2013年07月20日
敬老バブル
山下努『「老人優先経済」で日本が破綻』を読む。
本書の狙いを,著者は,こう書く。
世帯主が60歳以上の高齢者世帯の消費支出額は100兆円を超え,SNAベース(国民経済計算)で家計最終消費出学の44%を占めます。企業も顧客である高齢者の方を向き,政治も消費も高齢者が決定権を握ります。若者の消費パワーは高齢世代にかなうはずがありません。なぜなら,高齢者に仕送りする税金や社会保障費を差し引かれた中で,家を建て子づくりすることを強いられているからです。しかし,こうした現実にもかかわらず,アベクロミクス(アベノミクスは安倍・黒田両氏の功罪とみなし,この本ではあえてこう呼びます。著者の造語)のように若者は年長者から見えない「目隠し」をされており,本当の現実はわかりません。その目隠しを取り,「老人優先経済」の実態を暴くのが,私の最大の任務です。
冒頭こう書く。
「早く65歳になりたい」という若者の気持ちがわかりますか?…これにはショックを受けました。確かに65歳になれば,年金という永久所得が死ぬまで手に入れられるかもしれません。でも,若者が老人になりたいなんていう国に未来はあるのでしょうか。
しかしまず,現在40歳以下の年金支給開始年齢は,いずれ70歳まで伸ばされる。著者は,65歳以上だけが,かろうじて勝ち抜けできるという。
60歳以上は,年収600万,2000万円近い純貯蓄。30代は,600万以下の収入で,259万円の負債超過。国民が保有している金融資産は,1400兆円から1500兆円,その70%をシルバー世代が握っている。
しかし年間53兆円が支給される公的年金も,現役世代が納めた保険料だけでは足らず,10兆円規模の税金を投入し,高齢者が大半を使う国民医療費は40%を超える。多くの健保は高齢者への支援負担で赤字。現役世代の健康を守る保険制度は,重篤な状態になっている。
一方で,国民年金の納付率は58.6%,5人に1人は保険料を払っていない。世代別では,20代後半が46%。30代前半でも49%。1990年代半ばまでは,80%を超えていた納付率が,20年でここまで下がっている。月額15000円の保険料が重すぎるのである。
国民年金の加入者の平均年収は159万円で,国民年金の受給者の平均年収は189万円。…貧乏な若者が,自分より豊かな祖父母に仕送りをしているようなものです。
実はこうした年金の「ニッポン化」は,世界的な流れになっている。
米国は高齢化率(65歳以上の人口比率)が13%で,日本より10%強も低いわけですが,そんな米国でさえ3人の現役世代が1人の高齢者を支えているというのが現状です。これが2030年ごろには,2人で1人を支える状況になります。
一方米国の確定給付年金の加入者数は4200万人で,人数自体は1990年代と変わらないものの,現役の加入者数となると1800万人に減少しており,…これはすでに,現役1人で1人以上のお年寄りを支える構図となっています。
現在世界中で,マネタイゼーション(政府の財政赤字を中央銀行が引き受けること)が進んでいる。
現役世代が減少して,税収が落ちるにもかかわらず,社会保障費は膨張します。これに対し,本来は増税し,政府のサービスを減らすことで対応すべきですが,「不利益」を配分すると,政治家は次の選挙で落選してしまいます。そこで,国債を大量発行し,将来世代にツケをとばしてしまおうというのです。
日本の中央政府部門の公的債務は1000兆円を超えます。自治体などと,旧特殊法人など準政府部門の債務を加えれば,1200兆円規模となるでしょう。
公共事業に今後10年で200兆円を使うという国土強靭化政策を掲げたままだから,それはまたは将来世代へのツケとして先送りされることになる。さらに,このままなら,毎年40兆円近くが国債で賄われる。つまり借金だ。
著者は2005年時点で計算した世代別・生涯所得と生涯純負担率を,紹介している
0歳 2億1048万円(負担9417万円,受益5906万円) 差引3510万円の負担超(生涯純負担)生涯純負担率16.7%
20歳 2億2506万 差引2229万円の負担超(生涯純負担)生涯純負担率9.9%
60歳 3億2887万円 差引2282万円の負担超(生涯純負担)生涯純負担率7.5%
85歳 3億436万円 差引1477万円の受益超(生涯純利益)生涯純負担率マイナス4.5%
著者は言う。
その時代に受益を享受する世代が,必要な資金を自分たちの生きる範囲内で賄う自己責任原則が鉄則となる時代が来て当然でしょう。
そのためには,国債を60年もかけて償還することをやめる,
という。賛成である。後の世代に先送りする限度はすでに来ている。
参考文献;
山下努『「老人優先経済」で日本が破綻』(ブックマン社)
今日のアイデア;
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2014年01月05日
素朴信念
高橋惠子『絆の構造』を読む。
われわれは,人との関係,家族との関係について,多くの常識というか,先入観を刷り込まれ,それに縛られて自縄自縛に陥っているところがある。本書は,それを改めて解きほぐしていこうとしている。
著者は言う。
本書では,それぞれの人が現在持っている「人間関係」,ひととの「絆」の「仕組み」を検討することを提案している。その「仕組み」が実は興味深い「構造」をなしていることを明らかにすることで,それぞれの人が自分の人間関係の内容を知り,ユニークなオーダーメイドの絆の再構築をするヒントになればうれしい
と述べる。それは,逆にいえば,多くの人が,オーダーメイドではなく,お仕着せの人間関係観,家族観に拘束されている,ということでもある。そして,
人は,誰とでも同じように,無差別につながれるわけではないのである。…一生涯にわたって,人は周りの人びとの自分にとっての意味,つまり,安心・安全をもたらす人,行動を共にしたい人,困っていたら助けてあげたい人などを区別しながら,自分にとって好きで有効な数人を選択しているのである。(中略)注目すべきは,表現された対人行動ではなく,各人が持っている頭の中のプログラムなのである。このプログラムは,複数の重要だと選択されたメンバーで構成されているが,彼らは雑然とそこに入れられているのではなく,各メンバーにはそれぞれ心的役割が振られ,整理されているとするのが妥当である。そして,あるメンバーの役割は別のメンバーの役割と関連し,ネットワークをなす構造を持つと考えるとよさそうなのである。
大事なことは,人間関係に,こうあるべきだ,こうでなければならないという価値や常識,イデオロギーにあるのではない,人は,自分が生きるために,人との関係を選択し,自分の関係を創っていくことができる。あるいは現にそうやってつくっている現実の関係を認めることだ。でなければ,強制でしかないし,拘束でしかない。
たとえば,「絆」はいいものだという神話について,
「絆はよいものだ」「人は絆を持つのが当たり前だ」とし,さらに,「もっと親密で,しかも,自然な絆は親子・家族間のものだ」「母子の絆が絆の原型だ」
という常識や思い込み(「素朴信念」と著者は言う)に苦しめられている人が多いのではないか,と著者は問う。マストになった瞬間,そうでない人を異常にする,あるいは異常ではないかと悩まされる。それでは,
オーダーメイドの人間関係をつくるうえでの障がいになるのはなにか。
まずは家族について。311の後,絆の大合唱が起こったが,朝日新聞の調査では,
危機に瀕して,実際に(家族との)関係が深まった,
というひとは三割に満たない。
家族が困ったときに助けてくれる愛ある共同体であるというのは根拠のない思い込み,つまり,神話なのだと思い知らされる,
と著者は言う。しかし,国のすべての制度は,「標準家族」というものをベースにしている,世界でも例がない仕組みを取り続けている。つまり,社会的なリスクを担う,最小単位のセーフティネットとされているのである。
それは,
夫が主たる稼ぎ手で,妻が専業主婦で家事・育児を受け持つ
という生別役割分担を前提とした「男性稼ぎ主型」で,それが,家族のあたりまえの生活,子どもの育児・教育,老人の介護などの生活・福祉をスムーズに実行する社会の単位とみなされている。だから,
