2013年04月23日

語る芸



先日,ACT寄席「桂扇生独演会」に参加する機会があり,久しぶりにたっぷり三席,「野晒し」「抜け雀」「三軒長屋」を聞かせてもらった。

http://www.facebook.com/home.php#!/events/518641234844985/519466041429171/?comment_id=519519814757127¬if_t=event_mall_comment

出張時,飛行機で落語を聴くことは結構あったが,やはり落語は生に限ると再認識した。

身振り手振りということもあるし,表情ということもあるし,会場という場そのものが創り出す雰囲気ということもある。何より,その場で,自分が,直接その声,その表情を聴きながら,その話の中に入っていく,そこで一緒になって笑い,身を乗り出すところがなくては,たぶん,語りというものは,耳だけでは,半分も聞いたことにならないのだろう。

ずいぶん昔,学生のころ,人形劇を持って,へき地を巡回していたことがある。そんな折,設営が間に合わないという事で,急遽場つなぎに,僕が,子供たちの前で,何か話をすることになった。持ち合わせはなく,昔子供のころ読んでいた,絵本で,『迷子の小象』というのが,不意に浮かび,いきなり,何の練習もせず,子供たちの前に出て,勝手に,というのは誰もその話を知らないので,ストーリーを創り上げた記憶がある。話は,迷子になった小象が,親切な動物たちに,襲ってくるライオンなどから守られながら,母親と再会する,というような話だが,子供が喜んだのは,腕を,象の鼻に見立てて,振るという動作であった。

その動作だけで,子供の顔が笑い崩れる,という体験を,最初で最後だが,した。その経験から言っても,ただ淡々と語るだけでは,どんな話も,乗れないだろう。小象の時は,小象の声色で,ライオンの時は,怖そうな声色で,会話を組み立てていく。そうすることで会話が,リアルに耳に届く。文章を読むとき,一人でそれを見分け,聞き分けているのを,具体的に,見えるカタチで,聞こえるカタチで,表現する。紙芝居のオヤジの声色に,動作が加わった感じだろうか。それは,語りに,見合った,見立ての動作が加わって,初めて,表現として成立する,という気がする。落語を聞いて,それをまず思いだした。

落語や話芸を語る資格は,僕にはないが,聞いてみて気づいた素人の,落語という語りの芸について,感想をまとめてみたい。

まずは,三席それぞれの概要を,ネットから拾ってまとめておく。

「野晒し」の概略は,

ある夜,長屋に住む八五郎の隣りから女の声が聞こえてくる。隣りに住むのは,堅物で有名な尾形清十郎という浪人。日ごろから,「女嫌い」で通っていた先生に,女っけが出来たことに憤慨八五郎は,翌朝,先生に迫る。八五郎が「ノミで壁に穴開けて覗いた」と言うと,とうとう真相を語った。
「あれはこの世のものではない」
先生の話によると,向島で釣りをした帰りに野晒しのしゃれこうべを見つけ,哀れに思って酒を振りかけ,手向けの一句を詠むなどねんごろに供養したところ,何とその骨の幽霊がお礼に来てくれたというのだ。
その話を聞いた八五郎,「あんな美人が来てくれるなら幽霊だってかまわねえ」とばかり先生から無理やり釣り道具を借りて向島へ。居並ぶ太公望(釣り客)達に,「骨は釣れるか?新造か?年増か?」と質問して白い目で見られつつ良い場所へ陣取り,早速,骨釣りを始めた。
「私ぁ~,年増が,好きなのよー」と変な歌を歌い出したり,「水をかき回すな」との苦情に。「いつ水をかき回したい!たたいてんだよ!かき回すってなアこうするんだ!」川面を思いっきりかき回したりと,八五郎の暴走は止まらない。とうとう,幽霊が来たシーンを一人芝居でやっているうちに,自分の鼻に釣り針を引っ掛けてしまった。

「抜け雀」の概略は,

小田原の宿で,薄汚れた旅人が毎日三升の酒を飲み,何もせず寝てばかりで七日が過ぎた。金は無いが,自分は狩野派の絵師だからと,衝立に墨で雀の絵を描いた。江戸へ行き,帰りに寄って金を払うから,それまでこの絵を売ってはならぬと言い残して旅立った。
翌日,主が雨戸を開けて日の光が射し込むと,絵の中の雀が飛び出して外で餌を啄み,戻って来て元の絵の中にピタッと収まった。これが評判になって,毎日客が訪れ大繁盛。小田原の殿様の耳に入り,絵を千両で買い取るとの話を,絵師との約束があるので断った。
その後,年配の武士が訪れ,止り木がないので雀はいずれ落ちて死ぬからと,雀が抜け出た隙に,画面一杯に鳥籠を描いた。戻って来た雀は鳥籠の中にピタッと収まった。
江戸から戻って来た絵師に事情を話すと,絵を一目見て,描いたのは自分の父親だ,なんという親不幸をしてしまったかと嘆く。「親をカゴカキにしてしまった」と。

三軒長屋の概要は,

三軒長屋の両端に鳶の頭と剣術の楠木先生,真ん中には質屋の妾が住んでいる。頭の家では若い者が喧嘩騒ぎ,道場は稽古で喧しい。
質屋の旦那が泊まりに来た夜も,壁から出刃の先が飛出し,剣術で壁が揺れ「こんな家は出たい」と嘆く妾に,ここは家質になっており,あと数日で自分の物になるから,奴らを追い出すと告げ,女中がこれを漏らして,頭の知る所となった。頭が一計を案じた。
まず,楠木先生が「今度引越すことにしたのだが,金が無いから千本試合をやるので,血を見たり騒々しくなる」と告げると,旦那が「金を用立てるから」と止めさせ「たかだか五十両で厄介払ができた」と喜ぶ。
次に,頭が「今度引越すのだが,金が無いから花会をやるので,怪我人が出たり迷惑をかける」と告げた。これも旦那が五十両を渡して止めさせ,何処に引越すのか問うと,
「へい,楠木先生があっしのところへ,あっしが楠木先生がのところへ引越しやす」と。

それぞれの,荒筋だけでも,面白くないわけではないが,ストーリーの面白さだけではなく,芝居で言う,会話とト書き部分を含めた,ディテールに,面白さがある。

落語家が,男に女,老人に子供,武士に町人と声色を使い分け,所作をしわけていて,おもしろいのは,江戸時代は,身分社会だから,物言いやしゃべり方,所作に,身分の上下,階層の上下が出る。それも,いわば,ト書きの具体化の,(古典)落語ならではのおもしろさなのかもしれない。

ディテールというのは,会話であり,所作であり,振る舞いであり,声音の使い分けなのだが,その積み上げるエピソードのつなぎで,場面設定を転換していく。特に,中心になるのは,声音にしろ,所作にしろ,象徴的なもので,それと表現する。換喩と言ってしまえばいい。見立ての極限と言ってもいい。例えば,すする音で蕎麦を食べるシーン,襟元を開いて,年増を表現…といった具合で,それとわかる象徴となるジェスチャーであり,声をうまく使って,ディテールを象徴的に表現し,いちいち事細かく演じないで済ましていく。

人の記憶は,意味記憶よりエピソード記憶の方が,具体的で文脈に依存している。それは,よりイマジネーションにつながりやすい。しかも,情報は,言葉に置き換えられるコード情報より,言葉にならない,雰囲気,ニュアンスといった,文脈のもつ「そのとき」「その場」の状況の持つ背景をあらわすモード情報の方がインパクトがある。

その意味で,文脈に依存したエピソードという,情報の表現の仕方としては,見立てや声色,所作を使い分けながら,その場,その時を,表現し続ける。ある意味,モード情報を大盤振る舞いしなくては,その雰囲気を伝えられない,落語家個人の話術しかない限界点に立っているから,その雰囲気,文脈を共有できる表現を極限まで,選び分け,使い分けることになるのかもしれない。

たとえば,腕を象の鼻に見立てたように,扇子が刀になり,槍になり,箸になり,煙管になり,丸めた指がお猪口になり…という具合に,見立てて作られた所作が,こちらの想像力をバックアップする。しかし芝居や映画のように,全身が,まるごとその空間に入り込み,一体化するというのはない。こちらに,半身を残したというか,見立てを見立てと見ている自分が残っている。どんな名人の話芸でも,話者の創りだす空間は,聴く側との距離がある。その中にずぶずぶに入りこんで,よく言われたように,高倉健の映画を観た観客が,映画館からみんな肩で風を切って出てくる,そういう風にはならない。落語で語られている世界は,聴く側との間に距離がある。いや,それは,だから笑いが,誰もが一斉に笑い,一斉に泣く,といった寅さんの映画での笑いと違う,一人一人のクオリア,一人一人の笑いの質を残した笑いになる所以なのではないか。もちろん,どっと来るところがある。しかし,そのどっと来るところは,それぞれのキャリアと経験と,感覚の質を残した感じなのではないか,と思う。

それが,映像や芝居のように,現実にト書き部分まで具象化し,顕在化しているものと,ト書きの部分は,落語家の所作や言動に,どういうイメージや体感覚を,それぞれの心側で引き出したかによって,微妙に違うのではないか。その差が,文字からイメージを膨らませる小説だと,もっと個人個人で,その引き出す体感覚,イメージが違うはずだ。

落語は,一人の落語家が,語りひとつで紡ぎ出す,小説と芝居・映画の中間の,半分聴き手一人一人のクオリアを楽しむ余地を残しつつ,その場で生まれるリアルな雰囲気をも楽しむという,ちょっと面白い位置にある,という事を感じた。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#落語
#見立て
#桂扇生
#野晒し
#抜け雀
#三軒長屋

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2013年06月21日

噺と語り


先日機会があって,三代目・三笑亭世楽師匠とご一緒させていただく機会があった。同席させていただいた方々のように,当意即妙で話す力はないので,もっぱら聞き役であったが,その中で,落語家は,その人物になりきらない,ということを聞いた。むしろそれは落語家としてはだめなのだ,という。

むしろ落語家,というより噺家のほうがいいか,噺家はいわば監督(というより演出家のほうがいいか)あるいはプロデューサーなのだという。したがって,噺家によって同じ噺でも,その構成が異なる。どういう構成で,どうつなぐかが噺家の腕の一つということらしい。

因みに,編集については,前も書いたが,たとえば,「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。

そうすると,噺家は学んだオーソドックスな噺の構成と登場人物を,どういう流れでどう登場させていくか,その噺家次第ということになる。確かに,先日聴いた『野晒し』は,人物そのものは変わらないものの,キャラクターも美味様に違うかもしれないが,その噺の構成は,記憶とはかなり違っていた気がする。

では,落語(「噺」)と語りとはどう違うのか,ということになる。語りでは僕の聞いた限りでは,その声音もしぐさも,その人物になりきって語る。そのとき,語る人(語り部と呼んでおくべきか)は,その物語の語り手であり,登場人物A,B,C…であることになる。その語る人は,一方では監督でもあるが,役者でもあり,ナレーターでもあるという使い分けをしている。

噺家は,そうではないという。あくまで,噺を伝えている。一般的には「落語」と書いても「おとしばなし」と読んでいたそうだから,落語の基本は「それはなしは、一が落ち、二が弁舌、三が仕形(しかた)」と言われるのも当然で,その人になりきる演技ではなく,噺の流れと構成のつくり方にあるのに違いない。

だから,語りの向き,しぐさ,言葉遣い,扇子と手拭による見立てによって,その人物を表現するが,その人物を表現するのに必要な,男女,身分,年齢を際立たせる程度の使い分けをするが,それ以上にはいりこまない。そこは,口先だけで小道具なしで語る語り部との違いかもしれない。

その違いをもう少し,間違っているかもしれないが,自分なりに範囲で掘り下げてみたい。

直感的には,語り部は,人を前にした時,何某ではなく,語り部そのものになっている。そしてある時は語り手に,ある時は登場人物Aになりきって演じ分けていく。その差配をしているのは,語り部である。

噺家は,高座にあがったとき,噺家何某として,「まくら」を語っている。そこから地続きで,本文に入っていくが,その瞬間,噺家何某ではなく,演目の語り手になっている。噺家の世界と語り手の世界をつなぐために「まくら」がある。しかし,おもしろいことに,ここも噺家によって違うが,ときどき噺家何某の世界へ戻ってくる。ちょうど司馬遼太郎や中里介山が,自分の考えを述べている部分にあたる。その意味では,噺家何某→噺家の距離感自体が,まず噺家によって違う。さらに,噺家→語り手→登場人物という流れが明確な人と,噺家→語り手,噺家→登場人物がほぼ並列になっているひと,等々と語られる世界との距離の置き方で,噺家がどこに自分を置くかで,結構話の構成のさせ方も違ってくるはずである。

そうみると,語り部よりは,噺家の方が,語られる世界(演目)についての解釈も,構成も,場合によっては,登場人物のキャラクターそのものまでも,自由に変えていくのではないか,と言える。

そこが落語家はディレクターないしプロデューサーでさえある,と言われる所以なのではないか。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2013-0416.html

で書いたことと重複するが,R・バルトはこう言っている。

文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは,よくみるためではなく,みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。窓が景色を作るのだ。 (『S/Z』)

窓枠のつくり方で,向こうに見えるものが変わる。窓枠を決めるのは,それに向き合う語り手にほかならない。語り手の立つ位置をどうとるかで変わる。語り部にはその位置の変化はあまりない。というより,語り部は,現実の誰それであるより前に,語り部になってそこにいる。だから,語り部は語り手に重なっている。それに比して,噺家は,位置を自在に変える。噺家のいる位置と語り手の位置(語るものを見ている位置),語り手と登場人物の位置も,微妙に変わる。

フーコーは,別のところでこう語っている。

周知のように,ある語り手による物語というかたちをとった小説では,一人称代名詞,直接法現在,時間的・空間的な位置決定の記号はけっして正確には作家にも,彼が現に書いている時点にも,彼の書くという動作そのものにも送り返しはしない。それらは,もうひとつの自己へ―そこから作家までのあいだに程度の差はあれ距離が介在するばかりか,その距離が作品の展開してゆく経緯そのものにおいても可変的でありうるようなもうひとつの自己へ,と送り返すのです。作者を現実の作家の側に探すのも,虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで,―この分割と距離のなかで作用するのです。(『作者とは何か?』)

位置とは,ここで言うところの「もうひとつの自己」といっているものであり,現実の噺家と語り手としての噺家,噺家はその「分割と距離のなかで作用する」ことで,その前に広がる世界の語り方を,語られる世界の描き方を変える。噺家は,その語り手の奥で,差配する演出家ということになるのだろう。

しかしこの「演出家」としての自分という視点を,自分がしていることを,もう一人の自分が見ている,という意味に,もう少し広げて,これを,「第三の眼」という言い方をするなら,それはもっと広く敷衍することができるような気がする。

例えば,コーチングでは,前にも書いたことがあるが,たとえば,ところでCTI系では,傾聴には二側面があるとして,

①注意を払う 感覚を通して受け取ったものへの気づき。コーチが受け取っているすべての情報に対して注意を傾ける。息遣い,話し方のペース,声の調子等々。
②インパクトに気づく 傾聴したことへの対処。コーチの対処がクライアントに影響を与える。

それを,次の3レベルに分けている。

①レベル1・内的傾聴 意識の矛先が自分に向いている。自分の考えや意見・判断,感情,身体感覚に意識が向いている。
②レベル2・集中的傾聴 意識はクライアントに向いており,全ての注意がクライアントに注がれている。相手の発するすべての言葉に一心に耳を傾け,声の調子,ペース,ニュアンスを逃さず聴こうとしている。
③レベル3・全方位的傾聴 一つのことに焦点を当てるのではなく,周囲に広く意識を向けている状態。自分と周囲のエネルギーに気づく。そのエネルギーの変化に敏感になる。

このことは,セラピストも,自分のしているセラピー全体を俯瞰する目がいる,という言い方をする。あるいは,すぐれたサッカー選手は,試合全体を俯瞰する目を持ち,素早く自分のポジショニングができる,と聞いたことがある。

それを自己演出力という言い方で表現するなら,当面している自分の立ち位置を,後ろから見る冷静な眼がなくては,窓枠を作り直すことはできない。その意味では,ちょっと敷衍しすぎかもしれないが,すべてに通ずる部分がある気がした。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#三笑亭世楽
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posted by Toshi at 05:51| Comment(6) | 落語 | 更新情報をチェックする

2013年08月15日

落語


先日,創作落語を聞く機会があった。

http://sun-show.net/?p=255

落語については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11225523.html

で書いたことがあるし,語りとの比較について,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11231631.html

でもふれたが,今日はただ感想を書いてみたい。

さん生師匠のまくらでも,一人芝居との違いが出たが,こういう語りは,世界でも,ずいぶん珍しいものらしい。

その対比で言えば,一人芝居は,あくまでしつらえられた場とときに,しつらえられた人がそこにいるという設定に変わりはない。あくまで一人しか登場しなくても,舞台の立つ役者が,役を演じている。だから,それを観る我々とは,距離があるが,役者がしくじれば,すぐにわかる。まして,地を出せば,芝居の世界そのものが崩れかねない。そこは創られた世界を見せていることに変わりはない。

しかし落語は,高座にいる噺家一人がそこにいて,柳家何某,林何某,三遊亭何某,三笑亭何某としてそこにいる。そこにいるのは,本名の,実名の何某ではないが,仮にそこに地の実名の何某の生活臭がしたところで別段苦にはならない。

その意味では,口先一つで語りだされる噺は,どういうわけか,共有される。そこで聞いている人は,目の前の噺家ではなく,その語り出す噺の世界に耳から入りながら,どっぷりつかっている。そこで,地の癖だか合の手が入ったところで,一向邪魔にならない。なぜなら,描き出しているのは,噺家の高座にではなく,それぞれの頭の中のイメージに過ぎないからだ。

たまたま古典と創作落語だったが,いずれも同じだ。これが現代の自分の体験でも,たとえば未だに覚えているのは,小三治師匠が,自分のアメリカでの英語学習の実体験を語ったことが,それでも同じことが起きていて,耳から入ったことを,頭の中で描き出している。場合によっては,絵が浮かぶことはあるが,そんなものが浮かばなくても,耳で聞いたことが,舞台でそれを観ているように,体験されている。不思議なことに小三治師匠は忘れていても,噺は断片的でも,物語を読んだ後のように記憶にとどまっている。

高座で,噺家が顔の向きを変えて話し手の交代を表現したり,扇子を使って何かに見立てたり,という動作しぐさ振る舞い表情が,それを促しているのか,というと,それがなくもないが,かつては,寄席などへ行けない地方都市に住んでいたから,そんな場合,ラジオで聞いていた。

かつてラジオで聞いていたとき,子どもだからといつて,イメージが浮かばなかったのかというと,そんなことはない。ラジオから語りだされる噺を,夢中になって聞いていた時,それなりに,子どもだからわからないところや誤解しているところはあったにしろ,イメージを浮かべていた。というか,それが目の前で起こっているように,噺の世界を共有していた。

