2013年03月30日

認めたくない自分リスト



自分はこうはありたくない,こうは見られたくない,という自分イメージというのは,いわば自分の価値の映し鏡なのかもしれない。僕だったら,こうなる。

自分が下品だと思いたくない
自分が愚かだとは思いたくない
自分が間抜けとは思いたくない
自分が下劣だとは思いたくない
自分が卑しいとは思いたくない
自分が嫌らしいとは思いたくない
自分が愚図とは思いたくない
自分が下卑ているとは思いたくない
自分が汚いとは思いたくない
自分が野卑だと思いたくない
自分が夜郎自大とは思いたくない
自分がみすぼらしいとは思いたくない
自分が無様だと思いたくない
自分がうざいと思いたくない
自分が不細工と思いたくない
自分が野暮とは思いたくない
自分がめめしいと思いたくない
自分が浅ましいと思いたくない
自分が痛ましいとは思いたくない
自分が老耄と思いたくない
自分がぼけとは思いたくない
自分がみっともないと思いたくない
自分がじたばたしてると思いたくない
自分を軽躁と思いたくない
自分が狼狽していると思いたくない
自分が悄然としていると思いたくない
自分が傲岸不遜と思いたくない
自分が弱腰と思いたくない
自分が軟弱とは思いたくない
自分がいい加減と思いたくない
自分が場当たり的と思いたくない
自分が無為無策とは思いたくない
自分が手ぬるいとは思いたくない
自分が粗忽とは思いたくない
自分が投げやりとは思いたくない
自分が疎漏とは思いたくない
自分がお調子者とは思いたくない
自分が軽率とは思いたくない
自分が無分別とは思いたくない
自分が軽薄とは思いたくない
自分が無責任とは思いたくない
自分が不謹慎とは思いたくない
自分がこせこせしているとは思いたくない
自分が不実とは思いたくない
自分が不埒とは思いたくない
自分がだらしないとは思いたくない
自分が放逸とは思いたくない
自分が自分勝手とは思いたくない
自分が出放題とは思いたくない
自分がちゃらんぽらんとは思いたくない
自分が気まぐれとは思いたくない
自分が卑怯とは思いたくない
自分が卑屈とは思いたくない
自分が因循姑息とは思いたくない
自分が風馬牛とは思いたくない
自分が無愛想とは思いたくない
自分がそっけないと思いたくない
自分が意地悪とは思いたくない
自分がこころないとは思いたくない
自分が薄情とは思いたくない
自分が残忍とは思いたくない
自分が因業とは思いたくない
自分が傲慢無礼とは思いたくない
自分が狭量とは思いたくない
自分が横柄とは思いたくない
自分が尊大とは思いたくない
自分が高慢とは思いたくない
自分が居丈高とは思いたくない
自分が不遜とは思いたくない
自分が高飛車とは思いたくない
自分が官僚的とは思いたくない
自分が権柄づくとは思いたくない
自分が気障とは思いたくない
自分が猪口才とは思いたくない
自分が見栄っ張りとは思いたくない
自分がぶしつけとは思いたくない
自分が非礼とは思いたくない
自分が傍若無人とは思いたくない
自分が不作法とは思いたくない
自分が偏頗だとは思いたくない
自分が陰湿とは思いたくない
自分が粗暴とは思いたくない
自分が狡猾とは思いたくない
自分が厚顔無恥とは思いたくない
自分が陋劣とは思いたくない
自分がしみったれとは思いたくない
自分が破廉恥とは思いたくない
自分が悪辣とは思いたくない
自分がみみっちいとは思いたくない
自分が吝嗇とは思いたくない
自分が強欲とは思いたくない
自分が固陋とは思いたくない
自分が依怙地とは思いたくない
自分が優柔不断とは思いたくない
自分が意気地なしとは思いたくない
自分が癇癖とは思いたくない
自分が無粋とは思いたくない
自分が無能とは思いたくない
自分があざといとは思いたくない
自分が猿知恵とは思いたくない
自分が浅薄とは思いたくない
自分が短慮とは思いたくない
自分が鈍感とは思いたくない
自分が付け焼刃とは思いたくない
自分が半可通とは思いたくない
自分が非常識とは思いたくない
自分が拙劣とは思いたくない
自分は胡散臭いとは思いたくない

