2013年11月26日
洛中洛外図
珍しく,俗物の自分が,先日,二つの展覧会をはしごして回った。
特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1610
と
特別展「光悦―桃山の古典―」
http://www.gotoh-museum.or.jp/exhibition/open.html
前者は,洛中洛外図を見たいからで,後者は,茶碗を見たいと思った。別に薀蓄も知識もないので,ただの野次馬。
特に,洛中洛外図は,
「本邦初!国宝・重要文化財指定「洛中洛外図屏風」全7件が一堂に
国宝・重要文化財に指定されている,下記の7件をすべて展示します(会期中展示替あり)。
これらが一堂に会する展覧会は,本邦初です。
・国宝 「洛中洛外図屏風 上杉本」狩野永徳筆(山形・米沢市上杉博物館蔵)
・重要文化財 「洛中洛外図屏風 舟木本」岩佐又兵衛筆(東京国立博物館蔵)
・重要文化財 「洛中洛外図屏風 歴博甲本」(国立歴史民俗博物館蔵)
・重要文化財 「洛中洛外図屏風 歴博乙本」(国立歴史民俗博物館蔵)
・重要文化財 「洛中洛外図屏風 福岡市博本」(福岡市博物館蔵)
・重要文化財 「洛中洛外図屏風 勝興寺本」(富山・勝興寺蔵)
・重要文化財 「洛中洛外図屏風 池田本」(岡山・林原美術館蔵)」
といううたい文句につられたのだが,「会期中展示替あり」を見落とした。見たかった,肝心の,「上杉本」が。写真だけだったのは,ちょっとがっかり。
洛中洛外図にこだわるのは,好きだった,花田清輝が,何度か触れていたことに起因する。頭の中にはあるが,どこに書かれていたのかが思い出せず,たまたま開いたのは,「李白観瀑図」について書いた,
いちおう,遠小近大や遠淡近濃の遠近法が無視されているわけではないが,遠景もまた,広角レンズでとらえたように鮮鋭であって,わたしは,その画面から,カメラ・マンのグレッグ・トーランドの開発したパン・フォーカス(全焦点)を連想する。つまり,一言にしていえば,おそろしく焦点深度がふかいのである。
が目に留まった。そう,一様に,洛中洛外を俯瞰している画面は,たしかに,全焦点なのであるが,同時に,自在に時間軸をも,同時に,いま・ここのように,現出させている。
屏風絵の約束事では,
屏風の画面は,右が時間軸の起点になり,右から左に流れていく,
といい,
屏風の上下は,下が近いもの,上が遠いもの,
また,
右と,上は,偉い,上ほど,聖性が高く,下が,世俗的,
とされているらしい。更に,雲は,
金雲,
と呼ばれ,
神の乗る道具であり,時空を超えることができる,
とされているらしい。つまり,洛中洛外図の雲は,時空を同時に,現前させて,
いま・ここに,
同時に起こっているように現前させる仕掛けなのだといっていい。花田清輝の言う,
全焦点,
をそう受け取ると,意味が深い。そのことを,花田清輝は,
…金色さんらんたる雲は,じつは,雲のあいだから垣間みえる画中の風俗によって,てってい的に支配されている…。換言すれば,その金の雲は,画家が,その風俗の大画面の一部分を,省略し,区分し,装飾したいとおもうばあいには,いつでも―そして,どこでも,不意にそのきらびやかなすがたをあらわすのだ。
当時の風俗の中で,何を描くかは,画家が,そして描かせたものが,選び取っている,ということになる。
戦国時代の景観が描かれた初期洛中洛外図が,右隻に内裏を中心にした下京の町なみや,鴨川,祇園神社,東山方面の名所が描かれ,左隻には公方御所をはじめとする武家屋敷群や,舟岡山,北野天満宮などの名所が描くのに対して,江戸時代の洛中洛外図では,右隻に内裏,左隻に二条城が描かれている,
のはそういう背景からくる。
花田清輝は,『洛中洛外図』で,こう書きだす。
『洛中洛外図』は『合戦図』に似ている。
と。ある意味,パノラマ的な画面というだけでなく,いま・こことして描かれた中に,その時代の風俗が,しっかりと描かれている。例えば,『大坂冬の陣図』『大阪夏の陣図』をみると,
勇ましい,戦闘場面だけでなく,逃げる庶民や,雑兵の乱取りも,描かれている。
こう言うのを小説でどう書くかの見本は,ドス・パソス『USA』しか,思い浮かばない。
参考文献;
花田清輝『日本のルッネサンス人』(講談社文芸文庫)
花田清輝『室町小説集』(講談社文芸文庫)
花田清輝『洛中洛外図』(平凡社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#花田清輝
#日本のルッネサンス人
#室町小説集
#洛中洛外図
#ドス・パソス
#USA
2013年12月15日
視点
若い方の展覧会を拝見する機会があった。
http://gallery-st.net/takeyama/index.html
好対照で,一人ずつの話を伺うと,
具象と,何かを象徴的にズームアップすることとの両極を試している,
というのと,
身体の体感覚(ざわつきや感触,触覚)を音として感じ,それを色として表現する,
こころの状態を色として表現している,
という両者は,一見まったく別のようだが,
視点,
としてとらえると,実は共通する。
視点とは,物理的にか,想像的にか,見る(立ち)位置を示す。それは意識的でなければ,自分で操作できないが,その位置によって,見るモノの見え方が変わる。その意味では,見え方を左右するといっていい。
視点の変え方には,次の4種類がある,と僕は思う。
●位置(立場)を変える
立場を変える,他人の視点・子供の視点・外国人の視点・過去からの視点・未来からの視点になってみる,機能を変える,一体になる・分離する,目のつけどころを変える,情報を変える等々
●見かけ(外観)を変える
形・大きさ・構造・性質を変える,状態・あり方を変える,動きを変える,順序・配置を変える,仕組みを変える,関係・リンクを変える,似たものに変える,現れ方・消え方を変える等々
●意味(価値)を変える
まとめる(一般化する),具体化する,言い替える,対比する別,価値を逆転する,区切りを変える,連想する,喩える,感情を変える等々
●条件(状況)を変える
理由・目的を変える,目標・主題を変える,対象を変える,主体を変える,場所を変える,時(代)を変える,手順を変える,水準を変える,前提を変える,未来から見る,過去から見る等々
ところで,音を色として描くという方の話に,
視点をずっと近づけて,ミクロまで行けば,量子の世界になる,
というのがあったが,それは,視覚の捉える形が崩れていくということだ。形が崩れると,単なるドットの集まりになる。それを少し遠ざければ,色ということになる。
しかし,花を見ていて,少し引くと,花畑になり,更に引くと,色になる,というのと同じで,視点をどこに置くかで,アップにもなるし,ロングにもなる。その時カタチに焦点が当たるか,色の差に焦点が当たるか,おのずと変わる。
逆に,ものを全体としてとらえず,部分,鼻や唇だけを図として際立たせ,背景を地として,消してしまうと,それはカタチは残るが,何かの象徴のように見えてくる。それは,部分だけをズームアップし,カタチが意味を変えると言ったらいいのか。
色に着目するか,カタチに着目するかの差はあるが,視点を操作することで,対象へのアプローチを変えようとする,描き方の模索といっていい。
ただ,色だけがテーマになることもないし,ズームアップした部分だけがテーマになることはない,
ような気がする(もちろん素人の感想にすぎないが)。
僕には,その操作は,本当に描きたい何かを見つけていくプロセスに見える。
なぜなら,僭越ながら,視点はモノを見る見方に過ぎない。視点を変えるとは,物理的に近づくことがアップになり,ひっくり返すことが,逆さまに見ることになる。裏返すことが,裏から見ることになる。物理的な近接遠近を,頭の中のイマジネーションで,描き出すことができる。
しかしそれはモノとのアプローチ差にすぎない。そこはまだモチーフに過ぎない。描こうとする絵の素材に過ぎない。そのアプローチ差を素材にして,何を描こうとするのか,テーマが明確化して初めてスタートラインに立つ。
どんな象徴するものが面白くても,それはただの実験でしかない。
どんなに色のちりばめ方が面白くても,まだ実験でしかない。
僕には,そのモチーフを生かす,舞台,つまりテーマがまだ見えていないように見える。
テーマというと大袈裟だが,その中に自分が実現したい(顕在化したいというべきか)世界,あるいは人,あるいはモノ,情景等々かもしれない。うまく言えないが,その表現の手段として,ピタリと今のモチーフがはまる世界というべきか,それは振り返ってはたと思い至るようなことかもしれない。
これを実現するためにやっていたんだ,
と。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#視点
#モチーフ
#テーマ
#イマジネーション
#舞台
2014年03月14日
表現
brillant wing16展という,若手画家の方々の展覧会にお邪魔してきた。
https://www.facebook.com/events/214462895419363/?ref=2&ref_dashboard_filter=upcoming
ほんとに若い現役の美大生の方々と話をして,そんなに違和感なく話ができ,ふと,思い出したことがある。最近読んだ本で,大学のカウンセリングないし,臨床心理学科の先生が,最近の学生の特徴を,
第一は,悩めない。
第二に,巣立てない,
という指摘をしていたのを思い出したのである。後者は,精神的な疾患ではなく,引き籠る例だが,前者は,
問題解決のハウツーや正解を性急に求めるタイプ
漠然と不安と不満を訴えて何が問題なのかが自覚できていないタイプ,
に別れるようだ。問題なのは,この後者で,
内面を言葉にする力が十分育っていないために,大学に適応できず,対人関係にも支障をきたし,いきなり自傷,過食などを起こすが,その自分の行為自体を,説明できないのだ,という。
内面を言葉にし,イメージの世界で遊ぶ力が低下している,
という言葉と,現実に話をした若い二人との差が大きくて,その要因は,絵という表現技術を持っているせいなのではないか,と考えたのである。
それが,スポーツでも,早起きランニングでも,サッカー選手でも,野球選手でも,自分を現実に投げ出すことをしている人は,そういう違和感がないのは,自分という身体を使って,表現をしているに等しいからではないか。
ただ言われたことをしているだけの勉強では,自分というものを表現,ありていに言えば,
対象化する,
機会がなく,それだと,自分という同じレベルの自分と対話しているだけで,内省力はつかない。
前に書いたことと重複するが,キルケゴールの有名な一節が,浮かぶ。
人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。
だから自己対話そのものは自己ではない。自分を是とする自己と非とする自己との関係そのものは,自己ではない。それに関係すること(をメタ化する)が自己なのである。
内省とは,自己対話と対話することと言い換えてもいい。その関係性は,他者との関係性を反映していると,僕は思う。だから,単なる日常的な接触程度の会話を積み重ねているだけならば,堂々巡りの自己対話を出し切れない。
のっけから話がそれたが,若い画家と話していて,違和感がなかったというのは,未熟さや不徹底はあるにしても,自分の問題意識を言葉にして,説明する力がある。それは,
いま自分は何をするためにここにいて,
何をしようとしているか
何がしたいか,
がはっきりしているということだ。その是非を云々する資格はないが,それは,自己対話を対象化している,ということに他ならない。
ひょっとすると,たまたまをそもそもとしているかもしれないが,セラピーの,
箱庭療法
や
絵画療法
が言語の拙い子供にも有効なように,箱庭のように人形やミニチュアを使って表現するにしろ,絵で描くにしろ,対象化して,表現しようとすること自体が,
自己対話と関係する場,
を作り出している,といえるのかもしれない。とすると,
表現,
というのは,特に,言葉ではなく,何かを使って表現するということは,自分が意識しなくても,自分を対象化し,対象化した自分と対話することにつながる効果がある,ように思える。
その意味では,お二人の,
コンセプトの具現化,肌の質感,
動きの瞬間の具象化,抽象への憧れ,
という言語化は,自分の自己対話と対話した,現時点での明確な自己表現になっている。それが,
技術的なものか
素材的なものか,
画材てきなものか,
主題的なものか,
は別にして,ともかく,そこへ自分を投企するテーマやモチーフを持っていることが確かに伝わってきた。
年寄りが話しても,違和感のないはずだ。
そう見ると,最後は,やはり,言語化は,欠かせない。言語を磨かないことには,その微細な自分を伝えきれないのだから。
参考文献;
最相葉月『セラピスト』(新潮社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月10日
趣き
趣きは,辞書は,
①心の動く方向,心の動き
②事柄の大事な内容
③物事のなりゆき,ありさま
④しみじみとした味わい
⑤言おうとしていること。趣旨。~ということ,由
⑥やり方,方法
等々とあるが,「趣き」という言葉をあえて使うというところに,
しっとりとした味わい,
のニュアンスを伝えたい意志の反映であり,ただの「ありさま」を指しているにしても,
それを表現した主体のそれへの好意が伝わる,
という含意がある。
語源的には,
面+向き
で,心をそちらへ向ける意であり,転じて面白み,であり,背向(そむ)くの反対語とある。
まさに,そちらへ向けようとする意味がにじみ出る。僕は,趣きの味わいとは,
陰影
なのだと思う。残る隈なく,煌々と照らされて,のっぺりとした中に,味わいはない。
なぜこんなことから始めたのか,というと,根津美術館で,
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/index.html
特別展「燕子花図と藤花図 光琳、応挙 美を競う」を観てきたことから,
趣きがない,
と感じたせいだ。もちろん,美術には素人の朴念仁の言うことだから,大した意味はないが,帰り道,そう感じたことに気づいたのだ。
展覧会の趣旨では,
国宝「燕子花図屏風」の季節が,今年もやってきます。このたびは,尾形光琳の筆になる「燕子花図屏風」を,それからおよそ70年後,同じ京都で円山応挙が描いた「藤花図屏風」とともに展示し,美を競わせる趣向です。衣裳文様にも通じるデザインを,上質な絵具をふんだんに用いてあらわした「燕子花図屏風」と,対象の細やかな観察と高度で斬新な技法が融合した「藤花図屏風」。対照的な美を誇る2点の作品を中心に,琳派の金屏風の数々,さらには応挙にはじまる円山四条派の作品を加えて,近世絵画の魅力をご堪能いただきます。
とあり,
尾形光琳筆「燕子花図屏風」
と
円山応挙筆「藤花図屛風」
を対比すると,いまでも通ずるデザイン風と写生の対比が狙いなのだろうが,それって意味があるのか?と感じた。別にガラス越しに見ることに不平があるのでもないが,屏風が,
絵
として展示されても,その意味は見えてこない。せめて,畳を敷いたうえで,家屋としての背景を考えるとかしてみないと,本当にこの屏風の趣きは,滲んでこない。
(真偽は知らないが)伊藤若冲のプライス・コレクションが来日した展覧会では,先方の要望で,行燈とか蝋燭だとかの,揺れる灯りの中で,いくつかを展示したとかという話を聞いたことがある。そういう展示をしなければ,その絵の持つ意味が見えないと,コレクターは感じ取ったことがあるのではないか。
とりわけ,屏風も襖絵も,
その場,
とセットになっている。そこで見るから意味がある,それを場から切り離したのでは,群れで生きる野生動物を,折の中に入れて鑑賞するのに似ていなくもない。
花田清輝が,
猿知恵とは,猿のむれの知恵のことであって,むれからひきはなされた一匹もしくは数匹の猿たちのちえのことではない。檻のなかにいれられた猿たちを,いくら綿密に観察してみたところで,生きいきしたかれらの知恵にふれることのできないのは当然のことであり,観察者の知恵が猿知恵以下のばあいは,なおさらのことである。
と,皮肉たっぷりに言っていたのを不意に思い出す。
鑑賞者がトウシロウの場合は,なおのこと,そこに,技術が読めるわけでもなく,ただ感心して通り過ぎるだけだ。それなら,時代の「場」のただなかにおいて見たら,時代の中で,それがどのような,
味わい,
を醸し出していたのか,少なくとも,雰囲気として実感できた,そんな,ないものねだりをしてみたくなった。
味わいとは,
陰影
なのだ,とつくづく思う。陰影とは,
奥行き
でもある。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『語感の辞典』(岩波書店)
花田清輝『鳥獣戯話』(講談社文芸文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年08月12日
光景
チケットが手に入ったので,国立新美術館の
http://www.nact.jp/exhibition_special/2014/orsay2014/
オルセー美術館展~『印象派の誕生 ―描くことの自由―』を観てきた。
案内には,
「テーマは『印象派の誕生』。1874年の第1回印象派展開催から140年 ― パリの美術界を騒然とさせた「新しい絵画」の誕生の衝撃が,選りすぐりの名画によって東京・六本木に鮮やかによみがえります。
マネに始まり,モネ,ルノワール,ドガ,セザンヌら印象派の立役者となった画家たちの作品はもちろんのこと,同時代のコローやミレー,クールベのレアリスムから,カバネル,ブグローらのアカデミスム絵画まで,まさに時代の,そしてオルセー美術館の「顔」ともいうべき名画が集結する本展に,どうぞご期待ください。」
とある。で,展覧会は,
1章「マネ:新しい絵画」
2章「レアリスムの諸相」
3章「歴史画」
4章「裸体」
5章「印象派の風景」 田園にて/水辺にて
6章「静物」
7章「肖像」
8章「近代生活」
9章「円熟期のマネ」
の構成になっていたが,別段絵の玄人でも,造詣があるわけでもないし,入場制限するほどの混雑ぶりで,それだけでも辟易し,人垣の後ろから,さっさと観て回っただけなので,偉そうなことを言える立場にはないが,ふいに,
そうか,風景を見つけたのか,
と,思わずつぶやいた。そう,画家が,風景を見つけたのだ,誰にとってもありきたりだった景色の中に,自分の描くべき風景,というか,書くべきテーマと言ってもいいものを見つけたのだ,と。
この,風景については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/398086771.html
で触れたことがある。それは,しかし,風景だけではない。
肖像として描くべき
人物
も,
家族
も
景色
も
情景
も
静物
も
すべてに当てはまる。そこに,自分のテーマを見つけたのだ,と。
展覧会に行ったときは,多く,気になった絵のポストカードを買う。今回買ったのは,
ルノアールの「イギリス種のナシの木」
と
マネの「ロシュフォールの逃亡」
である。特に,後者は,
http://orsay2014.jp/smartphone/highlight_works12.html
展示の掉尾に出会ったせいもあるが,人影の向こうで,目を引いた。
マネについて,深く知っているわけではないが,
こういう事件
をテーマとして描くことを,見つけたのだと思う。
総じていうと,
光景の発見である。
光景というのは,「ひかり・かがやき・めぐみ」が語源で,転じて景色らしいが,日本語では,
ありさま
情景
を意味する。画家が,見つけたものだ。現実のそれではないのだろう。ナポレオンに反旗を翻しブリュッセルへ亡命したという。しかし,それを,
小さな小船で荒海に漕ぎ出す
という光景の中に,物語を顕在化するという,テーマを見つけたのだといっていい。
昔から,
小説家は,時間を文字にとどめて描き出す
画家は,空間を二次元にとどめて描き出す
と思ってきたが,あるいは,違うかもしれない。時間と空間は一体である。
時空
という言葉が好きだが,
小説家は時間を通して空間を書き止め,
画家は空間を通して時間を描き止める,
のかもしれない。
その時,その場,
を現出することで,一つの視界を開いて見せる。
ロシュフォール
の名とともに,この光景が見えてくるだろう。
作家が見つけたものがすべてだ。その作家独自のパースペクティブに,見えたものが,観客(読者)にとっての新しい光景となるとき,その作家は,
時代の尖端に立っている。
絵画の専門家がどう見るかは知らないが,この
「ロシュフォールの逃亡」
に,作家が見つけた新しい光景を見た。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年10月18日
トリエンナーレ
ヨコハマトリエンナーレ,
http://www.yokohamatriennale.jp/2014/index.html
に行ってきた。地元にいながら,初めて訪れた。
トリエンナーレ(Triennale, Triennial)とは,3年に一度開かれる国際美術展覧会のこと。原意はイタリア語の「3年に一度」,
だそうである。因みに,
ビエンナーレ(biennale)とは2年に1回開かれる美術展覧会のことである。原意はイタリア語で「2年に一度」だ,そうである
横浜トリエンナーレ(よこはまトリエンナーレ,Yokohama Triennale)は,横浜市で3年おきに開催される現代美術の国際展覧会。
http://www.yokohamatriennale.jp/about/index.html
今回は,
華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある
というテーマで,もちろんこれは,
「華氏451の芸術」というタイトルは,言うまでもなく,レイ・ブラッドベリ作のSF小説『華氏451度』に由来している。いわゆる焚書がテーマの小説で,本を読むことも持つことも禁じられた近未来社会が舞台となっている。
という。そのコンセプトは,
「忘却の海へと向かう冒険の旅
ヨコハマトリエンナーレ2014がめざすのは
芸術的冒険の可能性を信じるすべての人々
そして、大胆な世界認識を持ちたいと望む
すべての人々と共に
「芸術」という名の舟に乗り込み
「忘却」という名の大海へと
冒険の旅に出ることである」
という。
このトリエンナーレのディレクターの森村泰昌氏は,こう書いている。
「これから私たちは,序章と11の挿話からなる
『忘却めぐり』へと旅だとうとしている。
語られないもの,語ってはならないもの,語りえぬもの。
見えないもの,見てはならないもの,見たくないもの。
とるにたらないものや,役に立たないもの。
失敗や敗北。
それら,記憶世界に残るすべもなく,どこかへと消えていった
膨大な数の忘れものに思いを馳せる旅である。
『芸術家』とは,忘却世界にむけられたまなざしの力のことをいう。
私たちは知らないふりをしていたり,
うかつにも見落としていたり,まったく眼中になかったり,
そういう忘れものに敏感に反応する超能力のことをいう」
として,会場は,
序章1 アンモニュメンタルなモニュメント
序章2 世界の中心にはなにがある?
