2013年10月08日

差別


網野善彦『日本中世に何が起きたか』を読む。

著者が崩した常識は一杯あるが,本書は,そうした我々の常識崩しには格好の著作といっていい。

まず日本という国はいつ成立したのか。

「日本国」という国名は,七世紀末から八世紀初めに決まるのだと思います。浄御原令という令が決まった698年ごろだというのが今のところ,研究者の多数意見ですが,大ざっぱに言って,七世紀末から八世紀初めという点では一致していると思います。注意しておく必要のあるのは,その時点の日本国の領域には東北と南九州は入っていません。北海道,沖縄はもちろんです。

ということは,それ以前について,軽々に日本とか,日本人という言葉を使ってはいけない。日本人がずっといたかのようなイメージを懐きかねない危険がある,と指摘する。では倭人かというと,日本人と倭人は重ならないところがある。だから,

聖徳太子は倭人ではあるが日本人ではない,

と著者は言う。さらに,著者は,「列島東部人」「列島西部人」という言い方をしている。なぜか。埴原和郎氏の説を紹介しているが,

弥生文化が流入してから古墳時代まで,七,八百年から千年ぐらいの間に,百万人以上に及ぶ人が西の方から日本列島に入ったのではないかと言われています。

(「列島東部人」「列島西部人」)の間の差異,現代の東日本人と西日本人,とくに畿内人の差と,朝鮮半島の人びとと西日本人,とくに畿内人との差異とどちらが大きいかというと,前者の方がむしろ大きいのだそうです。

これは遺伝子レベルでの検討だと思われるが,日本が均一というあいまいな言い方は,ためにする場合を除くと,危険である,といっていい。関西人気質と関東人気質の差は,結構根が深い。

ところで,近世以前,百姓というと農民というイメージが強く,農業社会であった,と受け取られてきた。それについて,強烈に異質なメッセージを発し続けてきたのが著者だ。

近世においても「百姓」はその原義の通り,直ちに農民を意味するのではなく,実体に即してみても「農人」だけでなく,商人,船持,手工業者,金融業者等,多様な非農業民を含んでいること,また従来,貧農・小作農と見られてきた水呑,加賀・能登・越中の頭振,瀬戸内海地域の門男(亡土),越前の雑家,隠岐の間脇など,多様な呼称を持つ無高民のなかにも,土地を持てないのではなく全く持つ必要のない商人,廻船人,職人などの富裕な都市民が数多くいた事実を認識したのは,(中略)奥能登地域と時国家の調査を通じてであった。

いわゆる差別問題も,その視角から見ると,全く様相が変わる。転機は,十三~十四世紀と見られる。

遊女・白拍子・傀儡の地位は,十四世紀ごろまでの日本の社会の中ではかなり高かったと思うのです。(中略)鎌倉時代のごく初めの『右記』という…記録にも,遊女・白拍子は,「公庭」―朝廷に直属するものだとはっきり書いてあります。ですから,遊女の和歌は,勅撰和歌集にたくさん出てきますし,十四世紀,つまり南北朝前期のころまで,貴族たちは自分の母親が遊女・白拍子出身であることについて,何らひけめを感ずることなく堂々と系図に書いています。

そして著者はこう言う。

私はいわゆる被差別部落の直接の源流がはっきりと姿を見せるのは,やはり遊女が差別され始めるのと時期を同じくしていると考えているのです。

奈良時代に悲田院が設けられ,身寄りのない病人や捨て子が収容されていた。これが被差部落問題と深くかかわっている,と言われている。九世紀ころまでは,成人した孤児は,戸主の養子となったり,独立した戸を作ったりと,平民と同じ扱いを受けている。しかし九世紀末ころには,律令国家自体が崩れ,悲田院も維持できなくなる。そこで,そこにいる人は,何か仕事を探さなくてはならなくなる。さらには,

穢れの「清目」を一つの仕事,

とするようになり,十一世紀から十二世紀にかけて,悲田院に収容できなくなった人々を救済しようとする,聖,上人といわれる僧侶が関与し,

非人,乞食といわれるような人々の集団が十一世紀半ばごろになると,畿内―京都,奈良を中心に,まず姿を現してきます。

そうして,西日本には十二世紀から十三世紀にかけて,各地にこういう非人の集団が見られるようになる,

という。そして,

この人々が,…浄め-清目,つまり葬送や清掃,さらに罪の穢れを浄める機能を持った刑吏としての仕事,罪人の宅を壊し,人を追放する,あるいは人を処刑するような仕事に携わっていたことも,確認できるようになります。

同時に牛や馬の死体処理,その皮革の加工,細工に携わる者は,河原者と呼ばれているが,非人や河原者は,

遊女の社会的な地位が高かった時期,つまり十四世紀までは,非人にせよ,河原者にせよ,まだ社会的に固定された差別,賤視を受けていない,

と著者は見る。なぜかというと,

これらの人は神社の神人,寺院の寄人という立場に立っていたわけです。さらにまた京都―洛中洛外の非人の集団は,検非違使庁という天皇直属の官庁を通じて,天皇にも直接統括されています。

つまり,聖なる存在であめ天皇と直接つながっているという意味で,聖視される存在だったと,著者は見る。

天皇や神仏そのものに直属する地位にあるという意味で,「神奴」「寺奴」と表記され,神仏,天皇の奴婢として,

神人,寄人,供御人(天皇の直属民)という称号を持っていた。

つまり一般の平民と区別され,平民にできない職能を持っており,鎌倉時代の非人の訴状では,

神仏に直属して,「清目」という大事な職能によって神仏に奉仕するのが自分たちの使命としている,

と堂々と書いているという。

供御人,神人,寄人―商工業者,芸能民から遊女,非人を含む天皇,神仏の直属民は,一般平民の負担する課役は免除されております。そのかわりに,それぞれの芸能を通じて天皇神仏に奉仕をすることになるのですが,関所や津泊などの港でも交通税を免除されて,諸国を自由に通行することが出来ました。

供御人,神人,寄人は,非農業民なので,津や泊に根拠を持つことが多いが,非人の根拠地は,宿と言われている。それが,南北朝の動乱を機に,十五世紀にはいると,

非人の宿についてみても,鎌倉時代までは「宿」という字を使っております。…十六世紀ごろから,「夙」という字を非人の「宿」に関しては使うようになっております。

という。そして,「穢多」という文字も一部で使われ始める。なぜそうなったのか。著者は,こう結論づける。

では一体なぜ南北朝の動乱以後,遊女や非人の地位が決定的に低落したか,なぜ賤視されるようになったか。それはこの動乱を境に天皇,神仏の権威が決定的に低落したことと表裏をなしていると考えられます。

鎌倉幕府とそれを倒した後醍醐天皇の建武政府の崩壊,

いわば当時の日本国を統合していた幕府と天皇の二つの大きな権威が,一挙に崩れた,

同時に,それはそれまで続いてきた神仏の権威の失墜をも伴い,その権威に依存して職能を発揮してきた人々が,

聖別された存在から賤視の方向に差別された存在への転落が葉きりここに現れてくる…

と著者は言う。しかしそれは同時に,秩序だって管理されてきたものの崩壊といってもいいのだと思う。

悪党

というものが同時に,その時代の中で脚光を浴び始める。悪という言葉は,

どうもこれが差別の問題とどこかで関わりを持っている,

と著者は言い,多く,神人,寄人,供御人,非人と重なっている。

人の予想のつかない,自分にはわからない何か否応のない力に動かされる行為…

を悪という意味でとらえていたのではないか,そして,

一遍が「悪党」と呼ばれる集団に支えられていたことは,『一遍聖絵』という絵巻物にも描かれています。その一遍は,

「身命を山野にすて,居住を風雲にまかせて」遍歴する遊行。信・不信,浄・不浄を問わず,広くすべての人びとに名号札を賦る賦算。そして念仏する喜びを身体そのものの躍動によって表現する踊念仏

であり,その悪人を肯定し,その中に自らをも置く姿勢は,そのまま親鸞の悪人正機につながっていくように見える。

著者は,高校教師であった時に,

なぜ平安末・鎌倉という時代のみにすぐれた宗教家が輩出したのか,

という問いに応えようとしたもののひとつ,という言い方をあとがきがしている。それは,どういう時代なら,傑出した人物を生み出せるのか,というふうに問いを変えてみると,別の答えが見えてきそうである。

網野善彦『日本中世に何が起きたか』(歴史新書y)


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2016年04月02日

八幡船


八幡船は,

ばはんせん,
あるいは
ばはんぶね,

と訓む。

はちまんせん,

とも訓むが,

ばはんせん,

のほうが,僕には通る。子供の頃,海賊船を主役にしたラジオドラマをやっていて,夢中になって聞いていた記憶がある。そのタイトルは,「ばはんせん」だったと思う。耳から覚えた。ちょっと調べたが,見当たらず,どうやらそれを映画化したらしい,

http://movie.walkerplus.com/mv23049/

に辿り着いただけである。辞書(『広辞苑』)では,「ばはんせん」として,こうある。

「室町末期から安土桃山時代にかけて,中国・朝鮮の沿岸を侵略した日本の海賊船を,明人などが称した。江戸時代には密貿易船の称。はちまんぶね。」

とある。因みに,「八幡(ばはん)」を引くと,

「倭寇の異称。『和漢三才図絵』によれば,倭寇がその船に立てた旗に『八幡』の神号を記したのを,明人がバハンと読んだからという。」

とあるほかに,

外国へ略奪に行くこと,
国禁を犯して海外に渉ること,海外にわたって密貿易を行うこと,

とあり,八幡船の略でもあるが,ほぼ意味が重なる。「ばはん」「ばはんぶね」は,室町末期の日葡辞典(イエズス会)にも載っているらしい。

「神号」は,『日本大百科全書(ニッポニカ)』に,

「本来の神名(じんめい)に対して、その神の性格によって加える称号をいう。尊崇の意による皇大神(おおみかみ)・大神(おおかみ)・明神(みょうじん)・菩薩(ぼさつ)・権現(ごんげん)・天王(てんのう)などと、区別して用いる天神(てんじん)・地祇(ちぎ)・正宮・新宮・今宮(いまみや)・王子、若宮(わかみや)などの例がある。皇大神(皇大御神(すめおおみかみ))は元来『天照坐皇大神(あまてらしますおおみかみ)』として天照大神のみの尊称であったが、のち豊受(とようけ)大神・春日(かすが)・熱田(あつた)・賀茂(かも)などの諸社に限って用いられた。大神(大御神)は古典には黄泉津(よもつ)大神、伊邪那岐(いざなぎ)大御神、猿田彦(さるたひこ)、住吉(すみよし)などの神名にみえるが、後世には信仰する神に対する尊称として広く用いられた。明神は社格を示した名神(みょうじん)と並称されたが、のちに明神が一般に通用され、また吉田家の執奏により大明神号が授けられ、多くの神社で大明神と称することが多くなった。仏説に拠(よ)る尊称として菩薩号(八幡(はちまん)大菩薩・妙理(みょうり)〈白山〉など)、権現号(箱根・熊野・東照(とうしょう)大権現など)、天王号(祇園(ぎおん)・藤森など)があるが、これらは明治以降は慣習による私称以外は禁ぜられた。また区別に用いる例として、神系による天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)、本社・分社の別である本宮と新宮・今宮・王子、本社の御子神(みこがみ)としての若宮などがある。」

この場合,

八幡あるいは
八幡大菩薩

と,掲げていたことになる。『世界大百科事典 第2版』によると,

「〈ばはん〉は,戦国時代から安土桃山時代にかけての用例では海賊行為を意味し,江戸時代中期以後では密貿易を意味する言葉。〈八幡〉のほか〈八番〉〈奪販〉〈発販〉〈番舶〉〈破帆〉〈破幡〉〈波発〉〈白波〉〈彭亨〉などの文字もあてられている。《日葡辞書》はBafãと記している。語源は外国語であるという意見が有力である。ただ江戸中期に書かれた《南海通記》が倭寇(わこう)が八幡宮の幟(のぼり)を立てていたので八幡船と呼ばれたと書いたところから,ばはん船は八幡船であり,すなわち倭寇の異名であるとする考えが広く流布するようになった。」

と,「ばはん」は,「八幡」と当てたことで,もっともらしくなったが,別の意味だったのかもしれない。『日本大百科全書(ニッポニカ)』は,

「日本以外の地、すなわち中国その他に略奪に行くことをバハンといい、また他国へ略奪に行く盗賊の船をバハンブネと称した。中国では『発販』『破幡』『破帆』『波発』『白波』『彭享』とバハンは発音され、日本では『番販』『奪販』『八幡』『謀叛』『婆波牟』、あるいは単に平仮名で『ばはん』があてられた。
 バハンの語源については、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の信仰に由来するという説と、ポルトガルや中国などの外国語に由来するとの二つの説がある。前者は、江戸時代の1719年(享保4)香西成資(こうざいしげすけ)の『南海治乱記(なんかいちらんき)』が『わが国の賊船が八幡宮の幟(のぼり)を立て、洋中に出て、西蕃(せいばん)の貿易を侵して財産を奪った。その賊船を八幡船とよんだ』と記しているのが出所である。海上安全を祈願して八幡大菩薩の幟を立てたことは一般的な風習だが、そこにバハン船の語源を求めるのは賛成できない。外国語に由来しているとみたほうが妥当であろう。のち、バハンは海賊行為や略奪行為一般をさし、江戸時代には抜け荷もそうよぶようになった。」

と,はっきり,「ばはん」を「八幡」と当てることに異論を投げかけている。

「はちまん(八幡)」は,

「八(八つ)+幡(はた,のぼり)」

が語源で,武人の神。

「応神天皇誕生の時,八つの幡(バン)が,…!から降りてきた伝説による」

と,『語源辞典』にある。八幡神は,

やはたのかみ,
はちまんじん,

と訓み,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E

には,

「日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)『弓矢八幡』として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。」

とある。『大言海』には,「八幡大菩薩」について,異説はあるが,と断って,

「白幡四旒と赤幡四旒と,天より筥崎の地に降りれるより名起こる」

と記す。そのはずで,八幡神を応神天皇とした記述,

『古事記』『日本書紀』『続日本紀』

に一切見られない。八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった,らしいからである。武人に尊ばれ,

海の神,

ともされることから,倭寇が,八幡大菩薩を掲げていたが,所詮,海賊は海賊である。やはり,

八幡船,

より,

倭寇,

がふさわしいような気がする。因みに,倭寇については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87
https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E5%AF%87-154019

に詳しい。

参考文献;
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E8%88%B9-115979
http://www.tanken.com/wako.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E


ホームページ;
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2016年04月08日

駆落ち


駆落ちは,今の常識では,

「恋し合う男女が連れだって密かに他の地へ逃亡すること」

という意味で,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%86%E3%81%91%E8%90%BD%E3%81%A1

には,

「駆け落ちは、愛し合っている男女の一方または双方の親に、身分や人種などを理由に結婚または交際を反対された場合や、男女の一方が既婚であったり、望まない結婚を親に強要された場合、最後の手段として決行する場合が多い。
未成年で一方または双方に保護者がいる場合の駆け落ちは、刑法上では結婚目的の略取・誘拐罪が適用される。
18世紀ごろのイングランドでは、結婚許可証の発行や異議申し立て期間の存在など、婚姻に関する厳しい制限があったため、イングランドを出てスコットランドのグレトナ・グリーンで結婚する駆け落ちが流行した。」

という意味しか載らない。しかし,辞書(『広辞苑』)には,他に,

密かに逃げて,行方をくらますこと,特に武士が戦場に負けて逃げること,
(「欠落」と書く)江戸時代,庶民が逃げうせること。いまの法律用語の「失踪」と同意に用いた。走り,逐電,出奔,

と意味が載る。『大辞林 第三版』には,所謂駆け落ち,「親から結婚の許しを得られない男女が,しめし合わせてひそかによそへ逃げ隠れること」の意味以外に,

逃げて行方をくらますこと。逐電。
戦国時代,農民が戦乱・重税などのために散発的あるいは組織的に離村・離郷すること。
江戸時代,貧困・悪事などのために,居住地を離れ行方をくらますこと。

を挙げ,これは,

「『欠落』と書く。武士には『出奔』の語が用いられる」

としている。

『語源辞典』には,

「語源は,『カケ(駆・駈)+落ち』です。こっそりと走って逃げる意です。近世以後,恋人同士が密かに逃げる意に用います。別に,戸籍から『欠け落ちる』説がありますが,近代的な戸籍法正立以前の語なので,疑問に思う。」

とあるが,江戸時代「人別帳」があり,必ずしもそうは思わない。三田村鳶魚は,

「無宿は 一定の住所のないものをいうのでなく、江戸の法律では、原籍のない者を指していう言葉なのです。 尊属の申立てによって、ところの名主を経て、町ならば町奉行、村ならば御代官の許可を得て、帳外と申しまして、人別帳から削除してしまう、そこで無籍の人間になる、帳外によって無籍になりますと、それを無宿と申すのです。…無宿狩で縛られるのは、ただ無宿者というのでなく、何の渡世にも有り付けない者です。真面目に奉公しようとしても、無宿者は請人がありませんから、雇ってくれる人もなけれ ば人宿でも相手にしません。」

と,無宿を言っている。つまり,必ずしも,近代以降とは限らない。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ka/kakeochi.html

にも,

「駆け落ちは、中世末期から見られる語。戦国時代から江戸時代までは、戦乱・重税・貧困・悪事などから、よその土地へ逃げることを表し、『欠落(欠け落ち)』と書いた。『欠落』と表記するのは、戸籍から欠け落ちることからとも言われるが、明治時代以前からある言葉なので、集団から逃げ出すことを『欠け落ちる』としたものである。『欠落』は『よその土地に逃げ込む』から、『駆け落ち』と表記されるようになり、『失踪』の意味から、男女が密かに他の地へ移り住むことを言うようになった。」

とあるが,人別のことは繰り返さない。『大言海』は,

「言缺(か)けて落ち行く義か,或いはカケは,駈けか」

と書き,一番目に,

戦いに負けて他所へ逃げ走ること,没落,

という意味を挙げる。『江戸語辞典』には,「かけおち」の項は,

「欠落」

で上げ,

「正しくは,駆落。もと軍用語で,戦に敗れ逃走する意」

とある。ここで連想するのは,

逃散,

と言われる,農民が大挙して逃げることだが,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%83%E6%95%A3

では,

「逃散(ちょうさん)とは、日本の中世から近世にかけて行われた農民抵抗の手段、闘争形態である。兆散とも言う。古代の律令時代に本貫から逃れて流浪する逃亡及び律令制解体後に課税に堪えずに単独もしくは数名単位で他の土地に逃れる逃亡・欠落とは区別される。」

と,集団逃亡と,欠落は区別されるようだ。『百科事典マイペディア』では,

「農民が自分の耕作地を放棄して逃亡すること。逃散には個々の農民が行う欠落(かけおち)と,集団で行うものとがあり,後者は支配者に対する有効な自覚的抵抗手段として14世紀ころから激増。」

と,『世界大百科事典 第2版』では,

「荘園制下の農民が,その家屋敷・田畠をすて荘外に逃亡することで,領主に対する抵抗の一形態。逃散には,個々の農民が行うもの(欠落(かけおち))と,集団で行うものとがあったが,惣村の成立以後,後者は自覚的な抵抗形態となり,逃散は単なる逐電と区別されるようになった。荘園制下の農民は,年貢課役の減免,非法代官の罷免などの要求を通すため,しばしば一揆を結成し,強訴(ごうそ)を行ったが,なお要求が認められない場合,最後の手段として全員が荘外に逃亡する逃散を行った。」

と,区別し,整理する。

「欠落(かけおち)」が,そういう意味だとすると,「欠落(けつらく)」と関連があるのではないか,と思ったが,『古語辞典』『大言海』には,「けつらく」では載っていない。現代の辞書(『広辞苑』)には,

かけおちること,
あるべきものがぬけていること,

と載る。あるいは,「欠落(かけおち)」が,「欠落(けつらく)」として,残ったのではないか。で,駆落ちに,恋人との逃避行の意味を振り分けたのではないか,と想像する。

因みに,「欠(缺)」の字について,

「欠(ケン)は,缺(けつ)とは別の字で,人が口をあけ,からだをくぼませて屈んださまで,くぼむ,掛けて足りないなどの意を含む。欲(腹がうつろで,物が欲しい)や,歌(体をかがめてうたう)に含まれる。缺は,『缶(ほどき,土器)+音符欠』。夬とは,コ型のくぼみに手をかけてえぐるさまで,抉(けつ えぐる)の原字。缺は,土器がコ型にかけて穴のあくことを示す。欠と缺は意味が似ているため混用され,欠を缺に代用するようになった」

とある。

参考文献;
三田村鳶魚『捕物の話』(Kindle版)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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2016年06月26日

一味同心


一味同心というと,どうも夜盗や泥棒といった連中が徒党を組む,というイメージになっている気がするが,本来は,

心を一つにして味方すること,

という意味(『広辞苑』)で,『太平記』の,「国々の大名一人も残さず,一味同心して」という用例から見ると,この中世を反映して,例の楠正成の「悪党」のイメージにつながる。「悪」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/433867377.html

で触れた。「一味」は,辞書(『広辞苑』)などを見ると,

仏説は時と所に応じて多様であるが,その本旨は同一であること,
事または理の平等であること,
味方すること。また,その人々。現代では,悪事の集団に言う,
漢方で薬種の一品,
独特の味わいがあること,
一つの味。また、副食物が一品であること,

等々と載るが,『大言海』は,「いちみ」として,二項を立て,

「味」系の,

食味の一様なること,
漢方医の薬種の一品,
涼風の,一趣味あること,

と,

「一味・一身」と当てて,

「ミは,身方の下略(一の手段,一の手)味(み)は,当て字なり」

と注記した,

同じ身方,一身同心とも云ふ,同盟,

という意味とを立てている。「一味」は,

「中国語の『一味(同一の味)』が語源です。転じて,同じ仲間の意を表します。」

という説(『語源辞典』)と,『語源由来辞典』,

http://gogen-allguide.com/i/ichimi.html

の,

「一味は仏教語で、時・所・人によって多様であるが、大海の味がどこでも同じであるよう に、本旨は同一で平等無差別であるといった教えであった。 その意味から、一味は心を 同じくして協力する意味や同志の意味となり、いつしか悪事を企む仲間の意味で用いられるようになった。」

とがあるが,「味」の字は,

「未は,細かいこずえの所を強調した象形文字で,『微妙』の『微』と同じく,細かい意を含む。味は『口+音符未』で,口で微妙に吟味する。」

という意味を出ず,ここからは,仲間という意味の「一身」の意味は出ない。ふつう考えられるのは,どうやら,仏語に当てたところから出たのではないか,と思う。本来は「味」の意で,仏典に当てて意味が広がったのではないか。

「同心」は,辞書(『広辞苑』)には,

同じ心,同意,
心を同じくすること,心を合わせること,
鎌倉・戦国時代,寄親(よりおや)に付属した寄子(よりこ)の下級武士,
江戸幕府の諸奉行所・所司代・城代・大番頭ろ書院番頭などの灰かに属し,与力の下にあって,庶務・警察の事を司った下級武士,

とある。別の辞書には,「どうじん」とも訓む,とある。

「鎌倉時代には加勢を意味した。室町時代には与力(よりき)とともに諸大名家に付属した武士をいったが、戦国時代になると一般化し、侍大将・足軽大将らの率いる諸隊に付属した軽格の武士をさすようになった。江戸幕府では、大番頭(おおばんがしら)、書院番頭、百人組頭、先手(さきて)頭、船手頭、京都所司代(しょしだい)、留守居(るすい)、町奉行(まちぶぎょう)、作事(さくじ)奉行、また遠国(おんごく)奉行などをはじめとする番方(ばんがた)・役方の諸職の支配に属し、馬上格の与力の指揮を受けた。徒歩(かち)の格で、30俵二人扶持(ぶち)高を基準とし、抱席(かかえせき)あるいは譜代(ふだい)席であった。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

こう見ると,「一味同心」は,中世の,

擬制的な親子関係,

から派生している,と見るのが妥当だろう。たんなる仲間,というのとは異なる。それは,

一揆,

という言葉とも,つながる。一揆は,百姓一揆,土一揆というイメージが強いが,辞書(『広辞苑』)を見ると,

道・方法を同じくすること,
心を同じくしてまとまること,
中世の土一揆,近世の百姓一揆などのように,支配者への抵抗・闘争などを目的とした農民の武装蜂起,

と意味が載るが,『大言海』は,「一揆」を二項別に立て,土一揆の「一揆」とは別の「一揆」について,

一致と云ふに同じ,
一身同心,
軍陣中の一手,一手に同族の兵,団結して其武装(いでたち),又は旗の紋を同じにしたるを,何一揆,某(それ)一揆と云ひき,

とあり,ほぼ一味同心と同義であるとわかる。「揆」の字は,『大言海』に,

揆,度(はかる)也,

とあるように,

「癸(キ)とは三方または四方に張り出てどちらでも突けるほこを描いた象形文字で,回転させて敵に引っ掻ける武器。または,回転させるコンパスのこと。始めから終わりまで一回転する意を含む。揆は,『手+音符癸』で,終始(つまり,一回転)を見わたしてはかって見積もること」

を意味する。

先聖後聖,その揆一なり,

と『孟子』にあるように,

揆(はかりごと・道・方法)を一つにするの意,

と見ることができる。だから,本来は,

「もとは一致協力する意味の言葉であるが,鎌倉幕府の滅亡後,うちつづく政治,社会の混乱に対処しようと,中小武士層が一味同心して集団行動をとり,一揆と称した。一揆は鎌倉時代の党が血縁的集団であったのと異なり,地縁的結合の要素が強かった。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)

ところから,

「一味同心という連帯の心性を共有する人々で構成された集団。日常性をこえた問題,通常の手段では解決が不可能であると考えられた問題を解決することを目的にして結成された,現実をこえた非日常的な集団が一揆である。一揆は,現実には個々ばらばらの利害の対立を示す社会的存在としての個人を,ある共通の目的達成のためにその関係を止揚して,一体化(一味同心)した。そのために一揆に参加する個々のメンバーが現実をこえた存在となることを目的とした誓約の儀式が必要であり,それが一味であった。」(『世界大百科事典 第2版』)

と,広がって使われたとみていい。「一味神水」は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%91%B3%E7%A5%9E%E6%B0%B4

に詳しいが,

「一味同心という一致団結した状態の集団(一揆)を結成する際に行われた集団誓約の儀式,作法。この儀式は,一揆に参加する人々が神社の境内に集まり,一味同心すること,またその誓約条項に違犯した場合いかなる神罰をこうむってもかまわない旨を記した起請文を作成し,全員が署名したのち,その起請文を焼いて灰にして,神に供えた水である神水に混ぜて,それを一同が回し飲みするのが正式の作法であった。」(『世界大百科事典』)

と,神前で誓約し「一味同心の」同志的結合を強めようとする,というものだったらしい。

一味徒党,

となると,大分意味合いが変わるが,当初,一揆にしろ,一味同心にしろ,自分でそう名乗っていた時の意味合いと,その集団に敵対するもの,幕府側や領主側が,その集団を呼称するのとでは,たぶん,意味が変わる。いま,

一揆,

一味同心,

は,自称(旗幟)なのか,他称(レッテル)なのかによって,意味は変ずる。自称には,

矜持,

があり,他称の場合は,

敵意(あるいは憎悪),

があり,貶める意味がある。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%91%B3%E7%A5%9E%E6%B0%B4
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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