2013年10月12日

伊勢参り



鎌田道隆『お伊勢参り』を読む。

楽しさと学びとを深く広く定着させた江戸時代の旅,その代表がお伊勢参りではなかったか…

という著者の言い分も分からないではないか,少し楽天的すぎる。

抜け参り

という言葉がある。奉公人が主人に断りなく,家出する。主婦も家出する。そして,

伊勢神宮とさえ言えば家出も許される,

しかも,雇い主側も,

伊勢までの往復の日数を数えてまってみた,

という社会的な風潮があった。しかし無一文でも,沿道の人の施行を受けて,多くは,無事に帰ってこられる,という社会的基盤もあった。逆に言うと,伊勢参りは,封建時代の身分にしばりつけられた自分のありようを,一瞬解き放つ,絶好の機会となっていた,ともいえる。

一般に旅費は,一日当たり,四百九文,一文を二十円から三十円とすると,一日おおよそ一万円,これは普通の奉公人レベルで賄える金額ではない。それも,伊勢参りという名目があると,施行で支えてもらえる。

江戸時代,日常的な参宮とは別に,大規模な集団的参宮が,おおよそ,六十年に一度起こっている。

慶安三年(1650)江戸の商人たちが中心。白装束。
宝永二年(1705)京都の子供たちが発端,360万人。
享保八年(1723)京都の花街の遊女たち。派手な衣装・装束。
明和八年(1771)京都周辺から始まり,お札降りで拡大。
文政十三年(1830)阿波から始まる。450万人。

その他にも地域的に群参があったとされるが,時代が下るにつれて,施行や接待が拡充し,明和の大阪施行では,豪商たちが,競って施行したり,阿波藩や郡山藩の領主層も,施行に乗り出している。

こうした施行の基盤があることが,より誰でもが参宮にかこつけて抜け参りに出やすくしている,ということはいえるだろう。

こういう領主層の好意的態度こそ,おがげまいりの性格を示しているという考え方もあるが,藤田俊雄は,こう言っている。

「おかげまいり」とむすびついた「おかげおどり」にたいして,伊賀名張や大和俵本では,藩役人が必死になってこれを抑圧しようとし,領民と激しく対立した…,

という事実を上げ,政治的な集団運動ではなかったにしろ,必ずしも,領主にとって,全く危険のないものではなく,

(大名による)施行がおこなわれた反面には,無言の大衆的圧力がはたらいていることを見なければならない…,

としている。たとえば阿波藩の施行には,前年ぬけ参り禁止をした反動とみることができる,と。それだけ,伊勢参りという行為のもつ,社会的プレッシャーというものが相当に大きかったと,見ることができる。

確かに,伊勢参りには,参宮という信仰心とともに,一面日常を脱出する娯楽の側面があることを否定しないが,反面で,身分社会の下層の人々,奉公人,農民の,そうしたくびきからの解放という側面があったことも事実なのである。

伊勢参りを止めだてした主人に神罰がくだったという話がいろいろ伝搬しているということは,雇い主側へも強烈なプレッシャーとなっており,伊勢参りと言いさえすれば,突然の出奔も許さざるを得ない風潮があり,それを物質面で支える施行のバックボーンもあった。

この背景を考えるとき,幕末の慶応に大流行した「ええじゃないか」は,このおがけまいりの延長線上にありながら,ほとんど伊勢参宮や信仰とは関係なく,爆発的なエネルギーの解放という側面が突出した現象であったことがよく見えてくる。おかげまいりの流れをただの信仰と娯楽だけにみると,ええじやないかは異質のものに見えるが,エネルギーの解放という側面で見れば,見事につながって見える。

その面で,著者は楽天的にも,この面を全く見逃しているように見える。既にそのことは,江戸時代最後の「おかげまいり」である文政のおかげまいりにその兆しはあったのである。それを全く言及しないのは,意図があるのでなければ,少し杜撰ではないか。

文政のおかげまいりに際しては,続いて,地域によって,おかげおどりが流行る。

誰いうともなく,踊らないものは一族病死し,家が焼失するという噂が立ち,揃いの緋紋羽のぶっさき羽織をつくり,明け六つに氏神の杜に勢ぞろいし,踊り騒ぐうちに村役人に交渉して,年貢一石につき三斗の減免を要求し,ついに一斗の減免に成功したという。

ここには,慶応の「ええじゃないか」に直接つらなる,時代の変化を見抜いた,したたかな民衆の解放感がほの見える。

参宮にかこつけて抜け参りする民衆に,その兆しがずっとあったのである。それは,

伊勢参り大神宮にもちょっと寄り

のしたたかさ,なのである。

参考文献;
鎌田道隆『お伊勢参り』(中公新書)
藤田俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(岩波新書)

今日のアイデア;
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2016年03月17日


累は,

かさね,

と訓む。「累」を検索すると,

松浦だるま『累 -かさね-』

という漫画が出るが,ここで言う,



は,怪談で有名な,

「累ヶ淵」

を指す。

かさね.jpg

累 『絵本百物語』竹原春泉画


辞書(『広辞苑』)には,こう載る。

「会談の女主人公。下総国羽生村の百姓与右衛門の妻。嫉妬深い醜婦で,夫に鬼怒川で殺害され,その怨念が一族に祟ったが,後に祐天上人の祈念で解脱したという。歌舞伎『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』『法懸松田成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)』,浄瑠璃『薫樹(めいぼく)累物語』,清元『色彩間苅豆(いろもようちよつとかりまめ)』,三遊亭円朝の『真景累ヶ淵』などで有名」

と。このほかに,宝井馬琴の読本『新累解脱物語』もある。

ちなみに,祐天とは,東横線の「祐天寺」駅のそれを指し,「祐天寺」は,晩年草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し,そこで没した地となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%90%E5%A4%A9

には,

「祐天は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、正徳元年(1711年)増上寺36世法主となり、大僧正に任じられた。晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した。」

とある。その霊験の一つが,「累」ということになる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AF%E3%83%B6%E6%B7%B5

には,「累」の謂れを,

「下総国岡田郡羽生村に、百姓・与右衛門(よえもん)と、その後妻・お杉の夫婦があった。お杉の連れ子である娘・助(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。そして助が邪魔になった与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名づけるが、累は助に生き写しであったことから助の祟りと村人は噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれた。
両親が相次いで亡くなり独りになった累は、病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病し、二代目与右衛門として婿に迎える。しかし谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。正保4年8月11日(1647年)、谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法で殺害した。
その後、谷五郎は幾人もの後妻を娶ったが、尽く死んでしまう。6人目の後妻・きよとの間にようやく菊(きく)という名の娘が生まれた。寛文12年1月(1672年)、菊に累の怨霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語り、供養を求めて菊の体を苦しめた。近隣の飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)遊獄庵に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、累の解脱に成功するが、再び菊に何者かがとり憑いた。祐天上人が問いただしたところ、助という子供の霊であった。古老の話から累と助の経緯が明らかになり、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて解脱させた。」

と,辞書(『広辞苑』)より,詳しく書く。寛文十二年(1672)のことである。これを最初に取り上げたのは,『古今犬著聞集』(1684年)で,

「祐天和尚がかさねが亡魂をたすくる事」

として採録されたのが始まりで,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/432575456.html

で書いたように,もともとは,祐天の法力の霊験を説話として,浄土教(祐天は浄土僧)の布宣のためのものであったもので,他に六話,化益譚の載る,その一つの話が,以降,さまざまに翻案されて広まっていったことになる。

仏教唱導者の近世説教書(勧化(かんげ)本)

の類例といっていい。堤邦彦氏は,その背景を,

「檀家制度をはじめとする幕府の宗教統制のもとで,近世社会に草の根のような浸透を果たした当時の仏教唱導は,通俗平易なるがゆえに,前代にもまして,衆庶の心に教義に基づく生き方や倫理観などの社会通念を定着させていった。とりわけ人間の霊魂が引き起こす妖異については,説教僧の説く死生観,冥府観の強い影響がみてとれる。死者の魂の行方をめぐる宗教観念は,もはやそれと分からぬ程に民衆の心意にすりこまれ,なかば生活化した状態となっていたわけである。成仏できない怨霊の噂咄が,ごく自然なかたちで人々の間をへめぐったことは,仏教と近世社会の日常的な親縁性に起因するといってもよかろう。」

と述べていた。神仏の霊験,利益,寺社の縁起由来,高僧俗伝など,

仏教説話の俗伝化,

のひとつである。その説話の目的と興味が,

「高僧の聖なる験力や幽霊済度といった『仏教説話』の常套表現を脱却して,怨む相手の血筋を根絶やしにするまで繰り返される亡婦の復讐劇に転換するさまを遠望することになるだろう。」

それは,怪異小説に脚色され,虚構文芸の表現形式を創り出すところへとつながっていくことになる。

累の悲劇は,ちょっとした「稗史」(中国で稗官(はいかん)が民間から集めて記録した小説風の歴史書。また、正史に対して、民間の歴史書。転じて、作り物語)が,物語へと昇華されていくプロセスを垣間見させてくれるようである。稗史,つまり小説については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/432692200.html

で触れた。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AF%E3%83%B6%E6%B7%B5
堤邦彦『江戸の怪異譚―地下水脈の系譜』(ぺりかん社)

ホームページ;
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2016年03月24日

茶番


茶番について,三田村鳶魚は,

「宝暦以来,芝居の方から出たことで,役者の身振りや芝居の真似をする」

ということを意味する,という。辞書(『広辞苑』)によると,

客のために茶を点てて出す役,
茶番狂言または口上茶番の略。
馬鹿らしい,底の見えすいた振る舞い,茶番劇,

と意味が載る。因みに,茶番狂言は,

立茶番,

に同じとあり,立茶番は,

かつらや衣装をつけて芝居をもじった所作をする演芸の一種。茶番狂言,

とある。茶番師は,

茶番狂言を演じるのを業とする者,
人をだます名人,

とある。別の辞書を見ると,

「こっけいな即興寸劇。江戸歌舞伎の楽屋内で発生し、18世紀中ごろ一般に広まった。口上茶番と立ち茶番とがある」

というのが載る。あるいは,『大辞林』には,

「〔江戸時代,芝居の楽屋で茶番の下回りなどが始めたからという〕 手近な物などを用いて行う滑稽な寸劇や話芸。 → 立茶番 ・ 口上(こうじよう)茶番 ・ 俄(にわか)」

