2013年09月25日

イマジネーション



イマジネーションは空想ではない。だから,現実体験(知識やテレビ・映画の疑似体験も含めて)がなければ,豊かにはならない。もちろん体験すればいいというものではないが,現実を自分の体験として味わったことのないものには,想像力は醸成されない。

ところで,サルトルは,イマージュ(像)の現象学的特徴を4つ挙げている。

第一は,イマージュは意識である。イマージュは意識の対象物への関係,言い換えると。それが意識に現れる,現れ方,関係に他ならない。自分が坐っている椅子を知覚するにしろ,想像するにせよ,意識は同じ椅子と異なった仕方で関係している。

第二は,知覚において,われわれは対象物を観察する。知覚では,対象物のある側面しか目に入らない。たとえば正六面体の全体像は,他の観点から見るなどして学習するほかない。しかし,イマージュの場合,たとえば正六面体は,初めから正六面体として全貌を表す。逆に言うと,自分があらかじめそのイマージュの中に置いたもの以上のものを決して見出すことはできない。知覚は欺くことがあるが,イマージュは欺かない。それを準観察と呼んでいる。知覚と異なり,何一つ教えることのない観察である。

第三は,知覚はその対象物が現存するものとして措定するが,イマージュは,対象物を非存在として,あるいは不在として,どこか他のところに存在するものとして,あるいはその対象物が現存しないものとして,措定する。知覚が現実に存在する対象物に結びついているのに対して,イマージュは目前現実とは離れた存在せぬものとして与えられる。いかに生き生きしていようとも,それは存在していないものとして与える。

第四は,知覚は受け身のカタチで現れるのに対して,イマージュは想像的意識として,自発的にイマージュを生み出す。

わざわざこんな古臭いことを引用したのは理由がある。想像力は,空想ではない。内的経験でもない。知覚したもの,経験したものからしか,イマージュを作り出すことはできない。

それを,

エピソード記憶

と呼ぶか,

自伝的記憶

と呼ぶかは微妙に違うが,現実の中で生きたこと,読んだこと,見たことしか想像できない。知らないことは想像できない。

イマージュは,この世界の土台の上でのみ,また,この土台と結びついたところでしか現れることができない。それが想像力の条件である。

サルトルはこのように意識によって生きられ把握される現実世界を状況と名づけたが,文脈(コンテキスト)と呼んでもいい。自分の人生という文脈の中で,現実世界を生きたものだけが,自分の(想像力の)コンテンツを持てる。それなしに,想像力はありえない。

昨今,どうしてそういうことをすれば,どういう結果になるかが,想像できなかったのだろう,と多くの人が,多くは大人だが,嘆くような愚かな示威行為が連続した。

しかしそれは彼らのせいではない。

親に代表される社会が,

間違いを許さない,

危険を冒させない,というか危険要因を除いてしまって,防護柵の中での安全しかし許さない,

抗菌・防菌・防臭・無菌の状態の中で,何が危険化はわからない保護状態に置く,

競争条件を取り除きみんな一緒ごっこを強いる,

等々どう見ても,自分の頭で考えなくてはならない状況に身を置いて,自分で必死に考えて切り抜ける経験がつめているとは思えない。

そういう中で育てられるのは,

意味記憶

手続き記憶

だけだ。知識とやり方を,箱庭の中で,いくら覚えても,箱庭は箱庭だ。

想像力は,自分の意識にないものは生み出せないのだ。意識を記憶と置き換えても,リソースと置き換えてもいい。


参考文献;
J・P・サルトル『想像力の問題』(人文書院)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





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2014年08月16日

飛ぶ


以前,ころんだ折,一瞬の空白が生まれた経験がある。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/399176805.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163455.html

で書いたが,その瞬間の体というか,現実の状況に,意識がついて行かない,行けないという意味での,意識の断絶だ。しかし,過日,墓参の折,電車を降りようとして,ドアまで行って,ふいに意識が切れた。