第1話 沈黙とささやきに耳をかたむける
第2話 漂流する教室にであう
第3話 華氏451はいかに芸術にあらわれたか
第4話 たった独りで世界と格闘する重労働
第5話 非人称の漂流~Still Moving
第6話 おそべき子供たちの独り芝居
第7話 光に向かって消滅する
第8話 漂流を招き入れる旅,漂流を映しこむ海
第9話 「華氏451」を奏でる
第10話 洪水のあと
第11話 忘却の海に漂う
と物語を辿ることになっている。
必ずしも新作ばかりではなく,ルネ・マグリットあり,松本竣介あり,アンディ・ウォーホールあり,ジョン・ケージあり,と,有名無名が,テーマに沿って並べられている,ということになる。
ただ,専門家ではないので,素人の印象だが,コンセプトの仰々しさの割には,現代美術のもつ破壊力はなく,なんとなく,飼いならされたという印象を持った。それが,市主催ということの限界なのかどうかは知らない。
自分が面白かったのは,「第1話 沈黙とささやきに耳をかたむける」に置かれた,ジョン・ケージの,
何も書いていない五線譜
である。三楽章の4分33秒の空白を,その時間だけ立ち止まり続ける堪え性はなかった。
もうひとつは,「第4話 たった独りで世界と格闘する重労働」に置かれた,福岡道雄の
飛ばねばよかった
と題された,
「ため息を象ったとされるバルーンと空中に浮かぶ人形」
の造形である。バルーンは,内臓にも見える。バルーンを握った掌だけのものもある。ひどく,孤独というのもあるが,悲惨に見えた。そう,後悔そのものを写していると見えた。
いまひとつは,「第10話 洪水のあと」に置かれた,ディン・キュー・レの
「南しな海のピシュクン」
と題されたフィルムで,海面に,次々とヘリコプターが落下するのをひたすら写すフィルム。ただ単純なのだが,次の墜落を期待しながら見ている自分に気づいておかしかった。その意味が分からなかったが,後で,見ると,サイゴン陥落で,ベトナムから脱出しようとした米軍ヘリコプターが燃料不足で次々墜落するというイメージらしい。しかし,その意味が分からなくても,末世というか,終末を感じさせる。そこに,情緒を写さず,淡々と墜落させ続けるのが,悲惨である。しかし悲惨はまた, 部外者には滑稽に見える。
創造というのは,そこに,新しい視界,パースペクティブを開くものでなくてはならない,というのが持論である。
それは,
新しい風景を開くもの
であり,
まったく違う窓枠を開くもの
であり,
今までなかった視点を提示するもの
であり,
それを見せられたことで,世界を見る見方が変わる,というものでなくてはならない。
一方で,そこで描かれた世界は,リアル世界に依存しない,つまりリアル世界の意味と接続しないと理解できない,というものではなくリアル世界の文脈から独立した,そこに,独自の世界を現出させるものでなくてはならない。
しかし,他方,そこに自足して,ただその世界を閉じたものにしない,リアル世界と戦うものでなくてはならない。リアルなものの見方や価値を覆すものでなくてはならない。
その意味で,
ケージの楽譜
を超えるものは,僕には見つからなかった。
2014年11月04日
佇む
東京国立博物館の「日本国宝展」
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1648
に行ってきた。雨だから少しはすいていると思ったのが大甘で,20分待たされた。
展覧会は,
第1章 仏を信じる
第2章 神を信じる
第3章 文学,記録にみる信仰
第4章 多様化する信仰と美
第5章 仏のすがた
正倉院宝物特別出品
の順のはずだが,混雑の都合か,係員に指示された入ったところは,第3章で,混雑する人の後ろから覗き見たり,流れに乗ったりして,人垣が途切れ,ちょっと隙間の出来たところに,その両像があった。一瞬喧噪が掻き消え,二体と僕だけがそこに向き合っている錯覚がした。
立ち尽くしたというと,大袈裟だが,観音菩薩坐像(右)・勢至菩薩坐像(左)を前に,しばし佇んでしまった。
http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage128.htm
http://kokuhou2014.jp/smartphone/highlight_works20.html
三千院・往生極楽院阿弥陀堂・御本尊阿弥陀三尊坐像の,阿弥陀像の右脇侍,観音菩薩坐像と左脇侍の勢至菩薩坐像が,写真の阿弥陀像の左右に侍して並んでいた。観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ,勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる,とか。
左右両脇侍は大和座り(正座)をして前かがみになっている。この坐り方自体が珍しいそうである。
「死者を極楽浄土に導くために来迎する阿弥陀如来にしたがう二体の菩薩の,膝を開いて正座し,上体を前かがみにする姿勢には,来迎像にふさわしい前方に向かう動きが感じられます。」
「大和座りの観音菩薩が差し出す「蓮華台」に乗って死者は極楽浄土に向かうと言われます。」
とか。「これに乗せてあげましょう」という声が聞こえたわけではないが,いずれそのうち,と感じたせいなのか,しばし佇んで,動けなかった,というか動く気がしなかった。ふいに,何かに,
打たれた,
という感じであった。もうお呼びが近いのかもしれない。まあ,対象は(伊勢神宮らしいので)違うが,西行の,
何ごとの おはしますかは しらねども かたじけなさになみだこぼるゝ
といった心境であろうか。ちと,西行に失礼か。。。。それにしても,昔三千院を訪ねたときのことはほとんど覚えていないのに。
しかし帰りに買った写真も,ネットで見つけた写真も,そのとき見た二体の持っていた雰囲気(から漂う印象)とは,まったく違う,別物であった。
もうひとつ,出口近くから,流れに逆らって,再度立ち戻って確かめたのが,
玳玻(たいひ)天目
http://bunka.nii.ac.jp/db/SearchDetail.do?heritageId=71152
である。
玳玻盞天目の名は釉調が鼈甲に似ているので付けられている,とある。天目の玳玻盞があり,一名鼈盞(べっさん)とも言われている,とか。玳玻盞の特色であります鼈甲釉は,黒飴釉をかけた上に,ワラ白釉(失透性のワラ灰釉)を斑にふりかけたもので, さながら鼈甲のような釉調である。直で見ると,
パンフレットに載っている大井戸茶碗
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1648#1
よりは,カタチがいい気がした。まあ,所詮,素人の好みなのかもしれない。
天目の評価は曜変天目や油滴天目など建窯で焼かれた建盞のなかの極上品が最も評価が高く,それらに次ぐものとして見込みに文様のある玳玻盞が珍重されているというが,かつて見た曜変天目
http://www.seikado.or.jp/040201.html
よりは,僕個人はこの方がいいように感じた。これについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163135.html
で書いた。
国宝の17%だかが,渡来品らしいが,それは,逆に言うと,中国の書籍が,本国になくて,日本にある,ということがあるらしいのと同様,いかに,中国をはじめとする外国から真摯に学ぼうとしていたか,という軌跡であると同時に,はるばるやってきたものを,筆写したり,大事に保存してきた,という証でもある。多く朝鮮の磁器や陶器には,文禄・慶長の役で,陶磁器だけではなく,陶工すら略取してきたということを思うと,心穏やかではない。たとえば,薩摩焼のようにそうした陶工によって受け継がれてきたものが少なくない。
ところで,「禅機図断簡 智常禅師図」にある,
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/003.html
この絵を描いた「因陀羅」は,インドの帰化僧らしいが,中国の史書には,その名がない。題詩の筆者・楚石梵琦は,月江正印と並ぶ元時代の高僧で,正統的な書の系譜に属した能書とされる,と残っているのに。因陀羅の名は,極東の島国の,この絵の中だけに残されている。思えは,東大寺の大仏の開眼法要で,導師はインド人であったと言われている。いまよりはるかに仏教が,国際的であった時代の名残りと言えば言えるのかもしれない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年11月25日
見つける
このところ,たまたま,時間調整に,美術館に立ちよる機会があった。せんだっては,出光美術館に,
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/index.html
伺った。まったく柄にもなく,乾山,仁清という,『お宝鑑定』という番組で,小耳にはさんだ程度で,何もわかりはしないが,ぐるりと一周し,結局,
いずれも,野々村仁清の,
白釉耳付水指
の二点が,目に留まった。一点は,
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/highlight.html
もう一つは,写真がないが,もう少し濃い目の,うっすらと紅や青が滲んでいたと思う。いずれも,その淡い色合いに惹かれた。薄青や薄紅がほんのりと,グラデーションになって滲み出てくるのが,どこか控え目で心惹かれた。
素人ゆえに,白磁と白釉の区別がつかないが,
白磁は,白素地に無色の釉薬をかけた磁器,白釉は,白い釉薬であるが,中国陶磁では白の化粧土の上に透明釉をかけたものを白釉とよび,白磁と区別している,
という。しかし素人にはよくわからない。少なくとも,沈んだ,穏やかな表情に,仄かに滲んでくる,はにかみのような朱や雲に透ける蒼穹の色合いが,心を落ち着かせる気がしてならなかった。
案内には,
「色絵が大名家の注文品であったのに対して,白釉や銹絵は京都御所の公家屋敷跡から多く発見され,公家たちの好みを反映している,」
とあるが,「白磁や,無釉の土器のもつ清浄さ,簡素さへの希求」という公家好みを反映しているらしい,という。
僕はそんな上品な好みの持ち主ではないが,このところ,にぎにぎしい絵付けよりは,シンプルで,清潔な図柄を好むようである。
もうひとつ目にとめたのは,同じく仁清の,
色絵熨斗文茶碗
で,熨斗文を,赤,藍,緑でシンプルにちりばめた感じが,いかにもおしゃれであった。
http://blog-imgs-47-origin.fc2.com/a/r/t/artmeg/blog_import_4d05a2b9e336e.jpg
写真だとちょっとぼやけているが,印象では,輪郭がもう少し際立っていた感じがある。今風の洗練されたデザインの印象を受けた。
これは別の話だが,白釉が好きだと感じたのは,先だって,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/409228284.html
で書いた,白髪一雄の『白い扇』に惹かれたのも,ひょっとすると似た好みなのかもしれない。(表面的だが)静かな佇まいに,滲んでくるような,喜びとか,哀しみの淡い色合いが,あるいは,沈んだ静かな怒りを含んで抑えた静まりといった表情が,どうやら好きらしいのだ。
そこで触れた,堂本尚郎の,
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/works/68/
やザオ・ウーキーの,
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/works/75/
も,僕の中では,同じ一つのラインの中にある気がする。
さて,この後,時間調整した,本来の目的の,
https://www.facebook.com/events/808999055808927/?ref_dashboard_filter=upcoming
に伺わせていただき,31名の作家の方々の作品,
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=736480323101926&set=a.488373337912627.1073741840.100002198940716&type=1&theater
大体一人三点くらいの展示だったと思う。15年の仕事の成果が一堂に,手がけた作家の作品として並べられる,というのは,何という誇らしさであろうか,と羨望を隠せなかった。
ところで,そこで僕の目にとまったのは,長濱恭子さんの作品だった。たしか,『潮』と題されたもので,日本画なのだろう,青のグラデーションに,銀箔が,波頭のように貼られている。
なぜか,この絵も,僕にはシンプルに見えた。どうやら,具象よりは,抽象の方が,いまの僕は絵と自分の心との距離を取りやすいらしく,そこに欲しい心境を見つけたがっているらしい。
多分そう穏やかな絵柄ではないはずだが,なんとなく,心のバランスが取れるらしく,三点の中では,#008が一番心地よく,しばし佇んでいた。
