2013年11月07日

努力


つくづく思うが,努力は才能だ。本当に努力しているという人は,半端ではない。

何かに挑戦したら,確実に報われるのであれば,誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで,同じ情熱,気力,モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり,私は,それこそが才能だと思っている。

とは羽生善治さんの言葉だが,その通りだ。

天才とは努力する,凡才のことである,

とは,アインシュタインの言。イチローは,こういう。

努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら,僕はそうじゃない。努力した結果,何かができるようになる人のことを「天才」というのなら,僕はそうだと思う。人が僕のことを,努力もせずに打てるんだと思うなら,それは間違いです。

しかし,「努力」という同じ言葉で,僕が言っている努力と,この人たちの言っている努力とでは,そのストレッチの程度が,全く違う。よく,

自分の限界まで引き伸ばすことで,自分が伸びる,

という言い方をするが,限界は,じりじりと伸びる。ここまでと思っていた,キャパが,いつの間にか,広がっている,ということがある。その意味では,拙い経験でも,伸び白が広がる経験はある。

しかし,だ。

ぼくは,血の滲む努力などというものをしないで来てしまったと言っていい。人並み程度の努力は,した。しかし,自分が壊れるぎりぎりまで自分を引っ張り,引き伸ばしたかと言うと,ちょっと肯うには自信がない。

思うに,おそらく,努力というのは,自分の殻を脱ぎ捨てていくための通過儀礼なのだとしみじみ感じる。そのとき,その場で,それをしないと,経験できない大切な何か,というような。

あるいは,ヤドカリが,将来を見通して,大きめの貝殻に住み替えるように,努力しているうちに,いつの間にか,自分が大きか駆体になっていることに気づく。その感触は,努力したものにしか感じ取れないものかもしれない。

努力は,たぶん,目標がなくてはできない。

ただ,夢中になって打ち込んでいるうちに,結果として,それが努力というものなのだと,傍目にはわかるが,本人は,そうは思っていない,ということはある。そのとき,気づかず,自分の限界を打ち破ったということはあるかもしれない。

何かを手に入れるために,

何かに手が届くように,

必死で手を差し伸ばしている瞬間は,別にその目指すものしか視界に入っていない。それを手にするために,背伸びする,努力というのは,そういうものかもしれない。

努力の「努」に似た言葉と対比すると,

努は,ひといきに力を入れる,

勤は,骨折り,精を出す,

勉は,強いてつとめる,

力は,勤に近い。力を入れて精出す,

務は,精力を一途にそのことに用いる,

と区別されていて,同じ,「つとめる」だが,あえて,踏み込むと,「努」は,力の入れ方が尋常ではない,というニュアンスが含まれている気がする。肺活量検査で,一気に吐いたり,一気に吸ったりするとき,「もっと,もっと」と声がかかるが,あの「もっと」「もっと」「もっと」と,限界点まで「つとめ」て,閾値を超えていく。

努力は,自分の閾値を超えていく通過儀礼なのだと,やはり思う。この通過儀礼を経なければ,遺伝子のもつ可能性すら開花しないのではないか。

ただ,通過儀礼には,その時期というものが定まっている。旬がある,賞味期限かある。

例えば,このごろ思っていることに,社会人になって,どんな職業にしろ,就いた職で,3年が勝負だと思う。

出典がはっきりしないが,例のロバート・カッツ(マネージャーに必要な能力を,テクニカル・スキル,ヒューマン・スキル,コンセプチュアル・スキルの3つに分類した)が,

職務経験年数と個人の関心領域の変化

という図のコピーだけが手元にあって,そこに,社会化3~4年の間に確立するものとして,

自己の状況的アイデンティティの確立
状況規範の解読と許容かつ報酬的行動の確認
社会的関係の樹立と同僚からの承認
上司・同僚から寄せられている期待の自覚
重要かつ貢献度の高い成員であることの自己証明

とある。つまり,そこでの,

自分の居場所(何をするためにそこにいるのか),



自分の存在理由(自分のすべきことは何か),

を確立する時期,ということになる。あるいは,それを考える時期といってもいい。

この期間に,仕事をするために,何が必要か,が身につかないと,同じ3年を,何度も何度も繰り返すことになる。それを繰り返している限り,基礎ができないまま過ごすことになる。基礎のない上に築く上物は,砂上の楼閣でしかない。努力は,無駄になる,という気がしている。

ところが,大卒3年以内に辞めてしまうものの離職率が4割に近いという。とすると,そこですごしたその何年かは,下手をすると,無駄に終わる。なぜなら,組織の仕事は,その文脈(コンテクスト)の中での自分の居場所と存在理由を明確にする作業なので,文脈が変われば,リセットと同じになる。

こういう言い方は,古いと言われるかもしれないが,3年か4年経たないと,そこでのひとつの仕事のワンクールがきちんと体験できない。それがつかめれば,あとはほかでも応用がきくが,それが体験できないと,

仕事を完成させるとはどういうことか,

仕事のインとアウトとは何か,

が遂にわからない。それがわからなければ,仕事が細切れでしかつかめない。細切れでしかつかめないということは,細切れの仕事しかしない(できない)人になる。それは,部分(ハーツ)でしかないという意味だ。

僕にとって,努力は,ただすればいいものではなく,

何かを目指して,

そのために努める,

ことだから,それが,

一丁前のビジネスマン

になるためなら,それに必要な時期がある,と思う。確か,言葉を母国語とする時期というのがあり,それを逃すと外国語として学ぶことになる,つまりネイティブになれないのと同じく,この3年を逃すと,ビジネスマンになりそこなう,という気がしている。

ということは,努力にも,タイミングというものがあり,すべき時に,すべき努力をしないと,その上には積み上がらない,という気がする。それは何においてもそうなのではないか。

その機を逃すと,勝海舟ではないが,

機があるのだもの,

という悔いになる。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 05:19| Comment(2) | 勉強 | 更新情報をチェックする