2013年05月31日

間(ま)



先日,「第5回 月刊☆西澤ロイ 人生を変えるコトバの宇宙トークライブ」に参加させていただいた。今回のトークテーマは,「なんとなく(間)」。

間(ま)というのは,間(あいだ),字義通りに言えば,隔てであり,隙間であり,時間的,空間的に「間(あいだ)」を指す。空間的には,あいている空間であり,時間的には, 時間を空間をイメージして断続性を言っている。リズムとか,調子とか,機とか,瞬間とかと,間(あいだ)の配置の長短で使い分けている。間があく,間に合わない,間が悪い等々。その「距離」は,いわば,客観的に測れると同時に,主観的には無限の広がりを持っていたりする。

だから,「間(ま)」に焦点をあてると,見えていたり,聞こえていたりするものの背景にある,「間(ま)」という空間がある。「間(ま)」があるから,言葉が活きる,間(ま)があるから,動作が際立つ,(ま)間があるから,両者の関係がクリアに見える。

漢字をじっと見ていると,見慣れた漢字が,見慣れぬ記号に変ずることがある。それは,「図」として見ていた形が崩れ,間(ま)の中に溶けていく感じである。ロイさんの言っていた,各構成要素のつりあった全体像が崩れて,一つ一つの要素が「図」として主張をはじめるために,全体としての字の「図」が崩壊するのに近い。それは,それまでの「間(ま)」が,間合いを変えてしまったという言い方もできる。

僕にとって,「間(ま)」ということで,瞬間にイメージしたのは,20代に初めて,武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』を聴いた時の衝撃だ。音ではなく,音のしていない「沈黙」で『ノヴェンバー・ステップス』という作品世界を伝えていた。その音の音の間の沈黙が,間(ま)の僕のイメージだ。その時同じLPには,現代作曲家の音楽が入っていたが,いかにも現代風の不協和音の連続とその曲とは好対照であった。

間(ま)は,「ある」ときではなく,「ない」ときに,その存在が意識される。「ない」のではない,「ない」ことを主張している。間(ま)とはそういうものだ,と感じた。尺八と琵琶の音がしているときではなく,していない時に,その音の存在が際立ってくる。

この先駆けは,例の,ジョン・ケージ「4分33秒」。この作品(?)は,沈黙をそのまま作品世界としている。この曲の楽譜には,楽章を通して休止することを示すtacet(オーケストラにおいて,特定の楽器のパート譜に使用される)が全楽章にわたって指示され,演奏者は舞台に出場し,楽章の区切りを示すこと以外は楽器とともに何もせずに過ごし,一定の時間が経過したら退場する。いわば「無音の」音楽である。

ところが,その沈黙が,演奏会場内外のさまざまな雑音,すなわち,鳥の声,木々の揺れる音,会場のざわめき,しわぶきなどを際立たせる。

「ない」ことが別の「ある」を際立たせる。これは,「有」と「無」という区分けより,認識上の「図」と「地」なのではないか,という気がした。「間(ま)」は,言葉に焦点が当たっていない限り,「地」になり,背景に引っ込む。しかし,言葉ではなく,言葉と言葉の間隔や沈黙に焦点をあてた途端に,それ自体が「図」として前面に出て,主張を始める。

言葉ではなく,あるいは語られていることではなく,その言葉の乗っている身体や声,リズムやテンポが,「間」になることもある。

僕は武術をやらないから素人判断だが,間合いとか,見切りとは,両者の間のぎりぎりの隔てを計っている。その精妙な感覚が,「間」から見た時,相手のあり方や構えとは異なるところで,距離が際立つ。切っ先と切っ先の間だけが生き物のように伸び縮みする。ちょうどゴム紐を引っ張り合っているのに似ている。立ち会う両者ではなく,両者の「間」に焦点をあてると,その隔てだけがひとり「図」となる。だから,その間合いを見切り,どちらが瞬間の「機」という「間(ま)」を破って,踏み込むかどうかにかかってくる。ほんの一瞬の「機」の見極めになる。

その意味で,「ない」とみればネガティブになり,「ある」と見るとポジティブになる,という言い方をロイさんがしたのは,いわば,認識上の「図」と「地」で,そのことによって,見える世界が変わっていく。

だから言霊という言い方をしたとき,言葉が乗っている精神性というものを言っている。そちらを「図」として着目すると,言葉の意味が,オセロゲームのようにひっくり返る。

ソシュールのシニフィアン(意味するもの=記号表現)とシニフィエ(意味されているもの記号内容)は恣意的といったが,それはロイさんの言う通り,そこに意味はない。そこに,意味を読み取ろうとすることで,象徴性や精神性が出る。それを「間(ま)」と呼んでもいい。つまり,見えないものが,言葉と言葉の「間」に読み取れることで,言葉に影のように意味がついてくる。この場合,「間(ま)」に焦点をあてると,言葉という存在自体に霊性がついてくる。

そう考えると,「間」の上に言葉が乗っている,「間」の上にものがある。「間」を文脈とか状況と置き換えてもいい。ますます「図」と「地」に近くなるか。たとえば,「0」と「1」で言えば,ゼロは「無」ではなく,「0」が「ある」。そう考えると,「有」と「無」も,「無」は「無」としてある。

太陽と水星と原子核と電子のアナロジーも,それ乗っている「間(ま)」に着目すると,別のものが見えてくる。光学的には観測できない(つまり見えない)暗黒物質(dark matter )を仮説することで,星の運行が見えたりするのも,同じである。

