2013年12月05日

コミュニケーション



第66回ブリーフ・セラピー研究会定例研究会「ナラティヴ・アプローチ入門」(講師:安達映子先生)に参加してきた。2日間にわたる研修は,中身がいっぱい,整理するのにしばらく時間がかかる。

ナラティヴは,

語りtelling



物語story

として理解すること,というのが,ナラティヴを考えるときの基本なのだと,感じた。それは,背景として,社会構成主義,とりわけ,ベイトソンの考え方に基づいていることから考えれば,至極もっともだ。

ベイトソンは,

コミュニケーションを決めているのは,送り手ではなく,受け手である,

という。その例を,レジュメから拾うと,

母1;「また今日も帰りは遅いの」

娘1;「うるさいなあ,仕方ないでしょ,バイトなんだから」
娘2;「心配かけてごめん。明日は早く帰るから」
娘3;「うん,たぶん,11時過ぎちゃうと思う」

というやり取りで,娘の反応で,母親の反応が変わる。

1なら,むっとして,文句を言う母親にさせられる。
2なら,やさしく反応する母親にさせられる。
3なら,気をつけてね,といった反応をする。

というように,もともと多義的な母親の言葉は,娘の反応で,その一義に焦点が当たり,それが図として浮かぶことになり,それが会話の流れ,両者の関係を規定していくる。

で,ベイトソンは,

コンテクストをつくっているのは,受け手である,

という。つまり,二人のコミュニケーションで二人の関係を作り出していく,

というのである。

言葉が現実を作る,ということは,たとえば,ウィドケンシュタインが,

ひとは持っている言葉によって,見える世界が違う,

という意味では,よく分かる。ただ,この場合,ベイトソンが言っていたのは,違う意味ではないか,という気がしないでもない。

僕も,別の側面で,(口幅ったいが)結構ベイトソンの影響を受けているが,僕がいつも使う例でいうと,ベイトソンが,学生にした次の質問がある。

「幼い息子がホウレン草を食べるたびにご褒美としてアイスクリームを与える母親がいる。この子供が,
 ①ホウレン草を好きになるか嫌いになるか,
 ②アイスクリームを好きになるか嫌いになるか,
 ③母親を好きになるか嫌いになるか,
の予測が立つためにはほかにどんな情報が必要か。

ここで,ベイトソンが言おうとしているのは,二人の関係である。それを,コンテクストと呼んでいる。つまり,会話が二人の関係を作るのは,その前に,二人の関係性があるから,そういうコミュニケーションになるのではないか。

いつも娘を気遣う母親が,

「また今日も帰りは遅いの」

と言ったとすれば,

「11時位」

と答えたのに,

「雨が降るから,傘を持っていったら」

と,母親が言うだろう。

つまり,コミュニケーションの関係性は,二人の文脈に依存しているのではないか,つまり,二人が喧嘩関係にあるか,親和関係にあるか,ニュートラル関係にあるかで,娘の次の返事は,それを反映したものになる。だから,結果として,それに応じて母親が反応する,というように。

むしろ,コミュニケーションは,両者の文脈に依存する,という方が正しい。

だから,アイスクリームの例で言うなら,必要な情報は,両者の関係を確かめる情報ということになる(そのことで,母親はほうれんそうを食べることはカラダにいいことだと思っており,娘は,アイスクリームが食べられるならほうれんそうを食べるのも悪くない,と思っているのかもしれない,という両者の現実の捉え方がはっきりするということになるかもしれない)。

ところで,こうした考え方は社会構成主義につながるわけだが,社会構成主義では,

「現実」とは,人々の〈相互行為―コミュニケーション―言語的共同作業〉において構成されているものである,

とし,

「事実」は,常にわれわれ個々にとっての「意味」を伴った「現実」として経験される。しかも,それは個々の勝手な意味賦与ではなく,常に相互的なもの,relationalなものである。