と載る。「口上茶番」は,

身振りを入れず,座ったまま、せりふだけで演じる滑稽を演じるもの,

とあり,「立茶番」が,上記のように,かつらや衣装を着ける,

「かつら・衣装をつけ,化粧をして芝居をもじったこっけいなしぐさをする素人演芸」

となる。「俄」は,辞書(『広辞苑』)に,

「俄狂言の略。素人が座敷・街頭で行った即興の滑稽寸劇で,のちに寄席などで興業されたもの。もと京の島原で始まり,江戸吉原にも移された。明治以後,改良俄・新聞俄・大阪俄といわれたものから喜劇劇団が生まれた。地方では,博多俄が名高い。茶番狂言。仁輪加。」

とある。俄については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84

に詳しいが,どうも,いまは,俄も茶番もひとくくりにされているが,そもそも発祥は違うのではないか。

端は,「素人」と言いつつ,いつの間にか「茶番師」という業がある,というのは,ストリートミュージシャンがメジャーデビューするような感じなのだろうか。

「茶番」に戻すと,

http://whatimi.blog135.fc2.com/blog-entry-392.html

には,

「江戸時代に歌舞伎などの芝居の楽屋で、茶番(下働き)が下手で馬鹿馬鹿しい短い劇や話を始めたことから、
茶番=下手な芝居、馬鹿げた芝居、という意味になったようです。『茶番劇』というのは、茶番がやるような下手な劇という意味です。現代では本当の芝居ではなく、結末が分かりきっているような馬鹿馬鹿しい話し合いなどを茶番劇と言います。」

とある。確かに,『古語辞典』には,

「近世後期,素人狂言の一種。歌舞伎芝居の楽屋の茶の番に当たった下級の役者が,座興を出す風習が,天明頃,民間にも広まったもので,手近な材料を使って仕方または手振りで,地口のような道化たことを演じたもの。京阪の俄と同類」

とある。「仕方」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/422720655.html

で触れた。「地口」とは,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%8F%A3

に詳しいが,辞書(『広辞苑』)には,

「俚諺・俗語などに同音または声音の似通った別の語をあてて,違った意味をあらわす洒落,語呂合わせ」

とあり,まあ,いまふうに言うと,ダジャレということになる。

舌切り雀→着た切り雀,

といった類である。『大言海』に,「茶番」について,山東京山『蜘蛛の絲巻』(弘化)から,

「天明元年の十二月,ある所なる勢家にて,年忘れとて茶番ということありしに,云々,茶番の題は,鬼に金棒,二階から目薬,猫の尻へ木槌など云ふ卑俗の諺なり」

を引く。お題が,諺から与えられて,何かを演ずる,ということらしい,という「茶番」の原風景がうかがえる挿話になっている。因みに,「茶番狂言」については,『大言海』は,

「江戸にて,芝居の役者共,顔見世の頃,楽屋にて,茶番,餅番,酒番などとて,其番にあたりし者より饗することあり,色々たはれ(戯)たる趣向を尽くす。此時茶番に当たりし役者の,工夫思ひつきに,景物を出してせしを,云いひなるべし。略して,ちゃばん,にはか(京都)」

と,「茶番」の出自が明らかになっている。そこに,大田覃「俗耳鼓吹」(天明)から,

「俄と茶番とは,似て非なるもの也」

というのを引用する。俄が遊郭の,楽しみなら,茶番は,いわば,内々の素人芸,あるいは,落語の前座の芸比べといった雰囲気で,俄が,「喜劇劇団」になっていくのに対して,茶番は,実体を失い,

茶番劇,

と,出来レースというか,見えすいた小芝居,と喩えられる中に,かろうじて生きている,という感じである。

因みに,『語源由来辞典』は,

http://gogen-allguide.com/ti/chabangeki.html

「『茶番』は『茶番狂言』の下略で、江戸末期に歌舞伎から流行した、下手な役者が手近な 物を用いて滑稽な寸劇や話芸を演じるもののこと。 本来、茶番はお茶の用意や給仕をする者のことであるが、楽屋でお茶を給仕していた大部屋の役者が、余興で茶菓子などをつかいオチにしたことから,この芝居を『茶番狂言』と呼ばれるようになった。此の寸劇では,オチに使ったものを,客に無料で配っていたため,見物客の中には,寸劇ではなく,くばられる品物を目当てに訪れる者もいたといわれる。」

と書く。これも,なにがしか,その当時の雰囲気を伝えている。

参考文献;
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)


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2016年03月26日

江戸前


江戸前とは,辞書(『広辞苑』)によると,

「芝・品川など『江戸前面の海』の意で,ここで捕れる魚を江戸前産として賞味したのにはじまる。鰻は浅草川・深川産のものをさす」

と注記して,

江戸湾付近で捕れる魚類の称,
江戸風,

に二つの意味を載せる。しかし,さまざまの解釈があるようで,ざっとひろっても,

『ブリタニカ国際大百科事典 』は,

「江戸すなわち東京風の料理をいう。江戸の近海でとれた魚を江戸前といい,鮮度の高いことを自慢したところから出た。のちにこれが江戸風の料理の意に転じた。」

『デジタル大辞泉』

1 《江戸の前の海の意》江戸の近海。特に、芝・品川付近の海をさす。
2 江戸湾(東京湾)でとれる新鮮な魚類。銚子・九十九里浜産と区別していった。
3 人の性質や食物の風味などが江戸の流儀であること。江戸風。江戸好み。

『百科事典マイペディア』

「もとは〈江戸の前面の海〉の意で,そこで捕れる新鮮な魚をいった。転じて生きのいい江戸風の事物一般をもさすようになり,とりわけ浅草川や深川などで捕れるウナギに〈江戸前〉の名をあてていた。」

『世界大百科事典 第2版』

「江戸の目の前の場所の意で,ふつう東京湾内奥のその海でとれた新鮮な魚類をいい,転じて,生きのよい江戸風の事物をいうようになった。現在では握りずしの種の鮮度を誇示する語として,もっぱらすし屋がこれを用いている。しかし,《物類称呼》(1775)には〈江戸にては,浅草川,深川辺の産を江戸前とよびて賞す,他所より出すを旅うなぎと云〉とあり,《江戸買物独案内》(1824)を見ると,江戸前,江戸名物などととなえているのはすべてウナギ屋で,すし屋はほとんどが御膳と称している。」

『日本大百科全書(ニッポニカ)』

「このことばの使い方は広く、時代により内容も異なる。江戸中期から使われていることばであるが、江戸の海の魚貝類に対しての特称としての用い方よりは、ウナギに対して用いたほうが古く、また江戸後期でもだいたいそのほうに重点があった。宝暦(ほうれき)年間(1751~64)に出された『風流志道軒伝(しどうけんでん)』には、『厭離(えんり)江戸前大樺焼(おおかばやき)』ということばが出ている。また江戸末期に、京都の文人であり、芝居の狂言作者でもある西沢一鳳(いっぽう)が、江戸にきて、江戸の人と話をしていたおり、江戸前ということばが出た。関西人の一鳳にはその場所が明らかでないので問いただすと、江戸前とは大川の西、お城の東という説明をされたという。いまの築地(つきじ)から鉄砲洲(てっぽうず)にかけての地区であり、そこでとれたウナギを江戸前といっていたのである。当時ウナギの蒲焼(かばや)き屋が現在の銀座4丁目付近に多かったのは、ウナギの漁場が近かったためであろう。江戸時代の錦絵(にしきえ)に出ている蒲焼き屋の有名店には、行灯(あんどん)や看板に単に『江戸前』としか書いてないが、一般店は江戸前と肩書きし、大蒲焼きと書いてある。要するに江戸時代末のころでも、江戸前とはウナギの意としての用い方に比重が大きくかかっていたとみられる。
 また1801年(享和1)に刊行された『比翼衆』には『かれいとくろだいがござります』『そりゃ江戸前だろう』ということばが出てくるように、芝浦、品川あたりの江戸の海の魚貝類を江戸前といったこともある。なお、当時江戸前のことばの意味は、味のいい意も含むが、鮮度のいい意も多く含まれ、江戸前のウナギに対して、埼玉県草加(そうか)あたりから持ってくるものを「旅の物」と称していた。江戸前のことばは明治以降あまり用いられなくなったが、大正の中ごろすし屋が東京近海の魚を用いている意で使い始め、ふたたび使われてきた。その表現する海域は、東京中心に、比較的広い範囲の意になっている。』

因みに,三田村鳶魚は,『江戸ッ子』で,江戸前を,もっと具体的に,

「両国から永代までの間,お城の前面」

と言い切り,文化・文政頃に,本所・深川まではいる,という言い方をしている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%89%8D

では,

「江戸前の海は、江戸の前の海の意で、江戸の沿岸の品川沖から葛西沖あたりまでの海域を指した。江戸前は、海域ではなく漁場を示す言葉であり、江戸城の前の漁場のことで江戸時代に存在していた『江戸前島』もしくは『佃島』周辺を指していた。」

とする。

どうやら,鰻のことが「江戸前」の中心になっているが,三田村鳶魚は,

魚河岸.jpg

魚河岸(「江戸名所図会」)


「江戸前鰺,中(ちう)ぶくろと云,随一の名産なり,惣じて鯛,平目にかぎらず,江戸前にて漁(あさ)るを前の魚と称して,諸魚共に佳品也」

と,『続江戸砂子』を引用し,

「この『江戸前』という言葉は,鰺からきているので,『武(む)玉川』にも,
江戸前売りの江戸と云ふ面
というのがある。この『江戸前売』というのが『江戸前』という言葉の早いもののように思われます。それがやがて鰻になって,江戸前鰻といって,江戸の名物になっている。しかしこれは江戸前で捕れるんじゃない。千住や尾久の方で捕れるのを,江戸前鰻といっている。そんなら地回り鰻と言いそうなものだが,江戸前鰻で済ましている。そのほかから来るのは,旅鰻という。」

と,「ジャポニカ」とは異説を立てている。どうやら,三田村鳶魚に軍配が上がりそうにみえる。鳶魚は,こう付け加えているのである。

「江戸前ということを気の利いたことのように思っているが,そうじゃない。芝浦で捕れたということなのです。これも実は芝浦で捕れはしないが,それを扱うのが新場なので,新場というものの景気は,江戸前の魚を商うということが何よりであった。」

つまり,「江戸前」はブランドなのである。その意味では,

http://homepage3.nifty.com/shokubun/edomae.html

で,

「『江戸前面の海』のほうですが、たとえば千葉県の銚子から利根川を昇り、関宿(せきやど)廻りで江戸川へ。そこから新川、小名木川を経て日本橋まで約200キロ、三日はかかります。もっと速いルートもありましたが、やはり刺身は無理な距離。保存魚はともかく,生ものは駄目ですね。そこで、人口の増大につれ手近かな江戸前の魚が重要になってきます。売るにしても食べるにしても、冬と夏で、また海からの距離で違ってきます。魚方面の江戸前とは、場所や海の名前ではなく『鮮魚流通の時間・距離のこと』というのが、今回の筆者の主張なのであります。」

という主張は,意味があるのかもしれない。

因みに,新場は,

http://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=200

に,

「現在の日本橋室町や本町あたりに魚河岸がありました。江戸湾など近海で獲られた鮮魚がここに集まり、棒手振(ぼてふり)などを通して江戸の人々に食されたのです。本船町・安針町・長浜町といった日本橋から江戸橋までの日本橋川北岸一帯が日本橋魚市で、南岸の四日市町には塩魚や干魚を扱う塩魚問屋があり、本材木町には『新場』とよばれる魚市場がありました。その賑わいは江戸の名所として多くの浮世絵に取り上げられています。」

とあるが,鳶魚は,

本小田原町,本船町,按針町,長濱町,室町にわたっていたのが魚河岸,

で,寛永期からここにあった。新場(しんば)というのは,

「延宝年中に相模の浜方と申し合って,京都商人が資本を出し,それで木材木町の方へ別れた」

もので,小田原町は,房総二カ国と,もう少し遠海もの,新場は,豆相(伊豆・相模)二ヵ国と近海ものを扱う。つまり,すべてが,「江戸前」ではない。だから,

江戸前,

は,

近海と生きの良さ,

を標榜するブランドなのである。鳶魚が,

「実は芝浦で捕れはしないが,それを扱うのが新場なので,新場というものの景気は,江戸前の魚を商うということが何よりであった。」

とは,その意味である。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%89%8D
http://homepage3.nifty.com/shokubun/edomae.html
http://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=200
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)



ホームページ;
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今日のアイデア;
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2016年03月28日

調子


よく,役者の三拍子,といって,

一調子,
二ふり,
三男,

というらしい(「一声二顔三姿」あるいは、「一声二振三男」とも)。調子とは,

口跡,

である。口跡については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/404019588.html

で触れた。多少重なるかもしれないが,辞書(『広辞苑』)には,

言葉遣い,ものの言い方,
歌舞伎で,俳優の台詞回し,またその声色,

と載る。一般的には,後者のコトのように思う。『世界大百科事典 第2版』には,

「俳優の音声演技の一要素。歌舞伎俳優の発声法,せりふ回し,エロキューションなどのせりふ術と,声音,高低などの声の質の両面をいう。歌舞伎の演技は,おもにせりふとしぐさから成り立つが,なかでも,古来から〈一声二振三男〉といわれるほど口跡の良さは,役者の質を評価する重要な要素である。口跡は役者の財産という意識がそこにある。」

とある。因みに,

エロキューション(elocution)

とは,

(聴衆に対する)話(演説・朗読)の仕方,語り口,台詞回し,演説法,雄弁術,朗読法,

の意で,語源は,ラテン語「表現」の意だという。まさに,日本語で言う,

滑舌,

である。滑舌とは,

http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%BB%91%E8%88%8C

に,

「人間が言葉をしゃべるとき、人間がその声を出す時、相手に理解してもらうために舌や顎や口をうまく動かしてはっきりとした発音をする。この動作が『滑舌』である。」

当然,口跡というとき,

発声法,せりふ回し,エロキューションなどのせりふ術
と,
声色、声の高さ、声の低さという基本的な声の質

の両面を指している。歌舞伎のせりふには,

「河竹黙阿弥作品に代表される七五調の音楽のような美しい名せりふや、『ツラネ』といって荒事芸などで主人公が花道で延々と(吉例などを)述べる長ぜりふ、2人以上の役者が交互に自分のせりふを喋り最後デュエットのように全員で声を合わせて終わる「割(わり)ぜりふ」、更には数人の役者がまるで連歌の会を催しているように順々にあとを続ける「渡りぜりふ」など、場面場面に応じた様々なせりふ術があります。」

というので,台詞回しはいのちと言ってもいい。もっとも,三田村鳶魚に言わせると,

「一体長いせりふを聞く芝居は二代目団十郎以来」

というのだから,言ってみると,自縄自縛の感がなくもない。例の,

俳優や声優などの養成所,或いはアナウンサーの研修等で暗唱,発声練習や滑舌の練習に使われている,

外郎売(ういろううり),

というのがある。全文は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E9%83%8E%E5%A3%B2

にあるが,たとえば,

拙者親方と申すは、お立ち会いの中に、 御存知のお方も御座りましょうが、 御江戸を発って二十里上方、 相州小田原一色町をお過ぎなされて、 青物町を登りへおいでなさるれば、 欄干橋虎屋藤衛門、 只今は剃髪致して、円斎となのりまする。 元朝より大晦日まで、 お手に入れまする此の薬は、 昔ちんの国の唐人、 外郎という人、我が朝へ来たり、 帝へ参内の折から、この薬を深く籠め置き、用ゆる時は一粒ずつ、 冠のすき間より取り出す。 依ってその名を帝より、 とうちんこうと賜る。 即ち文字には、 「頂き、透く、香い」と書いて 「とうちんこう」と申す。

というで出しである。僕も,ボイストレーニングだか,朗読だかで,チャレンジさせられたことがある。

これは,劇中に出てくる外郎売の長科白で,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E9%83%8E%E5%A3%B2

に,

「外郎売(ういろううり)は、享保3年(1718年)正月、江戸森田座の『若緑勢曾我』(わかみどり いきおい そが)で二代目市川團十郎によって初演された歌舞伎十八番の一つである。 現在は十二代目團十郎が復活させたもの(野口達二脚本)が上演されている。」

とある。まさに,役者の台詞回しの見せ場を,団十郎自らが作り上げていった,というべきものなのかもしれない。

この台詞の口上は,

啖呵,

啖呵売,

ひいては寅さんのような香具師の口上につながっていく。このことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/435717090.html?1459023472

で触れた。

団十郎.jpg

九代目市川團十郎の虎屋東吉(鳥居忠清画)


参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E9%83%8E%E5%A3%B2
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)
http://ohanashi.edo-jidai.com/kabuki/html/ess/ess073.html


ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2016年03月31日

勇み


勇肌や勇み足の,

勇み,

である。辞書(『広辞苑』)には,

勇気,気力,
勇ましい手柄,
任侠の気概に富み,言動の異性のいいこと,おとこだて,

とある。『古語辞典』には,

(戦いや争いに臨んで)気持ちが奮い立つ,

とある。「勇む」の語源は,

「イキ(息・気)+スサム(進む)」の音韻変化,

とある。

心が奮い立ち,勢いづく,

という意味である。『大言海』も,「勇む」について,

「息進(いきすさ)むの約略なるべし」

と書き,

気噴(いきふ)く,いぶく,憤(いくく)む,息含(いきくく)むの約略,

と例を挙げる。

漢字の「勇」は,

「甬(ヨウ)は『人+音符用』からなり,用は突き通す意を含む。足でとんと突き通すように足踏みするのを甬・踊という。通と縁が近い。勇は『力+音符用』で,力があふれ足踏みして奮い立つ意。また,衝(まともに直進して突き当たる)とも縁が近い。」

とある。しかし,そのニュアンスを感じ取るには,『大言海』がいい。

「市人の,気概(いきはり)を衒(てら)ふ者。其の気立てを,いさみ肌,きほいはだ,と云ふ。」

気概を,

いきはり,

と訓ませ,意気地を張る,というニュアンスにし,それを衒う,つまり,

見せびらかす,ひけらかす,

という含意を持たせている。

しかし,そういうのを喝采するひとがいるから,ますますいきがる,ということになる。

三田村鳶魚は,神田祭の唄を紹介し,

「色のよくならこつちでも、常からぬしのあだな気を、しつてゐながら女房に、成つてみたいのよくがでゝ、神や仏 を たのまずに、義理もへちまのかはばをり、親分さんのお世話にて、わたりもつけてこれからは、世間かまはず人さんの、まへはゞからず引よせて、たのしむうちに又ほか へ、それからやみと口ぐせに。」

「まつりのなア、はでな若いしゆが、いさみにいさみ、身なりをそろへて、やれはやせ、それはやせ、花だしてこまへけいごに行列、よんやさ、男だてじやのやれこれさ、たて ひきじやのと、いふちやわたしをこまらせる。」

祭の鯔背な若い衆に惚れて飛び込んだ女性を唄ったものだという。古くは,

備後福山十万石の水野日向守勝成の三男,三千石の旗本出雲守成貞(二代将軍秀忠のお小姓づとめをして三千石貰っ た)が,いわゆる旗本奴を気取り,

「頭は糸鬢、鎖帷子の着込み、棕櫚柄の大小をさし、着物を短く短く着て、脛が五六寸も出ている」

という奴風で歩いているのを,蜂須賀阿波守至鎮(よししげ)の女がその男振りに惚れ込んで、身分違いを越えて,無理に嫁に行った,という。

もっと時代が下ると,鳶魚は,

「時勢がずっと下って元文頃になりますと、旗本衆の妻や娘の、家出をしたり、駆落をしたりする者が多くなっている。 大昔の寛永・正保の頃ですら、蜂須賀蜂須賀侯の女のような人があったのですから、元文期に旗本衆の女達の様子がそうなったのは、思い遣られる。行儀の面倒な武家でさえ、こんなふうである。まして身柄のない民間の話になれば、もっと片づきのいいのは知れたことです。」

と書く。それが,上述の神田祭の唄につながる。河竹黙阿弥が,芝居で,

「是もみんな其方の身のすきずき、お嬢さんと言はれるのが、ちいさい時から、わたしは嫌ひ、油でかためた高髷も、つぶしの島田に結ひたい願ひ、御殿模様の文字入りより、二の字繋ぎ 褞袍が着たく、御新造さんや奥さんと、呼ばれるよりも家のやつ、家の人にといひたさに、親をば捨てゝ勘当受け、おまへの女房になつたわたし。」

と,心境を語らせている。しかし,である。その勇みを煽ったのは,芝居である,と鳶魚は言う。たとえば,役者の見立絵がある。

「見立絵というのは無論役者です。役者の顔や役者の身体を持ち込む。手許にある弘化期のもので、三番物の『勇の寿』という纏持ちを中心にしたものがあります。 一枚絵の方では『勇商人』という名がついていて、水菓子売り・俵売り・糸つり人形売り・稗蒔売り・葛餅売り・葱売り・水売り・鮨売り・鰹売り・五月人形売り・読売売りなんていうものを画いたのがある。これらは、いずれも実物との距離には無頓着で、いかにも綺麗に心持よく画き出されている。」

江戸っ子が,芝居を通して作りだされた経緯については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/435717090.html

の「啖呵」で触れた。

「江戸ッ子というものが見物されているのである。見物されて喝采される。その喝采につれて踊っているようなものなのであります。」

と,鳶魚は言うが,女子に持て囃されて,ますます勇み立つ,という心情はわからないでもない。平和な時代だったということではあるまいか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
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2016年04月25日

そば


落語に有名な,「ときそば」がある。

http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2004/11/post_13.html

夜鷹そばとも呼ばれた屋台の二八そば屋で,

「九つ時(午前零時),蕎麦を食べ終わった男が,16文の料金を支払う。ここで,「おい、親父。生憎と、細けえ銭っきゃ持ってねえんだ。落としちゃいけねえ、手え出してくれ」と言って、主人の掌に1文を一枚一枚数えながら、テンポ良く乗せていく。「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(やあ)」と数えたところで、「今何時(なんどき)でい!」と時刻を尋ねる。主人が「へい、九(ここの)つでい」と応えると間髪入れずに「十(とう)、十一、十二、十三、十四、十五、十六、御馳走様」と続けて16文を数え上げ、すぐさま店を去る。」

と,代金の1文をごまかしたのである。

屋台そば.jpg

江戸後期の「風鈴蕎麦」の屋台(深川江戸資料館)


「そば」の歴史は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6

に詳しいが,「そば」は,

蕎麦,

と当てる。古名は,「そばむぎ」で,その略とされる。語源は,

「そば(稜・カド)」

で,とがったカド(稜角)がある三角形の実の穀物が語源とされる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/so/soba_mugi.html

は,

「『ソバムギ』を略した語で、『ソバ』は『わき』や『かたわら』を意味する『側・傍』ではなく、『とがったもの』『物のかど』を意味する『稜』に由来する。 これは、植物のソバの実が三角 卵形で突起状になっていることからである。 実は乾くと黒褐色になることから、『和名抄』では『ソバ』を『クロムギ』と称している。食品としての『そば』は、そば粉に熱湯を加えてかき混ぜた『ソバガキ』が、江戸時代以前には一般的であった。江戸時代以降、現在のように細く切られるようになり、当初は『ソバギリ』と呼ばれた。」

としている。

http://gogen-allguide.com/so/soba_mugi.html

には,

「日本語学者の杉本つとむによれば、そばの実は、形が三つに分かれていて、それぞれの形が山の稜線を思わせる。つまり谷を挟んで三つの山がそばだっているように見える。そこでそばだった麦と言う意味で、そば麦と名づけられたのだという。」

とあって,よりその意味が理解できる。

『由来・語源辞典』には,

「『蕎麦』は漢名からの当て字。」

とある。さて,その蕎麦,というと,落語にもある。

二八蕎麦,

であるが,辞書(『広辞苑』)には,二説載る。

蕎麦粉八,うどん粉二の割合で打った蕎麦。寛文(1661~1673)頃定式化したという,
(天保頃(1830~1843),もり・かけ一杯の値が16文だったことから)安価な蕎麦,

これは,他の辞書もおおむね同じで,『古語辞典』も『大言海』も両説を載せる。

蕎麦.jpg


https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E5%85%AB%E8%95%8E%E9%BA%A6-592572

の,『和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典』によると,

「そば粉を8に対し、つなぎの小麦粉を2の割合で打ったそば。古く、慶応年間(1865~1868)以前には、2×8=16で、1杯16文のそばをいったとされる。時代が下って小麦粉を混ぜて作ったそばに質の低下したものが増えると、『二八そば』はそのような安価なそばの代名詞のように用いられ、高級店ではそば粉だけで打つ『生そば』を看板とした。こんにちでは単に配合をいい、そばの質や店の格とは無関係に用いる。」

と,経緯を説く。

基本,割合か,値段か,の二説だが,

http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/11-4.html

は,「江戸時代のそばの値段」と「そば粉とつなぎの割合」について詳しく見た結果,

「『十六文価格説』はそばの値段の推移という観点からの矛盾と、『配合割合説』は計量の歴史である枡(ます)の時代の視点にたっていないための説得力に欠ける部分に加え、うどん粉だけの筈の二八うどん、更には二六にうめんもあって配合割合では説明できない矛盾に突き当たってしまう。 すなわち、どちらの説を採っても『二八そば』の語源にはなりえないのである。」

として,

「結論から言うと、『二八そば』という言葉は『二八』または『仁八』という名前の人が自分の売り出すそばに付けた名目であった。いうまでもなくこの時代は、そばもうどんも同じ扱いで、値段も同じだからそばの名目としての『二八』はうどんにも共通する。その彼はそば切りの名手であり、打ったそばは当時の評判になって『にはちの蕎麦』、『二八そば』として『二八』がひとつの言葉・呼称として確立していったのであろう。」

と,とんでも仮説を持ち出す。計り方はともかく,値段については,

「そばの値段が十六文で定着してからのニハチ十六モン『九九・価格』の期間は長く続いた。ところが幕末以降の物価高騰で一気に五十文となり、明治には五厘から再出発することになってニハチの根拠が無くなってしまう。それで一時期はしかたなく単に『二八そば』という呼称だけが習慣として残ることになる。
 それがふたたび、『二八』はそばの品質とか差別化をあらわす使われかたとして再出現し、さらに高品質イメージに加えて、『打つ側も味わう側も』ちょうど頃合いの配合比率であったところから、『粉の配合割合』を表す言葉として、すなわち『二八の割合』という新しい解釈が生まれて現在に至ったのである。」

と言っているように,長く,十六文時代が続いたのであって,値段が変わっていないと,言っているのである。今日の使われ方は,意味が質に変ったのかもしれないが,もともとの「二八蕎麦」の語源とは関係ない。それで思い出すのは,三田村鳶魚の説である。

「玉子つなぎ・芋つなぎなんていうのを、格別に言い立てて売物にしていたのが、それを看板にしなくなったのは、天保以後だと思います。一体、一八・二八・三八などというということが、蕎麦と饂飩との配合の加減をいったものだという説がある。けれども、芋つなぎ・卵つなぎということから考えてみると、一方には、生蕎麦といって、蕎麦ばかりで拵えるということを呼びものにする。それも田舎蕎麦は生蕎麦であるということを標榜するために、手打蕎麦というのを名としてさえいる。もしつなぎに饂飩粉を入れる分量を名称に現すとしたならば、それだけ蕎麦が悪い ことになる。正味の少ないことを看板にするようなもので、これはおかしい。だからだから昔から、二八といえば十六文、三八といえば二十四文というふうに、蕎麦の代価だと解している。どうもこの方がよさそうに思わ れる。」

ほぼ幕末まで値段が変わっていないのなら,鳶魚の実感には意味が出る。まして,

「蕎麦粉は『引抜』といって、色が白くなりましたのは、寛政元年の秋からで、それまでは蕎麦というものは、少し黄色味を帯びたものと思っていたのです。これ等のものは、江戸ッ子なんていう連中が食うには、少し銭が高い。けれども、毎月二度や三度は物食いに出るというような風習をもっていた江戸ッ子は、奢りに行くと称して、随分五十文、七十 文の蕎麦を食ったろうと思われる。 安い二八や三八の方はいうまでもない。その時分の労銀としては、三百か四百しか取れませんが、火事があった、嵐があったというようなことがあれば、日雇取連中は、二倍、三倍、甚しきは五倍も七倍もの賃銀を取った。 …江戸ッ子連中は、時たま、どうかして余分な銭でも取れれば、じきに何か食ってしまう。自宅では食えないものを食いに出掛ける。奢りにゆく風習は、彼の日常を存分に説明しています。あるいはまた下駄のいいのを穿く、手拭に銭をかける、というふうがあった。」

とすれば,日常は,「二八蕎麦」は,まさに落語の江戸ッ子の日頃の食い物なのである。落語の登場人物の現実味が増すというものである。因みに,鳶魚の言う,

江戸ッ子,

とは,裏店(商売の出来ない場所)に住む,

「日雇取・土方・大工・左官 などの手間取・棒手振、そんな 手合で、大工・左官でも棟梁といわれるような人、鳶の者でも頭になった人は、小商人のいる横町とか、新道とかいうところに住んでおりますから、裏店住居ではない。」

表店に住むのが,町人である。その辺りは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/436936674.html?1461182711

で触れた。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6
http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/11-4.html
三田村鳶魚『江戸ッ子』 [Kindle版]



ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2016年05月08日


店は,

見世,

とも当てる。辞書(『広辞苑』)には,

「みせだな」の略,

と注記して,

商品を並べておいて売るところ,
店さき,商品などを積んで陳列してある場所,
妓楼で,道路に面して格子構えなどして遊女がいて遊客を誘う座敷,張見世,

という意味が並ぶ。『大言海』は,「見世」を「見世棚」の略として,「見世棚(見世店・店棚)」を項を別に立て,こう書く。

「(為見棚の義)商家の前の部分に,棚などを設け,人に見せむが為に,貨物を列ね置く處。常に,下略して,見世と云ひ,又上略して,店(たな)とも云ふ。現代,店(みせ)と云へば,商家の前の部分にて,貨物を並べ,又は,店員などの居る所と称し,貨物を列ね置く店棚と区別す。」

「店」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/401709935.html

で触れたことがある。「店」というのは,語源は,「見せ」。

「ミセともタナ(棚)とも言う。商店のことを『みせ』というのは,『見せる』の連用形『見せ』なのです。大阪では店のことをオタナともいいます。オ+棚は,つまり,タナに並べて,ミセる,商店です。いまでも,お店・おたなは,商人の世界では生きて使われています。」

とある。「店」という漢字は,

「占は,『卜(うらない)+口』。この口は,口ではなく,ある物ゃある場所を示す記号。卜をして,一つのものや場所を選び決めること。店は『广(ゲン,家)+音符占』で,行商人とは違い,一つ場所を決めて家を構えた意を含む」

で,決まった場所に建物を構えて物を売る家,の意味。

たな,見世の商品だな(「棚卸」),
たな,貸家(「店子)),

という使い方は,我が国だけらしい。ついでに,「世(丗)」の字は,会意文字で,

「十の字を三つ並べて,その一つの縦棒を横に引きのばし,三十年間にわたり期間が延びることを示し,長く伸びた期間をあらわす。」

とあり,「見せ」の字から,「見世」に当て,中国由来の「店」に当てたのには,かなり意味があることが想像される。

「店(見世)」が,「見せ」が語源らしいことは,『古語辞典』の,

「見せ」

の項を見ると,想像がつく。

見るようにさせる。物事や態度などを人目に入るようにする,
相手に姿を見せる,

という意味があるので,

「見せ棚」

の意味が目に見えるようだ。

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/mi/mise.html

も,

「見世棚(みせだな)」の下略で、店は『見世』とも書く。見世棚は商品を並べて客に見せる 棚の意味に由来するため、動詞『見す(見せる)』の名詞形『見せ』といえる。『見世棚』の 上略語『棚(たな)』も、『店』と同じ意味で用いられ、『店』を『たな』と読ませることもある。江戸時代には、遊郭で遊女が客を誘うための道路に面した格子構えの部屋も『見世』や『張り見世』といい、中から客を引く下級の遊女を『見世女郎』などと言った。漢字の『店』は、一つの場所に家を構えるといった意味を含む文字で、市の露店・行商人などと区別するために用いられたと考えられる。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%97

には,「店舗」の由来が詳しい。

「『店舗』(あるいは単に『店』)という言葉は、律令制度の伝来とともに中国から日本へと入ってきた言葉である。しかし、漢字における本来の意味は、都市に存在した邸店(今日で言うところの宿泊施設。倉庫施設を併せ持つ例が多かった)と肆舗(しほ、今日で言う商業施設に該当)をあわせて称した物であった(当時、肆舗が集まる市場の近くに商用の客のための邸店が多く置かれていたために、これらを一括して扱う事が多かった)。ところが、奈良時代の日本では、民間人が旅行をする事が殆どなく、従って邸店に該当するものが存在しなかった。このため、日本に入ってきた時にその意味を正確に把握できず、店舗=「商売を行う施設」と解釈されて受容され、それが商業施設を表す日本語として用いられるようになった(ただし、中唐以後には邸店が取引の仲介に入る例もあり、それを斟酌したものであるという見方もある)。今日、『飯店』と言う同じ言葉であるにも関わらず、日本では(中華料理を出す)『食堂』、中国では『ホテル』(元は『食事を出す邸店』の意味、『酒店』も同様の意味)と違うものを指すのにはこうした背景がある。」

さらに,日本語における「みせ」の語源についても,

「『見世棚(みせだな)』に由来する。『見世棚』とは商品を陳列する棚のことであり、鎌倉末期より言葉自体は存在し、台を高くして『見せる』ことから「見世」となり、室町期に至って、『店』の字が当てられるようになった。中世日本において登場した見世棚による商法は、当時の中国・朝鮮には見られない商法であり、当時の朝鮮通信使の報告では、魚肉といった食べ物まで地面に置いて売る我が国と違い、塵が積もらず、見やすく、見習いたい(衛生上、商業上でよい)文化との旨で評価をしている。従って、品物を見せる棚から発生した言葉である。」

と,懇切である。「店」の,「商品を陳列して売る場所」という意味以外の,江戸時代の,

「妓楼 (ぎろう) で、遊女が通りかかる客を呼び入れる格子構えの座敷。また、その遊女。張見世。」

という意味は,「見せ」の原義から,露骨に,「遊女」を商品と見立てた,というふうに言えなくもない。

「店」にからめては,

店を畳む
店を張る
店を引く
店を広げる

と言った言い回しがあるが,江戸期以降,必ず,その「店」は,妓楼のニュアンスが付きまとっていたようだ。因みに,「張見世」とは,

張見世.jpg

喜田川歌麿「張見世」


「遊女屋の道路に面した格子つきの部屋(見世)に,遊女が並んで客を待つこと。客は格子の間から眺めて好みの遊女を選んだ。客と遊女は,格子をはさんで会話を交わし,遊女は素見(ひやかし∥すけん)(見て歩くだけで登楼しない客)にも〈すいつけ煙草〉をふるまうことがあった。張見世をするのは通常,夕刻6時から夜12時までであった。開店の合図があると,それまでに化粧をすませて盛装していた遊女らが2階から下りて見世に並ぶ。」(『世界大百科事典 第2版』)

「遊女屋の入口わきの、道路に面して特設された部屋に、遊女が盛装して並ぶこと。もとは店先に立って客を引いたものが、座って誘客するために考案された方法であろう。したがって客を誘うための行為であるが、遊客が遊女を選定するのに便利なように、座る位置や衣装で遊女の等級や揚げ代がわかるようになっていた。各遊女屋では上級妓(ぎ)を除く全員が夕方から席について客を待ち、客がなければ夜12時まで並んでいた。江戸吉原では、張見世を見て歩く素見(ひやかし)客が多かった。明治中期から東京ほか地方の遊廓(ゆうかく)でも廃止され、かわりに店頭に肖像写真を掲げた。アムステルダムやハンブルクの『飾り窓の女』は、これの海外現代版である。(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

とある。まさに,「見せ」である。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%97
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
https://www.jti.co.jp/tobacco-world/journal/chronicle/2004/08/pop07.html



ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル: 見世 みせだな
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2016年05月10日

つらね


「つらね」は,

列ね,
とも,
連ね,

とも当てる。語源は,『古語辞典』を見ると,

「ツラ(列)・ツリ(釣)ツル(弦)・ツレ(連)と同根」

とあり,

縦に一列に並ぶ,

という意味で,そのアナロジーで,

ひきつれる,
とか
順序つけて並べる,
とか,
ことばを並べ整えて歌をつくる,
とか,
連歌で,前の句を受けて,次の句をつけてつづける,

といった意味に広がっていく。ここで,「つらね」というのは,限定されていて,おそらく,『大言海』のいうように,

「言葉をつらねる意」

から来ていると思うが,

浄瑠璃・小唄などで,縁語でつづった文句,
歌舞伎で,主役が花道で朗々と述べ立てる長台詞。延年のつらねの影響という,

という意味になる。辞書(『広辞苑』)には,

猿楽・延年舞などで,言葉や歌を長々と朗誦すること,つらねごと,
歌舞伎で,主として,荒事の主役が自分の名乗り,物の趣意・由来・功能から名所づくし,名物立てなどを,縁語,賭け言葉を使って,述べる長いセリフ。「暫」のつらねは代表的,

と載る。歌舞伎にも猿楽にも疎いので,いちいち調べないと埒が明かないが,因みに,「延年」は,本来の意味は,

寿命を延ばすこと,

という意味だが,辞書(『広辞苑』)には,

東大寺・興福寺その他の大寺で,大法会の余興として,僧侶や稚児の行った芸能の総称。平安中期に起こり,鎌倉時代に盛行。風流,連事,開口,当弁,俱舎舞,白拍子,若音など種目が多い。室町時代末には衰え,現在僅かの寺院に面影を残すにすぎない。延年舞とも。

とある。これ以上深入りすると,元へ戻れなくなるかもしれないが,『大言海』にある説明が具体的である。

「(避齢(「かれい」と訓むらしい)延年の義に拠ると名と云ふ)僧家の舞。略して,延年とのみも云ふ。平安朝の末に,既に行はる。比叡山の延暦寺,奈良の興福寺にて大會を行ふ時,必ず奏せり。其の他神事にも,酒宴の興にも舞へり。場は,方三十間許,二人の小法師,裏頭(くわとう),赤袍,白大口,白袈裟にて舞ひ,數僧,謡ふ。楽器は,銅鈸子(どうばつし)と鼓となり。床拂,拂露,開口など,種々の目あり。興福寺延年の舞の歌『梅が枝にこそ,鶯は巣をくへ,風吹かば,如何セム,花に宿る鶯』などあり。比叡山に,亂舞の遊僧とて,種々の藝もするなり。」

とある。因みに,裏頭(かとう)とは,

僧侶が袈裟で頭から顔を包み、目だけ出した装い,

で,例の弁慶の風体を思い描けばいい。その着用は,

http://ikkaiyoroi.com/katou.htm

にある。ついでに,銅鈸子(どうばつし)とは,

「中央が椀状に突起した青銅製の円盤2個を両手に持って打ち合わせるもの。仏教儀式では鐃鈸(にょうはち)、田楽では土拍子、神楽などでは手平金(てびらがね)、歌舞伎下座音楽ではチャッパなどとよばれる。」

とある。毛越寺に伝承される延年の舞については,

http://www.motsuji.or.jp/rekishi/data03.html

に詳しいが,

「常行堂内では、古伝の常行三眛供の修法のあと、法楽に延年の舞が奉納されます。『延年』とは『遐齢(かれい)延年』すなわち長寿を表します。遊宴歌舞は延年長寿につながるというところから、諸大寺の法会のあとに催される歌舞を総称して「延年」と言ったのです。
 仏を称え寺を讃め千秋万歳を寿くのですが、曲趣は様々で、風流に仕組まれたものは漢土の故事などの問答方式に舞楽風の舞がついたものや田楽躍(おどり)など、当時の流行の諸芸を尽くして祝ったもののようです。」

『大辞林 第三版』の「延年舞」の説明に,

「のちに遊僧と呼ばれる専業者が出現し,中国の故事に題材をとる風流(ふりゆう)や連事(れんじ)などは能楽の形式に影響を与えたといわれる。現在も地方の寺院にわずかに残っている。」

とあるところから見ると,専門家集団も生まれていたらしい。猿楽との関連が気になり,素人には,この専門家,いわゆる「遊僧」とつながるように想像するが,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%B9%B4

には,延年は,

「単独の芸能ではなく、舞楽や散楽、台詞のやりとりのある風流、郷土色の強い歌舞音曲や、猿楽、白拍子、小歌など、貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものの総称である。正確な起源は不明だが、平安時代中頃より行われたと言われている。能の原型である猿楽との関連は深く、互いに影響を与えあったのは間違いないが、起源的にどちらが先かについては諸説ある。初期には下級僧侶や稚児らにより、法会や貴族来訪の際の余興として行われたと思われる。やがてこの寺院で行われる催しに人気が出始めていくにつれ、観衆をより楽しませるために上記のような様々な芸能を取り入れていった。演じ手も、芸に熟達した僧達を中心に行われるようになっていった。これら延年を専門的に演じる僧は「遊僧」「狂僧」と呼ばれた。」

とあるので,はじめは,僧の演じていたはずのものが,専門家に委ね,

「一部の寺院における祭礼の際の延年は規模も大きくなっていった。延年風流と呼ばれる演劇的な出し物では、二階建ての装置や移動可能な山車のようなものなど、大がかりな舞台装置も使われる場合もあった。こういったけれん味のある舞台装置を使う発想は、後に歌舞伎に取り込まれていった」

とする説もある,という。猿楽自体,

「申楽と記すこともある。平安期では曲芸,滑稽(こつけい)なしぐさ芸,掛合芸,物まね芸などをいい,平安末期には筋立てのはっきりしたものになったようである。鎌倉期には楽劇的要素を加え,室町初期にはせりふ劇プラス歌舞芸として,現在の能の祖型が完成する。」

というように,さまざまにあった芸能が,いくつかに分枝し,互いに影響し合ったのだろう。そんな芸能の由来のなかに,歌舞伎の「つらね」はある。

『世界大百科事典第2版』は,「つらね」を,

「起源は猿楽,延年の連事(れんじ)から転化したものといわれている。《暫(しばらく)》《曾我の対面》などにおいて,懸詞や何々づくしといった趣向による音楽的な要素の強いせりふで,俳優の自作であることが約束とされ,その述べかた,雄弁術が一つの売り物となっていた。野郎歌舞伎初期から始まり,元禄期(1688‐1704)に盛んに行われた。《暫》の主人公が述べる〈つらね〉や《外郎売(ういろううり)》が述べたてる早口ことばの〈つらね〉などはその代表的な例にあげられる。」

と解説する。

二代目団十郎・暫.jpg

二代目團十郎の鎌倉権五郎


『暫』については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%AB

に詳しいが,三田村鳶魚は,前に,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/435717090.html

の「啖呵」や,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/435765931.html?1459109089

の「台詞回し」で触れことがあるが,「つらね」を,こういう文脈のなかで語っていた。

「市川団十郎というものが江戸の名物になっている。この団十郎は歌舞伎三座―― もとは四座あったのですが、山村座がなくなって、中村座・市村座・森田座と、この三つが最後まであった――の座主ではない。はじめからしまいまで抱え役者でありました。が、抱えられる身分であるに拘らず、芝居道で大そう重んぜられている。ただ芝居道で貴ばれるばかりでなく、江戸の名物となり、江戸の表徴のようにもなった。というのは、彼の家の芸とする荒事、彼の得意であるツラネ――希代にまた団十郎の家では、弁舌の達者な者が多く出ております。このツラネというのは、まず悪対の塊りみたいなものです。痰火を切るというのは漢方医者の言葉で、咽喉へ痰が詰ってゼイゼイいう、そこへ熱を持つから痰火というのですが、咽喉へからまる痰を切って出せば気持がよくなる。そこで『痰火を切る』という言葉が出来た。『溜飲を下げる』などというのも同じことで、この悪対の塊りを出す。いわんと欲していうことの出来ないことをいう。芝居を見物してそれを喜ぶ。また、実際見ないでも、見て喜ぶ人達の様子が自分達を浮き立たせるから、見ない手合までが騒ぐ。芝居はこの悪対というものによって、江戸ッ子に景気をつけ、人気取をする。そこに悪対趣味というものが出来て、ツラネというものが喝采される。」

ちなみに,「せりふ」を,

http://ohanashi.edo-jidai.com/kabuki/html/ess/ess161.html

では,1人で言う場合と、2人以上で言う場合にわけ,1人で言うせりふを,

普通のごく一般的なせりふ,
独白 ---- 独り言,
名乗りせりふ ----松羽目物で役者が登場したときに述べるせりふ,

の他に,

つらね ---- 主として荒事芸などで主役が花道で述べる長ぜりふのこと,
厄払い ---- つらねの一形態ですが、せりふの中に厄落しの文句が入るので特にこう呼ぶ,

を入れている。

http://d.hatena.ne.jp/Rejoice+Kobikicho/20120318/1332050044#20120318f2

そこに,五代目市川團十郎の「つらね」を載せている。

「東夷南蛮骨継北狄せむしの大妙薬、くじき打身をためなおす、おやぢが譲りの小手脛当、柿の素袍も時分柄、納豆烏帽子の腕白盛り、さかり出たる色若衆は、東山義政が股肱の臣、荒獅子男之助茂満、生年積って十八町、きつゝ馴染のむかひ町、御贔屓のおしうりは、あつかましくも荒事の、血筋を受けた持病の虫、そのお叱りのお言葉を、かへり三升の紋所、一升一しょう又一升あわせて三升(さんじょう)仕った、森田勘弥がやつかい若衆、念者は誰だ、まき賣り提灯樽蒸籠、いとなみたつる其のうちに、夜はほのぼのと赤筋隈、まだ里馴れぬ鶯の蚕のうちのほとゝぎす、一聲かけた盲蛇、海老が譲りの小刀細工、きめ込割込鼠木戸、太鼓とともに夜の内から、いずれも様へお目見得を、したさのゝゝゝゝさしで者、しんまい新板新桟敷、初奉公の手見せ顔見勢、慮外働くうんざいめら、えり髪つかんで片つぱし、あかん堂の家の棟から、築地の海へはふり込むと、ホゝ敬って申す。」(明和八(1771)年 森田座『葺換月吉原』)

参考文献;
http://d.hatena.ne.jp/Rejoice+Kobikicho/20120318/1332050044
http://ohanashi.edo-jidai.com/kabuki/html/ess/ess161.html
三田村鳶魚『江戸ッ子』 [Kindle版]


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2016年05月11日

つう


「つう」は,

通,

と当て,辞書(『広辞苑』)には,

「慣用音。呉音はツ」

とある。念のため,漢字「通」を見ておくと,しかし,

呉音ツウ,漢音ツ・トウ,

とある。別の漢和辞典を見ても,同趣のことが書いてある。しかし国語辞典は,他のものも,

「ツウ(慣) ツ(呉)」

と記す。この是非判断はつかない。この場合は,漢和辞典を取るしかないだろう。因みに,「通」の字は,

「用は『卜(棒)+長方形の板』の会意文字で,棒に板をとおしたことを示す(それが転じて通用のこととなり,力や道具の働きを他の面にまで通し使うこと,となる)。それに人を加えた甬(ヨウ)の字は,人がとんと地板を踏み通すこと。通は『辶(足の動作)+音符甬』で,途中仕えて止まらず,とんと突き通すこと」

とある。「つう」は,この「通」の字のもっている意味を広げたものとみなすことができる。で,「通(つう)」の意味は,

とおること,とおすこと,

の意味から,

かようこと,いききすること(「交通・通学・通勤),
知らせること,伝えること(内通・通知・通信・通告・文通),
全体に行き渡る,一般に広く行われる(「通常・通説・通俗・通念・通有・通用・共通」),
・弘通 (ぐずう) ・普通」
ある範囲の全部に及ぶ(「通算・通史・通読・通年」),
男女が交わること(「姦通・私通・密通」),
全体を経過すること(「通算・通読・通年」),

と広がり,

ある物事を広く知っている,知り尽くしていること,物知り(「通暁・通人・食通・精通・消息通」),
物事を自在に操る働き(「通力・神通力),

にまで至り,物知りの特殊事情として,

人情や花柳界の事情などをよく知っていて,捌けていること,野暮でないこと,またその人,

という意味があり,いま,「つう」というと,物知りであることと同時に,

粋,

という含意があるように思う。現に,『古語辞典』には,「行き通ること」「通力」の他に,

「(その道に通達するの意から)粋(すい)③に同じ。近世後期明和・安永頃,管楽の影響で遊里に発生した流行語」

とある。「粋」には,

物事に精通してすぐれていること,またその人,

という意味があるが,③にあるのは,

「遊里の事情に佳く通じ,言動がおのずからその道にかなう,洗練された遊興の態度,またその人」

と,限定された意味になる。『江戸語大辞典』を見ると,

粋(すい),いき,
粋人,通人,通り者,

と載る。『大言海』をみても,通人と通り者はほぼ同義で,「通人」は,

達人の意,

とある。「通り者」は,いまではほぼ使われないが,

世間一般にその名の知られているもの,
人情・世上の機微に通じた者,通人,粋な人,転じて放蕩者,道楽者,
侠客,博徒,遊び人,男だて,

とある。これを見る限り,通り者とは,まともに仕事をせず,放蕩して,世に知られている,というふうにしか,読めない。世に言う,

粋人,通人,

のイメージとは違うように思う。その答は,やはり,三田村鳶魚にあった。こうある。

「粋(すい)といえば上方言葉、通り者といえば江戸言葉だと思っている。それについては、『洞房語園(どうぼうごえん)』に収録した「待乳(まつち)問答」というものがありますから、その文を出しておきましょう。

『世人皆放埒成る博奕の徒をさして通りものといふ、然らず、爰に大言せば、天下の事に於て通ぜざる所なきを聖といふ、世俗の人に於いても、諸事に事馴れて、能く捌けたる者を、関東にて通り者といふ、かの通ぜざる所なしといふ通の字を借り用ひたるもの也、京にて粋といふ事は、六芸及び諸事に渡りて、其道々に達して精しき者を粋といふ、精と粋とは字意相通ず、文筆に精しき者は文筆の粋也、音楽に精しき者は音楽の粋也、』

『下手談義』に、「通者、江戸にて博奕するものゝ別号也」ときっぱり いってある」

と。どうやら,粋の「いき」の中身が,江戸へ出て,すりかえられたもののようである。

「では、『通り者』という言葉をどういうふうに使っ ているかと思って捜してみると、随分沢山あるようですが、大概、気の利いたという方の意味に使っている。任侠という方の意味に使っているのは、『棠大門屋敷』に、此亭主かくれなき通者、筋の通りたる事に、たのまれて一足もひかぬ男。と書いてある」

つまり,「通り者」という言葉は,

「筋の通った者」

という心持で使われている。どうやら,「任侠」のいみの,「筋」である(筋目とか筋者とかという言い方をするように記憶している)。

「元文から宝暦まで、この三十年ほどの間に、通り者というのが任侠の意味らしく扱われている。前には、廓の言葉として、粋だの通だのという言葉が遣われていた。これが訓でよむようになって、通り者ということになると、今まで通といった 心持とは違って、別な意義 になってまいります。」

と,そして,こう付け加える。

「侠客というものと博徒というものとは、自ら違うのであって、侠客は侠客、博徒は博徒で、侠客のすべてが博徒でもなければ、博徒のすべてが侠客でもない。ですから、博奕打のことを、寛保・延享の頃は『通り者』といっております。」

遊里ではやった通人とは,別の意味の通人,通り者のイメージに変じている。しかし,通り者イコール通人と,辞書に載れば,「いきな」イメージになる。

「かぶき者・町奴・きおい組・通り者・大通、この大通がまた分れていって、通人となり、通となっている。それから勇み、勇み になれば、江戸ッ子の一般の姿といっていいでしょう」

と鳶魚が書き加えたとき,江戸ッ子にも,どこか(粋ではなく)通り者の気風がある,と言っている。それは,男立と通底しているものがあるのかもしれない。男立(男伊達)については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163232.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/435961747.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/435836567.html

等々で触れた。この「男」とは,士の意味である。

参考文献;
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)


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2016年05月13日

せりふ


「つらね」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/437711489.html

で書いたが,これは歌舞伎独特の台詞である。台詞は,

科白,

とも当てる。『江戸語大辞典』には,「せりふ」とルビを振って,

演説,
分説,

が載るが,一般には,

芝居で,俳優が劇中の人物として述べることば,

だが,そこから,

一般に言うこと,述べること,

に転じて,

決まり文句,儀礼的な言葉(「お得意の台詞だ」),
人に対する言葉,言いぐさ(「そんな台詞は聞きたくない」),
苦情を言うこと,云い分を延べること,談判(「お花はこちの奉公人、親仁との台詞なら、どこぞ外でしたがよい」),

と意味が広がり,

支払いをすること,

という意味まである。これは,

「今夜中にせりふしてくださんせにやなりませぬ」

という例が載っている(『広辞苑』)。どうも,談判の特殊例なのかもしれない。『江戸語大辞典』には,

「芸妓が客に体をゆるすときの条件につき話し合うこと」

という意味が載っている。『ブリタニカ国際大百科事典』には,

「劇のなかで俳優によって語られる言葉で,演劇の本質的要素の一つ。2人以上の登場人物の間でかわされる対話 dialogue (→ダイアローグ ) ,自己の心境や感情を観客に向ってひとりで語りかける独白 monologue (→モノローグ ) ,他の登場人物の面前でしゃべりながら相手役に聞えないという舞台上の約束のもとで自分の考えその他を述べる傍白 aside (アサイド) などの形式がある。」

とあるし,『世界大百科事典 第2版』にも,

「〈科白〉〈白〉などとも書かれる。よく行われるせりふの形式上の一分類としては,2人あるいはそれ以上の登場人物の間で交わされる〈対話(ダイアローグdialogue)〉。登場人物が自分自身の考えや感情などをみずからに問いかける形をとる〈独白(モノローグmonologue)〉(モノローグ劇),対話中に対話の当の相手には聞こえないという約束で横を向き独りごとのように言う〈傍白(アサイドaside)〉などがある。」

と,対話と独白とを整理している。そういえば,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/437711489.html

でも取り上げたが,

http://ohanashi.edo-jidai.com/kabuki/html/ess/ess161.html

で,歌舞伎のセリフを,

1.1人で言うせりふ
(1) 普通のごく一般的なせりふ,
(2) 独白 独り言,
(3) 名乗りせりふ 松羽目物で役者が登場したときに述べるせりふ,
(4) つらね 主として荒事芸などで主役が花道で述べる長ぜりふ
(5) 厄払い つらねの一形態ですが、せりふの中に厄落しの文句が入るので特にこう呼ぶ,
2.2人以上で言うせりふ
(6)渡りぜりふ 一連のせりふを2人以上の役者が互いに次へ受け渡しながら分担していうせりふ,
(7) 割りぜりふ 2人以上の役者が別々の思いを交互に喋りながら最後には共通の結論を同時に発して締めくくる,
3.共通
(8) 名せりふ 歌舞伎ファンなら誰でも知っているいわずと知れた名せりふ,,
(9) 捨てぜりふ 役者がその場でアドリブで言う短いせりふのこと。

と,私説として分類しているが,この分類を見ると,「せりふ」という言葉が,その意味の外延を広げて,世の中に広まっていく経緯を彷彿とさせる,用例の見本市のようでもある。

「せりふ」の語源は,

「セリ(競争・競る)+フ(節・言葉)」

で,競り合っていいあう文句,述べあう言葉,である。

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/se/serifu.html

には,

「セリフは、『競り言ふ(せりいふ)』を約した言葉といわれ、江戸初期頃から見られる。 漢字の『台詞』は、『舞台詞(ぶたいことば)』の上略。『科白』を中国語からの借用で、中国では『科』は劇中の俳優のしぐさ、『白』は言葉のことで、俳優のしぐさと台詞を意味するが、日本ではセリフに当てる漢字として用いられたため、しぐさの意味は含まれていない。このほか、せりふの漢字表記には、『分説』『世理否』『世利布』がある。古くは『世流布(せるふ)』『せれふ』と言っており,『せりふ』より古い語形とも考えられている。」

とある。『大言海』にも,「競り言ふの約」「舞台詞の略」と載る。「科白」の記述が気になるので調べると,『漢字源』に,「科」の字は,

「『禾(いね)+斗(ます)』で,作物をはかって等級をつけることを示す,すべての物事の等級を科という。」

とある。したがって,

品定めをした分類,
分類して排列した部門や条文,

といった等級や分類に当たる意味だが,通俗的に,

しぐさ,芝居で,俳優が行う動作,

とあり,「白(せりふ)」で,「科白(かはく)」で,「しぐさとせりふ」とある。「白」の字は,象形文字で,

「どんぐり状の実を描いたもので,下の部分は実の台座。上半は,その身。柏科の木の実のしろい中みをしめす。」

とあり,基本は,白いか,無色の意味だが,「告白」というように,動詞として,「マヲス」,

「内容をはっきり外に出して話す」」

という意味があり,通俗的には,

「飾り気のないさま」

という意が転じて,

「芝居のセリフ」

という意味になる,とある。「説白」(口語のせりふ),「白話」(口語)という用例がある。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2016年05月17日

森羅万象


森羅万象は,ふつう,

しんらばんしょう,

と訓むが,『大言海』では,

しんらまんざう,

とも訓ませる。で,辞書(『広辞苑』)によれば,

「『森羅』は限りなく並び連なる意。『象』は,有形物の意」

とあり,

「宇宙空間に存在する数限りない一切の物事,万有」

という意味になる。「万有」とは,

「宇宙間にあるすべてのもの。万物。万象。一切有為」

という意味になる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%BE%85%E4%B8%87%E8%B1%A1

には,

「『森羅』は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、『万象』は万物やあらゆる現象。なお、『宇宙』はあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、および宇宙空間を指す。」

ともある。中世末期,イエズス会は『日葡辞書』で,

「御主デウス森羅万象ヲツクリタマウ」

と訳した,らしい。『大言海』は,

「天地の間に,萬物の,種々の有様にて,数限りもなく,存在する状を云ふ語。」

と説明する。これが正確のような気がする。

漢字から見ていくと,「森」の字は,

「『木三つ』を合わせたもの。たくさんの木が込み合っている」

という意になる。「羅」の字は,

「网(あみ)+維(ひも,つなぐ)」

で,

あみ,
とか,
(あみの目のように)つらなる,ならぶ,

という意味になる。「羅列」「網羅」と言った使い方をする。「万(萬)」の字は,象形文字で,

「萬は,もと,大きなはさみを持ち,猛毒のあるさそりを描いたもの。のちさそりは,萬の下に虫を加えて別の字となり,萬は音を利用して,長く長く続く数の字に当てた。」

とある。そのため,

よろず,非常に数が多いことを示す,

という意になる。「象」の字は象形文字。まさに,

「ゾウの姿を描いたもの。ゾウは,最も目立った大きなかたちをしているところから,かたちという意味になった」

とあり,「図像」「現象」「象形」とカタチを意味する。

だから,万物が,

「宇宙に存在するすべての物」

であり,万有が,

「すべての存在」

ということになる。すべてとは,数限りない,という意味である。

迂闊というか,無知というか,

森羅万象

は,人の名でもある。

しんらまんぞう,

とも訓ませる。たとえば,

「江戸後期の狂歌師。通称中原中良、のち森島甫斎。風来山人平賀源内の門人にて二世風来と号する。天明年間万象亭の号を以って黄表紙数部を作り、春町・手柄岡持等と其名を競った。文化5年(1808)歿、55才。」(『美術人名辞典』)

「江戸後期の狂歌師・戯作者・医師。江戸の人。本名、森島中良、のち桂川甫斎。通称、甫粲(ほさん)。狂号、竹杖為軽(たけづえのすがる)。平賀源内の門人で、2世風来山人と称した。洒落本「田舎芝居」など。しんらまんぞう。」(『デジタル大辞泉』)

「江戸後期の戯作(げさく)者,蘭学者。桂川甫周の弟で,本名森島(のち中原)中良。通称は甫粲。別号は万象亭,二世風来山人,天竺老人。平賀源内の門下で,洒落本《田舎芝居》(1787年)等を著す。(1756-1810)」(『百科事典マイペディア』)