正確にいえば,直観は事後に正しい。したがってわれわれはやすやすと自らを騙して,自分は知っている以上に知り,知っている以上に知っていたと思い込む,という。つまり,

ほとんどの人は,自分自身を実際よりは高く評価している,

そうだ。さてどうか。

まあ,しかし,どのみち自分でしかない。その振り幅が大きいほど,自分ののりしろが大きいと考えることだ。


参考文献;
デヴィッド・G・マイヤーズ『直観を科学する』(麗澤大学出版会)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#自己評価
#直観
#デヴィッド・G・マイヤーズ
#直観を科学する
#のりしろ
#振り幅
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2013年04月05日

承認の先


承認については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10999038.html

で,触れた。一般に,承認(アクノレッジメント)については,

「a statement or action which recognizes that something exists or true」

そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,とされている。つまり,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝えることである,とした。

茂木健一郎さんは,

脳内報酬物質を放出させるきっかけになる外部からの刺激のうち,最も強力なものは,他人からの承認である。何かをやって,それを周囲から認められたり,褒められたりしたときに,そのことが脳内のドーパミンをはじめとする報酬物質を放出させるのである。その結果,強化学習が成立することになる。脳は,「他人にほめられるように」変化していくのである。

厳密に言うと,ほめると承認は違う。その微妙な差も,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06431.htm

で触れた。承認には,そのありようの承認と,そのふるまいの承認がある。しかし,もう一つ突っ込むと,ありようの承認につながらなくては,口先のリップサービスになる。その意味では,すでに,認知に近い。つまり,ある特定の行動を起こしたり,ある特定の目標を達成したりする過程で発揮したその人の強みや良さを本人に伝えること。相手がどんな人なのか,その人自身が気づいている以上のリソースや力,価値観などを伝えることである。

ある意味でその人の遺伝子の可能性に気づくきっかけになる。それをリソースの最大化と呼んでもいい。

しかし視点を変えると,ひとは承認されるために生きているのではない。認知されなくても,おのれ自身で自分を認めなくては,次へは進めない。次のハードルへはチャレンジできない。

自分の中に,自分を動機づけ,自分をけしかけて,駆けさせる何かを持っているかどうかが,鍵なのではないか。その人にとっては,承認は,引き金になるかもしれない。あるいは落ち込んでいる自分を励ます機会になるかもしれない。

しかし順序はあくまで,自分の中にチャレンジするエネルギーがなくてはならない。

では,そのエネルギーは何か?

あるいは,自分を前へ進めさせるものは何か?

子曰く,如之何(いかん),如之何(いかん)と曰わざる者は,吾は如之何(いかん)ともする末(な)きのみ。

と。つまりは「問い」がある。問うべき何かが自分の中にある。

人には,「己の為にする」(自己の向上を志す)心があってこそ,はじめて「己に克つ」ことができ,己に克つことができるからこそ,己を成すことができる。そのために学ぶ。

克己心というが,ここで言うのは,おのれ自身の糧とするために,前へ出る。それを,自分の中にある,自分本来の仏性を生かして,おのれを完成する。見性成仏ともいう。すべてのひとがおのずから『箇箇円成』し,大なるは大を成し,小なるは小を成し,外に求めずとも,いっさいが自己に具足している。

神田橋條治さん流に言うと,遺伝子を開花させる。ただし鵜は鵜に,鷹は鷹に。見性をそうとれば,自分の中にある可能性を最大化する,「己の為にする」とはそのことだ。

それを成長欲求と呼んでもいいし,自己探検と呼んでもいい。そこに目的はない。おのれの「のびしろ」を楽しむそういうマインドが必要なだけだ。「のびしろ」は,いっぱいになると,またのびる,その繰り返しの中で,自分がどこまでの可能性をもっているのかをわくわくしながら追いかける。それが生きる楽しさなのかもしれない。

あるいは,もうひとつ踏み込むと,変身欲求,あるいは変身願望でもいい。もっと違う自分に出会えるのではないか。自分はこんなんじゃない,こんな程度ではないという,自分への期待かもしれない。

それは,ほんのちいさなことを認められる。「自分はそうなんだ」と自己認知を変えるきっかけがあればいい。自分は気づいていないが,人からはそれがその人の「凄い」点と認められるだけで,自分を見る目が変わるかもしれない。ダメだダメだ,と自分を貶め続けていたのに,その自分に厳しいところがいいと言われた瞬間,当たり前にやっている自分の行為が,自分のリソースに見えてくる。特徴に見えてくる。その「見え方」の変化する瞬間を持てたかもてないかが大きな違いになる。

人は自分のいいところに気付けると,自分の見え方が変わり,自分の見方が変わる。自分にとって当たり前のことが,人にとっては当たり前ではない。その人それぞれの当り前でないところが,その人のその人たる所以なのだろう。

承認は,その意味で,ひとつのきっかけ,その先へ行く大事な突破口なのかもしれない。


参考文献;
茂木健一郎『思考の補助線』(ちくま新書)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
王陽明『伝習禄』(溝口雄三訳 中公クラシックス)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#のびしろ
#茂木健一郎
#思考の補助線
#貝塚茂樹
#論語
#王陽明
#伝習禄
#神田橋條治


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2013年04月12日

ありたい自分リスト


認めたくない自分リストについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11136374.html

で取り上げた。では,ありたい自分,なりたい自分,望ましい自分のリストを挙げてみるとどうなるか。はじめは,認めたくない自分リストの裏返しになるだけではないかと思ったが,必ずしもそうではない。ちょっと違う。その微妙に違うところが面白い。

認めたくないのは,自分の嫌な部分,そういう部分が自分に少しでもあるのではないか,そういうのは嫌だと,他山の石で,人のふるまい,ありようからリストを挙げている。

しかし,ありたい自分,なりたい自分,望ましい自分,あったらいい自分は,理想ではないが,そうはなれないだろうという諦めがある。だから,第一級とか上品とか,偉大といった,トップクラスのことを望まない。ちょっとつましく,もう少し背伸びすればなれそうなところを挙げる。

そう考えると,微妙にすれ違っている。そこがまた意外であった。

しかもリストは,相互に微妙に矛盾する。勇敢さと臆病さを共存させる。それは,そうなりたい自分と,そんなことはどうでもいいと反理想に開き直る自分とに割れる。その幅が自分なのだろう。

さて,そこで,ランダムに,思いつくままに…,ありたい自分,なりたい自分,望ましい自分,そうなればいいだろう自分を,リストアップしてみた。ありたい自分,なりたい自分,望ましい自分,そうなれればいいだろう自分は,また,そう認めてほしい,そう思われたい自分でもあるようだ。さっそくながら……。


自分は剛直な人でありたい
自分は果断な人でありたい
自分は勇敢な人でありたい
自分繊細な人でありたい
自分は本物の人でありたい
自分は清潔な人でありたい
自分は風格ある人でありたい
自分は渋い人でありたい
自分は気韻ある人でありたい
自分は切れ味ある人でありたい
自分は詩趣ある人でありたい
自分は枯淡な人でありたい
自分は孤高の人でありたい
自分は独特の人でありたい
自分はユニークな人でありたい
自分はオリジナルな人でありたい
自分は傍系の人でありたい
自分は異端の人でありたい
自分は飄逸な人でありたい
自分は平々凡々な人でありたい
自分は勇往邁進の人でありたい
自分は尖る人でありたい
自分は透徹した人でありたい
自分はお洒落な人でありたい
自分は洒脱な人でありたい
自分は創造する人でありたい
自分はクリエイティブな人でありたい
自分は貫く人でありたい
自分は漸進,漸進,ひたすら漸進の人でありたい
自分は独立不羈の人でありたい
自分は偏倚の人でありたい
自分は左派の人でありたい
自分は長躯の人でありたい
自分は温容の人でありたい
自分は活眼の人でありたい
自分は俯瞰の人でありたい
自分は遠望の人でありたい
自分は表現する人でありたい
自分は発想豊かな人でありたい
自分は直言の人でありたい
自分は寡黙の人でありたい
自分は力行の人でありたい
自分は直感(直観)の人でありたい
自分は思慮深い人でありたい
自分は卓見の士でありたい
自分は忖度の人でありたい
自分は速断の人でありたい
自分は決断の人でありたい
自分は洞見の人でありたい
自分は目利きの人でありたい
自分は迷妄の人でありたい
自分は切磋琢磨の人でありたい
自分は創意の人でありたい
自分は初心の人でありたい
自分は士心の人でありたい
自分は義の人でありたい
自分は執着する人でありたい
自分は親しまれる人でありたい
自分はへそ曲りでありたい
自分は克己の人でありたい
自分は一徹でありたい
自分は土性骨のある人でありたい
自分は辛抱強い人でありたい
自分は敬意を払われる人でありたい
自分は謙遜の人でありたい
自分は好感される人でありたい
自分は恩寵の人でありたい
自分は冷静な人でありたい
自分は楽しむ人でありたい
自分は悲憤慷慨の人でありたい
自分は表現者でありたい
自分は大人でありたい
自分は士人でありたい
自分は天邪鬼でありたい
自分は理想家でありたい
自分は志士でありたい
自分は不器用な人でありたい
自分は立ち尽くす人でありたい
自分は呑み込みの悪い人でありたい
自分は物分りが悪い人でありたい
自分は目端の利かない人でありたい
自分は上品な人でありたい
自分は下品を厭わぬ人でありたい
自分は軽佻浮薄でありたい
自分は野暮天でありたい
自分は臆病な人でありたい
自分は冷静沈着な人でありたい
自分は緩やかな人でありたい
自分は潔い人でありたい
自分は執着しない人でありたい
自分は自由な人でありたい
自分は穏やかな人でありたい
自分は時流に逆らう人でありたい
自分は流行に背を向ける人でありたい
自分は無粋な人でありたい
自分は武骨な人でありたい
自分は剛毅朴訥な人でありたい
自分は物静かな人でありたい
自分は悠揚な人でありたい
自分は泰然自若とした人でありたい
自分は飄々とした人でありたい
自分は率直な人でありたい
自分は真率な人でありたい
自分は真摯な人でありたい
自分は闊達な人でありたい
自分は柔軟な人でありたい
自分は虚心の人でありたい
自分は悠悠閑閑な人でありたい
自分は凛とした人でありたい
自分は大量の人でありたい
自分は謙虚な人でありたい
自分は律儀な人でありたい
自分は廉直な人でありたい
自分はざっくばらんな人でありたい
自分は柔和な人でありたい
自分は反骨の人でありたい
自分は硬骨の士でありたい
自分はおおらか人でありたい
自分は剽軽な人でありたい
自分はユーモアの人でありたい
自分は才知の人でありたい
自分は怜悧の人でありたい
自分は具眼の士でありたい
自分は篤学の士でありたい
自分は酔狂の人でありたい
自分は浩然の人でありたい
自分は恐れない人でありたい
自分はゆるぎない人でありたい
自分は自恃の人でありたい
自分は自立(自律)の人でありたい
自分は持久力の人でありたい
自分は持続する人でありたい
自分は挫けない人でありたい
自分は折れない人でありたい
自分は揺るがぬ人でありたい
自分は登りつづける人でありたい
自分は諦めの悪い人でありたい
自分は温情の人でありたい
自分は恩義の人でありたい
自分は真っ直ぐ前を見つめる人でありたい
自分は凹まぬ人でありたい
自分は大度の人でありたい
自分は覚悟の人でありたい
自分は楽観の人でありたい
自分は夢を追い続ける人でありたい
自分は志を貫く人でありたい
自分は恋する人でありたい
自分は愛の人でありたい
自分は問い続ける人でありたい
自分は信念の人でありたい
自分は物分りの悪い人でありたい
自分は成長し続ける人でありたい
自分は見抜く人でありたい
自分は眼力の人でありたい
自分は自ら発光する人でありたい
自分は心眼の人でありたい
自分はオープンマインドの人でありたい
自分は心豊かな人でありたい
自分は手放す人でありたい
自分は気概のある人でありたい
自分は気骨のある人でありたい
自分は颯爽とした人でありたい
自分は屈せぬ人でありたい
自分は泰然自若の人でありたい
自分は春風駘蕩の人でありたい
自分は義憤の人でありたい
自分は天空の人でありたい
自分は空を泳ぐ人でありたい

ありたい自分,なりたい自分,望ましい自分は,振幅があり,相互抵触し,矛盾する。その振れ幅は,自分には軸がないという捉え方もあるが(事実そう言われたこともあるが),それだけの多様性を自分が持っている,と考えたほうが,自分の伸びしろの広さと思えて,まあ都合がいい。

考えようによれば,人はその時,その人,そのシチュエーションに応じて,多様な自分で向きあう。その意味では,一面的ではない。それは自分の多様性と柔軟性と受け止めておけばいい。人は人色ではない。人は様々な可能性を持つ。それを,成否,是非,可否の自分としてリストアップすることで,見えてくると言えるのかもしれない。

この作業は,あるいは自己承認なのかもしれない。この一つつひとつが,ではなく,そのすべての振れ幅そのものの自分を,である。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#ありたい自分
#なりたい自分
#のびしろ
#物語
#自己承認

posted by Toshi at 06:07| Comment(3) | 自分 | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

