う,

およそ言いうることは言い得,語りえないことについては沈黙しなければならない,

のぎりぎりの瀬戸際ということになる。そこには,心の中で考えていたことが,思わず声に漏れる,ということとも違う。

石原は,こうも言う。

ひとつの情念が,いまも私をとらえる。それは寂寥である。孤独ではない。やがては思想化されることを避けられない孤独ではなく,実は思想そのもののひとつのやすらぎであるような寂寥である。私自身の失語状態が進行の限界に達したとき,私ははじめてこの荒涼とした寂寥に行きあたった。

例えば,

いわれなく座に
耐えることではない
非礼のひとすじがあれば
礼を絶って
膝を立てることだ
膝は そのためにある
そろえた指先も
そのためにある(「控え」)

沈黙は,お喋りや言葉の対語ではない。対ではない。バランスは,はるかに沈黙が重い。あるいは贅言百万と匹敵する。

もちろん,沈黙は,ただ

しゃべらないこと

でもないし,よくセラピーやコーチングで言うような,

沈黙もまた一つのノンバーバルな言語,

というのでもない。沈黙は,ただ沈黙なのだ。黙っているのとは違うのだ。。

言葉にならないありようそのものを,何とか言葉にしょうとする,その突き抜けるように結晶していく,結晶化の臨界点のようなものだ。それは,思考という理性的なものとも,感情や感覚ともちょっと違うのだろう。

非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ(「非礼」)

例は悪いが,

たとえば,種田山頭火の,

いつもつながれてほえるほかない犬です



何が何やらみんな咲いてゐる

は自由な一節のように見えて,実は完結している。俳句という一つの世界像の中で,完結している。俳句というものがなければ,ただの未完のつぶやきでしかなくても,俳句として語りだされている以上,完結している。完結した世界が目に見えてくる。完結した短句の中に,凄い饒舌がある。言葉があふれ出る。

しかし,石原にはそれがない。漏れ出たものは,一節でしかない。

そう。沈黙とは,ありようなのだ。言葉と対等のレベルではない。

おれひとりで呼吸する
おれひとりで
まにあっている
世界のちいさな天秤の
その巨きな受け皿へ
おれの呼吸を
そっとのせる(「呼吸」)

思想のやすらぎである寂寥,

としてのありようが見える,気がする。

沈黙は,黙っていることではなく,言葉による表現を拒否したありようなのかもしれない。でなくば,言葉による表現の出来ない限界を示している。だからそこから漏れ出る言葉は,ありようそのものの滴としか言いようはない,のではないか。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:05| Comment(0) | 沈黙 | 更新情報をチェックする