「幕府医官桂川甫周の弟。平賀源内門下の蘭学者として《紅毛雑話》(1787),《万国新話》(1789),《類聚紅毛語訳》(1798)など多くの著述があるが,戯作者としては,黄表紙に知識人としての軽妙洒脱な作品が多く,《従夫(それから)以来記》《万象亭戯作濫觴(まんぞうていげさくのはじまり)》(以上1784),《竹斎老宝山吹色》(1794)などがあり,また洒落本では初作《真女意題(しんめいだい)》(1781)で,本能のまま行動する田舎侍の野暮さかげんを描いて笑わせ,《福神粋語録(すごろく)》(1786)では七福神の吉原遊びの滑稽を描いたが,《田舎芝居》(1787)は当時の洒落本の行き過ぎた写実の弊をついて,笑いの回復を主張し,のちの滑稽本への礎石をなした。読本には《月下清談》(1798)の中国種のものがある。)」(『世界大百科事典』)

田舎芝居.jpg

『田舎芝居』


等々。残念ながら,これ以上の言及はない。

http://www.ten-f.com/syarakusai-to-kyoka.html

に,

「江戸っ子の間で『大當りした』作者の一人として紹介されている萬象亭(森島中良、1756?~1810)と号する人物は金鶏と同じ医師を生業とする戯作者の一人でした。そして、この人もまた天明狂歌壇と無縁ではなかったのです。江戸幕府の奥外科医師を勤めていた桂川甫三(1728~1783)の次男として生まれた彼は、寛政の頃まで家祖の元姓『森島』を名乗り通称は万蔵、平賀源内の門人として知られ、狂歌名を竹杖為軽(すがる)、森羅万象あるいは萬象亭とも号した人物で洒落本『田舎芝居』の作者でもありました。そして、この人の経歴で目を引くのは丁度、写楽が江戸で活躍し始めた寛政六年から三年余りの期間松平定信が藩主であった奥州白河藩に『御小納戸格』として出仕している事実です。定信が老中の職を辞したのが寛政五年七月、そして戯作者であり狂歌詠みでもある萬象亭が医師としてではなく、藩主の身の回りの雑用も含めた秘書的な職を意味する『小納戸役』として近習したのは、彼の持つ文壇画壇そして狂歌界等の俗知識を定信が必要としていたからだと想像出来ます。」

と,意外な経歴を載せている。また,

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/sonota-edo/edokyoukabon.html

の,『江戸狂歌本選集』に,四方真顔、森羅万象編の,

『狂歌武射志風流』上之巻〔江戸狂歌・第六巻〕・享和四年(文化元年・1804)刊

があるらしい。

なお,『広辞苑』には,二世森羅万象がいる,とあり,

「姓は樋口。通称福島屋仁左衛門,別号,七珍万宝」

と載る。

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

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ラベル:森羅万象
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2016年06月01日

おもくろい


「おもくろい」は,

面黒い,

と当てる。辞書(『広辞苑』)には,相反する意味が載る。ひとつは,

「面白い」をたわむれに反対に言ったもので,「面白い」と同義,

いまひとつは,

近世,「面白くない」を洒落て言ったもの,つまらない,

である。後者の洒落の方が,わかりやすい。前者は,少し斜に構えた感じがある。

「面白い」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415405652.html

ですでに触れた。「面黒い」は,「面白い」の語源ほどの奥行きのある謂れではないらしい。

『日本語俗語辞典』

http://zokugo-dict.com/05o/omokuroi.htm

では,

「面黒いは江戸時代から下記の相対する二つの意味で使われる。
[1] 面黒いとは面白いを単に冗談っぽく言ったもので、面白いと同意に使われる。一般の人の会話や洒落本ではこちらの意味で使われた。
[2] 面黒いとは面白いの白に対し、対照的な黒ということから、面白くないという意味で使われた。主に俳句や川柳で用いられた意味である。」

とある。前者は,「面白い」を「面黒い」と,会話の中で洒落て言う,という感覚なのかもしれない。『江戸語大辞典』には,

「訛って,『おもくれえ』とも。おもに職人などの用語」

とある。「江戸ッ子」について,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/436936674.html?1461182711

で触れたように,「江戸ッ子」は,裏店に住む,

「日雇取・土方・大工・左官 などの手間取・棒手振、そんな 手合で、大工・左官でも棟梁といわれるような人」

を指し,町人とは区別される。そう言う人が使っていた,とイメージすると分かりやすい。『大言海』には,

「白しを黒しと反(かへ)して言ふ戯語(ざれごと)なり」

として,

「面白しに同じ」

の意味しか載せない。これが一般的だったということだろう。

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/o/omokuroi.html

には,

「『おもしろい』と『おもしろくない』の相反する意味で用いられた言葉である。おもしろい意味の面黒いは近世江戸の通人や職人が使い、つまらない意味の面黒いは俳句や川柳で使われた。 つまらない意味の方は、面白いの『白』を『黒』にすることで正反対の意味を表し、『おもしろくない』としたもので,普通に考えられる表現である。おもしろい意味のほうは,『面白い』の『白』をもじって『黒』にし,『面白い』をしゃれているところがポイントである。」

とあり,「つまらない」という意味の使い方の方が,確かに自然だ。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/3578/2004/omokuroi.htm

には,『新明解国語辞典』に,

「〔「おもしろい」のもじり〕『(ちょっと)おもしろい』意の口頭語的表現。」

とある,という。口語として使うには,

「おもしろい」

のに,ただ「おもしろい」と言っても曲がない。で,

「おもくろい」

と言う。しかし,掛け値なしに,面白ければ,「おもしろい」というところだが,そう言うには,ちょっと,という意味で,

「おもくろい」

と言うニュアンスもあるが,ちょっとひねってみたいほど,面白さが,しゃれている,と言う場合も,単に,「おもしろい」というところを,捻って,

「おもくろい」

と言ってみる,というニュアンスもある。

「つまらない」意味だと,

富士なくばおもくろからん東路,

という句が,「おもしろい」意味だと,

雪の歌や,見て面黒き,筆の跡,

という句が,それぞれニュアンス伝えている。まあ,微妙。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)



ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2018年05月31日

てるてる坊主


てるてる坊主は,晴天を祈って,軒先に吊るしておく。

『広辞苑』には,

「晴天となれば,晴(ひとみ)をかきいれ神酒を供えた後,川に流す」

とある。その風習は知らない。

Teruterubouzu.jpg


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A6%E3%82%8B%E5%9D%8A%E4%B8%BB

には,

「照る照る坊主(てるてるぼうず)は、日本の風習の一つである。翌日の晴天を願い、白い布や紙で作った人形を軒先に吊るすもので、『照る照る法師』、『照れ照れ坊主』、『日和坊主(ひよりぼうず)』など地域によって様々な呼称がある。」

とあり,

「てり雛・てり法師・てりてり坊主・てるてる・てるてる法師・てるてる坊主・てれてれ法師」

といった異称があるらしい。そして,

「江戸中期既に飾られていたようである。この頃の人形は折り紙のように折って作られるもので、より人間に近い形をしており、これを半分に切ったり、逆さに吊るしたりして祈願した。19世紀はじめの『嬉遊笑覧』には、晴天になった後は、瞳を書き入れて神酒を供え、川に流すと記されている。」

とある。『江戸語大辞典』は,「てるてる法師(照々法師)」「てるてる坊主(照々)坊主」が載り,

「児女などが晴天を祈って軒下などにつるす紙人形。祈って天気となれば晴(ひとみ)を書き入れ神酒を供えた後,川に流す」

とある。

紙人形であった,

ことと,晴れになったら,

晴(ひとみ)を入れて,
神酒を供えて,
川に流す,

というのが,風習としてあったということになる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/te/teruterubouzu.html

は,

「てるてる坊主は、中国から入った風習といわれる。 中国では、白い紙で頭を作り、赤い紙の服を着せ、ほうきを持たせた女の子の人形(『雲掃人形』や『掃晴娘』と呼ばれる)を 、雨が続く時に軒下につるして晴れを祈る風習があった。 ほうきを持っているのは、雨雲を掃き,晴れの気を寄せるためという。この風習が江戸時代に伝わり(一説には平安時代とも),当初は『照る照る法師(てるてるぼうし)』と呼ばれていたものが、『照る照る坊主(てるてるぼうず)』になった。現在でも地域によって『てるてる法師』や『てれてれ坊主』、『日和坊主』などと呼ばれる。
女の子から男の子に変化した理由は定かではないが、日照りを願う僧侶や修験者が男であったことからや、人形が頭を丸めた坊主のようであるところからと考えられている。」

とある。しかし,今日中国ではその風習はすたれ,今では中国でも日本から伝わったてるてる坊主のほうがメジャーだとか(一説にアニメ『一休さん』の影響らしい)。

「掃晴娘」の由来については,大体似た話が載るが,たとえば,

https://wabisabi-nihon.com/archives/14405

に,

「昔々のある年の6月に、中国の北京は、これまでにない大雨に見舞われます。雨はいつまでもいつまでも降り続き、止む気配はありませんでした。大雨を降らせた『東海龍王』は、北京城内を雨水であふれさせ、人々を苦しめます。
そんなある夜、晴娘(ちんにゃん)という娘が、天に向かって祈りました。
「この雨が、一刻も早くやみますように・・・!」
すると、突然空からお告げがあったのです。
「晴娘よ、東海龍王の太子の妃になれ。もしも従わなければ、北京を水没させるぞ。」
その声を聴いた晴娘は、答えました。
「命に従って天に上ります。ですから、どうか雨をやませてください。」
その瞬間、突風が吹き、晴娘の姿は消えました。そして雨はピタリと止み、久しぶりに北京の街に、晴れ間が見えたのです。それ以来、人々は雨をやませるために犠牲になった晴娘を祀り、長雨のときには、紙で作った人形を、門にかけるようになったのだそうです。」

と。真偽はともかく,紙で作った人形というところは似ている。『大言海』には,「てるてる坊主」の意味に,

掃晴娘,

をのせ,帝京景物略(明,劉洞)を引く。

「雨久,以白紙作婦人首,剪紅縁紙衣之,以苕菷苗縛小帚,令携之令攜之,竿懸簷際,曰婦晴娘」

とある。明代の風習とすると,江戸時代に入って来たものと思われる。とすると,あるいは,

掃晴娘,

の由来話は,後世の創作の可能性がある。

ところで,童謡『てるてる坊主』(作詞・浅原鏡村)は,

(1番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ
(2番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんと飲ましょ
(3番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ

だが,もともと「削除された幻の1番」というのがあって,

てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
もしも曇って泣いてたら 空をながめてみんな泣こう

だそうだ(https://tenki.jp/suppl/usagida/2015/05/14/3771.html)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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