ところで,『易経』では,「一陰一陽,これを道と謂う」とある。一つの陰と一つの陽とが相対立して固定して存在するという意味ではなく,天地の間にあるいは陰となりあるいは陽となって変化する意味だという。そう考えれば,「無」と「有」もまた,その意味で見られなくもない。

だとすると,もう少し突っ込んで,それがオセロゲームのように,いきなり「ある」と「ない」がひっくり返るというより,グラデーションのように,0と1の間に無限の懸隔があると考えるほうが面白くないだろうか。「ある」と「ない」を二者択一ではなく,二項対立ではなく,無数の,「ある」ようで「ない」,「ない」ようで「ある」,が連続していると考えるとどうだろう。

そうなると,ただの「ない」は,永遠のかなたにしか存在しない。そこに抜け出せない「これっきゃない」的な土壺はないことになる…というのはどうか。


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2015年09月23日

へそくり


へそくりは,

臍繰り
とか
綜麻繰

とか当てるが,

「『へそくりがね』の略で、主に主婦が倹約や内職、バイトなどをして内緒で貯めたお金のこと。
また、「へそくりをする」という意味の『へそくる』という言葉もある。どちらも江戸時代から使われている言葉である。」

との説明がある。語源を調べると,いくつもの説がある。

ひとつは,「へ(綜)そ(麻)+繰り」で,紡いだ麻をつなぎ,環状に細長く幾重にも巻く糸車をへそ(綜麻・巻子)という,からきている。へそ(綜麻・巻子)は,苧環(おだまき)とも言うらしい。へそに麻糸を他人にわからないように繰り,少しずつ貯めたお金を指す。

いまひとつは,衣服の帯の下,つまり臍の辺りにわずかなものを貯え,やりくりして生みだしたお金,という。辞書(『広辞苑』)の当てた漢字,

臍繰り
とか
綜麻繰

が,この二説の反映している。

語源由来辞典(http://gogen-allguide.com/he/hesokuri.html)によると,

臍繰り金の略であるが,綜麻を繰って貯めたお金を意味する「綜麻繰り金」が原義,

とする。「綜麻」と「臍」が混同されたため,当て字で「臍繰り金」となった,さらに,「臍」は「ほぞ」とも言うことから,「ほぞくり金」「ほぞ金」とも言うようになった,としている。

古語辞典では,「臍繰り金(銀)」が載っていて,

主婦などが倹約して内密に貯えた金銭。へそくり。ほぞくりがね,へそがねとも。

と出ている。しかし,『大言海』は,へそくりを,

臍包(くる)みの約,

として,「へそくりがね」と同じとする。で,

一説に,綜麻(へそ)を繰りて貯へたる金の意,

としている。

日本語俗語辞典(http://zokugo-dict.com/29he/hesokuri.htm)は,

「語源については諸説あり、へそは紡いだ麻糸をつなげて巻き付けた糸巻である綜麻(へそ)をいい、『綜麻繰』とする説が有力。昔、女房が内職に綜麻を繰り、それで得たわずかな賃銭を蓄えたへそくり金を、約してへそくりとよぶようになったといわれる。
他には、へそは「臍」の意味で、銭や貴重品を腹巻などで腹に巻き付けておいたところから、他の人に知られないようにひそかにためておくこと、またはその隠し蓄えおいた金銭をいうことになったとする説もある。」

とまとめる。その由来の古さから考えても,どうやら,「綜麻繰」の方が正しいのではないか。

ところで,綜麻(へそ)は,

odamak14.jpg


「『へ』は動詞『綜(へ)る』の連用形から。「そ」は「麻」。紡いだ糸を環状に幾重にも巻いたもの。おだま。おだまき。

である。

花のオダマキと,苧環と,いずれが先か,というと,

語源由来辞典(http://gogen-allguide.com/o/odamaki_syokubutsu.html)は,

「オダマキとは 、キンポウゲ科の多年草。高山に自生するミヤマオダマキを観賞用に栽培改良された もの。 【オダマキの語源・由来】. オダマキは、つむいだ麻糸を空洞の玉のように巻いた苧環に由来する。オダマキの花は,内側に曲がって満開せず,全他水に糸巻の枠のように見える。」

とするが,

「苧環は元来は機織りの際に麻糸をまいたもののことで、花の形からの連想である」

とするのもある。むしろ,

「花が開いた形と言うより、つぼみの形が苧環に近い」

といわれる。これが近いのだろう。糸繰は確かに,古くからあるが,花の名の方が先と考えた方が無難である。その名から,というよりそのカタチから糸繰の苧環を発案したのかもしれない。やはり,自然は,発想の母である。

odamak19.jpg








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2015年09月28日

釜の蓋


釜の蓋が開かない,

というのと,

釜の蓋が開く,

というのとでは,随分意味が違う。

落語で,よく,

「釜の蓋が開かない」

という言い回しをする。せんだって聴いた『もう半分』でも,老爺が,

「(棒手振り仕事でも)休んだら,釜の蓋が開かない」

というような言い方をしていた。『芝浜』でも,

「「文句はそのくらいでいいの?いつ商いに行くの?」
「そうゆう入り方してきたの?」
「暮らしもあるからねぇ。そんなにお酒呑む人じゃなかったから。楽しそうに見えないの。何かあったの?うるさかったら、ごめんよ。勘弁してもらぉ。月ぃまたいじゃったよ。釜の蓋が開かないよ」
「・・・・釜の蓋が開かないとは、これいかに?」
「何?」
「鍋の蓋でも開けとけよ」
「鍋の蓋も開かないよ」
「じゃ、水瓶の蓋でも・・・」
「ふざけんのはやめとくれよ。

てなやりとりがある。『らくだ』でも,

商売に出ないと、釜のふたが開かないと帰りたがる屑屋を引き留め酒を飲ませる,

というところがある。

どうやら,推測するに,

おまんまの食い上げ,

というような意味なのではないか。お米がないから,焚けない,焚けないから,蓋の開けようがない,というような感じだろうか。でも,なぜ釜の蓋なのだろう。

通常「釜の蓋」と言うと,

地獄の釜の蓋,

を指し,辞書(『広辞苑』)には,

正月と盆との16日は,閻魔にお参りする日で,鬼さえもこの日は罪人を呵責 しない,の意。殺生の戒めに用い,またこの日を藪入りとして住み込みの雇い人にも休養を与えた,

とある。その地獄の釜は,

地獄で罪人を煮るための釜で, 火炎の釜、膿と血の湯釜、蛆虫の水釜,

があるらしい。因みに,

釜蓋朔日(かまぶた ついたち)

というのがあり,

(旧暦の)「七月朔日には、地獄の釜の蓋が開く」

ということで,この日を釜蓋朔日というそうである。七月はお盆の月(暦月),釜蓋朔日はそのお盆の月の始まりとされるようである。

地獄の釜の蓋が開くとどうなるのか,

というと,

地獄に閉じこめられている精霊がこのあいた釜の口から出てくる。こうして地獄から出てきた精霊たちは,子孫の待つ家へ戻ってくる。

「この期間は祖霊が戻ってくるだけでなく、いろんな霊があの世とこの世を行き来するともいわれています。
そして、川や海などがあの世とこの世の通路になるため、お盆は川や海に近づくとあの世に引きずり込まれるといわれたりします。祖霊をあの世に送りかえすための精霊流しも、川や海などがあの世とこの世の通路になるからです。
川や海と同様,井戸もあの世とこの世の通路になることがあります。」

との,一文があった。

「地獄の釜の蓋も開く」

とは,

正月と、お盆は、みんな仕事を休みなさい、

という意味だとされる。

そう考えると,

「釜の蓋が開かない」

というのは,

おまんまが食えない,

という意味というよりは,

(地獄の蓋が開く日があるように)釜の蓋が開かない,

つまり,貧乏ヒマなしで,

休めない,

という含意がなくもないような気がする。そういう思いで,

「釜の蓋が開かないよ」
「・・・・釜の蓋が開かないとは、これいかに?」
「何?」
「鍋の蓋でも開けとけよ」
「鍋の蓋も開かないよ」

のやり取りを聴くと,休めないほど貧乏という含意も見えなくもない。

因みに,「竈」は,

竈處

で,井を井戸というのと同じ使い方らしい。








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2015年09月29日

天眼


天眼は,

てんがん
あるいは
てんげん

と訓む。しかし,

てんげん

と詠むときは,本来は,

仏語。五眼 (ごげん) の一。すべてを見通すことのできる眼,
普通の人の見ることのできない事象を自由自在に見通すことのできる力,

を指す。しかしもうひとつ,

「 天眼通(つう) 」に同じ。

とも載る。

五眼(ごげん)は,調べると,

1 肉眼(ニクゲン)…人間の眼
2 天眼(テンゲン)…天人の眼
3 慧眼(エゲン)……ラカンの眼
4 法眼(ホウゲン)…菩薩の眼
5 仏眼(ブツゲン)…仏の眼

を指し,

①肉眼(にくげん)。現実の色形を見る眼。
②天眼(てんげん)。三世(さんぜ)十方(じっぽう)を見とおす眼。
③法眼(ほうげん)。現象の差別を見わける眼。
④慧眼(えげん)。真理の平等を見ぬく眼。
⑤仏眼(ぶつげん)。前四眼をそなえる仏の眼。

で,仏はこの五眼をまどかに具えて衆生を救う。『大経』では,浄土の菩薩にこの五眼が具わると説く,という。

http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3183.html

では,天眼について,

「天界の神々は三世(サンゼ)十方(ジッポウ)を観るとされています。三世は過去・現在・未来であり、十方は、四方八方と上下すべての方位です。」

と説明する。

「天眼」のもう一つの意味,

天眼通は,

てんげんつう
とも,
てんがんつう

とも訓むが,

仏語。六神通の一。普通の人の見ることのできない事象を自由自在に見通すことのできる力,

という。六神通 (ろくじんずう) とは,

「仏教において仏・菩薩などが持っているとされる6種の超人的な能力。6種の神通力(じんずうりき)。六通ともよばれ、『止観』(瞑想)修行において、『止行』(サマタ瞑想、禅那・禅定、四禅)による三昧の次に、『観行』(ヴィパッサナー瞑想)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである。」

とあり,仏・菩薩などが持っているとされる6種の超人的な能力。神通力は,

じんずうりき

と訓むが,一般には,

じんつうりき

と訓んでいる。

人間の思慮でははかれない、不思議な霊妙自在の力

を指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E9%80%9A

http://www.aleph.to/enlightenment/snp-01.html

によると,

神足通(じんそくつう)機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。
天耳通(てんにつう)ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。
他心通(たしんつう)他人の心を知る力。
宿命通(しゅくみょうつう)自分の過去世(前世)を知る力。
天眼通(てんげんつう,)死生智) - 一切衆生の過去世(前世)を知る力
漏尽通(ろじんつう,)自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力。

とあり,別に,

神足通 空中浮揚やテレポーテーションをしたり、化身を自在に使って、高い世界へ飛んだりすることのできる能力
天耳通 神々の声を聞いたり、遠くの音を聞いたりすることのできる能力
他心通 他人の心を知る能力
宿命通 自分や他人の前世(多くの過去世)を知る能力
死生智 転生先を知ったり、生きながらにしていろいろな世界とつながることのできる能力
漏尽通 完全なる絶対なる神の叡智

とあるが,漏尽通は,

「苦しみ(汚れ)、苦しみ(汚れ)の原因、苦しみ(汚れ)の消滅、苦しみ(汚れ)の消滅への道(以上、「四聖諦」)を、ありのままに知ることができる」
「欲望・生存・無知の苦しみ(汚れ)から解放され、解脱が成され、再生の遮断、修行の完遂を、知ることができる」

で,これが最高位ということになるのか。

ところで,天眼鏡

は,

てんがんきょう,

と訓むが,

柄のついた大形の凸レンズ,

のことだ。人相見が使って,

運命など普通には見えないものまでも見通すところから,

そう呼ぶ。当たるも八卦とはちと違う。因みに,頂天眼というと,

金魚の一種。背びれがなく,眼球が突出するが,出目金と異なり,上方を向いている。

そうだが,天眼にかけたのだろうか。頂天眼は,

「中国産の金魚で、アカデメキンの突然変異から生まれ、眼が頭の頂上にあり、天上を向いている。」

そうで,既に清の時代にはあったという。

「赤デメキンの突然変異を固定化したもので、デメキンとの違いは眼が完全に上を向いているだけでなく、背ビレも欠如している。眼が天を向いているので『頂天眼』と名付けられた。」

とある。名づけたものに聞かないとわからないが,「天眼」を意識していたことは間違いない。

Celestial_eye_goldfish.jpg









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2015年09月30日

どんでん返し


どんでん返しは,

正反対にひっくり返すこと。転じて,話・形勢・立場などが逆転すること。
「強盗 (がんどう) 返し」に同じ。

とある。強盗返しは,

歌舞伎で、大道具を90度後ろへ倒し、底面を垂直に立てて次の場面に転換させること。また、その仕掛け。どんでん返し。箱天神 (はこてんじん) 。

とある。強盗返しの別の説明では,

「箱天神ともいう。家体あるいは丸物の第一場面の道具がそのまま背後に転倒してその道具の下部に仕込まれた道具が現れ、次の場面になる方法。」

人が龕灯のロウソクのように常に見えていることから。強盗返しというということになる。語源由来辞典,

http://gogen-allguide.com/to/dondengaeshi.html

によると,

「近世,歌舞伎の舞台で大道具を90度後ろへ倒し,底面を立てて,次の場面に転換することや,その装置を『どんでん返し』といったことに由来する。歌舞伎の『どんでん返し』は,中が自在に回転する仕掛けの『強盗提灯(がんどうちょうちん)』に似ていることから,元々は『強盗(がんどう)返し』と呼ばれていた。『がんどう返し』が『どんでん返し』に転じたのは,『どんでんどんでん』という鳴物の音からか,大道具を倒す時の音からと言われている」

とある。ちなみに,強盗提灯とは,

「銅板・ブリキ板などで釣鐘形の枠を作り、中に自由に回転できるろうそく立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えない。忍び提灯。龕灯(がんどう)。」

のこと。通常,龕灯(がんどう)と呼ばれる。龕灯は,

「江戸時代に発明された携帯用ランプの一種。正面のみを照らし、持ち主を照らさないため強盗が家に押し入る際に使ったとか、目明かしが強盗の捜索に使ったとも言われ、『強盗提灯(がんどうちょうちん)』と呼ばれた。金属製、または木製で桶状の外観をしており、内側には二軸ジンバルにより2本の鉄輪が回転し、内側の鉄輪の中央にロウソクが固定されており、龕灯をいかなる方向に振り回してもロウソクは常に垂直に立って火が消えないような工夫がなされている。」

がんどう.JPG

http://www.hokusetsu-ikimono.com/kenkyu/syakai/mukashi-dougu/parts/kaichyudentou/gandou-02.JPG

写真を見ると,真直ぐに立ったろうそくが,二つの輪の回転でどのような向きになってもまっすぐ立つようにくふうされている。その由来は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E7%9B%97%E8%BF%94

に詳しいが,

「演劇を行う施設では演劇空間の時空を自在に演出するために外部からの光を遮蔽することが多く、舞台上の照明は一般的には内部照明によってのみ操作する。このため、舞台照明を一瞬だけ消すことで真っ暗闇を実現することが可能となり、この暗転の中で演劇者は衣装を着替えて次の演技の所定の位置に着き、舞台道具は強盗返の仕掛けを用いることで、場所や季節の切り替わり等のシーンの切り替え等を舞台と客席の間の幕を上げ下げをすることなく、観客の目の前で短時間で行うことが可能となる。」

とあり,

「強盗返は横から見ると床と壁が一体化したアルファベットの大文字の「L」の形をしており、床面に置かれた什器備品等の多くは底面である床に固定されている。歌舞伎では一体化した床面と壁面を備品と共に後ろ側に倒すことで、今までは床に見えていた底面部分の裏側に隠れていた壁面が観客の目の前に現れる。この時、歌舞伎では前述の大太鼓の音が「どんでんどんでん」と鳴り響く。」

後に部隊が回る回転式が登場するが,その場合,強盗返と区別するために,盆廻し(ぼんまわし)と呼ぶそうである。

どんでん返しには,

忍者屋敷の扉のからくり。

の意味もあるが,こういう由来を見ると,どうやら比較的新しい言い回しだということがわかる。

ところで,強盗は,現在ふつう,

ごうとう

と訓む。それを,

がんどう

と訓むのは,

唐音

らしい。『古語辞典』には,がんどう(強盗)で載る。辞書(『広辞苑』)によると,古くは,

ごうどう,

と訓んだらしいし,日葡辞典では,

がうだう,

と訓んだらしいので,がうだう,がんどう,ごうどう,ごうとう,という転訛なのだろうか。『大言海』は,

「がんだう」を「がうだう」の転,

とある。『古語辞典』の「がんだう」の項には,強盗返し,強盗提灯のほかに,

強盗(がんだう)打つ 強盗に入る
がんだうづきん(強盗頭巾) 頭・顔全体を包み隠し、目だけを出すようにした頭巾。苧(からむし)頭巾。目ばかり頭巾。ごうとうずきん。

が載っている。「ごうとう」より「がんどう」のほうが,およそ強面でなくなる語感があるが。








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2015年10月05日

テキトー


適当(てきとう)は,

ある条件・目的・要求などに、うまくあてはまること。かなっていること。ふさわしいこと。また、そのさま。
程度などが、ほどよいこと。また、そのさま。
やり方などが、いいかげんであること。また、そのさま。悪い意味で用いられる。

といった意味になる。たぶん,本来は,

「適(かなう)+当(あてはまる)」

で,

ちょうど良い程度,

の意の形容動詞,とされ,近世以後の造語とされる。本来の「かなう」という意味では,むしろ,

適切,

が使われて,昨今,適当は,

テキトー,

と表現されたりして,いい加減の代名詞になっている。『語感辞典』では,適切は,
まさにそれにふさわしい,

という意味で,

「適当」以上にぴったりと合う感じがある,

とまで言い切る。

適当は,『古語辞典』にはなく,『大言海』は,「てきたう(適當)」として,

良く程にあたること,あてはまること,てつけ,相当,

という意味が載っている。「てつけ」が気になるが,それ以上の説明はない。「てつけ」を引くと,「てつけきん(手付金)」の略とある。「手付金」をみると,

「物を買ふべしと約したる証に,先ず其の値の中の若干分を払ひ置く金子。これを払ふを,打つと云ふ。」

とある。もし,(ここからは推測だが),手付金を(払うのを)「適当」と読んだとすると,当該価格にぴったりを手付にするわけではないから,ギャップがあるし,その金額にも幅がある。ここから,適当の,適切の意味から「テキトー」へとスライドしていく余地があったのではないか,と憶測する。

ちょうど,いい加減が,「好い加減」の,

良いほどあい,適当,

という意味から,「いい加減」の,辞書(『広辞苑』)に言う,

情理を尽くさないこと,徹底しないこと,深く考えず,無責任なこと,

というより,

ぞんざい,
投げやり,
ちゃらんぽらん,

へと,意味をスライドしていくのと,見合っている感じである。本来,「好い加減」は,

「いい(好い)+加減」

で,

良い状態,
加減が良い状態,

であったものが,転じて,

一貫性や明確性を欠いて,行き当たりばったりな態度,

になったとされる(『語源辞典』)。漢字の「適」は,

「啇」が啻の変形で,ひとつにまとめる,まっすぐいっぽんになった,という意を含むみ,「辶(足の動作)」をくわえて,真っ直ぐに一筋にまともに向かう,

という意味になり,「当(當)」は,「田+尚」で,

田畑の売買や替地をする際,それに相当する他の地の面積をぴたりと引き当てて,取引をすること,

という意味で,さらに,枠組みがぴったりと当てはまる意から,

当然そうなるはず,という気持ちを表す言葉となった,とある。

その意味では,手付金とは,意味がずれすぎているが,本来の意味の外延に入らないわけではない。しかし,本来の全額の一部しか払わない,という意味を敷衍していくと,

ピタリ,
とか
かなう,

とは随分ずれている。億説だが,

目的や要求に沿って払うべきところを,一部の手付で,約束の履行の予約をする,

という意味では,ある意味,アバウトで,信用取引に違いない。あるいは,それを違えるひともでてくるということもあるだろう。そんなところから,

「適当にやる」
「適当に済ませる」

等々というニュアンスが出たのかもしれない。その意味で,

「テキトー」

とカタカナで表記すると,一層よりテキトー度が高まる気がしてならない。「徹底的」を「テッテテキ」と言い表したのはつげ義春であったが,適当を,

テキトー

と,表現することで,ギャグる感覚が顕現される感じになるのは,カタカナのもつ,ちょっと外れた感から来ているのかもしれない。同じ意味でも,単なる,

ちゃらんぽらん,
投げやり,

と言うよりは,相手のいい加減さが,より伝わってきそうだ。









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2015年11月05日

げんを担ぐ


げんを担ぐは,

験を担ぐ

と当てることが多い。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/69321/m0u/

には,

《「縁起を担ぐ」から転じた語か》ある物事に対して、よい前兆であるとか悪い前兆であるとかを気にする。

とあるが,手元の辞書(『広辞苑』)には,「験」しか載っておらず,

「験(けん)」には,「慣用音」とあって,

しるし,きざし,ききめ,
ためし,調べること,

という意味があり,

「験(げん)」には,

仏道修行を積んだしるし,加持祈祷のききめ,
ききめ,しるし,効能,
縁起,前兆,

とある。どうやら,「験(げん)」のようだ。ところが,

「験(げん)」の語源は,

「縁起の逆で,ギエンの音韻変化」

とあって,「縁起」へ,また戻ってくる。つまりは,

「何かをするのに先立って,そのことの善し悪しを示すような出来事」

をいう。しかし「縁起の逆」の意味が分からない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%93%E3%82%92%E6%8B%85%E3%81%90

には,

「本来は『縁起を担ぐ』であったが、江戸時代に流行った逆さ言葉で縁起を『ぎえん』と言うようになり、それが徐々に『げん』に変化したとする説が一般的である。」

とあって,「ぎえん」の謂れが分かる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ke/genwokatsugu.html

には,

「本来は,『縁起を担ぐ』で,『縁起』が反転し音韻変化したとする説が有力とされる。この『げん』は,『げんがいい』や『げんなおし』などとも使われる。『験』には,『仏道修行を積んだ効果』の意味や『利き目』『効果』などの意味があり,『縁起』を意味する『げん』と関係があるとも考えられている。ただ,『効果』などを意味する『げん』は平安期,『縁起』を意味する『げん』は近世以降と自体が離れており,『縁起』を意味する方は,ヤクザ用語から出た言葉とされていることから,直接関係するわけでもなさそうである。」

とあって,由来が一筋縄ではない。まあ,

縁起船乗り博奕打

という諺があるくらいだから,ヤクザには縁起担ぎは縁が深いのかもしれない。

しかし,「縁起を担ぐ」は,辞書(『広辞苑』)には,

「ちょっとしたことにも縁起がいいとか悪いとか気にする」

という意味が載っていて, 他の辞書でも,

「ちょっとした物事に対して、よい前兆だとか悪い前兆であるとかを気にする。」

という意味が載っている。
げんを担ぐ,

縁起を担ぐ,

では,確かに似ているのだが,微妙に違う,というか,事態が,さかさまのような気がする。

げんを担ぐ方は,

「何かをするのに先立って,そのことの善し悪しを示すような出来事」

で,げんがいいとか悪いとかという。

縁起を担ぐ方は,

「ちょっとしたことにも縁起がいいとか悪いとか気にする」

とあるので,過去の幸運やよいことがあったためしにならって,それを守ろうとする,というように,受け取れる気がする。現に,「縁起を担ぐ」の類語には,

「成功や利益を祈願するために過去の良い状況を再構築しようとするさま」

として,類語を挙げる。

「縁起」は,辞書(『広辞苑』)には,「因縁生起の意」として,

仏教で,一切の事物は固定的な実体を持たず,さまざまな原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立しているということ。因果。
事物の起源・沿革,由来。
社寺などの由来または霊験などの伝記,またはそれを記したもの。
吉兆の前兆,きざし。

といった意味が載る。言ってみれば,

「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指す,

ということになる。だから,いまの吉兆が,これからの成功の兆し,と言った受けとめになる。ただ,

http://okwave.jp/qa/q7829914.html

には,

「何かを始める際に吉兆の兆しを取り上げて、その縁起が好ましくなければ「(御幣を)担ぐ」意味での御祓いや、それに準じた何某(なにがし)かを行うのが縁起担ぎであり、一方『験を担ぐ』方は、これまでの好ましかった『験(効き目)』の再現を願って御祓いのような何がしかを行うもの」

との記述があるので,真逆の解釈になる。ただ,近世以降,「縁起」の意味の「験」に重なったようだから,あえて,順序をつけるのは野暮かもしれない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2016年05月28日

しろ


色としての「しろ」については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD

に詳しい。『語源辞典』には,二説載る。

ひとつは,「『著し(しろし)』で,目立つ,意」
いまひとつは,「『素(シロ,生地のまま)』で,手を加えない,素材の色」

とあるとする。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/si/shiro.html

は,

「白は、形容詞『白し(しろし)』の語幹。 枕草子に『春はあけぼの やうやうしろくなり行く』とあるが、この場合の『しろく』は、明るくはっきりしたさまを表している。『著しい』を古くは『いちしるし(いちしろし)』と言い、この『しるし(しろし)』は『はっきりしている』という意味である。『目印』などと用いられる『しるし』も、はっきりしたさまを表している。白の語源は、これら『はっきりしたさま』を意味する『しろし』『しるし』に通じる。また『し』の音には指示性のある語が多く,明確さをあらわす語であったと思われる。」

とある。『大言海』には,

著しき色の義か,

とある。『古語辞典』には,

「しろし」の語幹,

とあり,「しろし」には,

「白し」
「著し」
「素し」

と,当てて区別している。しかし,この区別は,中国語の「白」「素」「著」を当てたところから来ているのであって,素人が言うのもなんだが,さかさまのように感じる。『古語辞典』には,「しるし」は別項に立て,

「著し」

として,

「しるし(徴・標)と同根。ありありと見え,聞え,また感じ取られて,他とまがう余地がない状態」

とある。「しるし(徴し・標し・銘し)」の項には,

「シルシ(著し)と同根。他の事と紛れることなく,すぐそれと見分けがつく形で表現する意」

とある。どうやら,「しろい」は,

他との差異が際立って「目につく」

という意味で,その場合,色のみを指していたのではなく,見分け,聞き分け,嗅ぎ分け等々の知覚の際立つことを指していたのに違いない。日本語の「きく」が,

聞く,
利く,
効く,

と,「利き酒」にも通じていることを思い出させる。「あか」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/429360431.html

「あを」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/429309638.html

で触れたおりに,

「一説に,古代日本では,固有の色名としては,アカ,クロ,シロ,アオがあるのみで,それは,明・暗・顕・漠を原義とするという。」

と書いたが,「あか」が明るいであり,「黒」が暗い,といった感覚を示していただけだということを思い出すと,われわれに,「色」という意識の言葉があったかどうかは疑わしい。むしろ,「白」「素」という言葉を知って,ひょっとすると色というものを意識したのではあるまいか。

漢字「白」は,象形文字で,

「どんぐり状の実を描いたもので,下の部分は実の台座,上半は,その実。柏科の木の実の白い中味を示す。柏(はく)の原字」

とある。「そうか,この明るさは,色というのか」と知ったということだろうか。

「素」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/434943171.html

で触れたが,「素」は,

「『垂(すい たれる)の略体+糸』で,ひとすじずつ離れて垂れた原糸」

で,「撚糸にする前のもとの線維」で,もととなるものという意味になる。で,漢字「素」は,「もと」という意味の本・元・原等々とは,区別されて使われる。

本は,末に対していい,後先をただしていう,
原は,水源の義より,根本を尋ねていう,
旧は,新の反,
故は,今に対して,以前はこうであった,という
素は,白き帛のこと,下地からの意,
基は,土台の意,

と区別する。「白い」色というよりは,

模様や染色する前の生地のまま,

を指す。それが,日本語の「素(す)」「素(そ)」と訓み分ける原因になっている。因みに,無罪の意味の「シロ」は,『日本語俗語辞典』

http://zokugo-dict.com/12si/siro.htm

に,

「白とは無実、無罪、潔白を意味する。また無実の人のことも白という。白は警察の間で使われていたものが、ドラマや映画、その他メディアから一般にも普及。犯罪でなくてもイタズラや裏切り行為をしたかどうかといった程度のことにも使われるようになる。ちなみにこの白は日本語の潔白からきたのではなく、英語で無罪・潔白を意味するwhite(正確にはwhite hands)から、警察の間で使われるようになったといわれる。」

とある。まったく別の由来ということになる。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
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2016年05月29日

くろ


色の「黒」については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92

に詳しいが,すでに,「あか」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/429360431.html

で,「あを」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/429309638.html

で触れたが,その折,

「一説に,古代日本では,固有の色名としては,アカ,クロ,シロ,アオがあるのみで,それは,明・暗・顕・漠を原義とする」

と書いたことがある。「しろ」でも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/438347414.html?1464378171

触れたが,「くろ」は色というより,「明暗」の「暗」を指している。したがって「くろ」も,辞書(『広辞苑』)には,

「『くら(暗)』と同源か。また,くり(涅)と同源とも」

とある。あるいは,似たニュアンスだが,

「『暗い(くらい)』もしくは『暮れる(くれる)』が転じて『黒(くろ)』となった」

とする説もある。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ku/kuro.html

は,

「黒の語源は定かではないが、『暗い(くらい)』『暮れる(くれる)』などの意味と繋がりのある語である。 平安時代の辞書『和名抄』には、水底によどむ黒い土の『涅(くり)』を『和名久理 水中黒土也』とあり、赤色を表す『丹(に)』が『赤土』をさしたのと同じで、色彩名と土の名称は関係が深い。上代に『黒色』を表わした『烏(ぬば)』も『ぬま(沼)』と同源で,泥の意味があった。」

としている。『語源辞典』を見ると,「黒い」について,

「語源は,『暗し』の音韻変化です。クロシの口語がクロイです。名詞の『黒』は,クロイの語幹がそのまま名詞に使われた」

とする。『大言海』も,

「暗(くら)と通ず(はららぐ,ほろぐ,白(しろ),しら)。沖縄にてはくる」

とある。さらに,「暗し」で,

「黒しと通ず,すめらぎ,すめろぎ」

と音韻変化例を示し,

「明(し)の反」

とする。「暗し」は,『古語辞典』にも,「くらし」として,「暗し」「暮し」を別に立て,

「クラ(暗)・クレ(暮)と同根。明(あか)しの対」

とある。他の色との関連から見れば,

明・暗・顕・漠が,アカ,クロ,シロ,アオ,

の原義,というのもうなずける。因みに,「あを」で触れたが,「あを」は,

「本来は,灰色がかった白色」

を言うらしいので,「漠」を指す。状態を示す言葉のはずが,

色,

として抽出され,汎用化されたということになるが,ここでも,「赤,黒,白,青」という漢字のもつ影響は多かったのかもしれない。「あを」でも書いたが,「青」と当てることで,「緑」と区別された。

「『あお』の代名詞のような,藍自体,古く中国から輸入した。」

この場合,藍染めと一緒に「藍」が伝わる。色(の識別や言葉)が先にあるのではなく,それを示すモノやコトが先にある。しかし,それを名づけて,地から図を,分化させていくことで,見える世界が変わる。

漢字の黒(黑)の字は,

「この字の下部は火,上部は煙突に点々と煤のついたさまをあらわす」

とある。その状態を共有化しなければ,「くろ」(暗い)を「黒」には当てないだろう。

因みに,「黒」に関連して,『語源由来辞典』は,「黒字」の「黒」を,

http://gogen-allguide.com/ku/kuroji.html

「黒字は、簿記で収入超過額を黒色で記入すること。 そこから、利益が出ることを『黒字』と言うようになった。 言われ始めた 正確な時期は不明だが,広まった時期は『赤字』と同様,大正から昭和初期にかけてである。」

とあるし,「黒幕」の「黒」は,

http://gogen-allguide.com/ku/kuromaku.html

で,

「黒幕は歌舞伎などの芝居に用いる黒幕に由来する。歌舞伎では,舞台・場面の転換や,夜の場面を表すため黒い幕を張った。その陰で舞台を操ることから,裏で操る人を『黒幕』というようになった。また武家政権の『幕府』や相撲の『幕内』のように,『幕』には立ち入りがたい場や地位の者を表す語が多いため、裏で操る人の中でも、特に 権力者の意味が強くなり、『政界の黒幕』などと用いられるようになったと考えられる。」

としている。なお,「黒い」を,『江戸語大辞典』では,

よい,優れている,うまい,

という意味で使っている。これは,

「役者評判記の位付けに,同じ吉でも黒字の吉が上で,白字の吉を下としたのに基づき,明和頃深川の岡場所で流行語になった」

とある。ここから「玄人」を連想する。『大言海』は,「くろうと」に,

玄人,

黒人,

を当てる。で,

「クロヒトの音便,素人を打ちかへして云へるまでの語なり(おもしろいをかへして,おもくろいなどと云ふ)。」

とある。「面黒い」とは,一般には,

「おもしろい」をしゃれていった語,

という意味と,俳句や川柳では,逆に,

「おもしろい」の反対の意で、「つまらない」をしゃれていった語,

として使うという,相反する意味で使われた。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
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2016年05月31日


知覚の色については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2

色名については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E5%90%8D

に詳しい。「色」のうち,「あか」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/429360431.html

「あを」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/429309638.html

「しろ」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/438347414.html

「くろ」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/438380876.html

で,それぞれ触れた。そもそも「いろ」とは何か。『語源辞典』には,二つの説が載っている。

説1は,「ウルワシのウル」を語源とする。
「品目のイロ,顔色のイロ,いずれも古くから使われている語です。男女関係の情欲の色は中国語の影響かと思われます。」

節2は,「イロ(族)+わけ」で,階級により衣服の色が変わるのを語源とする。

『古語辞典』は,

「色彩,顔色の意。転じて,美しい色彩,その対象となる異性,女の容色。それに引き付けられる性質の意から色情,その対象となる異性,遊女,情人。また色彩の意から,心のつや,趣き,様子,兆しの色に使う。」

とする。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/i/iro.html

には,

「色の語源は、血の繋がりがあることを表す『いろ』で、兄を意味する『いろせ』、姉を意味 する『いろね』などの『いろ』である。 のちに、男女の交遊や女性の美しさを称える言葉となった。 さらに、美しいものの一般的名称となり、その美しさが色鮮やかさとなって、色彩そのものを表すようになった。」

との別説を記している。『大言海』は,

「うるは(麗)しのウルの轉なるべし。うつくし,いつくし,いちじるしい,いちじろし,」

と,「ウル」の転説をとる。なお,『大言海』は,この「いろ」の他に,

「いろ(色)」

を他に項を立て,

「白粉(しろきもの)の色の義。夫人の化粧を色香と云ふ。是なり」

として,「色を好む」「色を愛ず」の意味と,そこから転じた,「女を愛ずる情」「色好み」の意を載せて区別しているところが見識か。

漢字の「色」の字は,象形文字で,

「かがんだ女性と,かがんでその上に乗った男性とがからだをすりよせて性交するさまを描いたもの。セックスには容色が関係することから,顔や姿,彩などの意となる。また摺り寄せる意を含む」

とある。上記の『語源辞典』のいう「中国語の影響」というのは,漢字の語源から来ている。意味も,「男女間の情欲」から,顔かたち,外に現れた形や様子へとシフトし,いろどり,色彩へと転じている,ように見える。。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1286809697

では,

「色とは、人と巴の組み合わせです。巴は、卩であり、節から来ているといいます。卩・節には、割符の意味があり、心模様が顔に出るので、心と顔を割符に譬えて色という字になったと聞きました。顔色という言葉は、ここからきています。また、巴は、人が腹ばいになって寝ている所を表しそこに別の人が重なる形だとも言われます。つまり、性行為を表す文字です。卩は、跪くことにも通じているようです。いずれにしろ、性行為のことです。」

と,同趣の「色」の字の由来を載せている。いずれも,「性的意味」になるようだ。その上で,

「色は、性の意味で使われましたが、次第に女性の意味としても使われだし、やがて、美しい女性のことをも指すようになりました。最初は、カラーの意味はありませんでしたが、美しい様を色と言うようになり、それが転じて、色彩の意味を持つようになったようです。」

と付記している。なお,

色即是空

でいう「色」は,別系統で,

「『色』は、サンスクリット語ではルーパで、目に見えるもの、形づくられたものという意味で、それらは実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変で実体はなく、すなわち『空』である。『空』は『無』や『虚無』ではなく、存在する宇宙のすべての物質や現象の根源には目には見えないが、エネルギーがあり、宇宙に存在するすべてのものはこのエネルギーが刻々形を変えているものである。すなわちエネルギーが『空』であり、『空』から生み出される形象が『色』と解釈される」

とある。

どうやら,ほんらい「いろ」は,語源はともかく,

色彩,

しか意味していなかった。しかし「色」の字を当てることで,色合い,彩りから,性愛の方へ意味の外延を広げていった。この場合,「色」のもつ含意によって,意味は広がったが,多少下卑たと言えるかもしれない。江戸時代は,『江戸語大辞典』をみると,

色事,

一辺倒になり,

色で逢う,
色で呼ぶ,
色に成る,
色に陥(はま)る,

等々,その類の成句が多い。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E5%8D%B3%E6%98%AF%E7%A9%BA


ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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