2013年06月16日
直観
直観というと,パターンに認識で,将棋の羽生善治を思い出すが,通常直観とはあまりいい意味では使われないらしい。
例えば,マイヤーズは,こういう例を出す。
一枚の紙を100回折ると,その厚さはどのくらいになるか?
多くの直観は間違う。マイヤーズはこういう。
我々の直観は,たいてい間違いを犯す。紙の厚さが0.1ミリだとすると,折るたびに前の厚さの倍になって,100回折り畳んだ後の厚さは地球と太陽との間の距離の800兆倍になるだろう。
しかし,我々は直観で判断していることが多い。たとえば,
ヘッドホンをして,片方の耳で朗読を聞き,朗読のテキストと照合しながら,もう片方から音楽が聞こえている。意識して聞いているわけではないが,その音楽の間に,以前聞いたことのある音楽を挿入しておく。で,どちらが好きかを問われると,聞いたことのある方と,答えるらしい。意識的にはわからないことを好き嫌いの選考では,明らかにできる。
物体写真や顔写真を200ミリ秒見ただけで,ひとは直ちに良し悪しを判断する。対人関係では,最初の10秒で直観的に判断してしまう。
ザイアンスの法則と言われるのは,単純接触効果だ。よく知っているものほど好きになる。見慣れたものに近づき,見慣れないものを警戒する。
他者を観察するとき,素早くわれわれは何らかの判断を下す。そして後になってそのとっさの感情に理屈づけする。われわれはものを感じている時,なぜそう感じるかがわかっているわけではない。その感情の理由を探ると,もっともらしい間違った要因に目を向けることになる。意識しないでやった理由を,左脳は間違った解釈をする,という。
では,直観というのは記憶と同じなのか。記憶には,潜在記憶(手続き型記憶)と顕在記憶(陳述型記憶)という分け方もできるし,もう少し細かく,手続き記憶,意味記憶,エピソード記憶とわけることができる。意識化しないで,働くという面で言えば,手続き記憶とエピソード記憶が,直観,あるいは勘に機能しているということができる。
パターン認識を使う,将棋のような何十通りの手筋を思い描く場合とは違い,通常我々の直観は,あてずっぽうか思い込みのことが多い。盤面という限られた世界ではなく,複雑な人間関係や心理については,手筋は無数なのだ。
たとえば,自分の将来について,直観する場合,失敗する。
感情の持続時間を予測する場合は,失敗する。失恋した後の,選挙に敗れた後の,試合に勝った後の,侮辱された後の,感情の持続時間を間違って予測している,という。ネガティブな出来事に注目すれば,それ以外のあらゆることを軽視してしまい,みじめさはずっと続くと予測する。しかし,自分が注目しているものは,自分が思っているほど重要ではない。また自分の将来の行動についても,直観は間違える。自分の将来行動の予測よりは,他人の行動予測の方が当たる,という。
人の行動を解釈するとき,その置かれている状況を過小評価し,その人の内的要因を過大評価する。しかし自分の行動を評価するときは,これと逆に考える。自分が不機嫌なのはその日が不愉快だからで,他人が不機嫌なのは,その人が不愉快な気質だからだ。
関連ないことにパターン化する。たとえば,子供の無い夫婦は養子をもらうと妊娠する可能性が高くなる。目立つところに注目するために,パターンとして意識化されやすくなる。
しかし,直観のつけが自分にくるだけなら,別にたいしたことではない。そういう直観が試されるのは,象徴的には,心理臨床場面だ。
マイヤーズによると,セラピストは,自分の直観に味方する,という。しかし研究者たちは,直観と統計的予測とが競合した場合(たとえば面接者による生徒の学力予測と,成績や適性得点に基づいた客観評価とが食い違うような場合),たいてい客観的評価によって決定する,という。統計的予測が必ずしも正確ではないにもかかわらず。
臨床心理的直観は,過った関連付けや後知恵のバイアス,信念の根強さ,自己成就的診断などの弱みが現れている,とマイヤーズはいう。
心理臨床のクライアントの行動がそのセラピストの理論としばしば一致している,と言われる。
あなたの気持ちがそうならば
あなたの求めるものがそうなる。
自分の望むものをあなたは見つけるだろう。
自分の見たがっている関連性を見ようとし,それを後知恵で補強する。自分の理論や仮説を見てしまう。自分が正しいと思う質問をする等々。
他山の石だ。
たまたまをそもそもとしているのではないか,そういうチェックは欠かせない。
参考文献;
デヴィッド・G・マイヤーズ『直観を科学する』(麗澤大学出版会)
今日のアイデア;
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2014年01月04日
思い込み
思い込みとは,おのれの信じたことを堅く思い決めることという。それは,視野狭窄と変わらない。あるいは,その思いからしか世界が見えないことを言う。そこでは,議論の余地はない。なぜなら,そもそも議論で意見が変わるなら,思い込みとは言わない。
思い込みを別の言い方をすると,固定観念という。
固定観念は,機能的固着,とも言う。つまり,その余の脳の部位とのリンクができない状態である。それを崩すには,(もちろん本人が崩す気があればの話だが),
ひとつは,言語レベルから現実レベルに降りる,
あるいは,
より高みの目的から手段を洗い直す,
の二つがある。しかし,いずれの場合も,現実といって,自分の見える現実しか見ようとしない場合,「現実」いう同じ言葉を使っていても,同じ現実を見ていない。
コントロールできていないものが,
完全にコントロールできていると言い切れるような場合,
たぶん,現場に行っても,現物を見せても,現実を突き付けても,コントロールできているものしか目に入らないだろう。
この絶望感,この閉塞感をどうしたらいいのか。
さて,ここ連日ある新聞社が,河野談話について,いろいろ騒ぎ立てている。ツイッターでも,「意向」を「指示」に変えたということを,ことさら騒ぎ出している人間がいた。で,
何を騒いでいるやら,言葉レベルで言っていても現実は見えない,軍が意向といったら,指示と同じだ。それが現実だ,
云々といった書き込みしたら,
現実とはそうではない,云々として,切られてしまった(らしい)。
しかし,日本の上位者は,多く,明確に意思を指示しない。下は,その意向をくみ取って,それを下へ指示する。だから,トップは多く責任を免れる。そういう言葉のレベルの現実的問題がある。
言葉レベルでいくら現実を見ようとしても,現実は丸められている。丸められたレベルのことを問題にしたら,誰が大戦の意思決定をしたのか,はわからなくなる。そういう無責任体制というか,文言で明晰にするような仕組みにはなっていなかったし,なっていない。だから,証拠はない,文書として残るはずもないし,残すはずもない。
それが現実なのだ,ということを言いたかったのだが,要は,談話を潰したい向きにとっては,そんなことはどうでもいいのだ。
しかし,一国が世界に向けた談話を,ころころ変えるような国や人民を信用するだろうか。
綸言汗の如し,
それ自体は,すでに国是なのだ。その覚悟がないから,一事が万事,簡単に,降伏文書と講和条約に基づく戦後体制を否定し,アンシャン・ジームに復帰したがる。憲法を欽定憲法に戻し,教育勅語を復活させ,治安維持法もどきを制定し,一体どういう国家にしたいのか。今上天皇も,誕生日に明確に述べられていたように,まったく望んでいないのに。
少なくとも,戦後こそが,本当に世界に伍していく国力を蓄えたのであって,戦前の比ではない。しかし,彼らは,どうも復古することで,人民というか,国民をおのれのコントロール下に起きたいらしいのだ。それは,そのまま家父長制イデオロギーの復活であり,男尊女卑の復活であり,結局そういうことを考えている人たちは,自由で平等で多様な世界に耐えられず,それが不埒な世界にしか見えないのだろう。だから,心の中まで,踏み込んでひとつのイデオロギーでコントロールしたがる。
というより,人は,右向け右でないと,コントロールできないと思っているのかもしれない。そんな均一社会のもろさは敗戦で証明されたではないか。第一,いまどきそんなリーダーシップもマネジメントも,世界中で通用するのは,北朝鮮だけだ。そういう中で,頂点に立っていないと,不安でしょうがないのだろう。まるで金正恩のようだ。
哀れで,みじめで貧相な,人品骨柄の賤しい人たちに見える。
自由なくして,世界に伍す発想も発明も生まれない。
平等なくして,闊達な議論は生まれない。
侃侃諤諤の議論なくして創造性は育まれない。
創造性なくして,未来を切り開く力は生じない。
このマインドは,五箇条の御誓文そのものだ。藩閥政府によって踏みにじられた,五箇条の御誓文の趣旨が,80年を経て,戦後,いろいろ問題はあっても,曲りなりに,やっと実現し(かけ)たに等しい。
広く会議を興おこし,万機公論に決すべし
上下心を一にして,盛に経綸を行ふべし
官武一途庶民に至たる迄まで,各の其の志を遂げ,人心をして倦まざらしめん事を要す
旧来の陋習を破り,天地の公道に基づくべし
知識を世界に求め,大に皇基を振起すべし
これを起草した,由利公正,三岡八郎は横井小楠の強い影響下にあった。小楠のもとでの殖産興業政策で窮乏した福井藩財政を再建した。そう,だから,この御誓文には,小楠の『国是七条』や『国是十二条』が反映している。これは,坂本龍馬の「船中八策」にも色濃く反映している。そのせいか,龍馬に二人の甥を託した折の,壮行の詩にふつふつとみなぎる,
堯舜孔子の道を明らかにし,
西洋器械の術を尽くさば,
なんぞ富国に止まらん,
なんぞ強兵に止まらん,
大義を四海に布かんのみ,
といった気概と希望が満ち満ちている。
そう,考えようによっては,80年を経て,自力でできなかった,五箇条の御誓文の世界が戦後体制で初めて実現でき(そうに見え)たのだ。
それが気にいらないのは,侮民政策というか,愚民政策をとろうとする藩閥政府と同じ発想なのかもしれない。安倍氏は,長州なのだから。そして,聞くところでは,そもそも靖国神社は,幕末維新で亡くなった長州の奇兵隊を祀る招魂社から始まったというし…。
今日のアイデア;
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2015年02月17日
感じる
直感については,
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http://ppnetwork.seesaa.net/article/409638012.html
で触れた。人は,ざわつきとかざらつき,不快感という言い方をされるが,僕はあまり皮膚感覚的ではなく,異和感のようなものを感じる。
異和感については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/399326821.html
で触れた。僕は,自分が論理的な人間でないことはわかっていたが,といって,感覚の鋭い人間ではなく,引き寄せとかということを誇っている人間を見ると,異次元の人間のように感じてきた。
例えば,思えば実現するとか,夢を描くと実現するとか,と言った類も,あまり信じていなかった。ただ,最近視点を変えて気づいたことがある。夢というのを,一生のドリームのように考えると,遥かな高みだが,こうなるといいな,と思っていたことが,まあ,実現している,というふうに思い当ることがある。
それは,レベルを変える,というか,水準を変える,という言い方もできるが,視点を変えてみる,ということだ。たとえば,顕微鏡で見るか,拡大鏡で見るか,望遠鏡で見るか,問題の設定を変えてみる,という言い方なのかもしれない。
それは,別の言い方をすると,こちらの感度を上げる,ということになるのかもしれない。大したことではないと,見過ごしてきたというか,見逃してきたというか,そもそも埒外に置いてきたことに,目を向けるということなのかもしれない。
もう少し違う言い方をすると,実現できていないことではなく,実現できていること,達成できていることに目を向けるということなのかもしれない。ほんの些細なことで,
この程度のこと,
と自分の関心の埒外に追いやっていた,わずかな達成を認めてやると,そのレベルで言うなら,まあ,いつの間にかできていると言えば言える,実現していなくもない,と不承不承,認めざるを得ないことに気づく。
何度も引用しているが,
「人生とは,何かを計画しているときに起こってしまう“別の出来事”のことをいう。」
という言葉にある,「別の出来事」というのを,何かしようとして,まったく別の道に,あるいは島に,たどりついてしまう,という言い方もできるが,富士山に登ろうとして,足柄山に登っているうちに,時間が尽きてしまう,という「別の出来事」だってある(これを,結果としての,クランボルツの「計画された偶発性理論」というものなのかもしれない)。その意味で,富士山は,達成できなかったが,山登りということで言えば,なにがしかが,達成できたということは出来る。
僕は,かつて,これはただの言い訳に過ぎない,と一蹴していた。あくまで目標は,富士山だったのではないか,それを,足柄山程度で自足してどうするのか,自己満足に過ぎない,あるいは,もっと手厳しく,自己弁護だと,思ってきたし,いまもそう思っているところがある。
しかし,人生の終点に近づきつつあるいま,上記の引用に続いて,
「結果が,最初の思惑通りにならなくても,――最後に意味をもつのは,結果ではなく,過ごしてしまった,かけがえのないその時間である。」
とあるのも,実感としてよく分かる。色恋のために,一生を投げ出しても構わない,という人を知っているが,その人は,その充実した人生を生き切って,死んだ。その意味で,自己評価の基準が違う。
ひとは,それぞれ目指すものがあって,スタートする。その目指すものを意識し,自覚したときが,
その人の人生のスタート
だと思う。それを役割と呼ぼうと,天命と呼ぼうと,使命と呼ぼうと,夢と呼ぼうと,志と呼ぼうと,大した差はない。
改めて気づく,
「“予期せぬ出来事”の中で全身全霊を尽くしている時,予期せぬ世界が開けてくる。」
という言葉にあるのは,そういう意味だ。予期した,あるいは,目指したものとは違っても,そこに,まぎれもなく,一つの視界が開いている。それが自分の達成したものだと,認めなければ,その先は壁にしか見えないだろう。
「いかに些細にみえることにも誠心誠意取り組んでいる時,それが真に必要であることなら“神業”が起こる。」
かどうかは,わからない。問題は,横道だろうと,脇道だろうと,そこで,
言は必ず信,行は必ず果,
と有言実行しているかどうかなのだろう。「アカウンタビリティ」を,有言実行と訳した人がいるが,言ったことは,誠実に実行するから,言は必ず信,となるのであって,「信」は自分が決めるのではない。「果」が,結果として「信」をもたらす。有言実行たるゆえんである。それを,責務の果たし方や,責任の取り方と,別の視点から言うにすぎない。
近頃,歳のせいか,魂というものを意識するようになった。というより,魂魄と言った方がいいか。
「魂」は,陽,「魄」は,陰。
という。「魂」は精神の働き,「魄」は,肉体的生命を司る活力だとされ,人が死ねば,魂は遊離し天に昇るが,なおしばらく「魄」は地上に残る,と考えられていた。
「魄」は,「鬼+白(ほのじろい,外枠だけあって中味のない,色のない)」。人の体をさらして残った白骨,肉体の枠のことから,形骸,形体の意となった。「魂」は,「鬼+云(雲,もやもや)」。「云」の字は,息や空気が曲折して立ち上がる様を示す。口の中に息がとぐろを巻いて口ごもること,雲(もくもくと上がる水気)の原字。「魂」の「もやもやした」ニュアンスがある。
両方とも「鬼」の字があるが,これは,大きな丸い頭をして足元の定かでない亡霊を描いた象形文字である。
たしか,前にも書いたが,死ぬ直前,ベッドから幽体離脱して,ベットに横たわる自分,その周りの親族を見るのだという話を聞いたことがあるが,脳の右側の頭頂葉にある「角回」を刺激すると,
「被験者の意識は2メートルほど舞い上がり,天井付近から,『ベッドに寝ている自分』が部分的に見える」
のだそうだ。そして,この部位が,自分を客観的に見る,機能を果たしているのかもしれない,そうだ。
「有能なサッカー選手には,プレイ中に上空からフィールドが見え,有効なパスのコースが読める人がいます。…さらに言えば客観的に自己評価し,自分の振る舞いを省みる『反省』も,他者の視点で自分を眺めることが必要です。……幽体離脱の脳回路は,俯瞰力のために備わっているのかもしれません。」
と。ただ,魂を所与とは考えない。
「魂はあるものではなく,創造されるものだ」
というのが正しいように見える。スピリチュアルの世界ですら,
「これを開発するのが個人の責務」
という言い方をしている。ただ,それを神田橋條治さん流に,「遺伝子の開花」と呼んでも同じことだ。
「魂を語ることを怖るるなかれ」
というのは,そういう意味と受け止める。あるいは,それは,自分の中の,
ホムンクルス
のことかもしれない。おのれを見るおのれ,である。
参考文献;
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
池谷裕二『脳には妙なクセがある』(扶桑社)
アン・ドゥーリー編『シルバー・パーチの霊訓』(潮文社)
今日のアイデア;
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