すべての人は標準家族に属するという前提に立ち,市民ひとりひとりが社会の単位,
とはみなされていない。税制,健康保険,介護保険,企業の賃金体系まで様々な風習に至るまでが,それで貫徹されている。
しかし,標準家族は三割に満たず,一番多いのは,単身世帯で35%程度,夫婦のみの世帯が二割,一人親世帯が一割,二世帯は,微々たる数でしかない。しかも生涯結婚しない人も,増え続けている。
標準家族ではない人が,七割を占めているのに,家族主義を前提にして施策が進められ,多くが不利益だけではなく,
幼い子供は母親の手で育てるべきである,
という素朴信念が,逆に女性に生むことをためらわせ,自分の人生を諦めさせられたくない,
という事態を生み,少子化の遠因になっている,と著者は言う。では女性を拘束する,
幼児期にしっかり育てなれば取り返しがつかない,
乳幼児の経験が後の人生を決定する,
というのは,本当なのか。著者は言う。
人間の発達には柔軟性があり,取り返しがきき,その人がやる気になった時が,発達の適時なのである。親に虐待されて不幸な乳幼児期を贈らざるを得なかった子どもがその後に十分な養育・教育を受けて回復したという事例
が増えてきたという。つまり,
乳幼児期の発達から将来を予測することは難しいこともわかったきた
のである。どう考えていも,90年に及ぶ人生の中で,わずか三年間が決定する,というのは納得できない,という著者の言葉に賛成である。
では母子関係は特別なのか。その根拠に使われているのが,イギリスのジョン・ボウルビィの「愛着理論」である。ボウルビィは,
人類には生存を確保するために,強い他者に庇護を求めるというプログラムが遺伝子にくみこまれるようになった,
とした。愛着とは,
「無能で無力な人間」が「有能で賢明な他者」に生存,安全を確保するために擁護や援助を求めること,
と定義される。ボウビィルは,その「他者」に母親を重視した。しかし,著者は,最晩年ボウビィルが,「母親が働きに出るのは反対だ」と発言したことを例に,
家父長制イデオロギーがボウルビィルの科学者としての者を狭めた,
と言い切る。そして,サラ・ハーディの研究結果に基づいて,
人類を含め類人猿では母親になっても育児をするとはかぎらない。母性本能は疑わしい…。母親になることには学習が必要である,母親以外が養育する事例が類人猿に広く見られる…,そして類人猿の雌も幾次と生産活動を両立させている…。
と指摘する。そして,
母子関係は大切ではあるが偏重する必要はない。
とも。つまり,母性本能というのは,社会的文化的に刷り込まれた結果である,ということである。
著者が最後に紹介する,カーンとアントヌッチの,
コンボイ
という,サポートネットワークの測定法がなかなか面白い。
面接調査によって,
同心円に,中央が自分,その外に,最も大切な人,その人なしに人生が想像できない位親密に感じている人,その外に,親しさの程度は減るがなお重要なな人,一番外の円に,それほど親しくはないが重要な人を,挙げてもらう。
次に,それぞれの人を上げた理由,どう重要なのか,を聞く。
著者は,8歳から93歳までの1800人余りの面接調査を試みている。三つのうん平均で七~八人,そこに出るのは,
他者に助けられつつ,自分らしくあるという自立を手に入れるうまい仕組みだといえる。なぜなら,誰か一人に全面的に左右されずにすむ。つまり,誰かにすべて依存することはない。その上,誰がどのように有効なサポーターであるかがわかっていれば,あるサポートが必要になった時にあわてなくてすむ。
という自分で選んだネットワークなのである。重要なのは人数ではない。
自分が選んだ大切な役割・意味を持つ人々を構成メンバーとする人間関係の中で暮らしている,
ということなのだ。それを更新しながら生きている。大事なことは,母親が重要な存在ではあっても,子どもたちにとって,
重要な他者の一人であるというのが正しい,
ということなのだ。父親や祖母が愛着の一番手として挙がることものである。
気づくのは,日本の根強い素朴信念が,多くの呪縛や心の病をもたらすということだ。そのほとんどは,家族を主体とする政策やイデオロギーによる拘束でもある。そして,いま,その家父長制イデオロギーというか,家族主義が復権されようとしている。「おひとりさま」(上野千鶴子)が大勢なのに,である。
現実と政治家のイデオロギーのギャップの中で,子どもの貧困率は16%になろうとし,実に子供の,6~7人に一人が貧困状態にあるという,先進国の中でも政治の貧困が際立つ。それは標準家族という幻想(イデオロギー)の上に立つ政策が,そこからこぼれていく一人親家族の貧困を放置している(見捨てている)結果でもある。
アンシャン・レジュームというイデオロギーの妄想の中,いまも子供が貧困の中死んで行く,こんな「美しい国」が何處にあるのか。激しい怒りを感じつつ,ドストエフスキーがカラマーゾフの兄弟の中で子供の悲劇を指摘していたことを思い出す。あれは,19世紀の話なのだ。21世紀になってもこの体たらくなのだ。
そう思うとき,絆自体が,イデオロギーとして使われたのだと思い至る。
参考文献;
高橋惠子『絆の構造』(講談社現代新書)
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2014年02月02日
デモ
デモは,テロだという妄言を吐いた政治家がいたが,タイの政治家の爪の垢でも煎じて飲んだらよい。吉宗は目安箱を設置した。封建時代の将軍すら,民意を探ろうとしていたのだ。
国民は,奴隷か羊のように,従順に右向け右というのが御しやすいに違いない。そう考えている政治家は,多様性を束ねる政治力のなさを白状しているようなものだ。政治は,自分の思う通り国を動かすことではない。国民の負託を受け,あくまで民意を実践するものでなくはならない。しかし,多く,戦後自民党政権は,民意を重んずるより,私益を重んじて国を運営してきたとしか思えない。現在の体たらくのすべては,ほとんど戦後一貫して国のかじ取りをしてきた自民党の責任以外のなにものでもない。にもかかわらずわずか三年弱の民主党に責任をおっかぶせて,あたかもみずからは,無罪のごとく振舞う。この厚顔無恥を許しているのも民意なら,この国が,後戻りの効かないティッピングポイントを通過しても,それを看過するのだろう。
後になって,一億総懺悔だけは御免蒙る。
さて,デモの話だった。デモは,署名活動と並んで,国民が自らの意志を主張できる合法的手段だ。
しかし,日本の場合警備が非常に厳しく,デモ隊より警備の警察官の方が多くなることもしばしば。しかも警察官がデモ隊をぐるりと包囲する形で監視している。これは,警察がデモ活動を周囲の見物人や通行人などと切り離し,飛び入り参加者を阻止するためで,このために歩行者などにデモに気を取られて立ち止まらないよう命じられることも多い。
日本でのデモ活動は事前計画を超えられず,他国にしばしばみられるように,デモが自然発生的に大規模化することは困難。しかも,道路交通法又は都県または市が定める公安条例の縛りがきつく,まるで,
おなさけで(いやいや)デモをさせていただいている,
という具合である。だから,冒頭の暴言が出る。
かつて,それを突破するために,暴力的に警官隊を突破することがあった。いまや伝説にしか過ぎない。かつてまだ若者は,未来に夢を持っていた。
創りたい社会像
があり,
目指す未来像
があったように思う。それが若者のエネルギーであった。いまや国を挙げて,社会を挙げて,家庭を挙げて,飼いならし,牙を抜いて,おとなしい羊と化した若者(というか,いい子に,寄ってたかって仕上げた)に,かつてのエネルギーはない。
なぜなら,国の未来は,若者には一番厳しく,相対的に少数派になっている若者は,選挙でも勝ち目はなく,相対的に多数派の老人,既得権益を握っている大人たちに勝ち目はない。
しかもアメリカと異なり,起業(ここでいう起業は企業ごっこを指さない)は,厳しい環境にあり,寄ってたかって大手に潰される。
目立つのはヘイトスピーチと人種差別のデモだ。ネトウヨと呼ばれる若者を誤指導しているのが誰かは知らない。しかし,怒りの向け方が間違っている。相手は,老人と既得権益者ではないか。かつて白人の低所得者が黒人排斥に血道を上げたのと似た構造だ。だからか,未来像が過去になる。過去がそんなよかったのなら別だが,過去に未来なんかない。それは(疑似)懐古趣味に過ぎない。
僕は,もううん十年前,警官隊に追い散らされたデモ隊にいて,逃げ遅れて逮捕されたことがある。別に誇りはしないが,自らが主張すべきことを主張し,結果警官隊とぶつかり,追い散らされた結果の逮捕を恥じてはいない。が,逃げそびれたおのれの頓馬さは悔しい。
あのころ,まだ若者は生き生きしていた。荒馬のようにエネルギーに満ち満ちていた。
それを駄馬のように,羊のようにしたのは,国と社会だ。若者がエネルギーを持てない国は,未来はない。未来を担うべき若者に,
夢を見ることを放棄させたからだ。
未来を見えなくしたからだ。いまや,夢は,
自分の発見という小宇宙にとどめられてしまった。しかし,そんなものは,国が亡び,社会が荒んだら,糞の役にも立たない。
いまそれは顕在化しつつある。
貧困率は2位,六人に一人,子どもが貧困にあえいでいる。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/44/index.html
この先にあるのは,奴隷だ。ただわずかに給与を得るために,唯々諾々と従う。しかし,人は奴隷にはなりきれない。自分があり,自由を求める。そこに憤懣がマグマのように蓄積する。
言いたいことを言えず,一人で抱え込んで,製品に毒を入れたり,無差別殺人に走ったりという非生産的な心境に,若者(とは言えないが,失われた20年を経れば,就職に失敗したものは,壮年になる)が,憤懣を一人抱え込むしかない心情を,痛いほどわかる。
今,それを救い上げるものがどこにもない。労働組合は既得権益の巣窟でしかなく,いまや保守そのものだ。各個ばらばらに個別撃破されて,一人一人の労働者がかなうわけはない。
しかし,この下へしわ寄せした分,日本の企業は競争力を確保したかというと,逆だ。いま,どの企業も職場は荒れている,と見ている。一人一人,個別バラバラに,各個撃破され,羊になるか,病気になるか,ドロップアウトするかしか選択肢はない。
だが,そんな日本企業が競争力があるとは思えない。
モノづくりは,すでに多く追い抜かれ,それ以外のソフト力もシステム力も,対抗できるだけに育ってはいない。労資ともどもも,すでにティッピングポイントを超えた,と僕は見ている。悲観的に過ぎる,と言われるかもしれないが,人を大事にしない企業が,社会が,国が,将来何を担保にして成長するのか。
自己責任とは,便利な言葉だが,セーフティネットがあって初めて機能する言葉だ。それなしの自己責任の要求は,国の,社会の,企業の責任放棄だということが,この国の為政者には全く分かっていない。
アメリカは,311の後,9000人のアメリカ人脱出計画を立てた,と聞く。福島県の全県避難すら,拒絶され(それを当時の管首相が要請したが福島県知事が拒否したと言われている),未だに住み続けさせられている。むしろ定住を促進しようとする運動(その主体が誰かは想像に難くない)がまかり通っている。その付けを払うべき何十年後は,それを進めたものは鬼籍に入り,住まわせられた子供たちに負いかぶさる。こんな国に,未来があるのか,と絶望的になる。
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2014年08月11日
嘘
これほど,嘘がまかり通る世の中は初めてだ。しかも,嘘も積み重ねてつけば,真実になると,為政者がうそぶくという国は,たぶん他にはない。
(消えた年金記録は)最後のお一人にいたるまできちんと年金をお支払いしていく。
(フクイチは)アンダーコントロール…。
消費税は全額社会保障財源に回す。
最近では,こんな感じだ。コイズミ時代も,目につく嘘が一杯あったが,ここまで,嘯くというのは,初めてだ。何一つ,実行されたことはない。
海外派兵はいたしません
日本の原発は世界一安全
日本が再び戦争をするような国になるというようなことは断じてありえない
等々もまた,その類の空証文であることは間違いない。
うそ
とは,語源的には三説ある。
①中国語「迂疎」からきたとするもの。「迂疎」とは,とうざけるべきものという意味。
②「ウ(大いなる)」+「ソ(そらごと,そむくこと)」で,大きなそらごとの意。
③「うそぶく」の語幹「うそ」から来ている。真実でない意。
「噓」は,
吹く気を急に吹き出すを吹といい,緩きを噓という。
意味としては,
嘯く,
ふうっとため息をつく,
となる。「うそ」に当てた,「噓」は,国字,
口(言葉)+虚(実がない)
実のない言葉,つまりうそ,とした。
要は,
嘘とは事実に反する事柄の表明であり,特に故意に表明されたもの
を言う。嘘というのは,
意図的に騙す陳述を指していて,たんなる不正確な陳述とは異なる,
のである。ためにしているといっていい。
噓には,5タイプあるという(J・M・ウィルソンらによる),
①自己保護のためのうそ 罪や避難,不承認を避けたり,罰の悪さをさけるため
②自己拡大のうそ 現実よりも自分を良く見せようとする。注目や承認をえるためのほらの類
③忠誠のうそ ある人を守るためにその人の違反行為などをかばうためにつく
④利己的なうそ 物質的な利益をえるためにつく
⑤反社会的・有害なうそ 態とその人をけなしたり非難したりして,その人を傷つけるためにつく
等々と,今日,我が国の為政者がなしている詐欺行為は,こんな可愛げのあるものではない。
麻生副総理は,
「ナチス政権下のドイツでは,憲法は,ある日気づいたら,ワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口,学んだらどうかね」
と言ったとされている。まさに,いま進んでいるのは,この手口である。
詐欺とは,
他人を騙して,錯誤に陥れたり,財物をだまし取ったり,瑕疵ある意思表示をさせたりする行為,
という。解釈改憲の説明に使った例(米艦は,邦人を救助のために載せたりしない等々)と言い,機雷の掃海行動(ホルムズ海峡にはほとんど公海はない)といい,詐欺同然の言説で,
錯誤に陥れている
のである。つじつまの合わないこと,論理の破綻は,外から見ての話で,
虚構
作り事
絵空事
を意図的に持ち出し,その中にいる人間には,破綻はない。どうせすべて嘘で,言ったこと自体を,ひょっとすると覚えていないかもしれない。嘘を言ったこと自体を別に取り繕う必要も感じていない。何はともあれ,まず結論ありきで,口先三寸,ただ並べ立てている理屈は本当はどうでもいいのかもしれない。
例の広島で批判されたにもかかわらず,また長崎でもコピペしたことに見られるのは,一見無謬で押し通すように見える。しかし実は,そんなことはどうでもいい。自分の言いたいことをただ一方的に言う。被爆者から異見を示されても,「見解の相違」で押し通す。議論を積み重ねるとか,意見を交換するとか,人の意見を聞いて正すというようなことはまるで必要を感じていない。ブルドーザーのように,押し通していくとしか見えない。
まず,戦後のレジームを壊すことありき,そのための既成事実をひとつひとつ確実に積み重ねている。為政者がおのれを押し通していくことで,実はひとつひとつ現実が出来上がっていくことを知っている。それが確実に進捗していくところが恐ろしいところだ。
これ程の詐術に欺かれるのは,国民の側の責任である。
こんなに世間中で騒がれているのに,未だに振り込め詐欺に欺かれるのと,どこかシンクロしてしまうのは,僕の錯覚なのだろうか。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中島義明他『心理学辞典』(有斐閣)
今日のアイデア;
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2015年05月24日
ポツダム宣言
写真は,1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン
先日の党首討論で,共産党の,志位氏は
「過去に日本が行った戦争は、間違ったものという認識はあるか。70年前に日本はポツダム宣言を受け入れた。ポツダム宣言では、日本が行ったのは間違った戦争だったと明確に記している。総理はこの認識を認めないのか」
と聞いたところ,これに対し,安倍首相は,
「ポツダム宣言は、つまびらかに読んではいないが、日本はポツダム宣言を受け入れ、戦争が終結した」
と述べたと,本来なら,騒然となるべき事態である。しかし,幇間マスコミはほぼ沈黙した。
少なくとも,わが国の戦後のスタートラインとなる,つまりは,無条件降伏を促す,連合国の勧告だ。つまり,
1945年7月26日、ドイツのポツダムにおいて、アメリカ・イギリス・中国(のちにソ連も参加)が発した対日共同宣言。日本に降伏を勧告し、戦後の対日処理方針を表明したものだ。
「ポツダム宣言つまびらかに読んでない」
とは,言質を取られたくない逃げかもしれない。しかし,逃げてはいけない。それを脱却する,としているスローガンの,戦後レジュームは,この受入れから始まっているからには,大人(たいじん)なら,真っ向勝負の機会だったのではないか。
それにしても,「「詳らかに読んでいない」と,言い放つことの意味の重大性が,ほんとにわかっていない。この方は,いまさら申上げるのもなんだが,
綸言汗の如し,
という,言葉の重さがわかっていない。言うことが,ちゃらい,というか,口先三寸というか,それにしても,ひどい人が,この大事な時期に一国の舵取りをする,財界も,保守陣営にも,人材が払底したと,思わざるを得ない。
ま,では,その内容は一体どんなものだったのか。改めて,我々もよく「ポツダム宣言」を読む必要がある。ネット上の,
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/potsudam.htm
から,ポツダム宣言条文全訳である。
(1)われわれ、米合衆国大統領、中華民国主席及び英国本国政府首相は、われわれ数億の民を代表して協議し、この戦争終結の機会を日本に与えるものとすることで意見の一致を見た。
(2)米国、英帝国及び中国の陸海空軍は、西方から陸軍及び航空編隊による数層倍の増強を受けて巨大となっており、日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。(poised to strike the final blows)
(3)世界の自由なる人民が立ち上がった力に対するドイツの無益かつ無意味な抵抗の結果は、日本の人民に対しては、極めて明晰な実例として前もって示されている。現在日本に向かって集中しつつある力は、ナチスの抵抗に対して用いられた力、すなわち全ドイツ人民の生活、産業、国土を灰燼に帰せしめるに必要だった力に較べてはかりしれぬほどに大きい。われわれの決意に支えられたわれわれの軍事力を全て用いれば、不可避的かつ完全に日本の軍事力を壊滅させ、そしてそれは不可避的に日本の国土の徹底的な荒廃を招来することになる。
(4)日本帝国を破滅の淵に引きずりこむ非知性的な計略を持ちかつ身勝手な軍国主義的助言者に支配される状態を続けるか、あるいは日本が道理の道に従って歩むのか、その決断の時はもう来ている。
(5)これより以下はわれわれの条件である。条件からの逸脱はないものする。代替条件はないものする。遅延は一切認めないものとする。
(6)日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における影響勢力及び権威・権力は排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。
(7)そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。
(8)カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。
因みに,カイロ宣言は,
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/002_46/002_46tx.html
(9)日本の軍隊は、完全な武装解除後、平和で生産的な生活を営む機会と共に帰還を許されるものする。
(10)われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。
(11)日本はその産業の維持を許されるものとする。そして経済を持続するものとし、もって戦争賠償の取り立てにあつべきものとする。この目的のため、その支配とは区別する原材料の入手はこれを許される。世界貿易取引関係への日本の事実上の参加はこれを許すものとする。
(12)連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。
(13)われわれは日本政府に対し日本軍隊の無条件降伏の宣言を要求し、かつそのような行動が誠意を持ってなされる適切かつ十二分な保証を提出するように要求する。もししからざれば日本は即座にかつ徹底して撃滅される。
国会図書館の,外務省訳は,
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html
である。
奇妙奇天烈なのは,安倍首相は,
「アメリカが原子爆弾を2発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかり叩き付けたもの」
と発言していたらしいことだ。
http://www.asahi.com/articles/ASH5P55GFH5PUTFK00G.html
によると,
「自民党幹事長代理だった首相が月刊誌「Voice」2005年7月号の対談で、『ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかり(に)たたきつけたものだ』と語っていた」
という。
事実誤認というか,そのいい加減さに呆れるというか。
ポツダム宣言が発せられたのは、1945年7月26日。
広島は,1945年8月6日,
長崎は,1945年8月9日,
である。いやはや,恐れ入る。拒絶した結果の,警告を無視して「国体の存否」をめぐって逡巡した結果の,原爆投下ではなかったか。
あるいは,磯崎補佐官は,
https://www.youtube.com/watch?v=YXelcxJIIMY&feature=youtu.be
「ポツダム宣言の一字一句正しいかどうかというとなんとも言えない」
と発言。もはや絶句するしかない。
何をいまさら言っているのか。問題の焦点がずれている。いま,宣言の一字一句の成否を言ってどうなるのか。それをも含めて受諾した,のではないかと。もし間違っていたのなら,そのとき拒絶すればよかったのではないか。何というか,(敗戦以降の屈辱を)なかったことにしたいという,子供じみた,まっとうな大人の台詞とは思えない。どこまで劣化したのか。誠に世界へ向かって恥をさらしている。
露外相が,
「日本は大戦の結果に疑義唱える唯一の国」
といったのは,当たり前かもしれない。しかし,宣言は知りません,と言う(に等しい発言をした)ことは,敗戦を受け入れないと言っているに等しい。それは確かに,それをなかったことにして(つまり,戦後レジームを壊して),敗戦前に戻りたいと,巧まずして語っているに等しい。しかし,わからないのは,
その敵国(ドイツに比して,この敵国条項の生きている)わが国が,国連(「英語表記の『United Nations』は第二次世界大戦中の枢軸国に対していた連合国が自陣営を指す言葉として使用していたものが、継続して使用されたものである」)の常任理事国を目指すって,どういうこと?
その前に,何より,
(敗戦の相手方=敵国のはずの)対米従属(関係)そのものはどうなの(これも戦後レジームなのでは)?
そして,
その象徴であるである,地位協定はどうなの?
しかも,
敵国の米軍基地は(向こうさんが,いらなくなって返したもの以外)そのまま残る(ばかりか更に新たに造ろうという)のは,どういうこと?
