2013年04月24日
人との距離
いまもそうだが,人との間合いが上手くとれない。歳とともに,表面上うまくごまかす手立てには長けてきたが,基本的に,距離の取り方がわからないことに変わりはない。
それが照れとなったり,「つんでれ」と呼ばれたりするのは,人との距離の取り方,間合いがわからないからだ。親しくなると,不意に間合いを詰めて,相手のパーソナル距離に踏み込んでしまったりする。そのあたりの機微がわからない。
ときどき本人は気づかず,ずかずかと無遠慮に踏み込み,「相手の心にいっぱいひっかき傷をつける」と言われる。自分の想いをぶつければいいというものでもない。それは開示というよりは,構えなしの居合抜きの気配だ。
本当は,相手がもっと踏み込んでほしいと思っている時も,逆にそれが読めずに,遠慮というか,照れ隠しというか,遠巻きにしていて,近づきたくないのだと,相手が逆読みして,関係が途切れることもある。そんな時に,自分が取り残された感じがするのは,双方向の関係がつくれていないためだ。
では,親しくなったらいいのかというと,それはそれでいっそう難しい。どんなに親しくなっても,その分,微妙な距離の取り方がますます難しくなる。自分としては,同じ土俵の上で,結構いい関係性にあると思い込んでいるのだが,相手から,「居心地がわるい」と言われて,そのことに驚く。「えっ,そうなのか」と,こっちの無神経さが浮き彫りになる感じで,こっちが逆に居心地悪くなる。自分がまた距離を測り損ねたことに落ち込む羽目になる。
まあ,僕が人の心や感情が読めないだけの話かもしれない。というか僕が勝手読み,希望的思い込みをしているだけで,人との間合いなどという高尚な話ではないのかもしれない。
でも事態は同じだ。相手の気持ちや感情や思いが読み切れないというのは,結果であって,相手とどういう関係性にあるかが,少し客観的に見ることができない,つまり距離感が測れないということに変わりはない。
人との距離の取り方の難しさに気づいたのはいつごろだったろうか。何度も転校するたびに,自分の居場所がなかなか見つからない。居場所が見つかるころには,転校せざるを得なかった。しかし,不思議といじめられた経験はない。仲間外れにされた経験もない。まあ,人懐っこかったのだろう。笑顔で人をごまかすのには,その頃も無意識で長けていたのかもしれない。いやそうではなく,相手が,お客さん状態においていただけで,本格的な関係づくりに入れないままいなくなる,を繰り返していただけかもしれない。
いつも,放った言葉が中空を流れていくのが見える,そんな感じだ。相手に届かない時は,それがそのままシャボン玉のように消えて行く。
相手の言葉が見えるのに,その意味が何色にも見えたりする。そのどれかが選択しきれない。どれを選択していいかわからない。だから黙る。次の言葉はやってこない。
あるいは,勝手読みしすぎてしまう。勝手に狎れると,自分の勝手読みで相手との関係を思い込む。そうすると,傷つけるか,傷つけられるか,そのあたりは,至近距離の居合抜になる。それまでは,とりあえず借りてきた猫状態で,様子を見る。その飛躍というか,中間のない,接近法なのかもしれない。ゆっくりと,じりじり間合いを詰めていくというのが,苦手だ。まだるっこしい。それも,人との距離感に馴れない理由なのかもしれない。
面倒くさくなると,引き篭もる。誰とも会わないか,雑踏を遠くから眺めている。黙って立っている自分を自分で開き直るしかない。
非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ (石原吉郎「非礼」)
そうやって自分一人でいることを好む。それを自恃と呼んできた。而立をそう解釈した。
一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(石原吉郎「一期」)
という間合いが好きなのは,面倒を避けているからかもしれない。石原吉郎の詩に惹かれるのは,そういう自分の尖り方を,言語化してくれていると解釈しているせいかもしれない。
西垣通さんは,こう書いている。
われわれはよく,情報や知識を共有するとか,心を開いて共感するとか言う。だが,それらはあくまでも,心がほんとうは閉じているという絶望的な事実をふまえた上での,一種の希望以上のものではない。
心とは徹底的に「閉じた存在」なのである。自分の痛みのようなクオリアは,他人には決して分かってもらえないことが,その証拠といえる。