この場合は,意識が切れて,身体が崩れたのか,身体が崩れて意識が,それを追い切れず,空白になったのかは,実はよくわからない。

正直,身体が崩れる瞬間の記憶にない。一瞬後,自分が,電車の入り口でしゃがみこんでいるのに気づいた,ですぐに立ち上がったが,何が起きているかが,自分でも,よく分からず,しかも,

視界がしばらくぼやけていた,

意識の側が切れて,身体のコントロールを失ったのかもしれない。これに似た経験は,一度だけある。ずいぶん前,夜中にトイレに行こうとして,廊下で,一瞬身体が崩れ落ちた。心配して,病院へ行ったが,医者は,空白の時間を聞いた。で,

数秒

と言ったら,鼻先でせせら笑った(ように見えた)。そのときも,廊下にへたり込んで,何が起きたかがわからなかった。今度は,傍に友人がいて,近くにいたたおばさんも倒れるのを支えようとしたらしい。友人曰く,

腰砕け

のように崩れた,という。そう言えば,右ひざの上をドア側にぶつけたのか,赤くなっている。それ以外,どこにも怪我はなかった。そばにいたおばさんは,

水を飲んでください,

と助言してくれた。考えてみれば,朝方出かけて以来,水分を取らず,焼酎を何杯か飲んだ。酔い崩れるほどではないので,一種の熱中症かもしれない。

その一瞬が,まったく意識できなかった,

というのがちょっとショックであった。その空白は,ほんの一,二秒くらいで,崩れたところから,何が起きたのか分からず,あわてて立ち上がった。

別にすべてを意識化しているわけでもないし,意識でコントロールできているわけでもないが,

自分がどこにいるのか,
何をしているのか,

が一瞬真っ白になるのは,気色が悪いものだ。

意識が途切れて,糸が切れたマリオネットのように,身体が放り出され,数秒にしろ,その自分の状態が把握できず,大袈裟だが,瞬時,自分自身がこの世から消えた感じなのである。

正確には思い出せないが,ドアに身体を寄せていて,不意にドアが開いて,バランスを崩したのかもしれない。しかし,崩れる一瞬のことは全く記憶にない。

で,その間,声も音も,感覚から消えて,まったくの空白があって,不意に,いつもと違う,見上げる視界に,意識がぼんやり気づき,

おや,どうしたんだろう,

と,その間,ちょっと間があって,やがて事態が朧に察せられ,あわてて立ち上がった,その後しばらくは,まだ視界が,紗がかかったように,少しぼやけていた。

ひょっとすると,その前四日間の仕事の疲労が溜まっていたことも加わって,悪い条件がいくつか重なったせいかもしれないが,昼日中,街の真ん中で崩れる,というのは,ちょっと自分への自信を喪わせるに十分な出来事ではあった。

いつも意識を研ぎ澄ましているわけでもないのに,いざ,ちょっと意識が飛んだだけで,少し慌てるというか,動揺するのも,無意識で,体力の低下を自覚しつつあるせいかもしれない。

無事之名馬

というが,これは,臨済宗でいう,

無事是貴人

をもじったものだとされている。一切の計らいを捨てて,自然体で悟りを啓くのが貴いという意味らしい。それが茶道で,一年の無病息災を寿ぐ言葉として転用された,という。

その意味では,

無事是貴人

の意味転用に,

無事之名馬

が重なり合わさったことになる。

しかし,何もしないで無事ということはないというのは,怪我しないための細心で入念な手入れを怠らないイチローを見ればわかる。

昔,経験を積むというのは,

馬齢

を重ねるのとは違う,と後輩から揶揄されたことがあるが,いやはや,まさに,馬齢を重ねた,つけかもしれない。



今日のアイデア;
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2015年03月07日

ぼんやり


ぼんやり

というのは,

物の形や色などがはっきりせず、ぼやけて見えるさま。
事柄の内容などがはっきりしないさま。意識,記憶がかすんでいるさま。
元気がなく、気持ちが集中しないさま。
気がきかず、間が抜けているさま。

