2013年06月28日

常識


先日,【第6回 月刊☆西澤ロイ 人生を変えるコトバの宇宙トークライブ】に参加させていただいた。今回のテーマは,「常識」。

https://www.facebook.com/events/112888575581725/#!/events/327114030750188/

事前に,ロイさんからは,

今回は「常識」がテーマですので,「脱常識力」についてお伝えする予定です。
常識を掘っていくと,
・善悪
・社会システム
・宗教
・美
・歴史
・暗記
みたいな話に広がるかなーなんて思ってます。「作られた常識」に気づかない人ってホント多いと思うんですよ。その辺についてふかーく突っ込みたいなと思います。

冒頭,アインシュタインの「常識とは18歳までに獲得した数々の偏見のことである」という言葉から入ったが,確か,アインシュタインは,知識というのは,「我々に刷り込まれたものの見方の集合体」とも言ったので,「当たり前」としていることを崩さない限り,先への視界は開かない。

しかし常識をどういう視点で見るかで,その意味も効用もかわる。例えば,

常識があることで助かっていること,

と設問すれば,それによって楽だということが出てくるだろう。いわゆるソーシャルスキルというものは,その類で,その意味では,常識は,しきたりだったり,ルールだったり,慣習だったりする。その分,定義はあいまいで,地域によっても,人によっても,解釈が違う。いっとき,「俺流マナー」という言い方で,たとえば,

エレベーターを途中で降りる人は,「閉」ボタンを押してから降りるべきだ,
飛行機でリクライニングを下すときは,後ろの席の人の許可を求めるべきだ,

と解釈し,言いあいになったケースがあると新聞で見たことがある。いわば,グレーゾーンがついて回る。だから,塩月弥栄子が『冠婚葬祭入門』で,言い切ってしまうことで,個人任せにされていたあいまい部分を「ルール」化してしまい,古くからのしきたりをもっている人を激怒させた。つまりは,常識というのは,あいまいな部分があるからいいのだ,とも言えるし,あいまいだから,困るともいえる。

ロイさんは,「常識はない」と言い切った。「皆が思っていると思い込んでいる」ことに過ぎない,というわけだ。まあ,現象学的な言い方をすれば,その通りで,クオリアでも,赤は赤としているが,人によって見えている色は違う。しかし「赤」ということで収めている。これが,言ってみると,関係性の中で,社会を構成していく「共通項」を,暗黙で,いちいち質したりしないでやっていける,人間のよさかもしれない。社会構成主義は,そこに力点を置くことで,相対性に意味を見出している。

では常識があると困ること,

と設問すればどうなるか。アメリカの作家アーサー・C・クラークは,

権威ある科学者が何かが可能というとき,それはほとんど正しい。しかし何かが不可能というとき,それは多分間違っている,

と言っていた。この場合,常識をパラダイムと置き換えることができる。有名なトーマス・クーンの,パラダイム・シフト(あるいはパラダイム・チェンジ)である。

前と同じデータの束を捕まえて,それを違った枠組みの中にいれ,新しい関係の中に置く,

という。これをハンソン流に言い換えれば,

なぜ,同じ空を見ていて,ケプラーは,地球が回っていると見,ティコ・ブラーエは,太陽が回っていると見るのか?あるいは,同じく木から林檎が落ちるのを見て,ニュートンは万有引力を見,他人にはそうは見えないのか?

ということになる。つまり,われわれは対象に自分の知識・経験を見る。あるいは知識でつけた文脈を見る。「われわれは知っているものだけをみる」と言ったのは,ゲーテだが,現代の我々は,

宇宙空間の適当な位置から見れば,地球が太陽の回りに軌道を描いていると(知っていることを)見ている。十三世紀の科学者は,太陽が地球の回りに描く軌道(プトレマイオスの天動説)を見ている。見ているのは知識なのだ。つまりそれがパラダイムということになる。

パラダイムは,存在しないのではなく,パラダイムは,その次代と文化を同じくするものに,共有化(されているという信頼関係)のもとに,社会が動いている,ということができる。

しかしそれを崩して,新たなものを創り出す,発見する,ということを目指すものにとっては,それは足枷そのものになる。そのとき,常識は,あいまいで,ふわふわした雲状だったものが,強固に屹立する壁になる。

ところで,ロイさんが,翻訳について語ったところには,ちょっと気になることがあり,感じたことを追加しておきたい。

たとえば,ロイさんが例を挙げて,

Give me some water.