私のクオリアとあなたのクオリアのあいだには当然,渡れないギャップがあるのだ。同じ赤色を見ていても,両者が見ているのが同じ色だという保証はない。その意味で,クオリアレベルで見ると,人は皆,閉鎖系の閉じた存在なのだ。感情も,感性も,知覚も,本当に共有できるという保証はない。
だからといって,もちろん,希望を捨てる,と言っているのではない。
参考文献;
西垣通『集合知とは何か』(中公新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2015年03月12日
やさしい
やさしい,
は,
優しい
とも
易しい
とも
恥しい
とも当てる。語源は,
「痩さし」
である。「身も痩せるような恥ずかしい思い」である。
慎みがあって殊勝だ,
という意味らしい。転じて,
思いやりがあって,心遣いがある,意となり,さらに転じて,
わかりやすい,
扱いやすい,
処理しやすい,
たやすい,
と変化してきた,とある。『古語辞典』にも,
(人々の見る目が気になって)身も痩せ細る思いがする意,
が転じて,遠慮がちに,つつましく気を使う意,またそうした細やかな気遣いをつつましく気をつかう,意。
とあり,
身も細るようだ,肩身が狭い
恥ずかしい,面目ない,
気を遣ってつつましい,遠慮がちで控えめである
ときてから,やっと,
優美である
心憎い,
健気である
優雅である
温かく思いやり深い
平易である,
と意味が続く。その意味で,優しさとは,人に対しての気遣いではなく,そこに居ること自体を遠慮する,憚る気遣いという感じが強い。
漢字の「優」の字はどうかというと, 「人+憂」の,
「憂」の,原字は,人がしずしずとしなやかなしぐさをするさまをえがいた象形文字。「憂」は,それに心を添えた会意文字で,心が沈んだしなやかな姿を示す。で,「優」は,
しなやかにゆるゆるとふるまう俳優の姿,
の意で,
しなやかなしぐさを示す人(「俳優」)
やさしい(「優毅」)
しなやかなさま(「優美」)
すぐれている(「優秀」)
ゆたか(「優裕」)
といった意味を持つ。どうも,「優」には,
それを演ずる,
というニュアンスがある。そのせいか,「人+憂」には,
仮面をつけて舞う人
という意味があったという説もあるのである。つまり,本来,
俳優(わざおぎ)
であり,最も近い類語「情け」は,
「ナス(作・為)+ケ(見た目,接尾語)
で,
心遣いが目に見えるさま,
なのである。だから,ある意味,
人に対して,場に対して,心を砕く,
という意識なのではないか。それは,人に対する気遣いではなく,自分自身に対する意識,自分自身の中かから出ている意識,
なのではあるまいか。だから,
人に対する優しさは,
人を気づかうことではあるが,もともと自分をワンダウンさせて,気遣いを見せるふるまいである。それ(そういう自分の気づかうふるまい)が,ある程度相手に見えなければ,その下手に出ている,つまり,相手を上げていることが,相手に見えなければ,意味がない。だからこそ,それが度をこせば,
偽善
にもなる。だからこそ,それを「情けない」と感ずる。「情けない」とは,
思いやりがない,
無愛想である,
武骨である,
あさましい,
ふがいない,
という意味である。おそらく,身分社会を反映しているのだと思う。場を弁える,とは,多分そういうことだったのではなかろうか。
それにしても,この「やさしい」の変化の,内の憚る気持ちが,外に気遣いとなり,その見易さが,易しさへと変るというところに,人の哀しみがにじみ出ている気がしないでもない。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2016年07月31日
心が通じる
「心が通じ(ず)る」は,
お互いの気持ちが伝わり合う,
という意味だと,『広辞苑』には載る。
心が通う,
という言い方もする。『大辞林 第三版』には,「心が通う」の意味を,
互いの気持ちが通じ合う。心が通じる,
とする。しかし,
心が通じ(ず)る,
と
心が通う,
は,瑣末なことにこだわるようだが,微妙に違う感覚がある。『大辞泉』の「心が通う」の意味は,
互いに十分に理解し合っていて,心が通じ合う,
とある。「通う」は,
「通じ合う」
状態で,『日本語語感の辞典』には,「かよう」は,
「一定の場所との間を定期的に繰り返し行き来する意」
とある。
通じ(ず)る,
は,ingという「いま・ここ」での状態なのではないか。時枝誠記の「風呂敷型(統一形式)」の日本語の,「詞」と「辞」でいうなら,
「詞」は,客体表現,
「辞」は,主体表現,
に喩えられる。これについては,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm
で書いた。つまり,「通じる」は「辞」,「通う」は「詞」になぞらえられる。つまり,「通う」と「通じる」は(発話の)視点が,違うのである。
「通う」は,
外から,
「通じる」は,
内から,
と言ってもいい。
「通じる」は,主観的にそう感じているが,
「通う」は,客観的に見える状態,
と言い換えてもいい。その場合,「通じ(ず)る」にしろ「通う」にしろ,『広辞苑』の,
気持ちが伝わり合う,
だけなのだろうか。『大辞林』の,
「互いに十分に理解し合っていて,心が通じ合う」
とは,
「気持ちが伝わり合う」
と同じなのか。「心」は,漢字では,
「心臓を描いたもの。それをシンというのは,沁(シン しみわたる)・滲(シン しみわたる)・浸(しみわたる)などと同系で,血液を細い血管のすみずみまで,しみわたらせる働きに着目したもの」
で,ズバリ「心臓」を指しており,「心」は,抽象度の高い,
精神,
を意味していた。和語の「こころ」は,
「『コゴル(凝固)』が語源です。体の中にあるもやもやしたものが凝り固まったものをココロと言い表したのです。心の存在する場所を心臓としたのは中国の影響かと思われます。現代的に表現すると,『人間の精神のはたらきを凝集したもの』が,こころです。」
とあるし,『大言海』も,
「凝り凝りの,ここり,こころと転じたる語なり。されば,ここりとも云へり」
から,「こころ」とは,
知情意,
の「心」ではなく,限りなく,
情のみの,
思い,
とか,
気持ち,
というのが近いのではないか。
「かよう」の語源は,
「カ(交ヒ)+ヨフ(動揺,繰り返す)」で,行き来する,共通する,意味の語源とする説,
と
「カ(処)+ヨフ(動揺,繰り返す)」で,場所移動を繰り返す,二空間が共通する,などの意とする説,
がある。『大言海』は,
「カは,交ひの意か(ちかひごと,ちかごと。そひなるる,そなるる)。ヨフは,動く意。もこよふ,いさよふ,ただよふ。」
と,「カ(交ヒ)+ヨフ(動揺,繰り返す)」をとり,拾遺集の,
「松が枝の,かよへる枝を,鳥栖(とぐら)にて,巣だてらるべき鶴の雛かな」(連理交叉の枝なり)
の例を挙げている。明らかに,「連理」になぞらえている。
「つうじる」は,漢字「通」由来で,「通」の字は,
「用は『卜(棒)+長方形の板』の会意文字で,棒を板にとおしたことを示す。それに人を加えた,甬(ヨウ)の字は,人が足でとんとんと地板を踏み通すこと。通は。『辶(足の動作)+音符甬』で,途中でつかえてとまらず,とんとつきとおること」
という意味になり,「通じ(ず)る」は,
「通+する(サ変動詞)」でもとおる,かよう,相手にわかる意,
となる。
こうみると,「心が通じる」は,一方通行に,まるでストーカーがそう思い込んでいるように,勝手に,
心が通う,
という幻想状態を,極端に言えば,妄想していることになる。その場合,それぞれが,勝手に,別々に思い描いた土俵で,
心が通う,
と思い込んでいることも含まれる。しかし,「心が通う」は,両者が,互いに,ひとつの土俵で,
思いが通じ合っている,
と思っている,ということになる。少なくとも,それぞれが,別々の土俵で心が通じている,と思い込んでいるのではなく,吉本隆明の,
対幻想,
ではないが,それぞれが,ひとつの土俵で,通じ合っている,と思っている,ということになる。もちろん,その土俵が,別々のものなのかもしれないことは,
通じない事態,
に遭遇しないかぎり,誰にもわからない。因みに,英訳すると,
to relate to;
to have one's feelings understood
だそうだが,後者がこの場合近いか。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;
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今日のアイデア;
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