ラジオがかつてはそうだったかもしれないが,落語も,聞く側が,聞くぞという身構えで耳を傾ける。そこが大きいのかもしれない。出囃子というのは,緞帳が上がる,幕が引かれるのと同じく,一つの世界,疑似的な世界の扉を開ける合図と言ってもいいのかもしれない。

あくまで素人だが,いくらこっちが効く姿勢があっても,耳には準備運動がいる。噺家のテンポと間合い,しぐさに馴れる必要がある。まくらには,そんな意味合いがあるのかもしれない。こんなことが,ネットに書いてあった。

(まくらは)落語にとって前フリなのです。また,マクラは「話す」のではなく,「振る」といいます。なぜなら,まずはこのマクラでお客さんを「振り向かせる」ということでしょう。

と。だから,

このマクラでは,演じる落語の演目に関連した話,

であったり,
ほとんど使われなくなった,人,物,様子などの言葉の解説,

だったりするようだ。まあ,本題へのソフトランディングの役割がある。ということは,耳を傾けてもらうための助走ということだ。

登場人物毎に,極端に声色を変えるわけでもなく,せいぜい言葉づかい程度で語り分けていく。だからいわゆる「語り」とは違う。にもかかわらず,噺に入り込ませる仕掛けが,特に大袈裟に舞台装置としてあるのでもない。噺家一人の語り口で,世界を開いていく。ここは素人判断だが,いわゆる「語りもの」,琵琶法師の平曲にあわせて語りと似ているのかもしれない。

しかし翻ると,それだけ耳を傾けるだけで,相手の語る世界がよく見えてくるのだとしたら,普通の人の話も,こちらの聞く姿勢次第というところがあるのかもしれない。



今日のアイデア;
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#落語
#噺家
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#平曲
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2013年11月27日

演出


先日聴かせてもらった落語会で,前座(柳家こはぜ)と真打(その師匠の柳家はん治師匠,古今亭志ん陽師匠)の噺を聞き比べる機会があり,その違いを,よく分かりもしないのに,素人なりに,考えてみた。明らかに間や話しぶりに差はあるが,それ以上に違うのは,話の構成だと感じたのだが…。

以前,噺家は,演者であると同時に,演出家でもある,あるいはプロデューサーである,と聞いたことがある。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11225523.html

あるいは,フィルムを最後に編集するという意味では,監督なのかもしれない。

古典にしろ,新作にしろ,ストーリーと登場人物は決まっている。しかし,

ただ,それをシーケンシャルに流していくやり方もあれば,

全くプロットをつなぎかえて,話の構成を編集するやり方もある,

あるいは,シーケンシャルの起承転結を変えてしまうやり方もある,

更には,(ここまではあまりかもしれないが)登場人物の主役と脇役を入れ替えることもあるかもしれない,

つまり,噺家は,

話全体を構成し直し,

登場人物を再編成し,

場合によっては,登場人物の性格づけを変えたりして(『芝浜』について談志がそんなことを言っていた気がする),

話全体を改めてリニューアルし直す。

当然,それによって,主要な登場人物の入れ替わりはないにしても,人物の造形,その濃淡,遠近は変わる。場合によっては,それを語る視点が変わるかもしれない。

と,ここからは勝手な空想なのだが,こういう話の構成やプロット展開ができて,初めて,自分の世界を創り出すことができる。

つまり,話全体を俯瞰し,それを思うまま,面白く仕立てることが出来なくてはならない。

たぶん,前に,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11368224.html

で触れた,

間,

とか,

テンポ,

とか,

リズム

というのは,どれだけそれがあるレベルに達していても,話全体の世界ができていないと,所詮会話ややり取りの部分だけが図として浮かび上がり,聞いた後に何も残らない。

すぐれた世界を持つ小説を読んだ後(これは映画でも,芝居でも同じだが),心の中に,自分が一体になって生きていたような感慨(悲しみや喜び,憤り等々の感情や気分)を引きずる。浸りきれば切るほど,余韻は長く続く。

世界に向き合う(読む,聞く,観る)というのはそういうことだ。

だから,前回,会話の図化と言ったが,それだけでは,ただ会話自体を浮き上がらせるだけで,話全体のなかでの,その会話,やりとりの位置づけというか意味づけがなければ,ただの会話の連続になりかねない。

演出家あるいは監督で,ドラマの出来不出来が決まるように,ここの役者の演技力だけでは,噺の出来不出来を左右できない。

左右できるのは,噺家が,その世全体界をどういう世界にしていくかという,大袈裟に言うと,

世界観,

というか,

世界像,

というものがいる。あるいは,それが噺家の人間観や価値観なのかもしれないが,

それが,話の雰囲気を醸し出し,噺家の佇まいになり,味わいになれば,もはや,まくらと本筋の区別は意味がない(かつて聞いた小三治の,正確に覚えていないが,アメリカ留学記だったか何だかは,全編まくらのような印象だ)。

こうみると,落語家の噺は,そのつど,ちょっと味付けが違う程度の差ではなく,全く別の噺かと思うような,独自の雰囲気に変わることがある。

そういう属人性こそが,噺であり,そこに噺家の手柄がある。

噺は,自己表現だとつくづく思う。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





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2014年02月21日

台詞


先日,柳家さん生独演会「落語版・笑の大学」をうかがってきた。

正直に言うが,僕は,『笑の大学』の三谷幸喜氏が,嫌いである。彼の無器用なところが,誠に僭越ながら,自分を見るようで好きになれない。

古くて申し訳ないが,別役実の『にしむくさむらい』の発明家のもつブラックユーモア,つかこうへいの『熱海殺人事件』の冤罪取り調べのパロディ,同じく『いつも心に太陽を』のホモセクシュアルマインドのあっけらかんとしたユーモアに比べると,生意気を承知で言わせてもらうと,はっきり言って,いまテレビでやっているどたばたの笑いに似て,薄いギャグ(あけすけに言うと,軽薄そのもの),本人がまじになるほど,引いてしまうオヤジギャグ程度に思えてならなかった。特に,僕の中では,風間杜夫,平田満のコンビの『いつも心に太陽を』は,全編,劇場全体が笑いで揺れ続けたという記憶で,僕の中では,芝居の笑いというものの原点のような作品だ。ついそれと比較してしまう。

芝居の,『笑の大学』は,中で連発される「猿股失礼!」クラスのギャグのオンパレードに,誠に失礼ながら,最後にはあくびが出た。

さん生師匠には申し訳ないが,その「笑の大学」が,どんなものになるかという,覗き見趣味で伺ったというのが正直なところだ。。

ところが,である。僕個人としては,落語版によって,

「笑の大学」

はところを得た,感じなのだ。

考えてみれば,その役割を演じている,あの検閲官と脚本家のやり取りは,大家さんとはっさんのやり取りそのものなのだ。

舞台という三次元空間の中では,会話が軽すぎたのかもしれない。

終始,検閲官向坂と脚本家椿二人が対峙して,丁々発止と,脚本のダメ出しをし,それに抵抗しつつ書き換えていく,ということの繰り返しで構成され,最後は,両者の位置ががひっくり返る,というか,検閲官が脚本家のようになっていくというのが落ちなのだが,本来の緊張感が,会話の中身とギャップがあり(そこが笑いの根拠なのだが),あくまで僕の印象だが,役者が示す対峙の姿勢(というか芝居)と台詞の軽さ(軽妙さとはちょっと違う)とのギャップがあり,どういったらいいか,通りすがりに井戸端会議を聴いているくらいの感じなのである。

やり取りの軽さは,検閲箇所をギャグで返すということで,緊張感を軽くかわしていく,そういう会話になっている。そういう意図なのだと思うが,二人の存在の対立に見合う,台詞になっていない気がしてならない。

そのせいかどうか,両者の背負っている背景が,よく見えてこない。ただ,座付の作家と検閲の担当官という,ここでの両者の会話だけが,言葉の空中戦をしている感じなのである。だから,一人の向坂と,一人の椿ではなく,座付き作家と検閲官という,しつらえられた役割が,会話を交わしているようにしか見えない。だから,言葉の空中戦という言い方をした。

そこでは,椿という人間の重みも,向坂という検閲官の人間の重みも,感じられないまま,空中の言葉だけが,丁々発止とぶつかり合うだけなのだ。そこで,喋っている,向坂というの人間も,椿という人間も,他の誰でもいい,仮にその役割に名前がついているだけという感じなのだ。だから,役割が会話している,というのである。

もうひとつ別の視点で感じたのは,ここでは出来事は,

二人の存在の対峙と

二人の会話と,

二人の会話に出てくる出来事,

しかない。とすれば,台詞ひとつひとつが,なんというか,この芝居では,もうひとつの重要なポジションというか,役割,あえて言えば,登場人物でなくてはならない。しかし,空中戦の会話は,どちらかというと,ギャグの連発のように軽い。というかあえて軽くされているのかもしれない。

その意味で,芝居という三次元空間では,交わされる台詞が,漫才師のボケと突っ込みのように軽いジャブの応酬になっていた。

しかし,というか,だからというか,これが,落語に変わると,そのジャブの応酬が生きてくる。

台詞が対抗すべき役者が存在しないことによって,台詞そのものが,蘇ってくる。

そう,落語という舞台装置に,ぴったりだと,逆に感心した。構成の難は,難として,残るにしても,逆に,「猿股失礼」的なギャグが,中空にかろやかに浮きあがってくるのがおかしい。

