2013年07月30日

直観ではなく直感


コーチングの先輩に導かれて,グランディングの世界に踏み出しているが,先日JHA(ジャパン・ハトホルス・センター)のワークショップに参加してきた。

グランディングのエクササイズ最新バージョンを教えていただいてきたのだが,いっぱいのメッセージを伝えていただいたことが結構響いている。

いまやっていることは本来の仕事ではない,

たとえば自分が直接動くのではなく,組織して,講座のようなものを運営する側に回る役,

等々ということを,たとえば,代表の吉垣吉梨さんに(を通して)言われたのだが,それを,自分なりにいろいろ解釈はできるが,たぶん,いまやろうとしていることにはつながる感じがしていて,

自分が動くのではなく,

自分の中に降りてくるものを,

外に出す(あるいは表出する),

と考えると,ずっと若い頃から自分が求めていることと通ずる気がする。その意味で,

しようとして,あるいはしたいと思い,

ずっと断続的に続けてきていること,

が自分の天職なのだと改めて確信した。

と同時に,伝えられた直感(という言い方が正しいかどうかはわからないが)というのは,僕にも磨けるのではないか,ということだ。それを,

相手から感じ取る,

というと直観になる。そうではなく,

相手の背後から,

相手の向こうから,

感じ取る。何か,スピリチュアルな感じになるが,場合によっては,

相手に相手とは違う画像が見える,

といってもいい。それは,

イマジネーション

とは違う。それは想像のなせるわざだ。イメージが浮かぶという方が近い。

僕は直感で言うことがあるが,それが当たるか外れるかは別にして,相手の知らない何かにぶつかれば,その直感は,相手そのものから感じ取った,推察した直観ではなく,相手の向こうに見えた感覚なのではないか,という気がしている。

これは,

相手という事柄にとらわれず,相手そのものの存在,

に触れられたときではないか。それを,相手の魂に触れたと言ってもいいし,神から降りてきたと言ってもいい。僕にはそれはどちらでもいいと思える。

大事なことは,

相手そのものの本質にたどりつく,

ことであり,それには,こちらの感性を磨くことなのではないか。

いただいたペーパーに,こういう文章があった。

「グランディング」とは,…ある人にとっては自分の足が床を踏みしめる感覚に気づくことであったり,または自分が自然のなかにいるのを感じることかもしれません。もともとの「グランディング」の意味とは,自分の肉体のなかにあり,周囲に意識をむけながら何が起こっても対応できるという存在の仕方を指します。(中略)まずは自分が肉体のなかにいなければ,とうてい肉体からン感情やカルマを上手にとりだして解放することはできません。(中略)グランディングのためのワークは,あなたが自分の肉体のなかに「いる」ことを要求します。

まずは自分がしっかり地に足をつけていなければ,相手の向こうまで視界がとどくわけはない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#ジャパン・ハトホルス・センター
#ワークショップ
#吉垣吉梨
#ミーディアム(霊媒)
#グランディング

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2014年09月03日

立つ


グランディングに,ちょっと久しぶりに参加させていただいた。夏風邪をこじらしたり,旧友が死んだりと,何かと落ち着かないまま,日があいた。

地に立つ,

という意味では,「立つ」という意味に着目したい。

立つについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140615-1.html

でも書いたが,立つの語源は,「タテにする」「地上にタツ」らしい。立つ,建つ,起つ,発つ,は中国語源に従うとある。そういう区別は,日本語にはないらしい。

「立」は,

大+-線(地面)

で,

人が両手両足を広げて地上に立つ形の象形

を意味する。立つは,人にとって特別の意味があるらしい。だから,

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140615-1.html

でも上げたように,「立つ」には,目立つ,際立つニュアンスがある。しかし,立つことで,周りから,

はっきり姿が目立つ

という以上に,当事者にとって,視界が変わる,ということが大きい。ある意味で,立ったときから,ものを見る視界が変わったのは,何か,ただ視界が変っただけではないような気がしてならない。