と言ったとき,「水」と直訳したのでは,言葉を理解したことにはならない,といい,waterには白湯も入る,と言われた。これは,言葉が,現実の文脈に依存しているということを忘れて,言葉レベルだけで言語変換することは,真の意味の翻訳ではない,という意味では同感できる。ある意味翻訳は,言語の直接的な取り替えではなく,その言語の背景にある,文脈に立ち戻り,そこから,言葉を選び直す作業なのかもしれない。そうなれば確かに,その言語理解は深まる。

例えば,写真家の星野道夫さんは,イヌイットの老人が,「自分たちの暮らしを,自分たちの言葉で語りたい。英語ではどうしても気持ちをうまく伝えられん。英語の雪はsnowでも,わしらにはたくさんの雪がある。同じ雪でも,さまざまな雪の言葉を使いたい」と言っていたのを思い出す。イヌイットには,雪といっても,

アニュイ(降りしきる雪)
アピ(地面に積もった雪)
クウェリ(木の枝に積もる雪)
プカック(雪崩をひきおこす雪)
スィクォクトアック(サンクラスト-一度溶けて再凍結-した雪)
ウプスィック(UPSIK 風に固められた雪)

等々いっぱいあるらしい。それは,言葉が,文脈に依存しているからで,それを言葉レベルに置き換えるとき,美味様な誤差が出てくる。その違いが分かっているかどうかという意味では重要な点だと思う。

とりわけ日本語は文脈依存が強く,たとえば,「さようなら」は,

さようなるわけなのでおわかれします,

となり,その場,そのときにいっしょにいた人にしか,「さようなるわけ」は共有できない。その依存性は,

では,

じゃあ,

しからば,

という別れの挨拶にも現れる。あえて解釈すれば,「そういうこと」なので,が言外に含まれている。「そういうこと」は,そこで同じ文脈を共有した人間にしかわからない。同じ場にいたら理解できるかと言うと,それも丸めてしまわれると,反発する者もいる。かつて上司が,会議を締めくくる時,

「じゃ,そういうことで…」

といったら,女子社員に,

「そういうことって,どういうことですか」

と,食いつかれた場に居合わせたが,常識の持つ危うさと,そういうことでとあいまいにしたくない場合は,そのあいまい領域を明確にする必要がでてくる。そういう人は,日本では嫌われるらしいが,言葉レベルでわかったふりをする人は,たぶん行動には移さない。


トーマス・クーン『科学革命の構造』(みすず書房)
ノーウッド・R・ハンソン『知覚と発見』(紀伊國屋書店)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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#パラダイム・シフト
#パラダイム・チェンジ7
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posted by Toshi at 05:36| Comment(3) | ものの見方考え方 | 更新情報をチェックする

2013年08月13日

仮説


仮説と言えば聞こえはいいが,予想,予測,期待,先入観,言ってしまえば,まあ,妄想に近い。どんな立派な仮説でも,検証されるまでは妄想。他は推して知るべし…。

アインシュタインの仮説も,一時光より早いものがあると大騒ぎになった。まあ,観察誤差ということで落ち着いたと記憶しているが,ことほど左様に,アインシュタインの相対性理論すら,まだ仮説だと聞くと,まあ確かなものは,それほどこの世にはないと,安心する。

脳科学者に,「仮説脳」だか「予測脳」だか「予想脳」ということを言っておられた方がいらっしゃったが,あけすけに言えば,「先入観」とも言える。われわれは日常的に仮説あるいは予測しては検証する,を繰り返している。

多く,

こうかもしれない,

こうなったらいい,

こうなってほしい,

という願望だか期待をもって生きる。それは,仮説ではない。といって,

こうすれば,こうなる,

こうなっているのだから,こういうことだ,

というのは,筋というか,蓋然的な流れというか,あくまで事実(の動き)の予測に過ぎない。

仮説は,固く言えば,

仮の説明概念,

ぶっちゃけ,

仮にそう言っておこう,そう考えておこう,そう見ておこう,

ということだ。そういう眼鏡で見ると,そう見える,というだけのことだ。

これを,

事実

としてしまうと,本当の妄想,もう病気になる。

しかし,ストーカーもそうだが,ある意味,期待と仮説は,混同されやすい。そうした方が安らかになれるからだ。

期待というのは,「そうなってほしい」という自分のイメージを現実にかぶせる(と凹凸は見えにくくなる)。

仮説というのは,「そう考える」といまとは別の未来がストップモーションのように映し出される(気がする)。

微妙だが,事実が裏切るかどうかで,どちらも,検証されるというか,結果を突きつけられる。

期待は,自分のトンネルビジョンだから,かぶせ直しは効かない。しかし仮説は,「そう」を別に置き換えればいい。

思うに,どうせ仮説をたてるなら,妄想なのだから,とがっているほうがいい。尖っている方が,現実との葛藤が大きく,読み直し自体が面白くなる。尖っていないと,現実の重みに圧倒されて,すり減り,丸まって,当たり前の読解になっていく。