噺家が顔の向きだけで,演じ分ける,それにちょうど釣り合う台詞の重さだった,という気がするのだ。落語版とされた慧眼に,逆に感心する

落語というのは,噺家一人が語り出す世界に,聴き手が勝手に,心の中に世界をイメージする。舞台ではそこに存在する役者に対抗できなかった台詞が,対抗者をなくすことで,台詞世界の独立性を得て,噺家の語りに載せて,ふんわりと自在に飛び交った。

くすぐりやオヤジギャグが,不思議に,伝わってくるのは,言葉遊びというか,言葉のずらしを基本にしたジョークだからだ。だから,大笑いというより,くすり,と笑う。そういう会話になっていることが,活きている,と感じた。

あえて言うと,あれがもっと狭い寄席的な空間だと,もっと笑いが凝縮された気がする。広すぎて,少し笑いが散発に,というか受信感度にタイムラグがあるために,笑いの発信にもあっちこっちと場所を飛ぶというタイムラグがある。お互いの距離が近いと,もっと反応が凝集するという気がした。


今日のアイデア;
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2014年04月23日

さげ


予定が詰まっているのに,無理やり,桂扇生独演会,

https://www.facebook.com/events/223799271148682/?ref_newsfeed_story_type=regular

に参加し,蒲田から四谷三丁目まで駆け足で駈けつけた。

不思議で,会場へはいった瞬間,すでに第二席が始まっていて,

笑い,

がどっと押し寄せたが,そこからはねつけられた感じがして,話が最初読めないでいたが,

若旦那,



幇間,つまり太鼓持ち,

とのやりとりで,鍼を打たせろ,嫌だというやり取りを聞いていて,ようやく,ああ,と思い当たることがあって,話の舞台に入れた。これが初めて聴く噺だったら,もっと入るのが遅れ,じれったかったに違いない。

落語の本題に入る前に,まくらというものがある。

枕とは,枕は,観客を温める,これからする話の前フリをしておくなどの役割を果たす,

と言われるが, 噺家が,まくらから語って,徐々に本編にフェイドインしていくには,それなりの理由があるのだと思うが,僕は,現実の世界,しかもこの世知辛い世の中の時間と空間の感覚の観客に,

物語世界の表紙をめくる,

というか,

くぐり戸を入る,

とというか,

別世界へと誘うには,とくにそれが古典のように,百年も二百年も前の時空へと誘うには,それなりのウォームアップがいる。聴き手の感覚を聴覚に集中させ,まあ,聴き入らせる,というようなことがいるのだろうと,想像している。ちょうど,レム睡眠時,身体と脳のリンクが切られるように,見聞きする感覚が,落語家の声と振る舞いに集中させて,他の感覚を削ぎ落していく作業のように思う。

もっとも,10代目柳家小三治師匠は,(一門の方から聞いたところでは)まくらがやたらと長いそうで,「マクラの小三治」との異名も持つ,と聞く。そういえば,アメリカ体験を語った噺は,まくらそのものの延長版の気がする。

だから,そのまくらを経ないで,いきなりその世界に入ってしまうと,木の根から不思議の国にいきなり落ち込んだアリスのように,ちょっと,こっちの感覚がついていけない。

たまたま,その本編の内容を知っていることで(といっても,そうだろうなという程度の感覚でも),その空気感のようなものがあり,まあ世界へと,もぐりこみやすかっただけだ。

最後の一席をまっとうに聴けたが,初めて聞いたせいで,最後まで演目が分からず,帰ってから調べたら,

三井の大黒

という,三井家に伝わる大黒のいわれを,左甚五郎の逸話として語るものだが,

一種の貴種流離譚,

というか市井に隠れた名人,というような話だ。ところが,坐った席が,悪く,最後を聞き逃した。もともと三井家には,阿波の運慶の恵比寿があり,それの対として,それに匹敵するような大黒像を頼まれたのだが,恵比寿には,運慶の,

商いはぬれてであわのひとつかみ

という句があり,大黒像を三井家の支配人に引き渡す際,それに下の句を,甚五郎がつけた,

○○○…

が,聞えなかったのだ。

もともと,落語は,

最後に「落ち(サゲ)」がつくことをひとつの特徴としてきた経緯があり,「落としばなし」略して「はなし」ともいう,

というほど,枕,本編,オチ,で成り立つ。その最後の詰めの部分を聞き逃したのだから,気になって仕方がない。周りに聞いたが,よく聴き取れていないらしい。で,懇親会で,扇生師匠に直接伺った。

オチはない,

と言われたが,下の句は,

まもらせたたまえふたつかみたち(守らせたまえ二つかみたち),

という,一対で,二摑み(二つ神)を懸けたところで,終えたのだが,ここを聞き逃したのだから,僕は,それを聞くまで,まだあの大工たちと一緒に,江戸の町(の物語)から抜け出せないでいた。

画竜点睛を欠く,

というのはこういう感じかもしれない。

落語は,あくまで聴力を傾けて,それを糸口に,物語世界に入っていく,そのただなかに入っていくと,噺家も噺家の声も,そのリアルの存在を消して,ただ声が物語世界を描写するのを,イメージとして頭に描く。

で,最後,その下げが,

我に返る,

というか,このリアル世界への切符というか,くぐり戸なのだから,それが手に入らないうちは,そのあたりにとどまって,うろうろしていることになる。

確かに,物語は完結したという,

完,

が出ないうちは,フェードアウトできない。それが,

オチ,



下げ,

なのだと思う。



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2014年07月11日

編集


落語については,何度か書いたことがある。たとえば,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395330135.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163570.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163543.html

等々。

少し前,落語をきく機会があった。

演目は,「目薬」「祇園祭」「夢見の八兵衛」。

どこかで,同じ噺を聴いていても,枕と入り方でまったく様相が変わる。

落語は時間だとつくづく思った。というか,語りは,あるいは言葉は,時間なのだ。流れて,後へは戻れない。そこには,

シーケンシャルだという意味
と,
一瞬一瞬の中に生きている,

という意味と二つがある。

実は,その二つは,噺の帰趨を握るのではないか,と感じた。

なぜなら,噺は,噺家の演出というか,編集次第で,まったく違ってくるからだ。それで同じ噺でも流れ方が変わり,印象が変わる。さらに,ズームアップする部分次第で,その一瞬の効果が,まったく変わるのではないか。

噺家は演出家,という話は,前にも書いたが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163336.html

それは,

同じ噺のどこをどうつなぐか,

という場面構成のつなぎ方,つまりは時間の流れのつなぎ方と,

同じ噺のどこをフォーカスするか,

というカメラワーク,つまりどうパンするか,どうズームアップするかという話の,あるいは場面の,あるいは人の,あるいはやり取りの,どこをピックアップして,強調するか,

に,演出家としての噺家の腕の見せ所なのではあるまいか。もちろん出演者は,ご自身である。

それは,図と地の問題でもある。どこかに焦点を当てれば,どこかが,霞む。
 
その抽出の仕方,つなぎ方は,例えが古いが,

映画フィルムの編集,

とほぼ同じなのだと思う。ということは,そのつなぎ方で,同じ噺も,大袈裟に言うと,人情話ではなく,別のものに変わるということだってある。怪談が単なる色恋話に変わったっておかしくないのだ,と思う。

要は,演出とは,

噺の解釈

である。そこに,噺家の腕がある。どう料理するかで,噺の焦点が動く。場合によっては,噺家は自分の得意の分野に持ち込もうとするだろう。

それも含めて演出であり,

編集である。

編集というのは,何度も触れて恐縮だが,映画のモンタージュ手法を例にとってみる(フィルムの例だが)。

「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。

たとえば,

男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる……

みたいな感じである。

実は大事なのは,編集によって,ただ流れというか,噺のプロット(時間軸)が変わるだけではない。

つなぎ替えには,

短縮カット,

焦点の変更,

も含む。それは,地と図を入れ替えるということも含む。それは,極端に言えば,

主客の変更

も含むのではないか,と憶測をする。それが噺家が噺を演出する意味だと思うのだが,どんなものだろう。一度噺家の方に確かめてみたい。

参考文献;
瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)



今日のアイデア;
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2014年09月17日

小三治


広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』を読む。

小三治

と呼び捨てにしていいのかどうかわからないが,その方が師匠というよりは,親近感がある。

著者は柳家小三治の追っかけである。

「1970年代から落語を聴き始めて,僕は随分と小三治の高座を老い掛けてきた。古今亭志ん朝や立川談志も追いかけたが,単純に『ナマで聴いた回数』だけで言えば小三治が一番おおいだろう。」

本書は,小三治のインタヴューを採録した第一章と,小三治の主要演目九十席を紹介する第二章によって構成されている。

この本の出版自体,難航したらしい。

「一冊まるごと小三治読本」的な単行本

というアイデア自体に,小三治が難色を示した,というのだ。小三治はこう言ったそうだ。

「あなたの文章は好きですよ。(中略)ただねぇ,……私は談志さんじゃないから,自分のことを本にされたりするのはどうもねぇ……うーん……」

と考え込み,あらぬ話をし続けて,二時間後,

「まあ……あなたがこう思う,こういうところが好き,みたいなことを書くのはいいでしょう。誉められても喜ばないけどね。」

と,やっと出版にOKが出た,構想からやっと三年半を経て,上梓の運びになった,という。

九十席の方はともかく,二つのインタビューは出色である。

小三治が,

市馬に,

「お前の噺は押し付けがましい」「噺は,高座の上で起こっていることを,人が覗きに来て,クスッとわらうようなものじゃなきゃいけない」

(柳家)花緑に,

「ウケリゃいいとおもっているのか」

(桃月庵)白酒に,

「お前,この噺,いつもやってるだろ」

と若手に一言言ったことが,結構効いている,と言われた反応がおもしろい。

「ぶふっ(吹き出す)。そうかなあ。だとしても,それは会長(落語協会)になったから若い人たちがそう思うんであって,その前だって,言う時は言いましたよ。だって,他に私,言うことないから。今あなたが挙げた,私が彼らに言ったという内容は,私の,自分自身への戒めであったり,人を見る時の目であったりするわけです。高座の上から演説みたいに発表する形の芸っていうものは,私自身が面白くない。夢中になれない。笑わしてやろう,みたいな,何かを高座の上から放り投げてくる,台詞か何かをぶつけてくる…そういうものには全然,感じない。それは落語だけじゃない,他の芸もそうですね。コメディアンにしろ,漫才にしろ何にしろ,舞台の上で何かを埋めつくしてくれて,聴いているお客さんが自分の存在すら忘れてその舞台の中に溶け込んでいけるってことに,妙味を感じるタチなんだな。(中略)さっき名前が出たような噺家は,落語の何たるかをやろうとしている人たちなんだな,ってことは感じるわけですね。」

それは,ご自分が師匠の五代目柳家小さんに,

『長短』を聴いて,「お前の噺は面白くねぇな」と言われたり,
『あくび指南』について,「あの噺はあんなに笑わせる噺じゃねぇんだ」「ダメだよあれじゃあ。それじゃ(古今亭)志ん朝さんとおんなじだ」と言われたり,
『道灌』について,「お前の隠居さんと八っあんは,仲が良くねぇ」と言われたり,
「その了見になれ」と言われたり,

等々したことを,後輩に伝えている,と見えなくもない。

その会話の端々に,小三治の落語観というか,落語の世界観のようなものが見える。それだけを,拾ってみると,こんな感じである。

「私が辿り着いたのは,『どうだ,こんなすごい噺があるんだぞ』ということじゃなくて,たとえどんなすごい噺でも,そこから,自分の生活の中の,実体験の何かを思わせる,それによる共感っていうものが大事なんだ,」

(『長屋の花見』について)とにかくやれば,まあこう言っちゃ申し訳ないけど,仲間の誰よりもウケるな,ってことは知ってるんです。でもね。誰よりもウケるからやる,っていうのはね,自分の満足ではない。ウケなくてもいいから,自分が,,うん,これはいいな,と。自分で心を見たすことが出来れば満足なんですけど。ウケるからやってるっていうのは,なにかね,自分で自分をバカにしているように思える。」

(二ツ目の噺を聴いて)「世間で面白いって言われている人でも,あんまり面白くないっていう人が多かった。それより,面白くないけど,この人の噺って聴いてると,その中に引き込まれるな,っていうのがあるんですね。うんうん,で,その次どうなるの,それからどうなるの,って思えるんですよ。どうもね,最近の若い人は,ウケないといけないと思っているらしい……まあ私もそうだったかな。でも,ウケなくっていいんです。そこが志ん朝さんとちがう。」

(小さん師匠の「ご隠居さん八っつあんが仲が良くない」について)「『その了見になれ』。了見になれってのは,その人になり切れってことですけど,その人になり切ると,ウチの師匠が言うには,その背景が見えてくるっていうんですよ。だから背景が見えてこないうちは,なり切っていないんだな。」

「俺がやりたいのは,本を素読みにしても面白くないのを,噺家がやると,こんなに面白くなるのかい,って噺にしたいわけ。」

(小三治の『千早振る』を聴いた入船亭扇橋が「落語って哀しいね」と言ったことについて)「それはね,ホントにね,落語って面白くて楽しいんだけどね,哀しいんですよ,どっか。それはね,あいつから改めて突きつけられた。そう言われると,落語はみんな哀しい。『長屋の花見』にしたって哀しい噺だよ。」

「通りすがりの人がたまたまそこに咲いている花に目がとまって,ああ,いいな,と思うような感じで自分の落語を聴いてもらうのが一番いい。それをめがけてわざわざ見に来る,というのは好きじゃない。」

(扇橋について)「高座で,私の理想は扇橋です,つて言ったこともあります。でも若い時はあいつが理想じゃなかった。…歳取ってからの扇橋のどこが理想かっていうと,自分の世界を持っているっていうことですかね。ここでこうやってギャフンと言わせてやろうとか,そんなのは何もない。ヒョイヒョイヒョイ,ヒョイヒョイヒョイって感じ。四代目小さんっていう人の残した音源を聴いてみると,あんな感じだった。(中略)ずっと聴いていると,スーッと世界が広がっていくんですよね。」

「この頃,笑わせ過ぎだよ,みんな。何とか笑わせようと思ってクスグリ入れたりね。あんなことしてちゃ,ダメなんじゃない?自然に面白くって思わずわらってしまう,っていうのが落語なのに,どうしてあんなにクスグリ入れるんですか?それまでとってもいい出来だった人が,そのクスグリ入れた瞬間に,今までのこと全部ご破算になっちゃうんですよ。もったいないねぇ~!」

(上野鈴本の『山崎屋』について,扇橋が「またやってよ」と言ったことについて)「あの『山崎屋』はよかった。……なんて言ったってね,自分で良かったと思っても,そんなものは評価にはならないかもしれないけど,でも自分のためにやってる芸ですから,自分がいいと思えばいい。でも,なかなか自分でいいと思えないですよねぇ。あれは良かった。ただ,それを扇橋が聴いてたってこと,それをあいつが忘れないってことにビックリした。あいつ,芸がわかるじゃねぇか,と思っちゃったりなんかしてね(笑い)」

最後に,ライバルを聞かれて,そんなものはいない,と答えて,

「誰がライバルかっていうと,自分だった。今日は昨日の自分を追い越せたか,っていうのを,自分に課してきた。これはね,とてもつらいことになってきますね,だんだん。でもそれはもう,自分自身のトラウマみたいになっているから,癖として,変えることは出来ない。だから,これでいい,ってことは,多分ないでしょうねぇ。」

と答え,こう言うのが印象深い。

(いままでいちばんよかったということではないが)「自分がそこからスーッと抜け出て,何か違う世界出やっていたな俺は,みたいなものが,滅多にありませんけど,何回かあった。」

それは,著者の言う,2008年三月の三鷹での独演会の『千早ふる』なのにちがいない。自身も,「このまんま死んでもいいと思うくらい」の出来だったという。その場が「一つになっていた」と著者は振り返る。

随所に謦咳が聞こえてくるような錯覚を覚える。これだけで,もう十分小三治ワールドである。

参考文献;
広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』(講談社)




今日のアイデア;
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ラベル:小三治
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2014年10月15日

テンポ


ほぼ一ヵ月ほど前になるが,久しぶりに柳家一琴の会にお邪魔して,噺を二席うかがった。

いつも思うのだが,落語の語り口,あれは江戸弁なんだろうが,あのテンポは小気味いい。たぶん,ふだんの江戸っ子のしゃべり方を,もっと洗練させたたというか,研いだ形なんだろうと思う。

あのリズム,テンポが江戸っ子の気風をあらわしている。

テンポとは,時間である。拍をどれくらいの速さで打つか,である。拍を速く打てば1拍の長さは短くなり,拍をゆっくり打てば1拍の長さは長くなるが,拍をどんな速さで打っても,つまりどのテンポでも,1拍は1拍であり,そのことに変わりはない。その拍と拍の間が,間となる。

言葉と言葉の間ではないのに,音と音の間が,ことばのテンポを左右する。間とは,何もない沈黙のはずである。しかし,その間が,喋りのテンポ,リズム,口調を支配する。

あのしゃべり方は,独特の間だと思う。間については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395727101.html



http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163296.html

で触れたことがあるが,

言葉と言葉の間,

音と音

という意味だけではなく,たとえば,五代目志ん生の「火焔太鼓」を分析して,野村雅昭氏は,

・聴衆の反応を確かめる間
・聴衆の笑いの鎮まるのを待つ間
・場面転換を示す間
・発話者の非言語行動を示す間
・発話者のオーバーラップを示す間
・発話者の躊躇いを示す間
・演者が強調の効果を意図する間

というのを示していた。どうも,これは,確かに間には違いないが,あくまで,話の中の転換や,やり取りの呼吸を示したりするもので,僕のイメージとは,ちょっと違う。そんなことを言うと,

高座へ出來るときの,出囃子と,ご自身がすっと出てくるときの間,
出て一瞬会場を見回す間,
座布団の上に坐る間,
それから,お辞儀をする間,
向き直って,口を開くまでの間,
枕から,噺に入る間,
落ちを付けてから,頭を下げるまでの間

等々いろいろな間がある。それは,噺家の立ち居振る舞いに違いないが,そこには,本名で生きておられるテンポとは違う,高座に上った噺家何某の独特の仕掛けに見える。これも確かに間なのだが,僕は,ことばのリズム,独自に話していく,テンポをここでは考えていた。作家の文体に対して,

「話体」

という表現を,野村雅昭氏は使っていた。それは,柳家小三治が,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/405538611.html

で書いたように,対談で,

「俺がやりたいのは,本を素読みにしても面白くないのを,噺家がやると,こんなに面白くなるのかい,って噺にしたいわけ。」

ということにも通じる気がする。

前にも書いた気がするが,徳川夢声は,間について,

「マ」とは虚実のバランスなり,
「話術」とは「マ術」なり,
「マ」とは動きて破れざるバランスなり,

と言っていたという。言葉を追っていると,気づかないが,言葉と言葉の間の空白である。それがリズムを作る。ある面,呼吸の仕方とは別である。

「人まねではなく自分の噺をしなくちゃいけないということは,間の問題でもいえることです。しかしその人の体に適った本当の口調というものは,芸が出来てそののちの話で,そうなって初めて本当の自分の間だと言えるわけでしょう」

と六代目円生が語っていたというのが,それである。たとえば,

「そうともいいます」

と言うのでも,

「そう○○と○も○いいます」

というのと,

「○そうとも○○いいます」

では,(もちろん,強弱や抑揚もあるが)違う印象になる。しかし,ひとには人の呼吸に合った自然のテンポがある。あるいは,思考のテンポと言ってもいい。

僕は早口らしいのだが,そのスピードは,多分頭の中で浮かんだことを言葉にしようとするスピードと合致している。しかしその場合,自分の考えるテンポに合わせて,無意識で話している。

しかし,ここで芸としての間を言うときは,少し違うのではないか。話を,構成として,語りだしていくという意味では,作品を書いたり,描いたりするのと似て,語りをコントロールしていく。だから,筆遣いやタッチと似ていなくもない。つまりコントロールできる。

少し大げさな言い方をすると,噺についての世界観があって,それを自分の口からどう語りだすか,の工夫である。間もまた,その手立ての一つである。間は,

芸が出来てそのののちの話

と言うのは,そういうことなのだろう。しかし,その人の目指す境地が,

「通りすがりの人がたまたまそこに咲いている花に目がとまって,ああ,いいな,と思うような感じで自分の落語を聴いてもらうのが一番いい。」

と言う小三治のような世界なら,間合いは,またそうなっていく。そのとき,その人の「体に適った」というのは,

その人の息遣いにふさわしいものに落ち着いていく,

ということなのか。それとも,

息遣いも変わっていくのか。

この機微は,結局工夫した方にしかわからないことなのだろう。

分からないで書いているのも,ちと恥ずかしい。

参考文献;
野村雅昭『落語の話術』(平凡社)
広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』(講談社)





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2014年11月01日

二人会


一年ぶりくらいに,笑福亭鶴二さん,柳家さん生さんの「柳家さん生・笑福亭 鶴二二人会」

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に伺ってきた。

「演出」

については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163512.html

等々,前にも何度も触れた。「前座」をつとめた,さん生師匠のお弟子さん,わさび師匠のマクラの中で,若い頃頭が真っ白になって,話をとばしてしまったところ,それを聴いていた評論家が,

「今日の演出はいいね」

と声を掛けられたというエピソードを語っていた。そう,

どう構成するか,

どこに焦点を当てるか,

誰にスポットライトを当てるか,

で,話の印象はガラリと変わる。面白いのは,

「演出」

という言い方を,されるということを初めて知ったということだ。以前,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163336.html

でも書いたが,

「噺家は演出家である」

ということを言われたのが,当たり前のように,腑に落ちた。

たとえば,今回は,演目は,

笑福亭鶴二師匠が,「祝のし」「井戸の茶碗」
柳家さん生師匠が,「うどん屋」「鹿政談」

であった。

「井戸の茶碗」は,何度か聞いたことがあるが,上方版で聴かせていただくと,話のあらすじはほぼ同じなのに,妙に,印象が変わる。これは,噺家が上方落語の方だというだけではない。小三治師匠ではないが,

「その中に引き込まれるな,っていうのがあるんですね。うんうん,で,その次どうなるの,それからどうなるの,それでどうなるの」

とのめり込ませるには,もともとの筋の流れだけでは,ついて行かない。話のテンポもそうだが,間もある。

笑福亭鶴二師匠が,枕で言っておられたが,

師匠の笑福亭松鶴が,話の間に,入れ歯のカタカタという音が入る,

それも間になる,あるいは,

咳払いも,

台詞を噛むのも,

間になる,ということから言うと,その場で話しているというか,演じている,噺家のもつエネルギーが,聴き手を引きずり込むといってもいいのかもしれない。

その意味では,淡々とした話ではなく,

暑苦しい

くらい(失礼!)のエネルギッシュな噺になっている。上方の芸人の気風なのかもしれない。

ある意味では,

演出

には,メタ・ポジションにいる,落語家の演出家目線だけではなく,それを演じる噺家自身の,

演者

としての,

肉体

というか,

生身

の風貌,振る舞い,人品骨柄等々が,大きく左右する。人情話なのに,息せき切って走ったような感覚が残るのも,新しい,井戸の茶碗であった。

そう言えば,懇親会で,わさび師匠が,

落語は何をやってもいいんです,

という言い方をされ,それと対比して,能は,決まりきった枠を出られない,と能の人が言われていた,ということを話された。それは,言外に,

だから時代から取り残される,

という意味が込められている,というように,僕には受け取れた。もちろん,僕の受け止めに過ぎないが。

何をやってもいいとは,どう演出してもいい,ということでもあるし,どんなネタを挿入しても,異和感がないということでもある。

だから,この時代を生きている噺家自身の体臭が出てくる。

「たとえどんなすごい噺でも,そこから,自分の生活の中の,実体験の何かを思わせる,それによる共感っていうものが大事なんだ」

という小三治の言葉は,落語が,いまもこの世の中で,生きている秘訣に違いない。

参考文献;
広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』(講談社)






今日のアイデア;
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2014年12月11日

寄席


先日,時間が明いたので,珍しく寄席に出かけた。上野鈴本演芸場で,終わりまで,ずっと聴かせていただいた。途中から入ることが多いので,前座から,通して,昼の部を聴き通すというのは,実は初体験。はじめは十人もいなかった,それが少しは増えたが,さすが,平日の昼間,そうそう暇人はいないようである。倍になったかならないか,演者の誰かか,

前に詰めると,二列で収まる,

と笑わせたが,まあ,そんな感じであった。とりをつとめるのが,柳家さん生師匠ということもあって,元町での用事を済ませて,時間がまだあると思って,上野の森をゆっくり抜けてくると,ちょうど始まる,とチケット売り場の人に誘われた。

とりのさん生師匠の「パチパチ」まで,通しで聴いてみると,何に喩えていいか,

幕の内弁当

というか,

松花堂弁当

といった感じである。両者は,

幕の内弁当が本膳料理の流れを汲む江戸時代に遡るものであるのに対し,松花堂弁当は懐石料理(茶料理)の流れを汲み昭和になってから誕生した様式,

という。両者,形式は違うが,松花堂弁当は,

中に十字形の仕切りがあり,縁の高いかぶせ蓋のある弁当箱を用いた弁当。仕切りの有無はあるが,焼き物,煮物,飯などを見栄え良く配置する。盛り分様式としては,ごはんと数種類のおかずを組み合わせたもの,

である。幕の内弁当は,

弁当は,芝居の幕間・幕の内に観客が食べるものなので,いつしか「幕の内弁当」と呼ばれたという説。
幕の内側で役者が食べるからとする説
幕間の時間を利用して役者が食べたことに由来する説
相撲取りの小結が幕の内力士であることから「小さなおむすび」の入っている弁当を幕の内弁当と呼ぶという説。
江戸芳町の「万久(まく)」が売り出していたことに由来する説。
相撲の観客に対しても相撲茶屋が同様の弁当を供し,相撲の世界にも幕の内という言葉が持ち込まれたという説。

等々,芝居や相撲に由来するから,喩えるとすると,松花堂よりは幕の内かもしれないが,まさに,寄席を通しで聴くと,そんな印象なのである。この流れについては,つまりプログラム編成とでもいうべきものなのか,かなりいろいろ考えがあって決められているのではないか,と思う。あるホームページには,

「寄席で行なわれるのは落語だけではありません。講談,漫才,漫談,音曲,手品,曲芸など,バラエティーに富んだ番組(プログラム)になっているのです。前座の落語から始まり,漫才や手品などの色物と呼ばれる演芸と,二ツ目の落語がテンポよく進んでいき,最後に真打ちが登場します。」

とある。寄席の歴史を見ると,ウィキペディアには,

講談が一番古い歴史を持つ。明治・大正期までは,落語以外の講談や浪曲や色物など各分野それぞれの寄席が存在し,寄席の数が激減していく中で,東京では落語を主にかける寄席のみが比較的多く残った。落語(講談・浪曲)以外の演目は色物と呼んで区別する。最後の演目は基本的に落語であり,その演者は主任(トリ)と呼ばれ,その名前は寄席の看板でも一番太く大きな文字で飾られる。
歴史が長く,今もおなじみの色物演目には,音曲・物まね(声色遣い)・太神楽・曲独楽・手品・紙切り・(大正時代からの)漫談・腹話術などがあり,多くは大道芸として野天やヒラキと呼ばれるよしず張りの粗末な小屋から始まり,寄席芸に転化していった。

とあるように,どうも,最終的に残った落語の小屋に,大道芸的なものが,収容されていったという印象である。曲芸や奇術,紙切り,ものまねは,いかにも大道芸的に見えなくもない。

この日も,落語に始まり,

奇術,落語,落語,漫才,落語,落語,ギター漫談,落語,漫才,落語,落語,曲芸,落語,

と,ちょうど落語というパンに,色物を挟んだサンドイッチという感じだが,どれだけ色物が楽しくても,落語次第で,全体の印象が変ってしまう。この日は,珍しく,(順不同で,記憶をたどって)

初天神,道具屋,甲府い,黄金の大福,目薬,野ざらし,時そば,

と古典が続き,最後,さん生師匠の新作落語『パチパチ』(金津泰輔氏のオリジナル作品)という,いま風の人情話で締めくくられた。これは,二度目だが,一度目より,展開の小説風な場面展開と視点切り替え,現と幻の交錯のようなラストと,全体像がよりクリアに見えた気がした。

こんな記述がある。

「寄席が落語と切り離せないのは,落語家にとって寄席が修行の場であり芸を磨く唯一無二の舞台とされること,観客も贔屓の演者の成長と演者ごとの演出の違いを楽しむという点にあり,「完成品」を見せるホール落語と違い寄席落語には『未完成』なりの面白さ,真剣さがあるとされる」(新宿末廣亭初代席亭の北村銀太郎の発言より)。

そう言われてみれば,独演会で聴いた噺もあるが,寄席の流れの中で聴くと,その巧拙もわかる。噺家それぞれの個性もわかる。いやいやそうに出てきて,観客の少なさを嘆き,頭割りして,幾らになるか,と実に現実味のある繰り言をまくらで言ってから,いきなり,噺の世界に入ったが,その展開のうまさと変わり身の早さに驚いたり,相撲取りのような恰幅(本当に元相撲取りらしい)で,人情話を始められて,視覚と聴覚のギャップに悩まされているうちに,さすが,知らぬ間に話のなかに引き込まれたり,と噺家の個性が,競い合うのは,寄席以外にはないのかもしれない。

それにしても,最近女性(女流というべきか)噺家の多いこと。今回の前座もそうだったし,途中で,めくりや座布団を整えるのは,女性の噺家(のたまご)であった。思うのだが,ガテン系の仕事,土木・建築・ドライバー・メカニック・調理師等々に女性が増えた。ダンプや建築機器,バス等々のドライバーもこの数年目立つようになった。日本エレキテル連合もそうだが,漫才は,ずいぶん昔からそうだし,芸人には多い。性差は関係ない世界だからだろうか。

ただ,いつだったか,女性噺家が,郭噺をしていたが,ちょっと聴いているこちらのほうが照れる。落語は,男の世界を語ってきたからだろう。

今回の前座で,「初天神」のような父子関係のようなものには,ピタリ来る。こっちの先入観のせいかもしれないが,女性ならではのネタ,とりわけ新作が必要なのかもしれない。「パチパチ」のようなのは,似合うネタかも知れない(さん生師匠,ごめんなさい)。





今日のアイデア;
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2014年12月23日

三悪


先月のことになるが,柳家一琴の会

https://www.facebook.com/events/369015836592906/?pnref=lhc.recent

にお邪魔してきた。ねたは,

一琴さん 『突き落とし』『厩火事』
ゲストの笑福亭銀瓶さん『ちはやふる』

「突き落とし」は,

郭に上がって,散々飲み食いし,「棟梁(を騙っている)」の家まで来てくれれば払うといって,若い衆についてこさせ,途中,お鉄漿溝で,「昨夜もてたかどうかは小便の出でわかるから,ひとつみんなで立ち小便をしよう。若い衆,お前さんもつき合いねえ」と,渋るのをむりやりどぶの前に引っ張っていき,背中をポーンと突いて,落っことして,その間に全員,風を食らって一目散,

という噺。。。。

飯島友治氏が,落語の中の三悪として,「突き落とし」「居残り佐平次」「付き馬」の三席を挙げているそうであるが,逆に言うと,落語には,こういうちょっと悪辣な噺は,少ない,ということだろう。

だから,なかなか落ちが難しいらしく,ひとり遅れてきた奴が,

「若い衆がいい煙草入れを差していたから,惜しいと思って抜いてきた。」
「泥棒だな,おい」

とサゲるのもあるし,

東京の「突き落とし」からの移植版の上方版「棟梁の遊び」では,
「大工は棟梁,仕上げをご覧じ」

という,ダジャレオチになっているのもある。しかし,後味が悪いのか,

「うまくいったなあ」
「今夜は品川にしようか」

とつづけて,そんなうまい話は続かないという口吻で,ドジを踏んだ,と締めるのもある。今回は,このパターンであった。

飯島氏の「三悪」として挙げていることについて,

「落語に道徳律を持ち込むほど,愚かしいことはありません。」
とか
「詐欺行為でよろしく無いと言うものだが,噺を聞いて真似をする様な者もいるとは思えず,最近のサスペンスものをはじめとする映画やドラマに比べれば今なら何の問題にもならぬであろう。」
とか
「三悪などと大仰な事を言わないまでも,良く考えれば怪しからん噺ではある。無銭飲食,踏み倒し,それにお歯黒溝へ突き落とすと言うのだから。しかし,冷静に考えれば,目撃者もあったろうし,さほど広くない江戸市中,すぐ御用となるに相違ない。かように落語の矛盾について理屈を言うのは野暮な事であるが,これをもって『三悪』などと決めつけるのはもっと野暮と言うもの。」
とか,

言訳なのか,反撥なのか,しきりに言われるが,不思議に,

「『居残り佐平次』と『付き馬』は多くの人が演じ,音も沢山残っているが,この『突き落とし』に限っては残っている音がほとんど無いと言う状態であった。圓生演についても,『圓生全集』に載っておらず,従って速記も無く,『圓生百席』にも入れられる事が無かった。現在でも『突き落とし』はこの圓生演と,柳朝演の二本しか所持していないのである。」

といわれ,

「志ん生は若き日,初代小せんに廓噺を直伝でみっちり伝授されていて,「突き落とし」も当然教わっているはずですが,『ひどい噺』と嫌った理由は,今となっては分りません。吉原への愛着から,弱い立場の廓の若い衆をひどい目に合わせるストーリーに義憤を感じたか,または,小見世の揚代を踏み倒すようなケチな根性が料簡ならなかったか。」

というほどで,やっている側も,かつて遊郭の体験のある噺家ほど,顰蹙モノだったのだろう。考えれば,落語は,

最後に「落ち(サゲ)」がつくことをひとつの特徴としてきた経緯があり,「落としばなし」略して「はなし」

というのに,これでは,踏んだり蹴ったりで,どうさげても,騙った連中を笑いにはできないし,といって,騙られた側をおちょくりもできない,ちょっと厄介な噺に違いないのである。滑稽話にも,人情話にも,芝居噺にも,怪談噺にもできない。

いやはや笑いにならないのである。笑いとは

楽しかったり,嬉しかったりなどを表現する感情表出行動の一つ。全く自発的な場合もあるが,他人の行動に対して,「笑う」という表現を通して,自分の意思を伝えることにも使われる,

笑う側が,メタ・ポジションにいなくては笑えないのである。郭でのいたずらも,自分との距離が測れれば,笑いを誘うが,集団での詐欺行為が計画通り成功した顛末を聞かされて,メタ・ポジションにいられる人間はそうは多くない。明日は我が身である。そいつらがドジを踏んで,初めて笑えるのである。

笑いは,

構図(シェーマ)のずれ,

といわれる。こちらの予想や期待とずれるから,笑う。ギャグも同じだ。しかし,受け手側の常識とのズレが,発生しなければ,笑えない。どこかでドジるだろうと思ったら,あれよあれよとうまくいったのでは,何処で笑えばいいのか。

「ちはやふる」は,知ったかぶりの珍解釈が,こちらにとっては,滑稽だし,そのやりとりの珍妙さもわらえる。ドジを嗤える位置にこちらがいる。

「厩火事」は,犬も食わない夫婦げんかに巻き込まれた仲人と髪結いの女房の心の機微が微苦笑を誘う。

しかし,「突き落とし」は,タイトルからして,イメージが悪い。むしろ,突き落とされて,店へ帰った若い衆の叱られる姿すら浮かんで,ちょっと気持ちが引く。

どこかで馬脚を現すのでは,どこかでしくじるのでは,という突っ込みどころで,店の若い衆も,突っ込まず,あれよあれよと詐欺が成り立ってしまっては,何処で笑えるのだろう。

小三治師匠ではないが,「この先どうなる」と,引き込まれるのではなく,「どこでドジを踏むか」と期待しつつ,ついに成功してしまうのである。むしろ。その肩透かしが,ひどい。

落語とドラマとでは,観客の期待値が違うのだ,ということが,つくづく思い知らされる。噺の焦点のあてどころを変えると,違った落語になるのかもしれないが。








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2015年06月22日

まくら


「まくら」は,落語で言うそれは,

「頭に置くものの,洒落」

が語源という。一般には,

「落語はマクラと本編、そしてオチで構成されています。この3つを、それぞれ独立させることなく、一連の流れで話します。この流れで一席の落語ができあがるというワケです。」

と説明される。実は,厳密に言うと,その前に,マエオキというのがある。

「えー,一席お笑いを申上げます」

とか,というものである。これだけでも,

時候の挨拶(お暑いところを)
客の来場の様子(一杯のおはこびで…)
来場への謝辞
口演内容の予告
落語について(毎度ばかばかしいことを…)

等々とあるらしいのだが,ま,これは長々続かない。たぶん,ここで,会場の雰囲気や反応を,確かめているのだが,その流れで,(その境がわからないことも多いが)まくらへとすっと入って行く。まくらと言っても,いろいろの意味合いがあるようで,たとえば,

自己紹介をしたり,
世間話をしたり,
本題に入るための流れを作ったり,
本題でわかりにくい言葉の説明をさりげなく入れたり,
現在では廃れてしまった風習や言葉に関する予備知識を解説したり,
軽い小咄を披露したり,
小咄などで本題前に聴衆をリラックスさせたり,
本題に関連する話題で聴衆の意識を物語の現場に引きつけておいたり,
「落ち (サゲ)」への伏線を張ったり,