言葉を覚えたころに,空中を飛ぶ夢を見る,とはユンギアンが書いた中で見たことだが,それは,ものをメタ・ポジションから見る,という意味でもある。立つこととそれは関係あるのではないか,とひそかに思う。

キルケゴールの,

人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。

という,自分に対するメタ・ポジションを取るのも,それとつながる。

右側の頭頂葉の「角回」という部位を刺激すると,被験者の意識は2メートルほど舞い上がり,天井付近から,「ベッドに寝ている自分」が見える,という実験が報告されている。

幽体離脱といわれる現象である。その部位がどうやれば刺激されるのかはわからないが,この実験を紹介していた池谷博士は,健康な人でも30%は幽体離脱を経験すると言い,

「有能なサッカー選手には,プレイ中に上空からフィールドが見え,有効なパスのコースが読めるというひとがいます。こうした俯瞰力」

も幽体離脱と似ている,と指摘しています。さらに,

「客観的に自己評価し,自分の振る舞いを省みる『反省』も,他者の視点で自分を眺める」

という能力も,いわば,幽体離脱の延長というふうに言えると指摘している。

「見る」自分でいる限り,自分の視点に気づかないが,「見る」自分を見ることで,つまり,「見る」自分を見る視点に立つ限り,自分の視点に気づけるし,視点を意識的に動かせる,ということは,僕もよく思っている。

ちょうど,コーチングでいう,

レベル1(自分に矢印)
レベル2(相手に矢印)
レベル3(両者に矢印)

と同じことだ。その意味で,

立つ

は,人の意識のありようを象徴している,という気がする。ただ,立っているだけではなく,すくっと,

屹立

している感じは,やはり,人ならではというか,人にしかできないふるまいなのだ。その意味では,それが持つ,

視界,

というか,そこから見上げたり,這いつくばった視野にいるだけではない視界を,意識することは,人として大事なのだろう,とつくづく思う。それと,

見下す,
見下ろす,

のとはまた別だ。それは,ただの勘違いでしかない。そんなポジションでもないのに,思い上がっているだけの錯覚でしかない。

そう言えば,真偽は知らないが,死ぬ直前,

ベッドの自分と周りの家族を見下ろす天井付近から見ている,

というのだか,最後の俯瞰なのだろうか。


参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
池谷裕二『脳には妙なクセがある』(扶桑社)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年12月20日

問い


月一回のエキスパートクラスに参加してきた。先月のことになる。
珍しく,メンバーに不都合がいろいろ生じて,三人での開催だったが,そこで,グランディングについて,質問し,答える,ということを,エクササイズとしてやった。

これがなかなか面白いのである。

まず,第一問いがそうそう出ないのである。

そして,自分が知っているつもりなのに,口に出してみると,的を外していたり,不足していたりすることに気づくのである。

教えることは,教わることだ,

とはよく言われるが,まさに,

自分が何を知らないかに気づく

のである。日々,習慣のように,あるいは,惰性で,

当たり前にやっていること,

が,当たり前すぎて,そのことに疑問を持っていない。だから,問いを立ててみることは,重要なのだ。たとえば,

分からないことは何か,

と問いかけても,自分では,分かっていることしか意識していないから,

何が分からないかがわからない,

という体たらくに陥る。

知れるを知るとなし,知らざるを知らずとせよ,

それが知るということだ,とは確かにその通りだ。しかし,それには,

問い

をしかけてみなければ,何を知らないかは,知りようがない。

知(識)は,

Knowing that(そのことについて知っている)

Knowing how(そのやり方を知っている)

があるが,知っていて,やっていても,それをメタ・ポジションで見ないと,

なぜそうなっているの?