いまどき少子化などというのは仮説でも何でもない。

しかし何十年後日本人が絶滅する,と言えば,とまあ少しは尖っている。どうせ現実の鑢ですり減らされる尖りなら,もっと尖った方がいい。たとえば,少子化が徹底すれば,

労働力を大々的に受け入れるほかない。そうなれば,いまの看護師受け入れのように,日本語条件なんぞ言っていられない。なんせ,介護を必要とする老人があふれかえるのだから。となると,英語,中国語,朝鮮語,ベトナム語等々が飛び交うだろう。

それって,徹底すると,どうなるのだろう。

ときに,妄想は,悲観的に見えるかもしれない。しかし,悲観の裏には楽観が張り付いている。

それば,ひょっとすると昔大陸から大挙渡来人が来たのに匹敵する巨大な変革のエネルギーになるかもしれない。

まあ,自分はこの世にはいないが…。


参考文献;
仮説づくり;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0926.htm


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm






#仮説
#仮説づくり
#期待
#願望
#予想脳

posted by Toshi at 05:54| Comment(4) | ものの見方考え方 | 更新情報をチェックする

2014年03月04日

社会構成主義


ケネス・J・ガーゲン『あなたへの構成主義』を読む。

冒頭著者は宣言する。

今,世界中で,さまざまな学問の壁を越えた刺激的な対話が始まっています。それがいったいどのようなものかを,ぜひ,読者のみなさんに伝えたいというのが私の願いです。……それは,16世紀から17世紀に起こった,思想や実践の大きな転換…にも匹敵します。なぜならば,その対話は,私たちが「これは事実である」「これは善い」と考えているすべてのものの基盤を根底から揺さぶるだけではなく,クリエイティヴな考えや行為を生み出すまたとない機会を提供するものだからです。

ここで言う対話,こそが,キーワードである。事実も,価値も,我々の外にあるのではなく,我々自身の対話のなかで生み出している,これが,僕の理解した社会構成主義の肝である。それは,どこかに正解があるのではなく,正解はわれわれ自身が創り出している,ということになる。その意味では,専門性や科学性の権威性そのものを,民主化する,というような意味がなくもない。

この画期を,ポストモダンから,説き始め,それを三つに整理するところからスタートする。

第一は,言葉は現実をありのままに写しとるものではない。
第二は,価値中立的な言明はない。
第三は,記号論から脱構築へ。

第三は説明がいるでしょう。これは,ソシュールの,「意味するもの(シニフィアン)」と「意味されるもの(シニフィエ)」の関係は恣意的であり,「降っている雪」を「雪」とよぶのは,たまたま偶然にすぎない。とすると,

あらゆることばがいかなるシニフィエ―対象,人,できごと―でも意味しうる…,

ということになる。そして,もうひとつ,

記号のシステムはその内的な論理に支配されている,

ということをソシュールは言った。ということは,

言語の使用が内なる論理によって決められているということは,「意味」が言語の外の世界から独立したものである,ということを意味する,

ということになる。言語の脱構築を理論化したデリダは,

第一に,すべての有意味な行為は―合理的な決定をする,人生における重大な問題に対してよい答えを出す―はすべて,あり得たかもしれない多様な意味を抑圧することによって成り立っている,

第二は,私たちが行うすべての決定は,たとえいかに合理的に見えても,合理性の根拠を突き詰めてていけば必ず崩壊する可能性をはらんでいる,

と,その不確かさを説明している。それへの一つの答えを,ヴィトゲンシュタインは,

言語ゲーム

というメタファーで示した。どんなゲームにも(自己完結した)ルールがあるように,言葉の意味もそれと同じだと,ヴィトゲンシュタインは,言う。

言葉の意味とは,言語の中でその言葉がいかに使用されているかということ,

である。つまり,言葉は,言語ゲームのなかで用いられることによって,その意味を獲得していく。

それは,言語が事実や心を写す道具ではなく,

言葉を用いてものごとを行っている,

のであり,

相手と一緒に何かを行っている(パフォーマンスに加わっている),

のであり,その中で意味が生まれてくる。つまり,

状況を超えた事実というものは存在しない,

事実はある,ただし,常にある特定の限られたゲームの中に,事実はある,

ということになる。

こう言うことを前提に,社会構成主義は四つのテーゼをもつ。

第一は,私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は,「事実」によって規定されない。
第二は,記述や説明,そしてあらゆる表現の形式は,人々の関係から意味を与えられる。
第三は,私たちは,何かを記述したり説明したり,あるいは別の方法で表現したりする時,同時に,自分たちの未来をも創造している。
第四は,自分たちの理解のあり方について反省することが,明るい未来にとって不可欠である。

第三は,我々の未来が過去ではなく,

人と話したり,何かを書いたりしているまさにその瞬間にも,私たちは確かに未来を創造している

のであり,そのためには,

与えられた意味を拒否する―例えば,性差別者や人種差別者の言葉を無視する―だけではだめで…,それに代わる新しい言葉や,新しい解釈や,新しい表現を生み出さなければなりません,

と言い,それを生成的言説,と呼ぶ。結局社会構成主義は,

事実や全を,社会的なプロセスの中に位置づけ,我々の知識は,人々の関係の中で育まれるものであり,個人の心の中ではなく,共同的な伝統の中に埋め込まれていると考えている。したがって,社会構成主義は,個人よりも関係を,孤立よりは絆を,対立よりも共同を重視する,

という。その点から見ると,二つのポイントが特筆される。

第一に,心理的な言説は,内的な性格な記述ではなく,パフォーマティヴなものである。が,「愛している」ということで,ある関係を,他ではない特定の関係として形づくっている。

例えば,「愛している」を「気になる」「敬愛している」「夢中だ」と言い換えると,関係が微妙に変わる。だから,こうした発話は,単なる言葉ではなく,パフォーマティヴな働きをしているのである。

第二は,パフォーマンスは関係性の中に埋め込まれている。このパフォーマンスには,文化的・歴史的な背景を取り入れなければ何の意味も持たない。つまり,私があるパフォーマンスをするとき,さまざまな歴史を引きずり,それを表現している。言い換えると,文脈に依存している,ということになる。

ある人のパフォーマンスは,必ずある関係の構成要素である,

ということになる。

しかし,ここから疑問がわく。

関係性の中で,自分が依存している限り,確かに,

記憶やその他の心のプロセスが集合的なものであることは,いいかえれば,それらが共同体の中に配分されている,

ということは認めるし,感情も価値も,そうかもしれない。ヴィトゲンシュタインの言うように,

理解(や判断もそうかもしれない)を,心のプロセスとして理解しようとしてはいけない。……その代り,自分自身にこう問いかけてみなさい。私たちは,どんな時に,あるいはどのような状況において,「どうすればいいか,わかったよ」と言うのか,と。

意味を個人の心に閉じ込めるのではなく,人々の相互関係の中に位置づける,

と。それを,僕流に,

関係性の反映,

と呼ぶとすると,しかし,一人一人の脳のなかでの,

関係性の記憶,

というか思考のプロセスは,イコールではない。一人一人が考えていることは,文脈とイコールではない。人によって,異なる。

たしかに,

私はたった一人では,何も意味することはできません。他者の補完的な行為を通してはじめて,「私は何かを意味する」力を得る,

というのはわかる。しかし,社会構成主義の四つのテーゼの言う,第四の,

理解のあり方について反省する,

という,その反省の主体は,誰なのか。結局,この主体なくしては,対話も,反省もない。

この「私」

を「我思うゆえにわれあり」の「われ」を主客二分として,葬り去ったところから,社会構成主義はスタートしたと強調するが,しかし,反省する主体,会話する主体なくして,ゲームが成立するのか。その主体は,ゲームの単なる駒なのか。とすれば,関係性が紡ぎ出す中で,ただ紡がれていればいいのか。

関係性の他者は,主体あってこそ,他者ではないのか。

例えば,こう言っている。

私たちの現実が,他の人々に耳を傾けられ,肯定されて,会話がますます調和したものになった時,変化力をもつ対話へ向けてのさらなる動き―「自己内省」―が生じる可能性が生まれます。モダニズムの伝統として,私たちは常に「統合された自我(ego)」として会話の中に位置づけられています。つまり,私たちは,単独の首尾一貫した自己として構成されています。そのため,論理的あるいは道徳的な一貫性がない人は,人々の軽蔑の対象になりますし,私たちは自分と立場を異にする人々に対して,自らの意見を,ほころびのない織物のように作り上げようとします。したがって,私たちがいったん対立関係に入り込んでしまうと,私たちの距離は決して縮まることがありません。

その関係性に対して,

自らの立場を疑問視する試み―つまり「自己内省」への会話によって,異なる声を受け入れて,多声性を取り入れる会話がいる,と述べる,

その内省する主体である。たった一人のときでさえ,特定の文化に根差した話し方をしているにしても,その主体は,何なのか。統合された自我を否定しながら,そこは,スルーしている。いまある現状をそのままにしていくのか。普通の日常で,人と接している自分を,そのまま前提にするのか。

個人主義的な自己に変わって,関係性の中の自己,

という,その自己のことである。これについては,僕の読んだかぎり答えが見えなかった。

それを無批判に使っている,というところが気になった。それなら,例えば,

自己は,相手から認知されることで存在する,

と徹底的に置き換えてみる。しかし,それでも,そを認知し,受け止める「自己」とは何か,

答が先のばしというか,スルーされたままのような気がする。

僕は,自己について,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388611661.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389704147.html

書いた。しかし…!