それにしても,わが国の幇間マスコミに比べて,最近の,海外の風刺画は,なかなか辛辣である。日本からは,こういうジャーナリズム魂は融けてなくなってしまったが。
http://www.nytimes.com/2015/05/04/opinion/heng-us-japan-alliance.html?_r=0
https://pbs.twimg.com/media/CEjvJQMUMAAehTP.jpg:large
http://www.economist.com/news/asia/21651295-japans-media-are-quailing-under-government-pressure-speak-no-evil
http://www.eurekastreet.com.au/article.aspx?aeid=38918#.VV6NxPntmkp
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月17日
ちゃんちゃらおかしい
「ちゃんちゃらおかしい」とは,
身のほど知らずで,噴き出したくなるほどおかしい。笑止千万だ。まったく滑稽だ。
といった意味だが,
チャンチャラ可笑しい
とか,
チャンチャラおかしい,
と表記したりする。
昨今,ちゃんちゃらおかしいことが目白押しだ。まあ,冥途の土産に見物させてもらうのも悪くはないが,平知盛ではないが,
「見るべきほどのことは見つ」
とはまだまだ言いかねる。かほどに,無恥な時代は,近代以降でも珍しい。
僕は個人的には,明治以降,どういうわけか,日本人は夜郎自大になった,と思っている。徳川時代は,もう少し謙虚であった。幕末維新を通して,尊攘派には,そういう気質は垣間見えた(桂小五郎辺りが征韓論を口走っている),かれらは僥倖にも,天下を取ったが,天下を動かせる知性も見識もなく,西欧猿真似の列強指向に奔り,それにつられて,まるでおのれが西洋人にでも成ったように,列強の尻尾にぶら下がって,アジアを見下し植民地化し,いつの間にか(多くが雪崩をうって)夜郎自大に成り下がったとしか思えない。
海舟と小楠には,日韓清の三国で連携して,西欧列強に対抗しようとする,まっとうな見識があったが(隆盛もそれを承知していたと思う),しかし国を挙げて怒涛のように列強猿真似の脱亜入欧へ突き進み,いってみれば列強の真似をして植民地のおこぼれをあさる餌につられたとしか思えない。僕は,敗戦は,西欧列強の猿真似の結末だったと思っているが,一旦,戦後消えた,その心性が,またぞろ結界の隙間から抜け出て,おのれを縛ってきたはずの結界自体を破って自儘になろうとしている,と見える。
海舟は,独特の自慢が入っている臭みはあるが,
「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとへ日本が勝ってもどーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力がわかったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。
いったい支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。
おれは維新前から日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ。」
と,『氷川清話』で述べている。
まことに,夜郎自大な連中の言う,
美しい日本,
まっとうな国,
というのは,猿真似日本の時代を指していて,ほんとに,ちゃんちゃらおかしい。よほどおいしい思いをしたのに違いない。愛川欽也が,
「石原裕次郎のうちは新興成金の特権階級だったから、戦時中でも飢えることなく汁粉とか食べていたと言うので、殴りたくなった」
と言っていたそうだが,そういう美味しい思いが忘れられない,ということではないのか。
ちゃんちゃらおかしいのニュアンスは,意味は確かに,
非常に滑稽だ,
笑止千万,
だが,
噴飯もの,
とか
失笑もの,
といったニュアンスとは少し違う。相手のおろかしさや,滑稽さに,笑う,ということは笑うのだが,おかしな振る舞い,言い方そのものを指しているのではないのではないか。
臍が茶を沸かす(臍で茶を沸かす)
とか
片腹痛い
とか
笑止の沙汰
とか
狂気の沙汰
とか,
が近い。
「臍が茶を沸かす(臍で茶を沸かす)」は,
「おかしくてたまらないこと、また、ばかばかしくてしようがないこと。多く、あざけっていう場合に用いる」
とあるが,「あざけって言う」のところが味噌なのだろう。
「片腹痛い」は,
「傍ら(かたはら)+いたし」
で,「傍ら」を片腹の意に誤ったことから起こった。
「身のほど知らずな相手の態度を笑い飛ばす」
という意味で,「笑止」のニュアンスは,近いかもしれない。「笑止」は,
「笑止は当て字で,『勝事』の転で,本来,普通でないことの意」
であり,本来の意味は,
大変なこと,
困ったこと,
気の毒なこと,
で,そこに,室町以降「笑うべきこと」が加わった,という感じである。その結果,
恥ずかしく思う,
という含意が影のように付きまとう。「勝事」は,
人の耳目を引くような事柄
奇怪なること,
と出ている。『大言海』は,
(笑いも止まる意かと云う)他人の人笑いとなることを,気の毒に思うこと,
とある。「ちゃんちゃらおかしい」には,そのニュアンスがある。片腹痛い,と苦笑しつつ,やがて,
「我が身の上に気の毒なること」
と,そのつけが,まわてくることまでも予想する,ぞっとしない可笑しさのような気がしてならない。
「私は、憲法の法理そのものについて学者ほど勉強してきた、というつもりはない。だが、最高裁の判決の法理に従って、何が国の存立をまっとうするために必要な措置かどうか、ということについては、たいていの憲法学者より私の方が考えてきたという自信はある。」
と自民党副総裁高村氏。ちゃんちゃらおかしいが,しかし,背筋がぞっとする。笑っていられない恐怖である。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
今日のアイデア;
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2015年06月21日
語るに落ちる
「語るに落ちる」とは,
「問うに落ちず語るに落ちる」
の略である。
問い詰められるとなかなか言わないが,かってに話させるとうっかり秘密をしゃべってしまう,
あるいは,
うっかり本当のことをしゃべってしまう,
という意味である。
「秘密というものは、人に聞かれたときは用心して漏らさないものが、自分から話し出したときはついうっかり口をすべらせて真実を話してしまう」
という人間心理の陥穽を言っているらしい。「落ちる」とは,
白状するという意味,
とするものもある。
「問うには落ちいで語るに落つる」
「問うに落ちぬは語るに落つる」
ともいうらしい。まあ,構えている間は,抑制が効くが,おのずからしゃべっているときは,うっかりと漏らしてしまう,という意味では,
口を衝いて出る,
口走る,
とも似ている。麻生副総理が講演で,
「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」
と発言したと言われるが,、まさに,語るに落ちるを地で行っている。この発言から,麻生氏が自分たちが作ろうとしている憲法草案がどういう意味をもっているのか,を漏らしているのである。
どういうわけか,日本の為政者は,語るに落ちるというか,不用意というか,人間の度量が狭いというか,多く,本音を漏らす。
黙して語らず,
などという,おのれを厳しく律するなどというマインドとはおよそかけ離れている。いまの憲法を,
「みっともない」
と,言った総理大臣が,「みっともなくない」と見なしているのが,自民党憲法案を指しているのだとすれば,麻生氏と同様,民主とか民意とかが,よほどお嫌いらしい,ということは想像がつく。
語るに落ちる,
というよりは,
問わず語り,
というほうが妥当かもしれない。もう,言いてたくて言いたくて仕方がないのである。そして,どうせ大したことにはならぬと,高を括っているらしいし,現実にその通りに収まってしまい,ますます図に乗っていく。
ところで,「語る」の語源は,ひとつは,
「タカ(型,形,順序づけ)+る」で,順序づけて話す,
と,いまひとつは,
「コト(物事・事象)+る」で,世間話をする,物事を話す,
の,二説ある。カタリベ,カタライベなどがあるので,随分古い言葉だとされている。『古語辞典』によると,
「相手に一部始終をきかせるのが原義。類義語ツゲ(告)は,知らせる意,イヒ(言)は,口にする意,ノリ(宣)は神聖なこととして口にする意,ハナシはお喋りする意で,室町時代から使われるようになった」
と,注記がある。「ことば」に関わる,
舌
言
語
詞
辭(辞)
の違いについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/401176051.html
で触れたことと少し重なるが,「語」の字を調べると,「吾」は,「口+五(交差する意)」からなるが,「五」は,指事文字。×は,交差を表す印。五は,「上下二線+×」で,二線が交差することを示す。片手の指で十を数えるとき,→の方向で(親指から折って)五の数で,(今度は指を立てて,逆の)←方向に戻る,その転回点にあたる数を示す。で,「吾」は,AとBが交差して話し合うこと。後に,吾が我(われ)とともに一人称を表す代名詞に転用されたので,「語」がその原義を表すことになった,という。で,「言(言葉)+吾(交差する)」は,互いに言葉を交わし合う,という意味。