それにつられて,会場に置いてあった案内ハガキの個展に,後日脚をのばしてみた。
http://kyokonagahama.jimdo.com/%E5%B1%95%E7%A4%BA%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/
前出の三点のシリーズもの(『潮』)の続きが展示されていると同時に,『樹紋』と題されたシリーズもあり,
http://kyokonagahama.jimdo.com/%E4%BD%9C%E5%93%81%E7%B4%B9%E4%BB%8B/
これもなかなか面白かった。地衣を元にしているようだが,現物の地衣は,
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%A1%A3%E9%A1%9E#mediaviewer/File:Beech_Lichen.JPEG
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%A1%A3%E9%A1%9E#mediaviewer/File:Kajyoutii.jpg
こんな感じで,確かに,天然の織り成す模様で,心惹かれるものがあるのはわかる気がした。これ自体が,創り出されたデザインに見える。記憶に間違いなければ,確か南方熊楠が,この研究に生涯を懸けたはずだ。ちなみに,作家に教えていただいて,ちょっと調べてみると,地衣は,苔ではなく,
地衣類は,菌類(主に子嚢菌類)と藻類(シアノバクテリアあるいは緑藻)からなる共生生物である。地衣類の構造は菌糸からできている,
とある。樹皮に貼りつくように模様をなしているので,言われてみれば,「樹紋」に違いない。このシリーズも惹かれる。ただ,正直言うと,『潮』シリーズは,前述の三点を見つけたときほどの感動がなかったのは,同じシリーズがあれだけ並ぶと,「三点より濃い目にしている」と作家は言われたが,その微細な差異が目に留まらなくなってしまった。素人の哀しさである。むしろ,『樹紋』に心を強く引っ張られた。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年11月28日
ヴラマンク
また,時間を調整するために,「夢見るフランス絵画 印象派からエコール・ド・パリへ」
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/14_france/index.html
に行ってきた。正直のところ,大して知識があるわけでもないが,印象派と聞いただけで,またか,と思ってしまい, 本当に時間つぶしのつもりででかけた。誠に,失礼な話である。しかし,
モネの,
『睡蓮のある池』
も,なかなか見ごたえがあったし,ルオーの,
『農婦』
http://ameblo.jp/0826hide/image-11954307326-13121075791.html
も,背中に背負っているような宿命というか黒い重荷のような影が,苦難そのものを示すように,深く心に滲みたし,同じルオーの,
『道化』
の,心の内の奥の怒りと荒みの出た表情は,思わず目を背けたくなった。また,モディリアーニの,
『バラをつけた若い婦人』
http://ameblo.jp/0826hide/image-11954307326-13121072901.html
『小さなルイーズ』
http://ameblo.jp/guy503/image-11831300855-12917663490.html
も,遠くから目を引く,というか,遠く離れてみると,それが際立って見えてくることに気づく。しかし,そのすべては,モーリス・ド・ヴラマンクの,
『赤い屋根のある風景』
の強いインパクトに較べると,総ては,地として沈んでしまう気がした。その前に,展示の順序としては,
『橋のある風景』
と
『カシスの港』
が並んでいたはずだが,余り気にも留めず,スルーしていった。で,『赤い屋根』に立ち止まって,初めて,先の二作品に戻った。しかし,スルーしただけあって,僕には強く惹かれるものがなかった。ま,あくまで,絵画にも,絵画史にも疎い,素人の印象なので,当てにはならないが,続く,
『雪の道』
http://blogs.yahoo.co.jp/les_fleurs3106/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fblogs.c.yimg.jp%2Fres%2Fblog-27-8e%2Fles_fleurs3106%2Ffolder%2F1711378%2F51%2F40491351%2Fimg_2%3F1216133571&i=1
ももっといい。さらに,
『嵐のあとの村』
http://jirokayo.up.n.seesaa.net/jirokayo/image/2014053120painting2.jpg?d=a1
もいい。
画面の奥に消えていく道という絵が多いのに気づく。それに惹かれたのではない。見ているうちに,自分の心の暗がりを映し出すような感覚に捉えられるのである。デジャブではない。見たこともない道なのに,いま自分が,その消えている道にの向こうに向かって歩いていく,という感覚に捉えられる。そう,その世界が,僕の心の中と直につながっている。僕がその道に立っているのか,僕の心の中のその風景に,僕は向き合っているのか,その微妙な,重い感覚は,しばらく,ヴラマンクの10点の絵を,行きつ戻りつさせた。会場にいた時間の半分は,そこにいたような感じがする。
『踏切のある風景』
https://d188f501vi07da.cloudfront.net/jp.hpa.info/3094ce0f571b3f8876dde794d86cdffa.jpg
もやはり道が続く。
知っている人にとっては,何をいまさらと,笑われそうだが,少なくとも,僕の心の何かとつながった感覚であることは確かなのだ。僕はまたいい絵と出会えた気がする。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年12月13日
意味
忘年会の道筋だったので,ちょっと早めに出て,『H EYES2014 岩河亜紀・久野悠展』,
https://www.facebook.com/events/1505589893049605/?pnref=story
に伺った。ぐるりと観て回りながら,つくづく,自分は意味にこだわるタイプだと思った。確か,柄谷行人に『意味という病』というタイトルの本があったと思うが,病気といえば病気かもしれない。
ただ,僕は仕事柄,ヴァン・ファンジェの,
創造性とは,既存の要素を新しく組み合わせること,
というのにこだわってきた。スティーブ・ジョブズは,それを,
創造性とは結びつけること,
と言った。しかし,これでは十分意図が伝わらない。これを,
本来バラバラで異質なものを新しく意味あるようにむすびつけ,秩序づける
と,川喜田二郎は言った。似ているようで,まったく違う,と僕は受け止める。
意味あるように結びつける,
のである。あるいは,
結びつけることで新しい意味を見つける,
と言ってもいい。あるいは,
意味のある結びつきを発見する,
と言ってもいい。眼目は,結びつけることではなく,意味の発見なのである。機械的に結び付けたら,新しい何かが生まれるのではない,結びつけることで,新しい意味が見つけられなくてはならない。それが,
新しい秩序,
という意味だ。それを,僕は,
視界が開ける,
と呼ぶ。新しいパースペクティブが開ける,のである。意味とは,そういうことである。たとえば,古いが,
ラジオとカセット
を結びつけた,ラジカセは,まったく新しい視界を開いた。しかし,携帯電話にカメラを付けたものは,使うシーンを格段に広げたが,別に新しい視界を開いたとは思わない。ただの多機能携帯電話でしかない。僕は,この多機能と組み合わせの乖離に,創造性との距りを見る。
余分なことを言った。今回, 久しぶりの久野悠さんと,個展以来の岩河亜紀さんの組み合わせが,意外と意味をいろいろ発見させてくれた。その岩河亜紀さんの個展のことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/407417550.html
で触れた。素人の僕の勝手な思い込みに過ぎないが,今回,岩河亜紀さんの絵が,今までとは違って,少女が単に何となくかわいらしいだけではなく,
物語
を背負ったというか,少女を描いた絵そのものが,その具象そのものが,
メタファー
を,言い方は悪いが,寓意で言うところに似た意味を, 醸し出している気がした。絵の向こうに,意味が見えた気がした。たとえば,タイトル(うろ覚えで申し訳ないが)に,
『なぐさめ』
『すてきなともだち』シリーズ
『おひるね』
『ひみつの場所』
等々にもそれが感じられる気がした。以前もそんなタイトルを付けておられたかもしれないが,もしそうだとしたら,その絵が,タイトルに追いついた(失礼!)という気がする。絵に世界が伴った,というと,ちょっと思い込みが過ぎるか。
この展覧会では,僕には,久野悠さんの,
『あきのいろ』
が一番いい。猫の前に枯葉が,という絵柄だが,その具象が,メタファーになっている。それと並んで,藤の花と猫があるが,作家の方の意図は別にして,絵としては,圧倒的に『あきのいろ』が成功している。不思議に,この絵には,秋がまぎれもなくここにある,という気がした。
絵に意味を見る,
というのは邪道かもしれない。しかし,この絵の隣の,大作,
『梅香に酔う』
と比べると,中心の雀が邪魔して,梅の香が,絵から消えている気がした。絵の構図としては安定しているかもしれないが,『あきのいろ』の猫が邪魔しないようには,この絵の雀はなっていない,そんな気がした。
意味というのは,
意味を読む
とも
意味を見つける
とも
意味をかぐ
とも
意味を探る
とも
意味を解く
とも
意味を託す
とも,違うのかもしれない。素人の自分が,言うのもおこがましいが,
作家の載せた意味
と
観客が作家の描いた絵に見た意味
とは違うかもしれない。しかしいずれもその作品から出ているものなのである。それが違う受け取り方であるとしても,僕が受け取った意味と,作家の意図した意味とがぶつかり合うから,そこに新しい意味が見えてくる。絵を鑑賞する,とはそういうことなのではないか,と感じている。
もし,作家が見ていた世界通りに観客が見たとしたら,その絵の世界は,(作家の内的世界に)自己限定された狭い世界に過ぎない。作家の見せようとした意味と,それとは異なる世界をその絵に見たからこそ,その絵がオープンな世界を開いていくといえるのではないか。その異なる両者の意味の結びつきの中から,新しい世界を開いていくとしたら,その絵は,あるいは,いままでにない新しい世界を見せている,ということになるのではないか。
それで思い出したが,最近,たけしが,初監督作『その男、凶暴につき』を批判したおすぎに,自分の用いた演出意図を披露し,「(おすぎは)全然わかっていない」と言ったそうだが,判っていないのは,たけしの方である。作品は,世に出た瞬間から,作家の意図した意味と観るものの感じた意味とのキャッチボールであり,衝突である。そんな当たり前のことをたけしが弁えていないことに,むしろ驚くと同時に,多分おすぎが,(たけしの)予期せぬ意味を見つけて,たけしがひびったのではないか,と勘繰りたくなる。明らかに,たけしの負けである。「俺の意図はな,…」などとネタを明かさなければ伝わらないのなら,その意図は,映像表現として失敗したのである。
観る側とのキャッチボールがあるから,新しい意味が見える。そんなことを再確認した展覧会であった。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年12月19日
透明
少し前のことになるが,友人が吹きガラス作品を展示しているというので,
http://www.knulpaa.com/%E9%9D%92%E6%A8%B9%E8%88%8E%E7%A1%9D%E5%AD%90%E5%B7%A5%E6%88%BF%E5%B1%95_2014/
に伺ってきた。吹きガラスというのは,
「熔解炉などで高温溶融されたガラスを,吹き竿に巻き取って,息を吹き込んで成形するガラス工芸技法」
だそうであるが,「空中で息を吹き込む『宙吹き』と,型に入れて空気を吹き込む『型吹き』」があり,
「はじまりは,『型吹き』だったといわれている。模様をつけた型に溶けたガラスを流し込んで,パイプで息を吹き込む。すると,凹凸が逆になった模様がガラスに写しとられる。ローマ時代には,石や粘土の型がさかんに使われていたらしい。『宙吹き』が確立されてからは,さらに簡単に,さらに早く,ガラス製品が作れるようになり,それまでの製造法に比べて,200倍近い生産ができた,ともいわれる。」
なのだそうであるが,この宙吹きと呼ばれる製造法は,
「エジプトのアレクサンドレイアで,紀元前1世紀の後半に発明された」
というから,かなり古くからある。
「もともとは植物の灰の中の炭酸カリウムを砂の二酸化ケイ素と融解して得られたので,灰を集めて炭酸カリウムを抽出するのに大変な労力を要したのでガラスは貴重なもの」
だったに違いない。僕のイメージでは,
江戸風鈴(ガラス風鈴を戦後になってそう名づけた)
というか
ビードロ
がそうなのではないか,と思う。ビードロは,
ガラスの古称。室町時代末にポルトガルやオランダから長崎にもたらされた舶来のガラス器の当時の呼称,
で,ギヤマン・ガラスとも称した,というが,例の,切手にもなった,喜多川歌麿の美人画で,『ビードロを吹く女』が思い浮かぶ。
これは,ぽぴんは,ぽっぺん,ぽんぴん,ぽっぴんともいう,近世のガラス製玩具。こんな説明がある。
「首の細いフラスコのような形をしていて,底が薄くなっており,長い管状の首の部分を口にくわえて息を出し入れすると気圧差とガラスの弾力によって底がへこんだり出っ張ったりして音を発する」
という。ガラス製なので,ビードロと,当時のポルトガル語で呼んだのだろう。
吹き出してカタチにしていくところは,何だろう,空気を形にしていく感じがある。もともと透明にするのが難しかったはずで,
吹きガラス技法によって,ガラスは光を通すという特徴を持った,
という説明があった。それまでの方法(型に入れて空気を吹き込む「型吹き」)では,ぶ厚くて透明度の低いガラスしか造ることができなかったようだ。
「透明に近づいた理由は,より薄いガラス器が作れるようになり,光が通りやすくなったことと,ガラスを溶かす窯が進歩し,より高温でガラスを造れるようになったので,ガラス内の空気の泡や不純物が少なくなったこと,また,まじりものが少なくなったため」
だとされる。
たぶん,透けて見えるということの感動は,ある種,
光を手に入れた感じ,
に近いのではないか。で,ふと疑問を感じる。いつ人類はガラスを手に入れたのか。
「紀元前4000年より前にエジプトやメソポタミアで二酸化ケイ素(シリカ)の表面を融かして作製したビーズが始まりだと考えられている。原料の砂に混じった金属不純物などのために不透明で青緑色に着色したものが多数出土している。」
という。ただ,天然ガラスの利用はさらに歴史はもっと古く,
「火山から噴き出した溶岩がガラス状に固まったものは黒曜石と呼ばれ,石器時代から石包丁や矢じりとして利用されてきた。古代ガラスは砂,珪石,ソーダ灰,石灰などの原料を摂氏1,200度以上の高温で溶融し,冷却・固化するというプロセスで製造されていた。」
という。ガラスというのは,
「昇温によりガラス転移現象(ガラス転移が起きる温度)を示す固体となる物質。このような固体状態をガラス状態と言う。古代からケイ酸塩を主成分とする硬く透明な物質」
を,まあ,総称してガラスというらしいが,熔解温度を下げるのと,透明度を下げるという矛盾した課題を達成する努力が重ねられ,無色透明のクリスタルガラスに至ることになるらしい。プラスチックも合成樹脂もその延長線上にある。
しかし,透明というなら,氷の造形というのもある。しかし,調べてみたが,よくわからない。氷で造形しようと思ったのは,ガラスからの転用なのではないか,と疑ったが,あの削り出す作り方は,彫刻の延長というふうに考えた方がいい。
いやいや話がずれた。どうも,造形しやすさと透明性とは別の魅力が,今日の吹きガラスをしようとするのにはあるのではないか,という気がしないではない。
ひとつとして同じものはない,
そうだが,そこには,一つ一つを吹く時のこちらのありよう次第で,変わるということだ。技量もそうだが,作り手の気分や精神のありようも左右するに違いない。もし同じものを造ろうとするなら,型にはめた方が早い。そうではなく,一つ一つ違うから,造るのが面白いのではないか。
ここからは想像だが,吹き手の手練に応じて,カタチもさることながら,薄さと透明度が勝るのではないか。透明とは,
その先にあるものが透けて見えること
である。こんな説明があった。「透明」とは,
「光(可視光線)に対してのことを言う。そして光は電磁波の一種であるので,『透明である』とは,その物質と電磁波との間に相互作用が起こらず,電磁波の吸収および散乱が生じないということを意味する。ある物質が電磁波を吸収する場合,その物質は吸収した波長の補色に色づいて見える。例えば,葉緑素は赤色に相当する680–700 nmの波長の光を吸収するため,補色の緑色に見える。」
透明であるとは,光の存在を証明していることだ。あるいは,光そのものを造形する,といってもいい。より薄く,より透明に,よりイメージ通りの造形,というところに,何千年も前からの人類の努力の延長線上にある,と思うと,ちょっと見え方が変わる。
参考;
「吹きガラス技法」http://www.agc.com/kingdom/manu_process/history/history05.html
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年02月11日
メタファー
若林奈穂/中西静香展に伺ってきた。
https://www.facebook.com/events/906547656035742/?sid_reminder=6286788946802245632
そこで,メタファーを思った。メタファーは,見立ての一種である。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/408700916.html
で書いた。喩えという概念では,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/401399781.html
に書いた。だから,厳密に言えば,メタファーは,隠喩,つまり,言葉表現における,喩え方になる。しかし,ここでは,もう少し広く,アナロジーの意味で使ってみる。隠喩は,ある意味,言語の美,つまり表現の原点である。
もともと,表現とは,
現実を丸める
ことだ。丸め方が,言語で言えば,直喩でも隠喩でも,あるいは絵で言って,糞リアリズムでも,シュールリアリズムでも,それが作家にとっての表現世界であるなら,同等になる。ただ,あえて,ここでメタファーということを言い出したのは,
『トオリミチ』
という作品を前に,作家の方(中西菜穂さん)と話をしていて,
「普段通っている道」
を描いた,と言われたことから感じた。「通り道」ではなく,
「トオリミチ」
と題すること自体が,現実をどう丸めるかの,作家の意匠があるが,その作品自体が,抽象度の高い階段を抽出して描いており,すでに,その段階で,
メタファー度,
を高めている。寓意といいかえても,この場合,同じだろう。
具象を,極端にドアップすると,具象の形が消えて,何かの喩えのようになることがある。その意味で,現実の意味が捨象され,それ自体がどこかの「道」であるのをやめて,ある種の「ミチ」そのものになる,と言い換えてもいい。
この作家のものは,『ラセン』もいいが,もともと「螺旋」というもの自体が抽象度の高いものなので,それより,
『クロス』
がいい。視界を限る,メガネフレームのような枠取りが,意図的らしい。僕は,マッハの,自画像と題された絵を思い出した。。
その絵は,寝椅子に横たわる自分が,自身にどう見えるかを示していて,マッハはこの奇妙なデッサンを,「自己観察による私」と名づけた。鼻の左側に開けた視界に,肩の突端になびく髭,下方にむかって短縮された遠近法で,胴,肢,足と順次つづいていく……。
もちろん,そう見えるはずはない。その意味では,視界の狭さのアナロジー,
自分の視野の限界を表現するメタファー
になっている。ある意味,絵は,作家の視界(思考か感覚かの)を通したものだから,僕には,その視界の限界をあえて表現する意図がはかりかねた。
言葉にすることは,それ自体で,現実を丸めることだ,というか,丸めなければ言葉にはならない。太古,クロマニヨン人の描いた壁画も,彼らなりに現実を丸める意識(それがリアルに写そうとしたか,意識的に神格化しようとしたかはどうでもよい)がなければ,絵にはならない。それは,対象(現実)への距離の取り方を身に付けている,ということだ。もともと,距離を取るということは,パースペクティブを決めるということだ。パースペクティブを決めるということは,視角を決めるということに他ならない。この場合,アングルと言い換えても同じことだろう。
展覧会では,もう一人の作家(中西静香さん)の絵も,
「みさき」(という表示だったと思う)
がいい。まあ,最もメタファーが機能している気がした。この作家は,淡い色調,パステルカラーが好みらしいので,もう一人の作家と好対照だが,色そのものが,淡くされることで,現実が丸められるところがあるのだと,改めて,感じ直した。その指向自体に,作家の志向がある。
ただ,思うのは,色でするにしろ,抽象度をあげるにしろ,メタファーの,喩えの元がそこから透けて見えているのは,「何々の」喩えに留まって,作品が,そのリアルの影に引きずられることになる,という気がしている。まあ,あくまで僕の好みに過ぎないが,個人としては,それは,作品としての自立と相反する気がしている。メタファーであるレベルを,いかにして脱するかが,どの分野においても,格闘のすべてなのではないかと思う。
その意味で,メタファーを感じ取らせたのが,正否いずれかは,僕には判別はつかない。
参考文献;
エルンスト・マッハ『感覚の分析』(法大出版局)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年03月20日
仏像
丁度目的地までの時間つぶしのつもりで,東京国立博物館の特別展「みちのくの仏像」
http://michinoku2015.jp/highlight.html
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=4216
に伺ってきた。別に仏像に凝ってるわけでも,マニアでも,造詣が深いわけでもないが,仏像との出会いがいい。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413133184.html
でも書いた。
「いい仏像を前にすると,大きさや輝きとは別の,大いなる雰囲気,醸し出す空気の中にいる,という感じがしてくる。引き込まれるとか,圧倒されるとかといったこととは異なる,周りには人のいないかの如く,ただその仏と一対一で向き合っている,そんな感じである。包まれているとか,見つめられている,と言うのとも少し違う。ただ,そこに立つ自分に対して,確かに,
向き合っている,
という感覚なのである。」
という感覚を味わいに出かけたようなものだ。客観的に仏像の出来不出来,国宝かどうかという評価とは別に,その仏像に面したとき,自分が周囲の人ごみから切り離され,まるで一対一で向き合っているような,あるいは,ただひたすら自分だけを視られているような,そんな感覚が,僕に瞬間来る。それが僕の,その仏像の,
いい悪い,
の評価でしかない。
案内パンフには,
「みちのくの仏像といえば、 一木造 ( いちぼくづくり ) 、 素地 ( きじ ) 仕上げ、力強い表現 などが思い浮かびます。その顔は悟りを開いた超越者ではなく、人間味があります。 厳しい自然に生きた人々の強さと優しさが表れているようです。」
とあり,
東北の三大薬師,
といわれる黒石寺(岩手県)・勝常寺(福島県)・双林寺(宮城県)の薬師如来坐像が,この特別展の売りであるらしい。しかし,僕は,会場へ入った直ぐの,入口正面に立った,
聖観音菩薩立像(岩手・天台寺),
http://blog-imgs-71-origin.fc2.com/y/a/m/yamatokoji/20150221223150661.jpg
で立ちどまり,出口まで見終わって,また戻った。「鉈彫像」らしいのだが,そんなことよりは,佇まいがいい,と感じた。
違う意味では,同じ天台寺の,
如来立像,
の表情もいい。どこか近所の寺の知り合いの住職といった雰囲気の,朴訥さが顔に現れている。こんな顔の如来像は,初めてみた。これを拝む人には,親しみと和やかさを感じたに違いないと,思わず,笑みを返したくなった。
東北の三大薬師,
のなかでは,
勝常寺の薬師如来坐像,
http://www.vill.yugawa.fukushima.jp/kyouikuiinkai/bunkazai_02_chokoku.html
がよかった。
如来像の頭頂に一段高く隆起 した部分を,「肉髻(にっけい)」(と言うらしいが),あるいは「頂髻(ちょうけい)」(とも言うそうだが)が,その部分がとりわけ大きい。ちょうどお鏡さんをかぶっているように見える。そこは,
智慧が多く脳みそが多く詰まっていることの象徴,
らしいから,とりわけ知恵を願ったのだろうか。双林寺の薬師如来坐像も,
http://www.pref.miyagi.jp/site/sitei/03yakusi.html
その傾向があった。
今回の展示には,円空作の立像が三体あったが,思わず立ち止まったのは,青森・西福寺の,
地蔵菩薩立像,
http://blog-imgs-71-origin.fc2.com/y/a/m/yamatokoji/20150222000056fce.jpg
だ。
口元が微笑んでいるように見える。ちょっと口元の部分がへこんでいるのである。小さいのでわかりずらいかもしれないが,こんな地蔵像は見たことがない。厳かさはない。ないが,これを見ると,つまらぬことに拘泥する煩悩の徒を,笑われているような気がする。(よく知っているわけではないが)円空らしい,と感じた。
もう一つ気になったのは,青森・恵光院の,
女神坐像,
http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=viewphoto&id=579&c=5
である。霊峰作井岳のふもとに伝わる,と注記があった。仏教的と言うより,八百万神の一人であるような雰囲気で,母なる山の神そのもののように見え,誰にとっても,自分の母親のイメージを思い浮かべさせるが如き印象を受けた。これだけが異質で,浮き上がって見えた。
最後に,宮城・給分浜観音堂の,
十一面観音菩薩立像,
http://michinoku2015.jp/smartphone/highlight_works04.html
がとりわけそう感じたが,総じて,「陸奥の仏像」は,小鼻の張った,顔の真ん中に蟠踞した(胡坐をかいた)ように,鼻が大きい。三薬師坐像もそうだ。
かつて,都から招かれてきた仏師は,当時の東北の人々の顔を写してそうしたのだろうか。あるいは,単なる思い過ごしかもしれない。でも,僕には,東北の仏像が,総じて,大きな鼻を持っているというのが,気になった。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年03月23日
絵画者
墓参りの途中で鰻を食べに途中下車した浜松で,近いと聞いて,浜松城まで出かけ,正直,トイレを借りるつもりで入った美術館で出会い,
絵画者・中村宏展,
http://www.hcf.or.jp/calendar/detail.php?id=15083
http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/46201/
を拝見してきた。御存命であるが,大学時代の作品から最新作まで新旧の名作を一堂に集めた回顧展である。
パンフレットには,
「本展は、当館所蔵作品、国立近代美術館ほか日本各地の美術館に所蔵されている作品、作家蔵の作品から、表現の変化が見られる各時代の代表的作品約60点を紹介します。大学時代に描いた作品から、最新作である『消失点』シリーズにいたる作品を7つの章に分けて展示することで、その画風の変遷を紹介し、絵画者・中村宏の全貌に迫ります。『絵画とは何か』という問題に真摯に向き合った作品群から、改めて『絵画を観る楽しさ』を味わっていただけたらと思います。」
とある。中村宏についても,
「1950年代からおよそ60年にわたり、『ルポルタージュ絵画』、『観念絵画』、『タブロオ機械』といった独自の方法論を展開し、今なお第一線で活躍しています。自らを『絵画者』と名乗り,タブロオ(板絵やカンヴァス画、完成された独立した絵画)を理論化し、新たな絵画表現を切り開いてきました。
2012年には、ニューヨーク近代美術館(MoMA)において、戦後の日本の美術史を代表する作家の一人として紹介され、日本においても国立近代美術館、森美術館など数多くの美術館で取り上げられています。この時代と世界性のなかの絵画者は浜松市出身で、題材の原風景がこの浜松市にあるものも数多くあります。」
ともある。
中村宏,
児童文学の挿絵を担当する際は「中村ヒロシ」,
の表記らしいのだが,正直に言うと,うっすら名を聞いたことがある程度のお名前であった。しかし,なかなか面白い。回顧展なので,どう世に出て,何をしてきたかが,画期として,括られている。しかし,
ルポルタージュ絵画,
↓
モンタージュ絵画,
↓
観念絵画
↓
観光芸術,
↓
時の流れ,運動の変化を生み出す絵画,
と,ご自身のキャッチフレーズを,もっと正確に言うと,
旗幟,
を鮮明にして,描いてこられた軌跡が,これだけ鮮やかな画家(絵画者)は,日本には,余りいないのではないか。それだけ,テーマというか,問題意識(というか絵画理論)を鮮明にし,一貫して,絵に取り組んできた,という意味だろう。
絵画者,
と自称されているのは,画家や絵画作家や作家と言った(芸術家風の)呼称を嫌っている,という主張でもあるのだろう。
想像だけで書くので,間違っているかもしれないが,社会主義リアリズム,アヴァンギャルドといった,左派の芸術運動と関わりながら,やってこられたのであろうから,花田清輝や赤瀬川源平あたりともつながるのだろう,などと想像しながら拝見していた。
思想ないし,観念で,絵に取り組むというのが,是か非かは,知らない。しかし,観念が勝ちすぎると,ときに絵は,失速する,と僕は思っているが,そのつど,ご自分に超えるべきハードルを課し,それを超えていくエネルギーに驚嘆するしかない。ときに,観念が先立つことがあっても,僭越かもしれないが,その絵筆の技量が,それをカバーしている,という印象である(機関車をはじめとするメカニックなものの表出などでよくわかる気がする)。
社会主義リアリズムの「ルポルタージュ」期よりは,そこから脱出するエネルギーにあふれた,「モンタージュ絵画」期の絵がいい。
「島」
や
「基地」
や
「内乱期」
がいい。
「観念絵画」から「観光芸術」期の,代表作,
「円環列車・B-飛行する蒸気機関車」
も確かにいい。いいが,僕はリアリズムから脱皮し,蛻変していく作家のエネルギーそのもののような,変身期の作品群のもつ爆発力が一頭である。この辺りになると,ポップアートとつながるという意味では,横尾忠則とも隣接する部分がある気がする。
その意味では,社会主義リアリズムからの画期となる(出品目録からだけで言うが),
「島」
や,観念芸術の画期となる,
「場所の兆し」
といった,転換期の作品に,エネルギーがあふれているように感じる。ハードルを越える,「よっこらしょ」という掛け声が聞えそうである。いい表現かどうかわからないが,
猥雑さ,
がエネルギーの表現になっている。それが洗練されるにつれて,
端正に,
成るにつれて,思い過ごしかもしれないが,エネルギーが鎮静されていく気がする。
しかし,いい一期一会をいただいた。僥倖に感謝である。
2015年05月06日
マグリット
マグリット展,
http://magritte2015.jp/
http://www.nact.jp/exhibition_special/2015/magritte2015/
に伺ってきた。いまさら,トウシロウがうだうだ御託を並べるのも,巨人には失礼ながら,トウシロウ故に,まあ,多めに見ていただきたい。因みに,とうしろうとは,
しろうとの倒語だが,漢字では籐四郎と書く,
らしい。
観ながら感じたことは,実にわかりやすい,
創造性,
の見本だ,ということだ。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/397065033.html
等々で,何度か触れたように,創造性とは,ヴァン・ファンジェの,
既存の要素の新しい組み合わせ,
であるが,川喜多二郎が喝破したように,
本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,
ことである。もっと踏み込むと,
どんなものでもつなげることで新しい意味づけをしさえすればいい,
あるいは,
新しい意味が見つけられるなら何と何を結びつけてもいい,
と読み替えてもいい。となると,
結びつけ,
に意味があるのではなく,
意味づけ,
の方にウエイトがかかる。だから,ヴァン・ファンジェの言う,
既存の要素の新しい組み合わせ,
というのは,逆で,結びつけた結果,ただの,
既存の要素,
だったということなのであって,
新しい組み合わせ,
の「新しい意味」に意味がある。それは,いままで考えられなかったような意味を見つけ出すことがあって,そこで,初めて,要素のつながりに意味が見えてくる。それを,僕は,
新しい視界を開く,
と呼ぶ。マグリットの絵画は,
本人の言葉によれば,「目に見える思考」であり,世界が本来持っている神秘(不思議)を描かれたイメージとして提示したものである,
という。画家の後講釈程当てにならないものはない。むしろ,そう見てくれと言っているか,そう思い込んでいるだけかもしれない。作家が何と言おうと,
描かれた世界,
がすべてであり,世に出した瞬間,観るものに委ねられている。
一般に,マグリットの手法は,シュルレアリスムの,
デペイズマン (dépaysement)
である,とされている。この言葉の意味は,もともとは「異郷の地に送ること」という意味らしいが,
意外な組み合わせ,
によって,新たな世界を提示する,というものらしいのである。まさに,創造性は,組み合わせである,の見本である。ずいぶん昔,シュルレアリスムの真髄を,
「解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会いのように美しい。」
(英訳;"beautiful as the chance meeting on a dissecting-table of a sewing-machine and an umbrella!")
という言葉(ロートレアモン『マルドロールの詩』)にある,と読んだ記憶がある。そう,改めて,組み合わせ,ということに目が向く。
そう思うと,マグリット回顧展の頂点は,戦後にある,と見える。それまで(の作品群)は,僭越ながら,助走にしか見えない。
例えば,「ゴルコンダ」(Golconda 1953)は,
http://matome.naver.jp/odai/2138762921202942901/2138763844907800403
雨と人との組み合わせである。組み合わされて,そこに,ひとつのシュールな世界,いままで誰も見たことのない,新しい世界が拓ける。そして,マグリットの作品は,「タイトル」もまた,組み合わせの一つになっている。タイトルと絵とを合わせた,世界なのである。「ゴルコンダ」とは,
「1687年にムガル帝国によって滅ぼされたインドの都市の名前で、かつて富で知られた、幻の都のような都市であったという。」
その言葉のもたらすイメージと一緒にゆっくり落ちてくる,いや,浮いている,と見えなくもない無数の男たち,その瞬間,(僕の場合は)映画『メリー・ポピンズ』の,チンチムニー. チンチムニー チンチムニー チンチムチェリ,と歌いながら,メリー・ポピンズが傘を差している姿が重なって,ひとつの世界が,開いていく。
あるいは,例えば,「白紙委任状」(Le Blanc-Seing 1965)
http://matome.naver.jp/odai/2138762921202942901/2138763844907799703
これについて,マグリットは,
「見える物は常に他の見える物を隠している。誰かが馬に乗って森を通り抜ける場合、その馬と人物はときどき見え、ときどき見えなくなる。だが、存在していることは察知できる。また馬と女性はときどき樹木を隠し、馬上の女性だけを隠すこともある。」
と語っているそうだが,僕には,キュビズム(いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収める)の延長戦上と見えた(パースペクティブの否定であることは同じ)。つまり,いま見ている視点と,その向こうに隠れているものを見る視点を同時化する,と。それは,視点と視点の共時化(組み合わせである)。それに,「白紙委任状」というタイトルとも共鳴というか,共振れする。まあ,観るものがどっちの視点で(観て)もいい,と。
展覧会は,出口近くに,象徴的に,「イメージの裏切り」(1929)
http://www.ggccaatt.net/2015/02/12/%E3%83%AB%E3%83%8D-%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88-%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%81%AE%E8%A3%8F%E5%88%87%E3%82%8A/
が置いてある。パイプの絵に,
Ceci n’est pas une pipe
という言葉が添えてあり,パイプの絵だが,パイプではない,と書き,タイトルは,イメージの裏切りである。確か,昔,ミシェル・フーコーが同名のタイトルの本を書いていて,マグリット分析をしていたはずだ。
この絵が,出口に置いてあるのも,なかなか含意が深い。
帰路,ついでに,隣の国展,
http://www.kokuten.com/
を覗いた。ちょっと気になった作品だけ拾い書きしてきた。
大沼映夫『白彩降臨』
城康夫『景・1502』
久保田裕『ひろしま』
津地威汎『航海・・海の歌・・』
寺田和幸『自然観察の方法』
花田勝太郎『15-3SpecimenA・B』
しかし,新しい視界というよりも,どこかデジャヴ感が拭えなかった(失礼!)
参考文献;
http://matome.naver.jp/odai/2138762921202942901
http://www.ggccaatt.net/2014/06/22/rene-magritte/
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年07月26日
帰去来
久しぶりに横浜美術館に伺い,蔡國強展「帰去来」を観てきた。
http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20150711-449.html
http://yokohama.art.museum/special/2015/caiguoqiang/
圧巻は,「壁撞き」。
「約40メートルにもおよぶ、等身大の99匹の狼が群れをなして空を飛んで疾走。狼たちはガラスの壁に当たって落下するものの、立ち上がり群れの後ろについて何度でも壁に向かって挑みかかります。」
として,
「私たちの周囲には、文化や思想などの目に見えない壁があります。狼たちはその壁を越えようと、あきらめずに挑戦し続けているようにも見えます。」
との説明がある。しかし,ぼくには,例の集団自殺するという都市伝説のようなレミングに見える。それは,そのまま愚かな指導者に強いられて,狂気の特攻攻撃をしたのと同じ轍を,再び踏もうとするこの民族そのものに見える。個々の人の反発や異見をなおざりに,集団圧力で自死へと追い込む姿に見えて仕方がない。
こういうのは,インスタレーションと言われるものなのかもしれない。ンスタレーション (Installation art) は,
「1970年代以降一般化した、絵画・彫刻・映像・写真などと並ぶ現代美術における表現手法・ジャンルの一つ。ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術。」
だそうである。言ってみると,描かれたものを,部外者として見る立ち位置ではなく,その場の中に,当事者として立つ,ということを強いられる。思えば,Installationの動詞,installとは,ソフトをパソコンに組み込むときのおなじみの用語だ。とすると,インストールされたのは,観る人かもしれない。この場に立ったとき,その空間の一員として組み込まれたとき,疾駆するオオカミと,おのれを分けるのは,何だろう。自分はオオカミでないという,かぼそい自意識の敷居だけだ。果たして,それだけで,その群れから自由になれるものかどうか,覚束ない。
https://www.youtube.com/watch?v=SQWnz9Akxq8
入り口にあるには,「夜桜」と題された,800×2400という巨大な和紙に描かれたものだ。人が小さく見える。これも,火薬を使ったものだが,これよりは,「人生四季」の「春・夏・秋・冬」のうち,僕は,「春」「夏」がいい。
案内には,
「蔡は、中国の文化・歴史・思想から着想を得ながら、火薬の絵画、独創的な花火、ランドアート、インスタレーションなど、多義的な視点による作品で、現代社会へ一石を投じてきました。例えば戦争や武器に用いられる火薬の爆発を、絵画や花火という美術作品へ転じることにより、火薬の破壊力と平和利用の有効性の双方の視点を、蔡は私たちにしなやかに提示します。」
とあったが,火薬を使うことで,水墨画の白黒の陰翳へと変化させるという意図(?)がよくわかるのが,牡丹,蓮,菊,梅,を題材にした「春夏秋冬」と題された白磁を火薬で,墨絵の世界へ変えた作品だ。
色は想像の世界で十分補える,
というのが感想だ。墨絵の世界のもつ,深い陰影に惹かれた。が,それと同時に,せっかくの白磁の花びらの部分は,真っ白で遺せたら,際だったのではないか,と感じた。しかし,
花火,
がそうであるように,ある意味ライブ感覚が残る,火薬による制作には,意図とは微妙に乖離していく,
偶然性,
のもたらすもののもつ,コントロール不能な部分とコントロールしようとする意図とのせめぎ合う,緊張感もあるのかもしれない,
展覧会のタイトルの,「帰去来」は,中国の陶淵明の「帰去来辞」からの引用。例の,
帰りなんいざ,
である。その意図はともかく,何らかの意志の表明であることは確かである。
歸去來兮(かえりなんいざ)
田園 将(まさ)に蕪(あ)れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる
既に自ら心を以て形の役と爲(な)す
奚(なん)ぞ惆悵(ちゅうちょう)として獨(ひと)り悲しむ
已往(きおう)の諫(いさ)むまじきを悟り
来者(らいしゃ)の追ふ可(べ)きを知る
実に途(みち)に迷ふこと其(そ)れ未だ遠からず
今の是にして昨の非なるを覚りぬ
舟は遙遙として以て輕く上がり
風は飄飄として衣を吹く
征夫(せいふ)に問ふに前路を以ってし
晨光(しんこう)の熹微(きび)なるを恨む
(http://tao.hix05.com/102kaerinan.html)
「実に途(みち)に迷ふこと其(そ)れ未だ遠からず
今の是にして昨の非なるを覚りぬ」
何やら,確信の表明に聞こえる。
http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/07/0710.html
に,
「ほぼ世界中あちこち、もう全部行った。
そろそろ一回、若いときに自分が日本で受けたもの、考えたもの、どういうものか戻ってもう一回考えようと思った。
日本は私のひとつ、若いアーティストのふるさと。」
と,ある。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年07月30日
差異
先日,報美社主催の,brilliant wing20展に伺い,
http://gallery-st.net/
後藤花甫里
権守ひかる
楠本衣里佳
後藤吉晃
という若い画家の方々の作品を拝見する機会があった。
それぞれの画家の型のへの思いを伺うと,当たり前だが,意識的に何かを描こうという模索の,というか格闘のプロセスも窺えて,なかなか興味深い場であった。
絵画について語るほどの薀蓄も造詣もないが,僕は,
ああ,そういうふうに見えるのか,
と,未知のというか,新しい視界を開いてもらいたくて,展覧会に出かける。
普通は,作家の中で,どういう内的プロセスを経てその絵に結実したかは,窺い知ることはできない。せいぜいタイトルにその端緒が窺えるくらいだろう。確かに,観る側にとっては,結果として描かれている世界が全て,といえば言える。そこで,
心が共鳴したり,
感情が共振れしたり,
おのれのみたいものを見せてもらったり,
というのもあるかもしれないが,僕は,あくまで,見たこともない視界を開いてほしくて出かける。
この会の中では,,
記憶の表層
と題された作品が僕には最も惹かれ,いろんな感慨がわいた。画家の方には,枯れた蓮を描いた,とおっしゃったが,それを伺っても,それでこのタイトルなのかと,タイトルと絵とのつながりが腑には落ちたが,それとは別のところで,このタイトルにつられて,絵から醸し出る抽象度の高い雰囲気,というか情緒といったものを,面白がっている自分がいた。個人的な嗜好に過ぎない。
記憶で書くので間違っているかもしれないが,ひとりひとり,たとえば,
ひとりは,自分の見てきた風景を,内的に咀嚼しながら,内的に見えてきた世界を描こうとし,結果として,風景に思いが仮託されている絵になっている。その風景がいくらか幻想的なのは,その思いのせいかもしれない。
またひとりは,自分と対象との距離の取り方を意識し,丸め方が低ければ具象になり,丸め方が高ければ,というかそういう対象に惹かれたせいでか,抽象度が高まる。僕は,対象と自分との間に,絵のポジショニングをしようとする問題意識に惹かれた。それは,思いの強さか,対象の魅力の強さか,と対立しそうで実は,思いと対象のフィットするポイントというのは,自分の思いを仮託するに足る対象に出会えるということを意味する。そのとき,思いの側か,対象の側かで,絵の立つ位置が振幅の幅がある。しかし,それが,対象との格闘ということなのではないか,思いつつ聴いていた。最後の絵柄や色柄に加味していくのが,対象だけでは足りない思いの丈なのではないか,という気がした。
またひとりは,見える次元をいくつも重ねようとしている,と聞いた。それは,一つの視界だけでは描ききれない,たかいの多重性,多層性,をどうひとつの資源の中に納めるのか,という手法の格闘に聞こえる。しかし,それを実現する腕が,まだその思いに届いていない,と見えた。そのもがきが,絵に出ている。次元の重ね合わせというよりは,そういう内的葛藤が,まだ痕跡を残しているやに見えた。
またひとりは,人に思いを描こうとしている。しかし,その思いが,自分の思いなのか,描いている対象の思いかは,判然としない。人の見たことのない表情は,自分の中にある,人と違う思いに見つけなくてはならない。顔は,まだデジャブ感があった気がする。
等々,いろいろ僕の内側に喚起する思いがあった。
情報とは差異である,
というベイトソンの言葉になぞらえるなら,差異は,
自分自身が(現実という)地に見出した図
である。あるいは,
境界線
である。それが自分だけの対象の認知である。しかし,差異は外にあるのではない。そこに差異,あるいは境目を見出すのは,実は,
おのれ自身のもつ差異,
を自分の中に感知するところからしか生まれない。あるいは,
その人自身のもつ差異そのもの,
であるかもしれない。それを才能とも個性とも呼んでもいい。
しかし差異は,ほんのわずかだ。ほんの些細な違いだ。微かなグラデーションに,他の人の気づかない微妙で些細な境目を見つけるようなものかもしれない。その差異に気付いたものだけが,新しい視界を手にする,という気がしている。それは,才能には,比例するかもしれないが,残念ながら,努力には比例しない。わずかな僥倖による,というと,お叱りを受けるか。しかし,ここまで生きてきてわかることは,人と違う,わずかな自分の感覚の差異に,徹頭徹尾こだわるしかない,ということだけは確かなことに思える。その隘路にしか,活路はない。そんなことを感じさせられた。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年12月07日
風景画
「風景画の誕生」展
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/15_wien/
に出かけてきた。
展覧会の案内に,
「美術の歴史のなかで、いつ頃、どのような過程を経て「風景画」が誕生したのかを問うてみるのは、大変興味深いことである。」
と設問し,ウィーン美術史美術館にある風景画展を企図した,とある。
「本展は、風景画の誕生というドラマをたどりながら、個性豊かなそれぞれの「風景画」の中を、まるで旅するかのようにご覧いただくことのできる展覧会である。」
と書いている。で,構成は,
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/15_wien/exhibition.html
第一章 風景画の誕生
第一節 聖書および神話を主題とした作品中に現れる風景
第二節 一年12ヵ月の月暦中に現れる風景
第三節 牧歌を主題とした作品中に現れる風景
第二章 風景画の展開
第一節 自律的な風景画
第二節 都市景観としての風景画
と,流れが整理されている。
そもそも,
「よく知られているように、そのなかに人物を描くことのない純粋な『風景画』は、17世紀のオランダを中心とする文化圏で生みだされている」
のだそうだが,それ以前にも,
イエス・キリストの降誕の場面の背景にそれを祝福する美しい風景,
聖母マリアが危難を避けてエジプトへ逃れる途上で,嬰児イエスともに休息をとる場面の平穏な心休まる風景,
古代より描き続けられて来た一年12ヶ月の月暦図のなかに年中行事や風景,
画家たちの心の中に想像される幻想の風景,
等々に,「風景」は描かれてきたらしいが,風景自体を,地と図でいうなら,図として意識するのは,ずっとのちのことになるらしい。
たしかに,風景画とあっても,
「聖フルゲンティウスのいる風景」
とか,
「キリストの誘惑が描かれた風景」
と,主題は,宗教的・神話的であることを強いられている中で,風景は背景か添え物である。しかし,やがてそういう足かせが,少しずつ自覚的に遠景に追いやられる。
月暦に現れる風景,
では,
「聖職者のための聖務日課書や聖職者でない平信徒のための時祷書に多彩な月暦画が描かれるようになり、次第に月々の営みが豊かな自然表現を伴って描写されるようになります。細部にわたり描写された風景には、1日の時間の流れや月々、あるいは季節ごとに移り変わっていく自然の様子が描かれています。」
その中では,牡羊座だの,牡牛座の印が,小さく,ほんの目印程度になっていく。
牧歌,
「牧歌的理想郷(アルカディア)の魅力あふれる田園生活を謳ったギリシアの『牧歌』(前3世紀)」
を借りた,風景画は,あくまで,頭の中にある風景には違いないが,僕には,
「塔の廃墟のある川の風景」
は,身近な風景を自覚的に描くのとの差は,ほとんどないように見えた。風景画の範疇に入れられた,
「渓流のある風景」
は風景画とされるのだが,実際に風景を見て描いたものではない,と書いてあった。思いの中の風景と,牧歌を描いた絵との差は,何だろうか。
たぶん,それは,いわゆる(吉本隆明の言う意味とは少しずれるが),
共同幻想,
に依拠しない,画家自身に見えた,
私的な視界としての風景,
を描いた,ということにある。それは,
その画家にのみ見える風景,
なのであって,絵を見ただけで,神話や宗教的エピソードを想起させたり,そう想像させない絵,つまり,
風景そのもの,
が主題になった,ということの差なのだろう。
(神奈川沖浪裏)
(箱根宿)
かつては,山水画は,一種の理想郷を描いた。あるいは思想としての景色を描いた。あんな風景は,現実の中国にもない。それと,広重や北斎の風景との差とよく似ている。もっとも,北斎の『富嶽三十六景』や広重の『東海道五十三次絵』は,いわば名所図絵で,観光案内のようなものだから,風景画といっていいかどうかはわからない。しかし,確かなのは,広重も,北斎も,
自分に見えた視界,
を描いたのであって,ほかの誰にも,あの光景は見えない。そういうのを,
風景の発見,
というのだ,とつくづく思った。
参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E6%99%AF%E7%94%BB
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2016年01月06日
キャラ立ち
村上隆の五百羅漢図展を観る。
http://www.mori.art.museum/contents/tm500/
http://www.mori.art.museum/contents/tm500/exhibition.html
案内には,
「村上隆は、現在国際的に最も高い評価を得ている現代美術作家のひとりです。ロサンゼルス現代美術館を皮切りに世界巡回した回顧展をはじめ、ヴェルサイユ宮殿やロックフェラーセンター前広場などさまざまな場所で大型インスタレーションを発表。その圧倒的なスケール感と完成度の高さにより世界中の人々を驚嘆させてきました。 国内待望の個展となる本展では、絵画史上最大級の全長100メートルに及ぶ《五百羅漢図》が日本で初公開されます。本作は、東日本大震災にいち早く支援の手を差し延べてくれたカタール国への感謝を込めて、震災の翌年2012年に首都ドーハで発表されました。この《五百羅漢図》を中心に、現代美術史への新たな挑戦となる新作の数々で構成される本展は、成熟期を迎えた作家の驚くべきスケールとエネルギー、芸術的達成に触れるまたとない機会になるでしょう。」
とある。正直,村上隆についても,五百羅漢についても,ほとんど知らない。
五百羅漢は,辞書的に言うと,
「仏教で供養尊敬を受けるに値する 500人の人々。第1回,第4回の仏典編集会議に集った人々がそれぞれ 500人であったことから両会議の参加者をさしていう。また,確かな根拠はわからないが,中国,日本の禅宗で五百羅漢の崇拝が行われ,それに関する美術品も多い。」
ということになるらしい。
さて,展覧会で驚いたのは,写真を撮り放題だったことだ。こういう展覧会の楽しみ方もあるのか,と,ある意味新鮮で楽しかった。これだけでも,来たかいがあった。
出口近くで,村上の語録をフィルムにして上映していたが,そこで,
キャラ立ち,
しなくてはいけない,といった趣旨のことを言っていた。東山魁夷が東山魁夷とすぐ分かるように,という例を挙げて。キャラ立ちとは,
「キャラ立ち(キャラだち)とは、自らの個性を際立たせ、1つの独立したキャラクターとして他者に認識させることである。キャラクターの確立。印象の強化でもある。この表現は、虚構世界(物語)の登場人物という意味での「キャラクター」にも、現実世界における対人関係のための性格という意味での『キャラクター』にも使用される。」
ということで,はじめは,
「漫画はキャラクターを立てなきゃダメ」
というところから始まったらしいが,少なくとも,村上自身がキャラ立ちしていることは間違いない。
最初に出迎えたのは,
自身をカリカチュアした像だが,この展覧会全体を象徴するように置いてあった。そこを入った部屋に,白虎と青竜が,対面して飾られ,同行者曰く,
迫力に圧倒された,
と言うように,巨大な絵だ。ただ,圧倒するような大きさの割に,ユーモラスさと,あたたかさを感じさせたのは,ある種の特徴を示しているのかもしれない。
僕は,白虎,青竜,朱雀,玄武,の中では,羅漢の密集度と言い,全体の密度と言い,白虎が一番いい,とは思う。画面の下にずらりと並んだ,小さな羅漢像を,撮っていったが,一つ一つが生き生きしている所は,確かな筆力だと思うし,同行者が,背景を観ながら,その技術について感嘆していたが,僕には技術的なことも,歴史的なことも別に,一つの世界が出現しているとは認めざるを得ない気がした(「五百羅漢」は個人蔵とあるところを見ると,誰か個人の所蔵らしいのも驚く)。
ただ,僕個人は,アニメチックというか,マンガチックというキャラ立ちの画風は,好きではなく,五百羅漢を描くという意味では,こちらの先入観があるにしても,けばだちすぎて,迫力はともかく,祈りの思いは湧いてこなかった。
ただ,個人的には,制作中とされていたが,
「見返り,来迎図」
と題された作品は,いいと思った。勝手な妄想だが,天平期というか,仏教受容期の,華やかな仏画の雰囲気があり,かつて来迎図はこんな雰囲気ではなかったかと,思わせるものが醸し出されていた気がした。
いまひとつは,
「知りたくもないことであったのだが、、、実は、、、死んでも魂は生き続けるらしい。そんなに、、、何万年も,何十億年も魂が劣化しないとはいえないであろうに」
と長いタイトルの絵がいい。光線の具合で反射してしまっているが,もう少し穏やかな黒のグラデーションは,心を落ち着かせるものだった。
素人が言うのも,おこがましいが,画風は,水木しげるの漫画のようなカリカチュアの際立つ,意識的なものだろうが,「マンガとアニメ」の既視感がずっと尾を引く(だからと言って,水木しげるの絵をあれだけ巨大化した絵に描く筆力がなまなかのものでないことは認めるが)。
その意味で,「達磨」は,
既視感に,安定と重みがある。こちらに,まだどこかにマンガとアニメと絵画を断絶させる先入観があるせいかもしれない。しかし,禅師がよく描く,円相は,
どう描きかえても,この墨黒一色の描く世界観には,拮抗し得ない気がした。
それは,まだ書き換えた円相の世界観が,墨一色の円に勝てない,ということのように見える。
全体に既視感が付きまとったが,その既視感は,既にある世界,とこかで,既に見た,という意味だけではない。
おなじみの世界,
という意味でもある。しかし,もうひとつ,
見たこともない世界,
という視界を開いてくれるものではなかった。次の時代を拓く,というには,
顔なじみすぎた,
という気がしてならない。言い過ぎだろうか。
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2016年02月27日
ピカソ展
『ピカソ展 ルートヴィヒ・コレクション』(日本橋高島屋)に伺ってきた。
http://www.takashimaya.co.jp/tokyo/picasso/
「本展では、パリやバルセロナのピカソ美術館に次いで世界有数の規模を誇るピカソ・コレクションを所有するドイツ・ケルン市ルートヴィヒ美術館所蔵の、初期から晩年に至るまでの油彩、版画、ブロンズ、陶器等約60点を展示するほか、マン・レイなど著名な写真家によって撮影されたピカソの肖像写真約40点を展示し、
天才と謳われるピカソの魅力を多角的にご紹介いたします。」
と案内にあったが,写真は別にすると,圧倒的に,版画,ブロンズ,陶器が多く,ちょっとがっかりした。特に絵皿(?)は,かつての自分の絵をなぞったようなものが多く,既視感一杯であった。
例によって,素人の勝手な印象だが,ブロンズでは,
『女』(1948)
がいい。言ってみると,絵でも,造形でも,パースペクティブの「地」と「図」の何を「図」とし,クローズアップするかだが,こちらの先入観のせいか,妙にエロチックな造形に見え,タイトルの何を,ピカソか「図」としようとしているかが,僕にはわかりやすかった。わかりやすすぎて,下手をすると,あと一歩で通俗に流れそうだ。エッチングでは,
『闘牛』(1934)
と題された,牛の鼻を妙に「図」としてクローズアップした,まるで獅子舞の獅子のように迫る牛が面白かった。ピカソは,とりわけ闘牛の鼻(孔)の部分が気になったのだろうか。写真では,アーヴィング・ペンの,
『パブロ・ピカソ 1957』
が,いい。ピカソの上質な部分がよくその貌にのぞいている。
絵では,『読書する女の頭部』(1953)の,揃えた手に見える,静謐さもいいが,
『横たわる裸婦』(1960)
『アトリエにて』(1964)
『接吻』(1969)
と,1973年に亡くなることを考えると,最晩年に属する作品だが,いろいろ面白い印象を懐かせてくれた。
『横たわる裸婦』では,足が,極端に大きく「図」化されて,巨大化され,ピカソには,このモデルの足,というか足先の部分が気になって仕方がなかったように見える。
『アトリエにて』は,描き手と,モデルと,画布(描かれている絵)を一つにし,丁度ベラスケスの『女官たち』のような構図を,画家とは区別しつつ,絵とモデルはバラバラのジグソーパズルのようになっている。しかし,面白いのは,画家自身はそのバラバラになったジグソーパズルのなかには紛れ込ませず画然と,文字通り,一線を引いて区別しているところだ。それが,ピカソの生きた時代の限界,と言うふうにも見えるし,ピカソの強烈な自我をそこに主張しているようにも見える。
本当の最晩年の,『接吻』は,掉尾に展示されていた。ピカソ自身が,
「一方の横顔をもう一方の横顔に」
「凹のへこみは凸のふくらみと呼応」
と言っていたと,絵の解説にあったが,ここでも,自分自身を見る視線は,キュビズムから撤退戦をしているように見える。
それを老いと呼ぶのか,新たな終りの始まりと見るのか,答えは,ピカソが持って行ってしまった。
http://salut.at.webry.info/200606/article_10.html
に,
「これは、ピカソ晩年の妻:ジャクリーヌ・ロックとピカソ自身の口づけを描いた作品。ピカソは1961年:80歳の時にジャクリーヌと結婚しました。計算すると、この絵が描かれたときのピカソの年齢は88歳頃。年老いたピカソが若い妻に捧げる熱烈なキス。」
とあったが,それはこの絵への俗人の好奇心でしかない。
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