だとすれば,「現実」を理解するということは,その「本質」を捉えるということではなく,「現実」が人々の間でどのように構成されているか,を明らかにすることである。

と考える。つまり,人間同士が関わり合うことで現実が構成される。で,

①私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は「事実」によって規定されない
②記述や説明,そしてあらゆる表現の形式は,人々の関係から意味を与えられる
③私たちは,何かを記述したり説明したり,あるいは別の方法で表現したりするとき,同時に,自分たちの未来をも創造している
④自分たちの理解のあり方については反省(省察)することが,明るい未来にとって不可欠である,

という社会構成主義の4つのテーゼにつながる。

だから,

そして歴史の「真実」や「事実」が実在するのではなく,ただ特定の視角からの問題化による再構成された「現実」があるだけである。

という考え方になる。まあ,物語に過ぎない,というわけだ。違う言い方をすると,仮説にすぎない。

個々の出来事,ひとつひとつの記憶は,ある物語のなかで解釈されてはじめて初めて意味をもつ。つまり出来事は,初めと終わりをもつ物語のなかにおかれることで,意味の体系性が与えられ,物語にそぐわない出来事は無視され,排除される。

それを整理すると,こうなる。

●現実は言葉によって構成される
●言語は物語によって組織化される

言語によって物語を形づくると同時に,常にストーリー=コンテクストを背景として意味を与えられる。

現実のコンテクストによって,物語のコンテクストが形づくられ,その物語というコンテクストで,意味が与えられる,そうやって現実を解釈する。ただ現実のコンテクストというのが,我々を縛る,正義であったり,世の中の当たり前であったり,常識であったり,良識であったり,正統であったりする。それに縛られた物語は,我々を拘束する。

それを含めて,レジュメにある,上野千鶴子氏の言葉がわかりやすい。

実在があるかないか,という罠のような問いに変わって,実在はカテゴリーを介してのみ認識の中に立ち現れる,カテゴリー以前的な「実在そのもの」にわたしたちは到達することができない,とヴィトゲンシュタインに倣って答えておけば足りる

だから,拘束されている物語を語り直すことで,あらたに物語を書き直し,自分の人生を語り直すことができる,そこにナラティヴ・アプローチ(ナラティヴ・セラピー)の意味があるのだ,と受け止めた。

ナラティヴ・アプローチについては,次に書く。


参考文献;
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm






#ヴィトゲンシュタイン
#上野千鶴子
#安達映子
#ナラティヴ・アプローチ
#グレゴリー・ベイトソン
#精神の生態学
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2013年12月06日

ナラティヴ



参加した第66回ブリーフ・セラピー研究会 定例研究会「ナラティヴ・アプローチ入門」の二回目。今回は,ナラティヴ・アプローチの考え方をまとめてみる。頭の整理のつもり。

ナラティヴ・アプローチ(ナラティヴ・セラピー)には,3つの立脚点がある。

第一は,脱構築としてのセラピー。
第二は,会話としてのセラピー
第三は,専門職倫理としてのセラピー

その第一立脚点は,脱構築としてのセラピー。

現実は言葉で語られて,物語によって組織化される。

しかし,物語は語られることで完結するのではなく,誰かに聞かれたり,読まれることで成立する。受け手が必要なのである。そのナラティヴを通して,相互作用の中でカタチになっていく。そのように向き合うのが,ナラティヴ・セラピーということになる。

つまり,

人が生き,悩む世界・人生・自己も,その人の語る物語によって,生み出され,維持されている。したがって,問題もその中で構成されているので,その物語を語り直し,書き換えることで,問題は解消される。

という考え方である。

このことは,ロジャーズが,共感性や受容といった背景が,あくまでクライアントの現象学的(あくまで本人の見ている)現実に寄り添うという感じだったのと,僕は基本的には変わらないと思う。もちろん物語りを書き換えるというのは,ロジャーズの志向にはなかったかもしれないが。