等々,演目へとソフトランディングするための,雰囲気づくりとなっている。場合によっては,吉原の話をするための言い訳が加わったりする。

結局,まくらは,その演目に合ったものをするが,基本的には,

演じる落語の演目に関連した話をする,
現代ではほとんど使われなくなった人,物,様子などの解説をする,

2種類が骨格で,それにいろいろまぶす結果,上記のようないろいろな話が加えられるらしい。小三治師匠のように,

まくらだけで高座が終わる,

ということもあるが,そこまで行くと,本題に入らなくて(そこで終わらないで),このまま続けてほしい,と(観客側が)いうほどの,まくら自体が,

エンターテイメント,

になっているからかもしれない。しかし,それは,噺家としての力量が前提で,誰とは言わないが,ある売れっ子の若手(というより中堅か?)噺家のまくらを聞いただけで,ある意味,その人の噺をきかないでもいい,とチャンネルを切り替えさせる見立ての目安にはなっている,と感じた(結果,チャンネルを回した)。本人が勘違いしていればいるほど,まくらで,その力量が見える気がする(ただ僕がその噺家が嫌いというだけかもしれないが)。

「マクラは、噺の本題とセットになって伝承されてきているものが少なくない」

という。しかし,素人ながら,マクラの果たす役割は,ただ,

現実(この会場のこの時,この場)と噺の世界,

をつなぐ,

回路
というか,
異次元を開くまじない(「開けゴマ」みたいな),

というだけではないという気がする。もちろん,そういう意図があるにはあるが,僕は,いま,噺をしようとしている噺家その人が,その導き手で,その人の口先に乗って,一緒に噺の世界へ入って行くための,

協約関係,
というか,
共同作業関係,
というか,
同盟関係,
というか,

違う言い方をすると,この(噺の)船頭の船に乗ってついて行っても大丈夫,という,見立ての位置づけにあるのではないか,という気がする。独演会が多いので,初めから,その噺家を目当てに出かける場合,それは不必要に見えるかもしれないが,寄席で,次々と噺家がとっかえひっかえ(失礼,入れ代わり立ち代り)登壇する場面を想定すると,

まくら,

は,ある意味,リアルの噺家の人柄と力量とを見極める場になっているのではないか,という気がする。

「マクラはお客さんが本編に入りやすい状態にほぐす役割を兼ねているのです。このマクラは落語にとって前フリなのです。また、マクラは『話す』のではなく、『振る』といいます。なぜなら、まずはこのマクラでお客さんを『振り向かせる』ということでしょう。」

とある。しかし,当たり前だが,まくらにその噺家の技量と力量が反映している。

ちなみに,「枕」の語源は,

「マ(間・床と頭の間)+クラ(座)」で頭を支える道具,

という説と,いまひとつ,

「マク(枕く)+ラ(接尾語)」人体上部につける寝具,

という説がある。上につけるという意味で,枕詞という言い方があり,『枕草子』のマクラは,最初におく題詞(見出し)の意味を指す。『大言海』は,

「間座(まくら)の義,頭の隙間を支うるなり」

と,前説を取っている。したがって「枕」には,いわゆる「まくら」の意味以外に,それに準えて,

頭の方,
とか,
物事の拠り所,
とか,
前置き
とか,


といった意味がある。落語の「まくら」も,その流れと言っていい。ついでながら,「枕」という字は,まさにマクラの意だが,「枕」の

「冘」は,人の肩や首を重荷でおさえて,下に押し下げるさま,

という。古い時は,牛を川の中に沈める様だという。「枕」は,木製の枕。

考えれば,「枕」次第で,いい夢の世界になるか,悪夢になるかの分かれ道だ。「まくら」はなかなか意味深い。

参考文献;
野村雅昭『落語の言語学』(平凡社選書)
http://allabout.co.jp/gm/gc/207062/








今日のアイデア;
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2015年11月29日

六日知らず


落語の,『片棒』を聴いていて,

http://ginjo.fc2web.com/81katabou/katabou.htm

「けち」の言い回しで,

しみったれ,あかにしや,六日知らず,

等々と出た。で,六日知らず,を調べると,

「朔日、二日、・・、五日と指を折るのは良いが、六日から指を開いていくのはせっかく得たものを手放すようでいやだ」

という意味,と出ている。

握りっぱなし,

の洒落,とある。

「指を折って日数を勘定していって、六日からは指を開かねばならないが、それを惜しむほどのケチ。『だすことならば、袖から手をだすのもいやだ、口から舌をだすのもいやだという、これを俗に六日知らずと申します。』」

とか,

「日を勘定するのに一日二日三日四日五日と指を折る。六日てぇとこれを開けなくちゃァなりませんで、一旦握ったものはもう絶対離さないと言うので、吝嗇屋の事を『六日知らず』と言う悪口がございます。」

とか,

「1日.2日.・・、と指折り数えて「5日」までは指を折り曲げ握っていくが、『6日』からは指を開いていきます。握ったものは離さないと言うので「6日」から上は数えない。また数えられなかったので、知らないと言うケチです。」

等々と,噺の枕に使われる。落語には,『片棒』以外にも,『位牌屋』『味噌蔵』『吝嗇(しわい)屋』等々がある。

その他に,「あかにしや」というのは,落語の『片棒』『位牌屋』『味噌蔵』『死ぬなら今』等々に登場する,

主人公の商人・赤螺屋(あかにしや)ケチ兵衛,

だが,この,

「赤螺屋」は吝嗇家(ケチな人)の異称,

で,これは,

巻き貝のアカニシが、一度フタを閉じたらなかなか開かない,

という形容からきたらしい。赤螺(あかにし)を調べると,辞書(『広辞苑』)には,

アッキガイ科の巻貝。殻高は約15cm、殻口の内面が赤いのでこの名がある。表面は淡褐色で、3列の大小の突起列がある。日本各地の暖かい浅海の砂泥底にすむ。卵嚢を「なぎなたほおずき」という。肉は食用。紅螺。辛螺。

という貝の説明の他に,

(財布の口を開かないことを,赤螺が殻を閉じて開かないのにたとえる)ケチな人をあざけって言う語,

とあり,

あかにし.jpg


「サザエに似た巻き貝で、サザエの貝殻にこの貝を入れて食卓に出すと解らなかったと言われます。”あかにし”は焼くとツボの蓋を堅く閉じて取り出す事が出来なかった。そこで何も出さない事、ケチの代名詞として”あかにし”と言った。それに名前がケチ兵衛と付いていれば、 もう、これ以上のケチは無かった。」

とある。赤螺屋ケチ兵衛は,むろんそこからとられている。

それにしても,どうして「けち」が悪口の代表になるかというと,語源からみえてくる。「けち」は,



の字を当てるが,

囲碁用語の「結」「闕」(けち),

で,

「終盤で,一目,一目半とつめる」

から来ている。「けちる」という動詞も,ここから来ている。「結(けち)」は,呉音で,

「囲碁で,終局に近づき,駄目を詰めて寄せること,またその目」

とあり,「闕」(けち)とも当てる。そこから,賭け弓で勝負を決めること,に意味が広がっている。囲碁をやらぬものにはわかりにくいが,『大言海』には,

「碁を打ち終ふるを,結局と云ふ,結なり,弓に云ふも,勝負の最後の決定の意なるべし」

として,こう説明する。

「囲碁の終はりがたに,隅々などの,決まらぬ目を詰め寄すること。これをケチをさすと云ふ。今,よせと云ふ,是なり。ケチを先手にさすを,結鼻(けちばな)をとると云ふ。先手にさせば,一目づつの得となるなり」

とし,さらに,

「今,駄目をさすをケチさすと云ふは,闕の音にて,闕(欠)目すなはち,駄目なり」

とある。辞書(『広辞苑』)で,「けち」をひくと,「けちがつく」の「けち」と並んで意味が載るが,この「けち」は,「怪事」とあてる。この「けち」は,また別の由来なので,改めて,考える。

それにしても,一目,半目の差で勝負が決まるとき,一つ一つを慎重に詰めざるを得ない。そこから「吝嗇」の意が出て来ているとすれば,それは,無駄にしない,というか,慎重という意味で,悪いことには思えない。「一円をなおざりにするもの一円に泣く」である。

吝嗇の「吝」の字は,

「文+口」

で,「文」は,

「土器につけた縄文の模様のひとこまを描いたもので,こまごまと飾り立てた模様のこと」

で,

「口先を飾って言い訳をし,金品を手ばなさない意」

を示す。「嗇」の字は,

「上部は『麥(麦)』の略体。下部は囲んだ倉の形で,畑の収穫物を倉庫にしまい込むこと」

という意味になり,抱え込んで離さない,といった意味になる。「けち」に「吝しむ」の「吝」を当てるのは,なかなか含意がある。「吝」には,惜しむ以外に,くよくよして思い切りが悪い,という出し惜しみのニュアンスがある。

しみったれというのも,

「しみ+たれ」

で,

シミが垂れたように,少しずつ垂れる,

ということだろうか,みすぼらしいという意味も,意気地がない,という意味もあるようだが,一般には,

けち,

と同義と取られる。

しわ(吝)いは,

「皺+い」で,金を出すのに顔に皺を寄せて渋い顔をする
あるいは,
「締まる」「渋る」の形容詞,渋るの変化,

の二説がある。やはり出し惜しみ,である。

僕は,小心のせいか,けちが,悪いことには思えない。そのせいか,けちの反対語は,

太っ腹,
気前がいい,

ではなく,

浪費,

らしいのである。けちとは,

しまり屋
始末屋
節約家

なのである。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A3%92
http://ginjo.fc2web.com/81katabou/katabou.htm



ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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