2013年10月29日

テンポ


先日,「さん生(柳家 さん生)と鶴二(笑福亭 鶴二)の落語2人会」に参加してきた。

https://www.facebook.com/events/344591165675132/?ref_dashboard_filter=upcoming

落語については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11312675.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11279256.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11225523.html

と,何度か触れたことがあって,これ以上に触れられるほど薀蓄があるわけではないので,別の切り口から考えてみる。

テンポだ。

会に同席した七十歳超(戦中世代とおっしゃっていた)のご婦人が,いまのしゃべりは早い,と言われたのが気になっている。ご主人が商社にお勤めだったとかで,世界を渡り歩き,百人や二百人のパーティを仕切るのは,造作もないと言っておられる,そのご婦人が,喋りのテンポについて,苦情を言われたのである。

そこには,ついその前に聴いた高座の噺についても含まれている。

因みに,さん生師匠のお弟子さんの,わさび師匠の他,,「締め込み」「三十石」「代脈」「井戸の茶碗」等々の演目だったが,たしかに一番早口だったのは,若いわさび師匠で,次が,柳家 さん生師匠,笑福亭 鶴二師匠という順であったと思う。

NHKのアナウンサーのしゃべりも,昔に比べてかなり早くなっていると聞いている。

たぶん,早口と言われた江戸っ子のしゃべり方に比べても,いまははるかに早口になっているはずだ。ここからは妄想に近いが,たぶん,その背景は,

乗り物,

歩き方,

携帯電話,

ネット,

という生活テンポの影響が大きい。待てしばしがなくなっていて,皆せっかちになっている。なにしろ,上司への報告,部下への指示も,昔と比べれば格段に早くなっているはずだ。生活のリズムを作っている基本が,かつては,鐘だったとすれば,単位が,二時間単位。いまは,秒単位。新幹線の望みが10分間隔くらいで運行されている時代だ。

喋りのテンポが早くならざるを得ない。

しかし,もうひとつ,妄想的に思うのは,話すときの,言葉の載せる情報量の多さなのではないか。

譬えが悪いが,手紙を比較するとわかる。いわゆる候文の手紙は,結構言葉を丸めていて,文脈が,その分だけからではわからないことが多い。それに比べると,いまの手紙は,メールでもそうだが,比較的具体的になる。具体的になればなるほど,伝える情報量が多くなる。同じ時間に詰め込もうとすれば,どうしても早くなる。

女子高生の饒舌さは,早口であると同時に,どういったらいいか,言い方は悪いが,説明が,シーケンシャルで,ただ電話したことを伝えるのに,文脈を詳細に,時間軸に沿って話す。当然長くなる,早くならざるを得ない。

その現代に生きる噺家と言えども,地は,そういうリアリティで,早口になっている。しかも,聴き手も早口に馴れている。とすれば,昔風のゆったりした話だと,退屈するに決まっている,と思う。

妄想だが,いまなら,せいぜい小さん師匠くらいまでで,それ以上遡ると,テンポがあわないのではないか。古今亭志ん朝師匠も,あの時代としては早口だった印象がある。小三治師匠の速射砲のような話を聞いたのは,もう十年も前だが,それだって,いま聞けば,ゆったりに聞こえるのではないか。

個人差があるが,僕には,機関銃の連射のようなしゃべりのわさび師匠の噺口が,結構あっている。そういう人が,他にもいて,わさび師匠が,落語の端緒だったという方も,一方ではいらっしゃった。二十代の方だ。

言葉も,話し方も,テンポも,時代を反映する生きものだ。というより,生きている人間によって,使われる道具だ。当然,時代の中で変化する。早くなるのは必然のように思う。

性分から,のんびりした話し方にはいらいらする方だから,一層そうかもしれない。

面白いのは,上方落語の鶴二師匠の方が,話しっぷりがゆっくりだったことだ。でも,考えてみれば,関西弁の方が,東京弁というか,東京人のしゃべり方に比べれば,間がある。当たり前かもしれない。

しかし,話し方のテンポ自体は変わらないはずだ。変わるのは,間のような気がする。

話の間ではなく,

言葉と言葉の間というか,音節と音節の間が,微妙に違う,

そんな気がした。

ありがとう,

というのと,

おおきに,

というのとでは,同じ喋りのテンポでも,受ける印象がゆったりする。

印象からいうと,母音の膨らませ方,にある気がする。

そうです,

というのと,

さようでおま,

というのとでは,そのゆったり感の違いは,母音なのではないか。母音が多いというのではなく,母音が膨らまされる,そういう印象である。

ということは,相手に与えるゆったり度は,テンポではなく,間ということになる。それは言葉と言葉の隙間でも同じ印象のはずだ。

空気を入れる,

という感じになる。それはわずかコンマ何秒の違いかもしれない。

専門外なので,これ以上は突っ込めないが…!