たとえば,何をやってもうまくいかないダメな私というストーリーをつなぐのは,失敗エピソードをプロット(筋立て)してつないだ物語になる。

それをドミナント・ストーリーと呼ぶとすると,書き換えた物語は,オルタナティヴ・ストーリーということになる。オルタナティヴ・ストーリーは無数にある。

このドミナント・ストーリーという中には,社会のドミナントな物語,たとえば,

謙譲で,しっかり働き,がっつり稼ぐ,

ポジティブなものが成功する,

夢はイメージするだけで実現する,

どんなに苦しくても辛抱しなくてはならない,,

等々という人が立派な人間である,というドミナントも含まれている。ナラティヴ・アプローチの特色は,そのドミナントな物語の周辺の人々(傷害者,病人,等々の弱者)が,そういうドミナントの前で,

自分が価値がない,と自己非難してしまい,自分の物語を語りにくくなっていく,

というマイノリティの行動と意味を語り直そうとするところに,ホワイトらの問題意識に出発点があるところだ。この点が,ソリューション・フォーカスト・アプローチとは違う独自の思想とみていい。

これがナラティヴのナラティヴらしいところ,

と講師が強調した所以なのだと思う。効果だけ認知行動療法と変わらないが,問題を,

不適応

とみて,どう適応させるかとする志向は,ドミナントに適か不適か,と見ている限り,ナラティヴの発想とは相いれない,ということのようだ。

ところで,語り直す場合,同じエピソードでも意味づけを変えたり(リフレーム),別のエピソードとつないだりすることになるが,これは,フィルムの編集に似ているように思う。

たとえば,映画のモンタージュ手法を例にとってみる。

「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。

たとえば,陳腐な例だが,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる。

ともかく,こうしたつなぎ方,組み合わせによっても,ストーリーの意味が変わる。

そのオルタナティヴ・ストーリーを書き直していくために使うのが,

問題の外在化



ユニークな結果

である。

問題の外在化は,ここに由来して,さまざまなところで使われているスキルだが,基本は,

M・ホワイトの,

問題が問題なのであって,人や人間関係が問題なのではない,

とする,人を非難しないアプローチである。

問題があるダメな私,

から,

問題に影響を受けている私,
問題を観察する私,
問題に取り組む私,

と問題と人を切り離し,その人の効力感,つまりは問題をコントロールする自分を取り戻すことだ。これは,エリクソンが,様々な例で実践していたことに通ずる。

ユニークな結果は,ソリューション・フォーカスト・アプローチで言う,例外探しである。

問題が起こらなかった私,
問題が少なかった私,
うまく対処できた私,

を,ソリューション・フォーカスト・アプローチのように,意識的に探すのではなく,物語を語る中で,自然に出てくるのをまつのが特色かもしれない。

そういえば,どこかでV・E・フランクルが,確か,

どんな人も,語りたい自分の物語を持っている,

といったのは,それを誰かに聞いてもらわなければ,その物語は完結しないという意味だったのかもしれない。

どんな人も,自分の物語を持っている。誰もがそれを,聞いてもらいたがっている,

ということか。

第二の立脚点は,会話としてのセラピー

レジュメに,

現実が我々から離れて「客観的」にあるわけではなく,それはことばによるやりとり(=会話)の中で生み出されてくるものだ。問題をめぐる会話の中で問題が作り出されるのであり,その逆ではない。セラピーとは,問題の解決を目指し,それが実現されるような会話である。

とある。そのためには,ソリューション・フォーカスト・アプローチでいう,

無知の姿勢(not knowing)

つまり,

私は,あなたの人生,生活について,何も知りません。自身についての専門家であるあなたから教えてください,

という学ぶ姿勢である。それは,

・相手に対して語るのではなく,相手と共に語る
・理解の途上にとどまり続ける,
・ローカルな言葉の使用(相手の言葉を大事にしていく),
・説明,解釈をしない,
・相手を分かりきる事はできない,

である。

第二の立脚点は,専門職倫理としてのナラティヴ・セラピー

支援という行為,活動ないしその関係が持つ政治性についての自覚,

ということにシビアなのだと思う。ともすれば,上から目線になることを,できるだけ排除しようとし,

・私が何者であるかの自己定義権は,本人にある
・透明性 本人に隠さない
・アカウンタビリティ やろうとすることを相手に説明できる(MRIのパラドックスは説明したら使えないが)
・対等性
・多声性 多くの人が読める
・支援が支援者に与えた影響を伝える