といった意味がある。少なくとも,驚きのあまり言葉を失った様子の,

呆然,茫然自失,唖然,肝をつぶす,言葉がでない,言葉を失った,放心状態,ポカン,

や, 脳に血液が十分通わないことが原因で、自然に起きた意識喪失としての,

失心,卒倒,失神,人事不省,気絶,

といった類のこととは別のことだ。日常生活は普通にしているが,

ぼさっと,
ついつい,
ついうっかり,
うかうかと,
ふと,
ぼーっとして,
思わず,
漫然,
取り留めない,
何となく,

といった,注意不足というか,気を抜く,というのに近い。結果として,注意力散漫,気の弛み,緊張感の欠如,精神の弛緩で,うかうかと何かを引き起こす。そのときになって,はっとする,というか,

不覚

を悟る,ということになる。古語辞典には,

うかと,

というのが載っていて,ほぼうっかりと同義で,気づかずにいる状態,の意味としている。

語源的には,「ぼんやり」は,

「ボヤ+リ」

で,ボヤっとしたの語幹。ボヤに,リが加わり,音韻変化で,撥音化し,

ボ+n+ヤ+リ

となったもの,とされる。転じて,間抜けで気がきかない,という意味になった,とある。いわば,

ぼやっとした,意識が焦点の合わない状態,

にあるということに近い(それを対象側で言えば,ぼやけていることになる)。意識して,何かをしていない,ということだ。そうなれば,周囲への目配り,気配りがおろそかになる。よく,遠くから見知った顔に気づくが,相手は,すれ違っても,こちらに気づかない,ということがある(当然逆もある)。それは,

意識が内向き,

になっていて,心の中の何かにとらわれている,ということでもある。多く,ぼんやり,とはそういう状態ではないか。それは,不用心に身をさらしている,ということになる。心ここに在らず,というほどのことではないが,だから,

うっかり,
うかうか,

なのだ。なんとなく,

迂闊

に似ている。迂闊は,中国語の,

迂(曲がりくねって遠い)+闊(打・搗)

で,事情が遠い,意。日本語では,注意力が足りずうっかりする,意。しかし,辞書には,語源の,

回り遠くて,実情に当てはまらない,迂遠の意味,

のほかに,

大まかで気のおおきいこと,

意味もあるようだ。細かなことを気にしない(気にならない),ということだ。「迂」の字は,

回りくどくて実際的でない,
ものごとに疎く実際的でない,

という意味がある。

「辶+于」の「辶」は「辵(ちゃく)」で,

はしる,たたずむ

という意味。「于」は,指事文字(形をもたない抽象的な、ようす・動作・状態などを、象徴的に表そうとした字)で,

息が喉につかえて,わあ,ああと漏れ出すさま,

を示す。直進せず,曲がる意を含む。

「闊は,「門+活」「活」は,水が勢いよく流れること。ゆとりがあって,つかえない,意。「寛(ゆとりがある)」の語尾が縮まった形,という。だから,

ひろびろしている,
はるかとおい,
ゆるい,

という意味になる。両者合わせて,

遠くて,実際的でない,

というか,(意識の)ピントが合わない(からぼんやり見える),という意味に取れる。

ぼんやりしている,迂闊に過ごす,というのは,身の回りを見過ごす,ということに近い。それは,

見れども見えず,聞けども聞こえず,

つまり,

心焉(ここ)に在らざれぱ,視れども見えず,聴けども聞こえず,食らえども其の味を知らず,此れを,身を脩むるはその心を正すに在り,と謂う。

である。それは意識状態というよりも,是非の判断状態といってもいい。簡単に付和雷同するときは,ほぼぼんやり,と言っていい。

ぼんやり

は,自滅の始まりである。おのれに迫る危機に疎い,ということでもある。それを

うつけ

という。「うつけ」というのは,

中がうつろになっている,
ぼんやりしていること,またはそういう人,

という意味である。「うつける」から来ている。

中がうつろになっている,

とは,ぼんやりそのままを言い当てている。

参考文献;
金谷治訳注『大学・中庸』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




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