今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:13| Comment(1) | 話し方 | 更新情報をチェックする

2014年08月20日

口跡


先年亡くなった,十二代目團十郎は口跡が悪い,

という言われ方をしていた。

口跡は,普通に辞書を引くと,

ことばづかい
歌舞伎で,俳優のせりふまわし,またその声色

と出る。『大言海』には,

ことばの状

とあり,

声(こわ)遣い,声音,声色,

とある。語源的には,

口(言葉)+跡(言い方)

で,「特に,歌舞伎での俳優の言いまわし,セリフ回し」を指すらしい。筆跡に対する口跡という意味がある。となると,「跡」が気になる。

跡は,

あと,月次と同じ間をおいて転々と続く歩いたあと。転じて足跡。迹,蹟と同系。
あと,モノがあったあと,物事が行われたあと。

亦は,胸幅の間をおいて両脇にあるわきの下を示す。足+亦で,間隔を置いて続く足跡

という意味らしい。

こう考えると,

口跡は,

単なる「せりふまわし」ではなさそうだ。因みに,「せりふまわし」は,

台詞の言いまわし,

とある。では,言い回しはというと,

言いあらわし方,ことばの使い方

となる。なんとなく循環して,結局

言い方

につきる。口跡が悪いというのは,僕は,

台詞の切れが悪い,

と思っていた。昔の中村錦之助,萬屋錦之介が僕のイメージでは口跡の言い例になる(いまの歌舞伎界では,二代目吉右衛門も口跡がいい部類らしいが)。べらんめいというのではない。せりふの跡がきちんとたどれる,あるいは,ひとまとまりの意味をなす言葉が,ドットとして出てくる。というか,ドットとして連なる言葉の列がこちらにきちんと残る,ということだ。もちろん,声が,内に籠っては話にならない。

世界大百科事典 第2版の解説によると,

俳優の音声演技の一要素。歌舞伎俳優の発声法,せりふ回し,エロキューションなどのせりふ術と,声音,高低などの声の質の両面をいう。歌舞伎の演技は,おもにせりふとしぐさから成り立つが,なかでも,古来から〈一声二振三男〉といわれるほど口跡の良さは,役者の質を評価する重要な要素である。口跡は役者の財産という意識がそこにある。【富田 鉄之助】

とある。「一声二振三男」は,「一声二顔三姿」とも言われるが,優れた歌舞伎役者であるために求められる条件を並べたもの,といわれる。

顔や身振り手振りよりも,まず,

口跡

と言われる。調べると,

「歌舞伎のせりふには,河竹黙阿弥作品に代表される七五調の音楽のような美しい名せりふや,『ツラネ』といって荒事芸などで主人公が花道で延々と(吉例などを)述べる長ぜりふ,2人以上の役者が交互に自分のせりふを喋り,最後,デュエットのように全員で声を合わせて終わる『割(わり)ぜりふ』,更には数人の役者がまるで連歌の会を催しているように順々にあとを続ける『渡りぜりふ』など,場面場面に応じた様々なせりふ術があります。(『歌舞伎のおはなし』)

とあって,台詞回しは生命線に違いない。その意味で,メリハリというのは,なかなか意味が深い。

「歌舞伎のせりふ術で,音の緩急・強弱・高低・伸縮などの技術のことを『めりはり』と言います。これは『滅(め)る』(=緩む)と『張る』(=強める)が一つになったものです。そして『めり』と『はり』がよくきいていて,せりふが観客に鮮やかに聞こえることを『めりはり』があると言います。」(仝上)

ともある。どうやら,単に言葉が,ドットとしてただ同じサイズが点々と続くだけではなく,それにドットの大きい小さいが必要ということだ。それは,拍子というか,リズムというか,アクセントの有無といってもいい。

単に歯切れのいい喋り方だけではなく,声の質も関係がありそうだが,それ以上に,

聴き手側に,ことばの軌跡が残る

ことが大事なのではないか,しかも,

心地よい調子

として,という気がしている。そう言えば,銚子のいい台詞回しは,耳に長く残る気がする。その意味では,

ボイストレーニング( Voice training)

とは目指すものが違う気がする。発声訓練をすることで,声が外に出ても,声が,点として軌跡を残すしゃべり方にはならない。

かつて受けたトレーニングでは,声が大きいというのは,

遠くに届く

ことであって,相手に届けたれば,ボールを相手に投げるように,相手を見て言葉を投げろ,と言われた。確かに,そうだろう。遠ければ,遠い相手に届くように声を出す。

滑舌

という言葉があるが,それは,喋るとき,

相手に理解してもらうために舌や顎や口をうまく動かしてはっきりとした発音をする動作

のことを言う。ボイストレーニングではここまではするらしい。しかし,やはり,口跡とは,少しだけずれる。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)




今日のアイデア;
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posted by Toshi at 04:41| Comment(0) | 話し方 | 更新情報をチェックする