つまり,これらは,両者の関係をどうすれば対等で,協働関係をもてるか,きめ細かく配慮し実現しょうとしていると見える。

この背景にあるのは,

問題を個人の中に置かない,

あるいは,

個人のせいにしない,

という徹底した社会的コンテクストを考慮する姿勢といっていい。たとえば,こうクライアントに言われたとしよう。

私は1年で会社を辞めました,

それに対する,支援者の姿勢が問われている。

忍耐力のない奴,

と見るか,

そうさせる社会的背景を考えようとするか,

いずれにしても,その瞬間,自分が社会的ドミナントに立っていることに,意識的かどうかが問われる。これが,ロジャーズの言う,

自己一致,

の応用編であることは疑いない。やはり,問われている,

受容,

共感性,

自己一致,

を。そして,ナラティヴは,それをセラピスト側がクライアントに透明に語ることを求めている。でなければ,

セラピスト-クライアント関係は,

対等ではないし,協働して物語を作っていることにはならない,と考えている。



参考文献;
瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#ナラティヴ・アプローチ
#ソリューション・フォーカスト・アプローチ
#ロジャーズ
#無知の姿勢
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#共感性
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#認知行動療法
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#新版モンタージュ考

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2016年09月01日

ナラティヴ・アプローチ


第80回ブリーフ・セラピー研究会 定例研究会,

「平木典子先生の『社会構成主義とナラティヴ・セラピー』」

に参加してきた。案内メールにあった,平木先生のメッセージは,

「私たちは、あるものの見方や行動の仕方、風習などを持つ人々の中に生まれ育ち、社会の一員になっていきます。逆に、家族、地域社会、所属機関など、いわゆる社会のしきたりや規則に合った言動をしないと、その集団の一員にはなれず、不適応者、ときにはルール違反をしている人といったレッテルを貼られ、疎外されていきます。ところが、人には個性と選択力があり、社会に合わせたものの見方や言動をしていると、自分らしく生きることができなくなります。
社会が創りあげてきた規範と自分の特性との葛藤が起こったとき、人と社会はどのように反応し合うのでしょうか。そんなことを考えて、人々の問題や症状に取り組んでいるのがナラティヴ・セラピーのアプローチです。
今回は、ナラティヴ・アプローチの考え方と技法を手掛かりにして、私たちの臨床や生き方を考えてみたいと思います。」

<プログラム>は,

1.「現実」とは何だろう,
2.21世紀を生きるために、どんなものの見方・心理療法が必要か,
3.ナラティヴ・アプローチの精神と実践,

の順で進められたが,最後の「ナラティブの精神」は,次のようなワークで体験させてもらった。それは,四人組で,自分の「困ったこと」を,

困っていること,
その原因として思い当たること,習慣,生育歴等々,
どのように対処してきたか,

(ここまでが,過去に焦点を当てる,従来のセラピーとするなら)さらに,

それからどんなことを学び,生かされますか,
それはどんな場,時代だったら評価されますか,
どのように生きたいですか,
それを見守り,応援してくれる人は,

を,述べあう。前半が,いわゆる,困ったことにまつわる自分の,

ドミナント・ストーリー,

であり,そこに見え隠れしているのは,ドミナントな筋書きで,失敗,できなかった,駄目と墨づけされた,

オルタナティヴ・ストーリー,

である。後半は,「困ったこと」自体を,自分の味づけから解き放し(外在化である),

新たな可能性を生み出すストーリーの再著述,

になっていく。「困ったこと」が話題のはずなのに,未来に志向が向いただけで,困ったことは,ただ乗り越えるべき(どう乗り越えるかを考える)ハードルに見えてくる。

この会話そのものが,社会構成主義的,あるいはナラティヴ・セラピーの作り出す空気感というか,雰囲気なのである。

さらに,続けて,

自分が今一番力を入れていること,エネルギーをそそいでいることは,
どんなことが自分をそこに導いたのですか,
それは社会文化的な影響をどんなふうに,どれだけ受けていそうですか,
あなたのもっている「強み」,自分の指針で一番頼れる部分はどんなことですか,

