2013年06月09日

吉本隆明の後姿


加藤典洋・高橋源一郎『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』(岩波書店)を読む。

考えてみれば,十代から,ずっと,吉本隆明の著作に,つかず離れず,付き合ってきた。珍しくほとんどの出版物を読んだ作家の一人だが,とても僕のような非才には理解はでき兼ねるが,「世の中の正しい」ということに,いつも違う視点から異を唱えていた印象がある。

記憶で書くので間違っているかもしれないが,「吉本がいるなら日本は信じられる」といったような趣旨の遺書を書いて自殺した学生がいたと記憶している。

ぼくもまた,いつも,「吉本ならどう考えるのだろう」と,高橋源一郎がいっているような,「吉本さんは,ものを考えるときの『原器』のようなものだった」というところがある。その理由が,僕の中で見えた気がした。

加藤氏が言っている。

「正しいこと」って本当に不思議だよね。これが一人で言われるときはいい。特に大勢に対して言われるときにはもっといい。でも,たとえことばとしては同じでも,これが大勢として言われるときには何かが変わっている。

吉本の原点は,その違和感のようだ。そして,吉本にとっては,

「どちらもただしい」という解こそが,唯一,正しさへの抵抗になる。

その原点は敗戦にある。

自分はこの戦争は正しいと思った。そしてどこまでも遂行すべきだとその考えに穴がないかどうかは何度も検討した。それでも誤った。ではどこが間違いだったのか,と考える。他の人が,たとえ自分は戦争は正しいと思ったのだったとしても,それは十分に考えなかったからだ,ついうかうかと世の中の考え方に流されたからだ,というように簡単に反省して,戦後の民主主義につくところ,吉本さんは,自分は十分に考えた,それなのに間違った,なぜだろう,と立ちどまるのです。

その視点は,簡単に立ち直る戦後文学の担い手への違和感であり,そこから転向論があり,非転向への批判があり,さらに思想のあり方そのものへと踏み込んでいく。

その思想が自分の生きている現実から生まれたものでない場合には,思想は,それをもって生きる現実とのすり合わせのなかからその意味と価値を創りだす。

この課題は,いまも営々と移入された思想を信奉する者のあとを絶たない,というか,ほとんど自分で考えず翻訳するだけで思想家になったつもりのものだらけのわが国では,今も原則として生きている。そして,そんなすりあわせすらほとんどされない現状をみるとき,まだその意味は消えていない。

では吉本のしたことは何か。加藤氏はいう。

(3.11の原発事故の後)日本の多くの思想的な営為とことばが,日本と世界だとか,日本の未来だとか,自分と日本だとか,極めて中途半端な射程のうちに,無自覚に企てられ,発せられているものとして映ってきます。そういうなかで,何人か,いまの日本の場所から,直接,世界について考えている思想家のいることも見えてきます。そういうふうに,世の中がみえてくるようになってはじめてわかったことのひとつが,こうした思想的な企て,思想の源流に,日本語で書く思想家として,吉本隆明がいるということだったのです。

そして,こう続ける。

ここで日本という場所にいて世界のことを考えるというのは,これまで多く見られた海外の新たな思想を日本に移入する形で,日本で世界のことを語るというのとは全く違っています。(中略)そうした仕事は,翻訳されれば,すぐに海外にオリジナルがあるとわかってしまいます。そうではなくて,日本の現実に根ざして,かつ,そこから世界のことを考え,もしこれが世界に照会されれば,世界の人々にインパクトを与えるだろうというような仕事のことをここではいっています。

それは,国や民族の限界から離脱し,日本人ではなく,人間を単位とする思考をすることだ,そこに加藤氏は改めて吉本隆明を再発見したのだという。

世界と自分との間に「日本」という国単位の枠をおかない。そのだめさ加減に自分は,戦争で,つくづく懲りた,という吉本の徹底した自分への掘り下げがある。それを,加藤氏は,

腑に落ちる

という。同じ感覚を,高橋氏は,

浮かない感じ

という。そういう,自分の中の違和感を,吉本は常に大事にしている。右へならへすることにも,違和感を違和感として言語化する。「反反原発」も「オーム」も,吉本の中には,「原理としての軸がある。高橋氏はいう。

ほとんどすべての思想家,あるいはほとんどすべての作家,ほとんどすべてのことばをあつかう人たちの拠って立つものと,吉本さんが拠って立つ者との違いみたいなもの,それが…「腑に落ちるか」ということではないですか?つまり内臓言語で,「原生的疎外」のところまで下りていかなければだめだということと,大衆に向き合うということとは等号で結ばれるということで,吉本さんの思想みたいなものは成り立っているのかもしれない。