まあ,口でしゃべっていることが,表情や微妙なしぐさに,巧まずして現れる,というから,語るに落ちる,と言わなくても,既に十分,その口の裏が見えていることが多い。
それにしても,語るに落ちる,などは,もはやかわいいとしか,昨今言えなくなった。なぜなら,平然と噓を言って,まるで恥じることがないからだ。やっていることと言っていることが百八十度違っても,あるいは,前言との齟齬があっても,臆面もなく,平然と言い募って恥じることがない。
最早人間としてどうか,と思うレベルで,語るに落ちるとは,ちょっと次元の違う輩が,これだけ政治家として成り立つということは,それを選んでいる日本人,日本社会そのものが,到底信用できない,という証に見える。
前に,「こと」として,事と言が使い分けられていたことについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/403055593.html
で,触れたが,言を事として憚らない,という時代になったのに違いない。
言必ず信、行必ず果,
が望むべくもないが,それにしても,
言必ず偽,行必ず欺,
とは。。。。。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年06月24日
曲学阿世
曲学阿世(きょくがくあせい)とは,
「学問の真理を曲げて、世間や権力者に気に入られるような説を唱え、こびへつらうこと。」
とある。中国語の,
「学を曲げて,世に阿る」
から来ている。ときの権力に媚びへつらい,学問を歪めることを指す。
「漢の時代、漢の武帝に召し出された轅固生が、儒学者の公孫子に言ったことば」
が由来とされる。『史記・儒林列伝』に,
「公孫子、正学を務めて以て言え、曲学以て世に阿る無かれ(公孫子よ、正しい学問に励んで、はばかることなくありのままを言いなさい。学問を曲げて、世にへつらうべきではない)」
とあるそうである。
「学を曲げて世に阿る」
まあ,
「学問の真理にそむいて時代の好みにおもねり、世間に気に入られるような説を唱えること。真理を曲げて、世間や時勢に迎合する言動をすること。」
となる。これが話題になったのは(http://showa.mainichi.jp/news/1950/05/post-7820.html),
「(1950年)連合国と日本が講和を結ぶ際に、国連中心の全面講和とするか、ソ連不参加の単独講和とするか国論が分かれた。東大の南原繁総長が全面講和論を説いたのに対し、吉田茂首相は自由党両院議員総会で、『南原総長らが主張する全面講和は曲学阿世の徒の空論で、永世中立は意味がない』と非難した。」
の経緯による。今日の安保をめぐる経緯と似ているところ(政府が学者を非難する)と,似ていないところ(憲法学者149人中3,4人しか合憲と言わない)と,比較すると,政府及び政治家の劣化がよくわかる。
吉田首相は,
「永世中立とか、全面講和などというのは、言うべくして到底行われないことだ。それを南原繁東大総長などが、政治家の領域に立ち入ってかれこれ言うことは曲学阿世の徒で、学者の空論に過ぎない」
と切り捨てた。南原総長は,
「学問の冒涜、学者に対する権力的強圧以外のものではない。全面講和は国民が欲するところで、それを理論づけ、国民の覚悟を論ずるのは、政治学者としての責務だ。それを曲学阿世の徒の空論として封じ去ろうとするのは、日本の民主政治の危機である」
と,反論した。世論(民意)に反してでも為遂げようとする吉田の意志は,一体誰のための政治なのか,南原の方にはるかに分がある。しかし,今日の為政者の姿勢と比べれば,学者と政治家が真正面から対峙しているだけ,はるかにましな気がする。
しかし,今日,ジャーナリズムは幇間と化し,実は世論は無関心,むしろ,衆院憲法審査会で,参考人質疑に出席した,
自民推薦の長谷部恭男・早大教授,
民主党推薦の小林節・慶大名誉教授,
維新の党推薦の笹田栄司・早大教授
の3人が揃いも揃って,「憲法違反だ」とし,
「個別的自衛権のみ許されるという(9条の)論理で、なぜ集団的自衛権が許されるのか。従来の政府見解の論理の枠内では説明できず、法的安定性を揺るがす」(長谷川氏)
「憲法9条2項で、海外で軍事活動する法的資格を与えられていない。仲間の国を助けるために海外に戦争に行くのは9条違反だ」(小林氏)
「従来の内閣法制局と自民党政権がつくった安保法制までが限界だ。今の定義では(憲法を)踏み越えた」(笹田氏)
と,答えた,とされる。そこから,違憲論の風向きが起きたのであって,吉田「失言」事件とはちょっと違う。
面白いのは,それを受けた,菅義偉官房長官が,
「全く違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」
と,政府側の立場の学者がいることを挙げた,ということだ(吉田のように,曲学阿世の徒とは罵らず,援軍があると言ったところだ。援軍なしに対峙する気概も器量も無いらしい)。
http://www.tv-asahi.co.jp/hst/info/enquete/index.html
にもあるように,ほとんどの憲法学者が違憲とする中で,合憲とするのは,
百地章日大教授
西修駒沢大名誉教授
長尾一紘・中央大名誉教授
の三氏で,そろいもそろって,
「政府の徴兵制に関する解釈は、およそ世界的に通用しない解釈」(西氏),
「意に反する苦役に当たるという議論には反対」(百地氏)
「徴兵の制度と奴隷制、強制労働を同一視する国は存在しない。徴兵制の導入を違憲とする理由はない」(長尾氏)
と徴兵制すら合憲としている。どう論旨をつなげたら,徴兵制が憲法の文意に叶うのだろうか。この手のお先棒担ぎを,
曲学阿世,
と言わずして,誰をいうのか。こうした幇間学者ではだめと思ったか,最後は,高村自民党副総裁は,
「私は、憲法の法理そのものについて学者ほど勉強してきた、というつもりはない。だが、最高裁の判決の法理に従って、何が国の存立をまっとうするために必要な措置かどうか、ということについては、たいていの憲法学者より私の方が考えてきたという自信はある。」
と言ってのけた。都合が悪くなると,学問など知ったことが,俺は政治家だと,言っている。しかし,誰のための政治なのか。この国も国民も,こういった政治家の玩具ではない。国民を生贄にして,何を得ようとするのか。彼ら自身は,決して死地へは赴かない。修羅場をくぐる経験もしないだろう。こんな輩は,今までの戦後史でも見たことがない。ツイッターに乗った写真が辛辣である(出典がわからないが,失礼ながら転載せさせていただく)。
鳥越俊太郎氏は,
「こんな酷い政権はこれまでなかった。国民の声を無視して独裁政治をする。アドルフ・ヒトラーと同じじゃないですか。わたしはアドルフ・アベ政権と呼んでいる。アドルフ・シンゾーが耳をふさいでも届くように全国から皆が集まって声をあげる必要がある」
と述べた。その気持ちがよくわかる。
参考文献;
http://blog.kajika.net/?eid=997775
2015年07月11日
あとくされ
あとくされは,
後腐れ
とあてる。「あとぐされ」ともいう。物事がすんだあとでもすっきりと解決せず、問題があとを引くこと,を指す。通常,
あとくされがない,
という言い回しをする。
「物事の終った後に面倒なこと、煩雑なことが残らないさま。すっきり終れる、その場限りの関係で済む、といった意味合いで用いられる表現。」
という。それにしても,今度の新国立競技場,あとくされがありすぎる。
詳しい経緯は,
http://lite-ra.com/2015/07/post-1259.html?utm_source=rss20&utm_medium=rss&utm_medium=twitter&utm_source=twitterfeed
に譲るが,費用増で,なんと2520億円,しかも3000億には膨張するだろうとまで言われている。年間維持費が45億円で,完成後も毎年20億円の赤字が出る,と言われる。
「狂っているとしか思えない。」
という誰かの述懐が身に染みる。この経緯の詳細は,
http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/new_stadium/list/CK2015071002100007.html
に詳しいが,2520億円でGOサイン出してる連中の皮算用が凄まじい。
「東京都が500億円出してくれて、totoで660億円補てんして、命名権が200億円で売れて、それでも534億円足りない」
のに,この案で行けると思ってるらしいのである。どういう計算なのか。
(ちょっとツイッターから借用しました)
この金額があったら,五歳児の保育料無償化が可能という。どだい,
2000年シドニー・オリンピック 572億円
2004年アテネ・オリンピック 360億円
2008年北京・オリンピック 525億円
と比べて,新国立競技場だけで2520億円である。お金をかけない五輪ということではなかったのか。
ところで,国立競技場将来構想有識者会議の有識者の面々は,
安西 祐一郎(独立行政法人日本学術振興会理事長)
安藤 忠雄(建築家)
遠藤 利明(スポーツ議員連盟幹事長 衆議院議員)
小倉 純二(公益財団法人日本サッカー協会名誉会長)
佐藤 禎一(元日本国政府ユネスコ代表部特命全権大使)
鈴木 秀典(公益財団法人日本アンチ・ドーピング機構会長)
竹田 恆和(公益財団法人日本オリンピック委員会会長)
張 富士夫(公益財団法人日本体育協会会長)
都倉 俊一(作曲家,一般社団法人日本音楽著作権協会会長)
鳥原 光憲(公益財団法人日本障害者スポーツ協会会長)