という疑問は浮かばない。グランディングについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163127.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163294.html

等々,何度か触れたが,それを初めての人に説明していて,質問されたら,どう応えるのか。たとえば,

グランディングで大事なことは何か
グランディングがやれているかやれていないかは,何で分かるか
グランディングとはどういう意味か
グランディングしてどんな変化に気づくのか

等々。自分でやっていて,それを自分で自己修正が効くには,自分で,それを目利きするメタ・ポジションの目が必要のはずである。そのとき,

そうなっているから,その通りにする,

よりは,

そうするのは,かくかくの理由があるから,そうしなければならない,

というほうが,呑み込みが早いはずである。

それは,自問自答とも言うが,同じレベルでそれをやっていれば,堂々巡りになる。だから,自分を批判的(クリティカル)に,問いを立てられなければならない。

やはり,「問い」のないところに,新しい発見はない。問題意識と呼び換えてもいい。惰性でやっているのではない,ということが,その問いで見える。

その対処法として,(前にも書いた気がするが)僕が考えているのは,無理やり,機械的に,

なぜ,なぜ,なぜ(を三回),
何があったのか(何が起きたのか),
どうしてそうしたのか(どうしてそうなったのか),

と無理やり問いを懸けてみる。そうすると,それへの答が浮かんでくる。いったん浮かぶと,見え方が変わる。

たしか,清水博氏は,

「創造の始まりは自己が解くべき問題を自己が発見することであって,何らかの答を発見することではない」

と言っておられ,それは,

「これまで(自分の居る場所で)その見方をすることに大きな意義があることを誰も気づいていなかったところに,初めて意義を発見する」

ということだと,言っておられた。

それは,しかし,あらかじめあるのではない。

いやはや,どんな場でも,学習である。

生涯一書生

である。


参考文献;
清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2015年04月11日

姿勢


都市伝説のように,マザーテレサが言ったとされているらしい言葉は,

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

実は,は出典不明で,

Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words; Be careful of your words, for your words become your deeds; Be careful of your deeds, for your deeds become your habits; Be careful of your habits; for your habits become your character; Be careful of your character, for your character becomes your destiny.

というのが原文らしい。僕は,まったく違うものを読んでいて,ああこの人が言ったのか,と知ったことがあるが,それを探したが見つからなかった。ただ,僕には,これは,マザー・テレサの発言ではないように思えている。僕には,マザーテレサが,こういう言いようをするとは思えない。

人はしばしば
不合理で、非論理的で、自己中心的です。
それでも許しなさい。

あるいは,

あなたは、
あなたであればいい。

あるいは,

私たちは、大きいことはできません。
小さなことを
大きな愛をもって行うだけです。

あるいは,

日本人はインドのことよりも,
日本の貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。
愛はまず身近なところから始まります。

等々が彼女の言いようである。こういうことを言う人が,上記のような言い方をするとは,ちょっと信じがたいだけだから,たいして,根拠はない。ただ,どんな性格でも,どんな習慣でも,テレサは,許す,と思えるのだ。どうも,ネットで見つけた,同類の,

性格は顔に出る。
生活は体型に出る。
本音は仕草に出る。
感情は声に出る。
センスは服に出る。
美意識は爪に出る。
清潔感は髪に出る。
落ち着きのなさは足に出る。

と言う類のものの言い方は,彼女には似合わない,と感じた。なぜなら,

天の声を聞く人の言葉,

とはとは思えないからだ。彼女は,真っ直ぐ地軸の上に立ち天の声に耳をかたむける姿勢を持っている。それなら,違う言い方をするだろう。だから,

まず、その人のなかにある
美しいものを見るようにしています
この人のなかで一番素晴らしいものはなんだろう?
するとかならず美しいところが見つかって
私はその人を愛することが
できるようになります。

こう言い方をするだろう。のっけからつまらぬ回り道をしてしまった。僕は,

身を正すことは,
姿勢を正すことであり,
姿勢を正すことは,
心を正すことであり,
心を正すことは,
耳を正すことだ,

とありきたりのことに気づいたということを言いたいだけなのだ。

先日ある人と話していて,途中で,おのれの姿勢に気づいて,思わず坐りなおした。そうしたら,実にすっきりと,相手の言っていることが,耳にどく気がしたのだ。そして,その瞬間,(相手は起業のことを話していたのだが),