と,自分のリソースを見つけ出す作業をした。

この会話にあるのは,

相手に敬意を払い,非難することのないアプローチ,
人が問題なのではなく,問題が問題,

とするマインドであり,アクノリッジ(「受け留める」と平木先生は訳される)の機会と場づくりである。

社会構成主義については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/390438872.html

で,触れたが,社会構成主義は,

「事実や全を,社会的なプロセスの中に位置づけ,我々の知識は,人々の関係の中で育まれるものであり,個人の心の中ではなく,共同的な伝統の中に埋め込まれていると考えている。したがって,社会構成主義は,個人よりも関係を,孤立よりは絆を,対立よりも共同を重視する」

という。その点から見ると,二つのポイントが特筆される。

第一に,心理的な言説は,内的な性格な記述ではなく,パフォーマティヴなものである。が,「愛している」ということで,ある関係を,他ではない特定の関係として形づくっている。

例えば,「愛している」を「気になる」「敬愛している」「夢中だ」と言い換えると,関係が微妙に変わる。だから,こうした発話は,単なる言葉ではなく,パフォーマティヴな働きをしているのである。

第二は,パフォーマンスは関係性の中に埋め込まれている。このパフォーマンスには,文化的・歴史的な背景を取り入れなければ何の意味も持たない。つまり,私があるパフォーマンスをするとき,さまざまな歴史を引きずり,それを表現している。言い換えると,文脈に依存している,ということになる。

ある人のパフォーマンスは,必ずある関係の構成要素である,

ということになる。そのことで思い出すのは,平野啓一郎の,

分人,

という概念である。分人については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/425774541.html

で触れた。

「全ての間違いの元は,唯一無二の『本当の自分』という神話である。
そこでこう考えてみよう。たったひとつの『本当の自分など存在しない。裏返して言うならば,対人関係ごとに見せる複数の顔が,すべて『本当の自分』である。』

で,「個人(individual)」ではなく,inを取った「分人(dividual)」という言葉を,平野は導入する。

「分人とは,対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人,両親との分人,職場での分人,趣味仲間との分人,…それらは,必ずしも同じではない。
 分人は,相手との反復的なコミュニケーションを通じて,自分の中に形成されてゆく,パターンとしての人格である。」

つまり,

「一人の人間は『わけられないindividual』な存在ではなく,複数に『わけられるdividual』存在である。」

というわけである。で,

「個人を整数の1とするなら,分人は,分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。私という人間は,対人関係毎のいくつかの分人によって構成されている。そして,その人らしさ(個性)というものは,その複数の分人の構成比率によって決定される。」

これは,人は,

関係性の中でしか生きられない,

というナラティヴ・アプローチあるいは社会構成主義の考え方と通底している。そして,であるなら,

どの人との関係性を意味づけて,つなげるか,

で,その人のストーリーは変わっていく。再著述のストーリーは,過去の自分自身の再意味づけでもある。

サビカスは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/436220288.html

で触れたように,従来のように,

「人の内に備わっている中核となる自己を実現する」

という考え方ではなく,

「自己の構成は一生を通じたプロジェクト」

であり,そういう新たな時代のカウンセリングは,

「人生の職業を見つけるという課題から人生の職業を創造する方法にカウンセリングの方向を転換させるためには,人生設計に取り組み,人生において仕事をどのように用いるかを決定する学問を必要とする。」

と述べていた。そのチャレンジが,サビカスの,

『キャリア・カウンセリング理論』

ということになる。

参考文献;
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの構成主義』(ナカニシヤ出版)
マーク・L・サビカス『キャリア・カウンセリング理論』(福村出版)
平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
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2017年07月04日

一人称


第85回ブリーフ・セラピー研究会 定例研究会「社会構成主義の理論と実践~ナラティヴとオープンダイアローグを通して」(野村直樹先生・田中ひな子先生)に参加してきた。

