2013年06月15日

補助線


補助線というと,幾何の問題で一本補助線を引くことで,問題自体は変わらないのに,こちらのパースペクティブが変わり,解き方が見えてくることがある。どこに,何を引くかが,発想の肝になる。

しかし世の中の問題は,幾何の問題のように,全体像が見えているわけでもないし,補助線自体が物理的に見えるカタチで引けるものでもない。しかし,補助線を,足す線とばかりではなく,引く線であったり,リンクをつなげる,次元を畳む,次元を橋渡しすると考えていくと,補助線は,思考のトンネルに開ける選択肢に見える。選択肢が広いほど,発想が広がるのだから。

茂木さんが,生涯の目標となったクオリア(感覚質)との出会いを,こう書いている。

研究所からの帰り,夜。私は電車に乗っていた。無意識のうちにガタンゴトンという音を聴いていた。突然,その音が,周波数で解析しても,スペクトラムを眺めても決して解明しきれぬ生々しい「質感」として私の意識に到達していることに気がついた。私は感動と畏怖で青ざめた。車両と車両の連結部分の空気が一変した。その瞬間,わたしは,芸術を愛する経験的自然科学者から,現象学的経験をも視野に含めた「自然哲学者」へと変貌したのである。

そして,いま,

「クオリア」という補助線を精神と物質の間に引きたい。それで問題が解けるかどうかはわからない。しかし,明らかに不思議の質が変わる。

面白いことは,「クオリア」という補助線が,「地」から「図」になった瞬間,見える世界が変わり,パースペクティブが変質した。そのことによって,実はこちらも変貌していく。その精神のダイナミズムが面白い。それは,我々にも,日常的にある。

茂木さんの問題意識は,こんなところにも見える。

ニュートン力学から最近の超ひも理論に至る数学的形式に基づく自然科学の厳密さと,それを生み出す人間の思考の「あいまい」さ,

数学的心理や完璧な科学とそれを生み出す,ノイズだらけの脳のダイナミクス,

視野の中に複数のものが存在している状態を,並列的に「私」が見るという統合された並列性と,それを生み出す脳の大脳皮質の神経細胞の活動,

永遠を考え,宇宙を考え,孫嗄声しない正七面体を考えることと,いま,ここにしばりつけられた意識,

等々。この振幅にあるのは,この振幅を見極める補助線を引きたいという,茂木健一郎という学者が,サブカルチャー化し断片化した知を丸ごと引き受けたいという志向に他ならない。茂木さんは言う。

人としてこの世に生を受けた以上,単に世界の部分だけを知るだけでなく,全体を,そして普遍を志向したいという私たちひとりひとりの切ない思いについて考えたいのである。

そして,

どうあがいても有限の存在でしかない人生という泥沼からときには大輪の蓮の花が咲くことがあるのは,私たちの感情が「どうせできないとわかっているのに」悪あがきするからなのである。(中略)傍から見れば滑稽な大言壮語にすぎなくても,「今論文を書いている。大論文を書いている」と言い続けなければならない。

一見関係のないものの間に補助線を引くことで,世界の見え方を変える。世界の見え方を変えることで,見ているこちらも変わる。その変わった目線で見えるパースペクティブは,また変わるだろう。

ロジャー・ペンローズは,「創造することは思い出すことに似ている」といった。なぜなら,脳は何もないところから何かを生み出すのではなく,脳内のアーカイヴに依存している。自分のもっている者を組み替える。リンクを変える。それは,所蔵されている「知」を,別のパースペクティブで見直すことと言ってもいい。

川喜多二郎は,「本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ秩序付ける」ことを創造と呼んだ。だから補助線が生きる。見え方が変わることで,今まで当たり前に見えていたものが違って見える。違って見えることで,今まで全くリンクしなかった脳内のネットワークとつながる。そこで,異質な解が開けてくる。

参考文献;
茂木健一郎『思考の補助線』(ちくま新書)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2013年06月17日

集合知~「閉じている」人同士がどう知を共有するか


確か,記憶では,野中郁次郎さんは,知識とは主観であり,思いを客観化するプロセスなのだ,というようなことを講演でおっしゃっていた記憶がある。だから,絶対的な知識がどこかにあって,それを学ぶというものではない,と言っていたように記憶している。

心を探るとき,クオリアというのがキーワードになるようだ。クオリア,つまり「感覚質」,その人が一回限り感じる,個々の人間の意識のなかに特定の体験として出現する感覚イメージというものは,人とは共有できない。

肝心なのは,同一波長の赤色光を人間の視覚器官がとらえたとき引き起こす印象が様々に異なるということではない。そもそもある人が感じている「赤」と別の人が感じている「赤」とが同じなのかちがうのかが判定しようがない,ということなのである。

西垣さんは,こういう。

私が見ている赤信号の色Xと,あなたが見ている赤信号の色Yと全く異なっていても,私とあなたはともにきちんと交通ルールを守ることができる。(中略)二人ともそのように環境に適応して生きているだけのこと。客観的,絶対的な「赤」なる唯一の事物が存在し,それを全員が正しく認識しなければならない必然性などありはしない。

だから,

われわれはよく,情報や知識を共有するとか,心を開いて共感するとか言う。だが,それらはあくまでも,心がほんとうは閉じているという絶望的な事実をふまえた上での,一種の希望以上のものではない。心とは徹底的に「閉じた存在」なのである。自分の痛みのようなクオリアは,他人には決して分かってもらえないことが,その証拠といえる。

このギャップは,人同士の間だけではない。自分自身の「心」と「身体」にも横たわっている。自分の感じているクオリア,たとえばバラの赤の感じは,脳をどんなに精査しても,データとして取ることはできない。このポイントは,観察位置だと,西垣さんは言う。

ポイントは観察者の位置である。脳の測定は,客観的,科学的におこなわれ,その記述はあくまで三人称的である。観察者は外部にいるのだ。一方,クオリアは徹頭徹尾,内部から主観的に感じとられるものだ。その記述は一人称でおこなわれ,文学的に表現されることも少なくない。このとき観察者は,いわば心の内部にいるのである。

しかし,われわれの認知行為とは「所与の客観世界の表象をえること」ではないのである。生き物の認知観察行為の原型は,むしろ自分が動きまわって対象と主体的にかかわることにある。認知観察行為は,

(生き物が)行為の歴史に基づいて世界と心を行為から産出すること(フランシスコ・ヴァレラ『身体化された心』)

なのであり,心身問題へのアプローチは,まずクオリアありき,

三人称的な科学的記述からクオリアに迫るのではなく,逆に一人称的,主観的なクオリアの記述から出発して,いかに客観世界という仮構が成立するかを問うていく必要がある。

これはそのまま,集合知の活用とつながることだというのが,西垣さんの問題意識である。客観的なものがあって,それを共有するだけで,集合知になるのなら簡単だ。しかし,多くのそれは失敗してきた。ただ貯蔵され,死蔵されただけだ。

その観点から注目されるのが,ポラニーの暗黙知である。その構造は,

「諸細目(particulars)」と「包括的存在(comprehensive entity)」との二項関係からなるダイナミックスである。前者は近接項,後者は遠隔項にそれぞれ対応する。

たとえば,顔を認識する例で考えると,

まず,相手の眼,鼻,口,額,頬,顎などの「諸細目(近接項)」にちらっと目を向けるが,いつまでも続くことはない。われわれの注意はすぐに諸細目から離れ,顔全体という「包括的存在(遠隔項)」に移行する。といっても,諸細目は完全に忘れ去られるわけではない。相手の顔を認知識別しているとき,われわれは相手の眼や鼻などの諸細目を無意識に,「顔全体の姿」のなかにしっかりと感知しているのだ。それらは潜在化し,明示的に語られないものの,顔全体の「意味」を構成しているのである。

というように,語ることのできない知識というのは,こういった二項関係の構造における諸細目として考えると,わかりやすいはずである。つまり,

暗黙知というのは,決して固定的に認識できない知というわけではなく,むしろ,包括的存在を認識するというダイナミックスのなかで,いわば意識から隠れてしまう知のことを指している。

暗黙知理論のすばらしさは,単に語れない知識の存在を指摘したことではなく,

ある対象の意味を把握するには,それより下位の要素的な諸細目を身体で感知しつつ,対象を全体として包括的にとらえる作用が必要だという,生命的な認知のダイナミックスを指摘した点にある。

ポラニー自身は,暗黙知を,

(近接項と遠隔項という)二つの項目の協力によって構成されるある包括的な存在を理解すること

と定義している。では,二人の人間が対話することによって,そこにお互いに通じあう共通の「意味(包括的存在)」が生まれることはないのか。ポラニーは,

二人の人間がいるとき,「潜入(dwell-in)」という努力によって,一方が相手の生み出した知識(包括的存在)をある程度体得できる可能性はある,

と言っているようだ。では,さらに,皆の間で共有される三人称の知識はどう得られていくのか。

われわれ生命体は,「オートポイエティック(自己創出的)」な存在とされる。そこが機会との根本的な違いである。個々の細胞レベルから,脳神経系も免疫系も,自分で自分を創り出す。機械と異なり,生命体は「自律的(autonomous)」にシステムであり,他律的(heteronomous)システムではない。

自律システムの作動の仕方は,その固有の歴史に依存している。外界からの入力がやってくると,その時点で,その個体特有のやり方で反応してしまう。再現性があるとは限らない。

西垣さんは,一人称的なクオリアと三人称的な科学的記述のギャップを渡る一つの方法として,このオートポイエーシス理論が有効だと位置づける。

たとえば,心の中で思考(thinking)している時何が起きているのか。

ここでいう「思考」とは,いわば主人公の一人称的モノローグをともなう映画のショットのようなものだ。それは自己言及的コミュニケーションであり,現在の志向を自己循環的に創出していくのが,心というオートポイエティック・システムの作動なのである。ねーもちろん,外界から刺激は到達するのだが,それらは心にそっくり「入力」されるのではない。あくまでも思考は再帰的に,心の内部から創出されるのだ。

「心の閉鎖性」にもかかわらず,われわれは社会的行為をし,組織が機能している。それを,こういう。

興味深いのは,こういった社会的組織においては,コミュニケーションがコミュニケーションをつくりだすという自己循環的な作動がおこなわれていることだ。社会的組織には特有の用語概念をもつ伝統や文化があって,一種の知識として記憶されている。その記憶をもとにコミュニケーションが発生し,またそのコミュニケーションの痕跡が組織の記憶となって蓄積されていく。社会的組織のこういうダイナミックスは,再帰的に思考を生み出す心のダイナミックスと基本的に変わらない。

つまり,社会組織もまた「オートポイエティック(自己創出的)・システム」になっている。では,構成メンバーの心という「オートポイエティック・システム」とどういう関係になるのか。ここに三人称的知識へとつながる鍵がある。

社会的組織のコミュニケーションは,構成メンバーの発する言葉を素材にして織り上げられる。そして一方,構成メンバーは組織ルールなどの拘束のもとにある。

つまり,社会的「オートポイエティック・システム」は構成メンバーの心的「オートポイエティック・システム」の上位にあり,両者はある種の階層関係を成している。構成メンバーが心の中でどんなことを思考しようと自由だし,他方上位の社会組織から見れば,個々の構成メンバーは一定の拘束を充たす言葉を出力する。この非対称的関係の,階層的自律コミュニケーション・システム(Hierarchical Autonomous Communication System)というモデルによって,情報や知識の伝達や蓄積を見ることができる。

個々の構成メンバー同士の会話のように,一人一人の心的「オートポイエティック・システム」同士が会話することを通して,下位の階層的自律コミュニケーション・システムが,暗黙知の構造で言う「細目」となり,それが構成する上位の社会組織の階層的自律コミュニケーション・システムが,「包括的存在」を形づくっている。そこでは,メンバー相互の階層的自律コミュニケーション・システムが,社会組織の階層的自律コミュニケーション・システムの「意味」や「価値」を創出している,という形になる。

では,これとITがどう活用できるのか,あるいはITを含めた知のあり方はどうなるのか。

このヒントに,西垣さんは,マーク・ハンセンの,高度なIT機器からなるネットワークによって,リアルとバーチャルが融合する時代の,「システム環境ハイブリットSEHS(System-Environment Hybrids)」という概念に着目する。

客観世界ではなく,主体が再帰的な認知活動をつうじて世界を構成していくという閉鎖システムの知を前提に,人間のもつテクノロジーによって,自己を乗り越え重層的に拡張していくという特徴を踏まえて,高度なITエージェント(人間を代替するコンピュータなどの知的存在)を駆使して,暫定的な閉鎖システムによる認知活動を指す。そこでは,リアルとバーチャルが融合し,ネットの中のITエージェントが活動する周囲環境であり,そういう中でこそ,人間は生物的な自己を乗り越え,新たな自己を創り出し,進化していく,というわけである。

そこで暗黙知との関連に置き直すなら,こういうことになる。

われわれが心の中で思考し,ある対象の全体的意味をとらえるとき,そこでは対象を構成する要素の諸細目が無意識のうちに感知され(心的階層的自律コミュニケーション・システム),ある社会組織がコミュニケーションをし,ある対象の全体的意味をとらえるとき,そこでは参加メンバーの発現や関連資料などの諸細目が暗黙の裡に感知されている。この人の心と社会組織のダイナミックスに,コンピュータ処理を行うITエージェントが介入するとどうなるのか。

そのとき起きるのは諸細目の変更や置換や拡大である。特に社会組織において,ITエージェントの出力が参加メンバーの発現と同じくコミュニケーションの素材となる。

知とはあくまで,生命体が生きるための実践活動と切り離せない,その意味で主観的で一人称的なものだ。というところから出発し,集合知へとたどり着くために必要なのは,閉鎖性というキーワードだ。

個々のローカルな社会集団の中には,さらに無数の半独立の社会集団や社会組織が入れ子になっている。それらは柔軟な階層を成しており,最終的には個人にまで分割される。(中略)ローカルな社会集団は,それぞれ文化と秩序を持っており,自律的に観察・記述をおこなっている。つまり「閉じた存在」にほかならない。しかしより上位レベルの社会集団からみれば,開かれた他律システムと同様,一種の機能を果たしている。

そこでITに期待されているのは,社会集団の下位レベルにある暗黙知や感性的な深層をすくいあげ,明示化する機能である。

その場合,メインフレームやスパコンは役に立たない。パソコンや携帯端末が個々の人々の心を結びつける。しかし大量のパソコンをつないだ人工知能マシンではない。それでは,メインフレームの機能をパソコンに代替させているだけだ。

必要なのは,人間のコミュニケーションにおける身体的・暗黙知的な部分を照射し,人間集団を感性的な深層から活性勘し,集団的な知としてまとめあげるためのマシンだ,という。これをタイプⅢコンピュータと呼ぶ。

しかし,ここまで辿ってみても,どうもまだ明確ではない。個々の閉鎖した心の思考構造(暗黙知も含めた)を,集合へつなげていくために,感性がデジタル化できるという前提に立っているとしか思えない。

情報にはデジタル化できるコード情報と,デジタル化できないモード情報がある。暗黙知は,どこまで顕在化しても,暗黙のまま沈む部分がある。それを前提にすると,IT機器のいまの方向からは,決して解決できない気がしてならない。マトリックスはこないのだ。


参考文献;
西垣通『集合知とは何か』(中公新書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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posted by Toshi at 06:29| Comment(11) | 科学 | 更新情報をチェックする