凹む


本当の自分という言い方が嫌いである。いま,ここに居る自分以外に自分はいない。可能性のことを言っているなら,そういえばいい。隠れている自分というのは,隠れているのではなく,まだ,ここに居ないのであって,本当の自分という言い方は妥当ではない。

で,だ。自分はよく凹む。凹むのは,

人と比較して,自分のだめさに気づかされたとき,

何かしくじりをやって,落ち込んだとき,

自分の期待した水準のことができず,自分で自分を貶めているとき,

ひとから自分の振る舞いについて批判されたとき,

自分が妬んだり羨んだりしているのに気づいたとき,

自分の頭の中の特定の誰かの眼で,自分を批判するとき,

自分で自分に期待外れを起こしたとき,

何となく憂鬱でブルーな気分に落ち込んだとき,

等々,いろいろあるが,要は,自己イメージが崩れてしまった,あるいは(ダメな,あるいはあからさまな)自分を突きつけられた,というときだ。というか,何となくこういう自分だと思っている自己概念というか,セルフイメージが,何かのきっかけで罅がいるというか,輪郭がくずれるというか,もっとひどい時は,木端微塵に砕けるというか,そんなときだ。

そんなとき,

自分には人には見えない本当の自分がいる,

とか,

もっと違う自分があるとか,

という言い方をするとすれば,自己逃避そのものといっていい。

いま,ここで,そのきっかけになったことが些細なことか重要なことかはともかく,何かに躓いて,凹んでいる自分,その自分がそのまま,本当の自分に他ならない。

この自分よりほかにもっと優れた自分がいるはず,

と思いたいのは自由だが,そっちへ行けば,ほぼ妄想か仮想か空想か,まあ,病気に近づく。

まっとうな人は,そこから,改めて,自分を立ち直らせるしかない。

昔自殺を考えたことがあったが,最期の最後で,自分というものを,ぎりぎり信じている自分がいた。その時どう考えたかは,正確には覚えていないが,

まだ自分にはしなくてはならないこと,

まだ自分にはしたいこと,

あるいは,

まだ自分にはし残したこと,

がある,というような,自分のか細い可能性を信じた,というか,それを藁しべにして,それにすがって,かろうじて,凹んだ自分を支えた,という記憶がある。

だから,心底絶望したのではないかもしれない。そんな奴には,わからん,と言われそうだ。しかし,僕は,信じている。どんなに絶望の淵にしても,

自分がすること,

自分でなくてはできないこと,

自分がしなくてはならないこと,

を思い出せば,かすかな可能性が見える。それが,

したいことか,

しなければならないことか,

は,このぎりぎりのときにはどうでもいいのだ。この世の中に,僕がいることが,少なくとも,必要だ,と感じられればいいのかもしれない。

フランクルが,『夜と霧』で書いていたことは,僕流に言い換えると,これだったような気がする。

フランクルは,ニーチェの,

なぜ生きるかを知っているものは,どのように生きることにも耐える

を引き,生きることから期待するのではなく,生きることが私たちに期待していることにどう応えるか,だと言ったのは,そういう意味だと捉えている。

だから,唐突だが,リーダーシップと言われているものも,その人が,

何をするためにそこにいるのか,

を実践する手段である。

自分の思いを(共に)実現するために,

自分の目的を(共に)実現するために,

そうすることで,たぶん,

自分が自分になる,

それが人生の目的なのだ,と思っている。


ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm






#ヴィクトール・E・フランクル
#夜と霧
#リーダーシップ
#凹む
posted by Toshi at 04:58| Comment(0) | 自分 | 更新情報をチェックする

2015年02月04日

地金


昨年,ある芝居を観ていて,

ああ,この人たちは,きちんと訓練ができている,

と,感じたことがあった。それを,筋がいいというか,正統な,あるいは王道のしっかりした訓練を受けている,という感じであった。別に僻目で言うのではないが,歌手やタレント上がりに見受ける,何とも締りのない台詞回しや,口跡の悪さ,姿形というか,立ち居振る舞いのめりはりのなさとは違って,指の先まで,きちんと神経が行き届いている,という印象である。それを,筋目正しいという表現をするのがいいかどうかわからないが,正統派だと感じたのである。

ということを,あるとき,ふいに思い出した。

自分は,そういう折り目正しい教育もキャリアも経ていないので,というか,いつだったかある資格の再々試験の時,面接官が,あなたは本当に資格を取る気があるのか(とは,資格の主張がわかっていてそれを理解しょうとしているのかという意味),と叱責されたように,まともに受け止めないというか,我流に転換してしまう癖がある,というおのれに目が向いた次第である。

あるいは,折り目正しい行儀のよさへの憧れかもしれない。必ずしも,そういう人が,優れた役者になるとは限らない。名をなすとはきまってはいない。しかし,由緒正しい演技は,脇でいても光る。どこぞのジャニーズ系の主役を食うくらいの存在感はある。そういうのに対する憧れのようなものが,僕の中にある。

といって,

異端

と,胸を張るほどの気概はない。異端については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163510.html

で書いた。自分流儀にしてしまわないと,居心地が悪いというだけなのかもしれない。

地金

という言葉が,そのとき浮かんだ。付け焼刃では,きちんとしたものには仕上がらない。

地金が出る
とか
地金がさびる

という。地金の良し悪しが,最後に出る。その地金である。別に由緒とか血筋とか血統とかを,この場合言っているのではない。由緒正しい連中が,幕末も,戦前も,戦中も,戦後のいまも,ろくなことをしていないことは,事実が証明している。結局,ひと,である。その人次第である。

地金というと,

めっきの下地や,加工の材料となる金属。じきん。
生まれつきの性質。本性。主として悪い意味で使う。

とあるが,後者のことを言おうとしているのではない。金属の用語としての「地金」には,

細工物の材料にする金属。
めっきの土台の金属。
貨幣などの材料に溶かして使う金属材料。金・銀などをいう。
ふだんは表れない,生まれつきの性質。本性。

「地金を出す」というとき,メッキの土台のことを言っている。どんなに付け焼刃をしても,地が鈍刀なら,意味はない。

日本刀だと,

日本刀の材料となる玉鋼は日本独自の「たたら吹き」で造られる。これを熱して鎚で叩き,薄い扁平な板をつくる。これを水に入れて急冷して,余分な炭素が入っている部分を剥落とす。これを「水減し」または「水圧し(みずへし)」という。ここまでがへし作業と呼ばれる地金づくりである。

という作業を経て,初めて地金になる。この後も,何度も熱しては,叩き延ばし,折り重ねては,叩き,を繰り返す。最終的には,

含有炭素量が異なる心金(しんがね),棟金(むねがね),刃金(はのかね),側金(がわがね)の4種類の鋼に作り分けられ,棟金,心金,刃金の3層を鍛接して厚さ20mm,幅40mm,長さ90mm程の材料が4個取れるくらいに打ち伸ばして4つに切り離す。これは「芯金」と呼ばれる。側金も加熱され長さが芯金の倍になるくらいに叩き伸ばされ中央から切り離されて,芯金と同じ長さの側金が2本作られる。さらに,側金,芯金,側金の順で重ねられ,鍛接されて,厚さ15mm,幅30mm,長さ500-600mm程度に打ち伸ばされる。「てこ」が切り離されて,刀の握り部分になる「茎(なかご)」が沸かされ鍛接される。

ようやく,刀の形になっていく。しかし,元は,地金である。ここのつくり込みが不十分なら,その上の汗水たらした作業はすべて消える。

それがない自分を嘆いているのではない。ひとはひとのもつ遺伝子の可能性以上にはなれない。とすると,ひとつことをコツコツと叩き上げていくタイプではないというだけのことだ。

「地」の,「也」は,

うすいからだののびた蠍を描いた象形文字,

で,「土+也」で,平らに伸びた土地を示す,という。まさに,土壌である。因みに,「土」も,象形文字で,

土を盛った姿を描いたもの,

という。古代人は,土に万物を生み出す充実した力があることを祀った。このことから,「土」は,充実したという意味を含む。という。また「土」の字は,「社」の原字であり,土地の神や氏神の意となっていった,という。

思えば,自分のからだは,「土」である。メタファーというより,そのものズバリ,そうである。脳もまた,肉体である。リソースそのものである。そう思えば,それを耕す以外に,実りはない。あいにく,人は,おのれの「地」以外は耕さない。まだ未開の原野が,一杯残っている(はずである)。

耕し方も,結局自己流でしかない。いやいや,自己流以外にはない。たまには,隣の芝が青く見えたりもするものである。






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:50| Comment(0) | 自分 | 更新情報をチェックする