舛添 要一(東京都知事)
森 喜朗(公益財団法人日本ラグビーフットボール協会会長,東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長)
横川 浩(公益財団法人日本陸上競技連盟会長)
笠 浩史(2020年東京オリンピック・パラリンピック大会推進議員連盟幹事長代理,衆議院議員)
である。あとくされがないなどとは,言わせない。この連中の名前を辿ってみながら,なんだか,到底未来の日本を見据えていたとは思えない。みんな未来のない老人なのだ。たぶん,この何人かは,2020すら見ないかもしれない。そんな人間が借金を大盤振る舞いするのである。
借金時計というのがある。それによると,,
http://www.takarabe-hrj.co.jp/clockabout.html
現時点(時々刻々と膨らんでいるが),国の借金は,1016兆0624億円。GDP比150%,国民一人当たりの負担額は約815万5000円(2015年4月1日時点)になる,というのに。ふと,
後は野となれ山となれ,
という言葉が浮かぶ。この連中には,祭りだけが大事(その利権も含めて)で,
「済んでしまえば,後は荒れ果てても,知ったこっちゃない」
といった無責任さが見える気がしてならない。まだ間に合うのかどうかは知らない。しかし,後の祭りとならぬように。
因みに,後の祭りとは,
http://gogen-allguide.com/a/atonomatsuri.html
では,二説あるとするが,『語源辞典』では,
「死んでしまった人に対する『後の祀り』」
とする。さらに,「京都祇園祭の環車の行事『あとのまつり』とは別」と明言している。『大言海』は,
「江戸などにて云ひしは,祭日後の山車の意なるべし」
と,「祭」をとっているが,いずれにしても,
「することの時機に後れたること」
にならないことだ。
六日の菖蒲
とも言う。因みに,
http://news.livedoor.com/article/detail/10330879/
によると,
「建物の竣工から解体廃棄まで全体の費用を算出する『ライフ・サイクル・コスト』(LCC)の考えに基づき、建築エコノミストの森山高至氏が2020年東京五輪・パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場について試算したところ、1兆円を超えることが9日、分かった。森山氏は『財政的に恐ろしい未来が待ち受けている』と警告した。」
とある。
建設から解体まで1兆80億~1兆2600億円。
もはや天文学的数値である。この付けをまるごと未来へ回そうというのである。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年07月16日
民主主義
特別委員会で強行採決されたが,それもさることながら,求められて政府が提出した,陸上自衛隊イラク派兵(2004~06年)の「戦場」の実態と、その教訓を記録した「イラク復興支援活動行動史」の,戦闘さながらの事前訓練の内容や、現地の危険性に関する記述がことごとく黒塗りで隠されていることが,この国の民主主義が,既に存在しない,ということを,露骨に示している。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150714-00050697-playboyz-soci
で,作家の高橋源一郎氏が,ジャック・アタリの,
「民主主義国家でなければ原子力エネルギーを使ってはいけない。情報公開と透明性がなければ民主主義国家ではない」
との言葉を引き,こう言い切っています。
「だとするなら、日本には民主主義はなく、原子力エネルギーを使う権利はないことになります。」
その例証に,フィンランドの核廃棄物保管施設「オンカロ」を描いたドキュメンタリー映画『100,000年後の安全』では、オンカロの責任者が反原発派の急先鋒である監督のインタビューを受けています。
「両者の立場はまったく相いれないけれど、それを全部撮らせて、映画の公開も許している。絶対に意見が合わない人たちが、それでも最後まで意見を戦わせ続けていた。つまり、コミュニケーションをあきらめない、ということです。そして、それを公開し続けることがフィンランドで原発政策を続けることを担保しているんです。」
まさに,これこそが,民主主義なのではないか。まともな議論をせず,結果として,一言隻句修正もせず,すれ違いのまま,強行採決するのは,ただ儀礼として,質問時間を何十時間とったという,アリバイ証明に過ぎない。高橋氏は,言う。
「日本に民主主義はないという事実に気がついたんです。結局、3・11が明らかにしたのは、この国の『対話の非存在』なんですね。安倍首相の国会での答弁見てればわかるでしょ?『オレが決めたんだから、言うことを聞け!』でおしまい。一切、対話をしようとはしない。」
と述べる。そういう国なのだ。この2015年7月15日は,確実に,日本の岐路になる。それは,ある意味,日本国民が選んだ道だということを忘れてはならない。
内海信彦氏が,『ヒトラー 〜最期の12日間〜』(2004)から,宣伝相ゲッベルスが,ベルリン市民が市街戦に倒れていくことに,
「同情などしない。彼らが選んだ運命だ。我々は国民に強制はしていない。彼らが我々に委ねたのだ。自業自得さ。」
と語っているセリフを引用している。国民自身が意図したかどうかは別に,選んだ結果なのだ。かつて,周恩来は,
「「我が国は賠償を求めない。日本の人民も、我が人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。 賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民を苦しめることになる」
と,政府と国民を分けた。しかし,昨今,この苦肉の二分法は,無意味化した,という声が中国内にある。と言う。安倍政権を支えているのは,日本国民の多数派だからだ。外からは,そう見えるということだ。自覚しているかどうかとは関係なく,無関心もまた,支柱なのだから。
思えば,麻生氏が,
「ナチス政権下のドイツでは、憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口、学んだらどうかね」
といったいたことがなぞったように実現されつつある。これで,少なくとも,憲法の文言は,死文化されたのである。
政権批判については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/422213828.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/419483041.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/411811193.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/405050518.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/403751881.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/401642428.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/416592147.html
等々,折に触れて書いてきた。しかし,岐路を選んだ以上,すべての日本国民は,その責任を担わざるを得ない。アメリカが始めた戦争に,必ず,宣戦布告なく,加担することになる。集団的自衛権とは,そういうものだ。それは,国内での無差別テロも含めて,われわれが被害者面してはいけないということだ。
「今、特別委員会で可決しました。これは極右による憲法と民主主義への暴力的なクーデタです。ナチが権力簒奪直後に全権委任法制定を強行したのと全く同じです。「国民」だけではなく在日外国人も含めたすべての日本民衆の存立危機事態です。このままでは明日に衆院本会議で強行可決することになるでしょう。この日、2015年7月15日、戦後日本は終焉を迎え、戦前戦中の日本と同じような全体主義国家に向かうことになりました。」(内海信彦)
の言う,「存立危機事態」とはそういう意味だ。それにしても,
「どうせ理解はされない。支持率も下がるだろうが、国民は時間がたてば忘れるだろう」
とアベシンゾウ氏はコメントしたそうだ。
「憲法の名宛人は国民ではなく内閣であることすら理解していない男に、ここまで馬鹿にされたままでいいのか」
とは,心底そう思う。,
「(辻元氏が)『私の祖父は戦争で死んでいる。子供のころ、なぜ戦争になったのと祖母に聞いたら、分からないうちにそうなったと言われた」と涙を流し、『戦争だけはアカン。立法府の人間として、絶対そんな時代をつくらない。戦争に進むちょっとした芽を摘まないと、歴史は繰り返す」と、声を震わせて訴えた。』』
との記事が胸を打つ。
最後に,「自由と平和のための京大有志の会」のアピールは,ここから続く戦いの旗幟である。
戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。
戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子どもにも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。