参考文献;
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの構成主義』(ナカニシヤ出版)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


posted by Toshi at 06:26| Comment(0) | ものの見方考え方 | 更新情報をチェックする

2015年09月13日

視界


視界というのは,

目で見通すことのできる範囲。視野。

という意味で,眼や光学機械の見える範囲,を指す。見える限界,である。そのアナロジーで,

考えや知識の範囲。

という意味に外延が延びる。同義語とされる,視野は,

眼を動かさずに知覚できる周辺視の範囲,

という意味らしく,

外界の一点を凝視するとき、その点を中心として見える範囲。

という意味で,その制約下で,

視力の及ぶ範囲

という意味になる。その意味で,比喩的に,

物事を考えたり判断したりする範囲,

という意味も,視野でいうのに比べると,少し固定点という制約がある。

こまかいところを別にすれば,

眼の利く範囲,

ということになる。記憶で書くが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/399998550.html

でも触れたが,和辻哲郎は,『鎖国』で,

視圏,

という言葉を使っていた。それは,単なる,

視野拡大,

ではなく,

視圏拡大,

というとき,和辻は,

未知の世界への好奇心,関心,

という意味で使っている。その背景にあるのは,

日本民族が何ゆえに世界的視圏を獲得し得ず,したがって,近世の世界の仲間入りをなしえなかったか,

という和辻の問題意識と軌を一にしている。それは,単に,

視野

だけではない,そのアナロジーとしての,

知力,

をも含意している。その意味で,僕は,視圏を,単なる,

視野の広がり,

だけではなく,その,

視線の射程,

がどこまで届いているか,ということを含意している,と思っている。

因みに,「視」の字は,

みる,

という意味と,

なぞらえる,

という意味があるが,原義は,「真直ぐ見ること」という意味である。「野」の字は,

延び広がった郊外の地,

という意味で,「予」は,□印のものを横に引き伸ばし,伸びる意で,「野」は,

横に伸びた広い田畑,野原,

のことを指す。「界」は,

さかい,

という意味で,「介」が,人が中に割り込んで,両側に分けるという意味で,「界」は,

田畑の中に区切りを入れて両側に分ける境目,

の意味。その意味で,視界は,視野のぎりぎりの限界を指すと言っていい。「圏」は,

おり,

かこい,

を意味する。「圏」の「巻」は,

「釆(ばらまく)+両手+人が体を曲げた姿」

の会意文字。手や体を軽く巻くことで,「拳」や「捲」の原字。で,「圏」は,

まるく囲んでで取り巻く,

という意味。視界は,あくまで,

視点から見えている範囲,

つまり,パースペクティブを指すのに対して,視圏は,

その全体圏内,

を指している。その意味では,視点が,メタ・ポジション,というか,俯瞰視点に立つ。この視座(物を見る立ち位置)が取れなかったことを,和辻は,世界史の中に織り込んだ日本史を振り返りつつ,日本の鎖国への道を,「国を鎖(と)ざす行動」と呼んで,なげく。

その意味で『鎖国』のサブタイトルが,「日本の悲劇」となっていることは,象徴的である。いま,70年たって,敗戦の苦しみを忘れたかのように,またぞろ自己完結した自己賛美の中にあることを思うと,和辻の格闘は,結局実を結ばなかった。しかし,マルクスではないが,

一度目は悲劇,二度目は茶番,

である。正確に引用するなら,

「ヘーゲルはどこかでのべている。すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ,と。一度目は悲劇として,二度目は茶番として,と。かれは,つけくわえるのをわすれたのだ。」

と。ここで茶番と言っているのは,言うまでもなく,シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン三世)のことである。それに準えるなら,一度目は,第二次世界大戦,二度目は日本の一人芝居,あるいは,一度目はキシシンスケ,二度目はアベシンゾウ,でもあるかもしれない。

参考文献;
和辻哲郎『鎖国』(岩波文庫)
カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(岩波文庫)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:38| Comment(1) | ものの見方考え方 | 更新情報をチェックする