2013年12月02日
踏み出す
何があったら,人は,一歩を踏み出すのだろう。コーチングはそのためにある,という人がいるが,僕はあまり信じていない。人を見くびってはいけないように思う。
その人が踏み出そうと思えば,いつでも踏み出す。そう思っていなければ,何十回コーチングを受けても,僕は踏み出さない。踏み出させない何かがあるなら,それが消えるまでは動かない。少なくとも,僕は自分をそう思う。
結局タイミングでしかないと思っている。タイミングは二つしかない。
ひとつは,内的なもの(内的要因)。
いまひとつは,状況や文脈(外的要因)。
それ以外にはない。そのタイミングを人が関わることで作り出せると思い上がってはいけない。たまたまそのどちらかがタイミングだったのだ。
逆にいえば,その機をどう見逃さないか,というのが重要なのかもしれない。
しかし,ただそうしようと思うだけでは何も動かない。一歩でも半歩でも,微動でも,動くことで事態が動く,波紋が怒る。バタフライ効果ではないが,何かが変わる。
その変化は頭でわかっても,動く動機にはならない。動くメリットでも,動く成果でも,動いた先の何かでも,たぶん動かない。動いた時の実感は,動いたものにしかわからない。
忘れていたが,もうひとつ,動かす動機がある。それは,動かす先か,動かそうとする人か,どちらかに強い関心がある場合だ。恋でも憧れでも,興味でも,好奇心でもいい。そのとき,
内的要因と外的要因がセット
で発生する。
そうなれば動く。動くこと自体が自分にとって意味かある。というか動かなくてはならないという衝迫がある。
あるいはそんな綺麗ごとでなくてもいいかもしれない。それをしなければ,飢え死にする,あるいは職を失う,恋い焦がれる,という(やむにやまれぬ)衝迫もある。
そうやって踏み出した結果,いやいや始めても,そのことが面白くなる,ということはある。
僕の場合,なりたくて始めたというより,社会人になって,職業として始めた編集という仕事だが,考えれば,すべては編集なのだ。もっと突き詰めれば,
情報の編集。
アイデアを発想するのも,仮説を立てるのも,企画を立てるのも,構想を練るのも,情報の編集作業に他ならない。
編集ということに熟知すればするほど,その作業の奥行きがはるかに遠く,深いことに気づく。考えれば,ものを書くという作業は,すべて編集といっていい。自分の過去の記憶の編集から,リアル世界の編集,情報世界の編集,虚構という世界の編集まで,幅と奥行きは違っても,編集というフィールド上にある。
そもそも情報自体が,(意識的か無意識的かは別にして)編集抜きに情報にはならない。
僕にとっても,いま編集という作業抜きには成り立たない。このブログも,フェイスブックの記述も,ホームページも,研修という仕事も,コーチングというワークも,すべて,同じ土俵ではないにしろ,フィールドは同じ情報の編集にほかならない。
その意味で,編集ということを,もう少し意識して方法論にしておく必要がある。
アイデアづくり,企画づくり,仮説づくり,問題解決づくり,ロジカルシンキング,
等々については,編集という視点で自分なりに考えたたが,思えば,情報の編集とは,情報の読みに他ならない。その視点で見ると,リーダーシップも,マネジメントも,チームづくりも,別の視界が開ける気がする。
情報編集を,
化学反応と置き換えてもいい。
多色刷りと置き換えてもいい,
織物と置き換えてもいい,
その意味では,人と人との出会いそのものが,編集作業に似ている。何度も触れた,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11329057.html
清水博さんの,
「自己の卵モデル」
で言う,白身と白身の混じり合いもそれだ。
そういう意味では,自分にとっても,もう一歩も二歩も踏み出さなくてはならないことが一杯あることに気づかされる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#アイデア
#情報編集
#リーダーシップ
#マネジメント
#チェックリスト
#ロジカルシンキング
#仮説
#企画
#問題解決
#チームづくり
#ケースライティング
#コミュニケーション
#清水博
#自己の卵モデル
2014年02月26日
情報
情報を考えるとき,おおよその定義は,
①情報を量としてみようとするときの定義。シャノンやウィーナーに代表されるような,情報のコード化につながる定義である。
②生物に関わる情報の定義。たとえば,生命体の外界の刺激や視界に写っているものについて,生命体がどう受け止めるか。アフォーダンスとしてみるように,そこに有用か危険かの意味を見出すことになる。
③社会的なコミュニケーションに関わる情報の定義。この場合,データから言語情報まで含まれるので,コード化された情報から,状況に拘束されたモード情報まで,多様なものがある。