この原生的疎外とは,

生命体(生物)は,それが高等であれ原生的であれ,ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然に対してひとつの異和をなしている。この異和を仮に原生的疎外と呼んでおけば,生命体はアメーバ―から人間にいたるまで,ただ生命体であるという理由で,原生的疎外の領域をもっており,したがってこの疎外の打消しとして存在している。

から来ている。内臓言語とは,『言語にとって美とはなにか』(日本語ではなく,言語そのものを対象にしていることに注意)での,指示表出,自己表出を三木成夫によって,自己表出を内臓系感覚,指示表出を神経系感覚に対応させたのによる。だから,「腑に落ちる」「浮かない」に対応する。

その意味で,吉本にはいつも二つのメジャーがある。

歴史は,外から見る外在史(文明史)として現れるが,内から見ると内在史(精神史)として現れてくる。(中略)外在史の視点から内在史を断罪しない。近代的倫理から悪を断罪するのではなく,悪の行為のうちに,近代的倫理を相対化するような内在性があると認められる場合は,足場の近代的倫理をいったん相対化する必要がある…。

あるいは,

「未来の何かに向かっていることへの追求」(外在史)と「人類の原型であるような段階を掘り下げること」(内在史)が同じ作業であるような場所で,いまかろうじて「歴史」の概念は成り立つはずで,これまでの世界史という考え方ではもはや「歴史」はとらえられないし,これを超えるには「原始と未確定の未来の二方向性」の探求が必要となる…。

あるいは,

たとえ,どんな外界のきっかけの結果として起こるのでも,あるいは(お腹が重苦しいというような)内的な生理過程の結果として起こるのでも,「個体はなお〈じぶんがいまこう心でおもっていることをだれも知らないし,まただれも理解することはできない〉という心的状態になることができる」。そのことは個体の「心的な現象」が自分自身の心的な過程,生理過程とじかに関係していることが,ありえることを語っている。そうだとすれば,「このような心的状態」をそれとして独立に考えることは,できるだろう…。では人間の個体が〈じぶんがいまこう心でおもっていることをだれも知らないし,まただれも理解することはできない〉と感じるとしたら,「その「感じる」とは何を内容としたものだろうか,というように広がり,(中略)最後に,もし単細胞のアメーバが〈じぶんがいまこう心でおもっていることをだれも知らないし,まただれも理解することはできない〉と感じるとしたら,それはアメーバがどう何を感じるということだろうか,というところまで行く…。

その先に,フロイトは,生命には生きていることへの違和感があるとし,それを「死への欲動」としたことを批判し,それは「変だと」感じ,フロイトのように人間的違和感に還元するのではなく,生命体としての違和感とすれば,前述の「原生的疎外」にいたる。つまり,人間には,人間であるほかに,生命体としての人間がある,ということになる。

ここにも,人間に還元しない,もう一つの視点を入れる,二元的指標がある。ここにあるのは,

生命種は永続するが人類はいつかほろびる,

という感じ方が入っている,と加藤氏はいう。このように,

吉本さんは異なったメジャーを用いて正しさに抵抗するということをやってきた。(中略)いまになって,吉本さん自身の考えていた以上に,彼の実践にはとても有効な部分があったことに気づいた。

そういう吉本の姿勢は,処女作である詩集にすでにある。

ひとつきりで耐えられないから
たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから
ひとつきりで抗争できないから
たくさんのひとと手をつなぐというのは卑怯だから
ぼくはでてゆく(「ちいさな群れへの挨拶」)

そしていう。

ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる
ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる
もたれあえことをきらった反抗がたおれる(同)

そう振り返る時,高橋氏が言うのがひどく共感できる。

吉本さんは,「正面」だけでなく,その思想の「後ろ姿」も見せることができた。彼の思想やことばや行動が,彼の,どんな暮らし,どんな生き方,どんな性格,どんな個人的な来歴や規律からやってくるのか,想像できるような気がした。どんな思想家も,結局は,僕たちの背後からけしかけるだけなのに,吉本さんだけは,ぼくたちの前で,ぼくたちに背中を見せ,ぼくたちの楯になろうとしているかのようだった。

いつも先頭で,最前線で,思想としての旗を振る。前からどころか,集中砲火を,背後から浴びても,なお,考え続けることをやめない。知識人であるとは,どういうことか,常に市井で,どこかの大学教授なんぞにならず,ただ文筆家として,筆一本で戦い続け,老いてもなお,常識に背き,「正しいこと」に異を唱えた。

常に僕の理想であったことが,正しいと,再確認した。自殺した学生の確信は正しかったのだ。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





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posted by Toshi at 06:26| Comment(173) | 思想家 | 更新情報をチェックする