事前の案内には,「講師からのメッセージ」として,

「デカルトから350年、グレゴリー・ベイトソンによって新しい科学の輪郭が示されました。ベイトソンによる改革は、①自然を生きたものとして捉える、②心と身体を一体に捉える、③観察者を内部から観測する者として捉える、に集約されます。
それまでの直線的思考(合理性)だけでは不十分でした。自然も人と人との関係や成り立ちも円環的・循環的な因果律によって作動し維持されている(生きている)からです。それらはコミュニケーションによってつくられ進化していくものです。
また、それまでの科学では観察者を無関係な第三者として切り離して捉えていましたが、ベイトソンは事象の外に位置づけられていた観察者を事象の内側に戻しました。
ベイトソンによってもたらされた新しいパラダイムが、ファミリーセラピーと交わったところで「ナラティヴ・セラピー」が生まれ、ロシアの文芸理論家ミハエル・バフチンの対話主義と交わったところで「オープンダイアローグ」が生まれました。」

とある。デカルトからベかイトソンへの転換は,ある意味,量子力学への転換と軌を一にしている。そこに,客観的世界を観察する位置に安住できない,という意味でもある。デカルトが,

個を主体とする文法,

であり,

分割可能であり,
測定可能であり,
集約可能であり,

操作可能な対象として客観的に眺めることができ,直線的な因果関係を描ける世界である。しかし,量子の世界は,たとえば,

「二つの電子を選ぶ。電子にもまた内部構造がなく、粒子としてふるまうときは点のごとくふるまうのだが、スピンしている。電子は2回転して初めて元の状態に戻るような量子であるため、1回転では『半分』まで戻るという意味で『スピン』とよばれている。…スピンの電子の『自転軸』には『上向き』と『下向き』の 二つの方向がある(前者 を『スピン・アップ』、後者を『スピン・ダウン』とよぶことにする)。実際に、相関をもって いて100兆㎞離れた電子Aと電子Bとからなる系に測定器をかけて、それぞれの電子の状態を測定してみるとどうなるだろうか。たとえば、測定器を電子Aに向けた結果、電子Aのスピンがアップであると測定されたとする。電子Aがスピン・アップと観測されたその瞬間(そう、まさにその瞬間、ゼロ秒間で!)、100 兆㎞離れた場所にある電子Bのスピンは自動的に(観測することなしに!)スピン・ダウ に決定する。相関をもつ( つまり、もつれた)二つの電子の合計スピンは、必ずゼロにならなければならないからだ。」(ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』)

のように,アインシュタインの特殊相対性理論に反して,電子Aの測定結果が100 兆㎞離れた電子Bに,光の速度=秒速30万㎞3・3 億秒( 約10年)ではなく,瞬時に届く。ここには従来の因果論は通用しない。

それに対して,ベイトソンは,

関係性の文法,

であるという。そのベイトソンの特徴は,

双方向性とコンテキストがキーワード,

という。例示として出されていたのは,

A(なじる)→B(引きこもる)→A(なじる)→B(引きこもる)…

の連鎖である。ここには,部分を切れば,

A(なじる)→B(引きこもる)

Bの原因がAに見えるが,切り方を変えると,

B(引きこもる)→A(なじる)

と,因果が逆になる。これを円環的因果という。この双方向性は,よく分かる。コミュニケーションを考えた時,たとえば,

(自分)の発話の意味は受け手の反応によって明らかになる,

という。このとき,相手の言ったことをちゃんと聞いていないとか,その反応は誤解とかというのは,自分が話したことをそのまま正確に受け取ることを前提にした言い方になる。そういう会話は,一方通行でしかない。双方向という以上,話し手のいった意味を受けて受け手が何かを理解して返す,そのとき,話し手の言った中味のどこかに焦点が当たるのかもしれない,あるいは微妙に含意を変えるのかもしれない,あるいは,あくいにとるかもしれない等々。まったく違えば,修正のやり取りが入るが,そうでなければ,その微妙な違いによって後続の会話はシフトしていく。この時,自分の発話した意味にこだわれば,会話は成り立たない。

そして,コンテクストとは,この円環的につながったものそのものを言う。何気ない会話でもそうだが,相手の返す瞬間から,両者の言語空間は,ひとつの世界となっていく感じがする。

いまの生物学の世界には,ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した

環世界,

という考え方があるそうだ。

「普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。」

だから,

生物はそれぞれに適した環境で,「環世界」を形づくり生活圏とする,

環境一般があるのではなく,人には人の環世界があり,犬には犬の環世界がある。人も,自分の独自の環世界をもつ。この環世界に穴をあけるのがダイアローグ,だという。思い当たることがある。たしか,ウィトゲンシュタインだと思うが,

ひとは持っている言葉によって見える世界が違う,

と言った。言葉を持つことで,その言葉の持つ世界を手に入れる。かつて,日本には,色はなかった。

明るい,

暗い,

しかなかった。「あか」は明るい,であり,「くろ」は,暗いである。「赤」「黒」という言葉を手にして,色を見た。そういう意味だと思っていた。
しかし,同時に,個別に見ると,「赤」で見ている色は,朱なのか,オレンジなのか,柿色なのか,区別はつかない。大袈裟に言えば,それぞれの環世界の中で,自分の「赤」を見ているからだ。その意味では,コミュニケーションを通して,上記のように,見ている世界をすり合わせることで,世界が共有されていく。

これをナラティヴと呼ぶなら,

セラピストもまた,この会話の当事者として,語り手の相手になった,

ということになる。デカルトの文法の世界が,

三人称,

であるなら,ここでは,互いが,

一人称,

であり,相互に,

ダンス,

のように,シンクロする協働世界,ということになる。ふと,フランクルが,

人はだれでも語りたい自分の物語を持っている,

といったのを思い出す。その視点では,語り手も聞き手も対等であり,お互いに,

いま,ここ,

の会話世界を築くことになる。思えば,ナラティヴ・セラピーの方法のひとつ「問題の外在化」とは,自身の問題を,

デカルト文法処理,

をすることで,三人称で語る客体として,観察可能にするということになろうか。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E4%B8%96%E7%95%8C
ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている-「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』(ブルーバックス)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年09月19日

ダブル・リスニング


第86回ブリーフ・セラピー研究会 定例研究会「カウンセリングのコツ」(平木典子先生)に参加してきた。

事前アンケートがあり,カウンセリングをするためのコツとして,以下の6点のどれを重視するか,との問いがあり,以下のような結果となった。

1.主訴や語りの中に潜む希望に向けた支援(人々の二重の語りを聴きとり、語られなかった自己を発見する):48票
2.人は違っているから助けることができる(適切な違いがなければ変化は生まれない):12票
3.とらわれの中に自己開放の芽(とらわれは転機の信号):37票
4.ひとは生物的、心理的、社会的存在だけでなく、スピリチュアルで倫理的な存在であることを支援する(アイデンティティや人生観があるひとの支援):19票
5.カウンセリングはクライエントが個性を保ちつつ社会のメンバーになることを目指す15票
6.カウンセリングとはクライエントの構成した人生を聞き、脱構成し、共に新たな語りを共構成していくこと31票

この結果,上位に上がった,

主訴や語りの中に潜む希望に向けた支援(人々の二重の語りを聴きとり、語られなかった自己を発見する)
とらわれの中に自己開放の芽(とらわれは転機の信号)
カウンセリングとはクライエントの構成した人生を聞き、脱構成し、共に新たな語りを共構成していくこと

三点は,今日のナラティヴ・アプローチの主要な観点と一致する,とのことであった。つまり,今日的なカウンセリングのテーマなのである。

共通するのは,

ダブル・リスニング,

と表現された,カウンセラーの(聴く)姿勢であるように思う。たとえば,

語られていることとは裏腹に,クライアントの思いや感情を見極めていく,

というのは,基本姿勢だが,それは,

リフレーミング,

が,クライアントの思いや事柄を,プラスに意味を置き換えていく,のと同じく,ただ,クライアントの,

語っているそのこと,
語っている事態そのもの,

というピンポイントでしかない。ここでのダブル,つまり二重に聴き取っていくのは,

同時進行している二つの物語,

を聴くことである。それは,

生きた物語,

生きられなかった物語,

である。「生きられなかった物語」とは,

やりたいと思ってやれなかったこと,
どこかに置き残してきた自分,

ということでもある。

「(カウンセラーとクライアントの)二人が話していて,それが見つけられなかったら,クライアントが話したことは意味がない。」

のでもある。だから,逆にいえば,カウンセリングとは,

「自分の物語を語ることで,その人らしく生きるのを助けること」
あるいは,
「隠れているクライアントの生きる意味を伴った物語とテーマの再発見」

でもある。これは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/452653318.html

で触れたように,

ドミナント・ストーリー,
の代わりに,
オルタナティブ・ストーリー,

を見つけ出すことと言ってもいい。

「人々が治療を求めてやってくるほどの問題を経験するのは,彼らが自分たちの経験を『ストーリング』している物語と/または他者によって『ストーリーされて』いる彼らの物語が,充分に彼らの生きられた経験を表していないときであり,そのような状況では,これらのドミナント(優勢な)・ストーリーと矛盾する彼らの生きられた経験の重要な側面が存在するであろう,というものである。」

「人々が治療を求めるような問題を抱えるのは,(a)彼らが自分の経験をストーリングしている物語/また他人によってストーリーされた彼らの経験についての物語が充分に彼らの生きられた経験を表しておらず,(b)そのような状況では,その優勢な物語と矛盾する,人々の生きられた経験の重要で生き生きとした側面が生まれてくるだろう」

ということで,そのために,ソリューション・フォーカスト・アプローチなら,

例外探し,

ナラティヴ・アプローチなら,

「ドミナント・ストーリーの外側に汲み残された生きられた経験のこれらの側面のことを『unique outcome』と呼ぶ」

ユニークな結果,

を探し出し, 生きることのできなかった物語を復元していかなくてはならない。あるいは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/452599306.html

で触れたように,「未だ語られていないこと」とは,通常,

リソース,

という言い方をする。これについて,マイケル・ホワイトは,

「ぼくらは個人が自己というものをもっているとか,リソースをうちにひめているとは考えない。自分もリソースもむしろ今ここで創り出していくもので,この場で発見し育て上げていくものだから」

という。それはこういうことだ。

「意味は一つだけ,なんてことはないということだ。すべての表現が,まだ表現されていない部分をもち,新たな解釈の可能性をもち,明確にされ言葉にされることを待っている。…すべてのコミュニケーション行為が無限の解釈と意味の余地を残しているということなのだ。だから対話においては,テーマもその内容も,意味をたえず変えながら進化していく。(中略)私たちがお互いを深く理解するというのは,相手を個人(という抽象物)として理解するのではない―表現されたものの総体として理解するのである。この過程に対話が変化を促していくからくりがある。
 そこで私たちは,この『語られずにある』部分を言葉に直し,その言葉を拡げていくことがセラピーだと考える。そこでは,対話を通して新しいテーマが現れ,新しい物語が展開されるが,そうした新しい語りはその人の“歴史”をいくぶんでも書き換えることになる。セラピーはクライエントの物語の中の『未だ語られていない』無限大の資源に期待をかけるのだ。そこで語られた新しい物語を組み入れることで,参与者たちはこれまでと異なる現実感を手にし,新しく人間関係を築いていく。これらは『表現されずにあった領域』に埋蔵された資源,リソースからでてきたものではあるが,その進展を促すためには,どうしてもコミュニケーションすること,対話すること,言葉にすることが必要となる。」

その鍵となるのは,「分かったつもりにならない」

無知の姿勢,

による,細部にわたるカウンセラーの質問する力ということになる。

参考文献;
マイケル・ホワイト&デビット・エプストン『物語としての家族』(金剛出版)
ハーレーン・アンダーソン,ハロルド・グーリシャン『協働するナラティヴ』(遠見書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:02| Comment(0) | ナラティヴ・セラピー | 更新情報をチェックする