の三つに分けられる。しかし,個人的には,以下の三つを重視している。
●情報とは,「伝達された(る)何らかの意味」である。そのためには,3つの要件がある。情報の発信者と受信者がいること,伝えられるべき何らかの意味(内容)をもっていること,受け手に伝わるスタイル(様式・形態)で表現されていること。
コード化できる情報を「コード情報」と呼び,コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報を「モード情報」と呼ぶ。(金子郁容『ネットワーキングへの招待』)
●情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である。(ピーター・F・ドラッカー『経営論』)
●情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
情報とは,(付け加えるなにかではなく)選択肢のあるものを排除するなにかである。(グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』)
そこから,情報の基本構造について,
・情報には,「コード情報」と「モード情報」がある。(金子郁容)
・情報とは,データに意味と目的を加えたものである。(ドラッカー)
をベースに考えるようにしている。その上で,「差異」に着眼する。人と同じところではなく,違っているところを見きわめる。。
では,情報の基本性格をどうとらえるか。
・自己完結している 抽象レベル(言語レベル)に丸められて,それの文脈・状況から分離されている
・言語化しないと情報にならない 情報は向き(意味づけ)を与えられている,というか向きが与えられなければ情報にはならない
そう考えると,情報は,ことば(数値も含めたコード情報)と状況・文脈(ニュアンスのあるモード情報)がセットになっている必要がある。言語化されるには,その人が受けとめた場面や出来事を意味に置き換えなくては言語化されない。しかしその言語を受けとめたものは,その人の記憶(リソース)に基づいて受けとめる。その意味の背後に,その人のエピソード記憶や手続き記憶に基づいてイメージを描く必要がある。ぶっちゃけ,情報を,
・時間的(いつ)
・空間的(どこ)
・主体的(誰)
に紐づけなくては,情報の自己完結した意味に引きずられる,ということになる。その情報を読むということは,,“そのとき”,“そこ”に限定し直すということなのである。本来情報は文脈依存だからである。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0923.htm
でも触れたが,コード情報であれ,モード情報であれ,情報になるためには,発信者によって向きが与えられる。向きがなければ情報にならない。どんな場合も,出来事だけでは情報にはならない。その情報を発信してはじめて情報になる。そのとき,情報は,その人がどういう位置にいて,どんな経験と知識をもっているかによって,情報は,再構成される。つまり,“情報”は発信者のパースペクティブ(私的視点からのものの見方)をもっている。発信された「事実」は私的パースペクティブに包装されている(事実は判断という覆いの入子になっている)。逆に言えば,私的な向きがなければ,情報にはならない。
たとえば新聞記事情報を単純構造にして考えると,
・発信者(目撃者)による主観(発信者に理解された範囲で意味づけられた情報)
・報告者(伝聞者=記述者)による主観(記述者に理解された範囲で意味をまとめられた報告情報)
・受信者(読み手)による主観(読み手に理解された範囲で意味を読み込まれた情報)
となる。しかも,もう少し突っ込むと,その入れ子の構造自体が,
発信者
報告者
受信者
それぞれが,時間的,空間的に限定され,しかもそれぞれの主体の持つ知識・経験に限界づけられている。三重の,それぞれの発信者が,自覚しないで,それぞれのいる文脈に依存して,偏りを与えている,ということができる。
さて,ここからだが,情報自体の偏りが自覚できたとしても,自分自身の偏りは,なかなか自覚できない。
だから,情報は,二つの意味で,
自己完結してはならない,
と思う。
第一は,情報自体が完結しているのだから,単体で自己完結させない,
第二は,読み手である自分自身で自己完結させない,
ということだ。情報の読みは,ある意味で情報の編集である。編集,つまりアイデアを発想する原則は,
自己完結させない,
である。これは,情報にも当然当てはまる。
参考文献;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod05111.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年10月08日
情報
久しぶりにラッシュ時に乗り合わせると,まあ相変わらず(昔に比べるとかなり減ったが),右も左も,日経新聞を広げていること。これじゃ,日経の主張に感染するんじゃないか,と皮肉りたくなる。
別に僕は専門家でも現役ビジネスパーソンでもないので,きいたふうな口をきく資格はないが,皆が読んでいる情報源だと安心するんだろうか,と思いたくなる。同じ情報源でも,そこから読み取るものは,その人次第ということは確かにある。かつてのクレムリンウォッチャは,普通に発信されている情報から,現況の微細な変化を読み取ったと言われているのだから。
まあ,そういう例もあるには違いないが,僕は,誰もが読んでいるものなら,誰かに聞けばいいのであって,わざわざ一緒になって,それを読む必要はないと思う。電車内で新聞を読むこと自体を否定はしないが,どうせなら,人とは違うものを読んだらどうか,と思ってしまう。へそ曲がりのせいかもしれない。
情報とは,というと,たとえば,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod05111.htm
で挙げたように,クロード・シヤノンの,
「あるメッセージに含まれている情報の不確実性を減らすために必要な量の情報をシャノンは,次のように定義した。情報量I,得られる可能性のあるメッセージ数Mとするとき,I=log2M あるいは言い換えると,M=2I 。情報量を1単位ふやす毎に,不確実性は半分になる。つまりMはI回の二者択一の結果,発生確率1/2での等分割のI回の繰り返しとして表現できる。」
とか,N.ウィーナーの,
「情報とはわれわれが,外界に適応しようと行動し,またその調整行動の結果を外界から感知する際に,われわれが外界と交換するものの内容である。情報を受けとり利用してゆくことによってこそ,われわれは環境の予知しえぬ変転に対して自己を調節してゆき,そういう環境のなかで効果的に生きてゆくのである。」
を採りたがるかもしれないが,ぼくには,金子郁容の
「情報とは,『伝達された(る)何らかの意味』である。そのためには,3つの要件がある。情報の発信者と受信者がいること,伝えられるべき何らかの意味(内容)をもっていること,受け手に伝わるスタイル(様式・形態)で表現されていること。」
「コード化できる情報を『コード情報』と呼び,コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報を『モード情報』と呼ぶ。」
や,ピーター・F・ドラッカーの,
「情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である。」
や,グレゴリー・ベイトソンの,
「情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
情報とは,(付け加えるなにかではなく)選択肢のあるものを排除するなにかである。」
等々がお気に入りである。ここから自分なりに感じたことは,
・情報には,「コード情報」と「モード情報」がある。(金子郁容)
・情報とは,データに意味と目的を加えたものである。(ドラッカー)
ということであり,さらに,
・情報とは差異である(ベイトソン)
ということだ。ということは,コード化できる,
コード情報
ではなく,コード化できない,
モード情報
こそが大事ではないかという思いにつながる。それは,言い換えると,
いま
ここ
(で得られるもの)が大事ということになる。いま,ここの変化は,いま,ここにいるものにしかわからない。その瞬間にしか得られない,という意味だ。それは,コード情報では決して得られない。
ある意味,新聞情報は,
・自己完結している→文脈・状況から分離されている
・言語化しないと情報にならない→情報は向き(意味づけ)を与えられている
・丸められている→抽象化されている
ものでしかない。そこからよほどの読解力があるならともかく,そこにある情報を読んだところで,皆と同じ程度,あるいは記事の書き手の送っている情報以上は読み取れないのではないか。
本来,情報は,
ことば(数値も含めたコード情報)と状況・文脈(ニュアンスのあるモード情報)がセットになっている。しかし,言語化されるには,その人が受けとめた場面や出来事を意味に置き換えなくては言語化されない。
その意味で,すでに丸められ,意味づけられてしまっている。
どんな場合も,出来事だけでは情報にはならない。その情報を発信してはじめて情報になる。そのとき,情報は,その人がどういう位置にいて,どんな経験と知識をもっているかによって,情報は,再構成される。つまり,コード情報であれ,モード情報であれ,情報になるためには,発信者によって向きが与えられる。向きがなければ情報にならない。
つまり,情報(報告/記事)には3つの偏りがある。
・発信者(目撃者)による主観(発信者に理解された範囲で意味づけられた情報)
・報告者(伝聞者=記述者)による主観(記述者に理解された範囲で意味をまとめられた報告情報)
・受信者(読み手)による主観(読み手に理解された範囲で意味を読み込まれた情報)
その言語を受けとめるのは,その人の記憶(リソース)に基づいて受けとめる。その意味の背後に,その人のエピソード記憶,手続き記憶に基づいて,つまりは体験に基づいてイメージを描く。読み手は,そのコード情報を,自分のモード情報で具体化し,読み直す。
その意味では,モード情報をどれだけ持っているかが,情報の読みを変える。とすれば,新聞を読んでいる暇に,車内を見まわし,いま,ここでしか取れない情報を感じ取った方がいい。
女性のファッションかもしれないし,
女子高生の生態かもしれないし,
車内の中吊り広告かもしれないし,
車内の年齢構成かもしれないし,
車窓に移る沿線の変化かも知れないし,
車窓の季節の変化かもしれないし,
等々,その蓄積が,コード情報の読みを深めるような気がしている。新聞情報に振り回されない独自の視点が必要だが,それは,コード化できる意味ベースでは決してないと思っている。
参考文献;
金子郁容『ネットワーキングへの招待』(中公新書)
P・F・ドラッカー『経営論』(ダイヤモンド社)
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年09月07日
鬼女
鬼女とは,普通,
きじょ
おにおんな
と訓み,辞書(『広辞苑』)では,
女の姿をした鬼,
あるいは,
人間の女性が鬼と化した妖怪,
とか
(メタファとして)鬼のように残酷な女,
というのが普通の意味。ウィキペディアでは,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%A5%B3
「鬼女は、日本の伝承における女性の鬼。一般には人間の女性が宿業や怨念によって鬼と化したものとされ、中でも若い女性を鬼女といい、老婆姿のものを鬼婆という。」
とある。しかし,昨今では,ネット上に存在し,
2ちゃんねるの板の一「既婚女性板」で使われている既婚女性の略の当て字,
を指すという。その板のことを「鬼女板」とも言うそうである。これは,
「既婚女性(キコンジョセイ)」を略して「キジョ」。そのイメージから「キ=鬼」として,「鬼女」となった,
と言われる。僕は,2チャンネルには疎いので,
http://imimatome.com/netyogonoimi/kijo.html
http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%AC%BC%E5%A5%B3
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%B4%BD%F7
等々を参考にしつつ,お勉強させていただいた。
2ちゃんねるには「既婚女性板」について,
「2ちゃんねるの既婚女性・主婦(というか鬼女板の住人)はなかなか過激で、新聞では報道されないようなことも突き止めて広めたり、嫉妬心のようにアイドルのブログを常に監視し、隙あれば批判や特定作業に取り掛かり、あっというまに個人情報を広める恐ろしい存在でもあります。(もちろん、全員ではなく一部の人ではありますが)
また、リアルでも売国企業へのデモを行うなど、行動力は見習うものがあり、『女を怒らせると恐い』と実感させられます。」
等々とあり,なかなかその探索力と言い,行動力と言い,学生やニートとはまったく異なるネット種族のようである。聴いたところでは,あるタレントのブログ写真のボンネットに映った映像から,住所を特定したり,いじめ子の親を特定して公表したり,という側面がある一方,今回のエンブレム事件でいうと,IOC組織委員会が,佐野氏の原案を発表した数時間後には,その写真の元写真を突き止め,コピーライトの一文が削除されていることを明らかにしている。たとえば,
「室内で撮られた写真の窓からみえる鉄塔と山の形、コンビニの看板から住所を割り出した」(の形が地域で違うらしい)
「写真に写ってた鉄棒の棒の形と長さだけから学校の名前と場所を突き止めた」
「ブログの文脈からその女性の働いてる衣料品メーカーを見つけ出した」
等々。もちろん行き過ぎもあり,佐野氏のメールアドレスを公開したことで,それを使った嫌がらせメールや偽注文等々悪意ある行動などが家族まで及ぶというのを誘発したという側面はある(それが辞退の引き金になった)。
それにしても,そのネットでの力量は瞠目される。僕自身は,最近それを知ったばかりで,ただただ驚くばかり。
「既婚女性板とは、主婦が集う2ちゃんねるの板であるが、やや主観的な過激な内容の多いことでも知られる。ネット上の様々な情報機関に特攻する点ではVipperにも似るが、そこに主婦層独特の目線が入る事が特徴で、ワイドショー的なネタには特に敏感かも知れない。」
とか,「インターネットの書き込みを見ただけでは本当に既婚女性かどうかは判断ができないため、ネカマや他の板からの出張の人も多いと予想される。」との指摘もあるが,
「外部サイトで鬼女が話題となるのは時事ネタ系のスレッドが多いが、そういった時事ネタ系のスレッド以外ではほのぼのした書き込みも多い。」
「既婚女性と聞くと素敵な奥さんを想像しがちであるが、鬼女板はワイドショーのノリに近い、噂や愚痴の掃き溜めになっている。」
等々と言われ,通常は,ママ友感覚というか井戸端会議的な話題が中心,らしい。ただ,「鬼女」と命名されるだけのものがあるらしく,
「既婚女性板の住民が鬼女として特に恐れられる理由として、鬼女たちによる異様なまでのリサーチ力が挙げられる。ひとたび鬼女板住民を怒らせたが最後、ブログやSNSなどを元に、住所や実名、電話番号などなどの個人情報を悉く特定され、丸裸にされてしまう。
一例として、大津市の中学生いじめ自殺事件では、加害者少年の転出先や父親の取引先まで突き止めたり、視聴者を『あんたら』呼ばわりしたフジテレビ社員のフェイスブックやブログから、写真をサルベージし、ディレクター時代に視聴者プレゼント用グッズを横流ししていた事実まで特定」
したと言われ,
「Twitter/ブログ/テレビなどでうかつな発言をした個人・団体を激しく叩く書き込みや、個人情報がネット上に流出したりすることを『祭り』というが、その祭りの中で発覚する情報住所や本名、勤務先などを独自に調査し公表しているのは鬼女であることが多い。その調査対象は本人のみならず、家族の写真や愛車に及ぶこともある。」
等々,是非はあるにしろ,端倪すべからざる力技の様である。
かつてネット時代は,個々人が発信する力をつける時代が来る,という予言がされていた記憶がある。ツイッターやフェイスブック,ブログという媒体に注目が向きがちだが,逆に,探索していく素材が,ネット上,全世界に広がっているということであり,嘘とねつ造はすぐに化けの皮が剥がれる。「フォーカスする」という言葉が,かつてあった写真週刊誌から造語されたことがあったが,いまや,個々人が,フォーカスできるということを,今回のエンブレム事件は,思い知らせてくれたようだ。
鬼女がこれだけの実績と力を持っている理由として,こんな記述があった。
「会社員と違い、昼間に暇な時間があること
ニートと違って行動力があること
学生と違って活動資金を持っていること」
が挙げられる。また,
「結婚前にバリバリと様々な仕事をしていた人たちがいることから、誰かが情報収集や突撃に必要なスキルや知識を持っていること、さらに会社や子供の付き合いでリアルなネットワークも兼ね備えていることも挙げられる。何気に高学歴の人も多い。」
とのことだ。鬼女の歴史について,
「元はニュー速という板の祭りで培った情報収集のノウハウだったがニュー速では廃れていき、鬼女に伝承された形になっている。
元々鬼女はニュー速に潜伏しており、昔は男のふりをしてレスしたりROM専であった。祭りの度にニュー速情報解析班が行う解析のノウハウを見たり教えてもらいながら参加していたが、やがてそれを鬼女板に持ち帰り、さらに磨きをかけていった。その頃の鬼女板はブラクラを貼っただけでウィルスだと思ってクリーンインスコしなおすような住民が多かったが、IT関係で働く奥様も参入してきてかなりレベルアップしたなと感心していたらあっというまにああなった。」
との記事もあった。老耄には,言葉そのものもわからないところがあるが,
「祭りが見つかると大量のカレーを作って小分けにして冷凍保存
カレーが切れるまで、ずーっと対外戦闘
身内からクレームが来たら、カレーパスタで応戦
何か祭りの時は夕食の時間を削減出来るように
日持ちするカレーだのシチューだのにするらしい」
とある。
「不自然にカレーが続いたらもしかしたらお前らのカーチャンも… 」
と。一種のストレス発散でもあるが,職人的な探究という側面もある。僕のような年寄には,近寄りがたいが,新しい人種なのではないか。
参考文献;
http://imimatome.com/netyogonoimi/kijo.html
http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%AC%BC%E5%A5%B3
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%B4%BD%F7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%A5%B3
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
ラベル:鬼女