精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。
海は、基地に押しつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。
血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。
学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。
生きる場所と考える自由を守り、創るために、
私たちはまず、思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない。
参考文献;
http://www.kyotounivfreedom.com/manifesto/
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150714-00050697-playboyz-soci
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年09月09日
六部
作家の中沢けい氏が,ツイッターに,安倍首相の行動を,先日,
「ふるさとへ廻る六部は気が弱り」
という古川柳で,皮肉っていた。
先日,安倍首相は,国会開催中にもかかわらず,百地章,宮家邦彦,竹田恒泰といったお仲間の論者が出いてる番組,「そこまで言って委員会」に出演し,「左翼くん」とかといったキャラクターまで登場させて,抗議する人々を揶揄していた。
「そこまで言って委員会」は,「たかじんのそこまで 言って委員会」の後継番組で,
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-7904.html
に,その間の経緯は詳しい。それにしても,その安倍首相の行動を,
「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」
とはうまいことを言うと,感心した。さすが,作家である。そう言えば,
子曰く,士にして居を懐(おも)うは,以て士と為すに足らず,
つまり,士でありながら生まれ故郷に惹かれる人間は士ではない,と孔子が言っていたことに通じる。あるいは,「居安からんことを求」めたり,「土(故郷)を懐」ってはならない,と。
「ふるさとへ廻る六部は気が弱り」は,江戸の川柳らしいが,不勉強の僕は知らなかった。で少し,調べてみた。
六部とは,六十六部が正式で,
「法華経を66回書写して、一部ずつを66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。室町時代に始まるという。また、江戸時代に、仏像を入れた厨子(ずし)を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた者。」
を指す。略して,六部(ろくぶ)と呼ぶ。辞書(『広辞苑』)には,六十六部について,
「廻国巡礼の一つ。書写した法華経を全国66ヵ所の霊場に一部ずつ納める目的で,諸国の社寺を遍歴する行脚僧。鎌倉末期にはじまる。江戸時代には俗人も行い,鼠木綿の着物を着て鉦を叩き,鈴を振り,あるいは厨子を負い,家ごとに銭を乞いて歩いた。六部。」
と詳しい。『古語辞典』には,上記に加えて,
「中世から近世にかけてそれ専門の聖を生じ,近世後期に入ると,一般の庶民も行い,時に乞食の渡世ともなった」
とある。江戸時代の川柳は,乞食渡世を指しているのかもしれない。六部笠というのがあって,
藺製の笠。中央と周りを紺木綿で包む,
とある。
http://members.jcom.home.ne.jp/k-fujikake/sld135.htm
によると,廻国聖は
「巡礼中、ふと故郷を思えば、気の弱りを覚える」
とあり,その辺りの心理の機微を含めて,中沢氏は皮肉った。さらに,こうある。
「巡礼の六部に宿を提供するのは善事とされたが、泊めた六部の持っていた金品に目がくらんで、『六部殺し』が起きる。この伝承が全国に分布している。」
六部殺し(ろくぶごろし)は,
「日本各地に伝わる民話・怪談の一つ。ある農家が旅の六部を殺して金品を奪い、それを元手にして財を成したが、生まれた子供が六部の生まれ変わりでかつての犯行を断罪する、というのが基本的な流れである。最後の子供のセリフから、『こんな晩』とも呼ばれる。」
とある。この話には,大体こんな感じらしい。
「ある村の貧しい百姓家に六部がやって来て一夜の宿を請う。その家の夫婦は親切に六部を迎え入れ、もてなした。その夜、六部の荷物の中に大金の路銀が入っているのを目撃した百姓は、どうしてもその金が欲しくてたまらなくなる。そして、とうとう六部を謀殺して亡骸を処分し、金を奪った。
その後、百姓は奪った金を元手に商売を始める・田畑を担保に取って高利貸しをする等、何らかの方法で急速に裕福になる。夫婦の間に子供も生まれた。ところが、生まれた子供はいくつになっても口が利けなかった。そんなある日、夜中に子供が目を覚まし、むずがっていた。小便がしたいのかと思った父親は便所へ連れて行く。きれいな月夜、もしくは月の出ない晩、あるいは雨降りの夜など、ちょうどかつて六部を殺した時と同じような天候だった。すると突然、子供が初めて口を開き、『お前に殺されたのもこんな晩だったな』と言ってあの六部の顔つきに変わっていた。」
ここまで読んで思い出したが,「かつて殺した相手が、自分の子供に生まれ変わり、罪を暴く言葉を発する」というモチーフに似たもので, 確か,落語に,『もう半分』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%86%E5%8D%8A%E5%88%86
という噺がある。
「夫婦で営む江戸の居酒屋に、馴染みの棒手振り八百屋の老爺の客がやって来た。老爺は,いつものように『もう半分』『もう半分』と,半杯ずつ何度も注文してちびちびと飲み、金包みを置き忘れて帰って行った。夫婦が中を確かめると、貧しい身なりに不釣合いな大金が入っている。しばらくすると老爺が慌てて引き返し、娘を売って作った大事な金だから返してくれと泣きついた。しかし、夫婦は知らぬ存ぜぬを通して追い出した。老爺は川へ身投げして死んだ。その後、奪った金を元手に店は繁盛し、夫婦には子供も生まれた。だが、子供は生まれながらに老爺のような不気味な顔で、しかも何かに怯えたように乳母が次々と辞めていく。不審に思った亭主が確かめると、子供は夜中に起き出して行灯の油を舐めている。『おのれ迷ったか!』と亭主が声を掛けると、子供は振り返って油皿を差し出し『もう半分』」
http://www.ndsu.ac.jp/department/socio/blog/2015/05/post-10.html
には,
「六部は諸国をめぐり、佐渡へ来るとここへ泊まっていました(六部のなかには諸国遍歴を続ける職業的な巡礼者がいました)。ある時、また佐渡にやってきて酒屋を訪れると、すでに娘には先客がいる。六部は純情だったのでしょう、男は自分一人だと思っていたから、怒り、酒蔵に火を放ちます。ところがこの日は、西から入ってくる風、土地でいうシモタケエ(下高い)風が強く吹く日でした。火はその風にあおられ、村を斜めに舐めるように燃え広がって、とうとう90戸の村のうちの70戸までを焼いてしまいます。
六部は相川道を北に逃げました。村を見下ろせる場所まで来て石に腰を下ろし、『あぁ、大火にしてしもうたやあ。こんなに大事になるとは思わんかった。酒屋ばかり焼くつもりやったが』とつぶやいたそうです。これを聞きつけたのが消火の加勢にやってきた隣村の火消しでした。火をつけたのはお前か、とばかり、道の下の滝壷へ六部を突き落としました。それきり六部の身体はあがらなかったということです。六部が落とされた場所は、いま『坊さん落とし』と呼ばれています。」
という話が載っている。それにしても,六部殺しが,あちこちで伝承されているのは,何か曰くがあるに違いない。
「集落の外からやって来る旅人は異人(まれびと)であり、閉鎖的な農村への来訪者はしばしば新しい情報・未知の技術・珍しい物品をもたらす媒介者であった。福をもたらす存在として客人を歓待し、客人が去った後に繁栄を得る『まれびと信仰』に根ざした民話は、古くから各地に存在する。一方で、円満に珍品を譲り受けるケースばかりでなく、客人とトラブルを起こし、強引に奪い取って繁栄を達成したケースもある。六部殺しは、こうした『まれびと殺し』の類型に属す。」
との説明があるが,記憶なので確かでないが,村々には,無料で泊まれるお堂があり,そこの落書きに時代が読める,云々というのを読んだ記憶がある。調べると,
惣堂,
あるいは,
草堂,
というらしく,
惣堂は 案内なくて 人休む
という句があるらしい。
それはある意味,村の中へ入ってくるのを避けるために(事実往来の人を泊めてはならぬという禁制もあったらしい),そういう場所を設置したというふうにも読めるか(謡曲『鵜飼』ではそういうお堂で鵜飼の亡霊に出会う)。なかなか奥が深い。
参考文献;
http://www.ndsu.ac.jp/department/socio/blog/2015/05/post-10.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%A8%E6%AE%BA%E3%81%97
http://members.jcom.home.ne.jp/k-fujikake/sld135.htm
藤木久志『中世明雌雄の世界』(岩波新書)
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm