2013年05月23日
リーダーシップ
先日,ビジネス部会10周年記念イベント「ビジネスコーチング・サミット2013」
https://www.facebook.com/home.php#!/events/135344209972013/
に参加して,リーダーシップを考える機会を得たので,改めて,自分なりにリーダーシップを整理し直してみた。
シンポジスト,青木安輝氏・上田比呂志氏・島村剛氏・中島崇昴氏・中土井僚氏それぞれが,ご自分のリーダーシップを語られたので,自分のメモから,それを振り返るところから始めてみたい。
まず青木さんは,ソリューション・フォーカスト・アプローチの創始者,インスー・キム・バーグの,「一歩下がったところからリードする(Leading from one step behind)」を引用しつつ,こう言う。
周りの人がリーダーシップを発揮していくようになる(発揮していることに気づく)リーダーシップ。
ヒーロー型とサーバント型を三角形の底辺として,頂点にホスト型を置き,その頂点を,右に左にシフトさせて,最適のリーダーシップを取っていく。
次の上田さんは,実家の料亭でのおかみや芸者の「もてなし」を手本に,「気づかい型リーダーシップ」を提起する。
その要素として,
心力
能力
組織力
を挙げる。根っこの「和」に根差したリーダーシップである。
島村さんは,意識の進化を言われた。いわば,OSである。OSにどんなアプリケーションも乗る。その進化である。そして,従来のアウトサイドインからインサイドアウトへ,周りを巻き込み,動かす関係性を強調された。
中島さんは,「菩薩型リーダーシップ」を提唱された。「みんなで行こう」というマインドである。
人間力(仏)×スキル(法)×仲間・チーム(僧)×実践の掛け算だ,とも。
中土井さんは,コレクティブリーダーシップ。例えば,震災以後,ツイッターでの「屋島作戦」の呼び掛けて,節電が自然発生的に広がったが,その一人一人の動きを,コレクティブリーダーシップという。
どれもこれも,一つの切り口として面白いが,聞いていて,物足りなさを感じたのは,リーダーとリーダーシップとが,ほぼ同義で語られていたことだ。僕はそこは厳密に区別すべきだと常々思っている。
僕は,リーダーシップとは,トップに限らず組織成員すべてが,いま自分が何かをしなければならないと思ったとき(それを覚悟という),みずからの旗(何のためにそれをするのか)を掲げ,周囲に働きかけていく。その旗が上位者を含めた組織成員に共有化され,組織全体を動かしたとき,その旗は組織の旗になる。リーダーシップにふさわしいパーソナリティがあるわけではない。何とかしなくてはならないという思いがひとり自分だけのものではないと確信し,それが組織成員のものとなれば,リーダーシップなのである。
そこに必要なのは,自分自身への確信である。それは自分を動かすものだ。それが人を動かす。リーダーシップは他人への影響力である前に,自分への影響力である。「お前がやらなくて誰がやるのか」「自分がやるしかない」と,みずからを当事者として動かせるものが,自分の中になければ,人は動かない。それが旗の意味であり,旗の実現効果であり,そこに共に夢を見られることだ。
だから,リーダーシップに必要なのは,
①周囲を巻き込める夢の旗を掲げられること,
②夢の実現プランニングを設計できること,
③現実と夢とを秤にかけるクリティカルさがあること,
である。「こうすべきだ」だけでは人は乗らない。それが単なる夢物語でも人は乗らない。夢と現実味をかね合わせて,絶えず点検していける精神こそが,求められるリーダーシップである。それは,パーソナリティでも地位でもパワーでもなく,スキルであることを意味している。
たとえば,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11190783.html
でも触れたが,『リーダーは自然体』の増田さんは,ご自分の体験をこう語っておられる。
新人のころ,競合他社の製品情報をスクラップをする仕事をさせられていて,やがて,よくある質問や問い合わせのパターンがだいたいつかめてきたので,競合他社の製品情報をまとめて「月報」を出すことにし,切抜き記事を基に,毎月,短いレポートを手書きで書いて,職場で配る。さらに,
といっている。何気なく言っているが,これがコンピタンスである。自分は,そこで何をすることが必要なのか,そのために自分は何をすべきか,その結果,指示された仕事を超えて,というかその本来の目的をより達成するために,自分で「月報」にすることを決め,さらに過去の切抜きを競合別・機種別情報に分類してファイルし,増えてきたファイルをどこかにまとめておきたいと思い,スペースを見つけて,
管理課長さんに直接かけあってみたところ,使ってよしと許可がえられましたので,自分で棚を整理は,ファイルを並べました。
という。自分のすべきことを完結しようとすると,ここまで行く。ここにあるのは,スクラップをつくっている女子社員がいきついたリーダーシップに他ならない。
だから,リーダーとリーダーシップは区別したい。リーダーは,私的に選ばれたものであれ,公的なリーダーであれ,そこに求められるのはリーダーとしての役割行動である。一方,リーダーシップはポジションに関係なく,その問題やタスクを解決するために必要と考えたら,自らが買って出る,あるいは誰かの委託を受けて,その解決に必要な周囲の人々を巻き込み,引っ張っていくことである。
つまり,トップにはトップの,平には平のリーダーシップが求められる。リーダーシップはその人の役割遂行に応じて,必要な手段なのである。職位が上のほうに行けばいくほど,リーダーシップがないことが目立ち,下へ行くほど,リーダーシップがあることが目立つ。上に行けばいくほど,リーダーシップを発揮しやすい条件と裁量を与えられているから,あるのが当たり前だから,ないことが目立つのである。
ではリーダーシップをどう考えるのか。
リーダーシップは,字義通りに言えば,リードするスキル,リードとは,周囲を引っ張っていくことであり,そのために周囲を巻き込んでいくことである。この場合,引っ張るには,
①文字通り先頭に立つ意味もあるが,
②舞台を整える,お膳立てをする調整役,縁の下役の意味もあるし,
③ファシリテーター(進行役,促進役,触媒役)の意味もある。
つまり,リーダーシップは,人に協力や支援を求めて,一緒にこと(問題解決や何かの実現)に当たってもらうべく,自分が積極的に必要な人に働きかけていくことである。そのとき,どれだけ人を巻き込んでいく力があるか,である。そのために必要なのは,
・「何のために」「何を目指して」という,意味づけ(組織全体にとっての,その仕事にとっての,各自にとっての,その問題にとっての等々)が明示でき,
・必要な人々に,その意味をきちんと伝えていく力があり,
・めざすことを一緒にやっていくための土俵(協働関係)をつくれ,
・相手への感謝と承認を怠らないこと,
である。
僕は,リーダーシップは,実践のスキルでなくてはならないと思っている。カリスマ性のリーダーはあり得るが,カリスマ的なリーダーシップはない。
基本的に,その人が自分の役割を責任持って達成しようとするとき,自分の裁量内でやっている限り,その仕事は完結しない。ときに自分の裁量を超えて,人に働きかけ,巻き込んででも,それを達成しなくてはならないときがくる。それがリーダーシップが自分に必要になるときである。そこで必要なのは,
・自分は何をするためにそこにいるのか,
・そのために何をしなくてはならないのか,
を自分の頭で考えられるかどうかだ。それを仕事の旗と呼ぶ。それは平のときから自ら考え続けていなくては,リーダーシップがあって当然という立場になったとき,リーダーシップがないことが目立つだけなのである。
究極詰めると,
①リーダーシップは,自分(ひとり)では(裁量を超えていて)解決できないこと,あるいは解決してはいけないことを解決するために,解決できる(権限のある,スキルのある)人を動かして,一緒に,その解決をはかっていこうとすることである。
②リーダーシップの真価が問われるのは,自分のポジションより上や横を動かそうとするときだ。そのとき必要なのは,
・「何のために」「何を目指して」という,意味づけの旗が明示されていること
・必要な人々に,その意味をきちんと伝えていく力があること
・めざすことを一緒にやっていくための土俵(協働関係)をつくること
ではないか。そして,これは,そもそもその人の仕事の仕方そのものである。一人で仕事をする以上,自分のキャパを超えた仕事はできない。自分のキャパを超えた仕事をするには,どれだけ周りのサポート,支援をえるかにかかっている。そういう仕事の仕方は,若いころから学ぶしかない。この延長線上に,リーダーシップがある。
参考文献;
増田弥生『リーダーは自然体』(光文社新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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#リーダーは自然体
2015年01月19日
耳
耳に従う,という言葉がふと口をつく。
人の言葉を素直に聞く,
あるいは,
自分と異なる意見も反発しなくなる,
と訳される。
吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る。六十にして耳に従う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰(こ)えず,
である。而立,不惑,知命,耳順と,言う。
しかし,戦後七十年にして,心の欲するままに,矩を超えようとしている,この国について,恥ずかしさが先に立つ。欧米世界がどう見ているかは,
ロスチャイルド銀行家ファミリーが所有する世界的な政治・経済紙「The Economist」が、増刊号として毎年暮れに「翌年の予想」を出版している。今年の増刊号は,昨年暮れに出た「2015年の予測」だが,表紙には,プーチン,習近平を除いて西側世界のトップがズラリと顔をそろえている。しかし安倍首相の姿だけが見当たらない,
というところに現れている気がする。
別に世界を動かさなくてもいい。しかし,世界に恥ずかしくない,国として,国民として,立っているのかどうか,が問われている。
耳という字は,
耳を描いた象形文字で,柔らかい,という意味がある。物の両脇に付いた耳状のものという意味がある。
「黄金の耳」という言葉があるそうである。
「鼎黄耳(こうじ)金鉉(きんげん)あり。」
「鼎を担いで運ぶための鉉(つる)を通す耳が壊れていたら供物を運べないので,鼎の耳は国の権威を保つ「王の耳」に喩えられる,」
という。さらに,
鼎の耳に空いた穴には,賢者の諫言・智恵・明知を表す「金鉉」が貫いており,虚心に人の意見を聞くリーダーの耳を「黄金の耳」
というのだそうだ。どの国とは言いたくもないが,多く,トップは,裸の王様になる。
優れたリーダーの三条件というのがあるそうである。
君子はその身を安くして而る後に動き,その心を易くして而る後に語り,その交りを定めて而る後に求む(『易経』繋辞下伝)
と,優れたリーダーは,
「1.危ない時には動かない 負ける喧嘩はしない。
2.よく考え確信を持ってから平易な言葉で語る 思いつきで語ることはない。
3.人とは親しく交際し,信頼を深めてから物事を求める。」
と。「みんなで考え,一人で決める」のがリーダーだと思っているから,別にこの通りのリーダー像が正しいとは思わない。しかし,自分が,王様ではなく,国民の信任を受けたのだとすれば,少なくとも,国民のためになるように,動かなくてはならない。とすれば,おのれの趣向や趣味や,ましてやおのれ一個の思想信条の実現のために,国を玩弄してはならない。
そんな当たり前のことが,日本のトップで,弁えていた人間が何人いるのか。国のためと称して,ほとんど国のためにならず,国民のためと称して,おのが欲求を実現しようとする輩ばかりなのではないか。そして,哀しいかな,それは,国民のレベルと程度を反映している。世界に出して恥ずかしいとすれば,それは,国民自身が恥を世界にふりまいているのである。
子貢問いて曰わく,何如なるかこれこれを士と謂うべき。子曰く,己を行うに恥あり,四方に使いして君命を辱めざるは,士と謂うべし。曰わく,敢えて其の次を問う。曰,、宗族は孝を称し,郷党は弟を称す。曰く,敢えて其の次を問う。曰く,言必ず信、行必ず果,硜硜然(こうこうぜん)たる小人なるかな。抑々亦以て次ぎと為すべし。曰く,今の政に従う者は如何。子曰く,噫(ああ),斗筲(としょう)の人,何んぞ算(かぞ)うるに足らん。
二千二百年以上前の,孔子の言に,頷くよりは,涙が出る。
「四方に使いして君命を辱めざる」
君命を,国民の輿望と読み替える。
「言必ず信,行必ず果」
はそのままでいい。言に信が置け,結果を出しているのか,言の表裏は問わず,結果の数字のみだ。GDPがマイナスなのに,誰ひとり騒がない,ほとほと呆れて,言葉もない。
今だけ,金だけ,自分だけ,
しか関心がないのが,昭和恐慌の後に似ている。その後に来たのは,戦争の二十年である。戦争以外に,経済打開の道が無くなったのである。そのことで利を得るものの代行行為である。戦争は,政治の失敗の表現である。
斗筲
とは,
「斗」が当時の一斗,
「筲」が当時の一斗二升,
で,そうした桝で測れる器量,という意味だ。これでも貶めているらしいのだか,まだまだ大きすぎる。一合枡以下なのではないか。あるいは,まあいい,そんなことを比較してみたところで仕方がない。
耳に従う,
つまり聴く力とは,聴きたいことを聞くことではない。おのが利をはかるために聞くことでもない。そんな分かりきったことが,通用しない時代が,すぐそこに来ている。
サザンが,謝罪したらしいが,謝罪しなければならないほど,異説,異論を許さない社会が,既に来ている,ということだ。あの佐藤B作の芸名は,彼のデビューした時代の首相,佐藤栄作をもじったものだが,もはやNHKでは(民放も),政治風刺自体がゆるされなくなっていることを,爆笑問題が暴露した。
懸念や心配ではなく,すでに,自由な発言を,まして政権批判を許さない時代が来てしまった。かつて東欧諸国では,パロディがはやった。江戸時代も,戯作者は,粋に諧謔を作品化した。これから,そういう時代が来る,ということだ。表玄関で,大手を振って入ってくる作品は,官製か官許のものだと心得なくてはならない。真実は,裏メッセージでしか語れない時代がきた。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年09月20日
一顰一笑
一顰一笑は,
いっぴんいっしょう
と訓む。『韓非子』内儲説から由来するようだ。
顔をしかめたり,笑ったりすること。ちょっとした表情の変化。また人の顔色。機嫌。
という意味で,
一顰一笑に左右される,
一顰一笑に気をつかう,
といった使い方をする。『大言海』は,
憂えては顔を顰め,喜びては笑うこと,
とある。不愉快そうに少し顔をしかめたり,嬉しそうにちょっと笑ったりする顔の表情の変化である。昨今ついぞ見かけない。
http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/vo81.htm
によると,
「昔、韓の昭候が、古いい袴を保管するようにお側の家来に命じたところ、『そのような古い袴は、だれかにやってはどうですか』と非難めいたことを家来にいわれました。昭王は『懸命な君主は、部下の前で顔をしかめたり、嘲笑したりする場合でも注意しなければならないものです。袴を下賜することは、もっと重大な意味を持つのですから、誰に与えるのかについて十分に注意しなければならないのです』と言ったとのことです。」
という謂れらしく,原文では,
「吾聞く、明主は一嚬一笑を愛(お)しむと。嚬(ひん)するは為に嚬する有り、而して笑うは為に笑う有り。」
とあり,
「多数の配下を持つ者は、自分の一挙手一投足に注意しなければならないという自制の言葉」
である,という。この逸話から,
「弊袴を愛惜す」
という故事成語もある。
信賞必罰を実行すること,
という意味。上記逸話にあるように,
「はき古したハカマ(袴)を家来が誰かにやったらどうか」
と非難めいたことを言われたのに対して,昭王が,「賢明な君主は眉をしかめたり、笑うことさえ惜しむものだ」という言葉と同時に,
「袴は手柄のある者に与える」
と答えたことにら由来する。つまり,顔の表情一つ,下賜することひとつ,意味がある,ということなのだろう。
「顰」の字は,
しかめる,ひそめる,
といった意味だが,「顰」は,「頻+卑」で,「頻」は,
間隔をつめてぎりぎりに近寄ること,
「卑」は,
ひくい,ひくめる,
で,「卑+頻」は,
眉の間隔を近寄せることを,
あらわす。だから,
眉をひそめる,
とか,
顔を顰める,
という意味になる。因みに,「笑」の字は,会意文字で,「竹+夭」。「夭」は,
細くしなやかな人,
で,元は,細い竹のことを指す。正字は,「口+笑」で,
口を細くすぼめて,ほほと笑うこと,
を指す。それを誤って「咲(わらう→さく)」と書き,略して,「笑」を用いるようになった,という。
わらう,
にも,
哂う(微笑)
嗤う(嘲り笑う)
笑う(喜びて顔を解き,歯を啓く,冷笑は苦笑い)
噱う(大笑い,吹き出す)
とある。一顰一笑の「笑い」は,機嫌のいいときを指す。
相手の顔色の変化に振り回される,というのは,恋しているときはそれ自体が恋だけれど,それ以外は,疲労ばかりが募る。自分の心を外に置いて,相手を伺うのは,その時間が,人生の時間の無駄だからだろう。
逆に言うと,上位に立つものは,下の人はヒラメ状態にあることを慮る必要があるということだろう。というより,そういう状態にある限り,チームとしての体を為していない,というべきかもしれない。
ある意味,おのれの一顰一笑に,メンバーに一喜一憂させるようでは,リーダーとしての在りようがなっていない,というべきだろう。身分社会ではあるまいし,自己開示ができていないか,ジョハリの窓で言う,パブリックができていない,ということだろう。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm