2013年06月09日
吉本隆明の後姿
加藤典洋・高橋源一郎『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』(岩波書店)を読む。
考えてみれば,十代から,ずっと,吉本隆明の著作に,つかず離れず,付き合ってきた。珍しくほとんどの出版物を読んだ作家の一人だが,とても僕のような非才には理解はでき兼ねるが,「世の中の正しい」ということに,いつも違う視点から異を唱えていた印象がある。
記憶で書くので間違っているかもしれないが,「吉本がいるなら日本は信じられる」といったような趣旨の遺書を書いて自殺した学生がいたと記憶している。
ぼくもまた,いつも,「吉本ならどう考えるのだろう」と,高橋源一郎がいっているような,「吉本さんは,ものを考えるときの『原器』のようなものだった」というところがある。その理由が,僕の中で見えた気がした。
加藤氏が言っている。
「正しいこと」って本当に不思議だよね。これが一人で言われるときはいい。特に大勢に対して言われるときにはもっといい。でも,たとえことばとしては同じでも,これが大勢として言われるときには何かが変わっている。
吉本の原点は,その違和感のようだ。そして,吉本にとっては,
「どちらもただしい」という解こそが,唯一,正しさへの抵抗になる。
その原点は敗戦にある。
自分はこの戦争は正しいと思った。そしてどこまでも遂行すべきだとその考えに穴がないかどうかは何度も検討した。それでも誤った。ではどこが間違いだったのか,と考える。他の人が,たとえ自分は戦争は正しいと思ったのだったとしても,それは十分に考えなかったからだ,ついうかうかと世の中の考え方に流されたからだ,というように簡単に反省して,戦後の民主主義につくところ,吉本さんは,自分は十分に考えた,それなのに間違った,なぜだろう,と立ちどまるのです。
その視点は,簡単に立ち直る戦後文学の担い手への違和感であり,そこから転向論があり,非転向への批判があり,さらに思想のあり方そのものへと踏み込んでいく。
その思想が自分の生きている現実から生まれたものでない場合には,思想は,それをもって生きる現実とのすり合わせのなかからその意味と価値を創りだす。
この課題は,いまも営々と移入された思想を信奉する者のあとを絶たない,というか,ほとんど自分で考えず翻訳するだけで思想家になったつもりのものだらけのわが国では,今も原則として生きている。そして,そんなすりあわせすらほとんどされない現状をみるとき,まだその意味は消えていない。
では吉本のしたことは何か。加藤氏はいう。
(3.11の原発事故の後)日本の多くの思想的な営為とことばが,日本と世界だとか,日本の未来だとか,自分と日本だとか,極めて中途半端な射程のうちに,無自覚に企てられ,発せられているものとして映ってきます。そういうなかで,何人か,いまの日本の場所から,直接,世界について考えている思想家のいることも見えてきます。そういうふうに,世の中がみえてくるようになってはじめてわかったことのひとつが,こうした思想的な企て,思想の源流に,日本語で書く思想家として,吉本隆明がいるということだったのです。
そして,こう続ける。
ここで日本という場所にいて世界のことを考えるというのは,これまで多く見られた海外の新たな思想を日本に移入する形で,日本で世界のことを語るというのとは全く違っています。(中略)そうした仕事は,翻訳されれば,すぐに海外にオリジナルがあるとわかってしまいます。そうではなくて,日本の現実に根ざして,かつ,そこから世界のことを考え,もしこれが世界に照会されれば,世界の人々にインパクトを与えるだろうというような仕事のことをここではいっています。
それは,国や民族の限界から離脱し,日本人ではなく,人間を単位とする思考をすることだ,そこに加藤氏は改めて吉本隆明を再発見したのだという。
世界と自分との間に「日本」という国単位の枠をおかない。そのだめさ加減に自分は,戦争で,つくづく懲りた,という吉本の徹底した自分への掘り下げがある。それを,加藤氏は,
腑に落ちる
という。同じ感覚を,高橋氏は,
浮かない感じ
という。そういう,自分の中の違和感を,吉本は常に大事にしている。右へならへすることにも,違和感を違和感として言語化する。「反反原発」も「オーム」も,吉本の中には,「原理としての軸がある。高橋氏はいう。
ほとんどすべての思想家,あるいはほとんどすべての作家,ほとんどすべてのことばをあつかう人たちの拠って立つものと,吉本さんが拠って立つ者との違いみたいなもの,それが…「腑に落ちるか」ということではないですか?つまり内臓言語で,「原生的疎外」のところまで下りていかなければだめだということと,大衆に向き合うということとは等号で結ばれるということで,吉本さんの思想みたいなものは成り立っているのかもしれない。
この原生的疎外とは,
生命体(生物)は,それが高等であれ原生的であれ,ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然に対してひとつの異和をなしている。この異和を仮に原生的疎外と呼んでおけば,生命体はアメーバ―から人間にいたるまで,ただ生命体であるという理由で,原生的疎外の領域をもっており,したがってこの疎外の打消しとして存在している。
から来ている。内臓言語とは,『言語にとって美とはなにか』(日本語ではなく,言語そのものを対象にしていることに注意)での,指示表出,自己表出を三木成夫によって,自己表出を内臓系感覚,指示表出を神経系感覚に対応させたのによる。だから,「腑に落ちる」「浮かない」に対応する。
その意味で,吉本にはいつも二つのメジャーがある。
歴史は,外から見る外在史(文明史)として現れるが,内から見ると内在史(精神史)として現れてくる。(中略)外在史の視点から内在史を断罪しない。近代的倫理から悪を断罪するのではなく,悪の行為のうちに,近代的倫理を相対化するような内在性があると認められる場合は,足場の近代的倫理をいったん相対化する必要がある…。
あるいは,
「未来の何かに向かっていることへの追求」(外在史)と「人類の原型であるような段階を掘り下げること」(内在史)が同じ作業であるような場所で,いまかろうじて「歴史」の概念は成り立つはずで,これまでの世界史という考え方ではもはや「歴史」はとらえられないし,これを超えるには「原始と未確定の未来の二方向性」の探求が必要となる…。
あるいは,
たとえ,どんな外界のきっかけの結果として起こるのでも,あるいは(お腹が重苦しいというような)内的な生理過程の結果として起こるのでも,「個体はなお〈じぶんがいまこう心でおもっていることをだれも知らないし,まただれも理解することはできない〉という心的状態になることができる」。そのことは個体の「心的な現象」が自分自身の心的な過程,生理過程とじかに関係していることが,ありえることを語っている。そうだとすれば,「このような心的状態」をそれとして独立に考えることは,できるだろう…。では人間の個体が〈じぶんがいまこう心でおもっていることをだれも知らないし,まただれも理解することはできない〉と感じるとしたら,「その「感じる」とは何を内容としたものだろうか,というように広がり,(中略)最後に,もし単細胞のアメーバが〈じぶんがいまこう心でおもっていることをだれも知らないし,まただれも理解することはできない〉と感じるとしたら,それはアメーバがどう何を感じるということだろうか,というところまで行く…。
その先に,フロイトは,生命には生きていることへの違和感があるとし,それを「死への欲動」としたことを批判し,それは「変だと」感じ,フロイトのように人間的違和感に還元するのではなく,生命体としての違和感とすれば,前述の「原生的疎外」にいたる。つまり,人間には,人間であるほかに,生命体としての人間がある,ということになる。
ここにも,人間に還元しない,もう一つの視点を入れる,二元的指標がある。ここにあるのは,
生命種は永続するが人類はいつかほろびる,
という感じ方が入っている,と加藤氏はいう。このように,
吉本さんは異なったメジャーを用いて正しさに抵抗するということをやってきた。(中略)いまになって,吉本さん自身の考えていた以上に,彼の実践にはとても有効な部分があったことに気づいた。
そういう吉本の姿勢は,処女作である詩集にすでにある。
ひとつきりで耐えられないから
たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから
ひとつきりで抗争できないから
たくさんのひとと手をつなぐというのは卑怯だから
ぼくはでてゆく(「ちいさな群れへの挨拶」)
そしていう。
ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる
ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる
もたれあえことをきらった反抗がたおれる(同)
そう振り返る時,高橋氏が言うのがひどく共感できる。
吉本さんは,「正面」だけでなく,その思想の「後ろ姿」も見せることができた。彼の思想やことばや行動が,彼の,どんな暮らし,どんな生き方,どんな性格,どんな個人的な来歴や規律からやってくるのか,想像できるような気がした。どんな思想家も,結局は,僕たちの背後からけしかけるだけなのに,吉本さんだけは,ぼくたちの前で,ぼくたちに背中を見せ,ぼくたちの楯になろうとしているかのようだった。
いつも先頭で,最前線で,思想としての旗を振る。前からどころか,集中砲火を,背後から浴びても,なお,考え続けることをやめない。知識人であるとは,どういうことか,常に市井で,どこかの大学教授なんぞにならず,ただ文筆家として,筆一本で戦い続け,老いてもなお,常識に背き,「正しいこと」に異を唱えた。
常に僕の理想であったことが,正しいと,再確認した。自殺した学生の確信は正しかったのだ。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#加藤典洋
#高橋源一郎
#吉本隆明がぼくたちに遺したもの
#吉本隆明
2020年06月06日
架空問答(中斎・静区)
大塩中斎については、「万物一体の仁」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475454613.html?1591380773)で触れたが、大塩平八郎中斎は、天保八年(1837)二月一九日(三月二五日)に門人と共に蜂起する。その檄文に曰く、
四海こんきういたし候ハゝ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめしめば菑害并至と、昔の聖人深く天下後世、人君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ、東照神君ニも、鰥寡孤独ニおひて尤あはれみを加ふへくハ是仁政之基と被仰置候、然ルに茲二百四五十年太平之間ニ、追々上たる人驕奢とておこりを極、太切之政事ニ携候諸役人とも、賄賂を公ニ授受とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以、道徳仁義をもなき拙き身分ニて、立身重き役ニ経上り、一人一家を肥し候工夫而已ニ智術を運し、其領分知行所之民百姓共へ過分之用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上江、右の通無躰之儀を申渡、追々入用かさみ候ゆへ、四海の困窮と相成候付、……。
しかし、その日、中斎は、その高弟であり最愛の愛弟子宇津木靖を惨殺せしめた。宇津木靖、字は共甫。通称は矩之丞,。静区(セイオウ)と号す。静区は全力で中斎を諫めた。その思想的対立を、架空の問答としてまとめてみた。ただ、素人の悲しさ、二人の思想を十分理解し得ていたかどうかは、些か覚束ない。乞う、ご憫笑。。。
静区 「予想もしないことです。先生が、左様な事を仰せ出されるとは、」
中斎 「米価暴騰し、飢餓のため道々には行き倒れが満ちている、大阪だけで、この月四十人もの餓死者が出ているというのに、町奉行は措置を過ち、豪商豪農の義捐は捗らず、あまつさえ、なけなしの大阪の米を江戸へ廻米し、あろうことかわずかの米を買いに来るものを捕縛している、これを座視するに堪えようか。いたずらに人禍を怖れ、ついに是非のこころをくらますは、もとより丈夫の恥ずるところ、しかして何の面目ありて聖人に地下に見(まみ)えんや、ゆえにわれまた吾が身に従わんのみ。」
静区 「そのお言葉、先生のお言葉とは思えませぬ。災いを救い民を恤(すく)うは官自ら、それをおこなうべきことです。その位にあらざれば、その政を謀らず。だかこそ、孔子も孟子も、ご自分を容れられる君子を求めてさまよわれたのではありませんか。先生は矩を越えられるのか。」
中斎 「民の好むところを好み、民の悪(にく)むところを悪む。それをみずからが実践せずして、完成することにはならぬ。万物一体の仁とは、かようなものではないか。でなければ、手をつかねてただ上に進言し続ければよいのか。その間に、幾人の民が死んでゆくか考えてみたことはないのか。聖徳の君子の出現を待つゆとりはない。」
静区 「ならば、それなら、建議をもって、奉行をただすべきことです。それを豪戸を屠って民を済う、さようなやり方では、かえって民に禍をもたらすだけではありませんか。」
中斎 「何度建議に及んだことか、それに対して奉行の跡部山城守がどんな仕打ちをしたか、隠居の身なれば、控えよと申し、これ以上強いて言に及べば、強訴とみなすと、みどもを脅し、乱心扱いしおった。あまつさえ、蔵書を売った資金を元に、ひとり一朱の施行をするにさえ横槍を入れ、鴻池屋や他の豪商に救民救済の資金借り入れをした件についても、鴻池らを恫喝して沙汰闇にさせおった。みどももかつて、同役のものどもに、こう予言いたしたことがあった。一体太平の世が打ち続き天下一統奢侈増長、役人共は奸曲所業のみいたし、もはや天道にも御用済みの時代になっている。七八年のうちには大凶作が到来し、世上難儀必至、されば今のうちより御手当てなされたく、そのやり方はかくかくしかじか、そのように凶作の備えができていれば、間に合うと申し上げ、そうしないと、摂津、河内、和泉、播磨の民は飢饉に及び、難渋必至と、ことを分け、たびたび上疏致したが、寸分もお取上げにならず、役人共はおのが身上を肥やすのに汲汲といたし、民の難渋を顧みない。そのとき、みどもはこう申してやった。数年のうち大凶作到来、万民飢餓に及び候わば、やむをえず天道に代わって、諸人を救い、奸曲の役人共に目に者を見せてやると、役人共を睨みつけてやった。いま、そのときがきたまでではないか。」
静区 「だからと申して、彼等豪商を襲うとは、一揆と同じではありませぬか。先生は、百姓衆の暴発を、政(まつりごと)の危機とみておられたのではなかったのですか。」
中斎 「建議をつづけても、その建策をお取上げにならねば、座して、死にゆく民を見守るのか、それとも建策を取り上げぬ山城守を陰で罵るだけでよいのか。」
静区 「それがわれらの分です。」
中斎 「分とな。むろん、天子、諸侯、大夫は天下国家に責任がある。庶人は身を修め、家を斉(ととの)えることしかできぬ。ならば学問は、天子諸侯大夫にのみに属すのか。そうではないことをわたしは教えてきたはずだ。修身はすべてのものに不可欠で、誰ひとりそこから逃れることはできぬ。では修身とは何か。孝を親に尽くすは、即ち身を修めるの根本であろう。これを家、国、天下の礎におけば、斉、治、平の功はおのずとなる。修身を通して、斉家、治国、平天下に連なっていく。庶人であっても、修身を通して、庶人から天子まで連なるのだと。それぞれが、その得たるところで、分を尽くすとは、そういう意味であったはずだ。」
静区 「庶人が身を謹み、用を節することが孝であり、それが治国平天下に関わることは確かです。しかしそれは、公儀を恐れて法度を守り、身無病に手足強健なるように養生することに第一義があったはずです。」
中斎 「飢える民を前に、さようなことを言っておられようか。死にゆくものに訓点を教えて何の役に立つか。さようなことがわれら孔孟学の道なのか。そうではあるまい。」
静区 「そうあるべきです。乱など、もってのほかです。子曰く、その人となりや、孝悌にして、上を犯すことを好む者は少なし。上を犯すことを好まずして、乱をおこすことを好む者は未だこれあらざるなり、とあります。先生は乱を起こすことを好まれるのであれば、上を犯すことを好むのであり、それは孝悌に反します。」
中斎 「上を犯しているのは、この天災、飢饉に苦しむ民を見て見ぬふりをし、民の悲嘆をよそに、老中のいいなりに、江戸廻米をきめた跡部山城であり、役人どもではないか。それこそ、上を犯すに等しい振る舞いではないのか。君子の善に於けるや、必ず知と行と合一す。小人の不善に置けるや、亦た必ず知と行と合一す。而して君子若し善を知りて行わずんば、則ち小人に変ずるの機なり。その見本のようなものであろうが。」
静区 「まったく何も救恤策をとられていないのではありませぬ。備蓄米を開きもしましたし、豪商の施行もなされています。責めるばかりでよろしいのか。人を責めずみずからを責める、と仰せになったのは先生ではなかったですか。」
中斎 「確かに奉行所では、八月救民への廉売をした、しかしそれでも買えないものが多数おり、九月になってついに無料で配布をはじめた。何か、このていたらくは。世上の実情がみえておらぬ。たしかに、鴻池、加島屋、住友などから義捐金をつのり、十月二百文ずつ配った。幸い米価はいったん下がりかけたのだ、その頃。そこに、江戸廻米だ、元の木阿弥どころか、なんのためのお救米だったのか。このちぐはぐぶりはどうか。しかも、義捐金は、三年前の三分の二ぞ、飢饉は、三年前の比ではないというに。だからみるに見かねて、みどもが、直接鴻池らに掛けあい、救済資金借り入れについて了承を取ったのだ。たかが隠居の身でそれができたのなら、奉行が本気でやれば、もっと大きなことができたはずではないか。なのに、それをさえ、山城守は、与力の隠居にすら、莫大な金子を貸し遣わすとならば、江戸から御用金の申し渡しがあった場合は、有無を言わさぬぞ、と鴻池らを脅して、みどもとの約束を反故にさせおった。民に目を向けておらぬ、江戸の兄、老中、水野越中しか見ておらぬのだ、山城守は。」
静区 「新、不新を君父に責めず、親しむの功夫(実践修養)をおのれに責むれば、則ち心を尽くし、性を尽くす大学問なり、と申されたではありませぬか。おのが力の足りなさを責むるべきです。」
中斎 「たわけたことを申すな、京から、米の買出しにきただけで入牢させられたものが、一杯おるのだぞ。惣嫁(そうか)というものを存じておるか、わずか三十二文で家のため、妻や娘が春をひさぐという、十六文でそばが食えるのにだぞ。質屋は質流れが続き、閉店に追い込まれ、売り払うものがなくなった貧しい民は、女房や娘が路傍で春をひさぐしかないのだ。奉行所がしたことはそれを取締っただけだ。毎日毎日四十人もの行き倒れがでておる、そんな中での江戸廻米だ、何が将軍宣下の儀式のためか。この未曾有の大飢饉のさなか、米が不足しているのに、わずかの米を取り上げられて、どう生きよと申すのか。矩之允、そう申すなら、なぜ、だれひとり諌めぬ、上様を、水野越中守を、奉行の跡部山城守を、諌めぬ。誰か一人でも諌めたか、飢えたる民に鞭打つ所業を、唯々諾々と忠実に遂行するばかりではないか。それがそちの申す分か、一体どこに治国がある。」
静区 「そのことに異論はありませぬ。しかし民の楽しみは吾の楽しみであり、民の好むところを好み、民の憎むところを憎むとは、先生ご自身ではなく、政をつかさどるものの心構えのはずではありませぬか。そのように、民を観るべしと。」
中斎 「民の楽しみは吾の楽しみであり、民の好むところを好み、民の憎むところを憎む、それはただ心の中でのことか。飢え死にしていくものを前に、何も為さぬのが仁か。行倒れ、死なんとする民を、吾が身の如く悲しまぬ仁などあってよいのか。日用応酬のこと、皆格物なり、豈只書を読み、物理を窮めて然る後、之を格物と謂うと云わんや。頭の中だけで考えるのをやめよ、矩之允。」
静区 「いえ、そのために事をなすべき立場のものをどう動かせるかが、われらの務めであり、仁であり、孝悌であるべきです。」
中斎 「そうではない。おのれを省みて、おのれの良知に問う。善であれば、狂者のごとく進み取る。悪であれば、狷者のごとく、拒否する志なければ、恥というべし。毎日書物を読み理をかたっても、似非君子にすぎぬ。」
静区 「先生は君主でも大夫でもありませぬ。小人をして国家を為(おさ)めしむれば菑害(さいがい)並び至る、この飢饉に、突然来りて暴を為すと仰せではなかったですか。それは政を預かるものへの戒めであったはず。それを先生みずからが、直接一揆を企てるのは、まさに突然来たりて暴を為すことそのものではありませぬか。」
中斎 「そうではない。夫れ人の嘉言善行は即ち、吾が心中の善にして、而て人の醜言悪行は亦た、吾が心中の悪なり。是の故に聖人は之を外視する能はざるなり。斉家治国平天下は一として心中の善を存せざるなく、一として心中の悪を去らざるはなし。一揆に立ち上がる民も、わが心中の悪であり、おのれの責任で鎮圧せねばならぬ。同じく飢えに苦しむ民も我が心中の苦しみであり、おのれの責任で救わねばならぬ。それが万物一体の仁だ。飢えに苦しむ民と一体になり、その苦しみになり代わって、挙兵し、災害を引き起こす小人を誅するまでじゃ。」
静区 「ご承知のはずです。それは、その立場にある者が、なすべきことを十分になしておらぬ、奉行を、ご公儀を責めておられるだけではないですか。君や父やあるいは他者に責任転嫁することなく、自分が民に親しむの功夫を為したかどうか、自分自身を責めるところからはじめなくてはならぬ。父や君、あるいは一人の民も革新していないものがあれば、自分の民を親しむ功夫が十分ではなく、ひいては明徳を明らかにする功夫も十分ではない。先生自身がそう仰せではなかったですか。」
中斎 「重ねて申すが、万物一体の仁からすれば、百姓一揆や打ちこわしをする民も、また我が心中の悪であり、おのれの手で鎮圧しなくてはならない。しかしまた同時に、飢えて苦しむ民の苦しみもまたおのれの心中の苦しみであり、おのが責任において救わねばならぬのだ。草木瓦石にいたるまで、それが死に、折れ、こわれるという生意の喪失に無関心でありえず、我が心が傷む。この感傷はこころの痛みであり、躰の痛みである。なぜなら、天地間の万物はわが心中のことであり、我の分身である。他人や民衆はもとより、草木瓦石にいたるまで、天地間の万物をすべてわが心中のこととして、それを突き放さず、自分のこととして受け止める。だからこそ、見捨ててはおけぬ。民をおのが分身とみなし、痛痒、饑寒、好悪、苦楽において民と一体となる。民の痛痒はおのが痛痒である。民の飢えはおのが飢え、おのが苦しみ、万物一体の仁とはかようなものであらねばならぬ。いま、まさに、眼を開き天地を俯仰してみれば、壤石は吾が肉骨なり、草木は吾が毛髪なり。雨水川流は吾が膏血なり。雲煙風籟は吾が呼吸吸嘘なり。日月星辰の光は吾が両目の光なり。春夏秋冬の運は吾が五常の運なり。太虚は吾がこころの薀なり、人は七尺の短躯にして天地と等しいのだ。」
静区 「故に血気ある物は、草木瓦石に至るまで、其の死を視、其の摧折(さいせつ)を視、其の毀壊を視れば、則ち吾が心を感傷せしむ。もと心中の物たるを以っての故なり、と。しかしだからといって、乱を起こすことは、上を犯す、としかいいようがありません。」
中斎 「よいかな、学は固よりおのれの心を正しくし、おのれの身を修む。然れどもおのれの心を正しくし、おのれの身を修るのみを以て学の至りと為すは、蓋し大人の道に非ず。夫れ心外の虚は、皆吾が心なり。即ち人物は心の中に在り。其の善を為し悪を去るも亦た身の事にして、而して善を為すも亦た窮まり無く、悪を去るも亦た窮まり無きなり。であればこそ、古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正す。其の心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、まず其の知を致す。知を致すは物を格(ただ)すに在り。この言葉も、そちにとっては、単なる知識をえればよい、というだけに終わるのであろう。」
静区 「それが先生の申される孔孟学徒の役割です。その理非を問い、曲直を正すために、かくあらねばならぬ心構えのはずです。一家の主の意は一家の人々に、一国の主の意は一国の人々に、天下の主の意は天下の人々に及ぶ。ひとたび意が誠でないなら、一家麻痺し、一国の人、天下の人の意が誠ではなく、家は斉(ととの)わず、国は治まらず、天下は平かではなくなる。自分の心の動きが天下の政につながっている、と。」
中斎 「いたずらに人禍を怖れ、ついに是非のこころをくらますは、もとより丈夫の恥ずるところ、しかして何の面目ありて聖人に地下に見(まみ)えんや、ゆえにわれまた吾が身に従わんのみ。どこまでもすれ違いかの。」
静区 「先生のおっしゃる誠意慎居は、心の奥底のどんな隠微な悪も見逃さず、あらゆる事柄に一瞬も怠らぬ克己の内省であるべきもののはずです。功夫(実践修養)とは、格物致知の上にも貫かれ、それによって五倫の道は真のものとして蘇り、日用人倫あらゆる事柄が、功夫の場となる。明徳親民もと一事だから、功夫は一己の道徳に終始できない。一人の民とも隔絶し、一人の民をもその所をえないならば、それは民を親しむの功夫がいまだ不十分であるばかりでなく、おのが明徳も明らかでないことになる。そう仰せになった主旨の結果が、乱民となることでしょうか。それは先生の孔孟学の破綻でなくてなんでしょうか。わが言葉に耳を傾けていただけないならば、師弟の義永く絶たんと存じます。どうして乱民に従えましょうや。」
中斎 「それもよかろう、しかしの、矩之允よ、子曰く、志士仁人は、生を求めて以て仁を害することなく、身を殺して以て仁を成すことあり。おのれは関知せずと言うばかりでは、仁とはいわぬのだ。」
静区 「先生、百歩譲りましょう。身を殺して以て仁を成すときなのだと致しましょう。しかし、心太虚に帰し、湯武の勢い、孔孟の徳あるもののみ救民のための天誅を為しうる。先生は、孔孟の徳ある者と、うぬぼれるのですか。」
中斎 「格物して後に知至る。知至りて後に意誠なり。意誠にして後に心正し。心正しくて後に身修まる。身修まって後に家斉う。家斉いて後に国治まる。国治まりて後に天下平らかなり。だが、天下が平かでなければ、いかがすればいいのか。国が治まっておらねば、いかがすればいいのか。それ故家が斉わず、身修まらず、意誠ならず、知至らずならばいかがするか。まず物を格(ただ)さねば、知を至らすことはできまい。では、物を格すとはどういうことか。意念のあるところ、直ちにその不正を去って、もってその本来の正しさを全うし、あらゆるとき、あらゆる場所において、天理を存するようにすることだ。よいか、わたしのいう致知格物は、わが心の良知を事事物物に致すことである。わが心の良知を致すのが致知であり、事事物物にその理をえるのが格物である。よいか、致知とは、知識を磨いたり、心構えを正すだけではだめなのだ。知を実現しなくてはだめなのだ。良知を致さずんば、則ち仁は決(かなら)ず熟せざるなり、とはその意味でなくてはならない。だからこそ、事に非ざるもの無し、と。是れ真の格物なり。故に王公より庶匹に至るまで、日用応酬の事は、皆格物なり。豈只に書を読み物理を窮めて、然る後に之を格物と謂うといはんや。」
静区 「君子の善に於けるや、必ず知と行と合一す。小人の不善に置けるや、亦た必ず知と行と合一す。而して君子若し善を知りて行わずんば、則ち小人に変ずるの機なり。先生は小人の合一ではないと言い切れますか。」
中斎 「儒者の学問の目的は、経世である。その根本は無欲でなくてはならぬ。孟子にいう、志士はいつも溝壑(こうがく)にあるを忘れざる、と。世を捨てて、隠棲するのも儒者の生き方だ。徹頭徹尾、政(まつりごと)に関わり続けようとする道もあろう。しかしみどもはそれを取らぬ。座して、死者がみちみちるのを、手を束ねて見守るだけはできぬ。それが天意にかなう行為と信じたら、みずから、そのために身を忘れ、家を忘れ、妻子眷属を捨てて兵を起こさざるをえない、そういう仁もある。身を安きに置かんと要(もと)むるは、即ち人情なり。然れども其の情に任すれば、即ち与に道に入るべからず。故に大人は斃れて後休む。故に斃れざるうちは其れをして善をなし、其れをして悪を去らしむ。便ちこれ功夫なり。」
静区 「先生は、かつてこういっておられた。良知の学は天下に亡びて伝わらず。只だ其の伝はらざるや、人亦た聖賢の域にのぼるを得ずして、皆酔生夢死の場に擾々(じょうじょう)たり。豈に悲しむべきに非ざるか。若し先覚者有らば、万死を犯すも疾(すみや)かに告げざるを得ざるなり。嗚呼、後の世に当たりて、先覚するものは抑も誰ぞや。吾れ未だ其の人を見ざるなり。噫。いま先生は先覚者になりたるご所存か。」
中斎 「矩之允、もうよかろう、夜も更けた、後は明日にしょうぞ。」
中斎は、ついに静区(矩之允)の諫言を論破できなかったように見える。その答えが、静区を惨殺せしめることであった。それは、おのれが磨き上げてきた学問の破綻そのものでもあった。というより、その学問の桎梏を断ち切らねば、そもそも崛起は成り立たなかったのである。それを象徴するのが、中斎の最愛の愛弟子静区であった。それを断ち切ることが、儒者であることをやめ、反乱者として立つ、その深い淵を飛び越えることであった。それほど、その深淵は、大きく隔たる。しかしそれをせねばならぬほど、目の前の、飢饉と困窮の人々への、大塩のやむにやまれぬ思いの深さは大きかった。静区を斃すことで、おのれに残る儒者の軛を断ったのだと、僕は思う。
参考文献;
宮城公子『大塩平八郎』(ぺりかん社)
王陽明『伝習録』(中公クラシックス)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
大塩平八郎『洗心洞箚記』(たちばな教養文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:架空問答(中斎・静区)