あなたのお客さんが待っている,

ということを直感で思い,(僕の性分では決して口にしない類のことを)口にした。瞬間に,へつらいの気持ちや,おだての気持ちがわいたのではない。素直に,そう感じだのだ。

あるいは,別の機会に,相手の話を聞いていて,自覚して,姿勢をただした,その瞬間,

コラボ,

ということを感じて,口に出した。相手が自分の特徴を気づくには,誰かと一緒に何かを協業してみると,自分の差別性に気づく,と言うのは,後知恵で言ったまでだが,その前に直感したのは,脈絡なく感じたものだ。

直感はともかく,すくっとした姿勢でいるということは,

周囲に立つ,

という意味でもある。立つ,というのは,

「大(ひと)+一線(地面)」

で,両足を揃えてたったさまを示す。両足や両手を揃えた安定という意味を持つ。それは,椅子に座ってもできる。座面一杯に尻を置き,背筋を伸ばすことで,立つのと同じように,地軸に連なる感覚がある。立つについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/399481193.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/404789268.html

で触れたが,姿勢を正して,屹立というのは,言いすぎだか,きちんと向き合うことで,相手にもその姿勢は見える。相手にも,

はっきり(こちらの)姿が目立つ,

ということでもある。姿勢というのは,

「姿(すがた)+勢(いきおい・ありさま)」

である。少なくとも,

構え,

である。

「姿」の「次」は,「二(そろえる)+欠(かがんださま)」の会意文字。人がかがんでそそくさと,ものを揃えるさま,という意。「姿」は,「女」を加えて,女性がそそくさと身づくろいをして,身なりを調える,あるいは,ぜんたいをざっとつくろっただけで,むやみに手を加えないそのままの様子,という意。

「勢」の字の「上部は,園芸の芸(藝)の原字で,「木+土+人が両手を伸ばす形」の会意文字。人が木を土に植え,よい形に整えるさま。「勢」は,それに「力」を合わせて,力を加えて,強制し,他のものを程よい形に整える,という意。転じて,自分ではどうにもならない,外からの勢い,という意になる。

どうも,姿勢と言うのは,ずっとある不動の格好とか,佇まい,と言うのではなく,

居ずまいを正す,

というような,意識して,身を正す,という意味が本義のように思えてくる。それは,

意識して作るもの,

というか,

意識して正す,

ものなのだろう。

耳を正す,

という言い方があるかどうかは知らないが,聴く姿勢を取るということは,

居ずまいを正す,

姿勢がいる,ということなのだろう。その意味では,言葉の向こうに,

その人の姿勢,

あるいは。大袈裟に言えば,生き方が出ているはずなのである。

そのことを感じたのは,横井小楠が,暗殺の理由にされた『天道覚明論』において,天皇制廃止論を唱えた,とされた経緯である。しかし,これが明らかな偽書であることを,僕は,言っていることではなく,その文章が,他人事して正論を吐いているところに,見た。

すべてを,我が分内のこととして引き受け,その一切を背負う(という小楠のいつもの)覚悟が,あの文書のどこにもないのである。他人事として語るのならばその人格、思いはいらない。たとえば,小楠はこう言う。

人心の知覚は無限の広さをもち,この知覚を広げれば全世界のこと全てが心に入ってくる。この心の知覚こそ則ち思うであり,思って筋を会得すれば,世界中の物事の理は自分のものになる,

そういう小楠にとって,世界はおのれの内からみている。その世界を、おのれが引き受けるべきものとして、おのれの全力をこめ、誠心を貫く責任をもって。そういう覚悟のみじんもない文章は,心のない文章である。

冒頭のテレサの言と言われる言葉にも,僕はそれを感じたのである。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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